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2025年12月9日火曜日

渓谷のあの店が…

        
 磐越東線の江田駅(旧江田信号場)といえば、眼下の県道沿いに立つ朝日屋である。江田駅と朝日屋は、私の中では常にセットで記憶されている。

 それをはっきり自覚するようになったのは、平成7(1995)年以降だ。この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日には地下鉄サリン事件が起きた。

さらに(これは個人的な出来事だが)この年、5月末から義父が建てた渓谷の隠居へ通い始めた。

毎週土曜日夕方、ひとり車で朝日屋の前、つまりは江田駅の下を通って牛小川の隠居へ行く。

カミサンはたまに翌日曜日、一番列車で平(現いわき)駅から江田駅までやって来る。私は車で迎えに行き、朝日屋のそばの駐車場でカミサンが階段を下りてくるのを待つ、ということを長年続けた。今は日曜日、夫婦2人だけの隠居通いである。

江田駅は、ハイカーが背戸峨廊(セドガロ=夏井川支流の江田川)に入渓するための降車駅でもある。帰りはもちろん同駅から列車に乗る。

朝日屋は食料品店兼食堂だった。ハイカーや行楽客が食事をし、食料品を買い求める店でもあった。

 いつだったか記憶が定かではないが、食堂が営業をやめ、それを知らずに入った私は、代わりにカップヌードルを買って店を出た。

 それからしばらくたって、といっても2~3年前までは開いていたようだが、食料品店もやめて建物が残るだけになった。

渓谷へ通い始めたころ、私らはまだ40代だった。朝日屋のご夫婦は、私たちの親よりは少し若い年代のようにみえた。

 その朝日屋に防塵ネットが張られ、重機が入って建物を解体し始めたのに気づいたのは11月30日。

 その1週間後、隠居からの帰りに見ると、かなり解体が進んでいた=写真。14日の日曜日には、更地になっているかもしれない。

解体風景を見て、江田駅にまつわる思い出がよみがえった。まだ信号場時代のことだ。高専の夏休みが始まるのに合わせ、同級生数人と一緒に汽車で中通りの実家に帰省した。

途中、江田信号場で1人の女子高生が下車した。車内で声をかけたのかどうか、同級生の1人がえらく彼女に興味を示した。

あとで付き合いを始めたか、いやそこまではいかなかったか。そのへんは記憶もあいまいだが、車内ではその女子高生の話で大いに盛り上がった。

江田信号場経由で背戸峨廊へ入渓したときには、偶然、小名浜の従妹(いとこ)を含む他校生と一緒になった。

もしかしたら朝日屋へ寄ったかもしれない。が、なにしろ60年前のことで、記憶は既にもうろうとしている。

その朝日屋が姿を消す。江田駅とセットの朝日屋にまつわる記憶も、あらかたは「更地」になってしまうのかもしれない。

まだ建物の残像が生きているうちに、自分自身のために、朝日屋の思い出をブログに残しておこう。そんな気持ちがわいたのだった。

2021年9月8日水曜日

虹の生まれる瞬間

        
 日曜日(9月5日)にいわき市長選の投開票が行われた。地元投票所の立会人を務めたので、カツオの刺し身は翌日回しにした。

 月曜日の夕方、いつもの魚屋(平・草野)に向かうと――。国道6号の先、ちょうど道路から虹が伸び始めるところだった。店主がカツオをさばいている間、店の前で虹を見る。1分。2分。3分もたつと、左から右へと大きな虹の架け橋ができた=写真。虹の成長の速さもそうだが、その大きさに目を見張った。

 国道の交通量は多い。南下(正確には南西下)する車は前方右手に太陽が見える。北上(北東上)する車は虹の根っこに向かって進んでいく。太陽と虹と人間はそんな位置関係だ。

 単なる自然現象といったら身もふたもない。巨大地震や津波、台風、土石流といった破壊的な自然現象がある。一方で、人間を引きつけてやまない現象もある。瞬間的に現れては消える虹や朝焼け・夕焼け、そして四季折々の変化などだ。

 だからこそ、その瞬間に遭遇した人間は感動を胸に刻む。絵や写真にし、文字にして残す。月曜日夕方の虹も、歩道のあちこちで人がスマホをカシャッとやり、動画に撮っていた。カミサンも私のデジカメで撮り続けた。

「夕焼けがすごい」。この7~8月、店を閉めるときにカミサンが何度か叫んで私を呼んだ。みずからデジカメを手にして撮影することもあった。そんな夕焼けの写真データが、7月は4日分、8月は3日分も残っている。雲が多いのに夕方には晴れる、という日が少なくなかったようだ。

霜山徳爾(とくじ)訳のV・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房、2000年新装判)に出てくる夕焼けもすごかったのだろう。胸騒ぎがするような夕焼けに出合うと、いつもそのことを思い出す。自然は絶望に沈んでいる人間にも希望の光をもたらす。

 ナチスドイツによって強制収容所に入れられたユダヤ人が、労働に疲れてバラックの土間に横たわっていると、仲間の1人がみんなを外へ呼び出した。

「われわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。(中略)感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に『世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう』と尋ねる声が聞こえた」

 新型コロナウイルス感染問題では、専門家が「野戦病院が必要」というところまで医療が逼迫(ひっぱく)している。鉄砲玉の代わりにウイルスが飛び交っている――そんな非常状態を「戦争」とみなしてもおかしくないほど人間は追い詰められている、ということなのだろうか。

虹の話に戻る。フランクルの夕焼けにも匹敵する、コロナ禍の虹の誕生だ。西日からのプレゼントだ。湿った空気が漂うなかで出現した天空のアートを“つま”に、前日の投票立会人の仕事を振り返りながら、一日遅れのカツ刺しをゆっくり味わった。

2021年5月12日水曜日

ゆっくり夏服に

                      
 日曜日(5月9日)に夏井川渓谷の隠居で土いじりをした帰り、いわき駅前のラトブで買い物をした。

 コロナ感染症防止一斉行動の実施に伴い、市立の美術館や図書館などが4月29日から5月16日まで臨時休館になった(きのう=5月11日、臨時記者会見で市長が5月31日までの延長を発表)。

ラトブの4~5階に総合図書館が入居している。三日にいっぺんは本を借りに行った。図書館が休みでは街へ行く理由がない。

 4月28日以来、11日ぶりのいわき駅前だった。街はすっかり初夏の装いに替わっていた。Tシャツや半そでシャツの人が目立った。若い人だけではない。同世代にも夏服に切り替えた人がいる。

 私は、ズボンはコール天(コーデュロイ)、シャツは厚手の長そでのまま。慢性の不整脈なので血の巡りが悪い。日中は暑いからといって薄手の半そでに切り替えると、気温の低い朝や晩には手足が冷える。

 とはいえ、大型連休前にはツバメが近所のスーパーにやって来て、巣づくりを始めた=写真上1。連休が終わったら、いつもの魚屋さんからスズキの粗をもらった。日曜日、カツオの刺し身のほかに、スズキの粗汁が出た=写真上2。街だけでなく、自然もまた初夏のステージに移った。

5月、10日までのハマと内陸の気温はどうだったか。小名浜は9、10日と最高気温が25度前後だったが、それまでは20度そこそこだった。内陸の山田(いわき市南部)もまた2日を除いて20度を超え、「みどりの日」の4日には24.8度と夏日に近かった。半面、最低気温は3日が5.7度、9日が13.3度と、ハマの小名浜以上に波がある。

日曜日には隠居の畑で、フィールドカートに座ったまま草むしりをした。それだけの作業でも直射日光をあびて汗をかいた。コール天のズボンと長そでで屋外作業をするのはそろそろ終わりだ。今度は熱中症に注意しないといけない。

一枚ずつ皮をはぐように、ゆっくりゆっくり冬服から夏服に切り替える。とりあえず、ズボンを薄手のものに替えた。シャツも最低気温を見ながら、夏用の長そでに切り替える。新陳代謝機能が衰えた今は、若者のようにパッパッとはいかない。

ただ、履物だけは早い時期に冬用から通気のいい夏用に切り替えた。冬靴では熱がこもって足が蒸れる。これは耐えられない。

 寝床の掛布団も、一時は毛布やらなんやらが上に掛かっていたが、今はすっかり薄くなった。しかし、パジャマはまだ冬のままだ。

このごろは布団が軽くなったせいもあるのか、体が右に左にとよく動く。肩が布団から出てしまっているときもある。厚手のパジャマだから肩が出たくらいでは寒さも感じないが、「風邪は背中から引く」という作家池波正太郎の言葉もある。で、夏のパジャマにはなかなか切り替えられない。

 こたつを利用した座卓もそうだ。三重のカバーの中に熱がこもる。といって、薄手のカバー1枚だけだと、太もものあたりがまだ寒い。

コロナ禍の今、風邪を引いて熱を出すことが一番怖い。ここはやはりガマンできるものはガマンするしかない。

2021年5月11日火曜日

父・猪狩満直を介した息子の物語

         
 いわき市好間町川中子(かわなご)出身の詩人猪狩満直(1898~1938年)の詩碑が、開拓農民として暮らした北海道の阿寒郡阿寒町(現釧路市阿寒町)の農村公園と、生家が移築されたいわき市暮らしの伝承郷の「猪狩家」前庭に立つ。

満直生誕100年、没後60年に当たる平成10(1998)年、いわき地域学會初代代表幹事・故里見庫男さんが中心になって市民に寄金を呼びかけた。

記念の冊子を編集した縁で、満直のお子さんたちと知り合った。以来、次男の洋さん、三女住子さん、四女光代さんにはなにかと目をかけてもらっている。去年(2020年)は住子さんを介して洋さんから満直自筆の絵はがき=写真上=が届き、今回はまた洋さんのエッセーが載った同人誌「別嬢」=写真下=の恵贈にあずかった。

「別嬢」は、兵庫県加古川市の詩人高橋夏男さんが編集している<詩・随筆・批評>の雑誌だ。高橋さんが洋さんのエッセー「生い立ち」「縁(えにし)の妙」の2編をもとに、「農民詩人猪狩満直『移住民』の系譜」という題で特集を組んだ。

「生い立ち」で、洋さんは北海道で生まれた自分の半生を振り返っている。戦後、洋さんはいわきから上京し、町工場で働いたあと起業した。今は羽田空港近くの工業団地に移転して、2人の息子が経営を引き継いでいる。

「縁の妙」では、東京中小企業家同友会の賀詞交歓会に北海道の経営者が加わり、洋さんが生まれ故郷(北海道)と父親の話をすると、「エッ、何満直(マンチョク)さんの次男だって」とびっくりされた話を紹介している。中の一人が、北海道を代表する詩人更科源蔵と交流があり、その縁で更科の親友である満直を知っていたのだった。

 ほかにも、旋盤工にして作家の小関智弘さん(1933~)との親交、父・満直と草野心平、吉野義也(三野混沌)・せいとの交流に触れながら、小関さんに『猪狩満直全集』を贈ったこと、小関さんはせいの『洟をたらした神』を読んでいたことなど、興味深い話が続く。

 さらに、満直と宮沢賢治との、同人誌「銅鑼」でのつながり、賢治の死を知ったときの哀悼短歌三首を紹介している。「歳若き北なる友の逝きしといふ 悲しき報せ馳せ来たりけり」「友の訃の封書掌になし み上ぐるに一片の雲の空にまよへる」「逝ける君 君に贈らん辞(ことば)なし 只目をつむり衿を合はする」

賢治の没後、遺言によって「国訳妙法蓮華経」がつくられ、賢治の弟清六から満直に贈られた。2年半前、いわき市立草野心平記念文学館で開館20周年を記念する秋の企画「生誕120年記念猪狩満直展」が開かれたとき、目にして2人の絆の強さを実感した。

 賢治の童話をむさぼり読んでいたころ、小関さんのルポ作品『春は鉄までが匂った』にも感銘を受けた。町工場のものづくりを生き生きと伝えた代表作で、春になるとときどきこのタイトルが頭に浮かんだ。洋さんと小関さんの絆、これもまた私には「縁の妙」に思えた。

2021年5月9日日曜日

懐かしい花たち

                            
 コロナ禍の巣ごもりだけではストレスがたまる。いや、ますます社会や自然と縁遠くなる。足の筋力維持と野草ウオッチングを兼ねて、車で石森山へ出かけ、遊歩道を散歩することを始めた。大型連休中も3回、遊歩道に入った。森の中でも人とすれ違うかもしれないので、マスクは欠かせない。

石森山は「生活環境保全林」に指定されている。山の上に市フラワーセンターの花壇が広がる。周囲の尾根や沢筋には遊歩道が張り巡らされている(17コースある)。

「みどりの日」(5月4日)。同センターの駐車場は満パイだった。遊歩道には、ふだん人はいない。孤独な散歩を楽しんでいるが、さすがにこの日は緑と親しむ人が遊歩道を巡っていた。マスクをかけた1人とすれ違い、2人を遠目に見た。

 一本の遊歩道を最初から最後まで歩き通すような体力はない。入り口から30~50メートル入って引き返す。それでも、木の幹や若葉、野草をじっくりながめると、気持ちが落ち着く。

主に30代のとき、この山の遊歩道を巡り続けた。40代になって、夏井川渓谷の隠居へ通うようになると、自然と足が遠のいた。コロナ禍の森の散歩は、忘れていた草花を思い出すいい機会になった。

「現場」の記憶は「現場」に立つと細部までよみがえる。そのあらわれ方は二つ。「個体」か「環境」だ。個体はそれぞれの野草の名前と特徴を、花を見て思い出す。環境は、たとえば、「ここではニワトコの立ち枯れにアラゲキクラゲが生えていた」「ここの倒木にオオゴムタケが生えていた」といったようなことだ。

当然ながら、何十年も過ぎれば、立ち枯れの木は菌類に分解されてない。そのあとに若い木が生えている。残念ながら名前がよくわからない。自然は絶えず変化・流動しながら安定を求める。

久しぶりに出合った花たちを二つ紹介する。フデリンドウ=写真上1。あるところに、青い金平糖のようにちらばっていた。フデリンドウとよく似た花にハルリンドウがある。一つの花茎の先に数個の花を咲かせていたら、フデリンドウ。フデは筆。花を閉じると筆の穂先のように見えるという意味で、漢字では「筆竜胆」と書くらしい。

葉の中央に小さな花を付けているのはハナイカダ=写真上2。雄花(おばな)と雌花(めばな)がある。雄花は数個、雌花は1~2個。写真の花は雄花ということになる。

若いときはギンランとキンランにも出合った。それが見当たらない。福島県レッドデータブックでは、ギンランは準絶滅危惧種、キンランは絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。なぜそうなったのかははっきりしている。乱掘だ。

ラン科の花の代わりに、今では懐かしい動物を――。石森山までの道沿いに1匹、ヤギがいた=写真上3。ロープが長いので放し飼いに近い。先日は田んぼの土手の草をむしゃむしゃやっていた。こうなると、生きた草刈り機だ。人ではなく、野草やヤギに出合う。こういう外出は思っている以上のストレス解消になる。

2021年5月8日土曜日

十念・仏画・仏具

                     
   いわきの歴史研究家、故佐藤孝徳さん(江名)が平成7(1995)年に『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出版した。校正を担当した。

平山崎にある同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た若者が修学に励む“大学”(名越派檀林)でもあった――。

寺の歴史や浄土宗名越派の教えなどを学ぶいい機会になった。名越派の教えの根本は「一念業成(いちねんごうじょう)」。同書によれば、「ただ一念でも念仏する者があれば阿弥陀さまの計らいにより救ってくだされる」という立場だ。「一念」とは1回、「南無阿弥陀仏」を唱えることをいう。

今は「多念業成(たねんごうじょう)」が浄土宗の根本的な教えになっている。というより、ずっとそれが主流だったのだろう。同書によると、多念業成は「多くの念仏を唱えることにより往生ができる」という考え方だ。

なぜ浄土宗の教えから入ったかというと、次のようなことを体験したからだ。東京出身の陶芸家緑川宏樹さん(1938~2010年)の墓の開眼式と納骨が3月下旬、いわき市常磐湯本町三函の浄土宗惣善寺(森大岳住職)で行われた。そのとき、参列者が住職から「十念」の発声の指導を受けた。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、……」を10回唱える。つまりは多念。はからずも孝徳さんの本を思い出したのだった。

同寺には岩手県出身の画家松田松雄さん(1937~2001年)の墓もある。緑川・松田さんは市民団体「いわき市民ギャラリー」を組織し、同じ画家の若松光一郎さん(1914~95年)を先頭に、市立美術館建設運動を推進した。寺の近くで生まれ育った若松さんもこの墓地に眠っている。

私が高専に通っていたころ、若松さんは美術の先生だった。ときどき先輩たちと自宅へ遊びに行った。松田、緑川さんとは新聞記者になってから、たびたび顔を合わせた。孝徳さんともいわき地域学會の集まりでよく会った。

アフターファイブになると、画家も陶芸家も新聞記者もない、しょっちゅう草野美術ホールや画廊喫茶「珈琲門」に集まっては飲んで話したものだ。

住職の十念に合わせながら、若松、緑川、松田、孝徳さんの顔が走馬灯のように現れては消え、消えては現れた。

住職は若いころ、松田さんと緑川さんに師事した。その縁だろう。本堂に松田さんの絵=写真上1=と緑川さんの陶器=写真上2=が飾られていた。お寺に飾られると、絵は「仏画」になり、陶器は「仏具」になるのだという。なるほど。

それから早くも1カ月余がたつ。松田さんの娘の文ちゃんが告知していたが、盛岡市の岩手県立美術館では、この大型連休中にコレクション展「第1期 特集:没後20年 松田松雄」が始まった(7月18日まで)。「没後20年」という言葉に実は驚いている。もうそんなにたつのか。

6年前、同美術館で松田さんの回顧展が開かれたときには、東北新幹線を利用して日帰りで出かけた。岩手の人もそうでない人も、機会があればぜひ同美術館へ。

2021年5月7日金曜日

最後の「根室新聞」

        
 私と職場が一緒だった後輩が、最後の「根室新聞」を届けてくれた。彼女の友達が根室新聞社に勤めていたという。

 根室は、後輩にとっては特別な地。父親が乗り組んだいわきの漁船「第8協和丸」が花咲沖で遭難し、26人全員が帰らぬ人となった。いわきにゆかりのある作家真尾悦子さん(1919~2013年)の『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房、1984年)も、この事故を取り上げている。当時のいわき民報の記事を引用しながら、平成29(2017)年4月5日にブログを書いた。まずはその抜粋から。

 ――会社を辞めて間もない後輩が遊びに来た。雑談をしているうちに、「きょう(3月31日)は母の命日なの」とカミサンがもらした。すると、後輩も応じた。「私もけさ、父親の墓参りをして来ました」

真尾さんは『海恋い』の<あとがき>に本を書いた経緯を記している。漁村の女性の日常を知りたくていわきの浜で取材しているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合いになった」「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員二十六人行方不明のまま、六年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。

その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通いはじめ」、作品を仕上げる。<あとがき>にある「ふたり」のうちの1人が後輩の母親だった。それが頭にあったので、父親の墓参りをしたと聞いたとき、3月31日に遭難したのだと了解したのだった。

いわき民報は、事故のあった昭和47(1972)年3月31日付で第8協和丸が消息を断ったことを伝え、翌4月1日付で詳報している。同船は小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった――。

 このブログを書いてから4年がたつ。根室新聞を手に取るのは初めてだ。ほぼブランケット判(朝日などと縦は同じだが横が少し短い)、4ページ。令和3(2021)年3月31日が最後の新聞で、1面トップに社告が載る=写真。

戦後の混乱期、昭和22(1947)年1月6日に創刊したが、紙齢2万2249号で休刊のやむなきに至った。根室市の人口減少や少子高齢化による労働力不足などが重なり、人材確保が容易ではなくなった。苦渋の選択だった、とある。

同じ1面に載った「根室の新聞小史と根室新聞の歩み」を読むと、いわきの地域紙と同じ流れをたどっている。太平洋戦争前の昭和16(1941)年2月、地元2紙が合併して根室新聞が誕生、さらに翌年、道内の11紙が統合されて今に続く北海道新聞が生まれ、戦後、新しい根室新聞が創刊される。

いわき地方でも太平洋戦争前、日刊5紙が合併して磐城毎日新聞が生まれ、やがて「1県1紙」政策の中で福島民報の磐城夕刊となり、戦後、いわき民報が誕生する。

根室新聞よりいわき民報は1年早く産声を上げたが、コミュニティペーパーとしての歩みは全く同じといってよい。

山田健太専修大教授によると、日本の新聞はナショナル(全国紙)・ローカル(県紙)・コミュニティ(地域紙)の3層構造だ。コミュニティペーパーは全国ではかなりの数に上る。

根室新聞では記事の末尾に記者の名字が入る。3人のほか、1面コラム「ダイヤモンド」は「霧」の一字署名。少ない人数で毎日、これだけのスペースを埋めていたのだ。大変だったろうな、よく頑張ったな――同じ世界に身を置いた者として、哀惜の念を禁じ得なかった。

2021年5月6日木曜日

渓谷の緑の中に

        
 ゴールデンウイーク(大型連休)がきのう(5月5日)で終わった。ビフォー・アフターでいうと、わが生活圏にある「神谷耕土」では、田んぼに水が入り、代かきが行われて、日ごとに青田が増えた。ここは田植えが早い方だろう。

大型連休といっても、いつもの生活パターンの繰り返しだった。結果的には、コロナ感染防止一斉行動と一致した。去年(2020年)までと違うのは、車で10分ほどの石森山へ出かけて、遊歩道を散歩するようになったことか。大型連休中も3回行った。4月28日にも行った。

日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。そこへの行き帰りだけでも、ビフォー・アフターがはっきりしている。5月2日の日曜日。渓谷の江田でも田植えの準備が進められていた。平窪は? ここはわりとゆっくりのようだ。4月最後の日曜日、水が入った田は何枚あっただろう。今度の日曜日にはだいぶ青田になっているにちがいない。

田植えは、昔は梅雨期の6月にした。農家の最大の営みがゴールデンウイークに前倒しされるようになった。この時期、自然の営みも冬枯れの山が鮮やかな緑一色に変わる。これも劇的だ。

いわきを丸かじりするには、人間だけでなく自然も知る必要がある――そう自分に言い聞かせて、若いときからいわき地域学會の仲間や、それぞれの研究者に接触して、野鳥や野草、キノコについて学んできた。

おととい(5月4日)は「みどりの日」。きのうは「こどもの日」、そして「立夏」。渓谷は春の「山笑う」状態を過ぎたが、夏の「万緑」にはまだ早い。

「『山笑う』のあとはなんだっけ?」。カミサンにいうと、やはり「なんだっけ」。「山粧(装)う」がある。「山眠る」もある。「山粧う」は秋のようだが、夏は忘れて出てこない。ネットで検索したら、一発でわかった。「山滴る」だった。

ウィキペディアなどに従って出典を記すと――。北宋の山水画家・郭煕の画論「画游録」に、それが出てくるらしい。「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く、夏山蒼翠(そうすい)にして滴るが如く、秋山明浄にして粧(よそお)うが如く、冬山惨淡(さんたん)にして眠るが如く」

春夏秋冬の本質を「笑う」「滴る」「粧う」「眠る」と端的に表現するあたり、さすがは漢字の母国、というほかはない。

 去年(2020年)の8月、緑滴る山のあちこちに「ナラ枯れ」の“茶髪”があらわれたときには、目が点になった。

 秋になると、また驚いた。落葉樹は秋、葉柄の根元と枝の境目に離層ができて、葉柄ごときれいに枝から葉が落ちる。ナラ枯れの木はこれができない。いつまでも葉柄が枝に付いている。そのうち枯れて乾いた葉が強風に引きちぎられる。

それから年が新しくなり、「山滴る」初夏に変わった。周りは緑一色。ところが、そこだけポツンと穴が開いたように枯れたままの木がある=写真。去年のナラ枯れの木だ。

犯人は体長5ミリほどの小さな昆虫・カシノナガキクイムシ。雌が雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、産卵する。卵からかえった幼虫が孔道の掘削作業を続ける。と、木はあっという間に通水機能を失って枯死する。幼虫はその後、孔道内で成長・越冬し、6~8月、新成虫として一帯に散らばるという。間もなくその時節を迎える。

またコナラなどの大木が枯れるのかと思うと、ため息が出る。「山笑う」と「山滴る」の間には、「山悲しむ」あるいは「山憂う」もあった。

2021年5月5日水曜日

独活の糠漬け

        
 糠床を冬眠から覚ましたのは4月10日ごろ。いつもより半月早かった。間もなく糠漬け再開1カ月になる。毎朝、食事の前に糠床をかきまわす。

冬、食塩のふとんをかぶせて空気を遮断していたので、糠床には塩分がしみこんでいる。新しい糠を足し、肉じゃがの残り汁などを加えて「こく」を出したいのだが、なじむまでにはまだ時間がかかりそうだ。今のところ塩分過剰を頭において、糠床に入れた野菜を早めに取り出すようにしている。

 冷蔵庫に忘れられて水分が飛んだ大根があった。捨て漬けのつもりで糠床に入れた。あとで取り出すと、たくあんのようにしんなりしている。少しカットして食べたら、弾力があっていい歯ごたえだった。捨てずに全部食べた。

 以来、大根は買って来ると、10センチくらいの長さに切って縦に四つ割りにし、干してから漬けるようにしている。キュウリは逆だ。日を置くと水分が飛んで内部が綿のように白くなる。こうなると漬けてもおいしくない。キュウリは買って来たらすぐ漬ける。

キュウリは最初、一昼夜、つまり24時間漬けた。少ししょっぱかった。次に、朝に漬けて晩に取り出す「半日漬け」にしたら、ご飯のおかずにちょうど合っていた。

キュウリはさっさっと、大根はゆっくりと――。真逆の二つをセットで考える癖が付けば、糠漬けの幅が広がるかもしれない。

 コロナ禍の巣ごもり要請が続く。この10年余は在宅ワークの身。要請と現実が一致するとはいえ、図書館が休館し、予定されていた会議や行事が中止・延期になって外出する機会が減った。

 その分、家の中でできることを見つけないと、ストレスがたまる。この時期は、やはり糠漬け。なにを漬けるか、あれこれ考えるだけでも気がまぎれる。

 コロナ問題が起きた去年(2020年)もこの時期、同じことを考えて失敗したものがある。

池波正太郎『鬼平犯科帳』の「盗賊婚礼」に<独活(うど)の糠漬け>が出てくる。「清水門外、役宅の寝間で長谷川平蔵は久栄に肩をもみほぐしてもらいながら/『ああ極楽、極楽!』/独活のぬか漬けを肴に寝酒をやっていた」。これを食べたくて何度かつくってみたが、味がしみこむまでにはいかなかった。

道の駅よつくら港へ買い物に行ったら、独活を売っていた。今年こそリベンジだ。糠漬け用のキュウリ、大根のほかに、独活を衝動買いした。

ネットで検索したら、失敗の原因がわかった。皮をむいて(切り落として)、スティック状にして漬ける、とあった。今までは、スーパーで売っているものを、5センチほどの長さに切ってそのまま糠床に入れたから、独活の水分と糠床の塩分の浸透圧がうまくいかなかったのだ。

 今年は正しいやり方に従って皮をむき、水にさらしてアクを抜いたあと=写真上1、水分をふきとって糠床に入れた。初回は半日漬けにした。漬かり過ぎのようだったので、2回目は昼前に漬けて、晩に取り出したら、酒の肴にぴったりだった=写真上2(キュウリも晩酌用に浅漬かりにした)。

漬けすぎると独活の香りが消える。独特のえぐみも感じられなくなる。ほのかなえぐみと香りが口中に広がった。これを鬼平は好んだのか。

最初に『鬼平犯科帳』を読んでからどのくらいたつだろう。20年、いや30年はたっている。そのくらいの時間をかけて、やっと「極楽」に近い心境になった。むいた皮はきんぴらになって出た。これも乙な味だった。

2021年5月4日火曜日

大型連休の過ごし方

                      
   新聞にA4判の白黒コピーのようなチラシが入っていた。「感染拡大防止一斉行動」とある=写真。どこが出したのか。「いわき市新型コロナウイルス感染症対策本部まん延防止対策班」だった。

市は4月24日~5月16日を感染拡大防止一斉行動期間に決め、4月29日から公民館や図書館、美術館、文学館などの公共施設を臨時休館にした。

チラシは一般市民向けで、①不要不急の外出・往来自粛②家庭でも対策を③事業所・学校は取組の強化を――と訴えている。①には「今年のゴールデンウィークは、旅行や帰省を控え、市内に留まって、自宅でゆっくり楽しみましょう」とあった。

巣ごもりが日常の年金生活者だから、あえて意識して外出・往来を自粛する必要はない。4月後半の日曜日、連続して市境を超えるマイクロツーリズムを敢行した。すでに遠出はしたので、4月29日から5月5日までの大型連休中は、いつものように巣ごもりをして過ごす。

とはいえ、人間は一人で生きているわけではない。家事がある。一日のほんのちょっとの時間であっても、所属する団体(区内会やいわき地域学會)の仕事がある。関係しているコミュニティの数だけ他人とのかかわりも増える。

この大型連休中も日替わりで仕事をした。4月29日=区内会の回覧チラシづくり、同30日=回覧資料の袋詰めと、地域学會の市民講座延期案内はがきの印刷、総会資料づくり。

感染防止一斉行動で市民講座の会場に予定していた市文化センターが臨時休館になった。1カ月延期を会員に連絡しないといけない。定期総会も去年(2020年)と同様、書面審議に切り替えた。その資料を印刷できるところまで、事務局の3人で半日がかりで整理した。

5月1日=朝、回覧資料(「広報いわき」と区費納入の案内チラシ)を、役員さん宅や担当する隣組の班長さん宅へ届ける。同2日は日曜日。夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。同5日、つまりあしたはFMいわきで収録がある。3日もそうだったが、4日はそのための準備に充てる。

コロナ禍を機に、古巣のいわき民報で拙ブログの連載(「夕刊発磐城蘭土紀行」)が始まった。今年(2021年)はさらに4月から3カ月間、FMいわきでも「FM発磐城蘭土紀行」を週1回放送している。

ブログは晩酌をやりながら下書きをし、寝る前に入力して早朝、清書したのをネットにアップする、というやり方だった。が、新聞転載が始まると、活字になって残る怖さがよみがえった。今は一日早く原稿をつくっておく。そのために、日中、ブログを仕上げるという、現役並みのやり方に替わった。

だから、巣ごもりというよりは、テレワークで「新聞コラム」を書いている記者、といった意識になるときがある。

巣ごもりをしていたら、コラム(ブログ)を毎日は書けない。かといって、酒場で情報を集めるのも時世と年齢と経済が許さない。

外出・往来自粛は人込みを避けよ、ということであって、隠居へ出かけて土いじりをしたり、近くの石森山へ車で行って、遊歩道を散歩したりするな、ということではない。

行政は巣ごもりしか言わないが、ひとり散歩・ひとり釣り・ひとりバードウオッチングは、精神的なバランスを取るためにも必要、と私は思っている。きょうも石森山へ行って、野草ウオッチングをしようかな。

2021年5月3日月曜日

ここにも向こうにも雄のキジ

        
 平市街の東端・鎌田で左に大きくカーブした夏井川は、そのあと蛇行して太平洋へ向かう。右岸・山崎、左岸・中神谷にそれぞれ、サッカーコートが2面も3面もとれるような河川敷が広がる。最近、除草とヤナギなどの木の伐採が行われて、土砂がむきだしになった。

 例年より早く春がきて、4月下旬にしては初夏を思わせる天気になった。広い河川敷にも草が萌え、日ごとに“草原”の様相を呈している。

 臨時休館になる前の総合図書館からの帰り、いつものように夏井川の堤防を通ると、中神谷の“草原”になにやら黒いかたまりが二つある。雄のキジだった。1羽は前に目撃した同じ川岸に、もう1羽は堤防の近く、サイクリングロードのそばにいた。

 普通のデジカメで向こうのキジとこちらのキジを撮る。あとで拡大したら、川岸のキジは「ケーン、ケーン」と鳴いて母衣(ほろ)打ちをしているところだった=写真上。堤防近くのキジは、車を止めた私に気づいて体をすくめている=写真下。

 以前はヨシも茂って隠れる場所があちこちにあった。今年(2021年)は見晴らしがよすぎる代わりに、ライバルからも簡単に見つけられる。向こうとこちらまではざっと100メートルの距離があるので、縄張りをめぐってケンカになることはない。が、どこかに見えない境界があるはずだ。

 朝晩、この堤防を散歩していたころ、初夏に雄のキジがよく鳴いた。1羽や2羽ではきかない。いったい夏井川の河川敷に雄のキジが何羽いるのか、“試算”したことがある。そのときの拙ブログ(2008年5月23日)を要約して載せる。

――1羽が鳴くと、必ず少し離れたところで別の1羽が鳴く。それが下流の方まで延々と続く。肉眼では黒い粒でしかないキジも、双眼鏡で見ると、赤い肉だれと気品のある緑黒色の体がよく分かる。対岸ばかりでなく、こちら側に来ているときもあるから、川の両岸が同じオスの縄張りとみてよい。

ある朝6時ごろ、いつものように堤防の上を歩いていると、右岸の3カ所からキジの鳴き声が聞こえた。音源を探ると1羽は畑の真ん中に、ほかの2羽はそれぞれ離れて河川敷の砂地に近い草むらにいる。肉眼でもはっきり見える。

3羽の距離を歩いて測った。AキジとBキジの間は240歩(一歩90センチとして216メートル)、BキジとCキジの間は100歩(同じく90メートル)である。真ん中のBキジの縄張りは、中間で線引きをすると108メートル+45メートル=153メートルになる。

少し余裕をもたせて200メートルごとに縄張りがあるとすると、現にその程度の間隔で「ケーン、ケーン」と鳴いているのだが、雄のキジは1キロメートルに5羽、河口まで4キロメートルとして25羽がそれぞれ縄張りを持っていることになる。もう少し狭めて150メートルごとにオスがいるとすると、33羽だ。これはいくらなんでも多いか――。

こんな試算は科学的ではないかもしれない。しかし、縄張りの面積はともかく、その面積の一端=線的な区切りでいえば、実測に近い。けっこう密になっている印象だった。

あの雄の華麗な体色はしかし、草むらにうずくまると周りの緑にとけこんで姿がわからなくなる。助手席に置いてあるカメラを取るために視線をはずしたら、どこにいるか見つけるまでに時間がかかった。

2021年5月2日日曜日

『いわきの産業復興』

                                 
 今年(2021年)は常磐炭砿の磐城砿業所閉山から50年、そして東日本大震災・原発事故から10年――。

さらに、企業への支援を行ってきた公益財団法人いわき産学官ネットワーク協会の設立から15年だという。

同協会の設立15周年記念誌『いわきの産業復興~石炭産業の衰退と東日本大震災を超えて~』=写真=の恵贈にあずかった。同協会の荒木学・事務局次長(現市商業労政課長)が執筆した。

 鉱業から工業へ、臨海部の素材型産業から内陸部の加工組立型産業へ、さらに円高・バブル経済崩壊からの地域経済活性化と原発震災からの復興へ、というのが、いわき市の近代産業の大まかな流れらしい。

著者は災後、延べ900社を超える市内企業を訪問し、経営者からヒアリングをした(あとがき)。この徹底した聴き取りを基にして、『いわきの産業復興』が書かれたといってもよい。私にはとりわけ、第3部の「いわきの農業復興」が興味深かった。それに絞って書く。

原発震災の前年、市が在来作物発掘調査事業を始めた。たまたま夏井川渓谷の隠居で在来作物の「三春ネギ」を栽培していたので、当時、農業振興課の園芸振興係長だった著者と、広報広聴課の女性がわが家へ取材に来た。

「近年、食の安全・安心や地産地消への関心が高まり、伝統的な食文化を見直す動きが広まっています。このような中、市では、地域に伝わる昔ながらの在来作物を次世代へ継承するための取り組みを進めています」

「広報いわき」2010年8月号に、「いわきの伝統農産物を次世代へ」という特集が載った。その一環だった。

以来、いわきの「昔野菜」(伝統農産物)事業とかかわりをもち、「いわき昔野菜フェスティバル」に参加し、「いわき昔野菜図譜」に毎回、「はしがき」を書いた。

1回目のフェスティバルのおよそ1カ月半後に原発震災がおき、福島県内の農産物が風評被害に見舞われた。

そのあと、ネットメディアのJ―CASTニュースが「被災地からの寄稿」を始めた。【福島・いわき発】として拙ブログがときどき載った。その橋渡し役をしてくれたのが著者だった。

やがて、画期的な見える化プロジェクト「見せます!いわき」が始まる。『いわきの産業復興』のなかで、詳しく振り返っている。

「見せます!いわき」では、①何を言われても、関東以北の野菜は買いたくない②安全性が心配なので、避けるようにしている③気にしない、むしろ積極的に買う――のうち、②の消費者を対象に、情報を発信した。

 ②の層は「鵜吞みにしない」「『規制値以下』というだけでは安心できない」「判断がつかないから買わない」のであって、判断材料になるような情報(データ)を「見せる」ことで気持ちが動き、いわき産の野菜を買ってもいい、となるかもしれない。そこを目指した。

農業から始まった風評払拭への、この取り組みは、グッドデザイン賞を2回受賞するほどに高く評価された。

 農業その他の産業だけでなく、われわれ市民の普通の暮らしを“蘇生”させるためにも、この情報発信は必要だった。当時を振り返ると、行政も、被災地支援に入ったNGO(たとえば、シャプラニール=市民による海外協力の会)も、市民も、復旧・復興へ動いた人はすべて「戦友」――そんな思いになる。

昔野菜事業を始めていたからこそ、いわきでは災後、生産者と料理人、消費者のつながりがいちだんと強まった。それがまた復興への歩みを確かなものにした――そんな思いもよぎる。

個人的には、原発事故で「三春ネギ」の栽培を中断するわけにはいかない、地域の宝である「種」を切らすわけにはいかない――そんな覚悟で過ごした10年間でもあった。