2023年1月31日火曜日

50年か

                     
 台所と茶の間の境に戸がある。開け閉めがめんどうなので、戸は開けたままにしてカーテンをつるした。

 台所から茶の間に戻るときには、スリッパを脱いで敷居(しきい)をまたぐ。段差は2センチほどだろうか。

ある晩、銚子とポットを運んだあと、また台所から酒のつまみを運ぼうとして、敷居に足を引っ掛けた。あれっ! 前のめりになって宙を飛び、六法を踏んだ。いやー、転ばないでよかった。

前から自覚してはいたことだが、ジイバアの日常はトンチンカンの連続だ。若いときと違って、体も思うようには動いてくれない。

 前は余裕でこなしていたことが、なにかが足りなかったり、欠けたりする。それを、そばにいる人間が気づいてフォローする。「2人で1人」。もはやトンチンカンだらけで笑うしかなくなった。

 一方で、いかにも年寄りじみた趣味がぴったりはまることもある。正月三が日の最後の日、道路向かいの奥にある故義伯父の家で昼食をとった。

 火鉢を出す、木炭をくべる、金網をかける。そこで年末にカミサンの実家でついた白もちと豆もちを焼いた=写真上1。それがジイバアの昼食だった。

 言われたとおりにして、海苔(のり)に包んだもちを四つ食べた。若いときは、四つではもたなかった。もっと、もっと――となった。

 午後3時には“孫”が母親とやって来る。昼食をとったあとは家に戻って昼寝をし、調べものをして過ごした。

 上の“孫”は大学を出て社会人になった。下の“孫”は大学生だ。来るとすぐ、いろいろ近況を報告してくれた。そのうち、母親が「私らも銀婚式を迎えました」という。“孫”の年齢を考えればそうなるか。

 すると、私らは? カミサンが「今月で金婚式」と応じる。えっ、50年か――。そのあとに続くカミサンの言葉は省略する。

 長いと言えば長い道のりだが、あっという間の半世紀と言ってもおかしくない。なかでも震災はこの半世紀のなかで最大の出来事だった。

日常への向き合い方がガラリと変わった。「野原を断崖のように歩く」。作家開高健の言葉が胸にしみた。

当たり前の日常=野原は、実は当たり前ではなかった=断崖だった。断崖を野原のように勘違いして歩いていた。断崖が日常の本質なのだ、いつ転げ落ちるかわからない――ということを胸に刻む出来事だった。

ジョン・レノンが描いたヨーコと自分の肖像画の下に、英語で「ツー・イズ・ワン」とある。「2は1」、あるいは「2人は1つ」。こちらが考える「2人で1人」は、レノンの世界から離れて福祉的な意味合いが濃い。

カレンダーを見てフッとそんなことを思い出していたら、正月にやって来たファミリーから宅配便で花束が届いた=写真上2。ピンクを主体にした、上品な色合いにカミサンが感激していた。ありがたいことではある。

2023年1月30日月曜日

はさみ撃ち

                      
 きのう(1月29日)のブログをこんな文章でしめくくった。「小川の平地は雪がなかったといっても、その先はわからない。坂道があり、日陰がある。きょうの日曜日(1月29日)は、夏井川渓谷の隠居へ行くのをよして、街でいろいろ用を足すことにした」

 ブログをアップしたのは午前3時すぎだった。二度寝をしたあとパソコンを開いてネットにつなぐと、小川の知人がフェイスブックにこんな情報を寄せていた。

知人は二ツ箭山麓の国道399号沿いで「カエルかえるカフェ」を開いている。同カフェ界隈はまったく雪が降らず、金曜日の夜はいつもの通り星が見えていた――。

小川でも標高の高い山麓だ、星が見えていたとなれば、やはり小川は平地だけでなく山地も晴れていたのだ。

この情報に背中を押された。隠居は、水道管が凍結・破損して、台所が水浸しになっていないか。前にそうなったことがあるので、急きょ、車を走らせた。

その「路面状況報告記」である。結論からいうとまったく問題がなかった。家を出る前、注意しないといけない場所が、ここ、あそこと、次々に頭に浮かんだ。

たとえば、平・上神谷の先(鎌田)の切り通し、同・大室の坂道。そこは南側の車線が日陰になっている。実際、ほんの少しアイスバーンになっていた。そのあとは、日陰でも、坂道でも路面は乾いていた。

平・中塩を過ぎて同・平窪に入ると、雪がひとかけらもない。同じ平でも神谷とは別世界のような印象を受けた。

そこからさらに小川町へ進む。ここも別世界だった。雪がない。高崎の先、「地獄坂」が判断のポイントになる。雪があればそこで戻る。しかし、ここも路面は乾いたままだ。

もう心配はない。金曜の夜は、渓谷は晴れていたのだ。江田を通り、椚平を過ぎたあたりから、道端に少し雪が見られた。隠居の入り口とそれに続く敷地も白かった=写真。

たまたま地元の区長が軽トラでやって来た。あいさつを兼ねて雪の状況を聴く。「この雪は金曜日に降ったの?」「そう」。なるほど。渓谷と平市街の中間にある小川が金曜の夜、星空だったワケが想像できた。

小川町が雪の空白地帯だったのは、たぶんこうだ。会津に降った「冬の雪」が中通りを超えて渓谷まで吹っかけた。その先には届かなった。それが一つ。

もう一つは、海から南岸低気圧の「春の雪」が来たが、それは平の鎌田山(神谷と平市街を分ける=大室の坂道)あたりでとどまった。

春の雪は、量的にはたいしたことがなかった。土曜日の太陽であらかた解けた。とはいっても、寒波による影響を考えないわけにはいかない。

問題は水道管の凍結・破損だ。破損したかどうかは、隠居の台所の水道管が凍っていたのでわからなかった。

温水器と洗面所の元栓は早いうちから閉めている。問題は、今までは無事だった本管がどうなったか。

寒気が緩んで氷が水に変わったとき、水が噴いたら……、「水道のホームドクター」に連絡しないといけない。寒気の底にある今はまだ「仮の安心」でしかないことを自分に言い聞かせる。

2023年1月29日日曜日

白い朝

                     
 土曜日(1月28日)は、いったん3時過ぎに目が覚めた。玄関の戸を開けると、車が雪をかぶっていた。地面もあらかた白い。

あらためて朝日が昇ったころ、表に出る。歩道も白い。車のタイヤに圧雪された車道は、アスファルトがうっすら見える状態で凍っていた=写真上1。

そのあと、近所の歯医者さんがわが家の前まで歩道の雪かきをしてくれた。申し訳ない。そして、ありがたい。

 太平洋側に位置するいわきは、春先、列島南岸を低気圧が東進するとき、雪になりやすい。今度もそうだった。

 湿っぽい雪が少し積もった。2~3センチ。そんなものだが、気温が下がる明け方は、路面が凍結する。それで、坂道や日陰では通勤時間帯にスリップ事故が多発する。

 拙ブログによると、平成26(2014)2月8~10日は、けっこうな積雪があり、スリップ事故が多発した。典型的な春先の雪の例として、9年前の文章を抜粋する。

――屋根に積もった雪が日中、ダンスをしている。あっちでドスン、こっちでドスン。太陽に暖められて、屋根を少しずつ滑って、せり出した雪の板が、自分の重みに耐えかねて落下する。

その音が東から、南から、西から聞こえる。2階の物干し場にもドスン、ドスン。茶の間の空気が揺れる、揺れる。

 2月10日のいわき民報によると、8日未明から9日早朝まで降り続いた雪は、いわきの常磐・湯本で最大28センチに達した。「市内で記録に残る最深積雪28センチ(小名浜、大正5年1月)に匹敵し、98年ぶりの積雪となった」という。平地では“100年に一度”クラスの大雪だったわけか。

スリップ事故が多発した。いわき民報によれば、いわき中央・東・南3警察署管内で、2月8日正午から10日午前11時までに計103件の人身・物損事故が発生した――。

 さて、今回は土曜日だ。いわき民報には「ノロノロ運転」や「雪かき」の様子はあっても、「スリップ事故」の記述はなかった。

ツイッターの情報を総合すると、海岸部と、それに近い内陸は白かったが、いわき駅前の中心市街地は、さほどでもなかったようだ。山間部と接する小川町の平地も雪はなかったと、わが家に来た人が言っていた。

いずれにしても、土曜日は太陽が路面の雪を解かし、半渇きになるまで車の運転を控えた。

 巣ごもりをしていても寒い。毛糸の帽子をかぶり、ジャンパーを着ていると、金曜日に書いた。これは、石油ファンヒーターが、着火するとほどなく消えてしまうせいだった。

息子に、フィルターがほこりで目詰まりを起こしているのでは、と言われ、掃除したら復活した。毛糸の帽子も、ジャンパーも要らなくなった。

小川の平地は雪がなかったといっても、その先はわからない。坂道があり、日陰がある。きょうの日曜日(1月29日)は、夏井川渓谷の隠居へ行くのをよして、街でいろいろ用を足すことにした。

2023年1月28日土曜日

朝ドラの「新鋭歌人」

           
 このところ、飛行機雲=写真=を見るたびに、朝ドラの「舞いあがれ」を思い出す。なかでも注目しているのは、主人公・岩倉舞の幼なじみの一人、梅津貴司クン。舞の家の隣はお好み焼き屋「うめづ」で、そこの一人息子だ。短歌を詠む。きのう(1月27日)は応募した「長山短歌賞」の受賞の知らせが入った。

 子どものころからやさしく繊細なところがあった。近所の古本屋「デラシネ」に舞たちと入り浸っていた。

 店主の八木巌は文学に詳しい(ようだ)。2冊だけの自分の詩集も持っている。子どもの貴司がそれを読み、やがて詩を書き始める。

 ところが、就職して営業マンになったものの、思うように成績が上がらない。そのうえ、「避難場所」でもあったデラシネが閉店する。

 ここからあとはネットで記憶を修正しながら書く。突き放すような八木の励ましが心にしみる。「息ができへんぐらいしんどいときに生まれるのが詩や、もがいたらいいんや」

 八木からじかに閉店の話を聞いた貴司は「今、この店までなくなってしもうたら、僕どないしたらええんか」。すると、「短歌にしてみ。5・7・5、7・7のリズムに乗せたら、詰まった言葉も流れ出すで、きっと」。

貴司は間もなく会社を辞めて失踪する。舞は子どものころ、しばしば発熱した。医師の勧めで環境を変えることになり、母親のふるさと・五島列島で祖母と暮らした。そのとき、五島から貴司に絵はがきを出す。その絵はがきの灯台に貴司がいた。

さて、それからは歌人としての貴司が強調される。節目、節目で貴司が登場し、短歌が挿入される。

舞が航空学校を卒業したときには「屋上を/めぐり続ける/伝書鳩/飛べるよ高く/浮き雲よりも」。最初の文字に1字だけフリガナが付いている。それをつなぐと、「お・め・で・と・う」になる。

パイロットになる夢をあきらめて、父の残した工場の再建を決意した舞に、こういって励ます。「トビウオは、水の中におってもトビウオや」。もう一人の幼なじみがどういう意味かただすと、「歌人に解説求めるのは野暮やで」。これには笑った。そのとおりだから。

たぶん、そのときから貴司がぐっと近い存在になった。すると。やはり――というか、舞を励ます短歌が登場した。「君が行く/新たなる道を/照らすよう/千億の星に/頼んでおいた」

口語調の短歌は『サラダ記念日』以来だなと思っていたら、その作者俵万智さんがツイッターで貴司の歌を絶賛していることを知った。

最近は、とうとう劇中の新聞歌壇「今月の新鋭歌人」コーナーに取り上げられた。「歌壇桑野編」で短歌5首が紹介された。貴司の母親が舞たちに新聞を見せる。親としてもホッとしたことだろう。

新聞で貴司の成長を知った「デラシネ」の元店主が貴司に店のカギを渡す。貴司は今や、デラシネの2代目店主だ。近所の子どもたちも居場所にしている。

20歳前後は騒然とした東京で貴司のように思い屈していた。賢治童話を読み、詩を書くことだけが救いだった。そんな根無し草(デラシネ)的な記憶が貴司の生き方に重なる。

2023年1月27日金曜日

ガレの羊歯模様?

                              
 きのう(1月26日)の朝は、前の日よりさらに冷え込んだ。風呂場の曇りガラスに付着した水分が凍って、羊歯(しだ)植物のような模様ができていた=写真。前の日は、これがなかった。

 なにかに似ている……。しばらく考えて思い出した。アール・ヌーボーだ。フランスのガラス工芸家エミール・ガレ(1846~1904年)が羊歯紋様の花瓶をつくっていた。

 平成29(2017)年秋にいわき市立美術館で企画展「ロートレックとベル・エポックの巴里(パリ)――1900年」が開かれた。そのとき、ブログで少しアール・ヌーボーについて触れた。それを一部、引用する。

 チラシなどによると、産業革命後、19世紀末のパリは急速に都市化が進んだ。万博が5回も開かれた。美術館や駅が建設され、地下鉄が開通する。活字メディアが普及し、美術界ではアール・ヌーボーが生まれ、ジャポニスムの影響を受けた作家たちが活躍を始める。

 1900年――。パリは享楽的な雰囲気にあふれていた。やがて、第一次世界大戦が始まる。「これまで経験したことのない恐ろしく悲惨な戦争体験をした人々は、平和で活気に満ちていたこの時代を懐かしみ、特別な思いで『ベル・エポック』(良き時代、美しき時代)と呼ぶ」ようになった。

1900年は明治33年だ。日本では詩歌を中心とした文芸誌「明星」が創刊された年で、時をおかず、さし絵などにアール・ヌーボー風の作品が登場する。ジャポニスムの影響を受けた新しい装飾芸術が逆輸入されたわけだが、やがてそれを体現するのが「大正ロマン」の代表作家、日本のグラフィックデザイナーの草分け、竹久夢二だ。

 というわけで、アール・ヌーボーを代表する一人、ガレの作品が思い浮かんだのだが、現実には2日続けて寒気が体を刺した。

 最強寒波が襲来した前日(1月25日)は、小名浜で最低気温が-4,9度、最高も-0.9度と、一日氷点下だった。いわき民報によると、この冷え込みは昭和6(1931)年以来、92年ぶりとか。

内陸の山田町は同じ日、最低が-6.4度、最高が-1.8度と、小名浜よりさらに寒気がきつかった。

 26日はどうか。最低気温が小名浜で-6.2度、山田で-7.0度と、前日をさらに下回った。今季最低だという。窓ガラスの水分が凍って羊歯模様になるはずだ。

 25日は茶の間の石油ストーブとヒーターをつけっぱなしにし、こたつで調べものを続けたが、室温が20度以上にはならなかった。

 電気もフル稼働だったからか、夜、電気鍋で湯豆腐を始めるとすぐ、ブレーカーが落ちた。ヒーターを止めたとたん、室温は一気に20度を割って、17.5度まで下がった。

こうなると、家の中にいても寒気がこたえる。特に、疎林状態の頭部が。宵には毛糸の帽子にマフラー、ジャンパーと、外出するときと同じ防寒状対策をして過ごした。

26日は日中、晴れて風もなかったので、室温は少し上がった。これが冬の底であってほしい。そうなれば、あとは三寒四温の階段を上がって春を待つだけなのだが。

2023年1月26日木曜日

外の水道管は凍結

                             
 きのう(1月25日)は朝起きるとすぐ、台所の水道管をチェックした。蛇口をひねると水が出た=写真上1。

 台所の水道管はいったん未明に起きたとき、蛇口を開けてチョロチョロ水を出した。私より早く起きたカミサンが水の出ているのを見て止めたようだ。

 外にある洗い場の水道管はさすがに凍結していた。風呂場のシャワーも水は出なかった。どちらも何年か前、寒波で同じような“症状”になったことがある。凍結するだろうと覚悟していたので、こちらは自然に解凍するのを待つしかない。(外の水道管は午後1時過ぎには水が出た)

 前日(1月24日)は朝から天気が気になった。ざっとチェックしたところでは、曇り~雨~曇り~晴れ~雨~雪と、目まぐるしく変わった。

 夕方、デイケアから戻った義弟や家に来た人から直近の天気を聞いた。雨から雪に変わった、みぞれになった――そんな答えだった。

暗くなって寒さが増すと、雪がふっかけはじめ、歩道が白くなりかかった。朝、路面が凍結していたら、車での外出は避けないといけない。

というのは、スマホのバッテリーの件でいわき駅前・ラトブのドコモに点検の予約を入れていたからだ。

時間は10時半。それで、路面の様子を見て、予約取り消しの電話を入れるかどうか、決めることにした。

路面は意外や意外、すっかり乾いている。車もいつものスピードで行き来している。この状況では車の運転も大丈夫だろう。

いちおう、市内の状況がどうなっているか、「いわき」をキーワードに、ツイートをチェックした。場所は特定できないにしても、いわき市内の路面状況に関する「つぶやき」が次々に出てくる。

7時、8時、9時……。早い時間は家の周りの様子を、やがて通勤時間になってルートの状況をつぶやく。それで、いわきの平地は日陰(切り通しなど)も乾いた状況だということが想像できた。こんな日にはリアルタイムの情報がありがたい。

案の定、わが家(中神谷)からラトブまでの道は何の問題もなかった。路肩の小さな水たまりがところどころ凍っていたほかは、いつもの乾いた路面だった。

10時1分に福島県沖を震源とする最大震度4(相馬市、浪江町)の地震があったが、車を運転中だったので気づかなかった。いわきは平地で震度2。カミサンもわからなかったという。

スマホの電池(バッテリー)は何の問題もなかった。電池の残量が半分以下になったからと言って、すぐ充電しなくてもいいのだという。黄色い表示が出たときで十分。それを聴いて、安心しながら夏井川の堤防を帰って来た。

さすがに最強寒波だ。雪に覆われた中州でハクチョウたちが昼寝をしていた=写真上2。雪の上のハクチョウは、いわきではめったに見られない。これも一種の眼福か。

2023年1月25日水曜日

犬と猫、そしてイワシ

                         
  日曜日にいつもの魚屋さんへ行くと、駐車場に軽トラが止まっていた。荷台に檻が二つ。中に犬が入っていた。1匹はセント・バーナードに似た大型犬だ。

 先客がいた。飼い主で、セント・バーナード似の犬は闘犬の土佐犬だという。カミサンは「セント・バーナードなんて言って」と笑ったが、土佐犬を見た瞬間の印象はまさにそうだった。

 あとで、ネットで検索した。それによると土佐犬は四国犬の一種で、近代になって闘犬用に獰猛(どうもう)な大型犬と交配・改良されてつくられた。

 その交配種はセント・バーナードのほかに、イングリッシュ・マスティフ、オールド・イングリッシュ・ブルドッグ、ブル・アンド・テリア、グレート・デーンなどだった。セント・バーナードに似ていると感じたのは、あながち間違いではない。

 闘犬の土佐犬を見た瞬間、きょうは犬と猫の日か――そう思った。もちろん、これは個人的な理由による。

 下の息子が飼っていた猫が死んだ。なんと25年も生きた。人間の年齢でいえば100歳を超えている。動物病院のホームページで確かめると、どうも116歳になっていたようだ。

 連絡がきたので、夏井川渓谷の隠居の庭に葬れば、と伝える。同じ日曜日、私ら夫婦より早く着いて、シダレザクラの樹下に穴を掘り終え、猫を埋葬するところだった。

 隠居の玄関からシダレザクラまではおよそ20メートルある。赤ちゃんを抱くように、包みにくるんだ猫を腕に抱いて、しばらく見ている。それから穴にそっと置く。声をかけるのがはばかられた。

 あとでいろいろ聞いた。わが家では、子どもが小さいころ、拾って来た猫を飼い続けた。震災当時は猫が3匹いた。「長男」の「チャー」の系統の雄猫だった。名前は「ユウジロウ」といった。

 「チャー」は、上の息子が東京で暮らしていたころ、ミャーミャー鳴いているのを拾い、わが家へ連れ帰った。「次男」は「レン」。平の里山に捨てられていた。「長女」の「サクラ」も同じで、「チャー」以外は避妊手術をした。

 震災と原発事故が起きたとき、孫たちを連れていわきを離れた。チャーとほかの2匹の猫は、えさと水を用意して家に残した。

チャーは震災直前、老衰のために後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかった。チャーは衰弱して息絶えているのではないか――避難先でそんな心配に沈んだ。

が、現実は逆だった。足かけ9日後に帰宅すると、ちゃんと4本足で歩けるようになっていた。排便もできるようになっていた。それからさらに1年近く生きて、最後は眠るように彼岸へ旅立った。

 さて、ユウジロウを埋葬して1週間後、いわば「初七日」の日曜日。魚屋さんへ行くと、イワシがあるという。新鮮で甘い記憶がよみがえり、自然に歓声がもれる。

前に写真を撮ってブログにアップした話をした。「次は映(ば)えるように盛り付けなくちゃ」という。その通りに、よりきれいに盛り付けてくれた=写真。

隠居の庭にチャーの墓がある。レンも、サクラも眠る。今度はユウジロウが加わった。イワシをつつきながら、供養を兼ねて猫たちに思いがめぐった。

2023年1月24日火曜日

冬の底の春

                      
  きょう(1月24日)あたりからこの冬一番の寒波が襲来する。二十四節気のひとつ、「大寒」(1月20日)を過ぎたばかりだから、寒波がこなければ冬は底を打たない、とは容易に想像がつく。

というのも、この冬は、師走後半に少し強い寒波がきたあとは、穏やかな日が続いた。夏井川渓谷の隠居にあるネギ畑も、カチンカチンに凍ることはない。

1月22日の日曜日は、隠居の室温がマイナス5度とかなり冷え込んだが、水道管が凍結することはなかった。

ネギのうねは表面がほんの少し凍った。草には霜が降りていた。が、スコップはすんなり入っていった。

渓谷の手前、小川町の高崎では、道路沿いの白梅が満開だった=写真上1。平地では紅梅も咲き出した。

白梅は高崎止まりだが、ヤブツバキはどうか。先週までは高崎で開花前線が止まっていた。この日、初めて渓谷のど真ん中、江田を通り越して椚平で花を確認した。

畑に生ごみを埋め、ネギを収穫したあと、いつものように敷地の境界に積み上げた剪定枝をチェックする。エノキタケは出ていない。

あきらめて石垣沿いに下の庭を歩いていると、プラムの切り株に茶黒いキノコが出ていた。すでに老菌化したものもある。

根元から摘み取ると、柄が少し茶色っぽい。エノキタケだ。切り株を取り囲むように、束になって出ていた。それを収穫した=写真上2。

さっそく、隠居に置いてある新書サイズの『いわきキノコガイド』(いわき市観光協会、2001年)で、エノキタケの特徴を確かめる。

柄は黄褐色で硬くしかっかりしており、表面は短毛に覆われてビロード状である。下部は黒褐色である。株になって発生する優秀な食菌。冬季、このような茶色い株立ちキノコはない――。

記述と一致しているので、持ち帰って水につけ、ゴミと砂を取り除くと、傘にぬめりが出てきた。いよいよ間違いない。

毎朝、わが家では味噌汁に市販のナメコが入る。きのう(1月23日)はナメコに代わってエノキタケが入った。味や食感はナメコとそう変わらない。

さて、最強寒波が過ぎたあとの、日曜日(1月29日)はどうなっているか。隠居の水道管は、畑は? それで冬が底を打てば、ソメイヨシノも休眠を打破される、と思ってあれこれネットで調べてみた。

まずは今年(2023年)の桜(ソメイヨシノ)の開花予想だが、東京は3月22日、仙台は4月8日だった(日本気象株式会社)。

ソメイヨシノは秋から冬にかけて、一定の低温(マイナス5~15度)にさらされると、春が近づいていることを感知して覚醒する、つまり休眠が打破される。それからは生長期間に入り、春先の気温上昇に伴って開花へ向かう。

休眠打破、あるいは開花までの計算式はあるらしいが、よくわからない。ともかく、いわきのソメイヨシノは今、花芽が覚醒したか、覚醒する時期にあるのは間違いないようだ。

2023年1月23日月曜日

最初の現代文学

        
 1月21日付の「この版画は本物か」の続きのようなもの――。群青色の海を見てから、急に若いときの読書体験を思い出した。そのころから手放さないでいる本が2冊ある=写真。自分の人生を決めた本といってもいい。

本だけではない。阿武隈の山里から平市(現いわき市平)に開校した高専に入学し、主に福島県内各地からやって来た先輩・同級生と学生寮で集団生活を始めた。そのころの寮は「思想的なカオス」状態だった。それも思い出した。

1歳か2歳しか違わないのだが、先輩たちは毛沢東語録や新興宗教の話でもちきりだった。15歳の山猿は、本能的にその渦に巻き込まれたら溺れる、と察知したに違いない。政治や宗教には距離をおくと決めた。そのなかで唯一、自分と対話する回路が読書だった。

やがて、寮だけでなく自宅から通学する文学志向の先輩たちと出会う。そのうちの1人は陸上部員だった。私も誘われて陸上部に入った。

文学と陸上。学校は理系だが、自分は文系――。そう思い定めて、18歳で学校を辞め、東京での暮らしを経ていわきにJターンをし、22歳で地域紙の記者になった。

学生寮に入っていたころ、忘れられない「事件」があった。入学したとき部屋長だった1年先輩が、1年後のあるとき(確か日曜日だった)、平駅前のアーケード街で突然、演説を始めた。

私は同級生たちと遊びを兼ねて街へ出かけ、バスで寮に戻るところだった。先輩が、今、社会的に問題になっている団体の学生組織に属していた、と知ったのは少したってからだった。

そんなカオスのなかで文学にのめりこむきっかけになったのが、『現代フランス文学13人集』全4冊(新潮社)を買って読んだことだった。

 なかでも、フィリップ・ソレルス(1936年生まれ)が書いた「奇妙な孤独」という小説に引かれた。

ソレルスをきっかけに、フランス現代文学の世界をさまよった。ナタリー・サロート、ロブ・グリエ、レーモン・クノー、ミシェル・ビュトールといったアンチロマン(反小説)をゾクゾクしながら読んだ。

そのあと、同じようにル・クレジオ(1940年生まれ)が「調書」という小説でデビューした。ソレルスとル・クレジオは、わが青春前期にあっては一種の灯台だった。

「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ」

哲学者ポール・ニザンの『アデン・アラビア』(篠田浩一郎訳)の冒頭の文章にも引かれた。というよりは、この冒頭の文章が学校を飛び出して都会の孤独に押しつぶされそうになったときの支えになった。

そんな思いと結びついていることもあって、『現代フランス文学13人集1』と「アデン・アラビア」は、震災後のダンシャリでも手元に残した。

『アデン・アラビア』の訳者篠田浩一郎さんが去年(2022年)のクリスマスの日に亡くなった。94歳だったという。訃報に接したことも、このブログを書くきっかけになった。

2023年1月22日日曜日

防災研修会

                               
   去年(2022年)12月16日に「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が始まった。それを知らせるチラシ=写真=が、先日、回覧網を通じて隣組に配られた。

東日本大震災では「本震」の2日前の3月9日、大きな「前震」が発生した。3月9日の地震からみると、同11日の地震は後発地震に当たる。

日本海溝・千島海溝沿いの特定の範囲でM(マグニチュード)7.0以上の地震が発生する場合、それから1週間ほどは平時よりも巨大地震の発生に注意する必要がある。

内閣府(防災担当)と気象庁がそのためのチラシをつくった。そのチラシの配布に合わせて、いわき市も回覧資料をつくった。

それによると、いわき市を含む日本海溝・千島海溝沿いでは、巨大地震発生の切迫度が高まっている。M7.0以上の地震発生後、さらに大きな地震が2度確認されている。その一つが東日本大震災だった。

チラシを回覧して間もない土曜日(1月14日)、いわき市文化センターで市主催の自主防災組織研修会が開かれた。

講演会と討論会の二部構成で、講師は福島テレビの専属気象予報士斎藤恭紀さん、討論会の司会は同テレビアナウンサーの菅家ひかるさんと、同テレビが市とタイアップしたような研修会だった。

討論会のなかで、内田広之市長は令和4(2022)年3月、市と福島テレビが防災協定を結んだことを紹介した。テレビやSNSを通じて、いち早く防災情報を発信するというのが内容で、今度の研修会もいわばその延長で企画されたものだろう。

斎藤さんはウェザーニュースを経て、テレビ朝日や東北放送の天気予報を担当し、平成26(2014)年から福島テレビの気象予報士を務めている。郡山市防災気象アドバイザーでもある。

いわきは災害リスクの高いところだという。関東の台風、東北の地震と、両方の災害を受けやすい。内陸には断層もある。

海水温上昇による水害のメカニズムにも触れた。いわきは海に近い。湿った海風が流れ込んで山間部に大雨を降らせる。すると、川の上流の水量が急に増える。令和元年東日本台風では、そうして大きな被害が出た。

討論会では、斎藤さんのほかに、岡田清和・関田総合自主防災会長、遠藤和子・女性消防クラブ連絡協議会長、内田市長の3人が登壇して、それぞれの立場から「災害に強いまちづくり」について語った。

少子・高齢社会のなかで、自治会や自主防災組織をどう活性化するか、が課題といってもいい。討論会ではその対策として、自主防災会に女性を加える、PTAを巻き込む、といったことが提案された。

若い人を取り込むために、たとえばキャンプと同じように思ってもらえる「楽しい防災訓練」を企画する、あるいは防災運動会を実施する、といったアイデアも出された。いろいろ考えさせられる研修会だった。

2023年1月21日土曜日

この版画は本物か

                             
 夏井川渓谷の隠居には、金庫や貴重品は置いていない。空き巣に入られたときには、雨戸の内側のガラス戸が割られたが、それ以外の被害はなかった。

若いときに知り合った画家の絵などが何点かある。それらは手つかずのままだった。台所の壁と居間の出窓に木口木版画の小品が飾ってある。

版画家柄澤斎さんが手がけた「肖像」シリーズの版画だ。フランスの科学哲学者ガストン・バシュラール、童話のアンデルセンで、どちらも若いころにのめりこんだ。

バシュラールは詩的想像力、なかでも大気や大地、火、水などの根源的なイメージの分析と研究で知られる。

手元にどんな本があるか、チェックした。訳者と出版社を省略して、タイトルだけを並べる。『新しい科学的精神』『瞬間と持続』『ロートレアモン』『夢みる権利』『水と夢――物質の想像力についての試論』の5冊があった。

ほかに、『火の精神分析』や『大地と意志の夢想』『空間の詩学』などがあったはずだが……。どこかにまぎれこんだか、だれかに貸したかしたのだろう。

もう50年も、40年も前の話だから、記憶は定かではない。本の中身も難解で、頭に入ったとはいえない。が、詩的イメージの勉強という意味では、食い下がって読み続けた印象が強い。

先日、群青色の海の美しさに触発されて、フランスの詩人アンリ・ミショーを思い出して散文詩に触れた。その流れで、若いころに読んだヌーボー・ロマン(アンチ・ロマン)のフィリップ・ソレルスや詩論のバシュラールの顔が思い浮かんだ。

先日、隠居に飾ってあるバシュラールの肖像=写真=を見て、「あれっ」と思った。ネットにある肖像と顔の向きが逆ではないか。偽物? 唐突にそんな疑問がわいた。

柄澤版画を入手した経緯は、14年前、拙ブログに書いた。それを要約して再掲する。――渓谷に、食事のできる店があった。今はない。この店は旅館であり、銭湯であり、食堂であり、雑貨屋であり、「55円ショップ」であり、家具のリサイクルショップでもあった。

一言でいえば、俗悪、まがい物を意味する「キッチュ」に近い世界。室内が徹底して大衆路線で彩られていた。質より量。小より大。少々値の張るラーメンがそうだった。食べきれない。窓の棚や壁に沿って、ゆで卵などの無料サービスコーナーがあった。その数がまたすごい。つい、ゆで卵に手が出た。

唯一、高価な雑貨として壁に絵をかけて売っていた。ぶったまげた。値段は伏せるが、それなりに評価されている知人の小品と思われるものがあった。有名版画家の作品もあった。本物だ。まるで土産品扱い。「偽物じゃないの?」。カミサンが言うのを制して、売り値を半分にまけさせて木版画を買った――。

ミショーを思い出したあと、ネットで初めて柄澤作品をじっくり見た。バシュラールは顔が右向きだ。隠居の作品は顔が左を向いている。「うーん」とうなるしかなかった。

カミサンが言っていたように、隠居の版画は偽物か。いや、一種の「だまし絵」の延長で、逆向きの作品もつくったか。なんとも狐につままれたような感じでいる。

2023年1月20日金曜日

神戸新聞は「阪神・淡路大震災」

   ネットで「神戸新聞NEXT」を開く。阪神・淡路大震災の特集コーナーが目に入る。最初に「あの日から、〇〇〇〇〇日」が表示される。1月17日は「あの日から、10228日」だった。鎮魂と防災の覚悟は変わっていない、という社の姿勢の表れだろう。

東日本大震災からほぼ3カ月後、阪神・淡路大震災に重ねてブログを書いた(2011年6月9日付「飛び出した本」)。それを一部カットして再掲する。

――311のときに本棚が倒れた。1階は生活空間だ。落下した本をすぐ元に戻した。2階の本棚は無事だったものの、足の踏み場もないほど本が散乱した。すぐ必要になるような本は少ないので、そのままにしておいた。411412に強烈な余震がきて、散乱している本の上に再び本が落下した。

不思議なことだが、落下した本から「読め」と言われているような現象も起きた。中井久夫編『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神医たち』(みすず書房=1995年3月刊)が出てきた。

神戸新聞社編『神戸新聞の100日 阪神大震災、地域ジャーナリズムの挑戦』(プレジデント社=1995年11月刊)と、当時の論説委員長三木康弘さんの『震災報道いまはじまる』(藤原書店=1996年1月刊)も現れた。

いずれも「阪神・淡路大震災」のあとに買い求め、読んで、本棚に置いたら、別の本に隠れてどこにあるか分からなくなっていた本たちだ。

『1995年――』の中に、中井さんの記録「災害がほんとうに襲った時」がある。このほど、『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』(みすず書房)と題して、その記録と、今度の「東日本大震災」について新たに書き下ろされた文章とを合わせた本が緊急出版された。

作家最相葉月さんは既刊の本を読み直し、「災害がほんとうに襲った時」には普遍的なメッセージがある、ついては東日本大震災下で働く医療関係者に読んでもらいたいと、中井さんと出版社の許諾を得て、インターネット上で電子データを公開している。

本でも、ネットでも「災害がほんとうに襲った時」は読める。心のケアを考える人には必読の本(文章)だ。

1991年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。神戸新聞は、倒壊を免れたものの本社が「全壊」し、コンピユーターシステムがダウンした。

「未曽有の大災害に、1300人の神戸新聞社員は瓦礫の中から立上がり、新聞を発行し続けた。彼らはジャーナリズムとして、企業人として、いかに危機に立ち向かったか」(帯の文)

記者みずからがつづった『神戸新聞の100日』には、とにかく新聞を出すのだという一点に全社員のエネルギーを集中し続けた姿が描かれる。

そのときの論説委員長が三木さん。自宅が崩壊し、父親を失う。震災のあと、最初に書いた社説が「超社説」として有名になった。

「大きな反響を呼び、あらゆるメディアで取り上げられた。そっくりそのまま転載した新聞もある。被災者の姿を被災者自身が初めて綴り、やりきれない思いがストレートに伝わったからである」(『神戸新聞の100日』)

書店では、どこでも目立つ場所に大震災・原発関係の書物が平積みにされている。緊急出版されたもののほかに、阪神・淡路大震災のときに出版されたものが増刷・再版されて並ぶ。

『神戸新聞の100日』は文庫本が出た。写真集も次々に発刊された。で、わが座右にも震災関連本が並んだ=写真。

川村湊『福島原発人災記 安全神話を騙った人々』(現代書館=4月25日第1版第1刷発行)と柳澤桂子『いのちと放射能』(ちくま文庫=4月20日第3刷発行)は4月下旬、東京・代々木公園で開かれた「アースデイ東京2011」の会場で買った。

吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫=4月25日第10刷)、安斎育郎『福島原発事故 どうする日本の原発政策』(かもがわ出版=5月13日第1刷発行)……

書店に入れば、まず特設コーナーに足が向く。人類がかつて経験したことのない「原発震災」である。どう対処したらいいのか。専門家の知見や過去の出来事に学ばなくては、という思いが深い。

にしても、一つ気になることがある。「阪神・淡路大震災」がただの「阪神大震災」になっている。これはどういうことなのだろう。新聞社としての記憶の風化が始まったのか。識者の文章にも、それが散見される。「淡路」の住民は、「私らは忘れられた」、そんな気持ちでいるのではないか――。

 あの日から28年。朝日新聞は「阪神・淡路大震災」と「阪神大震災」を併用し、共同通信=地方紙は「阪神大震災」だった。神戸新聞はもちろん、「阪神・淡路大震災」である。 

2023年1月19日木曜日

灯油が切れる

                                
 たまたま買いに行くのを怠って、灯油が切れたことがある。石油ストーブ=写真=とヒーターが消えると、一気に部屋が冷え込んだ。すぐポリ缶を車のトランクに積んで、ガソリンスタンドまで買いに行った。

 日本では、まだ、というか、灯油が欲しいときにはすぐ手に入る。しかし、ウクライナではどうか。民間人や電力などのインフラを標的にしたロシアの攻撃が連日のように続いている。

 最近も中部ドニプロペトロウスク州の州都ドニプロ市で集合住宅が攻撃され、多数の死傷者が出た。

理不尽な無差別攻撃にさらされたウクライナの国民は、ロシアへの怒りを“燃料”に寒さを耐えるしかないのか。

なぜロシアはここまで非道になれるのか。このところずっと、ウクライナとロシア関連の本を読んでいる。新聞もときどき、切り抜く。

プーチン大統領の人となりが一番気になる。朝日新聞の専門記者(駒木明義氏)が書いた年末のコラムにこうあった。

「自らは安全とぜいたくを享受しながら、国民を強制的に動員して前線に送り込む(略)。長引く戦争に社会が疲弊する中で、国民に寄り添うことなく自らの力ばかりを誇示しても、行き着く先は哀れむべき『裸の王様』だろう」

図書館の新着図書コーナーに、キャサリン・ベルトン/藤井清美訳『プーチン  ロシアを乗っ取ったKGBたち 上・下』(日本経済新聞出版、2022年)が並んでいた。これも借りて読んだ。

KGBとはソ連国家保安委員会のことで、アメリカでいえばCIAに当たる。プーチン大統領はこのKGBからのし上がってきた。

著者は「ファイナンシャル・タイムズ」紙のモスクワ特派員を長年務めたジャーナリストで、かなりの数の人間にインタビューをしてこの本を書き上げた。

中身がなんともおぞましい。本のカバーの折り返し部分に要約が印刷されている。今回はそれを引用するのが一番のようだ。とてもじゃないが、プーチン大統領がこれまでやってきたことを、普通の市民がまとめきれるものではない。

「本書は、プーチン勢力がいかにロシアを変質させ、食い物にし、世界を混乱させてきたのかを、元FT記者が冷静なタッチで明らかにするかつてないドキュメント」だ。

「主要な関係者との独占インタビューを通して、プーチンの周囲が民間企業を容赦なく押収し、経済を乗っ取り、数十億ドルの資産を洗浄し、経済犯罪/政治権力の境界をあいまいにし、司法を駆使して敵を弾圧し、西側に影響を拡大していく様を解明する」

前出のコラムで駒木氏はこう締めくくった。毎年12月に開いてきた大型記者会見を中止するような、「そんな小心者にロシアの若者は戦地に送られ、ウクライナの人々はミサイルの雨を浴び続ける。陰鬱な年の瀬である」。

年が明けても状況は変わらない。いや、『プーチン』を読んで、さらに陰鬱さが増した。

2023年1月18日水曜日

時計の時間

                      
  全国紙の正月企画の一環で、霊長類学者山極寿一さんが「時間」について語っていた。人類は「自然の時間」のなかで過ごしてきた。ところが、産業革命以後、時間を管理して効率的に使う思想が生まれ、人々は「工業的な時間」に駆り立てられるようになった――。

「工業的な時間」という言葉に触れて、哲学者内山節さんがいう「時計の時間」を思い出した。本棚から『時間についての十二章――哲学における時間の問題」(岩波書店、1993年)を引っ張り出して読み返した。

 この本をはじめ、内山さんの著作から、時間は通り過ぎるだけではない、回帰=循環して蓄積することも知った。

なかでも、ふだん暮らす街場と、日曜日だけ身を置く山里の時間の違いについて考えるきっかけになった。

自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす=写真。1年ごとにこれを繰り返す。つまり、時間は年輪となって木の内部に蓄積される。

自然の世界ではそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。動物の時間、植物の時間、菌類の時間……

ふだんは忘れているのに、フィールド(現場)に立つと、その時どきの記憶がよみがえる。車での道すがら、「今年も川岸でヤブツバキが咲き出した」「去年もここに咲いていた」

森の中ではもっと鮮明だ。「この林床にタマゴタケが出た」「この倒木にヒラタケが生えていた」「この木の根元にマイタケが出た」。フィールドで得た「情報」も、過ぎ去らずに体に蓄積されている。時間は一つではないのだ。

「山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあった」と内山さんは言う。

異なるスケールの時間とは、たとえば一日の巡りや一年の季節の移り行き、15~20年ごとの薪炭林の伐採などのことである。季節の移り行きのなかには当然、山菜取りやキノコ狩り、あるいは狩猟などが組み込まれている。

ところが街場では、「時計の時間」に基づいて経済が動いている。通勤・通学者は夏も冬も、春も秋も、時計が決めた時間に家を出なくてはならない。現役のころは、私もそうだった。

内山さんは問いかける。「なぜ私たちは時計の時間にしたがって成長し、時計の時間にしばられながら就職し、定年を迎え、時計の時間に計算されて死ななければならないのか」

それは現代社会が時計の時間に基づいてつくられているからだとして、それ以外の「存在の方法」を見つけ出そうではないかと呼びかける。

内山さんは山里の人々の暮らしにその希望を見いだす。内山さん自身、群馬県上野村と東京の2拠点生活を続けている。

 霊長類学者は「自分の時間を手放し、自然な時間に入ると、ほっとして幸せを感じます。僕にとってはゴリラと過ごす時間です」という。

 私も、日曜日に渓谷の隠居へ行くと、自分を取り戻したように感じる。そのとき、時計の時間は意識から消えている。

2023年1月17日火曜日

ホオジロだったかも

                               
 夏井川渓谷にある隠居の庭は猛禽の食堂、ということを前に書いた。最近、えじきになったのはジョウビタキの雄かもしれないと、1月10日付のブログで紹介した。

 ――隠居の玄関そばにカエデの若木がある。その近くに小さな鳥の羽が散乱していた。全体に灰色っぽい。一部、先端が橙色のものもあった。

前にも鳥の羽がまとまって落ちていたことがある。拙ブログによると、2年前の2月13日の日曜日、母屋と風呂場をつなぐ坪庭に茶色がかった羽がいっぱいあった。

それから1年半たった去年9月4日の日曜日。菜園と県道側の土手の間に植えてあるアジサイの根元に黒っぽい羽根が散らばっていた。

隠居は、ふだんは人けがない。それを知る猛禽が安心して食堂に利用しているようだ。同一個体か、別々の個体かはわからない。オオタカかどうかもむろん不明だ。

鳥の羽の模様と色から、坪庭のものはツグミらしかった。菜園の方は、ヒヨドリのようだが、キジバトの線も捨てきれない。たぶん、キジバト。そんなところで検索は終わった。

今回はどうか。小さな羽の灰色と、かすかな橙色から連想できる鳥は、ツグミでなければジョウビタキの雄だ。

それをキーワードに検索すると、似たような羽に出合った。やはり(というか、たまたまだが)、ジョウビタキの雄の「上尾筒(じょうびとう)」らしいことがわかった。

断定はむろんできない。が、秋、隠居の庭に真っ先に現れた冬鳥がジョウビタキの雄だった――。

1月15日に隠居へ行って、いつものように土いじりをしたあと、ジョウビタキの羽は、と見ると……。前は気づかなかったが、8センチ前後の羽が2本落ちていた=写真。1本は全体に黒っぽい。もう1本は半分近くが白い。これは調べやすい。

ジョウビタキの雄であることを裏付ける証拠になるかもしれない。それが一つ。もう一つは、そうではないことがわかるかもしれない。いずれにしても、何の鳥の羽か知る作業がはかどる。

新しく見つけた羽が、なんという鳥の、なんという部位のものか確かめるため、隠居からいわき駅前にあるラトブの図書館に直行する。

おやっ? 駅西の並木通りを歩いている人が似たような紙袋を持っている。ラトブの地下駐車場も出入りする車がふだんよりは多い。人の動きを見ているうちに合点がいった。いわき駅とつながるJRの「エスパルいわき」がこの日、開業した。

図書館から笹川昭雄『日本の野鳥 羽根図鑑』(世界文化社)を借りたあと、カミサンに引っ張られてエスパルいわきの中に入る。人でごった返していた。買い物どころではない。あとでゆっくりのぞくことにして帰宅した。

さっそく図鑑で羽を照合する。ホオジロの尾羽だ。上尾筒も、私が拾ったジョウビタキの雄のそれと似ている。図鑑には、ジョウビタキの上尾筒は載っていない。犠牲になったのはホオジロだったか。

しかし、と思う。なぜ前にこの羽に気づかなかったのだろう。上尾筒よりは大きいのに、目に入らなかった。新しく猛禽のえじきになったということはないのか――そんな疑問も少しわいた。

2023年1月16日月曜日

出口のメディア

                             
 古巣のいわき民報に、「夕刊発磐城蘭土紀行」というタイトルでコラムを連載するようになって、2年8カ月がたつ。

ネットにアップしているブログ「磐城蘭土紀行」を、いわき民報の判断で取捨選択して転載する――。コロナ禍でさまざまな催しが中止・延期され、紙面を組み立てるのが厳しくなった。いわば「穴埋め」用として始まった企画だ。

 ありがたいことに、いろいろと反応がある。現役のころは、電話での苦情やおしかりが多かった。今は旧知の読者から、電話や手紙・はがきが届く。年賀状にもコラムに言及するものがあった。

最近、また「横のつながり」を実感した。平の開業医だった故後藤全久さんのガラス絵を取り上げたら、京都に住む娘さんからいわき民報経由で手紙が届いた。ふるさとの友人から記事の「写メール」が届き、うれしくて胸が熱くなったという。

手紙には私も知っている人たちの名前があった。後藤さんは平成2(1990)年秋、釈迦の十大弟子の慟哭を描いたガラス絵の画集『花と仏と人間と』を刊行している。コラムでは、図書館から画集を借りて作品と初めて向き合ったことにも触れた。

 その作品はご両親が眠る寺に寄進されたという。その寺の住職はカミサンの同級生でもある。私も知っている。横のつながりを頼って、いつかは本物のガラス絵と対面しようと思っている。

 年が明けて少したった日、全国紙の「テレビ時評」でドキュメンタリー監督大島新さんが「教養の『入口』として」と題して、NHKの「欲望の資本主義」シリーズを取り上げていた。

 その日の午前11時から、時評で紹介した番組が再放送された。文章に刺激されて番組を見た。

 「テレビ番組はそれ自体が一つの作品であるが、私は同時にテレビには『入口のメディア』としての役割もあると感じている」。番組で紹介されていた知の巨人たちの著作や思想に触れてみようと思った視聴者もいただろう、と筆者は言う。

 入り口、つまりきっかけ。そう、メディアは「考える」ヒントやきっかけになる。同時に、私が経験したような横のつながりに結び付くという意味では、メディア、特に地域紙は「出口のメディア」、つまりはコミュニティペーパーでもあるのではないか。

 「夕刊発――」の1月11日付で「ナラ枯れ木伐採」が載ると、旧知の県議氏から電話がかかってきた。

コラムの趣旨は、夏井川渓谷の隠居へ行くのに県道小野四倉線を利用する。両岸はナラ枯れ被害が目立つ。路上への落枝・倒木を気にしているナラ枯れの木が県道沿いに4本ある。そのうちの1本が暮れに伐採された。不安が一つ解消された、というものだった。

 県議氏の電話は「いわき浪江線の方は2本切ってもらった、小野四倉線の方も」ということだったろう。

ロックシェッドの近くにあるナラ枯れ木は腐朽が進んで幹にキノコがびっしり生えている=写真。そのことも、コラムでは触れた。一日も早く不安が解消されれば、と思う。

2023年1月15日日曜日

辛み大根も交雑?

                              
   夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。正確には、辛み大根は“自生”に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

今季は辛み大根の生育がびっくりするほどいい。1月に入って、三春ネギやフキノトウのほかに、辛み大根を1本収穫した=写真。これも立派に育った。

辛み大根のイメージは、ずんぐりむっくり、だ。根元がふくらんですぐしぼむ。ところが……、この冬の辛み大根は太くて長い。普通の大根のようなものが採れたときには、さすがに首をひねった。

そのときのブログの一部を再掲する。――あるとき、葉が大きく育った辛み大根を引っこ抜こうとしたら、頭が突き出ていて異様に太く、長い。脇にスコップを入れて土をほぐした。なんと普通の大根が出てきた。

大根の種をまいて育てたことはある。が、それは震災前だ。震災後は全面除染の対象になり、庭の表土を5センチほどはぎとり、新しい山砂を入れた。

そのあと、簡単に収穫できるものをと、カブ、ラディッシュを栽培したことはあるが、大根はない。なにがなんだかわからない――。

その後も、この大根ほどではないが、立派に肥大した辛み大根が採れた。冒頭で触れた1本もそうだ。

おろして晩酌のおかずにする。ずんぐりむっくりの大根は強烈に辛い。なのに、立派な大根は辛みに強弱がある。どちらかというと、辛みが弱い。もしかして、交雑した? そんな思いがふくらんだ。

大根はアブラナ科だ。アブラナ科の植物は交雑しやすい、とネットにあった。いつの間にか身近なアブラナ科のものと交配して、形質が変わってしまったか。

それが普通の大根との交配だったとしたら……。種もまかないのに長い大根が採れたり、今までになく立派な「ずんぐりむっくり」ができたりしたワケが納得できる。むろん、実際はどうなのか、素人にははわからない。

採種用に辛み大根を1~2本、採り残す。越冬した辛み大根は、春に花が咲き、実(さや)がなる。さやには種が眠っている。

さやを収穫・保存し、月遅れ盆が来たらさやを割って赤い種を取り出し、ていねいにも畝を耕して点まきにしたことがある。

たまたまさやが落下したのをそのままにしておいたら、月遅れ盆のあとにちゃんと双葉が現れた。

辛み大根には自分で再生する力がある。手抜きをしたために辛み大根の野性に気がついた。以来この6年、さやごと種を収穫したあとにこぼれ種で発芽した辛み大根だけを育てている。種はわりあい長寿だというから、さやのまま物置に保管している。

交配したとしたら、去年(2022年)の春ということか。初夏に種が形成され、秋に発芽したのが、冬になって肥大した。そういう流れになる。

ここは一度、古い種をまくとしようか。いや、交配種がこれからどう変わるのか、それも見たい――好奇心がからまって気持ちがゆらぐ。

2023年1月14日土曜日

群青色の海

        
 年が明けて2回目の日曜日(1月8日)は、結果的にいわきのヤマ・マチ・ハマを巡る“大ドライブ”になった。

 朝はいつものように、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。昼食は、薄磯海岸のカフェで――。そう決めて昼前に街へ戻り、薄磯のカフェに着いたら、どうも休みのようだった。「しかたがない、小名浜へ行こう」。カミサンが間髪をいれずに言う。

 その前に海を見た。カミサンは砂浜へ下りたが、私は防波堤に立つだけにした。空は晴れている。波は穏やかだ。

隠れている磯がそうさせるのか、海は手前から鮮やかな群青色だった=写真。こんなきれいな海は見たことがない。いや、見たことはあったかもしれないが、近年では初めてだ。

10代の後半、豊間の知人の家に泊まったことがある。繰り返し耳を撃つ潮騒に眠ることができなかった。

その体験や、いろんな現代詩と論考を読んでいるなかで、絶えず生まれては崩れる波は「創造」を、太古からそこにある海は「永遠」を象徴する――そう思うようになっていた。

そんな若いときの経験を胸の中で反芻していると、突然、フランスのアンリ・ミショー(1899~1984年)が海に関する散文詩を書いていることを思い出した。

確かノートに書き写した。そのノートは今、どこにあるかわからない。が、少しずつ記憶の断片が浮かび上がってくる。短い散文詩だ、船乗りになる、海に背を向ける……。

1月12日、街へ出かけたついでに図書館から小海永二訳の『アンリ・ミショー全集1』(青土社)を借りてきて、パラパラやった。詩集『試練・悪魔祓い』の最後に「海」が収められていた。

前半の4行。「わたしの知っているもの、わたしのもの、それは涯てしない海だ。/二十一歳、わたしは街の生活から逃げ出した。雇われて、水夫になった。船の上には仕事があった。わたしは驚いた。それまでわたしは考えていたのだった。船の上では海を見るのだ、いつまでも海を見るのだ、と。」

それから後半に移る。「船は艤装を解いていた。海の男たちの失業が始まっていた。/わたしは背を向けて出発した。一言も言わなかった。わたしは海をわたしの中に持っていた。わたしの回りに永遠にひろがる海を。/どんな海かって? それなんだが、何か邪魔するものがあって、言おうとしてもどうもはっきり言えないんだ。」

アルチュール・ランボーの詩も影響していたかもしれない。ここでは粟津則雄訳の「永遠」を紹介する。「見つかったぞ!/何がだ? 永遠。/太陽にとろけた/海。」

20歳前後のころからおよそ10年間はそうして、抽象的な永遠とか創造、あるいは光・大地・風・水といったものに思いをめぐらすことが多かった。それが、あとで具体的にいわきを流域で考える基盤になったように思う。

マチに住み、日曜日にはヤマで過ごし、たまにハマを巡る。ただし、今回は小名浜も混雑していた。結局、鹿島街道の台湾料理の店まで足を延ばして空腹を満たした。