2019年11月30日土曜日

いわきも「初氷」

 きのう(11月29日)は、日中もあまり気温が上がらなかった。朝7時半ごろ、店の雨戸を開けたカミサンから声がかかる。ディスプレイとして店の前に置いてある大皿の水が凍っていた=写真。この冬の、わが家の「初氷」だ。NHKもローカルニュースで、福島市で初氷が観測されたことを報じていた。
 福島市では、気象台の職員が季節的な現象を目と耳で観測する。それが公式記録になる。いわき市小名浜の測候所に職員がいた平成20(2008)年9月末までは、小名浜での生物季節観測がいわきの公式記録になった。ソメイヨシノ開花・満開、イロハカエデ紅葉・落葉、ウグイス初鳴、モンシロチョウ初見など、結構な数の季節現象を職員がチェックしていた。

気象台にならって、個人的に暮らしのなかでできる生物季節観測を続けている。公式からははずれるが、蚊に初めて刺された日(平均5月20日)と最後に刺された日(同10月20日)、夏井川渓谷にある「木守の滝」から天然氷を取った日など。測候所の生物季節観測が途切れたあとは、自分の生活圏内でのウグイス初鳴、ツバメやハクチョウ初見など、できることは記録するようにしている。

拙ブログで、測候所が無人化になる直前の小名浜の初氷(公式記録)を見ると――。2006年:11月25日、2007年:11月24日で、小名浜の初氷の平年値は11月19日だった。それに変わりがないとすれば、わが家の大皿の初氷は平年より10日遅く、去年よりは11日早い。

きのうの寒さを知るために、気象台のホームページで最低気温のデータを確かめた。福島県内では観測32地点が軒並み氷点下で、あらかた「今季最低」だった。相馬といわきの山田はさらに、「11月の観測史上最低」とあった。最高気温は小名浜9.8度、山田9.2度。日中も寒かったわけだ。

こうなると、夏井川渓谷の隠居の水道管が気になる。厳寒期には洗面所の水道管が凍結・破損する。台所の温水器もやられる。12月に入ったら洗面所の元栓を締め、台所の温水器の水を抜くようにしている。

  あしたから師走、そして最初の日曜日。洗面所が濡れ、温水器が水を噴いているようなことはないだろうが、それを確かめるためにも早めに隠居へ行く。

きのうの夕刊はこの冬一番の寒さをどう報じているか。届いた新聞を見たら、どこにも記事がない。わが古巣ながら新聞から季節感が薄れて久しい。

2019年11月29日金曜日

燃え上がるカエデの赤

 日曜日にイベントや用事があると、夏井川渓谷の隠居へ行くのが平日にずれこむ。11月は10日以外の日曜日がそうだった。今週はそれで水曜日(11月27日)に出かけた。早朝7時台だったので、行楽客はいなかった。
渓谷の名勝「籠場の滝」のそばに、随筆家大町桂月の歌碑が立つ。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」。もう紅葉はおわったのだろうな、そう思って来たが、カエデが赤く燃えているではないか――そんな文人の感動が伝わる歌だ。カエデ以外の紅葉は、歌の通りにあらかた終わっていた。

紅葉には二つある。カエデ以外の落葉樹が全山を赤く染め、それが終わったあと、谷あいのカエデが赤く燃え上がる。週末だけの半住民になってわかった自然の微妙な変化だ。

そのカエデも燃え尽きる寸前のバーニングレッド、といったところだろうか。渓谷の県道を行くと、空気まで赤く染まったように感じるところがある。そこはたいていカエデの紅葉の撮影スポット。

わが隠居の庭のカエデもようやく燃え上がってきた=写真上。燃え上がりながら、落葉も始まっていた。それで庭が赤く染まっている。

その庭に、夏、頭を出したキノコ(ツチグリ)がある。行くたびに写真を撮る。おとといは、外皮が割れて開いていた=写真下。9月15日に撮り始めてからざっと2カ月。この間に内側の袋のてっぺんから、雨粒の衝撃力を借りて胞子を飛ばしたのだろう。
すると、家のそばの庭木の下にはフユノハナワラビも顔を出しているはずだ。フユノハナワラビは夏にじっと地中で眠っている。秋になると芽を出す。そのシダ植物があることはあったが、倒れている。なぜだ。動物が踏みつけたか。いや、そんなことはない。人間が踏みつけたとしたら、1週間前の私だ。そのときは、キノコがあるかないか、それしか頭になかった。

この時期、JR磐越東線の江田駅前には食事のできるテント小屋が立つ。小野町のNさんも、別の場所にパイプで支柱を組み立て、ブルーシートを張って自然薯やゴボウを直売する。前は曲がりネギ(三春ネギ)も売っていた。10日の日曜日にはなかったパイプが18日の月曜日には組み立ててあった。17、24日と自然薯を売ったことだろう。

あさって12月1日の日曜日も、おそらく直売所を開く。もしかして曲がりネギを持って来るかもしれない。あれば自然薯とともに、ネギを買う。昔野菜なので、甘くてやわらかい。

2019年11月28日木曜日

「三春荒町平田家」のルーツ(下)

  きのう(11月27日)の続き――。Tさんの江戸時代中期の先祖に俳人がいた。三春の平田掬明(1749~1831年)。掬明より少し遅れて、同じ三春藩領常葉村(現田村市常葉町)に今泉恒丸(1751~1810年)が生まれる。2人には交流があった。
恒丸は俳諧にとりつかれた一生を送った。52歳、人妻だった44歳のもと女(のちの素月尼=1759~1819年)と駆け落ちし、江戸に住んだ。小林一茶と交流を深め、浅草の札差「井筒屋」五代目、俳人夏目成美のサロンにも出入りした。恒丸の俳句を読むと、一茶に影響を与えたのは恒丸ではなかったか、と思ってしまうほど句風が似ている。

文化3(1808)年、江戸が大火事になり、門人の世話で下総佐原に移住する。指導力が抜群だったのか、門人は常陸・房総合わせて4000人ほどにのぼったという。もと女は恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と名を改める。彼女も俳人として名をなした。

 芭蕉が去って蕪村があらわれたころだ。地方にも文字を読み、俳句をつくる武士や商人、富農が続出した。掬明や恒丸より少し早く生まれた本宮の塩田冥々もそのひとりだった。

小林一茶研究で知られる矢羽勝幸さんと、当時、福島県内の高校教師だった教え子の二村博さんが平成15(2003)年に『俳人 塩田冥々――人と作品』(象山社)を、次いで同24(2012)年に『鴛鴦(えんおう) 俳人恒丸と素月』(歴史春秋社)を出した。上掲の恒丸の肖像画=写真=は『恒丸と素月』の口絵から拝借した。

俳諧ネットワークは地域を超え、身分を超えて機能する。2冊の本から冥々、掬明、恒丸のつながりをより詳しく知ることができた。正岡子規はこの時代以降の俳諧を「月並調」と一蹴する。が、庶民の自己表現という視点に立てば、月並調こそがローカルな文化の豊かさ、深さを示すバロメーターになる。

 阿武隈高地は江戸時代も今も、「文化果つる地」ではなかった。中央からは地理的に遠いかもしれないが、俳諧ネットワークを介して見ると、地域と地域どころか、中央とも直結していた。川内村の俳人佐久間喜鳥が残した幕末~明治期の膨大な史料がそれを証明する。

創立して間もないいわき地域学會が『川内村史』の刊行を受託し、休日になると、たびたび川内村へ出かけて、村役場のIさんの案内で調査を続けた。私も喜鳥を軸にした幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。

幕末期、江戸で鳴らした俳僧に磐城山崎村の専称寺で修行をした一具庵一具(出羽国出身、1781~1853年)がいる。喜鳥はこの一具に俳句の添削指導を受けた。

Tさんの先祖、三春の掬明に触発されて、常葉から江戸へ、磐城平へ、川内へと、めまぐるしく俳諧ネットワークを旅してみた。庶民の教養・息抜き・遊びとしての「文芸」という視点から俳句を見直すと、どんなへんぴなところにも1人や2人、「むらの知識人」がいたことがわかる。

古郷や木の芽曇りにはるの月  掬明
世の中は思ひ捨ずともさくら哉 恒丸

2019年11月27日水曜日

「三春荒町平田家」のルーツ(上)

 東日本大震災が起きる前、ウマの合った同業他社の記者が2人いる。朝日と毎日のいわき支局長で、共通項は同世代、本業を離れると自然を相手に過ごすことだった。私はキノコ、朝日のMさん(2017年に死去)は冬虫夏草を研究し、毎日のTさんは釣りを楽しんだ。私が会社を辞めるのと前後して2人も定年退職をし、そのままいわきの山里(遠野町)に定住した。
 先日、Tさんから電話がかかってきて、これから行くという。ほどなく湯本から常磐道に乗り、四倉から南下するかたちで、米と甘柿=写真上=を持って来た。高速を使ったのは市街を通ると時間がかかるから、ということだった。米は、Tさんら「おこめつくり隊」が「おふとん農法」(無農薬水稲直播有機栽培)でつくった米だ。Mさんも当初からおふとん農法にかかわっていた。

 今はこの「おこめつくり隊」に後輩の記者も、市役所広報のOB氏も加わっている。2人のフェイスブックから、毎年の米作りの様子がわかる。今年(2019年)は5月19日に田植えが行われ、9月下旬から10月10日にかけて稲刈りが行われた。田植えも稲刈りもだいぶ天気の影響を受けたようだ。

 Tさんが来訪したのは、しかし、米と甘柿のためではなかった。Tさんは田村郡三春町に先祖のルーツがある。私は阿武隈高地の同郡常葉町(現田村市常葉町)出身。「キノコは、マツタケよりイノハナ(コウタケ)。“いのはなご飯”は最高」などと、ルーツが同じだけに話が合う。

以前、総合図書館でバッタリ会ったことがある。三春の先祖の家系を調べているという話だった。何年にも及ぶ調査が終わり、『奥州田村郡三春荒町平田家』という冊子にまとめた。その贈呈が来訪の目的だった。

 さっそく手に取ってパラパラやったら、口絵のカラー肖像画=写真下=が目に留まった。「四代目栄助俳名掬明」とあった。「きくめい」の上に「ひらた」を付ける。ひらたきくめい。平田掬明とくれば、江戸時代の俳人だ。前に常葉の同時代の俳人を調べているなかで、『三春町史』にあたって確かめたことがある。Tさんの先祖だったのか!
 さらに、もうひとつ。平田家の菩提寺は浄土宗の紫雲寺とある。これにもなんとなく記憶があった。

平成7(1995)年に故佐藤孝徳さんが『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したとき、頼まれて校正を担当した。平山崎にある同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た若者が修学に励む“大学”(名越派檀林)でもあった。

栃木県の円通寺も名越派の檀林である。Tさんは「紫雲寺は三春町大町にある『浄土宗名越派』寺院、本山は栃木県芳賀郡益子町大沢の円通寺」と書く。『専称寺史』にも円通寺末とある。

同時に、佐藤さんはこう書き残した。ある時期、専称寺の住職をめぐる争いがおきた。その結果、争った当の2人が敬遠して自分が開山した寺院を専称寺の末寺にしなかった。

その一人、小野町の専光寺を開山した良補上人は「専光寺も、門弟善立上人が創建した三春の紫雲寺も、郡山善導寺も、高岸寺も共に専称寺ではなかったが、善立上人の門弟良善上人が専称寺の学頭になったので、同寺の末寺になったという」。紫雲寺は専称寺ともつながっていた。

 三春の平田家のルーツをたどった冊子なのに、寄り道ばかりしてなかなか前に進まない。あしたは、俳人平田掬明と、同時代の常葉出身の俳人今泉恒丸について書いてみようと思う。社会部出身らしいTさんの調査で「俳人平田掬明」像が立ちあがってきたので。

2019年11月26日火曜日

11月の木の花

 いつも行き来する夏井川の堤防のそばに小さなお宮がある。猫の額のような境内の隣地に若い四季桜の木が植わってある。春と秋の2回、花を付ける。台風19号のあとだったか、花が咲き出したのに気づいた。今、満開だ=写真下。
 以前、堤防の外側、河川敷の畑に桜の大木があった、たもとには小さなお宮。桜は“種まき桜”でもあったろう。お宮は川幅を拡幅するときに遷座した。桜の木も切られた。

遷座した先が、四季桜のあるところかもしれない。平・塩地内。グーグルアースで見ると、「三宝荒神広前(さんぽうこうじんひろまえ)」の書き込みがある。三宝は仏・法・僧、広前は神の庭。神仏習合だ。ウィキペディアによれば、仏教に修験道が加わって火の神(火伏せ)の三宝荒神信仰が生まれた、ということらしい。

 ついでながら、堤防の内・外は人間の暮らしが基準になる。洪水から人命・財産を守るのが堤防。外敵を防ぐ城壁と同じで、人間の住んでいるエリアが城内、堤防の内側になる、台風19号では堤防の外から越水・決壊しただけでなく、内側でも堤防が壊れ、家の床上まで浸水したところがある。ある地域では、「ウチミズ(内水)」、つまり域内の小山などからの雨水が低地にたまって浸水した、といっていた

 四季桜は下流(中神谷)の集落にもある。毎日、堤防を散歩していたころは、秋が深まると寄り道をして桜の花を見た。そこも満開になっていることだろう。
 秋に咲く木は、四季桜だけではない。きのう(11月25日)は朝からいい天気になった。庭に出て生け垣を眺めながら歯を磨いていると、葉の付け根(葉腋)に黄色い小花を付けている木に気づいた=写真上。

 生け垣はマサキ。花が咲くのは6~7月だ。マサキの楕円の葉と違って、大きく細長い。葉裏は白っぽい。知らぬ間に種が飛んで来たか、鳥の糞に含まれていた種が根づいたかして育ち、花を咲かせるまでになったらしい。ネットで検索を続けること1時間、ようやくシロダモの若木らしいことがわかった。常緑の照葉樹だ。

シロダモは雌雄異株(しゆういしゅ)。雄花は葉腋に付くというから、庭の木は雄の木かもしれない。

単純なことだが、花を見れば気持ちがなごむ。わからない木の名前を知ればうれしくなる。小さな“発見”が暮らしの中では大きな慰めになる。

2019年11月25日月曜日

「隣人祭り」が大切

外国にルーツを持つ市民の日本語スピーチコンテストがきのう(11月24日)、いわき湯本温泉の古滝屋で開かれた。18回目を迎えた地球市民フェスティバルの一環、というより、3年前からは同コンテストがフェスティバルのメーンになった。
縁あって、初回からコンテストの審査員を務めている。「高等教育機関の部」には東日本国際大学と福島高専の留学生5人、「一般の部」にはスーパーマルトの技能研修生や親のどちらかが外国人の中学生など9人が参加した。会場から寄せられたアンケート結果を参考にしながら、5人の審査員が大賞・特別賞を決めた。最後はスタッフ、審査員らが加わって記念撮影が行われた=写真。

 日本、それも東京ではなく地方のいわきへ来たことの戸惑い、住んでみての感想、いいところと悪いところなど、実体験に基づくスピーチに、たびたびうなずいたり、ほほえんだりした。

 郷に入れば郷に従え――で、何人かは当初、いわきのごみ分別ルールがわからず、出したごみ袋にシールを張られて置いていかれた。地球環境問題を考えれば、「燃えるごみ」「燃えないごみ」などに分別する方法を広めないといけない。ベトナムへ帰ったら地元の人間にごみ分別のやり方を教えたい、と述べる実習生がいた。

 母国のベトナムと日本を比較して、日本では近所づきあいが薄い、あいさつをすることから知り合いを増やしていくことが大切、と訴える留学生もいた。フランスでは20年前に、日本でも2008年に「隣人祭り」が始まった。それが、高齢者が外出する楽しみになっている(「隣人祭り」は身近なコミュニティの課題といってもいい)。

 母親がフィリピン人の中学1年生の男の子には、痛いところをつかれた。いい友達ができた。日本語と勉強を教えてくれる場所がある。吹奏楽部に入っている。アリオスで演奏した。アリオスはすごい。カツオの刺し身はにんにく醤油でたべるのがおいしい。しかし、雪が少ないのと、信号無視をする車が多いのが残念(雪はともかく、黄信号でも平気で進む車が多いのがいわき)。

 回を追うごとに、スピーチの内容がよくなっているように感じた。と同時に、彼らの目から見たいわきの長所は伸ばし、短所は改める必要があることも実感した。このコンテスト自体、「隣人祭り」のひとつではないだろうか。

「高等教育機関の部」では「隣人祭り」を紹介した留学生が、「一般の部」では、「ありがとういわき」と題して、「日本語を覚えたおかげで、ミャンマーに戻ってパン屋さんを開く夢が生まれた」と語った実習生が大賞を受賞した。「ごみ分別」の実習生と、車の信号無視を突いた中学生には、特別賞のほかに、急きょ、審査員特別賞が贈られた。

2019年11月24日日曜日

図書館でキノコ狩り

 いわき駅前の総合図書館へキノコ狩りに行く――。この1年というもの、そんな感覚で過ごした。図書館のホームページを開いて、「キノコ」「マッシュルーム」「菌類」でヒットする本を片っ端から借りて読んだ。最近は、読んだ本を忘れてまた借りるようになった。そろそろ本の森のキノコ狩りも終わりのようだ。
1年前(2018年)の秋、キノコ観察会に参加し、小川町の山中でたまたま超珍菌のアカイカタケ=写真上=を採取した。もともとは熱帯地方のキノコだが、胞子が台風に乘って北上し、冬の寒さにも耐えて菌糸を張り巡らし、地上に子実体(植物でいう花)をつくったのだろう。見た目は森のイソギンチャク。東北地方で初めての採取記録になった。

それを、夕刊のいわき民報が記事にした。するとその日のうちに、「キノコの話をしてくれ」と、中央公民館からメールで依頼がきた。研究者ではない。が、キノコの周辺、阿武隈のキノコ食文化や、文献的なキノコの話ならできるかもしれない。1年後ならなんとかなると、安請け合いをした。

それからキノコに関する文献あさりを始めた。たぶん100冊、いや200冊くらいはパラパラやった。

今年(2019年)、ノーベル文学賞は去年の分を含めて2人の受賞が決まった。ポーランドのオルガ・トカルチュクと、オーストリアのペーター・ハントケ。どちらの国もキノコを愛する人間が多い。

すぐ図書館のホームページで2人の本を探し、『昼の家、夜の家』(トカルチュク/小椋彩訳)=写真右=と、『こどもの物語』(ハントケ/阿部卓也訳)を借りた。たまたま翌土曜日(10月12日)の日中、台風19号が日本列島へ接近していた。朝から自宅待機を兼ねて2冊を読んだ。

トカルチュクの本は図星だった。キノコが重要な道具になっていた。ヨーロッパならヤマドリタケ、日本ならマツタケと遭遇したようなものだろう(どちらも採ったことはないが)。

そのあとすぐ、またおもしろい本に出合った。原発震災後に書かれた黒川創の小説『いつか、この世界で起こっていたこと』=写真左=と、ノルウェーの森のキノコ事情をつづったマレーシア出身の文化人類学者、ロン・リット・ウーン/枇谷玲子・中村冬美訳『きのこのなぐさめ』=写真右=だ。

前者の本に収められている「チィェーホフの学校」は、キノコ好きのチェーホフの話に、チェルノブイリ原発と東電福島第一原発の事故を重ねたものだった。

10年前、還暦を記念して仲間と北欧を旅したとき、ガイドにノルウェーの森のキノコについて尋ねたことがある。「虫が少ないので、こちらではキノコが長持ちする」。『きのこのなぐさめ』は、それを実地に全般的に解説してくれるような本だった。

10月から月に1回、3回シリーズで中央公民館の市民講座を担当している。タイトルは「キノコの文化誌」。最終の12月には、毒キノコ、主にベニテングタケの話をする。

2019年11月23日土曜日

台風19号㊱災害派遣

1、10、20日の月3回、毛細血管のような行政区内の細道を巡って、区の役員さん宅に回覧資料を届ける。途中、国道399号(旧国道6号)に出てまた細道に入る。
 11月3回目の配布の日、国道へ出ようとすると、目の前に大型車が現れて止まった。信号待ちだ。暗緑色の車体に張られた白布に「災害派遣」の大文字。その上下に「第6師団」「第22即応機動連隊(宮城県)」=写真。自衛隊の大型ダンプだった。

 いわき市内では、台風19号の影響で水害ごみが大量に発生した。わが生活圏の隣、平商業高校近くにある平・幕ノ内団地も、一角が仮置場に提供されると、たちまち廃棄物の山になった。不法投棄も相次いだという。

 先日、そばを通ると、ショベルカーがダンプカーに廃棄物を積み、バケットローダーが動いていた。車体はすべて暗緑色だった。11月初めには、進入を防ぐカラーコーンに「『水害ごみ』は小川市民運動場へ!」の札がかけられていた。四倉市民運動場も仮置場になっている。国道で出合ったダンプは四倉の仮置場へ向かっていたのだろう。

 8年半前の東日本大震災でも似たようなことがあった。東電の福島第一原発が事故を起こした。事故の収束、大地震・大津波による災害支援、行方不明者捜索などに自衛隊が加わった。暗緑色の車両がひんぱんに国道を行き来した。

 震災から半月。ガソリンがやっと入荷し、旧道のスタンドから国道へと長い車列ができた。その列に加わっていると――。片側2車線の内側を、暗緑色の車両が北へ向かって走っていく。そのうち1台が赤信号で止まった。助手席にいる若い隊員と目が合った。自然と手が動いて敬礼をした。隊員がうなずいた。

 今度も同じような気持ちになった。助手席に隊員がいて、目が合えば敬礼をしただろう。

彼らのおかげで、それぞれの生活空間から水害ごみが消えつつある。しかし、幹線道路からはずれた住宅地の奥にある水害ごみは後回しにされる――。やはり床上浸水に見舞われた地域の区長さんがこぼしていた。

2019年11月22日金曜日

台風19号㉟復旧ボランティア

シャプラニール=市民による海外協力の会が、いわきで2回目のボランティア活動に入った。11月初旬の「みんなでいわき ボランティアツアー」に続き、いわき集合・解散で参加を呼びかけた。
日程はきのう(11月21日)から24日までの5日間で、ボランティアの数が少ない平日から連休を視野に入れ、一日だけの参加も可、とした。宿泊場所はいわき駅から北東にあるお寺。地元ボランティアグループの拠点、菩提院とのつながりで借りることができた。

同寺は、旧神谷村地区の隣接地区にある。わが家からも近い。しかし、神谷とは直接のやりとりがないため、シャプラのスタッフから聞いたときには、最初、場所がよくわからなかった。

夏井川渓谷の隠居へ行くのに、寺の前の坂道を通る。境内には市指定保存樹木のシダレザクラ、磐城三十三観音の第21番札所がある。「坂の上の寺」と知って、急に親しみがわいた。浄土宗名越派として、平・山崎の専称寺とは本末の関係にあった。

専称寺は同派の大学だった。東北から優秀な人材が修行にやってきた。なかに、江戸時代末期、江戸で名を成した出羽国出身の俳僧一具庵一具がいる。一具を調べていることもあって、名越派関係の寺にはついつい引かれてしまう。

東北地方太平洋沖地震の3・11か、巨大余震の4・11か、定かではないが、震度6弱の激しい揺れのために、参道入り口にある石灯籠が壊れた。てっぺんの擬宝珠は道路反対側にまで転がり、側溝にはさまるようなかたちで止まった。今は復旧した。そのことも思い出した。

スタッフは活動前日の20日に来市し、宿泊場所の整頓をしたあと、わが家の近くにあるカミサンの故伯父の家に泊まった。その前、夕方に街のスーパーで合流した。

冬、客人が来ると、歓迎と滋養強化を兼ねて「ホウレンソウ鍋」にする。ニンニクとショウガを薄切りにして水を張った鍋に入れ、加熱しながら塩で味をととのえる。彩りにちょっと醤油をたらす。あとは、鍋にホウレンソウの葉としゃぶしゃぶ用の豚肉を入れてほおばる。今回は生のホウレンソウがなかったので、カットされた冷凍ホウレンソウで代用した=写真。中くらいのナメコも初めて入れてみた。まずまずだった。

きのう朝、スタッフを待ち合わせ場所の社協に送り届けると、ボランティアが2人いた。宵にスタッフから電話があった。中塩(平商業高校の近く)で作業をしたという。宿泊場所の「坂の上の寺」とは直線距離にして700メートルくらいだろうか。きょうも中塩で作業をするらしい。

2019年11月21日木曜日

高久の円筒分水

 まずはこの写真から=写真下1。「円筒分水」という。農業利水施設だ。ウィキペディアによると、円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流・落下する際に一定の割合で水を分割する仕組みになっている。現存する全国の円筒分水が紹介されていたが、いわきのそれには調査が及ばなかったようだ。
 月曜日(11月18日)に高専の一つ下の後輩が、自分で栽培した小豆(昔野菜の「むすめきたか」)とユズを持ってきてくれた=写真下2。
月初めには落花生(「おおまさり」)のお福分けにあずかった=写真下3。その日の夕方、「おおまさり」を殻ごとゆでて晩酌のつまみにした。やわらかい。いくらでも口に入る。若い仲間が来たとき、これを出すと、殻の内部の水気をなくすには蒸したらいい、という。長持ちさせるにはそうした方がよさそうだ。次に手に入ったら蒸すことにしよう。「むすめきたか」はいずれ煮て食べる。ユズは白菜漬けの風味づけに使う。
後輩は、平の高久に実家がある。親が残した田畑を守るために、家族と離れて“単身帰農”をしたらしい。30分ほど茶飲み話をした。

 高久には田んぼに水を行き渡らせるための円筒分水がある。愛谷堰土地改良区が管理している。「円筒分水で引いた水を使ってコメをつくってるのかい」「そうです」「あれはおもしろい農業施設だよな」。うまく自然の力を利用して湧出させている。勝手に流量を変更できない。そこから円筒分水にまつわる話になった。

若いフェイスブック友が今年(2019年)6月下旬に写真をアップするまで、円筒分水を全く知らなかった。どこにあるのかを聞いて、次の日、現物を見に行った。県道下高久谷川瀬線沿いの「馬場鶴ケ井」バス停そばにあった。昭和42(1967)年に築造された。ネットの情報では、規模的には小さいのだそうだ。

 円筒分水のある字名が馬場。県道をはさんだ一帯をいう。鶴ケ井はその南方、滑津川を軸に広がる水田の奥、U字形の丘陵に囲まれた小地域を指す。そのどんづまりにカミサンの父親の実家がある。

円筒分水のそばに立て札があった。5~9月の「江水地区割日程」表だった。「近年、番水日を守らない分水口が見受けられますので、一部の分水口を施錠致します。番水日を厳守して下さい。また、臨時水路看守員の指示にも従って下さい」。後輩に実態はどうなのかを聞いた。詳しい話はしなかったが、「我田引水」という言葉が耳に残った。

2019年11月20日水曜日

台風19号㉞渓谷のカエデ紅葉

 きのう(11月19日)、9日ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。土・日と街で行事があった。月曜日は雑用に追われた。
台風19号から1カ月と1週間。平日の夏井川左岸域の様子は――。平商業高校近く、造成の住んだ宅地が臨時に水害ごみの集積所になった。最初は一角だけだったのが、不法投棄も相次ぎ、あっという間に廃棄物の山ができた。自衛隊が廃棄物を搬出していた。その隣接地区、平窪の水田に漂着したボートは、さすがになくなっていた。遅れていた稲刈りも終わったようだ。

丘を越えた先、小川・三島橋の上流はハクチョウの越冬地でもある。午前10時半という時間帯だったからか、100羽、いや200羽以上が羽を休めていた。昼近く通ると、半数以上が姿を消していた。近くの田んぼへ移動したのだろう。

 渓谷はカエデの紅葉が真っ盛りだった=写真上1。カエデは県道小野四倉線沿いに多い。老カメラマンが何人もいた。いわき観光まちづくりビューローの知人もカメラを向けていた。午前中は逆光狙いだ。
牛小川の隠居のカエデは、遠目にはきれいに紅葉しているが、近づくと1枚1枚が汚れている。順光で写真を撮ろうという気がおこらない。知人から人気の撮影ポイントを教えてもらって撮ったのがこれ=写真上2。直下を、夏井川が水をたたえて流れている。牛小川の隣、椚平(くぬぎだいら)の小集落の一角にあって、ふだんは車で通りすぎるだけだ。

 晴れて風が強かった。強まっては弱まり、弱まってはまた強まる。そのたびに木々の枝から紅葉・黄葉が離れる。毎年、この時期になると風に舞う枯れ葉を狙うのだが、納得のいく写真はまだ1枚もない。
 渓谷を通るJR磐越東線は先週末の16日、ほぼ1か月ぶりに運転が再開された。きのうは牛小川踏切付近に作業員がかたまって、線路の付属物を点検していた=写真上3。

 帰りは江田駅前の露地で地元のおばちゃんたちが開いている直売所へ寄る。塩漬けのフキと芋茎(いもがら)を買った。小野町のNさんも日曜日には自然薯を直売したらしい。いつもの場所にパイプで支柱が組み立てられていた。

日曜日には結構、行楽客が多かったという。この分では今度の連休も期待がもてるか。24日の午後は街で行事がある。午前中なら渓谷のNさんの直売所を訪ねる時間がある。曲がりネギ(三春ネギ)を持って来ているかもしれない。

2019年11月19日火曜日

カツオのひやま

 日曜日(11月17日)の夕方、いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行く。「あることはあるんですが……」。歯切れが悪い。「ひやまにしたんです」。カミサンが「ひやま、大好き」と応じた。それで決まり。
 マイ皿に生が9切れ、あとの3分の2はひやまが盛りつけられた=写真上。「おカネは要りません」。商品として売れる品質ではないと判断したのだろう。カツオは、脂はのっているのだが、漁場が遠い。戻って来るまでに時間がかかる。どうしても鮮度が落ちる。刺し身にはしにくい。

2014年4月にも似たようなことがあった。九州から大型カツオが空輸されてきた。わが家にとっては、その年の初ガツオだ。「きのうは胸を張って売れたのに、きょう見ると悪くなってたんです。新鮮だから生臭くはないし、食べられるんですが……」とにかく食べたいのでつくってもらったら、「カネはもらえません」。

そのときは代わりに、カミサンが「復興わかめ」とこんにゃくを買った。今回は――。目の前に真空パックのサンマのみりん干しがあった。4枚入っている。それを買った。

日曜日ごとに、若ダンナから魚の最新情報を仕入れる。「今年(2019年)は、サンマはさっぱりです」。そんな話を聞いたのは秋口だったか。海水温が高いので南下して来ない。漁場が遠い。戻るまでに鮮度が落ちる。魚体が小さい。脂がのっていない。それで、今年はサンマの宅配便をあきらめた。

そのサンマがぼちぼち入るようになったらしい。10月下旬に行くと、みりんだれに漬けたサンマが干してあった=写真右。

いわき(小名浜港)への初水揚げは、なんときのう(11月18日)にずれこんだ。夕刊のいわき民報が伝えている=写真下。地元の仲買人のコメントから厳しい現実が続いていることを知る。「遠方から船を小名浜に呼ぶと時間や費用がかかり鮮度も落ち、(気仙沼が漁場であれば)車で買い付けに行ったほうが現実的」
カツオの話に戻る。生の9切れは脂がのっていてうまかった。いつもの刺し身の味だった。ひやまは、主にカミサンが食べた。きのう水揚げしたサンマは常磐沖で捕れた。刺し身にできる型のよさだったという。今度の日曜日は、カツオがダメならサンマの刺し身にするか。水揚げが続けば、の話だが。

2019年11月18日月曜日

台風19号㉝サケのやな場

何日か前、フェイスブックに好間川を泳ぐサケの動画がアップされていた。「そういう季節になったか」という感慨よりは、「おやおや、上流へどんどん遡上(そじょう)しているにちがいない」という心配が先行した。
夏井川鮭増殖組合員でもなんでもない。街への行き帰り、夏井川を眺めているだけの人間だ。眺めているからこそ変化がわかる。

毎年秋、夏井川河口から5キロほど上流の右岸・平山崎と左岸・平中神谷の間に、サケのやな場ができる。今年(2019年)は9月下旬の3連休に、やなをつくる作業が行われた=写真上1。そのやな場が3週間後、台風19号の大水で水没した。

やなは鉄製で、ドラム缶の浮力を利用して斜めに架けられる。右岸にはこれまた鉄柵の生簀(いけす)がやなに接続して設けられる。やなで遡上を遮り、生簀にサケを誘導して、玉網(たも)ですくい揚げ、下流の孵化場へ運ぶ。ときには組合員がやなにたまったごみを除去する、やなの直下で投網を打つ、といったことが行われるのだが、今季は台風前に1、2度見た程度だ。
  この1カ月、台風とそれに続く大雨の影響でやなが水没したままだった。きのう(11月17日)午後、街へ行くのに堤防を通ると、ようやくやなが姿を現していた=写真上2。

川が増水すれば、「ふるさとの川」へ戻ってきたサケは、やなを越えて上流へ向かう。毎年、支流の新川や好間川でサケが見られるのはそのためだ。今年はやなの水没日数が長かった。例年以上に上流へ向かうサケが多かったのではないか。

 東日本大震災の前は、やなのある左岸にテントが張られ、柱に「サケ売ります メス一尾1500円」の札が取り付けられていたこともある。

いわき市の北、双葉郡楢葉町の木戸川では2015年、震災で中断されていたサケ漁が再開し、一本釣りも2日間だけ試験的に復活した。

同川のサケ増殖事業は、夏井川の比ではない。採捕尾数は震災前の2009年度8万5千弱、翌年度3万8千弱と際立って多かった。一本釣りはサケの有効利用調査という名目で、一日40人限定で1カ月間実施されてていた。ここも今季は台風19号の影響でさんざんだった。先日、テレビが報じていた。

2019年11月17日日曜日

吉野せい作品のフィクション性

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』は、昭和50(1975)年春、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。前者は「女流作家の優れた作品」、後者は「各年の優れたノンフィクション作品」に贈られる(田村俊子賞は同52年で終了した。受賞作品には創作が多い)。
 この何年か、自分のために『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。文学的な解釈の前に、作品に出てくる事象・事物を調べ、注釈を増やしていくことで作品の背景が明確になってくる、と考えてのことだが、それ以上に新たな疑問がわいてきた。『洟をたらした神』はほんとうにノンフィクション作品なのか――。

せいは『洟をたらした神』の「あとがき」に書いている。これらの作品は「その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです」。注釈が増えていくごとに、「生活の真実」をめぐる疑問と、ノンフィクション/フィクションのゆらぎが大きくなる。

「生活の真実」に基づく作品を、ノンフィクションとして狭くとらえるか、「事実」を越えて「真実」を描こうとした創作=フィクションとみるか。ノンフィクション作品には違いないが、フィクション的な要素もかなり入っている――というのが、現段階での私の結論だ。

 今年(2019年)7月、せいの新しい評伝が刊行された。茨城県北茨城市出身の作家小沢美智恵さんが書いた『評伝 吉野せい メロスの群れ』(シングルカット社)だ=写真右。一読、ノンフィクション/フィクションのゆらぎという点で、問題意識を共有できると感じた。

 作品「ダムのかげ」に、私と同じ疑問を抱いてフィクション性を探っている。「作品末には『昭和6年夏』のことと記されているが、当時の新聞等を調べても、せいの住む近隣で、その年には炭鉱事故は起きていない」「昭和4年(1929)8月には、近くの古河好間炭鉱で出水事故が起き1名殉職者が出ているが、作品のように彼が最後まで職責をつらぬき非常ベルを鳴らしつづけたという事実は確認できない」

 それはそうだけど――と思いつつも、昭和4年8月の出水事故では「勇敢にも坑内に居残り、他入坑者の救助に努めた為め逃げ場を失ひ、遂ひに溺死した」(磐城新聞)人間がいる。この新聞記事には、非常ベルうんぬんの話は出てこない。しかし、他者のためにわが身を投げ出した、という点では作品と通底する。

 それだけではない。新聞記事にある殉職者の名前と、「ダムのかげ」の主人公の名前を比較・検討すると、間違いなく彼が「ダムのかげ」のモデルだった、という確信が生まれる。末尾にある「昭和6年夏のこと」は、だから「事実」(史実)に矮小化されたくないためのはぐらかし、仕掛けなのではないか

「浅川藤一(あさかわ・とういち)」。これが殉職者の名前だ。「ダムのかげ」では、「尾作新八(おさく・しんぱち)」(「おさく」は「おざく」かもしれない)として出てくる。せいがモデルにしたと考える私の根拠は、苗字の語呂にある。アサカワを早口で繰り返していると、アサカー→オサカー→オサカ→オサク(オザク)に変化する。トウイチに対するシンパチ、これも「一か八か」から容易に連想できる。

 実はきのう(11月16日)、いわき市文化センター視聴覚教室でいわき地域学會の第352回市民講座が開かれた。私が、「吉野せい『ダムのかげ』のモデル考」と題して話した=写真上。

たまたま同センター大ホールで、市主催の「安藤信正公生誕200年記念シンポジウム」が同時間帯に開かれた。そちらに引っ張られて10人も聴きに来れば御の字と思っていたら、常連のほかに、吉野せいファンの旧知の人間が1人、もう1人とやって来た。結局、二十数人が来てくれた。ありがたかった。

小沢さんは、ほかにも公開されていない「日記・ノート」の存在に言及し、「書くこと」についても「人間は、どんな状況に置かれても、常にそこから自分を成長させ、深める要素を見つけているのではないだろうか。せいにとってそれは『書く』ことだった」、つまり少女時代から老年まで書くことの意識は途切れることなく続いていた、とする。

問題意識を広く共有できることがわかったが、それは、小沢さんがいわき市の南隣・北茨城出身ということも関係しているのではないか。

2019年11月16日土曜日

白菜を干して漬ける

 きのう(11月15日)は、朝から小春日になった。朝食の前に、前日、道の駅よつくら港から買って来た白菜2玉を八つ割りにして干した=写真下。
 買って来てすぐ干してもよかったのだが、風が強かった。ほこりが白菜の葉の間にもぐりこむかもしれない。一日たつと、絶好の快晴・無風。よし! 気合を入れて、夏の漬物から冬の漬物に切り替えることにした。

 夏場は糠漬け、冬場は白菜漬け――。わが家では、これがメーンの漬物だ。私が漬ける。

 糠漬けはあらかたキュウリ。たまにカブ、大根、ニンジンも漬ける。キュウリは自分で栽培する。知人からもお福分けが届く。それで夏の一時期、糠床はキュウリでいっぱいになる。すぐ食卓に出す分を除けば、古漬けにして冷蔵庫に保管する。その日の朝に漬けて昼、あるいは夜、食卓に出す浅漬けと、古漬けを交互に食べる。

古漬けは薄切りにして水につけ、少し塩分を減らしてからご飯と一緒にかきこむ。熟したキュウリよりは未熟なキュウリの方がパリパリして食欲をそそる。

 一時は何十本とあった古漬けも、11月中旬の今は2本だけに減った。糠床に入れる野菜もない。ほかの家では冬も糠漬けをつくるというが、真冬の糠床の冷たさが耐えられない。で、師走になると糠床に食塩のふとんを敷いて冬眠させ、白菜漬けに切り替える。それを今年は半月ほど早くした。

 香りづけのユズは、日曜日(11月10日)、平の中心市街地で開かれた「三町目ジャンボリー」で手に入れた。翌日、フェイスブックで道の駅よつくら港に白菜が入荷したことを知る。ユズと同様、風味と彩り、殺菌のための鷹の爪は、夏井川渓谷の隠居で栽培した。夏以降、実がなって赤く熟したのを収穫した(八つ割りにした白菜の写真に写っているのがそれ)。
 必要なものはそろった。白菜も昆布もある。ということで、きのうの昼食後、甕(かめ)を出して、ユズの皮と鷹の爪を刻み、白菜を取り込んで漬け込んだ=写真上1。
 さあ、あとは1週間のうちに、糠床を冬眠させる。古漬けのキュウリも食べ終える。そのころには最初の白菜漬けが食べられる――そんなことを想像しながら、座卓に足を突っ込んで休んでいたら、足カバーのヘリをうごめくモノがいる。透き通った緑色の尺取虫だ=写真上2。

ネットで調べると、ハスモンヨトウの幼虫らしい。なぜ、今、ここに? しばらく考えて、白菜とつながった。

白菜にしがみついていたのではないか。ハスモンヨトウは白菜も食害する。朝、八つ割りにしているときに、驚いて逃げ出し、私のズボンか上着に避難したのが、座卓で仕事をしているうちに、足カバーに移ったのだろう。家においてもしかたがない、ここは外へ出てもらう。これを逆から見れば、買って来た白菜は虫が付くほど安全だ、ということになる。

2019年11月15日金曜日

台風19号㉜浸水区域図

「背が立たぬ 母連れ外へ そこは濁流/孝行息子に雨は無情/台風19号 いわき」。字余り俳句のような見出しだった。記事には、後輩の母親と後輩ら子ども2人の「そのとき」の様子が記されていた=写真下。自責する兄(71)、気遣う弟(65)のことばに、目が潤んだ。
きのう(11月14日)の朝日新聞福島版――。母親は97歳。平屋建ての家で、車いすの生活を余儀なくされていた。食事やトイレには助けが必要だ。後輩の兄はここ2年、毎晩、母親の自宅に泊まって母親の介助を続けた。

10月12日夜、台風19号の大雨で床上浸水が始まった。翌朝4時ごろ、水は背丈を越えた。「もうダメだ」。後輩の兄は母親と一緒に脱出することを決意し、近くの夏井川の堤防へと、水に浮くマットレスに母親を乗せて泳ぎ出した。後輩は、兄からの電話で海水パンツをはいて救助に向かう。しかし、堤防から車のヘッドライトを照らして逃げる方向を伝えることしかできなかった。母親と兄はたちまち濁流にのみ込まれた。

母親は3日後、下流で、遺体で見つかる。後輩の兄はさらに下流で救助され、低体温症で2週間入院した。
  兄は悩む。「意識ある人間を連れ出して、川の中に放り出してしまった。おれの責任は相当ある」。弟は兄を気遣う。「家を出て5、6秒。あっという間に流された。兄は親孝行で母親の面倒をよくみていた。母親を助けようとしてやったことだ」。――目の前で母親を失った2人の心情がよくわかる記事だった。

先に、いわき市が「浸水区域図」(暫定)を公表した。夏井川水系は、扇状地の小川町から支流の好間川、新川を含めて、いわき駅を中心とした市街地周辺の北西~西~南西部がピンクに染まっている=写真上。

そこに、川の越水、決壊ポイントを重ねてみる。本流の蛇行、現地の地形、土地利用などは、前に住んでいたところ(下平窪)だけでなく、わが生活圏の周縁でよく行ったり来たりしているので、おおむね頭に入っている。これに、フェイスブックで知った画像や文字情報を加えると、濁流と浸水のすさまじさが想像できる。いや、そうして洪水の状況を立体化、可視化しないことには水害の実態がよくわからない。

夏井川の本流だけに限っても、小川町で右岸1カ所・左岸2カ所が決壊した。そこから下って、平・赤井の右岸で越水、さらに下流の平・下平窪では左岸3カ所が決壊、さらに下流左岸、平・鯨岡で決壊と、人口集中地域で水害が発生した。

水害区域図では、北西から南東へ下ってきた夏井川が東進するあたりで無印になる。その無印のところにわが神谷地区がある。たまたま今回は無印に終わった。色の範囲が左(西)ではなく、右(東)にきていてもおかしくなかった。

後輩の母親の家は、夏井川左岸のピンクの先端部、駅から平橋を渡って平商業高校へと向かう、その橋の左岸たもとにある。そばの夏井川よりは、堤防をはさんだ山側(住宅地と田畑が続く)の上流・平窪方面から中塩、幕ノ内へと濁流が広がり、家々を浸水したのだろう。

下平窪ではカミサンの同級生の家が、それに隣接する下流・中塩では知人の娘さんの家が浸水した。それらをつなぐと浸水区域の広さが浮かび上がる。

テレビのうしろの壁には2011年3月のカレンダーが張ってある。この浸水区域図も、戒め・教訓としてそこへ張ることにする。

2019年11月14日木曜日

台風19号㉛「キノコは大不作」

ちょうど1週間前(11月7日)のことだ。好間町榊小屋のギャラリー「木もれび」で冨田武子さんの小品展が始まり、閉廊間際に飛び込んだ。冨田さんは、私が加わっているいわきキノコ同好会の会長でもある。作品とは別に、現実のキノコの話になった。「今年(2019年)は大不作」という。
  梅雨は曇雨天続きだった。夏も8月後半以降、梅雨のような天気が続いた。さらに10月12日・台風19号、同25日・大雨がいわきを襲った。キノコ大不作は、天候不順に加えてこの過剰な雨も一因ではなかったか。

下流の平地(平・神谷)と中流の渓谷(小川町)の2カ所で、夏井川の定点観測をしているとわかる。通常、平地では中洲ができて川底が見えるくらいに流量が少ない。渓谷の籠場の滝もおとなしい。それが、台風19号と大雨の影響で、いまだに水量が多く流れが速い。籠場の滝もドドドドッと勢いがある。水源地の阿武隈の山々はまだ雨水を吐き出しきれずにいるようだ。

ちょうど秋のキノコが続々と発生するころ、台風が直撃した。大雨が追い打ちをかけた。いいお湿りと気温の低下に刺激されて地上に姿をあらわしたとたん、雨にたたかれた――そんな図を想像してしまう。

いわきキノコ同好会は年に3回、山へ出かけて観察会を開く。ドクターストップがかかってからは、参加は控えているが、今年3回目の開催がたまたま10月12日に予定されていた。1週間延期の連絡が入った。「木もれび」で冨田さんから聞いたところでは、結局、それも中止になった。浸水・断水被害に見舞われた会員もいたことだろう。

原発震災以来、「キノコ採り」は「キノコ撮り」に変わった。採取するのは、全面除染で土を入れ替えた夏井川渓谷の隠居の庭に発生するキノコだけ。この秋は若いモミの木の下に、モミと共生するアカモミタケが発生した。台風19号後の10月27日に発生を確認し、1週間後に再び採った。最初は吸い物=写真、次に炊き込みご飯にした。

8月後半から9月前半にかけては、キノコは豊作になるのでは、と思われた。が、キノコにとっても受難の秋になった。「ほどほどの天気」は過去の話になってしまったのだろうか。

そういえば、ここしばらく“でかナメコ”と豆腐の味噌汁を食べていない。たまたま“でかナメコ”が残っているうちにスーパーへ買い物に行ったので、買うのを控えたら冷蔵庫から消えた。

  けさはがまんできなくなった。朝食をすませてから道の駅よつくら港へ行く。白菜と“でかナメコ”、ネギ、梅干しを買う。道の駅はまちのスーパーでもある。大型店とは違った産直ルートがある。そのルートで入る“珍品”を見るだけでも目が喜ぶ。


2019年11月13日水曜日

台風19号㉚浸食・運搬・堆積

台風19号から1カ月たった今も、夏井川水系の被災地区を巡ると胸が痛む。日曜日(11月10日)にカミサンの友達の家(平・平窪)に寄ると、庭に水害ごみが出ていた。ボランティアに助けられて物置の中を片付けたようだ。
わが生活エリアの旧神谷村地区でも、平市街に最も近い鎌田と隣接する塩で浸水被害が出た。

塩の下流、中神谷に住む。街への行き帰り、堤防を利用して夏井川を眺める。大水の前と後とでは河川敷の風景が一変した。川は暴れると恐ろしい――それをまざまざと実感させられる。

古代の川はヤマタノオロチだった。流路が定まらなかった。今は堤防でがっちり動きを封じている。が、現代の川は1匹になってもオロチにはちがいない。支流の小河川を含めて暴れると、ヤマタどころか“アマタノオロチ”になる。それが、今度の台風19号だった。

かつて平の夏井川で「ふるさとの川づくり」事業が行われた。親水空間をつくるのが目的だった。鎌田では川幅が広げられ、広場や水辺に向かって階段が設けられた。ところが、その結果なのか、徐々に中洲があらわれた。中洲は年々肥大して中島になった。ちょっとした船のようになった中島が、今度の19号の大水で浸食され、水面ぎりぎりまで堆積土砂が流された。それについては前に書いた。

「河川の3作用」を学校で習った記憶がある。浸食・運搬・堆積のことをいう。岩石が侵食されて岩くずになり、土砂とともに流され(運搬)、流れがゆるやかになった下流にそれらが堆積する。

大水は流速と流量次第で上・中・下流どこにでも、大小さまざまなごみを置き土産にする。と同時に、岸辺にあるヤナギを根こそぎ流し、堆積土砂をも流す。

 夏井川の河川敷にサイクリングロードが設けられている。中神谷の下流にある北部浄化センター付近では、およそ50メートルにわたって流木その他が残り、サイクリングロードをふさいでいる、ということも以前書いた。

神谷の対岸、山崎では10年ほど前、河川拡幅を兼ねて土砂除去が行われ、野球場ができるような広大な河川敷ができた。それが、水辺にヤナギが生え、河畔林になって、前より川幅が狭いくらいになった。そのヤナギたちが流され、なぎ倒されて、見晴らしがきくようになった=写真上。

と思えば、神谷側、サイクリングロードは流れ着いた土砂で砂場のようになっている=写真下。厚いところでは1メートル近く堆積しているのではないか。
鎌田から中神谷まではおよそ3キロ。その短い区間だけでも河川の3作用が見てとれる。アマタノオロチを鎮めるために、神谷では出羽神社の祭礼に川までみこしが繰り出し、みそぎをする。地球温暖化で海水温が上昇し、かつてない大雨がたびたび襲うようになれば、みそぎだけではすまされない?