2020年11月30日月曜日

阿武隈のカモシカ

                      
 いわき地域学會の若い仲間から、フェイスブックを介してニホンカモシカの写真が5枚届いた。ブログに使ってもいいというので、1枚をアップする=写真(関内裕人氏提供)。

 四倉の八茎銅山跡地の遺構調査に出かけたら、ニホンカモシカがイノシシの罠にかかっていた。森林管理署を介して罠をかけた人に連絡してはずしてもらった、という。

私は今年(2020年)3月20日の夕方、夏井川渓谷の県道小野四倉線でニホンカモシカと遭遇し、ピンぼけながらも写真に撮ってブログに書いた。「阿武隈のカモシカ」の目撃写真が、また一つ増えた。

8月30日に別の若い仲間の案内で八茎銅山跡地を巡った。そのとき、夏井川渓谷の椚平に生息しているアオバトの鳴き声を聞いた。渓谷の椚平から八茎の山中までは、二ツ箭山をはさんで東西わずか7キロほどの距離でしかない。繁殖期、ナトリウム補給のために海水を飲むアオバトならひとっ飛びだろう。

人間にとっても獣にとっても、となるのだが――。平地では、いわき市の夏井川と楢葉町の木戸川は大きく隔たっているようにみえる。が、水源は同じ大滝根山だ。山腹の南(夏井川)と東(木戸川)から流れ出しているにすぎない。低山でも事情は同じ。小川~四倉の往来は、山側からみるとそう難しいことではない。

ネットでニホンカモシカの行動範囲を探った。公益社団法人農林水産・食品産業振興協会によると、雄は15ヘクタール(ざっと400メートル四方)、雌は10ヘクタール(ざっと300メートル四方)程度だとか。思ったより狭い。直線距離にして7キロ程度なら動き回れるのでは、という想像ははずれた。

が、念のために渓谷のカモシカの顔をスケッチし、人相書きならぬ“面相書き”を見ながら、八茎のカモシカと比較した。①左目の下が黒い(八茎)/薄い(渓谷)②角が長い(八茎)/短い(渓谷)③耳が黒い(八茎)/白い(渓谷)④眉間の上が茶色い(八茎)/薄い(渓谷)――。若い大人(八茎)と子ども(渓谷)くらいの違いはある。

考えられるのは二つ。ライバルが少ない阿武隈だから、広く渓谷~八茎を動き回っている可能性がないとは限らない。そうだとしたら、いわきの山中に定着した同じ個体かもしれない。それが半年以上たって大人に近づいた? もう一つは別々の個体。それは“面相書き”からはっきりしている。だとしたら、ただのはぐれ獣のほかに、いわきの山中で繁殖している可能性も示す?

阿武隈高地にはクマもカモシカもいない――。そういわれていたのは、もう遠い昔のことだ。カモシカは「近年、阿武隈高地の一部でも生息が確認されている」と環境省生物多様性センターはいう。

ネット情報でも、浜通りではこの何年か、相馬市、南相馬市、浪江町、富岡町、楢葉町、そしていわき市の三森山、二ツ箭山、遠野町でカモシカが目撃されている。これに、今年は夏井川渓谷と八茎山中の個体が加わった。カモシカはいわきでもすっかり奥山の住人になったようだ。

2020年11月29日日曜日

メモリアルコンサート

          
 3連休最後の月曜日、11月23日・勤労感謝の日は、アリオス4階小劇場で朗読劇(1部)とメモリアルコンサート(2部)を聴いた。1部と2部をつなぐのは詩人草野天平(草野心平の弟)。1部は「天平と梅乃~二人で歩いたひとつの道」、2部は川内村の陶芸家「志賀敏広さんを偲(しの)んで」だった。

志賀さんは天平に引かれ、今年(2020年)2月21日~3月8日、いわき市小川町の心平生家で「書画でめぐる草野天平の詩」展を開催した。その準備をしていた2月初旬に体調を崩し、同26日、71歳で亡くなった。危篤の志賀さんに代わって、奥方の志津さんが作品を搬入した。

メモリアルコンサートへは、志賀さんの娘さんから連絡がきて、夫婦で出かけた。志賀さんはことのほか邦楽を好んだ。下川内の自宅敷地内にはいわきから移築した古民家がある。そこでのコンサートでも尺八や琵琶、筝の演奏が行われた。メモリアルコンサートでは、川内のコンサートでもなじみの琵琶、尺八奏者などが出演し、歌手が「アヴェ・マリア」や「涙そうそう」などを披露した。

3月2日の葬儀・告別式では、正面を向いた遺影ではなく、菜の花畑の小道で、そばに立つ高木を見上げている横向きの写真が飾られた。場所は南相馬市、海岸の菜の花迷路と聞いた。今度もステージにその姿が大写しにされた=写真。

コンサートのリーフレットで、出演者が志賀さんとの思い出を語っている。ピアノの吉田佐由子さん「2015年5月に川内村を初めて訪れた日のことが昨日のように思い出されます」。演出・朗読の松田光輝さん「愛すべき『陸(ろく)でなし』天平と梅乃そして志賀さん」。

琵琶の博多龍声さん「いつもニコニコと人懐っこい笑顔と穏やかな人柄で会う人全てに優しさを呼び与えてくれました」。尺八の橘梁盟さん「毎年夏には、こだわりのいっぱい詰まったアンティークなお宅にお伺いし、尺八を吹きながら美味しいお酒をたくさんいただきました」。

歌手のAnnさんは「何が本当に美しく、何が本当に大切かを自然と共に見つめてきた人。志賀さんを思い出すと、そんな言葉と川内村の風景が一緒に浮かんできます」とつづった。

1部では、ステージ中央に志賀さんがつくったロッキングチェアと長いすが置かれた。朗読劇の重要な道具として確かな存在感を放っていた。

彼が亡くなったときに、ブログにも書いたことだが――。志賀さんは日常の中で死と向き合い、人にそれと気づかれることなく、おおらかに生を楽しんだ。川内の自然をこよなく愛し、自然とともに暮らすことを喜びとして、自然に溶け込むようにして永遠の眠りに就いた。

それと、もう一つ。これは胸の中に生きている死者がもたらした感覚の波動というべきか。コンサートの途中から、ステージに大写しにされた彼がこちら側に来て、みんなと一緒にステージの演奏を楽しんでいる――そんな気持ちになった。

2020年11月28日土曜日

動画の日本語スピーチコン

                     
 第19回いわき地球市民フェスティバル(日本語スピーチコンテスト)が、3連休2日目の日曜日(11月22日)午後、いわきPITで開かれた。コロナ禍のなかでの開催のため、出場者とその関係者、審査員とスタッフだけが参加した。審査は事前に撮影した動画で行われた。

 シャプラニール=市民による海外協力の会を知ってもらうため、カミサンのアッシー君を兼ねて初回から同フェスティバルに参加している。日本語スピーチコンテストが始まると審査員をおおせつかった。

 今回もスタッフの一員であるカミサンを送りがてら、昼前には会場入りした。事前の打ち合わせでは、私が2分の持ち時間で講評を述べることになっていた。ユーチューブで生配信されるというので、いちおうそのことも頭に入れながら講評した(結果的に時間的な余裕ができたことから、ほかの審査員4人もマイクの前に立った)。

 正式には「外国にルーツを持つ市民による日本語でのスピーチ動画コンテスト」という。一般の部(社会人・主婦・高校生・中学生)に10人、高等教育機関の部(東日本国際大・福島高専・磐城学芸専門学校生)に9人が参加した。両部門とも大賞1人のほか、全員に特別賞が贈られた。

 テーマは「いわきに住んで思うこと」。出場者の母国はミャンマー、ベトナム、中国、日本(フィリピン)、インドネシア、ネパール、ブータン、韓国、スリランカの9カ国だった。「いわきはふるさとに似て自然が豊か」「親切な人が多い」。そう語る出場者が何人もいた。

 一般の部は技能実習生グエン ティハイさん(ベトナム)が大賞を受賞した。「花見=一期一会」と題して話した=写真。

日本の春の風習である桜の花見に参加した。いくつかのグループが花の下で宴会をやっていた。別のグループの人が隣のグループに来て酒を注ぐ。すると、今度はそちらへ酒を注ぎに行く。花の下での一期一会の交流に感心した。

アパートへの道がわからなくなったとき、老夫婦に出会い、アパートまで送ってもらった。別れ際に「日本での生活、頑張ってくださいね」と励まされ、胸がいっぱいになった、これも一期一会。四字熟語を正確に理解していることと、明快な話の筋立てが評価された。

高等教育機関の部は、東日本国際大生ヴ チェウティニュンさん(同)が大賞に選ばれた。「いわき市の平和は微笑(ほほえみ)から」と題し、微笑の効用について語った。

ベトナムのことわざに「1回の笑顔は10回のクスリに値する」というのがあるそうだ。アルバイト先の店のメニューには「スマイル」がある。「無料ではないがゼロ円、私の店で買えます」。心を和ませる店主の発想がおもしろい。笑顔が平和をもたらすという主題がよく伝わってきた。

なにかで目にしたことば、「人は楽しいから笑うのではない、笑うから楽しくなるのだ」。そんなことを思い出させるスピーチだった。

大賞以外では、ブータンと日本の比較が印象に残った。ブータンでは、①名字があるのは王様と王室だけ②墓はない、死んだら火葬して川に流す③箸(はし)はなく、手で食べる――。“地球市民”として文化の違いを学ぶいい機会になった。

2020年11月27日金曜日

「ゴーギャンの赤」

                     
 いわき地域学會の第357回市民講座が3連休の初日(11月21日)、いわき市文化センター大講義室で開かれた。渡邊芳一会員が「草野心平と粟津則雄 『ゴーギャンの赤』をめぐって」と題して話した=写真。

 渡邊会員は今春、市生涯学習プラザに異動したが、それまでは市立草野心平記念文学館の専門学芸員を務め、2019年度は秋の企画展「草野心平と粟津則雄」を担当した。

 粟津さん(93)は日本を代表する仏文学者・文芸評論家だ。美術や音楽にも造詣(ぞうけい)が深い。草野心平と親しかったことから、平成10(1998)年の同文学館開館~去年(2019年)3月まで、20年余にわたって館長職を務めた。翌4月には名誉館長に就いた。いわば上司でもある粟津さんと勤務先の文学館に名前の付く詩人の交友を踏まえて、詩人がいつ「ゴーギャンの赤に哀しみの色」を発見したかを語った。

 東日本大震災の前、いわき地域学會初代代表幹事・里見庫男さん(故人)が経営する温泉旅館古滝屋(常磐)で、粟津さんらを囲む飲み会を定期的に開催した。それで、粟津さんの本を読んだり、朗読コンサートを聴きに行ったりした。なかでも「ゴーギャンの赤」は、粟津さんがたびたび口にし、文章にもしている詩人・草野心平の本質を象徴するエピソードだ。

「いわき市立草野心平記念文学館」館報創刊号(1988年)に収録された講演「草野心平の人と作品」にその経緯が載る。

ある日の早朝、詩人から粟津さんに電話がかかってきた。「君、夕べね、ゴーギャンの画集を見てたんだよ」と切り出す。集英社から『現代世界美術全集7 ゴーギャン』が出版された。粟津さんが「作家論 ゴーギャンの人と作品」を書いた。粟津さんから献呈された画集を見ていたらしい。

「『君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね。』私はそれまで、別にゴーギャンの赤を哀しいとも思っていなかったのですが、草野さんに言われるとそんな気がするわけです。『そう思います。』と言ったら、『君、そう思う。』『はい』。『僕、そう思ったんだよ。』実に嬉しそうに笑って、それで電話は終わっちゃった」

 渡邊会員は、心平がいつ「哀しみの色」を感じ取ったのかを、心平の日記から“実証”する。結論は、昭和50(1975)年6月9日夜ではないか――だった。

ゴーギャンに関する記述は、同43(1968)年6月5日、同47(1972)年8月31日、同11月7日などにみられるが、同50年になると5月下旬から6月19日にかけて急に増える。

 6月9日の日記には「河上徹太郎、唐木順三と小林秀雄と朝井閑右衛門にデンワ」「小林にはゴーギャンの赤のかなしさに就いて――みんな迷惑だったらう。何時頃ねたか記憶なし」とある。このへんが決め手になったようだ。

「対象との共生感」。草野心平の本質を評した粟津さんのことばが忘れられない。「草野心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの人間の具体的な生への直視である」。その直視は人間にとどまらない。動物も、植物も、鉱物も、さらには風景も、同じように直視する。この直視から心平は「ゴーギャンの赤」に「哀しみの色」を見いだしたのだろう。

昭和50年5月下旬、学研からゴーギャンについての原稿を依頼される。その準備として画集を見る、粟津さんほかの作家論を読む。6月9日夜、「哀しみの色」に気づく。それを機に、同19日までに「私なりのゴーギャン」と題した原稿が出来上がる――そんな流れが見えてくる。

2020年11月26日木曜日

無能上人のこと

        
 11月24日の福島民報1面コラム「あぶくま抄」は、江戸時代中期に生きた浄土宗名越派の名僧・無能上人(1683~1718年)を取り上げていた=写真。

今年(2020年)1~9月に生まれた赤ちゃんの名で最も多いのが、男の子では「蓮」(主に「れん」)、女の子では「陽葵」(「ひまり」「ひなた」)だった。男の子の名前にひっかけて無能上人の偉業と法名「興蓮社良崇」を紹介している。

 無能上人を取り上げたことには拍手を贈りたい。が、いわきから見ると、また違った紹介の仕方がある。拙ブログで何回か取り上げているので、それを整理して再掲する。

歴史家の故佐藤孝徳さん(江名)が平成7(1995)年7月、『浄土宗名越(なごえ)派檀林 專称寺史』を出版した。いわき民報に短期的に連載したものをベースにして本篇を構成し、資料篇、論文篇を新たに加えてハードカバーの箱入り本に仕上げた。開山600年の記念誌でもあった。

孝徳さんから校正を頼まれた。それで、いわき市平山崎にある同寺が、学僧がひしめく檀林寺であると同時に、東北地方に200以上の末寺をもつ大寺院であることを知った。

 参道入り口、向かって右の石柱に「奧州總本山専稱寺」、左の石柱に「名越檀林傳宗道場」とある。かつて、特に江戸時代には東北に開かれた「大学」だった。奥州各地から若者が修行にやって来た。無能も、ここで学んだ。

 無能は修行を終えたあと、山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、35歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断し、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行した。そういうラジカルな生き方が浄土への旅立ちを早めた、と私は思っている。

無能は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。同書は今、岩波文庫で読むことができる。

行脚中に投宿したとき――。若くハンサムな無能に家の娘が一目ぼれする。夜、忍び込んで後ろから無能を抱いたが……。寝ずに座ったまま念仏を唱えていた無能は動じない。陽炎(かげろう)が木を動かそうとするようなもの、あるいは蚊が鉄牛を刺すようなものだった。娘の欲望は徒労に終わる。

無能のほかに、よく知られたところでは、貞伝上人(1690~1731年)が専称寺で学んだ。貞伝は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島まで布教し、アイヌも上人に帰依した。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。

ほかには、幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781~1853年)がいる。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。この俳僧を調べている。

夏井川の堤防を通りながら対岸の専称寺を眺め、学寮(修行僧の学問・宿泊所)が何棟も建っていた江戸時代の盛況ぶりを想像する。それはそれで「寂しい勉強」を続ける励みになる。

2020年11月25日水曜日

家事と催事の3連休

        
 この3連休(11月21~23日)は、午後に催しが続いた。土曜日:いわき地域学會市民講座、日曜日:いわき地球市民フェスティバル(日本語動画スピーチコンテスト)、月曜日:メモリアルコンサート。スピーチコンは審査員、あとの二つは受講者・聴衆だった。

 午前中は在宅ワークに集中、といいたいところだが、カミサンの実家からもらい物の白菜2玉が届いた。2回目に漬けた白菜はすでにパックに移して冷蔵庫に収まっている。3回目になってやっと2玉がそろった。少しほっといたら、「早く干して! 悪くなる」。カミサンにハッパをかけられた。土曜日の朝、2玉をそれぞれ八つ割りにして軒下で干した。

 こうなると一連の作業を中断するわけにはいかない。翌日曜日早朝、一日干しの白菜を取り込み、激辛トウガラシ、ユズ代わりの果物の皮=写真上1=を風味づけに用意した。

2回目は後輩がユズを持ってきてくれたので、皮をむいてみじんにし、それを散らした。その前後に、熟した甘柿の皮をむいて中身をボウルに入れ、つぶして種を取り除いたのを、小さなタッパーに移して冷凍した(これは仲間うちの忘年会のときにでも出そうと思う)。

 甘柿の皮はガラス戸越しに天日に干した。ミカンの皮も干した。激辛トウガラシは、夏井川渓谷の隠居で栽培したのが、いい具合に赤くなった。次々にそれを摘んでは干し、摘んでは干しを続けてきた。ほれぼれする色合だ=写真上2(中に灰色と黒色のかたまりがあるが、これは隠居の立ち枯れの木に発生したアラゲキクラゲ。水に浸けると元に戻る)。それらを白菜2玉に見合う分だけそろえ、朝食後に食卓を利用して甕(かめ)に漬け込んだ。

 そのあと(朝の10時)、日本語スピーチコンへ行く足で、行きつけの魚屋さんにマイ皿を届ける。若だんながびっくりした表情をしながらも、すまなさそうに「カツオはないです、メジなら」という。やはり、カツオとはしばらくおさらばしないといけない。「メジ」はメジマグロ。冬の刺し身としては逸品だ。喜んで頼む。取りに来るのはイベントが終わる夕方5時前後だ。

例年この時期、若だんなはイキがよければサンマを刺し身にする。が、少し前、魚体と鮮度の面から刺し身にはできない――と言われた。サンマのみりん干しはある。刺し身はとなると、若だんなの見立てに従うしかない。メジは、カツオの次に好きな刺し身だ=写真上3。

それを食べて疲れを癒したはずだったが……。翌月曜日は、週初めだということをすっかり忘れていた。「ごみネット、出さなかったでしょ」。カミサンにいわれて初めて、週最初の仕事を忘れていたことを思い出す。それもまた、3日連続、背広を着て外出する緊張が招いたことなのかもしれない。

2020年11月24日火曜日

生物季節観測の意義

                    
 結論からいうと、興味のあるものを個人、あるいは団体が継続して観測する、それだけのこと。いわきでは12年前からそうなのだから――。

気象庁は、半世紀以上にわたって続けてきた鳥や虫の生物季節観測を今年(2020年)でやめる。テレビや新聞=写真(朝日)=の報道によると、観測を終えるのは23種目。来年以降、ツバメ初見日、ウグイスやエンマコオロギの初鳴日などが公式記録から消える。

 観測場所は気象台周辺。定点観測だから記録する意味がある。が、周辺の都市化が進んだ、地球温暖化に伴って生態環境が変わった――といったことで、観測が難しい生物が増えたという。

 植物は対象が34種目だが、チューリップやタンポポなど28種目の観測をとりやめる。植物6種だけになるわけだ。その観測内容は桜(ソメイヨシノ)の開花と満開、カエデの紅葉と落葉、イチョウの黄葉と落葉、梅とアジサイ、ススキの開花だという。

 福島地方気象台の測候所が小名浜にあった。平成20(2008)年10月1日、行政機構改革で無人化されるまで、職員が目と耳で小名浜の生物季節観測を続けた。

 実は、私は現役時代、たびたび小名浜のデータを援用しながらコラムを書いてきた。いわきの自然と人間の関係を考えるうえで、ひとつの目安になるからだ。蓄積されたデータからいわきの自然環境の変化が読み取れる。このごろは、地球温暖化は地域温暖化、ということがはっきりしてきた。

 拙ブログでも、たびたび小名浜の過去データを参考にしながら、今のいわきの自然環境について触れている。私的に観測を続けているものもある。初めて蚊に刺された日・最後に刺された日や、ハクチョウ初見日、庭のプラムの開花日、夏井川渓谷の隠居に発生するアミガサタケやマメダンゴ(ツチグリ幼菌)の収穫日、夏のオンザロック用に、極寒期、対岸の「木守の滝」から天然氷を回収して冷凍庫にしまった日、などだ。

それらのデータを積み重ねることで自分の生活圏の環境変化がわかる。そこから、生ごみは土に返す、それを利用して家庭菜園を始める――コロナ禍の「新しい生活様式」以前に、循環型の「本来の生活様式」を模索する意識も芽生えた気がする。

小名浜測候所が閉鎖されたときに書いたブログがある。それを抜粋する(平年値は当時)。

――小名浜測候所が2008年9月30日で有人観測を終了し、無人の「小名浜特別地域気象観測所」として再スタートした。

長年、同測候所職員の目と耳による生物季節観測データを重宝してきた。同測候所の生物季節観測は、植物が延べ18種目、動物が15種目。初霜・初氷・初雪などの観測も手がけた。

植物季節観測はツバキの開花(平年値1月17日)から始まる。続いて梅の開花(平年値2月18日)、タンポポの開花(同3月16日)、ソメイヨシノの開花(同4月8日)・満開(同4月14日)ときて、途中、延べ11種目の観測をはさんでイロハカエデの紅葉(同11月25日)・落葉(同12月12日)で終わる。

動物季節観測はウグイス初鳴(平年値3月17日)、モンシロチョウ初見(同4月6日)、ツバメ初見(同4月11日)、ホタル初見(同6月28日=ゲンジボタルだろう)などのあと、5種類のセミの初鳴を観測し、エンマコオロギ初鳴(同8月16日)、モズ初鳴(同9月26日=いわゆる高鳴き)で終わる。

子どもじみているといわれるかもしれないが、生物季節観測に関しては小名浜測候所の職員に負けていられない、という思いがあった。ソメイヨシノの開花で後れをとっても、ウグイス初鳴、ツバメ初見では勝った、などと一喜一憂をしていた――。

当時のデータをA4の紙3枚に手書きして手元に置いてある。12年が過ぎた今もいわき(小名浜)の生物季節観測を振り返るときに読み直す。観察と記録の積み重ねがいかに大切か、それを人間から半分、自然から半分学んだ。

2020年11月23日月曜日

「近助」を入れて「四助」

                    
 ゆうべ(11月22日)、久しぶりに強い地震があった。「緊急地震速報」がテレビ画面に表示される前に、ドンと突き上げてガタガタときた。「4だな」。そう思いながらも立ち上がる。カミサンはヒーターのスイッチを切る。震源は茨城県沖、同県北部で震度5弱、福島県の浜通りは体感通り4だった。

 さて、本題――。自助・共助・公助の「三助」をよく耳にするようになった。それとは別に、この10年の間に東日本大震災と台風19号の水害を経験したいわき市民は、大規模災害時、公助はあてにならない、自助と共助で命を守るしかないことを痛感した。

阪神・淡路大震災では特に、倒壊家屋の中から家族や隣人を救い出すのに共助が大きな力となった。道路ががれきでふさがれ、救急車も消防車も近づけなかった。そんな例が多かったことを、前に防災講演会で聴いた。

 首相がいう、まず自助、次に共助、最後に公助――は、大規模災害時にはその通りだろう。しかし、どうも「平時」からそうでなければならない、といっているように聞こえる。区内会の役員の一人として地域社会と向き合っていると、こうした直線的思考では地域社会は守れない、という思いが強い。

 地域に千人の人間が住んでいれば、千通りの考えと行動がある。男と女、老人と子どもがいる。独り暮らし、別居、老夫婦2人、原発避難者、津波・台風避難者がいる。経済的に恵まれている人とそうでない人、健康な人と病気の人、ひきこもる人とはいかいする人がいる。歩道側溝のふたが割れたり、違反ごみが出たりする。ありとあらゆるものが入り乱れ、もつれながらもつながっているのが地域社会、といっていい。

だれの世話にもならず、健康ではつらつとして、毎日楽しく暮らしている――そんな人間がいないわけではないが、おおかたは家族や親類、隣近所の協力を得て、なんとか平穏を保っている。そういう人たちもまた、なにかの、だれかの支えになって生きている。お互いさま、なのだ。

地域は矛盾のかたまり、常に混沌とした状態、と私にはみえる。自助・共助・公助が同時に存在するからこそ、「おおむね平穏」の状態を維持している。

昨年(2019年)秋、夏井川流域が台風で大水害に遭った経験の教訓だろう。いわき市文化センターにある中央公民館の告知板に、防災教室のポイントが紹介されていた=写真。自助・共助・公助のほかに「近助」があるという。「三助の変化」として、日ごろから①自助=自分の命は自分で守る②近助=近所での協力と助け合い③共助=地域で協力して助け合う④協働・公助=自治体や公共機関の対応と連携・協力し、ボランティア活動を行う――。

防災が主眼の市民講座だが、「共助」が小さな地域=近所の「近助」と、大きな地域=地域社会(コミュニティ)の「共助」に細分された。つまり、「四助」。暮らしの現場ではすでにそういうところまできている。それからみると、まず自助、次に共助、最後に公助、などという直線的な物言いは周回遅れもいいところ――となる。

2020年11月22日日曜日

カツオは三度おいしい

        
 日曜日の夕方は、染付のマイ皿(径20センチほどの中皿)を持って、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。カツオがある限りは何もいわなくても、マイ皿にカツ刺しを盛りつけてくれる。今年(2020年)も2月下旬にカツ刺しを食べ始め、今も食べ続けている。

若ダンナとのやりとりが勉強になる。「きょうはどこへ?」「山(渓谷の隠居)で土いじり」。背広で行くと、「おやっ、なんですか、きょうは」。そこから海と魚、「海水温が高くてサンマが南下して来ない」といった話になる。

先日は高級魚のアカジ(標準和名キチジ=アカジはいわきの方言。キンキとも)について教えられた。「アカジがひどい状況になってます」「(魚屋が)赤字?」――ではなかった。煮つけも、開きの干物もおいしい。「魚屋に回って来ないんです、みんな旅館に持って行かれて」

いわき市内、というよりはお隣、関東圏北端の港町・平潟のことらしい。「Go o トラベル」を利用して、ふだんは素通りする旅館に泊まる。旅館はそのため、名物のアンコウのほかに、アカジを集める。その影響が地域の魚屋にまで及んでいる、ということなのだろう。

アカジには全く縁がない。しかし、コロナ禍の観光浮揚策がそういうかたちで周辺の日常に波及するとは、想像もつかなかった。どこかを助ければどこかが沈む浮世のならい、だろうか。

カツ刺しの話に戻る。前に「今年(2020年)一番のカツオです」というのを食べた=写真。「とろガツオ」に近い。甘みにうまみが重なって舌が喜んだ。

それから1カ月がたって、もう11月も下旬に入った。例年だと、カツオは入荷が終わって、サンマやタコの刺し身に切り替わる。しかし、市場に入る限りはカツ刺しにしている。

マイ皿はこの何年か変わらない。盛りつけられる量も決まっている。義弟を含む3人で食べるのも同じ。ところが、このごろは晩酌の量が減った。それに合わせて、食べる量も減った。最近は、3分の1近く余るようになった。とりあえず、残ったら大根の「けん」をかぶせて冷蔵庫に入れる。

翌朝、1切れずつわさび醤油(じょうゆ)につけて、ご飯にのせる。これを4、5回やって海鮮丼の気分を味わう。その残りを、こんどは夜、「にんにく揚げ」にしてもらう。フライパンに多めに油を引いて揚げる。酒のつまみが一つ増える。

先週(11月15日)も全く同じパターンになった。刺し身、海鮮丼、にんにく揚げ。鮮度がいいので、わが家では、というより私は、日曜日の夜と月曜日の朝・夜の3回、カツオを食べる。三度とも味が違っておいしい。きょう(11月22日)もカツオはあるか。

2020年11月21日土曜日

カエデの紅葉とカメラマン

        
 11月8、15日と日曜日の夏井川渓谷は、カエデの紅葉が目当ての行楽客でごった返した。どちらの日も朝9時には渓谷の牛小川にある隠居に着いた。すでに行楽客が道路を往来していた。

 対岸の斜面を彩る紅葉(カエデ以外の広葉樹が中心)はあらかた葉を落とし、白い骨のように林立している。それはそれでいい被写体になる。

 カエデは県道小野四倉線沿いに点在している。どこでもいいのではと思うのだが、カメラマンが吸い寄せられるカエデの木は決まっている。その木なら、岩をかんで白く泡立つ眼下の渓流を背景に、紅葉したカエデを目の高さで撮影できる。錦展望台の近くにある。15日の朝もカメラの放列ができていた=写真上1。

 なぜその木に? 昔、疑問に思って調べたことがある。月刊の写真雑誌でその木の紅葉の写真が特賞だかなにかに入った。以来、賞を取れる?カエデの紅葉として、市内外に知られるようになったらしい。

 逆光。陽光。カメラマンによって狙う時間帯は異なる。私は、「芸術性」は二の次、逆光でも陽光でも「まずは現場写真を」の方だ。文章が主、写真は従と考えてきた記者時代の悪い癖で、写真は「撮ればいい」レベルにとどまっていた。しかし、カエデならなんでもいい、ではだめなことが、ブログを続けているうちにわかってきた。

このごろは、写真が先、文章はそのあと、に変わった。デジカメの機能のうち、植物やキノコは「接写」で、運動会や鳥、虫は「連写」で撮る。ウデは上がらないが、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」は、たまに当たる。どこへ行くにもカメラを手放さない。そのくらいの習慣は身に付いた。

 それで、まず「記録」として写真を撮る。少しはアングルを考えながら。今年(2020年)6月中旬、隠居に空き巣が入った。ガラス戸が割られていた。物置にあった鎌の柄でたたき割ったらしい。廊下にガラス片が散らばり、畳の上に鎌が置いてあった。それらの「状況証拠」も、構図を考えながら撮影した。

 警察の鑑識が終わったあとは、割られた部分を段ボールの紙でふさいだが、11月に入って吹き込む風が冷たくなってきた。後輩にこぼすと、ガラス切りを持っているという。

15日の日曜日、後輩がガラス戸の修繕にやって来た。こちらで用意していたガラスはサイズが合わない。すると、カミサンが隠居に飾ってある写真の額を持ってきて、ガラスをはずした。それを切って割れ目をふさいだ。その様子も撮影し、「記録」として残した=写真上2。

 それが終わってやっと、周りのカエデの紅葉を眺めるゆとりができた。前に観光関係の知り合いから教えられた撮影ポイントがある。人気のカエデと同じく、直下を渓流が岩をかんで流れている。牛小川の隣、椚平(くぬぎだいら)の小集落の一角にあって、ふだんは車で通りすぎるだけだ。

そばに立ち枯れの赤松があった。危険なために伐採されたかして、いつか姿を消した。今はそのあたりにカラーコーンが置かれ、近づかないようにロープが張られている。カエデの撮影を、と思ったが、やはり車で通り過ぎるだけにした。一度、カメラを手に、立ち入り禁止のわけを確かめねば――。

2020年11月20日金曜日

気温は「夏日」寸前だった

        
 11月の今は、上は半そでの下着・厚手のシャツ・チョッキ・薄手の半纏(はんてん)の4枚だが、きのう(11月19日)は早々と半纏を脱いだ。

半纏は木綿地だ。12年前、赤いちゃんちゃんこよりは黒い半纏がいい――と、刺繍(ししゅう)工芸家望月真理さんの作品を還暦祝いに購入した。タイの少数民族の衣装をアレンジしたものだという。それを春と秋に羽織っている。

午後は昼過ぎに街なかの国道399号(旧国道6号)を通った。デジタル温度計が「24°C」を表示していた。「夏日」寸前で、少し体を動かすだけで汗ばんだ。

11月中旬も終わりのこの暑さに、ハクチョウたちもへきえきしたのではないか。日曜日(11月15日)の朝、カミサンが空を飛ぶハクチョウの一群を撮った。データを拡大すると、1羽が青く長い首環を付けている。野鳥に詳しい知人が山階鳥類研究所に連絡すると、なんらかの事故で青い筒が首にはまったのではないか、ということだった。

ブログで書いてそれで終わり、というわけにはいかない。もっとちゃんとした写真を撮りたい。知人も時間をつくって見て回るという。

火曜日(11月17日)の昼前、在宅ワークの合間に、前にえさをついばんでいた長友(四倉)の田んぼを見たあと、反時計回りに平の北神谷~中神谷~鎌田の田んぼと、夏井川の堤防を巡った。夏井川では何羽かが頭を翼に入れて昼寝をしていた。“青首”がいるかどうかはわからなかった。

途中、下片寄(平)の田んぼのへりにいたダイサギを至近距離で撮影した=写真上1。サギは飛び立つとき、フワッと舞い上がる。普通のカメラでもこのくらいの写真を撮ることができる。私のようなシロウトには向いている。

きのうは義弟の定期診療送迎と薬をもらいに、平と内郷の間を3回往復した。1回目と3回目の帰りに夏井川の堤防を利用した。朝は8時半過ぎ、新川が合流する塩地内からサケのやな場がある中神谷まで、ざっと1キロの間に100羽近いハクチョウが散らばって休んでいた。一番下流のグループにも“青首”はいなかった=写真上2。

昼に向かって気温が上昇した。カミサンと義弟が戻ってきてからは、玄関の戸も茶の間のガラス戸も開け放しにした。3回目に内郷へ行った帰り、いわき駅前の総合図書館に寄ると、半そでシャツの若者がいた。元職場の後輩と地下駐車場でばったり会った。この後輩も薄着2枚で丸首シャツの長そでを二の腕までまくり上げていた。

3回目の内郷行きの前、茶の間でくつろいでいたら、蚊が現れて左手の甲に止まった。反射的にパシッとやった。11月としては初めて8日に刺された。蚊を見た「最後」はとりあえず19日まで伸びた。

晩酌はいつものようにお湯割りにした。水割りにすべきだった。お湯を流し込むたびに体がホカホカする。11月19日、昼も夜も汗ばむような誕生日になった。(けさの7時はしかし、もう雨模様だ)

2020年11月19日木曜日

コロナ禍の子どもたち

        
 先日、といっても3週間近く前だが、家庭教育支援者いわき地区研修がいわき市文化センター大ホールで開かれた。地域の青少年育成市民会議に関係しているので聴講した。“3密”を避けるため、隣の席が空くよう、一つおきに「×」の紙が張られていた=写真上。大ホールになったのも、聴講者数に対応したスペースがそこしかなかったからだろう。

 研修は、1部がオンライン講義で、NPO法人親子コミュニケーションラボ代表理事天野ひかりさん(フリーアナウンサー)が、ステージのモニター画面を通じて話した=写真下。会場風景も同時に映って、双方向のかたちで講義が行われた。ネットを介した講演を初めて経験した。

 2部は、地元いわきの医療創生大学特任准教授久保尊洋さんが「新型コロナウイルス状況下における子どもの心のケアについて」と題して講義した。こちらは通常の生の講演だった。

 久保さんは今年(2020年)5月、登校日を利用して、いわき市内の中学生500人を対象に、「コロナ禍のストレス」に関する調査をした。その結果の一部――。

 コロナ恐怖がやや高めの生徒が40.3%、高めの生徒が14.0%、つまりクラスの半数は確実にコロナ恐怖をもっていることがわかった。イタリアやロシアと比較して、コロナ恐怖が高い傾向にあるという。

 何を不安に感じているか、では、①普段の勉強58.7%②受験勉強や入試50.9%③部活動や大会50.3%④友達関係24.5%――と、勉強への不安が大きい。

 子どもへのサポートとして、久保さんは4点を挙げた。①道具的サポート=勉強を教えるなど②情緒的サポート=励まし・相談など③情報的サポート=必要な情報や知識の提供など④評価的サポート=評価で子どもの自信をつける――で、話を聴くときやってはいけないのが、「いや、違う」などの遮りや書き留め。(以前、傾聴ボランティアに聞いたことがあるが、それをやると話し手は口をつむぎ、心を閉ざしてしまう)

 コロナ恐怖が高いと抑うつ・不安の症状が高い、病気にかかりやすい人間ほどコロナ恐怖を感じやすい、ともいう。

 地域の人間としては主に朝と午後、家の前を通る子どもたちの見守りということになるのだが、講演中はずっと中1と小5の孫の顔を思い浮かべながら聞いた。

 コロナ問題で、子ども同士の差別や偏見を減らすには――。コロナに関する情報を制限する、日本赤十字社などのような確かな情報源を勧める、SNSなどで差別的な言動に同調しないようにする、などが大事、ということだった。

 同時に、この事態に対応しているすべての人々にねぎらいと敬意、感謝の気持ちを――とも。それは子どもに限らない、コロナの第三波がいわれている今、大人も忘れてはならないことだ。

2020年11月18日水曜日

朝ドラ「エール」と「高原列車は行く」

                      
 私が生まれて初めて覚えた歌謡曲は、昭和29(1954)年発売の「高原列車は行く」だった。そのとき、6歳。

同じころはやった歌謡曲に鶴田浩二「街のサンドイッチマン」(昭和28年)、春日八郎「お富さん」(同29年)「別れの一本杉」(同)、菅原都々子「月がとっても青いから」(同)、宮城まり子「ガード下の靴みがき」(同)、三橋美智也「リンゴ村から」「哀愁列車」(同31年)などがある。

 小学校に入学したのは同30年。そのころ、家(床屋)のラジオから毎日、流行歌が流れていた。なかでも「高原列車は行く」はなぜか体で覚えている。

 阿武隈の山里では、子どもが小学校に入学するとき、親が近所の子どもを招いて祝いの会を開いた。大人の宴会と同じく、小さな紳士・淑女が主役の子どもを囲んで食事をする。

1歳年下の女の子のお祝いの会で――。こちらは1年生から2年生になるときだ。主役の女の子の母親におだてられて、アカペラ(当然だが)で「高原列車は行く」を歌った。きのうのことは忘れても、このときのことはたぶん死ぬまで覚えている。歌う快感と喝采(かっさい)が脳裏に刻まれた。

 その延長線上にあるのかもしれない。社会人になって飲み会になり、なにか1曲を――といわれたら、陸上競技をやっていたノリで手足を大きく動かしながら、「高原列車は行く」を歌う。

作詞は田村郡小野町出身の丘灯至夫、作曲は福島市出身の古関裕而、歌は岡本敦郎だ。丘は毎日新聞記者として福島支局に勤務していたころ、古関家の2階に下宿したというエピソードがある(古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』)。

朝ドラの「エール」で先週(11月第2週)、主人公の古山裕一が「高原列車は行く」を作曲するシーンがあった。弟の浩二が農業会の歌詞「高原列車は行く」を裕一に渡して作曲を依頼する。できた曲が流れる。つい体を動かしながらハミングした。

同じ週の「うたコン」は「ぶらり!秋のうた旅」で、「エール」にもチラッと出演した演歌歌手徳永ゆうきともう1人、辰巳ゆうとが「高原列車は行く」を熱唱した=写真。

今週(11月第3週)は、伝説のラジオドラマ「君の名は」の歌と放送シーンから始まった。私は記憶にない。が、カミサンは小学校3年生。「君の名は」の時間になると、居間でラジオを聞く母親に店番(米屋)を頼まれたそうだ。「エール」から曲が流れた瞬間、歌い出したのには驚いた。やはり体で覚えているのだろう。子どものころの年の差は大きい。

「エール」は来週(11月第4週)で終わる。4月の放送開始以来、コロナ禍の撮影中断、異例の再放送があったものの、県民の間に過去のご当地ソングや古関メロディーへの興味・関心が広がった。

いわきのご当地ソングでいうと、「平市歌」の曲の発掘が新聞記事になった。草野心平が書いた「内郷小唄」を紹介する若い仲間の文章も読んだ。流行歌やご当地ソングは地域と家族の歴史、あるいは自分史を掘り起こすいい材料になる――そのことをあらためて実感した。

2020年11月17日火曜日

青い首環のハクチョウを探して!

きのう(11月16日)の拙ブログで、カミサンが空を飛ぶハクチョウの一群を写真に撮った、なかに青い首環(くびわ)をしているのがいた――と書いた。首環は緑色なら日本、赤色ならロシア。「青色は? どなたかご教示を」。最後にそう記した。

するとすぐ、旧知の日本野鳥の会いわき支部長氏が動いてくれた。鳥類の標識調査は、山階鳥類研究所が環境省から委託されて実施している。そこへ問い合わせた。

答えが“異常事態”を告げている。①オオハクチョウならモンゴル、コハクチョウならアラスカで青色の首環を使用する②(支部長氏が送った画像を見て)これほどの長さの首環は、ほかの色でも見たことがない③なんらかの事故で首に青色の筒がはまってしまったのかもしれない④今後、どこかでこの個体に遭遇したら、近距離での写真を見せてほしい――。

きのうのブログでは、10年前の平成22(2010)年2月、家の近場の平・塩~中神谷地内の夏井川で緑色の首環を付けたコハクチョウがいたことも書いた。「白鳥おじさん」に教えられて写真を撮った。その個体の首環と足環がどういうものかを知ってもらうために、当時の写真をアップする。首環にも足環にも文字が記されている(首環には発信機が付いていた)=写真。

きのうも書いたが、この個体は同21(2009)年10月、北海道・網走のクッチャロ湖で「169Y」の首環・足環を装着された。

日曜日(11月15日)朝に神谷の上空を通過した個体の首環は、長さがこの緑色の首環の倍以上はある。これでは首の動きがままならないかもしれない。そう思いながらも、「なんらかの事故」までは想像が及ばなかった。

それが事実だとしたら、このハクチョウは苦しんでいる。支部長氏の情報に接して、あらためてそう思った。これはもう“救出作戦”を展開しないといけない事態ではないだろうか。

夜、また支部長氏から情報が届いた。写真を拡大しても文字らしいものは見えない、やはりなんらかの筒ではないか――という。私もあらためて写真を拡大してみた。正式の首環(標識)なら掲載写真のように首の下部=胸元にある。青い首環は逆に、首の上部=のど元にひっかかっている感じ。そこだけ首が細く圧迫されているような印象を受ける。

このハクチョウがどこにいるのか、まずはそれを確かめないといけない。いわき市内の夏井川では、平窪(平)、そして下流の塩(平)と上流の三島(小川)の3カ所が越冬地だが、昼間は下流域一帯の田んぼに散らばってえさをついばんでいる。平窪や赤井、神谷のほかに、四倉・長友方面、夏井川右岸の丘を越えた滑津川流域の田んぼにもいるようだ。

写真を撮ったカミサンの話だと、青い首環をした個体を含むグループは、神谷からそのまま四倉方面へ飛んで行った。ということは、日中、北神谷(平)から長友(四倉)あたりの田んぼにいる可能性もある。

 とにかくできるだけ早く発見して、青い筒をはずしてやらないといけない。そのためにも近距離で写真を撮って確かめねば……。きのうは「ご教示を」だったが、きょうは「捜索を」「早く発見を」――そんな気持ちに代わった。