2021年7月31日土曜日

根元が白いサハリンの公園木

                      
「サガレンって?」。図書館から借りた古い月刊誌を読んでいたカミサンが尋ねる。「サハリン、樺太のこと」。読書欄にノンフィクション作家梯久美子さんの『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』(角川書店、2020年)が紹介されていた。それならウチにある。珍しくすぐ見つけてカミサンに渡す。

2016年8月初旬、高専の同級生とサハリン、シベリア大陸のウラジオストク・ナホトカを旅した。

サハリン行の目的は、1人は父親が終戦時、村長を務めていた元泊(ボストチヌイ)を訪ねること。その旅自体が父の元へ嫁いだ母親の旅をたどることになった。私は「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる「賢治の樺太」をたどること、そしてサハリンの自然一般に触れることだった。

梯さんは2017年11月と翌年9月の2回、サハリンを旅した。それが本になり、1年前に拙ブログで紹介した。ブログを参考にしてつづる。

本は2部構成で、第1部「寝台特急、北へ」はサハリン東部の鉄道紀行。第2部「『賢治の樺太』をゆく」は、樺太での宮沢賢治の足跡を車でたどった。日ソ国境だった北緯50度の北はもちろん未知の土地だが、第2部の多くは私たちがたどったコースと重なる。

本のタイトルも,賢治が樺太を「サガレン」と呼んだからだった。しかも、2回目の通訳兼ガイドは私たちのときと同じミハリョフ・ワシリーだった。

ワシリーは植物だけでなく、キノコにも精通していた。「サハリンで人気のあるキノコはヤマドリタケモドキ。ほかに、ハナイグチ、アンズタケ、エノキタケ、タマゴタケ、タモギタケ、オオモミタケなどが採れる」「ハナイグチがとれるのはトドマツの林」。和名ですらすら解説する。望外の喜び、とはこのことだった。おかげで、サハリンではシイタケも発生することがわかった。

ワシリーに聞いておきたかったことがある。もうだいぶ前のことだが、BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」でカザフスタンのサマルカンドが紹介された。公園らしいところの木が、根元から1メートルほど白く塗られている。サハリンの州都、ユジノサハリンスク市内の公園木もそうだった=写真。

ネットにはあれこれ「理由」が載っている。まずは虫除け。次が、夜間の視認性をよくするため。確かにネットにアップされている写真には街路樹もあった。夜間の車の往来、つまり交通事故防止のためだとしたら、歩道しかない公園内の白塗りは別の理由があるはず。中国では虫除けのほかに、冬季、木が乾燥して日焼けするのを防ぐため、というのもあった。ユジノサハリンスクの公園木もこちらか。

公園木や街路樹の根元を石灰などで白く塗る習慣は、ロシアや中国、アジア、アメリカ大陸などに広く行き渡っているようだ。日本では寡聞にして知らない。が、リンゴ園では凍害を受けて枯れるのを防ぐために根元を白く塗るところもあるらしい。

疑問や不思議はそのまま受け止め、どこかにしまっておくと、いつか答えのかけらが見えてくる。5年前に撮った写真にやっと出番が回ってきた――そんな思いでいる。

2021年7月30日金曜日

「空の火事」と「やっちき」

                      
「1978年6月」とあるから、43年前のものだ。ある個人詩誌が出てきた。そのころはまだ詩らしいものを書いていた。2編を寄稿した。

「出てきた」というのは正確ではない。どこかにあるはず――探していて、やっとたどりついた。このごろ、宵の7時ごろの西空が劇的に赤く染まることが多い。カミサンが店を閉めるとき、「夕焼けがすごい、見て!」と叫ぶ。カメラを持ち出してパチリとやる。台風8号がいわきに接近した前日、2階から火事場のような西空を撮った=写真。

 冒頭の詩誌に夕焼けの詩が載る。同時に、そのころ初めて知った「やっちき踊り」についても、<あとがき>の形をとって触れている。「やっちき」をどうみていたのか、自分の文章ながら知りたくなったのだった。それを抜粋する。

 ――《やっちきどっこい》は春歌である。いわき地方の夏祭りには欠かせなかったという、この民謡の来歴を私は知らない。けれども、さるところで、一度、この唄を聞いてから、いっぺんに好きになってしまった。

「閼伽井(あかい)嶽から谷底見れば出船入船ドンと大漁船」という一節から始まる。踊りも単純かつ緩急自在。40代(注・今では80代)以上の人なら、きまってある種の郷愁にかられるように、楽しそうに回顧してくれる。ほかの人には聞こえないようなささやき声で。青森のねぶたにも負けないくらいの「ハネ踊り」だ、と教えてくれた人もいる。

その歌詞を全部ここで紹介するわけにはいかないが、たとえば「二階貸しましょお言葉ならば下も貸しましょドンと後家ならば」といった文句が次から次に出てくる。

「現代の良識」からすれば、たちまち反道徳、反教育、反……というレッテルを貼られることはまちがいのない「俗悪歌謡」だが、このところ、《やっちきどっこい》だけが楽しい。

ここではとりあえず、詩人・評論家松永伍一の言葉を添えておく。「エロスの唄に熱中する理由は、かれらが本来助平であったというだけではなく、社会制度の重圧から自由になろうとする解放への願望も内にあったと見ておく必要があります」――

話を「夕焼け」に戻す。子どもたちがまだ幼かったころ、家(平下平窪の市営住宅)からちょっと行くと、見渡すかぎりの水田だった。珍しく早く帰って田んぼの方まで散歩に出た。

その帰り、閼伽井嶽から水石山へと続く阿武隈の山並みの上に広がる夕焼けが見事だった。上の子が「父ちゃん、空が火事みたいだ」といったのに刺激されて詩を書いた。

「そうだ 火事みたいだ/燃えているのはしかし空ではない/燃えているのは失われるみえないものを失うまいとする/生木のような父の胸板」

詩も散文(新聞記事)も、ではなく、すでに気持ちは散文に傾いていた。新しい新聞文章をどう組み立てたらいいのか、迷いに迷っていたときだった。結局、迷いは超えるものではなくて深めるものだ――40年の経緯を振り返って、今、そう思う。

2021年7月29日木曜日

台風8号とワクチン接種

        
 台風8号は異例のコースをたどった。南東はるか沖の太平洋で生まれ、北西に日本列島をうかがい、銚子沖付近で折れるように南下したと思ったらすぐ北上をはじめ、水曜日(7月28日)午前6時前、宮城県に上陸して岩手・秋田県を通過し、午後3時ごろ、日本海上で温帯低気圧に変わった。

東北地方太平洋岸(宮城県)への上陸は台風の統計を取り始めた1951年以降初めてだという。

 当初は関東~東北の間に上陸するのでは、ということで、いわき直撃も懸念された。それで、月曜日未明には夏井川渓谷の隠居へ出かけてキュウリの支柱の補強をした。火曜日は、朝から市役所で会合が予定されていたが、前日夕方に延期の連絡が入った。水曜日は午前中、コロナワクチンの1回目の接種を予約している、どうなるか――台風に振り回される日々が続いた。

 いわきに最接近した火曜日の天気はこんな具合だった。起きると風が吹き、時折、小雨が舞った。日中は雨雲の切れ間に入ったのか、カンカン照りに。午後遅くから雲量が増し、雨が降り出したと思ったら、またやんで夕方を迎える。夜は雨・風とも強くなったが、翌日早朝、起きると風はやんで青空が広がっていた。

 土砂降りのなかでのワクチン接種を覚悟したが、水曜日はまた、いつもの酷暑の朝になった。台風一過というよりは、東側の常磐沖を通過したあとに夜が明けたのだった。

 ワクチンは近所のかかりつけの医院で接種するため、ネットで1回目の予約をした。薬をもらいに行ったとき、ドクターからは夏風邪を引かないこと、それだけを注意するようにいわれた。発熱したら接種が難しいのだろう。

 連日の酷暑なのに、風は北から吹いてくる。わが家は夏場、戸も窓も開け放っている。Tシャツ一枚で昼寝をすると、風邪を引きかねない。特に、腹と背中を冷やさないように注意した。

 指定の時間前に着くと接種が始まっていて、すぐ呼ばれた。ドクターの問診のあと、看護師さんに接種してもらう。血液サラサラの薬を飲んでいることもあって、接種跡を2分間押さえてから半そでを下げた。背もたれイスに座って待つこと15分、体調に変化はない。ドクターからはくれぐれも散歩などしないで静かにしているように、と念を押される。

あとは窓口で2回目の接種に関する資料を受け取り、説明を聞いて帰宅するとすぐ、予約の解説資料=写真=を取り出し、同じかかりつけの医院を選んで2回目の予約をした。1回目から3週間ちょっと、8月第4週に空きがあったので、ポチッと押す。とにもかくにも2回目を接種する日が決まってホッとする。

今のところ、左腕を動かすと鈍痛を感じることがあるくらいで、強い副反応はない。いちおう晩酌は控えた。

台風は偏東風に吹かれて西に流されながら北上し、中緯度付近で高気圧と偏西風の影響を受けて日本列島の方へと向かうのが一般的だが、今回はダイレクトに東北地方へやって来た。台風の“法則”が崩れてきているのだろうか。

おととし(2019年)の台風19号は東日本に上陸し、関東~福島県を縦断していわき地方にも大きな被害をもたらした。その記憶がいやでもよみがえる。

コロナウイルスが猛威を振るい、酷暑による熱中症が心配される中、今までにない台風の動きに怖さを感じた。台風の進路に住む人間にとっては、オリンピックどころではなかったろう。

2021年7月28日水曜日

今年もナラ枯れが

                     
 今年(2021年)も「ナラ枯れ」被害が目立つようになってきた。おととい(7月26日)早朝、夏井川渓谷の隠居へ行く途中で確認した。

 いわき市小川町の平地を一段上がった高崎地内から渓谷の江田地内にかけて、主に右岸・塩田地内の山林に新しい“茶髪”が見られる。これからさらに黄土色のメッシュが増えていくのではないか。

去年、月遅れ盆の入りに隠居へ出かけ、塩田地内の山が茶髪になっているのに初めて気づいた。驚いた。10日ほどあとのいわき民報でいわき市内のナラ枯れの実態を知った。記事と拙ブログを参考に、ナラ枯れのメカニズムやいわき地方の被害状況などをおさらいする。

犯人は体長5ミリほどの小さな昆虫・カシノナガキクイムシ(カシナガ)。雌がナラ菌やえさとなる酵母菌などをたくわえる「菌嚢(きんのう)」を持っている。雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、そこで産卵する。菌が培養される。結果、木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。

カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばるので、被害もまた拡大する。

福島県いわき農林事務所・いわき市などによると、いわきでは平成30(2018)年、田人地区ほかでコナラなど50本のナラ枯れが初めて確認されたおととしは勿来・大久・小川などの中山間地のほか、平地の平・内郷・錦といった街中でも被害が相次いだ去年は8月2日の梅雨明け後、市民から相次いで情報が寄せられた、という。

そして、今年また、カシナガの加害が始まった。去年、茶髪になった周辺に多い=写真。去年の被害木からカシナガが現れるのだから、近場の木にアタックするのは当然だ

去年夏以降、ナラ枯れの木を観察してきた。ナラ枯れの葉は落葉しない。風にちぎられるだけ。冬、枝先に葉のかけらが残っているものもあった。新成虫が飛び出したあとは、時間とともに朽ちていくのだろう。

去年と今年のナラ枯れの違いははっきりしている。去年のナラ枯れの木は、遠目には幹と枝の「骨」にしか見えない。その分、色もさめて白茶けた感じだ。ものにたとえるとシロサンゴ風。今年のナラ枯れは葉が茂ったところで、枯れて茶髪になったから、枝と幹は見えない。

双眼鏡でチェックしたら、葉の中央はまだ緑、しかし周囲が枯れて、色がまだらになっている茶髪途中の葉もあった。葉が水分を失うと、へりから枯れ始めるようだ。

ナラ枯れに気づいた去年、車で出かけるたびに平地の丘陵、郊外の里山と、どこがどう茶髪になっているかをチェックしてきた。

今年もそうしている。夏井川の堤防を通ると、右岸の奥、南白土から山崎へと丘陵が伸びる。そこにも点々と新しい茶髪ができている。

私が住んでいるのはその反対側、左岸域だが、そこの丘陵でも茶髪らしいものが目につくようになった。まさか里山の風景が茶髪だらけになるようなことはないだろうが。

2021年7月27日火曜日

キュウリの支柱補強

        
 台風8号がきょう(7月27日)夜遅くからあす未明にかけて、東北南部の太平洋側に上陸する恐れが強まっている。

南東はるか沖の太平洋で生まれた台風が北西に向かって進み、東北の太平洋側に上陸するとしたら、台風の記録が残る1951年以降初めてのこと、と気象予報士はいう。

 台風6号と8号の間に寒冷低気圧があって、反時計回りに動いている。これに沿って8号が南東から北西に進んでいるのだそうだ。

 きのう(7月26日)は夜明けと同時に、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。日曜日は一日静かにしていたので、週単位のルーティンとして、様子を見ておきたいのが一つ。もう一つは、小白井きゅうりと市販キュウリの支柱を補強すること。

 キュウリは、基本的には一本立てだ。それをビニールテープで互いに支え合うかたちで棚をつくる。

一本立てでは暴風に太刀打ちできない。支柱の支柱が必要だ。支柱の両端に別の支柱を合掌式に組み、テープで固定する。いわゆる三本立てというやつだ=写真。

 2018年7月下旬、西日本に上陸した台風12号も、東から西へと逆コースをたどったうえに迷走した。このときの隠居の庭の様子はというと、暴風雨圏外なのにキュウリの棚(ビニールテープ)が切れ、つるがひっくり返っていた。新しいビニールテープで棚をつくりなおした。この記憶がよみがえって、夜明けの隠居行となった。

 渓谷は平地と山地の接点にある。地形が地形だけに平地より風が強く巻くようだ。雨量もいわきでは平地より山地が多い。何度も痛い目に遭っているので、最初から合掌式にしておけばいいのだが、「省力」ばかり考えて手を抜くから、いざとなると慌てることになる。

ついでに、ハバネロの茎もテープで支柱につないだ。ハバネロは超激辛。ハバネロの国で暮らしたことのある後輩が「イノシシ除けに」と、ポット苗を持ってきた。それを露地植えにしたら、最近、急に育って花をつけ始めた。

以前、「道の駅ひらた」の店頭にハバネロの鉢植えが飾ってあった。さわると皮膚がかぶれる――そんな注意書きが添えられていた。どの部分が激辛なのか。実の中の白いワタ(胎座)に辛み成分が多く含まれているという。葉はさわってもなんともないらしいから、素手でテープをくくりつけた。

 ネギはどうやら、さび病は落ち着いてきたようだ。風でもまれ、倒伏するのが必ず出てくる。これは台風一過後に立て直すことにして、小一時間で朝めし前の仕事を終えた。

 ところで、台風が日本列島に上陸するとしたら、2年前の令和元年東日本台風以来だ。そのときの惨状がよみがえる。きょう予定されていた役所がらみの集まりは来週に延期された。家の前のごみネットも、ふだんは木曜日まで出しっぱなしにしておくのだが、きょうは回収日ではないので、きのうのうちに引っ込めた。あとはテレビとネットで台風の様子を追うことにする。

2021年7月26日月曜日

流域治水

        
 購読している雑誌は2冊。現役のころは、7冊前後は取っていた。減った理由はカンタン。支出を減らす指令が出て、ここ数年の間に順次数を減らしていった。農文協の「季刊地域」もその1冊だった(はずだ)。

付き合いのある書店がときどき、「どうですか」といって本を持って来る。つい買ってしまうこともある。今度の「季刊地域」も、そうやって持って来た。(それとも、まだ購読をやめることが伝わっていなかったか)

地域の防災力強化を特集している。それに引かれて、積まずにすぐ読んだ。かねがね気にかかっていることが書いてある。「『災害文化』としての水害防備林」。筆者は東京女学館高校教諭の長尾朋子さん。長尾さんの専門は応用地理学・地形学だという。

福島県から発し、茨城県北部で太平洋に注ぐ久慈川の中~下流域も、いわき市の夏井川流域と同じように、令和元年東日本台風で大きな被害を受けた。

長尾さんは常陸大宮市にある水害防備林(マダケ林)と霞堤の意義・歴史、災害復旧事業への懸念などをつづる。

いわきでは県が夏井川などの河道掘削・伐木などの「緊急水災害対策プロジェクト」を実施している。久慈川でも同様に、「緊急治水対策プロジェクト」が進められている。

長尾さんは書く。「連続堤による対策が間に合わないとして、この地域にもともとある霞堤を積極的に取り入れた対策は評価できる」。しかし、「本来は霞堤とセットで機能を発揮するはずの水害防備林を、洪水がすみやかに流れるのを妨げるとして国が伐採しはじめた」のは問題だ、という。遊水池としての耕地への流木・土砂の流入が抑えられないからだ。

夏井川がいわきの平野部、小川町に入ると間もなく、両岸に竹林が連なる。かつては竹林が洪水の勢いをそぎ、破堤を防ぐようなことを聞いていたのだが、今はとにかく洪水を速やかに流す――が国の方針で、久慈川同様、小川の竹林もいずれ姿を消すのだろうか。

同地出身の詩人草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)に着いたあと、磐越東線の「ガソリンカー」に乗り換え、ふるさとへ向かう。赤井、小川郷と駅は二つ。赤井を発車するとすぐ、赤井と小川の境の切り通しが近づく。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」

河道掘削・伐木が始まって以来、この「長い竹藪」=写真=が気にかかっていたのだった。長い歴史を持つ「竹藪」がやがて、心平の詩のなかだけの存在になってしまうのか。

令和元年東日本台風の甚大な被害などを踏まえ、国交省は「流域治水」の考え方を打ち出した。堤防整備、ダム建設・再生などの対策をより一層加速するとともに、集水域から氾濫域にわたる流域のあらゆる関係者で水災害対策を推進するのだという。

県が管理する2級河川の夏井川と鮫川でも、流域自治体などが加わって流域治水協議会を組織し、8月を目途に「流域治水プロジェクト」を策定する。

水環境だけでなく、治水そのものを流域全体で考えなければならないほど水害が激甚化・頻発化している、ということなのだろう。

折から台風8号が明27日午後、太平洋沖から直接、関東~東北地方に上陸し、日本海へ抜けることが予想されている。いわきを直撃しないか心配だ。

2021年7月25日日曜日

こけしからこけしへ

        
 こけし愛好家の間ではよく知られた存在らしい。佐藤誠(1901~70年)。こけし工人として修業を積み、戦前の平町(現いわき市平)で木工所を開業し、経営者としても成功した。しかし、戦争に翻弄され、負債を抱えて終戦を迎える。戦後は家族と離れ、ひとりこけし工人としてみちのくを放浪し、平泉で数奇な人生を終える。

 再婚後に生まれた2人の息子のうち、長男(光良=1941~96年)は小説家になって作品集『父のこけし』(七月堂、1978年)を書き、『技の手紙』(みずち書房、1986年)を出す=写真。

 次男(誠孝=1947年~)は父の死後、父を継いでこけし工人になった。『技の手紙』は、こけし界の名伯楽といわれた森亮介の、主に誠孝にあてた書簡を通じて、誠孝が独立するまでの経緯をつづる。

 カミサンが本や雑誌、手紙・はがき類のダンシャリを続けている。そのなかから小説家のはがきが出てきた。35年前、勤めていた新聞に、『父のこけし』に続いて『技の手紙』の紹介記事を書いた。それへの礼状だった。

『父のこけし』所収の「皀角坂(さいかちざか)」は、高校を中退した「私」が孔版技術の専門学校に通い、孔版社に採用されるまでの心の動きを描く。「私」は中学生のころからガリ切りをやっていた。この作品を思い起こさせるきれいな書体だ。

 若いころは、佐藤光良は佐藤光良として、吉野せいは吉野せいとして、バラバラに読んでいた。が、最近、せいの『洟をたらした神』の注釈づくりをしているせいか、昔の新聞記事や広告までが『洟神』関連の材料になる。

たとえば、表題と同じ「洟をたらした神」に出てくるヨーヨー。世界的に流行するのは昭和8(1933)年。それがいわき地方にも波及したことは、同年3月26日付の常磐毎日新聞でわかる。ヨーヨーの広告が載る。地元・平町十五町目30番地の「佐藤挽物製作所」がつくり、特約玩具店を通じて売り出した。「安値 一個五銭 十銭 二十銭」とある。

「コケシウィキ」によると、佐藤誠は昭和2(1927)年、平で開業、「佐藤木工所」の名で木製玩具の製造を始めた。事業は順調に発展し、同14年、木工所の東方にある佃町3番地に工場を新築、宮城県にも工場を設置した。

 平の佃町3番地は、今は東部ガスの平事業所になっている。佐藤木工所と佐藤挽物製作所は同じだろう。昭和12(1937)年5月発行の「大・平町職業要覧明細図」に載る佐藤木工所の場所と、佐藤挽物製作所の住所が重なる。昭和5年時点では佐藤挽物製作所、その後、佐藤木工所となり、佃町に移転・新築するという歴史をたどったのではないだろうか。

佃町に移ったあと、太平洋戦争が始まる。すると、「父の工場も玩具製造を停止させられた。木馬、歩行器、木製の汽車などを作っていた工場は、かわりに日本陸海軍の指定工場とされて、軍属の監視のもとで軍需品の製造にあたるようになる」(「父のこけし」)。

結局は「工場閉鎖」に追い込まれるのだが、それは「時の軍部と独占企業による手痛い犠牲であったことはあきらか」(同)だった。

『洟をたらした神』にも、召集された息子に会いに行く話が出てくる。地方で暮らす人々の戦争の種々相――。『洟神』も『父のこけし』も合わせ鏡のようにつながった。

2021年7月24日土曜日

ツクツクボウシが鳴く

        

 きのう(7月23日)は雲が多めだった。それでも室温は30度を超えた。少し気温が下がった夕方、庭のカキの木の下でセミの抜け殻探しをした。

木の根元にミョウガの葉が茂っている。その先端に一つ、二つ、三つ。見上げれば、カエデの葉裏にも一つ。

かがんで抜け殻を採っていると、地面の至る所に穴が開いているのが目に入った。地中で長い間暮らしていたセミの幼虫が地上にはい出た跡だ。穴の直径は1.5センチというところだろうか。

おととい(7月22日)は、庭のカキの木でツクツクボウシが鳴いた=写真上1。例年だと、6月下旬にニイニイゼミがささやき、やがてアブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬になってツクツクボウシが鳴きだすのだが、今年(2021年)はミンミンを抜いてツクツクが3週間以上も早く鳴き出した。(きょう24日昼過ぎ、庭から初めて「ミンミン、ミンミン」の力強い鳴き声が)

ニイニイの初鳴きを聞いたのは6月22日。日中、ウグイスがどこからか現れて、遠慮がちに歌い出したと思ったら、夕方、カキの木の方から「ジージージージー」というかすかな声が聞こえた。

それに刺激されて、1カ月ほど前にこんなことを書いた。わが家に隣接する東と南、計4軒の家は庭に木が植わってある。4軒まとめるとちょっとしたグリーンスポットになる。ウグイスはもともと山野の鳥だ。このグリーンスポットは、大陸(山野)から離れた海上の孤島のようなものだろう。そこへほかの島(大きな家の庭)を伝ってウグイスが漂着した? そのとおりになった。

このウグイスはさえずりに特徴がある。「ホーホケキョ」ではなく、「ホーホケベキョ」と歌う。それで、すっかり定着したことがわかる。

脱線ついでにもう一つ。毎日、朝といわず夕方といわず、ハシブトガラスがわが家の庭にある電柱や、隣の駐車場に設けられたケータイのアンテナに止まって、「カッカッカッカッ」とやる。たまに「カアア、カアア」と応じる仲間がいる。

家の前にごみ集積所がある。カラスの言葉がわかれば、生ごみを食い散らかされないよう、先手を打つことができるのではないか。

カラス研究の第一人者、杉田昭栄・宇都宮大学名誉教授が3年前に『カラス学のすすめ』(緑書房)を出し、今度また、同じ出版社から『もっとディープに!カラス学』を出した。どちらも図書館にある。続編の方はずっと「貸出中」だった。先日、チェックしたら、返却されていた。すぐ図書館へ出かけて2冊とも借りた。

ごみをめぐる人間とカラスの闘いに負けるわけにはいかない、そのためにも早く新しい知識に触れたい――そんな思いで読み始めた。

セミの話に戻る。南に面した茶の間で在宅ワークをやっていると、夏は庭の照り返しが加わって蒸し風呂状態になる。セミの鳴き声がこれに追い打ちをかける。一番こたえるのがアブラゼミの「ジリジリジリ」だ。

わが家にはエアコンがない。戸と窓を全部開け放って、扇風機をかけている。夜になっても熱気は去らない。茶の間と庭が一体化しているから、明かりに誘われて虫がやって来る。先週の金曜日(7月16日)には、アブラゼミが飛び込んできた=写真上2。わが家ではいながらにしてセミ捕りができる。

2021年7月23日金曜日

月光仮面を知る世代

                     
 いわき地域学會の第362回市民講座が7月17日、いわき市文化センター中会議室で開かれた。「いわきの地域新聞に連載された『月光仮面』」と題して、私が話した。

「月光仮面」の作者は川内康範(1920~2008年)。日米開戦前の海軍兵時代、康範はいわきからの慰問袋を受け取る。病気になって除隊し、療養後に贈り主の家を訪ねる。これが最初のいわき訪問。戦後、再びいわきを訪れ、贈り主の姉と結婚し、息子が生まれる――

 以上は、毎日新聞記者隈元浩彦さんの受け売り。川内康範生誕100年の去年(2020年)、隈元さんは綿密な取材を重ね、同紙「ストーリー」欄に渾身のルポ記事を書いた。私も取材を受けて、いわきでの文学活動、「月光仮面」がいわきの地域新聞に連載されたことなどを話した。

「月光仮面」は康範の「第二の郷土」であるいわきの暮らしを土壌にして生まれた、別れた幼い息子への「愛と正義」のメッセージだった――そういう視点で話した。

「月光仮面」がテレビで放送された時代は高度経済成長期。その6年後、東京オリンピックが開かれる。それから57年、2回目の東京オリンピックがきょう(7月23日)、開会式を迎えた。(なんだかドタバタが続いてるが、大丈夫か)

 人生の朝と日暮れの2回、東京オリンピックを見られる「幸運」よりも、震災や原発事故、コロナなどを心配することなくラジオ・テレビの前に群がった少年時代が懐かしく思い出される。

 昭和32(1954)年。毎晩、NHKのラジオから♪ちょっと失礼おたずねします……のテーマソングが流れた。ドラマ「一丁目一番地」を、ラジオにかじりつくようにして聴いた。それからしばらくして、近所のラジオ屋に備えられたPR用のテレビで「月光仮面」を見た。こちらの主題歌、どこの誰かは知らないけれど……も覚えている。

 受講者はおよそ20人。ほぼ同世代だ。「一丁目一番地」も、「月光仮面」も歌える。「歌いましょうか」というところまでいったが、さすがにそれはよした。

 肝心の新聞連載の話はというと――。「夕刊ふくしま」の昭和34年6月6日付に絵物語「月光仮面」の社告が載る。第1回は同年6月11日で、翌35年2月5日まで、2回にわたって計182回掲載された。マンモス・コングが出てくる。国際暗殺団が登場する。

 横題字の下に「三和新報 改題」と入ったものがある。元福島民報社の遠藤節(俳優中村敦夫の父親)が独立して発行した地域紙の一つだ。康範は、遠藤と「刎頸(ふんけい)の仲」だった。

「社告」に掲載された「作者の言葉」――。「私は(略)平市や湯本町に住んでいたことがあり、海岸通りの各土地にはたくさんの知人がおります。だから、『夕刊ふくしま』に私の作品を発表することは、第二の郷土である福島とのつながりをさらに深めることになると信じてます」

 いわき地方にテレビが普及するころの様子も、いわき民報の紙面(昭和33年2月26日付)=写真=を通じて解説した。テレビの広告が載る。テレビ欄(NHKのみ)がある。そのころ、東京では「月光仮面」が始まり、やがて映画化される。

いわきでは昭和34年4月、「月光仮面怪獣コング」が東映で上映される。その2カ月後、「夕刊ふくしま」でマンモス・コングが登場する月光仮面の連載が始まったのだった。

2021年7月22日木曜日

ヒラメの粗汁ほか

                     
 日曜日夜の食卓――。カツオの刺し身、ヒラメの粗汁=写真上。月曜日は余ったカツ刺しのひたし揚げと味噌かんぷら=写真下。そして、火曜日。知り合いからカツオの揚げびたしが届く。

 ヒラメの粗は行きつけの魚屋さんからもらった。前はカツオの粗だったが、「スズキの粗、どうですか」「ヒラメの粗、あります」。食欲が刺激されて粗汁にしたら、カツオの濃厚な味と違って、さっぱりとした上品な味だった。以来、スズキとヒラメの粗があると、声がかかる。

 味噌かんぷらはこの時期、1~2回は食べる。夏井川渓谷の隠居の庭で何回かジャガイモを栽培した。掘り残したイモが毎年、芽を出す。葉を残しておくと、6~7月に小イモがとれる。それを掘り起こして味噌かんぷらにする。今年(2021年)は知人から新ジャガと小イモをもらった。その小イモが味噌かんぷらになった。

 わが家のカツオのひたし揚げは、余ったカツ刺しをにんにく醤油に浸けておいて、食べる直前に油で揚げたものだ。揚げびたしはその逆だろう。カツオの切り身を揚げて、ショウガとタマネギその他を加えたたれにひたしたものだ。一切れがとにかく大きい。

冷蔵庫で冷やしておく。それをほぐして食べる。いやあ、冷たくてうまい。生臭いと敬遠してしまうが、それがない。だから、うまい。うまいというほかない。

 もう一つ。小白井きゅうりが実をつけ始めた。皮をむいて、きゅうりもみにした。三度目から酢を加えないようにしてもらう。味が薄いときには醤油で調える。子どものころ、水分補給を兼ねてこのきゅうりもみをよく食べた。酢より醤油を好むのは、味蕾がそれを記憶しているからだろう。

 さて、ここまで列記した食べ物でカネがかかったのはカツオの刺し身だけだ。小白井きゅうりは苗をもらって栽培している。あとはすべてお福分け。

拙ブログで何度も書いていることだが、高度経済成長期の前は、「お福分け」は当たり前の習慣だった。

去年(2020年)7月から、小売店でも「レジ袋」が有料になった。スーパーにもコンビニにも買い物袋を持って行く。しかし、これも別に「新しい生活様式」ではない。お福分けが当たり前のころ、豆腐は鍋を持って、計り売りの酒は空き瓶を持って、買いに行った。もう使い捨ての時代ではない。

これも前に書いたことだ。庭があれば家庭菜園を、庭のない人でも軒下やベランダでバケツに土を入れてキュウリを、ナスを栽培してみる。「消費」一辺倒から「生産」することを体験してみる。余れば友達に「お福分け」をする。

「贈与の経済」というものがある。「見返りを求めずに他者にモノやサービスを与える経済」のことだそうだ。資本主義の世にあっても、地域社会、なかでも隣近所や友人などの間では贈与の文化が根づいている。

低成長が続き、コロナ禍が重なった今、「分かち合い」(若い人の間で使われている言葉でいえば「シェア」?)にこそ一筋の光を見いだしたい思いがする

2021年7月21日水曜日

酷暑のなかの草刈り

                      
 梅雨明けと同時に酷暑が続いている。ヤマユリ・青空・入道雲とくれば、子どもにとっては始まったばかりの夏休みの象徴だ。実際、小学校の高学年のころは、夏休みに入るとすぐヤマユリの薫る森でセミを捕り、入道雲がわく青空の下、町はずれの川へ出かけて水浴びをした。

 しかし、もうそんな世界からは遠いところにきた。少年の記憶と老年の現実の落差は大きい。記憶に惑わされて、まだ若いつもりで体を動かすと熱中症になる。猛烈に暑い日は、家の中で扇風機を回して静かにしているのが一番だ。

 それでも、家の中ではあれこれ動かないといけない。自分の担当する「家事」がある。できるなら朝の涼しいうちにすませたい。ちょうど年齢的にも「早寝早起き」になってきた。夜の9時には床に就き、朝の4時には起きる。ブログをアップすると、すぐ糠床をかき回し、台所の軒下のキュウリに水をやる。

 きのう(7月20日)は回覧資料の配布日だった。日中はとてもじゃないが、出歩きたくない。で、朝の6時過ぎ、いつものように車で担当する隣組の班長さん宅を回った。ほとんどが中層住宅なので、1階の出入り口に郵便受けがある。そこに回覧資料を差し込むだけだから、朝日を浴びても汗をかくほどではない。新聞配達の次に早い「宅配」だっただろう。

日曜日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。18日は後輩が庭の草刈りをしてくれた=写真上1。

庭は二段になっている。どちらも広い。小学校の分校の校庭くらいはある。酷暑の草刈りはこたえるだろう。心配していたら、私たちよりかなり早く、5時半には着いて作業を始めた。

上着も長袖だ。暑いのでは? 小型ファンで服の中に外気を取り入れ、風を流すことで汗を気化させ、涼しくする「空調服」だという。こちらは土いじりの時間を短くする、日陰を選ぶ、しょっちゅう水を飲む、といった原始的な方法だが、プロ級ともなれば暑さ対策が違う。

こういう酷暑が続くと、必ず思い出す詩句がある。拙ブログで何回も取り上げてきた。山村暮鳥の長編詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」の冒頭に、ヨシノ・ヨシヤ(吉野義也=三野混沌)の詩句「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」が載る。

太陽の下、大地に二本の足で立ち、額に汗して働く。それはそれで崇高な姿ではある。しかし、家庭菜園を始めると、「いでて働くのは、天日燦として焼くがごとしの前でないといけない」ことがわかった。酷暑ともなれば、「天日燦として焼くがごとし、あとは家で寝ていよ」だ。

そうそう、こんなのもあったな。いわき市立草野心平記念文学館内ロビーのガラス壁面に記された心平の詩、「猛烈な天」。最初の4行がすごい。血染めの天の。/はげしい放射にやられながら。/飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。/帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。」

 梅雨が明ける前のある日、夕暮れの空が真っ赤に染まった=写真上2。まさに「血染めの天」。「猛烈な天」は大火事のような夕空との出会いから生まれたか。

2021年7月20日火曜日

中原淳一展へ

 いわき市立草野心平記念文学館で7月17日、「中原淳一展――美しく装うことの大切さ」が開幕した=写真(ヒマワリ畑をバックにした同文学館敷地内の看板)。9月12日まで。

 中原淳一(1913~83年)は「日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなどの分野で時代をリード」した(中原淳一ホームページ)、マルチな人間だった。

カミサンが少女時代、中原が編集した雑誌「ジュニアそれいゆ」を愛読していたとかで、開幕2日目の日曜日、アッシー君を務め、朝9時の開館と同時に企画展を見た。

 事前にカミサンが所有する雑誌や企画展のチラシを見て、目の大きな、あの独特の女性の顔は、浅丘ルリ子がモデルではないかと思っていたが、現実は逆だった。

 同文学館ロビーで売られている中原関連グッズから、カミサンが「別冊太陽」(2018年)ほかを買った。「別冊太陽」はまるごと1冊、「中原淳一のジュニアそれいゆ」を特集している。それを読めということなのだろう。家に帰ってから「別冊太陽」を渡された。女優浅丘ルリ子が誕生する経緯がよくわかった。

 昭和30(1955)年、読売新聞に北条誠・作、中原淳一・画のジュニア小説「緑はるかに」が連載される。主人公はショートカットの「ルリ子」。この小説が日活で映画化されることになり、ルリ子役を公募した。

水の江瀧子がプロデユースした日活作品で、2000人の中から中学2年生の浅井信子という少女が選ばれた。長いおさげ髪を切ってショートカットにすると、「中原淳一の画にそっくり、画が動いているみたい」と評判になった。

 ここはカミサンの解説に従うのが一番。原画に似た少女・浅井信子が浅丘ルリ子という芸名でデビューした。つまり、原画から浅丘ルリ子が誕生し、浅丘ルリ子と原画との間で相乗効果が生まれ、原画も浅丘ルリ子もさらに輝きを増した、そういうことなのだろう。

 中原をよく知らない人間としては、なんとなく感じていたことが、「逆も真なり」で納得できたのは大きな収穫だった。

「男はつらいよ」では寅さんと相思相愛の「リリー」役を演じた、貫禄さえ感じさせる大女優の原点がここにあったのか。

私は、石原裕次郎や小林旭、赤木圭一郎らの映画を見るようになって、共演女優の浅丘ルリ子を知った。

子どものころの体験は、5歳違うとまったく異なるものになる。性別も関係しているだろう。男の子にとっては、「ジュニアそれいゆ」から5年遅れて創刊された「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が、自分の小遣いで買える最初の雑誌だった。

ちょっと年を重ねて10代後半になったとき、「平凡パンチ」が創刊された。それで、やっと若者文化の「今」に触れた。高専の男子寮で回し読みをした記憶がある。

  これは、蛇足だが――。中原は戦後の昭和22(1947)年、雑誌「ひまわり」を創刊する。文学館の敷地内にある畑でヒマワリを栽培したのは、そのため?=写真上2。いやいや、偶然そうなったのだとか。 

2021年7月19日月曜日

軒下の厄介者

        
 しばらく寄りつかなかったキイロスズメバチだったが……。夏井川渓谷の隠居へ行って雨戸を開けると、坪庭の向かい側、風呂場の軒下にまたハチの巣ができていた=写真。盛んにハチが出入りしている。1週間前には全く気づかなかった。

 母屋と風呂場はトイレ・洗面所の廊下をはさんでコの字につながる。コの字に囲まれた空間が坪庭だ。この坪庭にせり出した軒下を、何年も前からキイロスズメバチがすみかに選んでいる。巣が雨にぬれる心配がない。これが場所選びの一番のポイントのようだ。

 義父が建てた隠居の管理人になっておよそ四半世紀。この軒下にできたハチの巣は、ソフトボール大からサッカーボール大まで5、6個はあった。一度できた巣が再利用されることはない。一番大きな古巣(サッカーボール大)を取り外して床の間に飾ったことがある。そのときの様子をブログで確かめた。2008年のことだった。

やはり今ごろ(7月下旬)、孫を連れてきた息子がソフトボール大のハチの巣を見つけた。今回と同じように、盛んにハチが出入りしていた。焼き物でいえば「練り込み」。これは今も変わらない。

 それから1カ月半後、巣はサッカーボール大に成長した。働きバチたちが、隠居の隣の空き地の草むらを覆うヤブガラシの花と巣の間を盛んに往復していた。

 そのころはまだ土曜日に泊まっていた。夕方、うす暗くなってもキイロスズメバチは飛び続ける。9月の朝5時といえば、まだうす暗い。起きぬけに巣を見ると、ハチはすでに動き出している。

 2カ月半後の11月末には、大きなすみかは「空き巣」になっていた。農家がそうするように、「空き巣」を「家宝」として床の間に飾るか。

脚立を持ち出して、軒下のキイロスズメバチの古巣をはぎとりにかかった。手で動かそうとしてもびくともしない。すごい接着力だ。結局、巣の根元を壊してはぎとった。巣は何層にもなっているらしい。が、一層一層は紙のように薄くてもろい。雨に弱いから軒下のようなところを選ぶしかないことが納得できた。

それはそれとして、怖いのはチクッとやられることだ。このサッカーボール大の巣ができる前、軒下ではなく、板塀のすきまを利用して風呂場の壁に巣をつくったことがある。坪庭の水場付近で草むしりをしていたカミサンが、このとき刺された。

やけどをしたような痛みが治まらない。いわき市立総合磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救命救急センターへ車を走らせた。ドクターの指示で、点滴を打ち、呼吸困難といった急変がなかったため、やがて帰宅を許された。「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」。ドクターが念を押した。

カミサンはすでに2回、コロナワクチンを接種している。副反応はなかった。当面の厄介者には防衛線を張ることができた。が、キイロスズメバチはとなると、また別だ。こちらは2回刺されると、アナフィラキシーショックが起きかねない。

カミサンに新しくできた軒下の厄介者を見せて、街場と同じ感覚で草むしりをしないように注意した。こちらはハチもアブもマムシもいる生きものの王国なのだから。

2021年7月18日日曜日

古いはがき

                      
   ときどきカミサンがダンシャリをする。「こんなのがあった」。私の興味がありそうな本を持って来る。古い手紙やはがきは、「捨てるのと残すのと分けて」。30年以上前に届いたものがほとんどだ。所属する団体の業務連絡のような手紙は処分し、儀礼を超える内容のはがきは手元に置くことにした=写真。

いわき民報の記者をしていたので、いわき関係の作家の本を紹介したり、文化欄でコラムを書いたりしたときに、本人から礼状が送られてくることがあった。今度出てきたはがきの一つが、いわき市三和町で農林業を営みながら作家活動を続けた故草野比佐男さん(1927~2005年)のものだった。

草野さんは短歌から始まり、詩・小説・評論を手がけた。高度経済成長とともに顕在化した農業・農村の衰退を憂い、国に怒り、憲法九条を守るためにひとりムラで異議申し立てを続けた。詩集『村の女は眠れない』はロングセラーになっている。

前にも草野さんの手紙が出てきた。それを拙ブログに書いた(2019年5月16日付「草野比佐男さんの手紙」)。要約を載せる。

――「前略、突然妙なものをお届けして申しわけありません。五册作って、一冊余ったので、さて、どう処分しようかと考えていたら、なぜかあなたの名前が思いうかびました。といっても、紹介とか書評とかを期待するわけではありませんので、責任を感じたりはしないでください」

 妙なものとはワープロで打ち込んだ手製の『飛沙(ひさ)句集』『老年詩片』だった。後日、豆本になった『老年詩片』も恵贈にあずかった。消印は昭和61(1986)年3月8日だから、私が38歳、草野さんが59歳のときだ。

ワープロが出回り始めたばかりだった。いち早くそれに手を染めた進取の気性に驚いた記憶がある。

「ワープロで遊びながらの感想ですが、ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないかという気がします」「世の中が妙な具合になった時に、武器にもなるはずです」

その一例として、草野さんはフランスの詩人エリュアールやアラゴンのレジスタンス運動を上げた。ワープロの詩・句集を出したのは山太郎社。山太郎は「一山で最も大きい立木の呼称です。市内超最小の出版社だけれど、刊行物の内容は市内最高をめざすと、シャレたつもりです」――。

手製の詩句集を紙面で紹介し、併せて「ひとり出版社」「ひとり印刷所」が可能なワープロの意義について書いた。手紙とともに掲載紙を送ると、すぐ礼状が届いた。それが今度出てきたはがきだった。記事は大いにわが意を得ました、『老年詩片』は秋田で豆本にする人間がいるので、できたらお目にかけます、といったことが書かれていた。

最後に「小生の方が忙しくなくなったら一度遊びにいらっしゃい」とあって、驚いた。孤立無援を覚悟して生きる狷介(けんかい)な印象の作家だったが、「遊びにいらっしゃい」には親戚のオジサンのような温かさがある。その落差に、35年たった今、あらためて感じ入っている。

草野さんは命日が9月22日。私の母親も同じ年の同じ日に亡くなった。母親を思い出すと、決まって草野さんが思い浮かぶ。そして、この歌もまた。「かつかつに農を支へて老いにけりいかに死ぬとも憤死と思へ」