2024年2月29日木曜日

栽培キノコ

        
 東日本大震災に伴う原発事故以来、いわき市内では野生キノコの摂取・出荷制限が続く。その代用の意味もあるのだが、私は毎日、朝の味噌汁に栽培ナメコを入れてもらう。

 1週間、あるいは10日にいっぺんくらいのペースでスーパーへ買い物に行く。アッシー君、そして買い物カート担当だ。店内を巡りながら、ナメコだけは私が買い物かごに入れる。

 たまにカミサンがエリンギやマイタケを買う。炒め物やてんぷらになって出てくる。栽培キノコという点ではナメコと同じだが、「マイタケはやはり天然ものでなくちゃ」などと、少し距離をおいていた。それがどうだ、食べ続けているうちにだんだんなじんできた。

 日曜日には、夏井川渓谷にある隠居で過ごす。原発事故が起きるまでは毎回、キノコを目的に対岸の森を巡った。

 渓谷は野生キノコの宝庫だ。しかし、摂取制限がかかっている。森を巡ってもおもしろくない。

 というわけで、今は除染が済んだ隠居の庭だけで、キノコを観察している。食菌はありがたくちょうだいする。

 春のアミガサタケ(シダレザクラの樹下に発生)、秋のアカモミタケ(若いモミの樹下に発生)、晩秋のヒラタケ(敷地内の立ち枯れ木に発生)……。

 季節ごとに野生キノコと対面してはいるが、チチタケやウラベニホテイシメジといった「愛菌」には、すっかりごぶさただ。

欲求不満が募る。そこで毎朝、栽培ナメコで、これら野生キノコを食べた気になる。なんといっても、野生キノコが一番。それに変わりはないのだが、栽培キノコもなじめば、また食べたくなる。

 なかでもエリンギは食感、食味がさわやかというか、くせがない。スーパーへ行くと、ナメコだけでなく、エリンギも買いたくなってきた。

 エリンギの原産地は、イタリア・フランスなどの地中海性気候の地域だけではない。ロシア南部、中央アジアなどのステップ気候の地域でも採れるという。

おもしろいことに、イタリアなどでは開いた傘が好まれる。しかし、日本の栽培エリンギは柄が太い。

肉質は緻密で弾力に富み、歯ごたえがある。食感はマツタケや加熱したアワビ似るとか。傘より柄。日本ではなぜ柄が好まれるのだろう。

先日は晩酌のつまみに、小瓶に入ったお福分けの「焼ネギなめたけ」と、エリンギの炒め物が出た=写真。

「焼ネギ」は焼いた下仁田ネギ、「なめたけ」は日光を当てずに栽培したエノキタケ。それらに醤油や砂糖、もろみ、唐辛子などを調味したもので、本来はご飯のおかずだという。

エリンギの炒め物に合わせて、「焼ネギなめたけ」を、それこそ少しずつなめるように口に入れたら、いい酒のつまみになった。

そう、これからはナメコ以外の栽培キノコも食べるようにしよう。ナメコだけではやはり口が寂しい。

2024年2月28日水曜日

神頼み

                      
 これは年をとらないとわからないことだったかもしれない。若いときはだいぶお年寄りを突き放してみていたようだ。

 スーパーで買い物カートを押しながら歩いているおじいさんやおばあさんがいる。「大変だな」。いささか同情しながら眺めていた。

 今はこちらもカートを押して歩くので、全く当たり前にしか思えない。それでも、まだ「すがる」まではいっていない、「押している」などと勝手に解釈して元気なふりをしている。

 買い物かごを持って、カミサンのあとについて回るのは、いささかこたえる。かごに入れる量も多い。で、カートを利用するようになってから何年がたつだろう。

 自分のブログを読むと、12年前(63歳)はまだ買い物かごを持っていたようだ。スーパーへ行ったとき、駐車場でカートを押すお年寄りを見た。荷物は手提げバッグにほんの少しあるだけ。そのバッグをカートに載せている。カートは「シルバーカー」代わりだった、とブログにある。

 そのあとすぐ体調を崩し、検査のために病院で「車いす」を体験した。それまでずっと二足歩行が当たり前と思っていた。が、体調次第で車いすやシルバーカーの世話になる、そんな領域に踏み込んだことを実感した。

経験がすべてではない。が、経験は想像力を広げるきっかけになる。年をとって、今までできたことができなくなった――。そんな経験から、弱って少し不自由な暮らしをしている人たちが、周りにはいっぱいいることを知った。

ある日、カミサンが急に足を引きずるようになった。「ひざが痛い」という。それで毎日、近所の接骨院へ通っている。

家事には大きな変化はない。が、暮らしのリズムが少し変わってきた。接骨院で前から腰をもんでもらっていたとはいえ、ひざでは、歩いては通えない。私が車で送り迎えをする。

送ってはすぐ戻り、連絡がきてはまた迎えに行く。そのときだけ、店は「配達中」の札を出して閉めておく。

晩酌を終えるころ、店に夕刊が届く。カミサンが茶の間に持って来ていたが、今はときどき私が取りに行く。

あるイベントを見たいというので、カミサンに付き添った。知り合いがいた。カミサンが、ひざが痛い話をすると、子鍬倉神社に足に効く石碑があるという。

さっそくそこへ直行した。神社はいわきの中心市街地・平の西方高台にある。南側の石段ではなく、小学校へ上っていく北側の坂道を利用して境内に車を止めた。

ここへは何年か前、冬至直後の早朝に訪れたことがある。冬至のころ、境内にある八坂神社の拝殿と参道、鳥居を結ぶ線の先から朝日が昇ってくる。それをこの目で確かめた。

 今回は、足に効く石碑がどこにあるかわからなかった。で、中心の拝殿にひざの快癒をお願いしたという。

 こちらはその間、社叢(しゃそう)のシュロを数え、石段の下から南へまっすぐ伸びる道の先に何があるか、思いをめぐらせた=写真。

2024年2月27日火曜日

薪の無人販売所

                     

 「なんだ、これは!」。最初見たときには仰天しながら通り過ぎた。2回目は車を止めて写真を撮った。強烈な色彩とデザインだ=写真。

 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。そこへの行き帰り、JR磐越東線の江田駅前を通る。隠居からの帰りに、その「異変」を知った。

牛小川から椚平を過ぎ、江田の集落に入ると、県道小野四倉線の左手上方に江田駅の露天のホームが見える。右手は民家と水田。その先に、夏井川に沿ってキャンプ場と駐車場がある。

民家とキャンプ場入り口の空きスペースに、黄、黒、赤で染まった物置が「出現」した。その前には、やはり色を塗られたドラム缶がある。

そばにはもう一つ、いかにも手作りと思われる縦長の物置がおかれ、中に何束か薪(まき)が重ねられてあった。

こちらの物置は黒く塗られ、壁に白いペンキで「無人販売」と書かれている。その文字から氷柱のようにペンキが流れ落ちている。

渓谷の小集落から見ると、私ら夫婦は「日曜定来者」にすぎない。その人間が2月11日の日曜日に通ったときには、これらはなかった。

それから1週間後の日曜日、物置がセットで置かれていた。メーンの物置の壁には黒をバックに、赤く燃え上がる炎が描かれている。その炎は手前のドラム缶から燃えているように配されている。要は「夜の焚き火」をイメージした「オブジェ」であり、「壁画」だろう。

ほかには「薪」「皮・無料」「一束300円、500円、400円」の文字。値段が「300円、400円、500円」と順を追うのではなく、「500円」が「400円」の先にきているところがおもしろい。

なぜ、そこに、薪の無人販売所が? 渓谷の住民は、薪が必要な場合は自分で調達するはずだ。では、だれのために?

江田駅の裏山を背戸峨廊(セドガロ=夏井川支流江田川)が流れる。前はそちらでキャンプや芋煮会が行われた。

山火事の心配がある、川で洗いものをするので水が汚れる――という状況になって、景勝の入り口に代替のキャンプ場が設けられた。

使用料がかからない。予約をする必要がない、先着順で使える、という手軽さが受けて、コロナ禍が起きると、週末には車が何台も止まるようになった。例年、利用客が途絶える師走も、日曜日には駐車場が満パイになった。

コロナ禍で「3密」を避けるため、屋外でレジャーを楽しむ人が増えた。しかも、キャンプには夜の焚き火が付き物だ。

それを思い出した。ネットで探ると、図星だった。このキャンプ場で焚き火台に薪をくべ、明かりと暖をとるキャンパーがいた。それだけではない。軽トラが一束300円と500円の薪を売りに来る、ともあった。

そういうことか――。やっと、薪の無人販売所ができたわけがわかった。野営するキャンパーにとってはやはり、夜の焚き火=キャンプファイヤーが楽しみにちがいない。新しい需要と供給の発生。それが薪の無人販売所になった、ということなのだろう。

2024年2月26日月曜日

春を宿す

                               
   日曜日になると夏井川渓谷の隠居へ出かけ、庭の畑と向き合う。生ごみを埋める、三春ネギと辛み大根を掘り取る。それが年明け後の「仕事」だった。

この冬、畑の土がカチンカチンに凍ることはなかった。厳冬だと、土は厚く凍ってスコップが入らない。それで生ごみは堆肥枠の中に入れて落ち葉などをかぶせておく。

ところが近年はそういうことがなくなった。土が凍らないわけではない。凍ってもスコップに足をかけて押し込むと、先端が凍土の下に届く。そのままスコップをグイッと倒せば、凍土が割れる。

この時期、ネギの葉の先端は枯れて白っぽくなっている。辛み大根の葉もだいぶ枯れた。いつもの冬の姿である。

いや、冬に限らない。ネギも草も木々も、1年を通じていろんな表情を見せる。その変化をもたらすのはむろん、V字谷固有の自然だ。

今は厳寒期から春に転じたなかでの動きが、そこかしこに見られる。梅前線が渓谷(牛小川)に到着した。アセビも開花した。ネギも春の胎動が始まった。

先の日曜日(2月18日)に掘り取った三春ネギは、枯れた外皮をむくと古い葉の間に、小さくとがった若い葉が形成されていた。

1週間後にうねのネギを見ると、若い葉がかなり伸びていた。最初は花茎かと思ったが、そうではない。花茎なら頭に花球をいただいている。それが現れるのはもう少したってからだろう。

花茎も葉の間にできる。ウメやサクラと同じく、ネギもまた、冬の寒暖を経験して春がきたことを察知(あるいは勘違い)し、子孫を残そうとする。

辛み大根もまた枯れた葉の中心から花芽を形成し、4月も中旬になると淡い紫色の花を咲かせるようになる。

ネギはまだまだうねにある。10本くらいは採種用に残しておくにしても、あと20本くらいは採って食べられる。

というわけで、この冬最後の三春ネギと辛み大根を掘り取った=写真。あとは種ができるのを待つだけだ。

前に田村市からネギ苗をもらってきたことがある。春に植え付けたら、いきなり苗に花茎ができた。気象次第でそうなることがあるらしい。

幼いうちに摘めば、問題はない。秋に太くてやわらかいネギができる。摘んだ花茎は食べることにした。ちょうどサンショウの木の芽が出始めたときだ。

「ねぎ味噌」にすると、未熟な花茎だったのでネギの香りはゼロ。サンショウも香りを楽しむには量が少なかった。

同じころ、辛み大根もつぼみができた。これも収穫した。こちらは晩酌のつまみ用で、つくっておいたさんしょう味噌をからめて食べた。

舌先がほのかにヒリヒリした。さわやかな辛みだった。うまかったので、今年(2024年)もこの食べ方を試してみようと思う。

さて、苗床のネギの様子はどうか。寒さにかじかんでいたネギ苗もまた、3月に入るとシャキッとして、万年筆のカートリッジくらいには太くなる。

これが鉛筆くらいの太さになれば、定植できる。そのころには、そこかしこに春が充満している。

2024年2月24日土曜日

句読点

                              
 「マルハラスメント」、略して「マルハラ」という言葉がネットで話題になり、メディアもニュースで取り上げた。

 古い世代からみると、文の終わりには句点「。」を付ける。それが文章の作法だと思っていたのだが……。

SNSでメッセージをやり取りする若い世代には、この句点が「冷たい」「威圧的」などと映るらしい。早い話が、句点なしの文章の方がすんなり胸に入る、ということなのだろう。

ローカル記者として、その後はブログ書きとして、句読点にはそれなりに注意を払ってきた。

現役のころも、今もそうだが、新聞の見出しには句点を使わない。広告のキャッチコピーも句点なしが普通だったが、あるときからそれが目に付くようになった。

コピーライターの糸井重里さんの作品に句点があったような……。ネットで検索すると、そのへんの事情がわかった。

「じぶん、新発見。」(1980年)、「不思議、大好き。」(1981年)、「おいしい生活。」(1983年)。

1980年代、糸井さんが西武百貨店のキャッチコピーに使ったのがきっかけで、以後、音楽や漫画、映画、小説、タレント名などに句点が付くようになった。

そうした流れが地方にも広がったのだろう。昭和55(1990)年元日付のいわき民報をチェックすると、すぐ出てきた。「みよし」の全面広告に「真心こめたおいしさを。」のキャッチコピーがあった=写真。

新聞をつくる職場の人間としては、キャッチコピーは記事の見出しのようなものだ。そんな人間からすると、同じ紙面に登場する広告の句点には、新鮮さを覚えながらも違和感をぬぐいきれなかった。

なぜキャッチコピーに句点、あるいは読点「、」を付けるのか。マルハラのニュースに触れたついでに調べてみた。

コピーライターの仕事をしていると思われる人が挙げている例でいうと――。「今日を愛する。」は、語気が強まるような、意思をしっかり感じられるような効果がある。

「自然を、おいしく、楽しく。」は三つに区切ることで、それぞれ三つのキーワードを大事にしていることが感じられる。リズミカルでもある。

では、句読点のデメリットは? 言葉が重くなる、字数が増えるなどで、キャッチコピーコンテストの受賞作品は、一般部門がほとんど句読点ありなのに、中高校生部門は逆にほとんど句読点が入っていなかったそうだ。

コミュニケーションのスピードが速くなっている現代、若い世代にとっては、句読点は足かせのようになっている? つまりは、SNS世代ならではの句点なしということなのだろう。

さて、と思い浮かんだのが草野心平の詩だ。「さむいね。/ああさむいね。/虫がないてるね。/(以下略)」と、行末には句点が付いている。

若い世代は、こういう詩にはどう反応するのだろう。やはり、冷たさや威圧感を抱くのだろうか。

2024年2月22日木曜日

暖房要らず

                              
 朝まで寝ている体力がなくなったのは間違いない。このごろは寝床にもぐりこむと、3時間おきに目が覚める。

 2月19~20日はしかし、理由がちょっと違った。掛け布団の下にタオルケットを2枚重ねて寝る。防寒用だ。真夜中、布団の中に熱がこもって寝苦しくなり、それで目が覚めた。茶の間へ行くと、室温は19度ちょっと。寒さは全く感じない。

 いつもだと、パジャマの上に1枚はおり、こたつの下に敷いてある電気マットをオンにしてから、ブログをアップするのだが、防寒の必要はなかった。

 そのあと再び寝床にもぐりこんだが、やはり熱がこもって寝苦しい。タオルケットを1枚はずすと、なんとかいつものぬくもりに戻った。

 室温は最も冷え込む夜明け前になっても、そう変わらなかった。19度を少し下回った程度だった。石油ストーブはつけずに、こたつの電気マットだけにした。すると、こたつにもすぐ熱がこもる。オフにしたり、オンにしたりしながら、中の温度を調節した。

 屋内でそんな具合だから、外でも寒さはほとんど感じなかった。2月も後半、地べたにもあちこちに緑の針のような芽生えが見られる。

その中で1カ所、風で飛ばされてきたプラスチック片かと思うほどに小さい紫色のかけらがあった。近づいてみると、スミレだった=写真。近くにジンチョウゲがある。これも、一つ、二つ、小花を開いていた。

このところ、「三寒四温」が続いている。寒暖の波を繰り返しながら、全体としては春に近づいている。

「三寒四温」は、もとは中国北部や朝鮮半島北部の冬の気候を表す言葉だったそうだ。これが日本では春先、低気圧と高気圧が交互にやってきて寒暖を繰り返すことを指すようになった。

「光の春」と「寒さの冬」という言い方もある。光と寒さが綱引きするなかで、大地は春へと装いを変えつつある。

自分のブログで確かめると、わが家の庭のスミレとジンチョウゲが咲き出すのは3月上旬だ。2月下旬の開花はずいぶん早い、といえるかもしれない。

 20日は日中、気温が上昇した。小名浜と山田町では最高気温が22.5度に達した。むろん今年(2024年)最高だ。山田はこれに「2月の観測史上最高」が加わった。

 こんなわけだから、日中も石油ストーブはつけずに過ごした。部屋の引き戸も開けたままにしておいた。

 さすがに夕方は室温が下がったので、ストーブをつけ、引き戸を閉めると、すぐ部屋に熱がこもった。暖房要らず・毛糸の上着要らずの目安は室温20度というところだろうか。

 ただ、やはり大気は寒暖を繰り返す。21日は一転、冬に逆戻りした。22日と続けて南岸低気圧が停滞し、「雨か雪」の予報だ。この落差がこたえる。

2024年2月21日水曜日

アカハラ、といっても鳥の方

                      
 アッシー君をして、ひとり車で戻ったところ、奥の家の駐車スペースにツグミ大の鳥が現れた。ほんの一瞬動きを止めたあと、地面をチョンチョンやりながら隣家の庭に消えた。

 ツグミは胸が黒っぽくて腹が白い。この鳥は、胸から脇が黄橙色だ。あのとき、あそこで、そしてあそこでも……。震災前、冬場に何度か見かけたことがある。その記憶が次々によみがえる。

 アカハラ。鳥のアカハラで、アカデミックハラスメントのアカハラではない。一昔前と違って、今は「アカハラ」で検索すると、ハラスメントの方が先に出てくる。

 アカハラは、本州中部以北の山地や低山地、北海道では平地の、落葉広葉樹林の林縁や下生えのある林で繁殖する、と図鑑にある。

 夏は明るい開けた場所を好む。ところが冬は平地に下り、薄暗い林の中を好むそうだ。薄暗い林とは、ツバキやマツなどの常緑樹が生えているところだろう。かつて目撃した場所もそうだった。

 車のフロントガラス越しに写真を、と思っているうちに姿を消した。代わりに、手持ちの『野鳥図鑑』(日本鳥獣保護連盟、1981年第2刷)のイラストを拝借する=写真。

 ツグミには「〇」印が、アカハラには「〇」印のほかに数字と川名が書き込まれている。「〇」印はウオッチングずみで、アカハラは1984年4月20日午後4時29分、夏井川で目撃したことがわかる。もう40年前のことだ。

 海岸の防風林のなかにある飲食店の窓越しにアカハラを見たときの記録がブログに残っていた。整理して再掲する。

 ――正月2日目。「箱根駅伝」を伝えるテレビにかじりつき、いわき出身の柏原竜二君の力走を見たあと、新舞子海岸の林の中にある飲食店へ出かけた。

 どういうわけか、カミサンが車に常備している双眼鏡をバッグに入れた。私もつられてカメラを手にした。

店は、大きな窓ガラスがはめられていて、林内を見渡せる。飲み物を頼んだあと、なにげなく窓の外を見ていたら、林床に鳥がうごめいていた。

キジバトだった。近くにアカハラもいる。アカハラは盛んにくちばしで落ち葉を散らしていた。虫でも探しているのか。

そのうち,目のぱちくりしたヒタキ系の鳥が現れた。双眼鏡をのぞくと、ルリビタキの雌だった。撮影の方はしかし、被写体が小さすぎて全部だめだった。

松を中心に木々が散在している。常緑のトベラがある。名前のわからない落葉樹もある。少し間伐したらしい。落ち葉かきもしているらしい。

アカハラが散らかしていたのは落ち葉の山だった。そんな落ち葉の山があちこちにある。虫たちには格好のベッドだろう。

自然の状態だと、こうは温かい風景にはならない。窓ガラスをはさんで、内側では人間が飲食し、外側では鳥たちが食事をしている。偶然、知った探鳥スポットだ――。

そこを訪ねたのは震災の2カ月前だった。ストリートビューで見ると、2019年あたりから入り口に草が生え始めていた。今はたぶんやぶ化している。

2024年2月20日火曜日

近世の「常磐もの」

                     
 「常磐もの」という言葉がある。市のホームページにその「定義」が載る。古くから海の恵みを大切にし、食文化として育ててきたいわき市の水産物と水産関係者の総称だという。

 震災前、築地市場の水産関係者の間で、いわきの水産物は「常磐もの」として高く評価されていた。地元の水産関係者もその言葉に誇りを持ち、大事にしてきた。

そこで市は、「常磐もの」をキーワードにプロモーション事業を展開し、市内水産物の認知度向上と消費拡大を進めることにした、というわけだ。

江戸時代も磐城の水産物は名産として知られていた。それについては、いわき地域学會がかつて、市から受託してまとめた『いわき市伝統郷土食調査報告書』に詳しい。

同書は、故佐藤孝徳さん(江名)が中心になって調査をし、研究仲間の小野一雄さん(小名浜)も執筆に加わった。私は編集・校正を担当した。

地域学會の第381回市民講座が土曜日(2月17日)、市文化センターで開かれた。会員で市文化財保護審議会委員の渡辺文久さんが「近世磐城の『常磐もの』」と題して話した=写真。

「内からの視点」として、江戸時代の文献である「磐城風土記」「磐城枕友(まくらのとも)」「陸奥国磐城名勝略記」などに出てくる産物を、「外からの視点」として、「武鑑」に載せられた磐城の産物を紹介した。

『伝統郷土食調査報告書』の「古記録にみるいわきの食素材」と重なるところがある。口語訳も付けているので、わかりやすかった。以下、出典を省略して、口語訳を引用する。

カツオについては陰暦5~9月、漁船が競い集まり、その数を知らないほどで、多くは他国から漁業に来ている。

磐城平城下へは、小名浜・四倉から毎日、魚が送られてくる。値段は安くておいしい。

たとえば、タイ。70センチ余のものが銭30~40文で買うことができた。講師によると、江戸ではそばが一杯16文の時代だ。とにかく安い。

カツオやカナガシラ、ヒラメ、アンコウ、イワシの類ははなはだ多いので、山のように積んである。

 塩ガツオ(塩ザケと同じ)は磐城第一の名産。鰹節もある。カツオの「あまわた」は塩辛に。

 ほかにも、ウニの貝焼きはもっとも甘美と、江戸時代から名物だったことが知られる。

 「武鑑」には「時献上」という項目がある。各藩が季節ごとに幕府に献上した品物をいう。

平・泉・湯長谷の磐城三藩には、マス・マンボウ・サケ・アンコウ・タラ・キジ・塩ザケ・マンボウの粕漬けなどがあった。

前述の佐藤家で浜料理をごちそうになったことがある。まず出てきたのが、タイ、アイナメの刺し身とカツオの塩辛。次に、アイナメの煮物とアワビ、カツオの刺し身。締めは、アワビと貝焼きウニの炊き込みご飯、塩味のタイのあら汁だった。

多彩で豪華ないわきの浜の食文化を体験する、またとない機会だった。

2024年2月19日月曜日

田んぼのヤナギ

        
 今月初め(2月3日)に中央台公民館でいわき昔野菜フェスティバルが開かれたときのこと。

 イベントの一つ、座談会に参加した。昔野菜保存会の佐藤直美会長をコーディネーターに、フリーライターの寺尾朱織さん、大久じゅうねん保存会の佐藤三栄さんと語り合った。

そのなかで、耕作を放棄した田んぼにはヤナギが生える、という話になった。そのとき、「ああ、やっぱり」という言葉とともに、木の茂った田んぼが思い浮かんだ。

日曜日には夏井川渓谷の隠居で過ごす。わが家からは田んぼ道を利用して国道399号に出る。

市街地と隣接する水田地帯に、すっかり木に覆われた耕作放棄地がある=写真。元は水田で、夏は細長い葉が茂っていたから、ヤナギの仲間だろう。一帯にはほかに、ヨシ原と化した休耕田が飛び飛びにある。

耕作が放棄された水田は時間の経過とともにどう変わっていくのか――。東日本大震災と原発事故が起きて、いわき市内でも一時、稲作を中止したところがある。隣接する双葉郡はもろに影響を受けた。

震災直後、全村避難をした川内村を経由して、田村市の実家へ帰ったことがある。そのとき(2011年6月)に見た風景はこんな具合だった。

――上川内に入ってすぐのところにある民家は、5月5日に来たときには人がいたが、6月には雨戸が閉まっていた。人のいる、ぬくもりのある静けさではない。人のいない、ぬくもりのなくなった静けさだ。

県道沿いの田んぼの土手と畔に草が生え、ハルジオンが咲きに咲いている。田起こしをしたものの、作業はそれで打ち切りになった。

村民が避難して、山里に人間がいない現実を、田んぼの土手と畔のハルジオンが教える。
 春が来れば田を起こし、土手と畔の草を刈り、水路を修復して水を通す。やがて、そこら一帯が青田に変わる。

草を刈るのは病害虫対策と、田んぼに光を入れ、風通しをよくするためだ。庭の、畑の草むしりも理屈は同じ。それがまた、落ち着いたムラの景観を醸し出す。

夏が過ぎ、秋になれば稲穂が垂れる。刈り取られた稲は、はせぎに掛けられる。あるいは、わらぼっちとなって田んぼに立ち並ぶ。太陽と雨と風を上手に利用した人間の農の営みである。

大げさに言えば、日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。自然をなだめ,畏れ敬って、折り合いをつけてきた。

その、自然への人間のはたらきかけが中断した。人間が営々と築き、守ってきた美しいムラの景観は、人の手が加わらなくなるとたちまち壊れ、荒れ始める。

それから秋になって目立ったのがセイタカアワダチソウだ。双葉郡と近隣地区は「雑草天国」になった――。

時間が経過すると、耕作放棄田の植物は雑草からヨシへ、ヨシからヤナギへと代わっていくらしい。

2024年2月17日土曜日

「『お福分け』を広めたい」

                     

   電話で舞鶴から届いた言葉。「『お福分け』を広めたい」。そこへ知人が大熊町産の乾燥キクラゲを持ってきた。お福分けだ。水で戻すとアラゲキクラゲだった=写真。

電話の主は画家の稲岡博さん。私よりは1歳下の74歳。同じ「団塊の世代」だ。

最近、大阪の人から「お福分け」という言葉を教えられた。「お福分け」を使うのは大阪の一部、福井県、福岡県の久留米などだが、近ごろは東京でも若い子が使っているのだとか。

稲岡さんがそのことを「いわきの知人」に話したら、私が「お福分け」を使っていることを聞いたらしい。

関西から遠く離れた東北の南端、いわきで「お福分け」を使っている人間がいることに、いたく興味を持ったようだ。

 稲岡さんとは会ったことも、話したこともない。「いわきの知人」から、あらかじめ電話がかかってきた。了解すると、いよいよ「お福分け」について語り合いたくなったのだろう。

 稲岡さんは竹を使って「お福分け」の札をつくっている。「お福分けツアー」も考えているという。

 私が「おすそ分け」より「お福分け」を使うようになったのは、どうも「おすそ分け」では気持ちを表現しきれない、という思いが強くなったからだ。

 「贈与の経済」というほどのことではない。が、「贈与の文化」の中で育った。特に、高度経済成長期の前、昭和30年代前半までは、それぞれの家の「余剰物」が隣近所を巡って喜ばれた。

 その意味では、贈与の文化は贈与の経済の一部をなしていた。もらった野菜やキノコ、赤飯などは、微々たるものかもしれないが家計の負担を軽くした。

 あらためて「おすそ分け」の意味を調べた。他人からもらった品物や利益の一部を、さらに友人・知人に分け与えることだという。

 「すそ」は着物のすそのことで、地面に近い末端の部分を指す。それから転じて「つまらないもの」という意味になった。しかし、目上の人には失礼になるので「お福分け」を使う、ともあった。

 辞書的な意味を踏まえていえば、日本はもう「カネで何でも手に入る社会」ではなくなった、と私は思う。「安い国」になってしまったのだ。「おすそ分け」は使えない、という気持ちの底には、そんな認識もある。

 カネでモノが手に入るうちは、共助も公助も必要がない。自助だけで事足りた。地域社会がそれでギスギスしてしまうこともある。しかし、ここまで少子・高齢社会が進むと、自助だけでは社会は回らない。

「団塊の世代」以上であれば、贈与の文化を忘れてはいない。それこそが共助の原点でもあった。それに、家庭菜園を始めてみると、その労力、その自然の力が手に取るようにわかる。

繰り返すが、「おすそ分け」では自分の気持ちが表現できない。それで「お福分け」を使うようになった。もちろん、いただきものに幸せな気持ちになることも大きい。

大熊のアラゲキクラゲは炒め物になって出てきた。程よい大きさで収穫するので、やわらかかった。

2024年2月16日金曜日

『戦争語彙集』

                                
 ロシアがウクライナに侵攻し、戦争を始めてから間もなく2年になる。ウクライナ西部の都市、リヴィウで暮らす詩人が、戦禍を逃れてきた人々から聞き取った言葉を本にした。

 オスタップ・スリヴィンスキー作/ロバート・キャンベル訳著『戦争語彙集』(岩波書店、2023年)=写真。

カバー画に引かれた。黒色を背景に、紫がかったユリの花が描かれている。作者はキーウ郊外に住む画家アナスタシア・アヴラムチュークさん。

訳著者ロバートさんが現地に赴き、作者に会って話を聞いた。そのとき、彼女の仕事部屋に、この絵が無造作に置かれていた。

夫は被災した人の家の再建を手伝っている。ユリの花は、手伝いに出向いた家の庭にあった。

その家はロシア軍の砲弾で屋根が破壊された。息子は前線で戦っている。女性ひとりでは、再建はままならない。画家の夫だけでなく、本人も再建を手伝っている。

女性の家の隣家には彼女の妹が住む。老姉妹は庭でさまざまな花を育てている。ユリの花はそのなかの1本だった。

ロバートさんの質問に、アナスタシアさんが答える。「戦争の恐ろしい破壊と、この美しい花のコントラストを伝えるために黒い背景にしました」

「希望の象徴としての花を表現するために、黒色の背景に明るく軽やかな花を描いたのですね」「ええ、その通りです」

破壊された家は、すぐには再建できない。しかし、花壇をつくることはできる。そこに一筋の光が見える、ということなのだろう。

このカバー画が本の内容を象徴している。詩人は避難所でボランティア活動をしているうちに、『戦争語彙集』というアイデアを得た。

侵略戦争が始まるとすぐ、詩人は軍に入ろうとしたが不合格になった。ならば銃ではなく、ふだんやっていること、つまり文筆を通して、避難をしてきた人々の話を聞き、書き留めようと心に決める。

それが、「バス」から始まって「林檎」で終わる「77の単語と物語で構成した文芸ドキュメント」になった。

なぜバスが最初で、林檎が最後かというと、ウクライナ語のアルファベット順に並べられているからだ。

バスは「アウトーブス」、林檎は「ヤーブルカ」。ちなみに11番目の「キノコ」は「フルィーブ」というらしい。

これらありふれた日常の言葉は、戦争のフィルターを通すと全く違った意味合いを帯びてくる。たとえば、「ナンバープレート」。

砲撃された車の中から遺体を出したとき、身元を特定できるものは何もなかった。埋葬したあとに誰だかわかるように、墓標代わりに車のナンバープレートを引っかけた――。キーウ在住の男性の言葉だ。

「キノコ」は、昭和20(1945)年8月の広島・長崎を連想させる。人々は爆発の衝撃を受けて振り返る。すると、キノコ雲が空に昇っていくのが見えた。

東日本大震災の体験を重ねながら、能登半島地震のニュースを見聞きしている。そのためか「戦争語彙」は「震災語彙」でもあるという思いが募る。

2024年2月15日木曜日

白梅

                      
   火曜日(2月13日)は、日中、石油ストーブを止めた。翌日も気温が上昇し、正午にはやはりストーブを止めた。

水曜日は午後2時で室温24度弱。暖房のぬくもりが残っていたとしても、セーターを1枚脱がないといられない暖かさだった。

2月にしては異常な陽気だ。街場の白梅も至る所で開花したり、満開になったりしたのではないか。

わが家の南隣にある義弟の庭の白梅は満開だった。ついでにじっくり庭を眺めると、シュロが3本あった。2本ではなかった。今まで中くらいのを1本、見落としていた。

 先の連休中に確かめたことだが、夏井川流域の「梅前線」は渓谷の手前、小川町・高崎に到着していた=写真。なぜかここは開花が早い。満開だった。

 夏井川渓谷にある隠居への行き帰りに、田んぼ道と国道399号、県道小野四倉線を利用する。

そのルートでは、高崎の白梅のほかに、平市街の「幽霊橋」(お城山の六間門と八幡小路を結ぶ天空の橋)そば、急斜面の白梅が真っ先に開花する。ただし、ここの白梅は8年前に剪定されて以来、開花を確認していない。

高崎でも今年(2024年)、異変が起きていた。紅梅が咲いたので白梅も、と期待しながら車を走らせたのだが……。

県道小野四倉線とJR磐越東線をまたいで、県が広域農道の建設工事を進めている。

同農道は、四倉町玉山地内から二ツ箭山の中腹を縫い、小川町高崎地内で県道小野四倉線に接続する延長10キロ強の天空のハイウエーだ。

 その終点、跨道(線)橋と交差する県道沿いに白梅が何本か植えられてあった。その中の1本が伐採されていた。

写真の白梅は跨道(線)橋の下流部、道路沿いにポツンと立っている。反対側に知人の家がある。

渓谷のフキノトウを摘んだときにも書いたのだが、この冬は梅の開花も遅いような気がする。過去のブログを引用する。

東日本大震災(2011年3月)が発生する直前の1月――。「幽霊橋」(高麗橋)の下、国道399号の急斜面にある梅の木が1月14日には満開に近い状態だった。

夏井川堤防沿い、平字中神谷地内の農家の庭でも梅の花が見られた。国道399号と一部重なる県道小野四倉線沿いでは、平地から一段高くなる小川町・高崎あたり、知人の家の梅の木がちらほら花をつけていた。

翌年は逆に、「梅前線」がなかなか到着しなかった。旧小名浜測候所による生物季節観測では、小名浜の梅開花の平年値は2月18日。この年、小名浜では開花が3月22日と、平年より1カ月も遅れた。

渓谷の牛小川の手前、椚平に友人の家がある。ここでは2015年、師走のうちに咲き出したことがある――

梅の開花時期には2カ月ほどの幅がある。この冬は暖かくて、かえって花芽の覚醒が遅れたか。

2024年2月14日水曜日

葬送支援

                      
   もう半月前になる。1月29日に平地区行政嘱託員協議会の研修会が開かれた=写真。「安心・安全に暮らすために~地域包括ケアの取り組み~」をテーマに、特定非営利活動法人「地域福祉ネットワークいわき」事務局長の園部義博さんが講演した。

園部さんは元市職員で、福祉行政に詳しい。個人的にも知っている。高齢者の買い物支援や葬送支援といった話に、どこの地域でも、そしてだれもがケアを必要とする時代に入ったことを痛感した。

市内各地区に地域包括支援センターがある。NPO法人の同ネットワークいわきが市から事業を受託して運営している。

たとえば昨秋、シルバーリハビリ体操体験会・意見交換会がわが区で開かれた。平地域包括支援センター、つまりNPO法人の同ネットワークいわきが主催した。

個人的にも同センターに相談の電話を入れるときがある。その相手はやはりこのNPO法人だった。

地域包括支援センターは平成18(2006)年度、市の直営でスタートし、翌年度から同ネットワークいわきが受託・運営をしている。

講演資料によると、主な役割は①何でも相談②介護予防③権利擁護④ケアマネジャー支援⑤認知症対応――だ。

障がい者相談支援センターも、市から受託して運営している。同センターは包括支援センターと同じところにある。

園部さんの話で驚いたのは、入居・入所・葬送支援事業だ。アパートに入居したり、福祉施設に入所したりするときの保証人サービスをするだけではない。

本人が元気なうちに葬送についての意思を確認し、それに基づいてお寺や葬儀社、公正証書の準備をして、死亡時に対応する。

あとで検索をしたところ、共同埋葬、個人納骨、あるいは樹木葬で費用は異なるらしい。

園部さんによると、年間100~150人から相談がある。子どもがいても30年以上音信不通、などといった理由で身寄りがない例が少なくないそうだ。

来年(2025年)は、いわゆる「団塊の世代」がすべて後期高齢者に入る。私はその真ん中にいる。

いわき市の令和2(2020)年現在の統計でも、市民3人に1人は65歳以上の高齢者だ。高齢者のみの世帯もやはり3割を超える。独り暮らしの高齢者は全世帯の2割弱だ。

それをそのまま地域に当てはめると、「超高齢化・多死社会」が具体的なイメージとなって迫ってくる。

災害時にはだれがだれを支援するか。区の役員や民生委員が避難の支援に向かって犠牲になった例がある。

それに、役員自体が夫婦だけ、あるいは独り暮らしの高齢者、というケースが少なくない。

買い物やごみ出しといった日常生活に支障をきたす例が、これからますます増えてくる。虫の目で地域を見ると、やはりきめ細かなケアのネットワークがほしくなる。

2024年2月13日火曜日

書けないボールペン

                      
 ボールペンは3本、あるいは5本とまとめて買い、引き出しにしまっておく。それがよくなかったのだろうか。

 座卓のわきに小物入れがある。3段の引き出しになっていて、ホッジキスの針や鉛筆、カートリッジインクなどの文房具類を置いている。ボールペンもそう。インクが切れると新しいものを取り出す。

 そのボールペンが使い始めるとすぐ書けなくなった。インクはたっぷりある。しかたがない。次のボールペンを取り出して使うと、これもまた同じように書けなくなった。

 結局、使い始めてすぐ4本がダメになった。欠陥商品ではないか――。買った店に持ち込んで取り換えてもらおう、とも思ったが、やめた。

 同じ店から何年もまとめ買いをしてきた。また買おうという気は失せた。家のあちこちに筆立てがある。そこに眠っているボールペンをかき集め=写真、それを使い切ったらどうするか考えることにした。

 しかし、ゼロになるのは困る。1本を使い切り、2本目のインクが切れるころ、コンビニから1本を買ってきた。同時に、検索をして原因を探った。

ボールペンのインクがあるうちに書けなくなるのはなぜか――。今までまとめ買いしてきたメーカーの「答え」はこうだ。

中芯(インク)部分に空気が入り込んでいるケーズが考えられる。中芯に空気が入り込む現象は、ペン先が水平、あるいは上向きで筆記や保管された場合に起こり得る。

 思い当たるフシがあった。壁にかけてあるカレンダーにボールペンで予定を書き込んでいると、インクが薄れる。座いすを倒してあおむけになりながらメモしようとすると、インクが出ない。

ペン先のボールとボールホルダーの間には極小のすき間がある。普通に座ってボールペンを下向きにして動かすと、先端のボールが回転してインクが流れ続ける。つまり、字を、線を書き続けることができる。

ところが、ペン先が水平、あるいは上向きになっていると、ボールが回転したときに空気が入り込む。すると、再度、筆記できる状態に戻すことができなくなるのだという。重力が関係しているのだろう。

その予防策はノック式の場合だと、ペン先を中に収めて、下向きに立てて置く。キャップ式は逆にキャップを上にする。直射日光と高温多湿を避ける。というわけで、キャップ式、ノック式をそれぞれのやり方で筆立てに差し込んだ。

ただし、カートリッジ式の万年筆は、キャップを上にしておくと、なぜか字が書けなくなる。ペン自体がおかしくなっているのかもしれない。で、こちらはキャップを下向きにして差し込んでいる。そのせいか、インク漏れが起きるときもある。困ったものだ。

それはともかく、未使用のボールペンを引き出しに入れて置いたくらいで、すぐ書けなくなるものなのか、いまだに解せない。

2024年2月10日土曜日

見事なズングリ

                               
   夏井川渓谷の隠居の庭では、三春ネギのほかに辛み大根をつくっている。「つくっている」というよりは、勝手に生えてくるのを「見守っている」といった方が早い。

いわき語に「ふっつぇ」という言葉がある。「どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」(いわき市教委編『いわきの方言調査報告書』2003年)をいう。

自然に生える「ふっつぇ」には違いないが、「どこからともなく」ではなく、出どころははっきりしている。

震災と原発事故のあと、知人から辛み大根の種をもらった。さやに入っているので、最初はそれを割って、小さく赤黒い種を取り出し、月遅れ盆のころにまいた。

冬に掘り残した株は春に花が咲き、さやをまとって結実する。それも収穫して保存し、月遅れ盆のころ、同じようにしてまいた。

ところが、取り残してこぼれ落ちたさやがいっぱいあった。これが初秋になると発芽した。

さやを割って種を取り出さなくても、時期がくると種がさやを破って(さやが自然に破けて?)発芽するのだと知った。

それからはますます手抜きに拍車がかかった。辛み大根が生えるエリアは耕さない。耕すと根にストレスがかからず、針のように細く長い大根になってしまう。ズングリにするには不耕起、つまり耕さずに放っておくのが一番と知った。

手を加えるとすれば、発芽したあとに周りの草をむしって日当たりをよくする、たまにパラッと肥料をまくくらいだ。種をまくのもやめた。

早いと11月には直径5センチ、長さ15センチほどの「ズングリ」が収穫できる。大根おろしにすると辛い。放置しても、この辛みが味わえる。手抜き人間にはもってこいの野菜だ。

ところが、やはり植物である。去年(2023年)は普通の大根のように太く長いのが生えた。

冬に掘り取って食べると……。辛みに強弱がある。どちらかというと、辛みが弱い。もしかして、交雑した?

大根はアブラナ科だ。アブラナ科の植物は交雑しやすい、とネットにあった。いつの間にか身近なアブラナ科のものと交配して、形質が変わってしまったか。

普通の大根との交雑だったかもしれない。種もまかないのに長い大根が採れたワケが推測できた。

さて、この冬の辛み大根はどうか。一番大きく葉を広げ、冬の寒さの中でかじかんできたところを引っこ抜くと、見事なズングリだった=写真(右側)。

同じところに生え出ていたのは、立派な葉にさえぎられて育ちが悪かったようだが、これもそれなりに辛みが強かった。

会津・三島の辛み大根がルーツだ。ここの大根に似て、根元がふくれて急に細くなる。径は7センチ、長さは15センチほどあった。

辛み大根本来の形状で、揚げ物に、そばに、吸い物に辛み大根をおろしてのせたのが出てきた。七色唐辛子とは別の辛みが新鮮だった。「冬期間限定」の味をしばらくは楽しめそうだ。

2024年2月9日金曜日

「東京ブギウギ」

                      
 菊池清麿著『増補新版 評伝服部良一』(彩流社、2023年)=写真=を読みながら、福島市出身の作曲家古関裕而(1909~89年)のことを思い出していた。

 令和2(2020)年度前半、古関裕而をモデルにした朝ドラ「エール」が放送された。そのとき、こんな文章を書いた。

――古関より一回りほど年長のいわきの人間、たとえば三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、若松(吉野)せい(1899年)たちは、若いころ、山村暮鳥を中心に文学活動を展開した。雑誌・新聞などの活字メディアが発表の場だった。

これに対して古関たちは、活字メディアだけなく、新しいメディアであるラジオにも影響を受け、表現の可能性を見いだしていったのではないか。

というのは、日本でラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年3月だからだ。いわきの群像のなかで一番若い心平でも22歳になっている。影響を受けやすい少年期には、ラジオはなかった。

いわきは文学、福島は音楽。その違いがラジオ放送の有無だったと決めつけるわけではないが、重要な要素になっていたのは確かだろう。

辻田真佐憲著『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書、2020年)にこうある。

古関が福島商業学校(現福島商業高校)に通っていたころ、「北原白秋や三木露風の詩を好んでいたことに加えて、『楽治雄』というペンネームを使っていた(略)。いうまでもなく、ラジオに影響を受けたものだった」――。

歌手福来スズ子(モデルは笠置シヅ子=1914~85年)を主人公にした朝ドラ「ブギウギ」を見ている。

2月7日には、作曲家羽鳥善一(モデルは服部良一=1907~93年)の脳内に「東京ブギウギ」のメロディーが浮かぶシーンが放送された。

この場面は『評伝服部良一』で読んでいた。同書に、服部の自伝『ぼくの音楽人生』が引用されている。

中央線の電車に人がいっぱい乗っている。服部もつり革を握って、電車の振動に身をゆだねていた。

「レールをきざむ電車の振動が並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように八拍のブギのリズムとなって感じられる。ツツ・ツツ・ツツ・ツツ……ソ、ラ、ド、ミ、レドラ……」

浮かんだメロディーを忘れないうちにメモしようと、羽鳥(服部)は駅を降りると目の前の喫茶店に飛び込み、紙ナプキンをもらって音符を書き込む。

そして、翌8日の「ブギウギ」では米兵を招いてのレコーディングシーンが描かれた。米兵の反応を見て、羽鳥たちは「東京ブギウギ」が大衆に受け入れられることを確信する。

 服部良一は古関裕而と同世代だ。6歳のころ、教会の日曜学校で讃美歌に触れ、西洋音楽に目覚めた。さらに、生まれ育った大阪、なかでも道頓堀はジャズの中心地だった。

そんな環境と新しいメディアが、やはり服部を音楽の道へと歩ませたのではないか、そんな気がしてならない。