2019年12月31日火曜日

オオハクチョウ飛来

2019年もきょう(12月31日)一日限り。きのうは年賀はがきの文章(近況報告のようなもの)を考えて、印刷した。印刷中にカミサンがはがきを手に取る。「自分のことばっかり」。さわらぬカミサンにたたりなし――で、10枚くらいは印刷をしないで残した。
午後は街へ出かけ、銀行でカネを下ろした足でガソリンスタンドへ向かった。スタンドはわが家から四倉寄り、下神谷の旧道沿いにある。夏井川の堤防を利用しても行ける。

川を見ながらコハクチョウの越冬地、夏井川と新川の合流点に近づく。まだ3時前だ。コハクチョウたちは四倉や高久などの田んぼに遠征しているから、1羽もいない。が――。カーブしているので見えなかったが、堤防直下の高水敷に5羽、9羽=写真、計14羽が羽を休めていた。くちばしの黒色と黄色のあんばいからいうと、黄色が多い。コハクチョウではなく、オオハクチョウだ。到着したばかりのようだった。

 長谷川博著『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)の文章を思い出す。コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ帯で営巣・育雛する。オオハクチョウはそれより南の森林ツンドラからタイガ(針葉樹林)帯で繁殖する。越冬地はその逆で、オオハクチョウはコハクチョウより北で越冬する。ということは、北国もだんだん凍(しば)れてきたのだろう。

 飛行ルートも想像してみる。3年前、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる樺太(現サハリン)を旅した。ユジノサハリンスクから北の元泊(ボストチヌイ)へ行き、賢治ゆかりの栄浜(スタロドゥブスコエ)へ戻る途中、白鳥湖に寄った。白鳥湖は、北極圏で繁殖し、日本などで越冬するハクチョウたちが南下・北上するときの休憩地だ。

それはさておき――。ヒーターとストーブに使う灯油のスペアがない。孫のお年玉を用意しないといけない。焼酎の田苑とビールも買わないといけない。ガソリンはちょっと前に満タンにした。白菜漬けは、新しいのがある。頼まれた原稿は手つかずだが、越年してもなんとかなる……。ここ1、2日、そんなことばかりが頭をよぎった。

それでも28日が日曜日だったため、おとといときのうで正月を迎える準備はあらかた済んだ。おかげで今年は、尻に火が付いたような感覚はない。むしろ、正月を迎え撃つような気分だ。

ただし、最後の仕事が残っている。1月1日付の広報いわきを、これから区の役員さんに届ける。ほんとうはきのう配りたかったのだが、雨で一日延ばした。それがすまないと、紅白歌合戦ものんびり楽しめない。

2019年12月30日月曜日

イノシシとノネズミ

 イノシシの破壊力にあらためて仰天――。今年(2019年)最後の日曜日(12月29日)は快晴、無風。「正月様」を飾りに、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。
  災害時外国籍住民等支援ボランティア研修会(1日)、カミサンの実家のもちつき手伝い(15日)、孫のクリスマスプレゼント買い(22日)と続いて、師走の日曜日に隠居へ行ってゆったりした気分で過ごすのは8日以来、3週間ぶりだった(平日の17日、川前まで写真を撮りに行った帰りに隠居へ寄ったが、すぐ離れた)。

 隠居に着いてすぐ庭を見たカミサンが苦笑しながらいう。「またイノシシが……」。庭のラッセル痕が半月前より広がっていた。シダレザクラの木の下は、前は疊1枚分くらいだったが、3枚くらいに拡大している。しかも、掘り返したあとが深い。

 菜園に生ごみを埋め、隠居で本を読み、昼めしを食べて一休みをしてから、周辺を歩いてみた。

 隠居の隣は水力発電所の社宅跡だ。駐車場を兼ねた広場になっている。谷の方からみると、吊り橋と同じ高さで最初の広場があり、そこから石垣と盛り土でがっちり固めた上部に、社宅跡が2段になって広がっている。

下の社宅跡の南東隅、隠居との境に大きなモミの木がそびえている。その根元から下の土手が、およそ幅3メートル、長さ20メートルにわたってほじくり返されていた=写真上。前は土手も広場も草で覆われていた。がっちり土の流出を抑えていた草の根がどこにもない。雨が降ればむきだしの土砂が流れ出す。

ここまでやるのはイノシシしかいない。しかも1頭や2頭ではない、群れをなして、地中にひそむミミズなんかを狙って斜面をラッセルしたのではないか。わが隠居の庭のラッセルはこれに比べたら、月とスッポン、ブルドーザーと鍬、くらいにかわいい。それほど激しく土手がほじくり返されている。

街にいるかぎりは、人間と人間の関係を規定するルールやマナーに覆われて、“カオス”は見えない。しかし、人間と自然の関係がむきだしになる渓谷では、あちこちに“カオス”的状況が発生する。先の台風19号での小規模土石流、道路冠水、護岸損壊などがいい例だ。生きもののふるまいも、ときどき“カオス”になる。イノシシの破壊力、その際限のなさ――に言葉を失った。

あとでカミサンが石垣の下の広場で黒い塊を見つけた。「イノシシの糞(ふん)?」というので、確かめに行くとそうだった=写真下。前に対岸の森の中で見たときには、脱糞したばかりだったのか、黒い碁石をやわらかくして重ねたような感じだったが、こちらの“碁石”は乾いてひびが入っていた。少し時間がたっているようだ。
 それからの連想――。イノシシたちは対岸の山から、水力発電所のつり橋を渡ってこちらへやって来た。モミの木の下で地面をほじくり返しているうちに、若い1頭か2頭がわが隠居へ越境して、少しラッセルした。それをまた別の日にもやった。帰りには一番下の広場で、ゆうゆうと脱糞して。

ついでにいうと、カミサンが「イノシシが……」といったあと、隠居の玄関を開けて中に入ると、上がりかまちにノネズミの黒い糞がこびりついていた。十二支でいえば、今年(2019年)は亥(い=イノシシ)、来年は子(ね=ネズミ)。だからどうなんだ、といわれたら、そうですね、というしかないが、あらためて年の瀬と、来年、年男だという自覚だけは深まった。

2019年12月29日日曜日

献身護空の碑

 上の孫(小6)がサッカーの試合に出るというので、きのう(12月28日)朝、いわき新舞子ヴィレッジへ出かけた。家にいる分には晴れて穏やかな年末だが、フィールドの外の外、駐車場から観戦していると、猛烈な北風に体が凍えてくる。前半=写真下1=は我慢して見ていたが、後半、双眼鏡で孫が交代したのを確かめると退散した。
 帰りは滑津川河口から県道豊間四倉線、通称・海岸道路に出て、新舞子の防風林のなかを縦断した。途中に藤間沼がある。北国から渡って来たカモが休んでいるかもしれない。バードウオッチングは一瞬でいい。車からチラッと見ると、種類はわからないがカモが1羽いた。あとはただ水面が縮緬のようにゆれているだけ。

 そのまま通り過ぎようとしたら、南と北の沼の境にあるゆるやかな太鼓橋の手前、カモたちがオカに上がって盛んに何かをついばんでいる=写真下2。体色と模様から、ヒドリガモらしかった。えさは緑の残る草、あるいは草の種子か。
  太鼓橋の奥の右側には公衆トイレ、左側には「献身護空の碑」。忘れていたが、若いときにこの記念碑の話を取材した。

ネットで検索すると、45年前の昭和49(1974)年7月29日付いわき民報がヒットした、「献身護空の碑は藤間公園に/航空記念日に移転祭/アクロバット飛行も」。記事を書いたときの様子がよみがえった。当時、出入りしていた草野美術ホールのオーナー、「おっちゃん」こと草野健さんが情報を提供した。記念碑の移設は草野さんの悲願でもあった。

 前文(少し修正してある)。「海岸浸食を防ぐ護岸工事の影響で、なかば土砂に埋もれていたいわき市平藤間の新舞子海岸にある『献身護空の碑』が近く、いわき少飛会(〇×会長、36人)の手で約120メートル北西の松林(藤間公園)の中に移転される。9月15日には殉職者の遺族や建立当時の関係者などを招いて入魂式を行うほか、チャーター機によるアクロバット飛行、陸上自衛隊郡山駐とん地の音楽隊による慰霊吹奏が計画されている」

 本文によると、昭和10(1935)年8月28日、荒天をついて青森から浜松飛行学校へ向かう途中の九三式双発軽爆撃機が故障し、新舞子海岸に不時着を試みたが失敗、搭乗していた2人が死亡した。地元民が中心になって2人の冥福を祈ろうと奔走、翌年7月、なぎさから300メートル離れたところに「献身護空」と刻まれた砲弾型の記念碑が建立された。

 ところがその後、海岸浸食が進み、昭和40年代には記念碑からなぎさまでは40メートル前後という状況になった。それまでひとり、同碑の清掃をしてきた航空兵出身の草野さんが、元少年飛行兵の集まりであるいわき少飛会などにはたらきかけて移設を実現した。

平成23(2011)年3月11日の大津波では、新舞子海岸の黒松林は後背地の家や田畑を守る“クッション”になった。しかし、松は地中にしみこんだ塩分を根が吸い上げ、浸透圧によって脱水症状を起こしたため、やがて遠目にも葉が枯れて“茶髪”になり、密林から疎林に変わった。藤間沼と道路の間にあった若い黒松も立ち枯れた。「献身護空の碑」はこのとき、どうだったのだろう。

今ではすっかり忘れられた記念碑である。私もふだんは忘れている。拙ブログでも触れたことがないので、備忘録のつもりで紹介した。

図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を利用していわき民報を読めば、移転慰霊祭の様子もわかる。さらに、戦前、いわき地方で発行された地域新聞を読むこともできる。当時の記事には、青森へ北上中、事故に遭った、とある。こういうときに、聞き書き主体の新聞のもろさが出る。南下か北上か――も含めて、遭難の経緯を洗い直さないといけないようだ。

2019年12月28日土曜日

「かもめ」の意志の力

 モーターパラグライダーで空撮を続けるいわき市の酒井英治さんが、年明けに「かもめの視線4」を発売する=写真(酒井さんのフェイスブックから)。
酒井さんは東日本大震災の前からいわきの海を空撮し、震災後も沿岸部の被災の様子や、その後の復旧・復興の姿を空から追い続けている。前作(2013年)から6年間撮りためた膨大な撮影データと向き合うこと半年。ようやく「かもめの視線4」の編集が終わったので――と、先週の火曜日(12月17日)、酒井さんから“デモ盤”の恵贈にあずかった。

酒井さんによると、「かもめの視線4」はこんな構成だ。本編46分(かもめの視線4:26分、写真スライドショー:5分、曲を担当したアベマンセイさんの演奏風景:15分)。これに、「いわきの沿岸部 変化の記録」と題した特典映像131分が加わる。ざっと3時間。「それ以上短くすることはできなかった」ともいう。

きのう(12月27日)までに3回、デモ盤を見た。まず、映像が美しい。夜明け、夕日、霧の灯台、エメラルドグリーンの海、満開の海岸林のヤマザクラ、小名浜の花火大会……。エンターテインメント性もあるし、学術的に貴重なものもある。いわき地域学會が2016年末、『いわきの地誌』を発刊した際には、好間川のV字谷、津波被災に遭った沿岸部の空撮写真などを借りた。「かもめの視線4」にはV字谷も入っている。

60キロに及ぶいわきの海岸線は、断崖と砂浜が交互に続く。「いわき七浜」といわれるゆえんだが、「七」は、ハマが七つではなく、いっぱいあるという意味だ。酒井さんは特典映像で、北から末続・久之浜・波立・四倉・新舞子・沼ノ内・薄磯・豊間・二見ケ浦・江名・中之作・永崎・神白・小名浜・小浜・岩間・須賀・勿来の順に、18地区の変遷を追う。

薄磯、豊間はとりわけ大津波にのまれて激変した。震災前、薄磯の海岸堤防のそばに喫茶店「サーフィン」があった。ママさんがキルティングをやるので、カミサンが扱っている古裂れを買いに来る、私ら夫婦がコーヒーを飲みに行く、といったことをしていた。

大津波では店が流され、地続きの自宅が残った。命は幸い助かった。薄磯でポツンと残った家が酒井さんの空撮動画に映っている。それがやがて解体される様子も。つい個人的なつながりで映像を追ってしまう。(サーフィンは今、高台移転のために切り開かれた山側のふもとに新築・営業をしている)

何を撮るのか、なぜ撮るのか――。酒井さんの空撮動画を見ていると、そんな問いかけなどどこかへ吹き飛んでしまう。ふるさとへの愛、そして同じエリアを撮り続ける意志、肉体的には厳しい高みまで舞い上がる意志。その意志の力が11月29日、小名浜のマリンタワーを入れて富士山を撮るという念願をかなえた。本編の写真スライドショーにも富士山が入っている。

余人のマネのできない「かもめの視線」という独自性、そしてアーカイブとしての価値、それを担保する表現力。それがどこから生まれてくるのか、繰り返し見ていると、おのずとわかってくる。

2019年12月27日金曜日

中村哲と沢村勘兵衛

 街へは国道を利用して行き、帰りは夏井川の堤防を戻る。自称リバーウオッチャーとしては、川や河原に異変があればすぐ気づく。10月の台風19号の大水では、右岸のヤナギがなぎ倒された。岸辺の緑がえぐられ、堆積土壌がむきだしになったところもある=写真下1。(左岸は平・鎌田~中神谷間、右岸は同・北白土~山崎間の話)
 川の堤防は水の氾濫を防ぎ、人間の生命と財産を守るために設けられる。それで、人間の住む側は堤内、川のある側は堤外と呼ぶ。堤外には流水が運んできた土砂が堆積する。堆積するだけでなく、岸がえぐられて土砂が流されもする。川の3作用=浸食・運搬・堆積がどこかで絶えず繰り返されている。

 土砂がたまった河川敷では、いつの間にか、だれかが鍬を入れ、野菜を栽培するようになった。今回えぐられた岸辺にも畑が広がっている。撮影データを拡大すると、ネギが植わってある。大根と白菜もある。川に近い部分は大水が運んできた土砂で白く覆われている。

 この10~11月と、川の恩恵と猛威について繰り返し考えてきた。そこへ、アフガニスタンで人道支援を続けていた医師中村哲さん(73)の死が伝えられた。運転手や護衛ら5人とともに車で移動中、銃撃されて亡くなった。
 階段に積み重ねてある本のなかから、中村さんの『医者、用水路を拓く――アフガンの大地から世界の虚構に挑む』(石風社)=写真上=を引っ張り出して、寝床で読んでいる。前半の第3章「砂漠を緑に――緑の大地計画と用水路建設の開始」に差しかかったところだが、日本の江戸時代の土木技術を応用することを思いつくあたりから、俄然おもしろくなってきた。

 川から取水し、用水路へと誘導するために、「斜め堰」「蛇籠(じゃかご)工」「柳枝(りゅうし)工」といった日本の中・近世の伝統技術が使われる。壊れたら、自分たちで直すことができる。蛇篭の石も現地で調達できる。中村さんが参考にしたのは、ふるさと・福岡県の筑後川に設けられた「山田堰」だ。日本の代表的な斜め堰として知られる。

 斜め堰なら夏井川にもある。小川町・三島地内。夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の七段の白い水の調べが美しい=写真下2(グーグルアースから)。最も好きな水の風景のひとつだ。今からざっと350年前の江戸時代前期に築造された。山田堰より歴史は古い。
 この堰によって左岸の小川江筋に水が誘導される。磐城平藩内藤家の郡奉行沢村勘兵衛が江筋の開削を進めた。勘兵衛は、本によっては、のちに切腹を命ぜられた、あるいは追放となった、とある。正しい事績は謎に包まれているという。明治になって勘兵衛の霊をまつるため、農民らの手で平・下神谷に沢村神社がつくられた。

小川江筋の堰を研究した専門家は論文で「約300年以上にわたり大規模な改築もせずに、その機能を十分に果たし、自然景観と調和した美しいたたずまいを醸している」と、高く斜め堰を評価している。さらに、「河川横断構造物の設計にあたり、その位置での河川の流れの特性を見極め、洪水という流れのエネルギーに立ち向かうのでなく、流れに逆らわないやさしい流れを作る視点であるように思われる」ともいっている。

ここを起点にした用水路は終点の四倉まで全長30キロ。現在はいわき市北部の夏井川左岸の水田約970ヘクタールを潤している。堰のすぐ上流には冬、ハクチョウやカモたちが飛来する。

干ばつから用水路開削を決意するという点では、中村哲さんも沢村勘兵衛も同じ。その晩年もなにかしら共通する。夏井川渓谷の隠居へ行く途中、斜め堰の白い水の調べが目に入る。1冊の本を手にして以来、アフガンにできた用水路に小川江筋を重ね、向こうの斜め堰の水の調べを想像してみたりする。

2019年12月26日木曜日

人の記憶の半減期はあまりにも短い

 いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の総会・勉強会が土曜日(12月21日)午後、いわき市文化センターで開かれた。同じ日の午後、同じセンターの同じ階でいわき地域学會の市民講座も開かれた。両方に関係している。キノコ同好会の方が30分早く始まったので、それが終わってから市民講座の会場へ移動した。
 例年だと、キノコ同好会は総会のあとに懇親会が行われる。そのため宵の開催になるのだが、今年(2019年)は台風19号の被害が甚大だったことから、勉強会止まりになった。

勉強会では、会員で石川町の元高校教員阿部武さんが「いわき産キノコの放射線量」と題して話した=写真。根拠にしたのは、冨田会長がいわき市などのホームページで公表されているデータをまとめて、年1回、会報に掲載している「キノコに降りかかった原発事故」だ。

それらのデータから、事故から7年たった2018年時点でも、キノコの線量に大きな変化はない、つまり線量は減っていないと、阿部さんはいう。その理由は、森に降ったセシウムをキノコの菌糸が集めてくるからだ。

キノコを植物にたとえると、地中に根(菌糸)を張り巡らして栄養を集め、子孫を残すために花(子実体)を咲かせて種子(胞子)を拡散する。その過程でカリウムに似たセシウムを取り込む。セシウムの吸収―放出―吸収という循環が森の中で行われているために、キノコは何年たっても線量が高いまま、ということになる。

セシウム134の半減期はおよそ2年、同137は30年。チェルノブイリ原発事故は1986年4月に起きた。セシウム137は3年前の2016年4月に半減期を迎えた。その時点での線量データがどこかにないものか。

ネットで検索したら、東京新聞の記事(2016年4月26日付)がヒットした。福島とチェルノブイリ周辺で被ばく調査を続けている独協医科大の木村真三准教授に記者が同行した。人々が暮らす村で食べ物や土壌を採取して調べた。その結果、何を食べたかで数値が極端に上下した。主な原因はキノコだという。

  ある家族は、娘たちにはキノコ料理を「なるべく食べさせないように、普段から気を付けている」と答えている。それは当然として、半減期を迎えたセシウム137の線量そのもののデータはなかった。

代わりに、至言といってもいいような言葉に出合った。発語者はベラルーシの赤十字赤新月社の事務局長氏。「セシウム137の半減期は30年だが、人の記憶の半減期はそれよりも、あまりに短い」。自然と向き合うことなく、街だけで暮らしが完結している人にとっては、原発事故の記憶の半減期はセシウム134並みに短い? 私も、キノコに興味・関心がなければ、とっくに森の放射線量のことは忘れていただろう。

2019年12月25日水曜日

ハギヤキとハミガキ

 きのう(12月24日)の昼、いつものようにこたつでテレビニュースを見ながらご飯を食べた。終わってBSプレミアムに切り替えたら、「イッピン」をやっていた。
山口県の萩市の香炉がアップされた=写真。「萩焼かな」というと、「歯磨き?」と聞き返す。カミサンには「ハギヤキ」が「ハミガキ」に聞こえたらしい。言葉を発する口も、それを受け止める耳もだいぶ衰えてきた。目だってこのごろは焦点がぼやけて、文字を誤読するようになった。

詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(1927~2005年)が、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。「作品一」は「老眼を<花眼>というそうな」で始まる。

2行目以降。「視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは<花眼>の意味について考える。「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」

いやいや、そんなことがあるはずはない。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」

この詩集の恵贈にあずかったとき、私は38歳、草野さんは59歳だった。それから30年余りたった今、「花眼」の現実にさらされている。私も<幸い>を<辛い>、<妻>を<毒>と読み違えたりする。

 少し前に遠近両用から老眼に合わせた眼鏡を新調した。眼鏡の上部で文章を読むと字がぼやける。先日、ネットに載った文章をそうして読んでいたら、まど・みちおの「ぞうさん ぞうさん……」を「ぞうきん ぞうきん……」と「ぞうさん」のメロディーにのせて歌っていた。なんで「ぞうきん、なんだ」とわれながらおかしくなった。


「イグアスの滝」が「イグアナの滝」になり、「スーラー野菜湯麺(タンメン)」が「ソーラー野菜湯麺」に、「フォアグラ」が「フェラガモ」に化ける。幼い子は大きくなるにつれて類音を区別するが、年をとった大人は逆に類音の区別がゆるやかになっていくのだろう。

「手はふるう足はよろつく歯は抜ける耳は聞こえず目はうとくなる」。江戸中期の俳人(尾張藩士)横井也有(1702~83年)の狂歌が身に染みるこのごろだが、老いの坂道に待っているのはそれだけではない。

 認知症という関門がある。もしかして、という人と出会った。「加齢によるもの忘れ」と「認知症によるもの忘れ」の違いを知らねば――。きのうは朝、ネットから情報を引っ張り出して読み漁った。若いころは「ボケるが勝ち」なんていっていたが、今はボケの現実を身近に見聞きするにつけ、どうやったらそれを遅らせられるか――というふうに変わってきた。

2019年12月24日火曜日

台風19号㊶地図を重ねる

いわき地域学會の第353回市民講座が土曜日(12月21日)、いわき市文化センターで開かれた。パソコンとデジタル技術に詳しい渡辺剛廣幹事が「地図を読む」と題して話した。
去年(2018年)8月に続く地図の話第2弾だ。地図といっても、ネットで利用できる地理院地図や地理情報システム、地図アプリなどのことだ。それらを利用することで、アナログでは想像もつかなかったような新しい視点、知見が得られる。

去年の講座を聴いて、拙ブログにこんなことを書いた。「デジタル化された地図の世界は奥深い。陰影のついた地図から、たとえば好間川のV字谷の様子がわかり、小名浜にあった前方後円墳の形が浮かび上がる。地震や津波、水害などの過去情報も地図化することで、人の生命・財産を守る一助になる――。市民講座では、そうした地図の使い方、古地図と現在の地図を比較する仕組みなども紹介した」

今回も同じように、古地図を含む地図の見方や利用法、防災と地図の話をした。主にいわきの夏井川水系を襲った台風19号については、今と昔の地図に水害区域を重ねながら、土地利用の変遷などを解説した。受講者はあらかたアナログ人間だが、パワーポイントで大きく映し出される映像(地図)=写真=と、自分が住んでいる生活空間を重ね合わせながら見入っていた。

床上浸水に見舞われた平・平窪地区は、かつては水田中心の純農村だった。台風19号が襲来する直前の10月9日、たまたまいわき市の公式フェイスブックに、「いわきの『今むがし』――平窪編」がアップされた。平窪が市街地化される経緯がつづられている。

 それによると、下平窪の地主約50人が「下平窪住宅団地誘致同盟会」を結成し、旧平市に申し入れる。これを受けて市が区画整理事業を計画する。いわき市合併直後の昭和41(1966)年12月、下平窪地区で事業に着手し、5年後には完成した。これを機に、区画整理事業が周辺に波及して、下・中平窪地区は一大市街地に変貌する。

 今の地図だけでなく、古い地図も見ることでその変遷がよくわかる。私は昭和48(1973)年、結婚と同時に下平窪地区の平屋・庭付きの市営住宅に移り、5年ほどそこに住んだ。『今むがし』には、平窪地区に最初の市営住宅が建設されたのは昭和31(1956)年とある。それからほどなく建てられたのではないだろうか。職場からの帰り、夏井川の磐城橋を超えると、平窪方面には水田が広がっていた。

先にいわき市は「浸水区域図」(暫定)を公表した。それも参考にしながら、それぞれの場所の過去と現在をひもといて未来を考える、ということが地球温暖化の時代には必要になってきた。

2019年12月23日月曜日

2019年のクリスマスプレゼント

「いつまであげるの?」と私。「小学生のうちは」とカミサン。孫へのクリスマスプレゼントのことである。誕生祝いと同様、クリスマスプレゼントも孫が欲しいものを、孫がいう店へ連れて行って選ばせる。財布はカミサン、私は運転手役だ。
 サンタクロースがどう、靴下がどう――とやっていたのは、保育園児のころまでで、今は値段をめぐる孫とのリアルな“かけひき”に終始する。

 きのう(12月22日)、小6と小4の孫を家電量販店へ連れて行った。店の一角でプラモデル商品を売っている。これにするか、あれにするか――2人とも悩むこと小一時間。やっと自分のなかでも、「それは無理」といわれない値段との折り合いがついたらしい。

 カミサンは朝、いわき芸術文化交流館「アリオス」の大リハーサル室へ出かけた。「ウェンディ・フェスタ・イン・アリオス~いわきの7地区が大交流」に知人と共に参加し、シャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品などを展示・即売した=写真上。

 で、軍資金をあずかり、上限はこれくらいと想定して、2人を買い物に連れて行ったら、その半分にもいかなかった。買ったらすぐ帰宅というのも味気ない。「バアバにお礼をいいに行こう」というと、素直に従った。

 大リハーサル室の中は歩くのもやっと、というくらいに、ブースと人で込んでいた。下の孫にカメラを渡し、好きなように撮ってみたら、とけしかける。あちこち動き回って、クリスマスツリーや商品、静岡からやって来たというクラウン(ピエロ)、バルーンアート=写真下=などを撮った。
カミサンにもいきなりカメラを向けた。「さわらぬカミサンにたたりなし」で、カミサンの顔写真は、私は撮らない。孫はそんなことにはお構いなしだ。撮影データを拡大すると、なかなかいい具合に写っている。やや下からのアングルと窓からの自然光で、顔に“人生”が表現されている。

 昼前、2人を家へ送り届けながら、車の中でカミサンの写真の話をする。「しわがはっきり写っていたな」と私。すると、上の孫が「そんなことはここでしかいえないよね」。小6なりにいろいろ気を遣うようになった。

 パソコンに取り込んだ撮影データを、あとでカミサンに見せる。「いやーね」といいながらも、「遺影にするかな」。アングルと光線が気に入ったようだ。これはこれで、孫からのクリスマスプレゼント、といえなくもない。

2019年12月22日日曜日

道の駅の「ほっき飯」

きょう(12月22日)は冬至。一番昼が短い日だが、どうもピンとこない。白菜を甕(かめ)に漬けて上がった水には、はやばやと白い産膜酵母が張る。酸味も強くなる。カミサンは酸味の強い古漬けが好きだという。ピンとこない理由はこれ、暖冬気味で推移して寒さが実感しにくいからだろう。
この冬最初の白菜漬けは南向きの台所でつくった。あまりにも早く産膜酵母が張ったので、2回目は北側の階段下に甕を移した。それでもすぐ白い膜が張った。

 白菜は甕の大きさに合わせて、小なら3玉、中なら2玉を6~8つ割りにして漬ける。2回目の白菜漬けが間もなく終わる。

きのう朝、道の駅よつくら港へ白菜を買いに行った。でかナメコもネギもと、買うものを頭のなかで確かめていたら、声がかかった。「ネギは買わないで、余ってるから」。道の駅へ行くたびにネギを買う。それで買って来た赤ネギがまだ残っている。

 道の駅といっても、地元の人間には近くのスーパーとなんら変わらない。小規模生産者にとっては委託販売ができる、しゃれた直売所だ。チェーン展開のスーパーには売っていない赤ネギや松川浦の海苔(のり)などが並ぶ。そうしたローカル色が好きで、ときどき出かける。

 このごろは、昼食用に「ほっき飯」=写真=や「いなり」も買う。ほっき飯は、ホッキ貝の具がたくさん入っている。なかなかいける。きのうは朝9時の開店時間から30分ほど遅れて着いた。「おこわ」はあったが、ほっき飯はまだ棚に並んでいなかった。おこわ200円、いなり230円。これだけで、カミサンは昼食の用意をしないで済む。

 わが家から四倉港まではおよそ7キロ。ふだんは車で5~10分圏内のマルトやヨーカドーで買い物をしている。たまにドライブを兼ねて道の駅へ行きたくなる。山里の直売所巡りも、半分はドライブが目的といっていい。

 ついでの買い物もある。きのうは道の駅の屋内通路でおばあさんが漬物を直売していた。勧めるままにたくわんを試食した。買わないわけにはいかなくなった。一袋100円だという。震災前は原木シイタケを売っていたと、同駅のフェイスブックにあった。原発事故でシイタケから漬物に切り替えるしかなかったわけだ。ここにも怒りや悲しみを胸に秘めて暮らす人がいる。

2019年12月21日土曜日

沈む生活道路のブロック擁壁

区内会の役員会は2カ月に1回の割合で開かれる。12月は、これといった協議事項がなかった。年明けの1月にずらしてもよかったのだが、10月12日に台風19号が襲来した。「そのとき」と「その後」の情報交換・共有を兼ねて、12月初旬の終わりに役員会を開いた。
わが区は、直接の水害はなかったが断水に見舞われた。同じ夏井川の少し上流域では、浸水被害が広範囲に発生した。平地の上・下流だから、人的な交流は濃密だ。水害に遭った親戚の片付けを手伝いに行った役員がいる。断水で水の確保に苦労している隣人のために奔走した役員がいる。浸水・断水、どちらも身近な問題だった。

日常のごみ出し問題も話題になった。「コミュニティは“ゴミュニティ”。ごみ集積所に違反ごみがなければ、コミュニティは平穏だ」。そういうと、住民から苦情・要望を受ける立場の役員だけに、「んだね」という表情に変わった。

それから1週間後――。役員の1人が、担当する隣組の要望をもって来た。車1台がやっとの生活道路がある。その道路に接している3段のブロック擁壁が水平ではない、片側が1段分沈み込んでいる、という。

話を聞いているうちに、わかった。またあそこだ――。最初は5年前、次は3年前。擁壁と接している道路のへりにすき間ができた、小さな穴があいた、というので、市役所に連絡したら、ほどなくアスファルトで穴がふさがった。

すぐ現場を見に行く。片方のブロック擁壁がかなり沈み込んでいる=写真。3年前に補充されたアスファルトも少しへこみ、亀裂が走っている。電柱は真っすぐだが、隣のカーブミラーは同じ方向に傾いている。もともとは花か庭木のためのスペースだったのだろう。

2年か3年に一度、住民の目にはっきり異変がわかる、ということは、地中に空洞ができているのではないか、そんな懸念が膨らむ。家に戻ってすぐ要望書をつくった。

要望書にはひな形がある。毎年、新年度が始まると区内を巡回し、道路を中心に改修個所などをまとめて要望する。直近のデータを残しているので、それをコピーして最新の要望データに更新する。役員会の開催通知も同じだ。前回、あるいは前年のデータを利用して、月日と曜日を変える。ところが、ここでときどきミスを犯す。

役員会は土曜日に開催している。この12月は、あらかじめ土曜日に合わせて通知文のデータをつくっておいた。が、会場の集会所管理人に電話したら、先約があった。しかたない、「12月7日(土)」を「12月9日(月)」に替えた――つもりが、「12月9日(土)」になってしまった。土曜日開催だから7日と思って電話をかけてきた役員がいる。確かめに来た役員もいる。

そこからの連想。役員会開催の通知は年に6回余りのルーチンだから、ひな形を利用する。月日と曜日を変えるだけで済ませる。形式的な事務文書をセロから作文するようなことはしない。

地域の片隅の“公文書”でさえそうなのだから、内閣府の「桜を見る会」の文書が消去されてない、というのはありえないと、区内会を運営する人間の直観が教える。内閣府の担当者以外の役人も実はそう思っているだろう、とも思う。いちいち消去していたのでは、最初から起案しないといけない。非効率だ。事務も滞る。

ま、それはさておき、要望書をつくったあとは午後一番で市役所へ出かけた。担当課の職員に要望書を渡し、地図で場所を示しながら説明する。役人は、即答はしない。直感的に私有地がからんでいると見てとったらしい。「三度目にドカンとくることのないように」といいながら、とにかく現地を見てくれ、と要望する。現地を見ることに関しては了承した。大陥没が杞憂であることを祈るばかりである。

2019年12月20日金曜日

マグロのトロの刺し身?

 何回も書いているので恐縮なのだが、日曜日の宵の楽しみは、「笑点」を見ながら刺し身をつついて晩酌をやることだ。
 日曜日の夕方、いつもの魚屋さんへマイ皿を持って行く。カツオがあるうちは、若だんなが黙って皿を受け取り、カツオを切って盛りつけてくれる。カツオが去り、サンマが遠のいた今は、顔を出すと「〇×があります」といってくれる。そこから盛り合わせる刺し身の種類を決める。

 どんな刺し身が食べられるか――冬は冬で、思いもしなかった魚に出合う楽しみがある。直近の日曜日(12月15日)にはマグロのトロがあった。正確には、トロと呼ばれる部位の一部があった。それと、タコ、そしてもう1種類(ヒラメだかタイだか、聞くのを忘れてしまった)を盛り合わせてもらった=写真(マグロだけ拡大)。

 マグロのトロは、回転ずしの店で口にした記憶があるが、刺し身は食べたことがない。「トロってどの部分?」。若だんなが自分の左胸から左腕の付け根、あごあたりを指さして教える。これから切るというので、見たらピンク色をしていた。やわらかくて平べったい。「(おろし)にんにくは?」「わさびで食べてください」という。

帰宅してすぐマグロの部位を検索した。イラスト解説に、背と腹がトロ、その間が赤身とあった。背はすべて中トロ、腹はカマ(えら)のトロを含めて、順に大トロ・中トロ・中トロと続く。大トロは値段的につりあわないはずだから、カマトロだろうか。

霜が降ったような一切れを口に入れると、筋を除いてすぐとろけた。日曜労働(もちつきの火の番=釜じい)のあとだけに、よけい旨みと甘みがしみた。

2019年12月19日木曜日

美空ひばりの歌声の秘密

 師走最初の土曜日(12月7日)、BSプレミアムで「よみがえる美空ひばり」を見た。10日後のおととい(同17日)は、地デジで同じ番組をやっていた。やっぱり見た。検索してわかったのだが、今年(2019年)のNHK紅白歌合戦に「AI美空ひばり」が出演する。そのPRを兼ねた番組でもあるようだ。
 番組は、人工知能・AIで30年ぶりに美空ひばりを現代によみがえらせるNHKのプロジェクトを追った。研究者が「AI美空ひばり」を開発し、長年ファンだった女性などの声を聞いて改良する。その過程でひばりの歌声の特徴が明らかになる。スコア(楽譜)どおりではなく、音をずらしたり、高次倍音で歌ったり、というのが、ひばりの歌声の魅力になっているらしい。

 ひばりの復帰第一作はいわきの塩屋埼を題材にした「みだれ髪」。そして、最後の歌が秋元康・作詞の「川の流れのように」。♪ああ かわのながれのように……の「か」が高次倍音だという=写真。

 高次倍音とくれば、モンゴルの歌唱法「ホーミー」が思い浮かぶ。9年前、平地学同好会の会報(第27号)に冨田明雄会長が「中国内蒙古自治区の恐竜発掘地と博物館を訪ねて」と題する紀行文を寄せた。以下、当時の拙ブログの一部――。
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内蒙古自治区最後の夜、博物館長主催のお別れパーティーが開かれた。そこで一行は「ホーミー」を聴いた。「ホーミー」はモンゴルなどで行われている歌唱法の一つ。一人の人間が同時に二つ以上の声を出す。要するに、のどを楽器にしてメロディーを奏でるのだ。

冨田会長は「特にテレビなどでは見ていたが、ホーミーの独特の声は蒙古の草原に響き渡るような錯覚におそわれた」と書く。こういう人間の技が私には興味深い。

「ホーミー」は、「世界の民族音楽」といったCDには必ず入ってくる。私もそのCDを持っている。時々、車の中で聴く。塩漬けされたような渋い低音、そして高音。冨田会長ならずとも、テレビで見知っているモンゴルの草原が思い浮かぶ。
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ひばりは難なく高次倍音を出して歌った。それをAI美空ひばりも獲得したのかどうか。

それよりなにより、美空ひばりだからこそAIでよみがえらせる、というプロジェクトだが、一面では死者の眠りを脅かし、生者の気持ちをもてあそぶことになりはしないか、という思いもある。そのへんのバランスが難しい。倫理抜きでは進められないAI技術だ。

新曲「あれから」は、やはり秋元康が作詞した。これがけっこう胸に響く。人それぞれに「あれから」がある。♪夕日がまた沈んでいく/あっという間の一日……と始まって、中ほどで♪愛しい人よ/あれから どうしていましたか/私も歳をとりました/今でも 昔の歌を/気づくと 口ずさんでいます……と続く。

  マーケットは主に団塊の世代から上か。きのう(12月18日)、このCDとカセットテープが発売になったそうだ。

2019年12月18日水曜日

台風19号㊵セドガロの子ども

 夏井川渓谷は、今も大型・中型車が通行できない。いわき市小川町・牛小川の元いわや旅館前と同市川前町川前の直売所「山の食。川前屋」跡の前に、大きなフレコンバッグで“関所”がもうけられている。バッグの側面がこすれて破け、砂がこぼれているところをみると、迷い込んだ大型車ないし中型車がそのまま強行突破を図ったらしい。
 渓谷では、夏井川に沿って県道小野四倉線とJR磐越東線が走る。線路はときに川をまたいで県道と交差する。台風19号の影響で、磐東線はいわき―小野新町間がストップした。再開したのは1カ月余りあとの11月16日。県道も一時、通行止めになったが、オウンリスク(自己責任)で隠居のある牛小川へ行き来した。

12月最初の日曜日(1日)、台風19号のあと、初めて牛小川から田村郡小野町まで県道を駆け上がった。川も道路もあちこちで傷んでいた。

「山の食。川前屋」跡を過ぎ、「関の沢踏切」を渡って200メートルほど進むと、山側にガードレール代わりのパイプがあった。谷側、線路との境界にはベージュ色のフレコンバッグが並んでいる。

 山側を見ると、ダイダラボッチがマサカリを振り下ろしたように、急峻な沢がむき出しになっている=写真上1。そのときはそのまま通り過ぎたが、「雨が降れば滝になる。降らなくてもチロチロ水が流れ落ちている。セドガロ(背戸峨廊)の子どもだ。何万年かあとには第二のセドガロになるのではないか」。そう思ったら、気になってしかたがない。

きのう(12月17日)、日曜日に行けなかった代わりに隠居へ出かけた。まずは隠居を通り越して「セドガロの子ども」を見に行く。沢の底部には、とんがった石がごろごろしている。木や草はちょっと上の斜面にしか生えていない。

ストリートビューで台風以前の姿を確かめた。「関の沢踏切」を渡ると、崖に落石防止用のワイヤネットが張られている。切れ目には木々が茂り、紅白の花らしいものが見える。線路と道路の境には、そこだけ白いガードレール。この木々とガードレールが消えたのだ。ということは、道路と線路の下に排水管があって、沢の水を逃がしているのだろうか。
台風19号のビフォー・アフターでいうなら、この木々もガードレールも、土石流によって線路にまではじきとばされた。それで、県道も磐東線も一時止まった、ということらしい。実際、土砂が線路の石を覆っていた=写真上2。

自然と人間の関係でいうと、川からあふれた水は人間の生命と財産を脅かすので「水害」になる。しかし、無人島などでは自然と自然の関係にとどまるので、「水害」ではなく「洪水」、自然の営みの一コマでしかない。

自然史的な現象として見ると、土石流が過ぎた沢は、ピカピカの、できたての野性そのもの、「セドガロの子ども」だ。台風19号はそれだけ激烈だった、ということでもある。

この台風のあと、釣りをする知人やオフロードバイクに乗る知人と話す機会があった。2人とも、それぞれの場所で見た水の力(浸食・運搬・堆積)のすごさに驚いていた。地球温暖化で海水温が上昇する。それが、今までにない大雨をもたらす。私たちが暮らしを営んでいる大地が、これからたびたびピカピカの野性を取り戻す、なんてことになっては困る、ということで一致した。

2019年12月17日火曜日

令和最初の「釜じい」

 おととい(12月15日)の日曜日は、カミサンの実家(米屋)でもちつきの手伝いをした。
 もちは機械でつく=写真下。そのためのもち米を、ドラム缶を利用したかまどで蒸す=写真上。かまどの下には焚き口、上には湯釜。湯釜の上にもち米を入れた蒸篭(せいろ)を二つ重ねて、蒸気をくぐらせる――。
焚き口の火の番、「釜じい」が私の役目だ。とはいっても、かまどの前ではなく、少しずらして椅子に座る。かまどからの輻射熱がハンパではない。

 ときどき焚き口から舞い上がる煙で目がシブシブする。顔が“火焼け”する。熱気がズボンを通して足に突き刺さる。くるぶしや膝が痛くなる。痛さを感じるたびにかまどから離れ、足の熱をさます。

 今年(2019年)もあとで見たら、右足の側面に赤い斑紋が点々とできていた。風呂に入ると痛かった。「低温やけど」のようだった。(今朝はきのう以上にくるぶしの上が痛い。皮がはがれて赤い皮膚がむき出しになっていた)

 義弟が1年をかけて集めた剪定枝や杉板の建築廃材などが焚き木になる。「杉板はパチパチいって火の粉が散るので、ほかの剪定枝に混ぜながら燃やして。2対1くらいの割合で」と教えられる。杉の廃材を一度に何枚も入れると、周りが火の粉だらけになって、火事の心配さえおきる。

桜の樹皮は紙のようによく燃える。墓の花立てに使った真竹も、炎に包まれると、轟音を発する。確かに、木は種類や加工具合によって燃え方が異なるのだ。

始末に負えないのは梅の木。枝にトゲ状の小枝がいっぱい付いている、軍手をしていても、指に刺さったり軍手が引っかかったりする。そっとつまむようにして焚き口に入れないといけない。

「釜じい」の仕事はかまどの火を絶やさないことだ。入れる焚き木のバランスだけでなく、入れ方にも注意が要る。ドラム缶の奥にまで入れると、炎が煙突に抜けてしまう。手前に置くと焚き口から炎があふれる。中央の湯釜に炎を集中させないといけない。わかってはいるのだが、1年に1回では難しい。

とはいえ、火をじっと見ていると、内省的になる。来し方行く末を考える。「今年、おれはなにをした? キノコの本を読んで終わった。来年はまた吉野せいの『洟をたらした神』に戻らねば」。朝10時から手伝いを始め、午後3時にかまどの火を落とすころには、焚き口からの炎や煙で体中がきな臭くなっていた。

 毎年のことながら、もちはお得意さんや親せき、世話になった人たちに配る。おととい夕方にはさっそく、平・平窪や小川の知人宅を回った。

平窪は台風19号による床上浸水に見舞われた地区だ。知人の家も浸水した。知人夫妻は浸水から2カ月たった今も、県外の娘さんの家に避難しているらしく、留守だった。帰宅すると、年賀はがきの投函が始まった、とテレビが伝えていた。今年も残るところあと半月――。

2019年12月16日月曜日

師走の吉野せい賞表彰式

 第42回吉野せい賞表彰式がおととい(12月14日)、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた=写真(あいさつする受賞者)。師走の表彰式は、42年の歴史のなかで初めてだろう。その顛末を記録として残しておく。
 吉野せい(1899~1977年)は同市小名浜出身の作家。少女時代に文学にめざめ、詩人の開拓農民・吉野義也(三野混沌)と結婚してからは、筆をおいて家業と育児に没頭した。夫が亡くなったあと、70歳を過ぎて再び筆を執り、短編集『洟をたらした神』で田村俊子賞・大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 いわき市はせいの業績を記念して、新人の優れた文学作品を顕彰するため、昭和53(1978)年、吉野せい賞を創設する。表彰式は例年、せいの命日の11月4日前後に行われている。

今年(2019年)は10月12日に台風19号が上陸し、いわき市内では主に夏井川水系で床上浸水被害が相次いだ。そのため、同15日に予定されていた同賞の記者発表が中止になった。この何年か、5人の選考委員を代表して、記者クラブに出向いて選考結果を報告している。が、今年は資料だけの「投げ込み」になった。11月9日に予定されていた表彰式も1カ月余りずれ込んだ。

一連の行事は、同賞運営委員会が主催する。それとは別に選考委員会があり、募集期間が終わった月遅れ盆以降、各選考委員が全作品に目を通して1次選考作品3編、青少年特別賞候補1編を選ぶ。このあと9月下旬に委員5人が顔をそろえて議論し、各賞を決める。それを10月初旬の運営委員会に報告し、了承されて初めて正式に賞が確定する、という流れになっている。

今年も、賞の確定までは予定通りだった。運営委員会開催直後に台風19号がやって来た。

受賞者や委員への連絡などは事務局である市文化振興課が担当する。記者会見の中止・投げ込み、表彰式の延期なども、逐次連絡があった。この判断の素早さは何度も自然災害と向き合ってきた役所ならではのものだろう。もっとも、記者は災害取材に追われているから、予定通り発表してもクラブには誰もいなかっただろうが。

 こうして、今年の同賞と選考委員としてのかかわりは、作品を読み始めてから表彰式まで4カ月に及ぶ長丁場になった。しめくくりは表彰式前の、受賞者との昼の会食。作品のテーマや書くきっかけなどを具体的に知ることができた。水害に遭った地区に住む一人は、こちらの質問に「床下(浸水)でした」。それだけがずっと気になっていた。

2019年12月15日日曜日

サンタクロースの服が赤いのは?

 あと10日もすると、クリスマスがやってくる。キリスト教徒でなくても、子どもがケーキを食べてプレゼントをもらう習慣が、日本でも定着した。
 そもそもサンタクロ―スって何者?――そう思って調べたわけではない。が、欧州のキノコ食文化を知りたくて本をあさっていたら、堀博美『ベニテングタケの話』(ヤマケイ新書)にこんな記述があった。ベニテングタケは食べると幻覚症状などを起こす毒キノコだが、「幸福のキノコ」としても受容されている。

まずは一般的な例。「シベリアには数多くのベニテングタケにまつわる神話がある。極寒の地で、シラカバなどの木の周りにベニテングタケがよく生えることと関わりがあるが、実際に、そのベニテングタケを食する文化があったらしい。(略)極寒の地で、酒を醸すことが出来なかったので、自然に生えてきて、食べると酩酊をもたらすベニテングタケが好まれたらしい」。ウォツカ代わりだ。

キリスト教の世界では――。「サンタクロースの伝承にもベニテングタケが関わっているのではないかとする説がある。サンタクロースの服が赤と白に彩られているというのは、ベニテングタケの傘といぼの色をもとにしたものではないか、というのだ」

このあとにこう続く。コカ・コーラ社の宣伝で紅白になったという俗説がある。しかし、それ以前から紅白のサンタが広く知られていた。ドイツではクリスマスの飾りつけにベニテングタケのグッズが欠かせない。ベニテングタケをかたどったお菓子を食べる地域もある(以下略)。

ベニテングタケは、ノルウェーでもクリスマス飾りとして不動の地位を確立している、という(ロン・リット・ウーン/枇谷玲子・中村冬美訳『きのこのなぐさめ』みすず書房)。

11月末の「チコちゃんに叱られる!」で、「クリスマスプレゼントを靴下に入れるのはなぜ」をやっていた。答えは「(聖ニコラウスが貧しい家庭に投げ入れた)金貨が干してある靴下に入ったから」=写真。

聖ニコラウスは1700年前、小アジアでキリスト教の司教をしていた人物。サンタクロースという名称も、オランダのシントゥ・ニコラウスが変化したものだという。チコちゃんのサンタクロースはしかし、ここまで。「サンタクロースの服が赤いのはなぜ」まではやってくれなかった。

フィンランドにサンタクロースの手伝いをする妖精がいる。サンタと同じように白く長いひげを生やしている。

目莞(めい)ゆみ『フィンランドという生き方』(フィルムアート社)には、「妖精たちは、ヒゲのようなナアヴァを紡いで布を織り、自分たちの服を作る。ナアヴァとは、トウヒに生える灰緑色(かいりょくしょく)の苔で、樹木の幹のあちこちに長い髪の毛のように生えている」。ヒゲ苔というそうだ。サンタクロースの白く長いひげと関連はないのかどうか。

ベニテングタケはシラカバなどと共生する。シラカバの自生しないいわきでは、ベニテングタケは発生しないといわれている。が、いわきで発刊された奈良俊彦『阿武隈のきのこ』と、小川勇勝『野生のきのこ――22年間の山歩きで探し当てたきのこの生息地と写真撮影記録』改訂版には、いわきのベニテングタケの記録が載る。

「いわき地方には発生する茸(きのこ)ではないのではないかと私なりに考えたことがあったが、(略)秋、歩き慣れたブナの落葉樹林の中を探していると、幼菌と成菌を合わせて4本の茸が発生していたのを見つけた」(小川さん)

ベニテングタケの文献を求めて書物の森を巡っているうちに、“キノコ目”でサンタクロースをながめると、ベニテングタケに見えるようになってきた。なにはともあれ、いわきで本物のベニテングタケに出合いたいものである。

2019年12月14日土曜日

『東北の古本屋』

 日本古書通信社の折付桂子さんから『東北の古本屋』(日本古書通信、2019年11月刊)の恵贈にあずかった=写真。
 折付さんは、同社が発行している月刊「日本古書通信」の編集者だ。東日本大震災が発生すると、ふるさと(福島県棚倉町)への帰省を兼ねて被災地の古本屋を訪ねた。以後、東北の古本屋を巡る旅を重ねる。

『東北の古本屋』は二本立てだ。前半は「東北の古本屋案内」、後半は「東日本大震災と古本屋」で、「日本古書通信」に連載した震災ルポ記事が母体になっている。

 折付さんは平成24(2012)年3月、いわきの若い古書店主に伴われてわが家へやって来た。書物の森をさまよっている人間の一人として、古本屋の枠外でインタビューを受けた。(そのときは、バイクで現れたのではなかったか)

新聞でいえば連載記事とコラムをミックスしたような拙ブログの“震災記”を基に、震災からの1年を振り返った。記憶は、いつかは風化する。そのときそのときの思い、見たこと・聞いたこと・感じたことを書きとめておかないと、あとで振り返ったときにわからなくなってしまう。つらいこともいつかは青空になってしまう――そんなことも話した。

それが、「日本古書通信」の2012年5月号、<震災後1年レポート――福島、宮城の古書店界(上)>のなかに挿入された。

「あとがき」に、「『東北の古本屋案内』に加え、これまでの取材の概略をまとめて収録したのは、古本屋さんの証言を記録として残したかったからでもある。『記憶は風化するので記録に残すこと』という吉田氏の言葉も胸にあった」と書き留めてくれた。こちらの言葉が届いた、それだけでインタビューを受けたかいがあったと、うれしくなった。

贈呈本の添え書きにも引用していた。「『記憶は風化するから記録として残さねば』とのお言葉はずっと胸にあります。出版不況で苦しい中、震災・津波・原発事故、それに伴う風評被害を乗り越えがんばっている古本屋さん方への私にできる応援歌です」

「東北の古本屋」連載が終わりに近づいたころ、彼女のご主人が発症、1年前の11月に亡くなった。あとがきを読みながら、いわきの俳人志摩みどりさんの句「花すすき誰も悲しみもち笑顔」が浮かんだ。『東北の古本屋』もまた悲しみから生まれた希望の書なのだと知る。