2019年5月31日金曜日

クロソイドの乙女像

 ずいぶん昔のことだが、勤めていた新聞に寄稿した高校の地理の先生のエッセーで、「道路はクロソイド曲線でつくられている」ことを知った。
以来、地形的に急カーブの連続する渓谷や山地はともかく、平地ではクロソイド曲線に従ってゆるやかにカーブさせる、という道路思想を感じながらハンドルを握るようになった。高速道のインターチェンジも、減速しながら回って一般道路に接する、という意味ではクロソイドだろう。

いちおうウィキペディアにあたってみる。クロソイド曲線はイタリアの数学者が名づけた「緩和曲線」のことで、曲率を一定割合で変化させていった場合に描かれる軌跡を指す。ドイツのアウトバーンは、この曲線に従って建設されたという。

昔の写真を調べる機会があった。そのなかで『磐城国道四十年記念写真集』(磐城国道事務所、平成元年)をパラパラやっていたら、「歴代所長の思い出を語る座談会」のなかに、クロソイド曲線が出てきた。

昭和30年代後半の所長。国道6号に関して、「原町まで全部クロソイドで一発全線測量をした」という。さらに、いわき市内のバイパスの起点、四沢交差点に「ブロンズ像があります。私(注・昭和50年代前半の所長、いわき出身)は『クロソイドの乙女』と名を付けたのです」。

その次の所長。「一次改築で全線クロソイドを使っているということは、まるで高速道路と同じような気がして、そういう意味で非常にストックとして立派なものを造られたということで、今日に至るまで十分機能を果たしている」

 ネットで検索すると、同事務所平維持出張所が広報紙(平成28年6月3日発行)で「クロソイドの乙女像」を紹介していた。「クロソイド曲線は、道路を設計する際に、カーブをスムーズなハンドル操作で曲がることができるようにするために用いられるもので、これにちなんで製作された」とあった。

 5月初め、勿来関文学歴史館へ行った帰り、今は国道6号に替わった旧バイパス四沢交差点を過ぎてすぐの緑地に立つ乙女像を、助手席のカミサンに頼んでパチリとやってもらった=写真。製作者はだれなのか。わが家の近くの終点「草野の森」にも、「未来の風の乙女像」というタイトルの銅像が建つ。こちらは、作者はわかっている。

クロソイド曲線を念頭に道路をつくる技術屋さんの誇りというか、道路愛のようなものが、二つの銅像から伝わってくる。

2019年5月30日木曜日

アリカンテの「キノコ通り」

 5月21日夜の「世界ふれあい街歩き」(BSプレミアム)は、<スペイン 光の都 アリカンテ>だった。おととい(5月28日)の朝、再放送があった。ベニテングタケのオブジェ(遊具)がある「キノコ通り」=写真=でのインタビューをしっかり頭に入れ直した。
 初回はほろ酔い気分だったこともあって、オブジェと、「雨が多いからキノコも多いんだよ」と、幼い娘を連れた父親がインタビューに答えるのをパチリとやるだけだった。あとでデータを見たら、いかにも雨の多いマチと思い込みそうだが、実際は違っていた。キノコのオブジェに引っかけた冗談だった。そのあとに、実際は「降らないね、雨は少ない」と答えている。

 字幕を写真で確かめる。「スペインではみんなよく外でビールを飲むんだ」「通りに出て友だちと話し ワインやタパスをやるのが好きなのさ」「そして子どもたちは親の楽しんでいる間 ここで遊ぶっていうわけ」(父親)。幼い娘はベニテングタケのオブジェについて、「とっても楽しい 森みたい」という。

 ヨーロッパでは、ベニテングタケが幸福や幸運のシンボルになっている。絵本やグッズによく登場する。毒キノコがなぜ? あちらでは身近なキノコであること、赤い傘に白いイボの配色が愛らしいこと、毒といっても水にさらしたりゆでたりすれば無毒化が可能で美味なこと、などが理由だろうか。

 ベニテングタケはシラカバなどと共生する菌根菌だ。シラカバの自生しないいわきでは、まずお目にかかれない。しかし、植えられたシラカバ林がある。その林かどうかは不明だが、偶然、ベニテングタケを撮った人がいる。故奈良俊彦さん。自著の『阿武隈のきのこ』にその写真が載る。

 アリカンテは地中海に面した港湾都市である。気候区分では「ステップ気候」(乾燥帯)だそうだから、ベニテングタケの発生はどうだろう。キノコの多い少ないはともかく、まちなかにオブジェが置かれるほど、ベニテングタケがヨーロッパに広く浸透している、ということだけはわかった。

2019年5月29日水曜日

マテガイをもらって食べた

 もう10日前(5月19日)のことだ。若い仲間が砂出しをして冷凍したマテガイを持って来た。「アサリと同じように食べるといい」という。
形が変わっている。二枚貝だが、棒状だ。最後の砂出しを兼ねて、塩水にマテガイを入れたあと=写真、味噌汁にした。二枚貝だから加熱されると、パカッと開く。

どう開くのだろう。椀に入ったマテガイを見たら、観音開きになっていた。水平に生きるアサリは上下に、垂直に生きるマテガイは左右に開くというわけか。

いわき市四倉産だという。いわきでも潮干狩りのできる砂浜がある。というより、港の一部が堆砂して干潮時には砂浜になる。そこに生息しているらしい。知る人ぞ知るスポットだ。

昔、鮫川河口の岩間海岸でコタマガイが採れたことがある。では、夏井川河口の新舞子海岸でも――と出かけたら、小さな穴の開いた貝殻がいっぱいあった。ツメタガイが二枚貝を襲って穴を開け、中身を食べたあとだった。いわきの海岸はたいがい外洋に面している。潮干狩りができるのは例外かもしれない。

マテガイ汁にする。貝がパカッと開いているのは先に述べた通り。貝肉はアサリやシジミだと三角形に近いが、こちらはひものように細長い。かむと、やはり貝だ。弾力がある。身が細いから、次から次に口に入る。

昔からいわきのハマに生息していたのだろうか。あるいは、どこからか渡って来て繁殖したのだろうか。ハマの人間ならともかく、内陸部でマテガイが食べられるというのは、今までなかったことだ。かたちからして珍味には違いない。

2019年5月28日火曜日

ムラサキツユクサの朝と昼

 アカツメクサ、シロツメクサ、ハハコグサ、ニワゼキショウ、ムラサキツユクサ、キンポウゲ……。今、夏井川渓谷の隠居の庭に咲いている花たちだ。辛み大根や白菜の花と違って、種をまいたり苗を植えたりした覚えはない。どこからか種が飛んで来て活着した。
 日曜日(5月26日)の早朝、隠居で土いじりをしたあと、記録を兼ねて庭の花たちを写真に撮った。人を引きつける色合いとしては、やはりムラサキツユクサが一番だ=写真上1。

 花たちは日中の暑い盛りもがんばっている、と思っていたら……。昼前、ムラサキツユクサは花をたたんでしまった=写真下。咲いている写真を撮ったのは午前10時ごろ。そのときも、花弁の縁が縮み始めていたのか、しわしわになっていた。もうその時刻にしぼみ始めたのだろう。
 しぼんだ花からピロピロ笛(吹き戻し)を連想した。息を吹きこむと、音を出して円筒状の紙が伸びる。吹くのをやめると、元に戻る。うまく花をたたんだものだ。

 ムラサキツユクサは一日花だという。晴れて暑い日には、朝咲いて、午後にはしぼむ。曇雨天のときには夕方まで咲いていることもある。5月なのに真夏のような酷暑になって、午後までもたなかったようだ。

 一日花ではなくても、夕方には花を閉じる植物がある。わが家の台所の軒下に植えてあるガザニアがそうだという。

きのう(5月27日)、初めて花が咲いているのを知った。濃いピンク色だ。キク科だから、花はもちろんキクに似る。カミサンが花の名をいう。「ラザニア?」「あんたはすぐ食べ物につなげるんだから。ラザニアではなくて、ガザニア」。たまたま「ラザニア」と口にしただけで、ラザニアという食べ物があることさえ知らなかった。イタリアのパスタ料理だそうだ。
で、ガザニアだが――。まだ明るい午後5時過ぎに見ると、確かに花弁が閉じかけていた=写真上2。不思議な習性だ。今朝は曇天。花は一日閉じたままか。

2019年5月27日月曜日

隠居の庭で車を洗う

 まだ5月だというのに、真夏のような陽気になった。きのう(5月26日)の日曜日は早朝、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをした。9時すぎには磐越東線のいわき発郡山行き二番列車が通過する。隠居ではそばを通過する列車で時間をはかる。二番列車を潮に土いじりをやめ、朝食をとった。あとはだらだら過ごした。
「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」(ヨシノ・ヨシヤ)。土いじりをしているときに太陽が照りつけると、いつもこの言葉を思いだす。「働かざる可からず」は二重否定、「働く」ことを強調している。つまり、「働かなければならない」「働かないわけにはいかない」。

山村暮鳥が自分の長編詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」のタイトルのわきに引用した。ヨシノ・ヨシヤは暮鳥の詩友、好間村(現いわき市好間町)の開拓農民吉野義也(三野混沌)のことだ。

意味としては、ギラギラ照りつける太陽の下、大地に立って額に汗して働くぞ――だろう。暮鳥は農の営みに人間本来の労働の姿をみたが、家庭菜園を始めてからは、それは危険と背中合わせでもあると自分に言い聞かせている。がんばりすぎると、熱中症になる。そうならないよう、太陽が昇ったばかりの朝飯前に土いじりを終えて、あとはだらだら過ごすことにしている。

 ネギの溝の周りの草むしりをしながら、1週間前に植えたキュウリと鷹の爪の苗に水をやる。水は、風呂場からホースを伸ばして蛇口をひねるだけ。モーターで井戸からポンプアップしている。電力自体、冷蔵庫と日曜日だけの利用なので、基本料金に毛が生えた程度しかかからない。

 朝飯を終えるとやることがない。急に車を洗うことを思い立った。カミサンが「何年ぶり? 珍しいこと!」といいながら、パチリとやる=写真。先の大雨できれいにほこりが洗い流されたと思ったら、たちまち黄色い花粉のようなものが車全体を覆った。それを洗い流した。やってみると、気持ちがいい。そのあと、車を涼しい樹下に移動した。

さあ、帰るぞという段になって、ハシボソガラスが1羽、頭上を横切って、車の上の木に止まった。写真が撮れるかも――カメラを取りに動きかけた瞬間、カラスが向きを変えながらフンをして飛び立つ。

「あれれッ」。フンが落下したところは……バックドアだった。だらりと一筋、透明な汚物が付いている。あわてて水で洗い流した。こいつもまた、<珍しいことをしている、いたずらしてやれ>となったか。

2019年5月26日日曜日

まだ蚊に刺されていない

 今年(2019年)は天気が変だ。小名浜の1月の降水量はゼロ。2月も35ミリほど。3月は少し降って100ミリを超え、4月は80ミリちょっと、5月になって21日に一気に135ミリ降ったが、少雨の状況が続く。
 先の大雨で大地が潤ったのもつかの間、夏井川は再び川底を見せ始めている。おととい(5月24日)、きのうと、今度は真夏並みの暑さになった。この少雨と関係するかどうか。きのう(5月25日)現在、まだ蚊に刺されていない。

わが家では、①毎年5月20日前後に蚊が現れてチクリとやる②午後から夕方にかけてはヤブカ、夜はアカイエカ③最近は蚊取り線香(黄土色のもの)をたいてもブンブンやっている――。毎年、最初にチクリとやられた日をメモし、蚊について調べてわかったことだ。今年(2019年)も18日あたりから蚊を意識しはじめたのだが、チクリは‥‥。

 おととい、きのうと、茶の間のガラス戸と玄関を開けて座業を続けた。きのうは夕方5時で室温28度。日中はハエが飛び回る程度だったが、夕方になると、耳元でブンブン、目の前をチラチラやるものが現れた。黙って蚊に刺されるわけにはいかないので、去年の残りの蚊取り線香を焚いた=写真。

蚊は水たまりに卵を産み落とす。その水たまりが少雨で少なくなった? 庭の陶器にも雨水がたまる。陶器を庭におくのはカミサンの趣味だが、私は雨水がたまるとひっくり返して水を捨てる。朝、歯を磨きながらそれをやる。「ボウフラのゆりかご」だ。ゆりかごを減らすことで少しは蚊の出現を抑えることができたか。

 それはともかく、蚊取り線香にも良し悪しがある。香りが強いものはのどを刺激する。上の孫が来ると、せき込むことがある。黄土色の蚊取り線香はその点大丈夫だ。蚊を殺す必要はない、遠ざけるだけでいい。いよいよ蚊と向き合う季節、黄土色の蚊取り線香を買いに行かねば――。

2019年5月25日土曜日

田植えと運動会

きのう(5月24日)は気温が上昇した。沿岸部の小名浜では最高気温が24.3度にとどまったが、内陸の山田町では28.8度と真夏日に近かった。きょうも暑くなりそうだ。熱中症対策が必要と、気象台が呼びかけている。運動会はどうか。わが家で開催を告げる花火が聞こえたとしても、「遠花火」だろう。
 5月は田植えと運動会のシーズン。1週間前の土曜日(5月18日)には、地元の小学校と、孫の通う隣の小学校が運動会を実施した。地元の小学校からは招待状が届く。しかし、やり残しの雑用がある。午後には、いわき地域学會の市民講座もある。あっちもこっちも、というわけにはいかない。孫の走りだけを見ることにした。

 上の孫(6年生)が初めてリレーのメンバーに選ばれた。体が大きくなって、“馬力”がついたようだ。下の孫(4年生)は、これは陸上競技をやっていた私がみても速い。1年生のときからリレーのメンバーだ。

午後1時過ぎに行われるリレーの応援は断念して、個人種目の100メートル走(6年)と、80メートル走(4年)を見て帰った。

 次の日、下の孫が父親とやって来た。リレーの結果を聞くと、「1人抜いた」。上の孫は「1位でフィニッシュした」と父親がいう。下の孫はサッカーに夢中だ。陸上は? 「おにいちゃんは、6月に80メートルハードルに出る」という。小学生の陸上競技大会のことか。ハードルは、昔は中学校でやったような記憶があるが……。

 その翌々日(5月22日)。近くの公民館に書類を届けたあと、「神谷(かべや)耕土」経由で街へ出かけた。すっかり田植えのすんだ水田地帯に、公民館のはす向かいにある小学校の子どもたちがいた。暴風雨のあとの晴天の朝だ。5年生が一列になって手植えをしている=写真。田植え機に同乗した子もいる。

同じ小学生のころ、親類の田植え手伝いに行ったことがある。苗の束を田んぼに投げ入れる係だった。昔は、田植え機などはない。すべてが人力だ。昔ながらの手植えをしているのは、今や小学生くらいか。子どもたちにはいい体験になったことだろう。

2019年5月24日金曜日

ヒオドシチョウの蛹が玄関に

 おととい(5月22日)のブログで、雨宿りをする幼虫の話を書いた。フヨウの葉裏にいたので、その葉を食害するフタトガリコヤガと早とちりしたが、そうではなかった。成虫になると美しいヒオドシチョウだった。訂正を兼ねて、ヒオドシチョウと判断したいきさつを書く(22日のブログには、その旨の「追記」をした)。
 21日の暴風雨をやり過ごした幼虫は、翌22日朝も玄関のそばのフヨウの若木と、そばの別の若木にとどまっていた。やがて少し場所を移して、尻からぶら下がった状態で動かなくなった=写真上。

ん? これは緑色の地に背中の黄色い筋と黒い点々があるフタトガリコヤガとは違うぞ。逆光で見ていたので、体の紋様がよくわからなかったが、全体に黒っぽい。背中には黒い筋と並行して、両側に黄色い筋がある。吸盤様の腹脚(ふくきゃく)は赤い。

さて、なんだろう。同じ紋様の幼虫が2匹、庭のツワブキの葉の上にもいる。葉から地面にポトリと落ちると、必死になって家の方へ移動してきた。振り返ると、すでに軒下の空き箱や台所のガラス戸のレールにも同じ幼虫がいた。こちらは計5匹。これはいよいよフタトガリコヤガではない。

 こうなったら種を特定しないではいられない、という気持ちが膨らむ。ときどき様子を見ることにした。ほかの幼虫たちはどこかへ消えたが、最初に見た2匹は昨23日早朝も動かずにいた。そのことも頭において、「ガ 幼虫」「毛虫」などとキーワードを替えながら検索を続ける。と、ようやく同じ紋様の幼虫に出合った。ヒオドシチョウだった。

 尻からぶらさがって動かなくなったのは、そこで蛹化(ようか)するためだろう。きのうの昼前は、紋様に変化は見られなかった。が、5時間後の午後3時ごろ見ると、大変身をして灰色の蛹(さなぎ)になっていた=写真右。鳥肌がたつほど感動した。レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)が作動した。

 それで思いだした。2年前の6月下旬のある夜、開けていた玄関から茶の間にヒオドシチョウ(今ははっきりそういえる)が迷い込んできた。テレビの画面の中に入り込もうとしたり、電灯の笠の内側に沿ってバタバタやったりしたあと、テレビのわきのパキラ(観葉植物)の葉陰に消えた。パキラの葉裏に逆さに止まったあとは、まったく動かない。そこで一晩を過ごした。
 
 翌朝は、朝ドラの「ひよっこ」が放送中に飛び立ち、明るい庭の方へと向かったのはいいが、茶の間のガラス戸が閉まっている。戸を開けて、手で囲うようにしてヒオドシチョウを外へ誘導した=写真下。

 おそらく2年前も、同じように玄関先の若木で蛹化したのだ。羽化した時間は夜?で、外は真っ暗、しかし家のなかは明るい、光に誘われるようにして玄関から茶の間に入り込んだのだ――そんなチョウの誕生の瞬間を想像してみる。
 チョウになるために幼虫は気の遠くなるような冒険の旅をしてきたのではないか。ヒオドシチョウが食べる葉はエノキだという。エノキはわが家の庭にはない。近所にも見当たらない。どこで卵から孵ったかはむろんわからないが、しかし、どこからから地面をもごもごと歩いて、歩いて、わが家の庭までたどり着いた。と思ったら、暴風雨に襲われた。

 たまたま先着した2匹は蛹化の準備を始めたところに雨が降ってきて、雨宿りをしているようなかたちに見えたのかもしれない。

  きのうはまた、カミサンの幼友達から「(ブログに出てきた)フタトガリコヤガ可愛いです。あれは見てフタトガリコヤガであると、すぐわかるんですか?」というはがきが舞い込んできた。すぐわかるわけではないことは、以上の経緯でもおわかりいただけると思う。こうなったらチョウになるまで、毎日、観察を続けることにしよう。

2019年5月23日木曜日

山の花と川の花

 日曜日(5月19日)にいわき市小川町の市立草野心平記念文学館を訪ねた。駐車場と地続きの山側にホオノキがある。大きな花をいっぱいつけていた=写真下。ホオノキは高木だから、下から花は見えない。が、ここでは正面から、普通のカメラで難なく花を撮影することができる。
 毎週通っている夏井川渓谷はすっかり緑のグラデーションに変わった。そこへ少し白の点々が見える。岸辺の白はミズキの花、山の中腹のはホオノキの花。普通のカメラではしかし、花のアップが難しい。

 渓谷の入り口、谷側の道路沿いに黄色い花が咲いていた=写真右。ジャケツイバラだ。ジャケツイバラは日当たりのよい山野や河原に生えるマメ科のつる性落葉低木で、茎にも葉にもトゲがある。総状花序に花をつけたときの、立ち上がったような黄色い花のかたまりが美しい。こちらは、車からでもパチリとやれる。

 若いときの「山学校」の先生だった湯澤陽一博士が、「文化福島」(平成8年9月号)に書いている。ジャケツイバラは、福島県が分布のほぼ北限。分布域が狭く、個体数も少ない。「いわき市ではなぜか小川沿いに多く、渓流沿いに歩いていると時に上流から散った黄色の花がながれてくるのに出合う」

 もっと下流の平地に来ると、岸辺にニセアカシアが目立つようになる。中神谷の河川敷でもいつの間にかニセアカシアが自生し、大木になった。日曜日には上流も下流も、白い花が満開だった=写真下。

おととい(5月21日)の暴風雨の影響はどうだったか。きのう、中神谷のニセアカシアを見たら、少し花が散っていた。

 小学6年生のとき、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が大ヒットした。若い人には想像もつかないことだが、今、80歳前後の先輩たちは「安保反対」デモの敗北感を、♪アカシアの雨にうたれて/このまま死んでしまいたい……という歌に重ね合わせた、とのエピソードが残っている。そのころも、雨に打たれて散ったのは、青年の心ではなくアカシアの花の方だったろう。

2019年5月22日水曜日

雨水の逃げ道

農家にとっては待望の雨、家庭菜園をやっている人間にも――とはいえ、きのう(5月21日)の大雨では、雨水を飲み込めずに冠水した生活道路もある。土砂降りのうえに風が吹き荒れた。ミニ台風のようなものだった。
いわき市平の東方、わが生活圏の神谷(かべや)では、朝の7時あたりに雨が降りはじめ、午後2時には福島地方気象台からいわき市を対象に「土砂災害警戒情報」が発表された。

神谷は水害常襲地帯だ。大雨に見舞われるとたちまち歩道が“川”になり、車道も冠水する。わが家の前の歩道がいつも最初に水没する

東日本大震災の前年(2010年)6月、土砂降りの雨で家の前の歩道が冠水した。たまたま私より2代前の区長さんがそれを見て、市に改善方を要望した。半年後の1月、わが家の前の側溝から車道の下に埋設されている下水管に、雨水を逃がすための管が直結された。以来、車道まで冠水することはめったになくなった。

午後3時すぎ――。市役所の職員が雨合羽姿で現れた。隣の行政区の字名を言う。ピンときた。そこの区長さんから排水の悪さを聞いていた。震災後、一帯の田んぼが宅地に替わった。雨が降れば田んぼが遊水地になったが、宅地化した今は、小さな排水路(元田んぼの用水路)だけでは雨水を飲み込めない。役所に連絡がいって、職員が現場を見に来たのだろう。

夕方、雨脚が弱まる。玄関に立って庭の様子を見ていると、そばのフヨウの葉陰で雨宿りをしているフタトガリコヤガの幼虫が目に留まった=写真。この幼虫は、いつもは葉の上でへりから中央へと葉をむしゃむしゃやっている。背中の突起には1ミリほどの水玉が付いている。ああ、おまえもこの大雨をそうしてやりすごそうとしているのか。

それに比べてこのおれは――。豪雨を理由に、公民館へ球技大会のメンバー表を届けるのを一日延ばしにした。バレーボールは責任者から受け取った。ソフトボールは、人数の確保がまだできない、という連絡が入った。半分は届けないというより、届けられなかったのだが。

これは別の公民館の話――。2019年度後期の市民講座の内容を詰めるやりとりのなかで、きのうの様子を伝えてきた。前期の市民講座が開講式を迎えた。ところが、この雨だ。欠席の連絡が相次いだという。いきなりの豪雨に、人間も、人間以外のいきものも、じっとしているしかなかったようだ。

 ☆追記=葉陰の幼虫をフヨウの葉を食べるフタトガリコヤガと書きましたが、どうやらヒオドシチョウの幼虫のようです。そのあと、この幼虫は別の葉裏に移動し、ぶら下がったままの状態(前蛹)になりました。色や模様からもフタトガリコヤガとは違っていました。

2019年5月21日火曜日

蛙・かえる・カエル

 日曜日(5月19日)は早朝から午後1時ごろまで、いわき市小川町で過ごした。
 小川町には夏井川渓谷がある。同川右岸域の山上に市立草野心平記念文学館がある。平地に義弟が世話になっているデイケア施設がある。渓谷の隠居で土いじりをしたあと、「家族会」に参加するカミサンを施設へ送り届けた。集まりは1時間で終わるという。その間、文学館で企画展を見ることにした。

 企画展のタイトルは「草野心平 蛙の詩」(6月30日まで)=写真。「カエルだけを書いているわけではない」。本人は「カエルの詩人」と呼ばれることを好まなかったが、カエル抜きに心平は語れない。11年前の2008年、同館で「草野心平のカエル展」が開かれている。それが、同館が「カエルと心平」を取り上げた最初。

は、「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」の詩の1行、「死んだら死んだで生きてゆくのだ」に引かれる。今度もパネルで展示されていた。

同じパネルの「るるる葬送」を読んでいたとき、耳のなかで音楽が鳴り響いた。いわきの市民バンド「十中八九」の最初のCDに、「蛙のうた~るるる葬送~」が入っている。車中で繰り返し聴いてきた、そのメロディーだった。曲は「誕生祭」の擬声語(「ぎゃろわ」「びいだらら」「びがんく」など)と、「るるる葬送」を合成したものだ。

 原詩には、タイトルに「ショパン葬送行進曲と一緒に」といった意味の英語が添えられている。十中八九のそれは、「ファンクと昭和歌謡」がベースで、ショパン葬送行進曲の添え書きを知っていたら、曲はつくらなかった――と十中八九のフェイスブックにあった。十中八九の「明るい悲しさ」がしみ込んでしまった今は、ショパンの「重苦しい悲しさ」にはなかなか入っていけない。

企画展のパネルの詩を読み終えたら、いい時間になった。山を下りて、デイケア施設でカミサンをピックアップする。カミサンの希望で、「カエルかえるカフェ 小川町店」で昼ご飯を食べた。同店は夏井川左岸域、二ツ箭山麓を縫う国道399号沿いの小団地の一角にある。

震災後、カミサンと経営者の女性が知り合った。心平の地元・小川在住で、カエルが好きだという。カフェを開きたいというので、カミサンと場所や建物について情報交換もしていたようだ。

4月にオープンすると、上の孫を連れて出かけた。店内にはカエルのグッズ、カエルの本、もちろん心平の詩集もあった。

カフェの裏手は山の田んぼだ。夜になると、カエルの大合唱が聞こえるという。平のわが家の近くにも、震災前までは田んぼがあった。夜になると、カエルの大合唱が聞こえてきた。田んぼがアパートと戸建て住宅に替わった今は、すっかり人間だけの夜になった。

先日の夜、南と西に田んぼが広がる公民館で会議があり、終わって外へ出ると、カエルの大合唱に包まれた。久しぶりに自然のいのちの営みに触れた。それが、心平のカエルの詩の原点――そんなことも思いだした、蛙・かえる・カエルの2時間だった。

2019年5月20日月曜日

半月ぶりの夏井川渓谷

1週間前の日曜日(5月12日)。「宴の夜」のあとに「頭痛の朝」がきて、夕方になってもよどんだままだった。夏井川渓谷の隠居へも行かず、魚屋へカツオの刺し身を買いに行くこともしなかった。
きのう(5月19日)の日曜日。起きるとすぐ、カミサンが朝の弁当をつくった。半月ぶりの隠居だ。それぞれ朝飯前にやることがある。7時半には渓谷に着いた。

V字の谷はすっかり緑に覆われていた。半月前は、尾根までヤマザクラのピンクで彩られていたが、今は落葉樹の淡い緑とモミの暗い緑が交じり合っている。

私はこの半月、定植したばかりの三春ネギが黒い虫に食い荒らされていないか、根元がネキリムシにちょんぎられていないか、それだけを気にかけていた。すぐチェックする。半月前とほとんど変わっていない。よかった。

次は――。前日、平の種苗店で買ったキュウリと鷹の爪(トウガラシ)のポット苗をどこに植えるか。

花盛りの辛み大根(種を採るつもり)と白菜が菜園を占領している。いずれ引っこ抜くとしても、光が当たって、ほかの作物の邪魔にならないところ、といえば菜園の南端しかない。

快晴だと苗がしおれる。いい具合に曇天・無風だ。風呂場からホースを伸ばしてたっぷり水をやり、キュウリ=写真上=と鷹の爪を定植した。そのあと、三春ネギに追肥し、土を寄せて、草をむしった=写真右。

朝飯前、といっても食べたのは9時だが、それまでに予定していた作業は済ませた。あとは生ごみを埋め、黄色い花を付けたままの白菜を半分ほど引っこ抜き、わんさと生えているハコベをちぎった。

庭が全面除染の対象になり、20年近くかけて肥料を投入した土がはぎとられた。あとに、山砂が敷き詰められた。「壌土」と呼べるものではない。文字通りの砂で、粘土質は含まれていない。水分や湿気が滞留しにくいから、砂漠生まれのネギにはいいが、ほかの野菜にはどうだろう。キュウリには日曜日ごとに水を補給してやらないといけないだろう。

なにしろ、冬から少雨の状態が続いている。草が茂っているといっても、まだたいしたことはない。梅雨に入ると、菜園は一気に“雑草園”と化する。それはそれで困ったことだが、雨が降らないことには野菜も育たない。

カミサンは11時から用がある。それに合わせて隠居を離れた。平地に下りると晴れて暑い。谷間では、そのあと雨が降ったかどうか。青空が広がったら、キュウリ苗には過酷な一日になったことだろう。

2019年5月19日日曜日

『スタンランの猫』

いつの間にか、茶の間に見慣れない大型本が置かれていた。タブロイドの新聞より一回り大きい。図書館にあるならわかるが、個人の家の茶の間にはなじまない。
 タイトルは『スタンランの猫』。昭和56(1981)年、リブロポートから出版された。作者はテオフィール・アレクサンドル・スタンラン(1859~1923年)。中身は、北斎なら漫画に描いたような“猫百態”といえば近いか。京都のフランス文学者杉本秀太郎が日本版の序文を書いている。

たまたま金曜日(5月17日)夜、「チコちゃんに叱られる」を見たら、猫はなぜ「ニャー」と鳴くのか――をやっていた。答えは「そこに人がいるから」だと。穀物を食い荒らすネズミ対策のために、人間がそばに猫をおくようになった。すると長い年月の間に、子猫が親猫に甘えたり、食べ物をねだったりするときにやる「ニャー」が、今度は人間に対しても行われるようになった。「ネオテニー(幼形成熟)」と呼ぶそうだ。

それでわかった。家猫は私にも「ニャー」と鳴いた。ところが、今、庭にやって来る外猫は、えさをやるカミサンに「ニャー」といっても、私には沈黙したままだ。前は追い払っていたから、「ニャー」と鳴いてすりよってくるはずもない。猫もソンタクするのだ。

「チコちゃんの猫」の晩、カミサンがこんな本があると、変形本の間から『スタンランの猫』を取り出してテレビの前に置いた。焼酎に気を取られて本を手に取るところまではいかなかった。

翌朝、「チコちゃんに叱られる」が再放送された。なぜチコちゃんの番組だけ、前の晩と次の朝放送されるのか。金曜日に酒を飲んで見逃したサラリーマン対策か(サラリーマンではなくなったが、私も同じ理由で見逃したことがある)。

で、途中までまた見た。テレビの前には『スタンランの猫』、テレビのなかでは「チコちゃんの猫」。内と外に猫がいる。急いでパチリとやった=写真。

それではと、『スタンランの猫』を手にした。これは、新聞でメシを食ってきたための“職業病”と思ってもらうしかない。序文を読んでいると、スタンランは「1985年」生まれとあった。すごいな、まだ34歳か。待てよ、本は38年前に出ている。年号が合わない。いったい何年生まれだ。

ネットで検索すると、「1859年」生まれだった。中央の出版なのに、なんというミスだろう。本に直接、アカを入れるのははばかられたので、インデックスに「1859年」と書いて、そばに張った。あとで読む人間のために(たぶん孫が手に取ることを期待して)

2019年5月18日土曜日

ミョウガタケを汁の実に

 5月も中旬になって、庭のミョウガの若芽が15センチほどに伸びてきた=写真。初夏の土の味、ミョウガタケだ。まずは刻んで汁の実にする。豆腐汁がいい。
 というのは――。30年以上前、5月の連休に川内村のある家で郷土料理をごちそうになったことがある。そのときのメニューの記録から。

葉ワサビの粕漬け、ウドのじゅうねん(エゴマ)あえ、シドケ(モミジガサ)のおひたし、タラの芽のてんぷら、フキとタケノコの油いため。仕上げにミョウガタケと豆腐の味噌汁。囲炉裏には赤々と炭火がおこっていた。炭火の周りには串に刺されたイワナとヤマメ、炭火の上の網わたしには生シイタケ。

 ミョガタケは、味があるわけではない。香りと歯ざわりを味わう。初夏限定の食材だ。夏になって、丈が30センチ以上になると、もう硬くて食べられない。原発事故後は、場所によっては上記のような山菜の摂取が制限されている。

 豆腐汁にちらすだけでは、どうやら芸がない。震災前のブログを読むと、こんなこともしていた。糠漬けとは別の、カブやキュウリの一夜漬けに、風味用として庭のサンショウの木の芽とミョウガタケをみじんにして加え、だし昆布も入れた。即席漬けとはいえ、風味・旨みを出すにはそれもあり、だ。
 
 この半月、座業に追われて缶詰め状態だった。やっと解放された。その意味では、「私の5月」は今、始まったばかり。草野心平の詩「五月」が胸にしみる。

「すこし落着いてくれよ五月。/ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。(略)//五月は樹木や花たちの溢れるとき。/小鳥たちの恋愛のとき。/雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。/落着き休み。/まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。」。けさはサンショウの新芽を摘む。

2019年5月17日金曜日

元同僚との語らい

 今は別の仕事に就いている元同僚(女性)が訪ねてきた。ときどき、仕事の合間に寄る。秋田県大仙市の「大曲の花火大会」を見てきたという。秋田と言えば、「いぶりがっこ」。「いぶりがっことチーズのパリパリ煎餅」=写真=を土産にもらった。
 大曲の花火大会は、夏ではないのか? BSプレミアムが毎年、生中継をする。「年に4回やってるんです」。驚いた。あとでネットで確かめたら、2019年度の開催日は、春・5月11日、夏・8月31日、秋・10月12日、冬・3月23日だ。花火・花火・花火・花火と徹底している。元同僚は春の花火大会を見に行ったわけだ。

 その前日には、やはり転職した元同僚(女性)が、入社したばかりの新人クンを連れてきた。社内の職場研修の一環らしい。

 私がいたのは地域の新聞社だ。40~50代の元同僚はたいがい面接している。そのときかどうかは、記憶が定かではない。人生とか夢とかに関して、彼女に聞かれてこう答えたそうだ。「この年(たぶん40代)になってもわからないよ」

そのころ翻訳されたミラン・クンデラの小説のタイトルと、もやもやした胸の内が重なった。人の話を聴いて記事を書くだけの暮らしに、「存在の耐えられない軽さ」を感じていた。そのもやもや感を消してくれたのが、週末の土いじりだった。大地に二本の足で立って野菜をつくっている、という「労働」の実感が、逆に今度はコラムを書くエネルギーになった。

「そのときはわからなくても、何年かたって、あのときいわれたことがこれだったか」と気づくことがある、と彼女は私に言葉を返しながら、新人クンにそのことを伝えているようだった。

それより何日か前の週末――。やはり別の仕事に就いた元同僚(男性)が共通の若い知人とともに、ローストポークや焼き鳥などを持って飲みに来た。カミサンがあらかじめ用意した食べ物がある。それをつつきながら、飲んで話しているうちに、「泊まっていけ」「泊まりますか」となった。

元同僚は、今は文章を書く仕事はしていない。が、若い知人は震災後、いわきへ戻ってきて、勤め先の広報紙におもしろいルポ記事を書いた。一読、ファンになった。彼を知るきっかけがこれだった。そんなことをさかなに痛飲した。

今、なにがはやっているのか、若い人はなにに興味・関心があるのか、いろいろ教えられた。「老いては若い人に学べ」である。

ローストポークはそのまま残ったので、別の日に晩酌をしながら食べた。やわらかかった。きのう(5月16日)、スーパーへ買い物に行ったとき、「ローストポークは?」と私が言い、カミサンが店員に聞いた。「買おうか」というのを制して、見るだけにした。新しく覚えた酒のさかながどんなところにあるのか、見ておきたかっただけだから。

2019年5月16日木曜日

草野比佐男さんの手紙

 カミサンの、2階の片づけが続く。クリアファイルに入った資料や大型封筒を詰めた洗濯かごが、座卓(こたつ)のそばに置かれる。要るものと要らないものを分けるように、というわけだ。
 座業の合間に洗濯かごと向き合う。封筒に入っているのは、30年以上前からの、役所や市民団体の会議の資料などだ。いちおう中身をパラパラやって“用済み”にする。

 いわきの作家吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈をライフワークにしている。いわきの文学に関する資料を集めているうちにそうなった。せいだけでなく、いわきの文学一般についても知りたいことがある。それらは、用済みにはできない。

おととい(5月14日)は、いわき市の山里、三和町で農林業を営みながら作家活動を続けた草野比佐男さん(1927~2005年)の手紙が出てきた=写真。詩集『村の女は眠れない』で知られる人だ(私はしかし、草野さんの本領は若いときの短歌にあると思っている)。

「前略、突然妙なものをお届けして申しわけありません。五册作って、一冊余ったので、さて、どう処分しようかと考えていたら、なぜかあなたの名前が思いうかびました。といっても、紹介とか書評とかを期待するわけではありませんので、責任を感じたりはしないでください」

 妙なものとはワープロで打ち込んだ手製の『飛沙(ひさ)句集』『老年詩片』だった。後日、豆本になった『老年詩片』も恵贈にあずかった。消印は昭和61(1986)年3月8日だから、私が38歳、草野さんが59歳のときだ。

ワープロが出回り始めたばかりだった。いち早くそれに手を染めた進取の気性に驚いた記憶がある。

「ワープロで遊びながらの感想ですが、ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないかという気がします」「世の中が妙な具合になった時に、武器にもなるはずです」

その一例として、草野さんはフランスの詩人エリュアールやアラゴンのレジスタンス運動を上げた。ワープロの詩・句集を出したのは山太郎社。山太郎は「一山で最も大きい立木の呼称です。市内超最小の出版社だけれど、刊行物の内容は市内最高をめざすと、シャレたつもりです」

 ワープロからパソコンへ、スマホへ――。草野さんの手紙から30年以上たった今、世界はインターネットでつながっている。個人の表現の手段としてのニューメディアは、権力への抵抗の「武器」だけでなく、市民が市民を攻撃する「凶器」にもなりうる。そのことを数々の事例が教える。草野さんもそこまでは想像できなかったろう。

表現する、つまり情報を発信する、という点に関しては、いつも「新聞倫理綱領」が頭に浮かぶ。草野さんの手紙のほかに、平成6(1994)年の新聞手帳も出てきた。表紙の裏に記者の言動に関する戒めが印刷されている。そのなかに「人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである」という一文がある。これをネットで実践できるかどうか、ではないだろうか。

2019年5月15日水曜日

翼を持った隣人たち

このところ、家で座業をする時間が長くなっている。そんなときの楽しみは(何度も書いているが)、庭の花を見たり、鳥の声を聞いたりすることだ。
車で出かけるときには、行きか帰りに夏井川の堤防を利用する。土手が菜の花で黄色く染まっている。翼を持った隣人たちが飛び交っている。河川敷(ヨシ原)では夏鳥のオオヨシキリが何羽も歌っている。

先週の金曜日(5月10日)――。早朝6時前、ブログをアップするために文章を直していると、庭から突然、ウグイスのさえずりが聞こえてきた。「ホーホケチョロ」。この時期はもう「ホーホケキョ」と歌えるはずだが、ときに「ホケチョロ」、あるいは「ホケベキョ」と崩れる。

 庭にはカキの木がある。カエデも、ネズミモチも、プラムもある。若葉が明るい茂みをつくっている。それがウグイスにはいいのか、毎年、気まぐれにやって来てはさえずる。ほんの一度か二度だが。

 朝食後、義弟を車に乗せて病院へ行った。毎月、カミサンが付き添う。昼前、迎えに行くと、通用口に救急車が止まっていて、その上をツバメが飛び交っていた=写真上。通用口の屋根の柱に沿って雨樋がある。屋根の雨水を受けるところがかぎ型になっている。そこに巣をつくったらしい。

 午後、カミサンを乗せて義弟の薬をもらいに行く。夏井川の堤防を利用した。と、前方をとことこ歩いている大きな鳥がいた=写真下。キジの雄だった。左岸は畑があらかた住宅に替わった。右岸の林からから渡って来たのだろう。堤防ではときどき、こういうことが起きる。
キジは人の姿を見ると、たちまち姿を消す。が、車だときわめて鈍感だ。接近すると小走りに前へ逃げる。それをしばらく続けてから、土手の草むらに姿を消した。ウグイスの朝にツバメの昼、キジの午後――。ツバメとキジは“証拠写真”を撮ることができた。こんなときには気持ちが軽くなる。

2019年5月14日火曜日

20歳のころの彼の絵

 このところ毎日のように、カミサンが2階でダンシャリをしている。2階にあるのは、ほとんどが私の本や震災当時の新聞だ。講義で使ったレジュメのコピーも7年分残っている。足の踏み場もない。
私が立ち会うと、ダンシャリは進まない。「レジュメは5部だけ残すから」。“物置”化した2階を、人が横になれるところまで片付けるには、カミサンの判断にまかせるしかない。

「こんなものがあったよ」。ある日、カミサンがスケッチブックを持って降りてきた。今はスペインに住む画家阿部幸洋(いわき市平出身)の、おそらく20歳ごろのものだ。

昭和40年代後半から10年間、いわき市平に「草野美術ホール」という画廊があった。絵をかく人間に安く、ときには出世払いで発表の場を提供した。やがて、立て続けに個展・グループ展が開かれるようになった。そこで昭和47(1972)年、今はスペインに住む画家阿部幸洋を取材した。私は23歳、彼は20歳だった。

 スケッチブックが20歳のころのものだと推定できるわけは――。昭和46(1971)年9月22日、いわき民報で若者向けの欄「オー!ヤング」がスタートした。私は入社半年だったが、報道部長に直訴すると、「やってみろ」となった。その題字を頼んだらしい。三つか四つ、それらしいデザインがあった。しかし、翌47年の同欄を図書館のホームページで確かめたが、使った形跡はない。

スケッチブックには水彩画や素描が描かれていた=写真。メモも差し込まれていた。そのメモの一部。

「俺は何だ。絵かきだ
 びんぼうしていても 米を買う金が
 なくても 俺は絵かきだ」
 この言葉は 誰かが言っていた

 誰かのことばに託して、自分の心情を吐露したのだろう。やがて、結婚と同時にスペインへ渡り、今はその地に眠る奥さんに支えられて、ただひたすら絵を描き続ける暮らしに入る。

彼と知り合ったころ、夜になると平の街を飲み歩いた。真夜中、私のアパートに泊まった晩、すすり泣く声で目が覚めた。「描けない」。初めて見る彼の姿から、逆に絵画への思いの深さを知った。半世紀近く前のメモに触発されて、そんなことも思い出した。

2019年5月13日月曜日

糠漬けを再開

 4月の終わりに糠床の眠りを覚ました。食塩のふとんをはがし、新しい糠を入れて、大根やカブの葉、キャベツを捨て漬けにした。
ほかに、塩サケの皮を糠床に入れる。肉じゃがの残り汁も加える。糠床にこれらの“栄養物”が入ることで、その家独特の味わいが生まれる。糠漬けは工夫次第、というところがおもしろい。

先日、初めてキュウリを漬けた。一晩でしんなりしたが、ちょっと塩気が強い。まだ糠床が慣れていないようだ。

ではと、時間を半分にしてみる。まずは、晩酌の時間に合わせて昼にキュウリを入れた。ざっと6時間。取り出したキュウリは、やや硬さが残っているものの、わりとあっさり漬かった=写真。酒のさかなにはいい感じだ。

これにならえば、朝食用には真夜中に入れる、昼食用には朝に入れるとなるが、現実にはキュウリが常時あるわけではない。やはり、朝食中心の糠漬けになる。しかし、真夜中までは起きていられない。どうしてもその前に入れる。未明に起きて取り出せばいいのだが、つい忘れてしまう。

朝食の直前では、10時間以上がたっている。漬かりすぎだ。そうなると、今度は水にひたして少し塩気を抜く。その塩梅がむずかしい。糠をもっと足さねば――。

夏に篤農家の塩脩一さん(平)の家を訪ねたことがある。お茶請けにキュウリの糠漬けが出た。ポリポリ食べた。初夏から盛夏へと糠床の乳酸菌の動きが活発になる。朝、糠床に入れたというキュウリの艶のよさが今も忘れられない。おいしいキュウリの糠漬けを――とあれこれ考えるたびに、塩家の糠漬けが思い浮かぶ。それが、目標。

2019年5月12日日曜日

「平成のいわき」展

  夕刊いわき民報(タブロイド判)による「平成のいわき」展が、鹿島ショッピングセンター「エブリア」で開かれている。5月19日まで。古巣の新聞なので、いわき市南部へ遠出した帰り、エブリアへ寄って会場をのぞいた。
 昭和から平成へと切り替わるとき、編集する側に身をおいていた。昭和最後の紙面と平成最初の紙面はよく覚えている=写真上1。

昭和天皇が亡くなった日=昭和64(1989)年1月7日=には、通常12~16ページ建てを、広告をはずして4ページにした。どのメディアもそうだが、「Xデー」に備えて記事をストックしていた。翌8日=平成元(1989)年1月8日=の1面は、この日病院で産声を上げた赤ちゃんや、改元で急に忙しくなった印章店、レンタルビデオ店などを紹介している。

前回は死去による“重苦しい改元”だったが、今回は退位による“明るい改元”だ。国民にもマスメディアにも奉祝ムードが漂う。この「平成といわき」展も同じ文脈だが、しかし、福島県は8年前に東日本大震災と原発事故の災禍に遭っている。「平成のいわき」を考えると、どうしても真っ先に「平成23(2011)年3月11日」が思い浮かぶ。 
3・11関連特集コーナーがあった。こちらはすべて後輩たちの仕事だ。記者が選んだ「お気に入りの1枚」コーナーの1枚に足が止まった=写真上2。お気に入りというよりは、生死にかかわる「忘れられない1枚」だろう。

地震発生直後から小名浜港の様子を取材していた記者に、近くの福島県港湾建設事務所の職員から声がかかる。「そこにいたら死ぬぞ」。記者は同庁舎に避難する。

「その後も不安を押し殺しながら津波に飲みこまれる小名浜港背後地の情景を撮影し続けて1時間が経ち、逃げることもできず途方に暮れる同事務所の職員とともに、津波に飲まれた臨港鉄道付近を撮影した1枚。3階建ての南三陸町の防災対策庁舎が飲みこまれたとの防災無線が入り、私を含め多くが死を意識した」

 記者はこのとき、マイカーを流失した。別の記者も別の場所で同じようにマイカーを失った。<生きていてよかった>。震災直後にマイカー流失の話が伝わってきて、そう思った。8年たった今、当時の様子を振り返る文章に接して、またそう思った。いのちを持っていかれなくてよかった。

2019年5月11日土曜日

いわきキノコ同好会の会報第24号

 いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の会報第24号が届いた。私は、去年(2018年)秋、いわき市小川町の山中で採取したアカイカタケについて書いた=写真。ほかに、冨田会長らがアカイカタケに言及している。
熱帯のアカイカタケが福島県で発見された“衝撃”を、会長らの文章でおさらいしてみる。

「昨年の一番のニュースは、前年のホンセイヨウショウロの初確認に続いてアカイカタケの初確認でした。2年続きでビッグニュースに沸きましたので、今年も“3度目”を期待したいものです」(発刊に寄せて・冨田会長)

 福島きのこの会会長でもある阿部武さん(石川町)は、「スッポンタケ目のきのこ」について書いた。「平成30年秋、小川町で行われた同好会の採集会に参加し、会員によるアカイカタケの発見に接し、改めて県内でのスッポンタケ目の発生状況についてまとめを行った」

 そのまとめから――。スッポンタケ目のキノコには、白いレースのドレスをまとったようなキヌガサタケ、目の粗い竹かごのようなカゴタケ、地面から3本の指を出したようなサンコタケなどがある。いずれも独特のかたちをしている。アカイカタケは「極めて珍しい種」「南方系のきのこ」で、「今回のいわき市での発見は、国内14番目」らしい。

「普通の食用キノコの発生時期と異なり、7~10月の発生が多い。発見例を見ると、公園や里山の林道わきなど多くの人が通る場所でも発生している」

 さらに、これらのキノコの生存戦略の一つとして、「雨に打たれてグレバが溶けて地上に広がれば生育域が広がる。また、胞子を含む腐敗臭のグレバを舐(な)めた鳥はさらに遠くまで胞子を運ぶことになる。キヌガサタケの菌網やイカタケの放射状の托も虫の活動を助けているらしい。赤やオレンジ色など目立つ色彩も、昆虫や鳥の目印になるようだ」

 グレバは、アカイカタケの場合は平たい頂部で凝固しかかった血液、あるいはゼリーのような層のことらしい。かぐと腐臭がする。これが、胞子の運搬役のハエを呼ぶ。托は、放射状とあるから、グレバの外側からイソギンチャクの触手のようにのびているそれか。

 再び、冨田会長。「今年出会ったキノコ」のなかで、「このキノコを初めて見た時、図鑑中でしか見たことがなかったので名前が出てこなかった。福島県初確認である」と書いている。

 採集会では、「食欲」をわきにおいて、どんなキノコがいわきに生えているのかを調べる。何年かぶりで参加したら、超珍菌も超珍菌、熱帯のキノコに遭遇した。原発事故の影響で野生キノコには摂取・出荷の制限がかけられている。阿部さんは、「食べる目的から少し距離を置いて、珍菌・稀菌を探しに森に行こう」と呼びかけている。だれでも珍菌・稀菌の発見者になれる。

2019年5月10日金曜日

ごみとカラスと人間

 おととい(5月8日)、行政区の役員8人で区内を見て回った。「箇所検分」といっている。消火栓の場所やごみ集積所を確かめながら、危険個所の有無をチェックした。
 この日は容器包装プラスチックの収集日。ある集積所にこれが出されていた。それから一気に、ごみとカラスと人間の話になった。

 違反ごみが後を絶たない。国道沿いにある集積所は、通りすがりの車が止まってごみ袋を置いていく。曜日の違反、中身の違反だけではない。一般ごみとは異なるレンジやスト―ブなどの廃棄物(有料)も捨てる。住宅街の細い路地でも事情は変わらない。

 生ごみ、つまり「燃やすごみ」の場合は、出し方が悪いとたちまちカラスに狙われる=写真。それを防ぐために、集積所にごみネットが備えられる。わが家の前の集積所では、わが家でごみネットを出し入れする。私が月曜日に出して、カミサンが木曜日に引っこめる。ごみネットがあると違反ごみを置いていかれる。美観と人間対策だ。

 ネットを張るのは、むろんカラス対策である。しかし、「燃やすごみ」を単にネットの下に置くだけではだめなのだ。ネットのヘリをごみ袋の下に入れて、ごみ袋を重し代わりにしないと、カラスに簡単に引っぱり出される。カラスはいつも人間の上をいく。

 地域のごみ問題はエンドレス。違反ごみが出されても怒らないことにしている、という役員さんがいた。どこの誰が違反したのか、結局はわからない。ならば、マナーやルールを学ばない人間はどこにでもいる、と“達観”して、カラスが散らかしたあとを片づける。そうでないと神経が持たない、という。

 どこでもごみの出し方が問題になるのは、カラスのふるまいに懲りているからだ。自分の出したごみが他人に迷惑をかけ、カラスにつっつかれるかもしれない、という想像力が一部の人間には欠けている。

エンドレスであれば、それをいちいち問題にしてもしかたがない。私も「またか」と受け止めて、腹を立てないことにするか。カラスにやられないように、決まった曜日まで違反ごみをわが家で仮置きする。美観のためには、それが一番。先日、それを実行したばかりだ。

ごみ集積所はこうして、人間について学び、カラスについて考える絶好のフィールド(現場)となる。