2021年3月31日水曜日

朝、Jヴィレッジへ

        
 2人の孫がサッカークラブに入っている。Jヴィレッジ(広野・楢葉町)で上の子の練習試合があるというので、きのう(3月30日)、親に代わって送り届けた。国道6号は朝、特に込む。そんな懸念があったが、わりとスムーズに到着した。

 Jヴィレッジのドーム(全天候型練習場)=写真=に午前8時45分集合ということだった。事故を起こした1F(大熊・双葉町)の廃炉作業に向かう車のラッシュは終わったあとだろう。が、車列はまだ続いているかもしれない。わが家からJヴィレッジまではざっと25キロ。40分はかかるとみて、8時前には息子の家へ行って孫をピックアップした。

 国道6号へ出ると先行するいわきの「報徳バス」が2台、山麓線(主要地方道いわき浪江線)へ左折した。そのまま北上し、あるいは四倉ICから常磐道を利用して大熊町へ行くのだろうか。さらに進むと同じ色のバスが国道を南下してくる。そうして廃炉作業員を送迎しているのかもしれない。

たまたま先頭をタンクローリーが走っていた。ほぼ交通標識通りの速度だ。安全も安全、超安全運転で北上する。

 3月25日、東京オリンピック聖火リレーのグランドスタートがJヴィレッジで行われた。それもあって、この10年の国道6号、特にいわき―Jヴィレッジ―1Fのルートに思いがめぐった。

Jヴィレッジはしばらくの間、防護服に身を固めた作業員が1Fへ出発し、戻って来る前線基地だった。そのころ、旧知のメディア関係者に誘われてセンター棟を見学したことがある。スタンドのあるサッカー場にはプレハブの宿泊施設が立っていた。3年前には前線基地としての役目を終え、主要施設が営業を再開した、全天候型練習場は新生Jヴィレッジの目玉施設として建設された、とネットにある。

 東日本大震災・原発事故の直後、といっても少し落ち着いてからだが、早朝6時の散歩を再開した。夏井川の堤防へ出るには国道6号を渡らないといけない。信号待ちをしていると、原発事故の収束、大地震・大津波による災害支援、行方不明者捜索などのために、自衛隊の車両がひんぱんに行き来した。1Fへ向かう大型バスも、何台も通った。

 それからしばらくたつと、自衛隊の車両が消え、大型バスも数を減らした。バスが減ったのにはわけがある。飲み屋街の平・田町に店を出している知人が「やっと田町は平穏になってきた」といっていた。市街地にあった作業員の宿舎が1Fに近い北へ移動したのだった。

 さらに2年余りたったころ、竜田一人作の漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』を読んだ。いわきの国道6号を北上し、波立海岸で作業員が朝日を迎え、感動するシーンに感動した。

 この間、通行止めになっていた常磐道の広野IC―常磐富岡ICが3年ぶりに再開し、平成27(2015)年には全線が開通した。その後、大熊IC、常磐双葉ICが供用を開始する。国道6号の久之浜バイパスも同29年には開通した。

 そうしたもろもろのことを思い出しながら、無事、Jヴィレッジのドーム前に着き、孫の仲間が到着するのを待って帰路に就いた。帰りはスイスイだった。

 にしても、曇りなのに朝からかすんでいる。花粉に黄砂が飛んでいた? 午後はさらに歩くだけで汗をかいた。まだ3月末だというのに、この日は初夏を思わせる一日になった。

2021年3月30日火曜日

友情の「翔陶」開眼式

        
 連絡がきて、緑川宏樹さん(1938~2010年)の墓の開眼式に出席した=写真上1。緑川さんは前衛陶芸家。画家の松田松雄さん1937~2001年)らと市民団体「いわき市民ギャラリー」を組織し、同じ画家の若松光一郎さん(1914~95年)を頭に、市立美術館建設運動をリードした。

 いわきの現代美術の淵源は、昭和40年代半ばから10年ほど開業した草野美術ホール(平・南町)だ。立て続けに個展・グループ展が開かれた。松田・緑川さんほかの画家や陶芸家、書家、新聞記者たちのたまり場でもあった。

そのころ、現いわき駅前に画廊喫茶「珈琲門」ができる。ここへも松田・緑川さんらが出入りした。その談論と熱気から、現代美術を収集の柱とする市立美術館オープンへとつながる市民運動が生まれた。

 松田さんはその後、原因不明の病気にかかり、64歳でこの世を去る。緑川さんも体の自由がきかなくなり、72歳で彼岸へ渡った。

 いわき市常磐湯本町三函に浄土宗の惣善寺(森大岳住職)がある。寺の近くで生まれ育った若松さんが眠っている。住職が若いころ師事した松田さんの墓もある。そして今度、同じように住職が師事した緑川さんの墓が、緑川さんの友人たちの協力を得て建てられた。

 墓にはすべて国産の石材が使われた。墓石本体は県内の黒みかげの「中山石」、それ以外は中通りの桜みかげと笠間の「稲田石」だという。

磨き上げられた墓の表面には篆書(てんしょ)の「翔陶」の二文字=写真上2。松田・緑川さんらと同じ草野美術ホール・珈琲門仲間の書家田辺碩声さんが、住職を介して揮毫(きごう)した。

「翔陶」は緑川さんの戒名の最初の3文字「翔陶院』から採った。緑川さんの代表作は「紙ヒコーキ」。長女・志保さんによれば、母親が紙飛行機をつくっていたのを見て、緑川さんが発想した。住職もまた、はばたく鳥のイメージではなく、滑空する紙飛行機の延長で戒名を考えた。

 花曇りの3月28日午後、本堂で1年早い緑川さんの十三回忌と次女の1年遅れの十七回忌法要が営まれた、それから墓地に移動して開眼式が行われ、仮安置されていた2人の遺骨を納めた。

 開眼式・納骨までの経緯を記しておく。平成29(2017)年秋、「まちなかアートフェスティバル玄玄天」のトークイベント、「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」が開かれた。前年秋には、同フェスティバルで市民ギャラリーの活動を牽引した画家松田松雄の人と作品を振り返った。

その過程で緑川さんの作品の前衛性が見直され、友人たちが結集して、同30(2018)年8月下旬、若松さんゆかりのアートスペースエリコーナと、今は閉廊したギャラリー界隈(珈琲門の後身)の2会場で「緑川宏樹回顧展/風は結晶する」が開かれた。墓の建設費用にはこのときの売上金が充てられた。

 私が松田・緑川さんと出会ったのは20代半ばだ。なかでも緑川さんは、「陶芸家は茶わんをつくる職人」という先入観を吹き飛ばしてくれた。日用雑器と無縁の「紙ヒコーキ」は衝撃だった。以来、陶芸と陶芸家の概念が解きほぐされ、アート自体も「こうでなければならない」というものはない、と自分に言い聞かせられるようになった。

2021年3月29日月曜日

いわきオンラインツアー

        
 国際NGOのシャプラニール=市民による海外協力の会の「みんなでいわき!2021」オンラインツアーが、おととい(3月27日)開かれた=写真上1。

シャプラニールは東日本大震災・原発事故の直後からいわき入りし、緊急支援から生活支援に軸足を移して交流スペース「ぶらっと」を運営した。

現地支援の一環として、毎年、「みんなでいわき!」ツアーも実施している。10年の節目に当たる今年(2021年)はコロナ禍のため、オンラインでいわき~東京~全国各地を結び、被災地の今の様子やシャプラとつながりのできた人々の思いを聴いた。

オンラインツアーって? デジタル技術に弱い私はイメージがつかめなかったが、ZOOMというアプリを使ったネット上のツアーとミーティングだった。

限定30人で募った参加者には、事前に豚まんやオリーブパスタなどの「いわき特産品セット」が贈られている。

わが家の向かいにある故義伯父の家をスタジオにして発信した。シャプラがいわきで活動を続けたときの宿泊所でもある。

ここへ、津波から命からがら逃げた旧知の大工志賀秀範さん(平豊間)、おととし(2019年)の台風19号で大きな被害を受けたオリーブプロジェクトの農業木田源泰さん(平・平窪)、富岡町から原発避難をしている田中美奈子さん、ザ・ピープルの吉田美恵子さんが集結した。

木田さん同様、台風被害を受けた平窪の中華料理店シェフ吉野康平さんは自店から参加した。「コロナはにくんでも、豚まんはにくまん。」のキャッチコピーが朝日の「天声人語」に取り上げられ、すっかり有名になった豚まん製造のエピソードなどを語った。

カミサンはシャプラのいわき連絡会として、オンラインツアーの最後にあいさつした。私は自宅茶の間で、パソコンを介して同ツアー=写真上2=の様子を取材した

この日、3月27日には忘れられない思い出がある。10年前、シャプラの3人がわが家にやって来た。それからちょうど10年後、今度は故義伯父の家からいわきの情報が発信された。偶然とはいえ、感慨深いものがある。10年前のブログを要約して載せる。

                ☆

日曜日の3月27日午前、わが家にシャプラニールの副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。

19日、北茨城市でボランティア活動をしたあと、22、23日といわきの避難所へ救援物資を運搬した。

原発事故でボランティアの足が止まっているいわきでなにができるか。市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて勿来へ足を運んだ。市勿来支所長と、復旧のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会った。勿来支所では、災害現場を見て回った副市長とも偶然顔を合わせた。

「未来会議」のリーダーは「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。現地を通って息をのんだ。分厚いコンクリートの防波堤が津波で破壊されていた。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。(ここからシャプラの5年に及ぶ活動が始まった)

2021年3月28日日曜日

広域農道初の大事故

        
 おととい(3月26日)夜のこと――。夕刊に載った交通死亡事故の記事=写真上1=を読んで、思い浮かんだ道路がある。四倉から小川へ抜ける山中の広域農道だ。そこで起きたとしたら、初めての重大事故ではないか。

 記事によると、事故の概要はこうだ。3月25日午後5時40分ごろ、四倉町八茎字上手(うわで)地内の市道で、玉山(四倉)方面から芝原(小川)方面へ走行していた44歳男性(小川)の大型バイクと、対向してきた63歳男性(四倉)の軽乗用車が正面衝突をした。バイクの男性は全身を強く打って病院へ運ばれたが、間もなく死亡した。

現場は片側1車線の直線道路で、四倉方面からはゆるやかな上り坂になっているという。この付近でそんな形状の道路といえば広域農道しかない。それが「市道」も兼ねているのだろう。

広域農道は四倉町(玉山)~小川町(高崎)間約10キロを結ぶ。標高200メートルほどのところに四倉と小川を分ける上岡トンネルがある。ずいぶん前に完成したが、四倉側の工事が進まず利用することができなかった。それが「震災復興」名目で工事が再開し、二ツ箭山腹を縫う小川分のうち、終点部を除いて東側が開通した。

ネット上の地理院地図では道路はつながっているが、グーグルアースではまだ計画中(工事中)のまま。上岡トンネルから東のストリートビューはない。知る人ぞ知る「天空のハイウエー」だ。

私は、夏井川渓谷にある隠居からの帰り、たまにこの道路を利用する。国道399号から広域農道に移り、仁井田川に架かる八茎橋を渡って山田小湊へ下りるか、起点の玉山まで行く。平東部・四倉・久之浜と小川・川前の往来には便利なルートだ。

これは私自身の体験なのだが、この天空のハイウエーでは自分の車しか走っていない感覚になる。以前は対向車両がほぼゼロだった。が、このごろは朝夕の出・退勤時、マイカーがすぐ視野に入ってくる、大型トラックがやって来る、といったことが多くなった。

そのうえ、道の両側にはススキが生え、灌木が茂って、「うらめしやー」をしている。バイクも車もついセンターライン寄りを走るようになる。そういったもろもろの条件が重なって事故が起きたのではないか。広域農道の利用者としては、どうしてもそんなことを考えてしまう。

きのう(3月27日)早朝、夏井川渓谷の隠居へ「朝めし前の土いじり」をしに行った。畑に生ごみを埋め、ネギの苗床の草をむしり、郡山からの一番列車が通過したのを機に、小川の平地へ下りて二ツ箭山へ向かい、広域農道を利用して帰ってきた。

想像していた場所に花束とウイスキーの瓶が置いてあった。やはり、「天空のハイウエー」での事故だった。当事者はともに帰宅途中だっただろう。同じ道路の利用者の一人として、思わず複雑な気持ちに襲われ、黙祷した。自分が来た小川方面を振り返れば、長い直線の坂が続いていた=写真上2。

2021年3月27日土曜日

種の名前が「フラガール」

                      
 晩酌のつまみに細長いミニトマトが出た=写真。カミサンの友達が持ってきた。「『赤井で買った』といっていた」。ほかのミニトマト、あるいは普通の中玉より甘い。皮はやや厚めだが、それだって「いい歯ごたえ」のうちだ。一発で好きになった。

 小さいころに食べたトマトは甘かった。昭和30年代の高度経済成長が始まる前、家の裏に家庭菜園があった。ネギなどのほかにトマトを栽培していた。家のものか近所からのもらいものかはわからないが、完熟したトマトの甘さが味蕾(みらい)に刷り込まれた。それが、私のトマトの味の基準になった。今売られているトマトは、その基準からは程遠い。トマトはなんでこんなに味が薄くなったのか。

トマトだけではない。ホウレンソウもそう。在来のホウレンソウは赤根が大きくて甘かった。今のホウレンソウは根が小さい。セイヨウホウレンソウだからか。

根深ネギ。これも輝くように白く太くてまっすぐだ。見た目はきれいだが、加熱しても甘みが薄くて硬い。中通りに近い夏井川渓谷の小集落では、加熱すると甘くて軟らかい、昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。そこに隠居があるので、最初、住人に種を分けてもらい、自分で消費するていどの量を栽培した。種も採って、自産自消を続けた。去年(2020年)は田村市から苗を取り寄せた。

ま、それより味の濃いミニトマトだ。素性を知りたくて、「赤井/ミニトマト」で検索したら、いわき市平赤井の「あかい菜園」「フラガール」という言葉がヒットした。あかい菜園がつくっているミニトマトの商品名が「フラガール」? すると、カミサンが「パッケージに『フラガール』とあった」という。

次の日、あかい菜園の経営者と会議で一緒になった。いろいろ“取材”した。「フラガール」は商品名ではなく、「種」の名前だった。種? 種苗メーカーが「フラガール」の名で登録した。逆にいうと、「フラガール」はすでにいろんなものに登録されている。「種」だけが未登録だったということらしい。

売りは「濃厚な甘さ、フルーツ感覚で食べられる濃密トマト」だ。いわきにぴったりの種なので、地元のほかの企業、たとえばワンダーファーム(四倉)でも、この「フラガール」を使って溶液栽培をしている。錦町の助川農園でも「フラガール」の栽培を始めたようだ。

「すると、同じ味?」。そうとも言い切れないのだという。企業によって栽培管理が微妙に違う。それが味に反映される。直売所を訪れる客のなかには舌の肥えた人がいて、味の違いを指摘する。なるほど、おもしろいが厳しいエピソードだ。

小川町の平地にもトマト栽培の大型施設ができた。夏井川渓谷の隠居へ行く途中にある。こちらは大玉を中心にした栽培らしい。まずは種のフラガールを使ってできたミニトマトだ。あかい菜園では入り口に直売所を設けている。土・日・祝日は休みだという。平日、そっちの方へ行く機会があったらぜひ寄ってみよう。

2021年3月26日金曜日

アマガエルとサンショウの木の芽

                       
 きのう(3月25日)は朝一番で米配達のアッシー君をした。戻ると、助手席から下りながら、カミサンがつぶやく。「カエルがいる」。水を張った庭の鉢にカエルが浮かんでいた=写真上。

ついでに周りを見ると、サンショウの若木が新芽を吹いていた=写真下。カエデも赤い芽を広げていた。早い!

 春の余韻に浸っているひまはない。茶の間のこたつに陣取ると、テレビをつけてJヴィレッジでの聖火リレーのグランドスタートを見ながら、年度末の事務作業を続けた。年度替わりには区内会の隣組の名簿をチェックし、人数を数えて市に提出しないといけない。単純な作業だが、これがなんとも疲れる。

合間に、息抜きを兼ねてネットでアマガエルの生態を調べたり、サンショウの木の芽の食べ方を探ったりした。過去の拙ブログも読み直した。

 カエルは、背中が迷彩模様をしている。鉢の水に合わせて、体の色も緑から灰色に変えた。手足の先端に吸盤がある。庭に“定住”しているアマガエルだ。アマガエルは樹上生活者。わが家の庭にはえさになるクモや虫が多い。それが減る冬場はどこか土のなかで眠っていたのだろう。

このところ地温が上がって草が芽生え、ヒヤシンスやスイセンの花が咲いた。ジンチョウゲの、プラムの花が咲いた。庭の彩りが増してきたのに合わせ、虫たちも飛び交うようになった。カエルも冬眠から覚めてまずは水に浸かった。人間でいうと長い旅から帰ってひとっ風呂浴びて生き返ったような風情だ。

 この春は、夏井川渓谷の隠居から毎週のようにフキノトウを摘んできた。ふきみそ、てんぷらにした。もういいかな、というくらい食べたところでサンショウの新芽が庭に出てきた。

サンショウはこの時期、新芽も若葉もいい食材になる。あえもの・吸い口・彩り、あるいはさんしょうみそにする。独特の香りがする。かむと舌が軽くしびれる。これがたまらない。まずは、さんしょうみそか。

去年(2020年)の暮れ、後輩に頼んで庭の木をバッサリ切ってもらった。アマガエルが張り付く木は減ったが、獲物になる虫たちはたぶん今年も健在だ。

 というより、今年は春の息吹が渦巻いているような感じがする。記録的な早さでソメイヨシノが開花し、シダレザクラの花が満開になった。花に群がる虫たちも目覚めが早くなったことだろう。

 人間もまた自然の移り行きに合わせて暮らしている。アマガエルが冬眠から覚めた以上は、糠床も冬の眠りから覚ましてやらなくては。普通は4月の終わりから5月の初めに糠漬けを再開するのだが、今年はいつもより1カ月早く、4月には甕(かめ)の封を解こう。

この冬は、白菜漬けがちゃんとできなかった。漬かってもすぐ産膜酵母が張った。寒気が十分ではなかった。白菜漬けの不出来と庭の草木の早い目覚めは連動していたか。

2021年3月25日木曜日

それぞれのカメムシ対策

                              
 隠居のある夏井川渓谷の小集落で年度末の寄合があった。会場はK・Sさんの家の奥、納屋を改造した「談話室」だ。薪(まき)ストーブがある。カラオケ装置がある(コロナ禍以降、使用は自粛しているようだ)。

 日曜日だけの半住民の私にとっては、渓谷の暮らしと自然を知るまたとない機会だ。いつものように渓谷の花やキノコの話が出た。集落内外の人の話になった。ショックだったのは、隠居の隣にある「夏井川渓谷錦展望台」の持ち主が暮れに亡くなったことだ。

震災前、持ち主が空き家を解体・更地にし、谷側の杉林を伐採してビューポイントにした。行楽客が車を止めて景色を堪能できるスポットができた。アカヤシオ(イワツツジ)の花が咲く4月と、紅葉の美しい10~11月には、持ち主が広場の隅にあるコンテナハウスに日本酒などを並べて売った。

去年(2020年)の秋は、しかし、コンテナハウスが開くことはなかった。当然、持ち主とは会わずじまいだった。

実際の生活の拠点は栃木県内にある。都市部の自宅と、出身地である渓谷の実家を行き来して暮らしていた。はやりの言葉でいえば「2地域居住」。展望台の管理は? 当面、親類でもある地元のK・Aさんがするという。

そうこうしているうちに、ストーブで室内が暖まったせいか、頭上をカメムシが飛び交い始めた。電球のひもにもびっしり止まっている=写真。テーブルに落ちて這いまわるものも現れた。

なんというカメムシだろう。灰色に近い背中の模様からするとクサギカメムシらしかった。このカメムシは成虫のまま人家に入り込んで冬を越すことがある。

たちまちカメムシ対策の話になった。ある家では網戸やガラス戸に忌避剤を噴霧した。すきまをテープでふさいだ。「談話室」には超音波式の駆除器をおいたという。

しかし、ストーブの暖気に誘われて何十匹も現れたことからみて、超音波は「効果なし」だった。ほかの対策もどこまで効き目があるかはわからない。

わが隠居も似たようなものだ。隠居は冬、「カメムシの宿」に変わる。雨戸のすき間、座布団と座布団の間、畳んだゴザのすき間と、至る所にカメムシがもぐりこんでいる。そこへ人間が現れ、石油ストーブで部屋を暖めると、いつのまにか1匹、また1匹とカメムシが現れる。独特の臭気に支配されることもある。

まだ冬が来る前、土いじりをするためにハンガーにつるしておいた防寒コートを着ると、カメムシがバラバラ落ちた。その数、10や20ではきかなかった。

 カメムシに頭を痛めていた年明け、学校の後輩からクスノキの薪をもらって、隠居の茶の間などに置いた。防虫剤の樟脳(しょうのう)はクスノキが主成分だ。クスノキ本体を置けば、強烈な香りに負けてカメムシが逃げていくのではないか。そんな淡い期待を抱いたのだった。

効き目があればむろんいい。が、なくてもかまわない。春になればいつかは、カメムシは姿を消す。

カメムシは、方言では「ヘクサムシ」。一発くらうと、パクチー的なにおいがしばらく消えない。パクチーが食材になるように、カメムシも……なら、悩む必要はないのだが。そうはいかないからみんなあれこれ対策を試みる。そして、ほとんど失敗する。

2021年3月24日水曜日

「41年間の登校見守りに感謝」

                       
 近所に親しくしているクリーニング店主のNさんがいる。震災前後、Nさんの下で区内会の仕事を学んだ。近くのスナックでの飲み会にもよく誘われた。

 朝は制服を着て交通教育専門員の仕事をする。3月15日早朝、小学生の登校見守りをすませてわが家に立ち寄り、カミサンに3月で任務を終えることを告げた。私は夏井川渓谷の隠居へ出かけて朝めし前の土いじりをした。その時刻には帰宅中だったので会えなかった。

 Nさんが交通教育専門員に就いたのはいつだろう。私たちは、子どもがまだ幼稚園に通っていたころ、下平窪(平)から中神谷(平)へ引っ越してきた。息子たちが小学校に入ると、すでにNさんは立哨活動をしていた。もう40年ほど登校日には欠かさず信号機のそばで子どもたちの安全を見守ってきたことになる。

 先日配った隣組の回覧資料のなかに平六小の「学校通信」があった。「41年間の登校見守りに感謝」という見出しの記事が載っていた=写真上1。今年度(2020年度)最後の全校集会が3月15日に開かれた。Nさんに感謝状を贈り、代表児童が感謝の言葉を述べたことを伝えている。正確には、41年! Nさんの「子ども見守り歴」の長さがハンパではないことが、これからもわかる。

 15日、Nさんは朝から忙しかったようだ。いつもの登校見守りをすませ、わが家に立ち寄ったあと、あらためて六小の全校集会に臨んだ。

同じ日の朝、私も小学生を意識して隠居から帰った。最初は、小川小。いつもは町内の旧道を戻るのだが、通学路になっているところがあるので、行きと同じバイパスを利用した。次は平四小。児童のいない学校の裏手の田んぼ道を通った。

平二小学区では一部、通学路と重なった。夏井川の堤防から平橋を渡ると、PTAのほかに制服を着た交通教育専門員がいた。とっさにNさんの顔が思い浮かんだ。帰宅すると、そのNさんが来たという。

きのう(3月23日)は小学校の修・卒業式。Nさんにとっては41年に及ぶ任務の最後の日だ。朝7時すぎ、家の前の通学路に出てNさんを待つ。あいさつを交わしたあと、記念写真を1枚。それから、横断歩道で子どもたちを安全に誘導しているところを何枚か撮った=写真上2。

午後、街へ行ったついでに「神谷耕土」のサクラを見ながら帰った。上神谷の山腹にある住善寺のシダレザクラ(エドヒガン=市の保存樹木)は満開だった。そういえば、3月21日の日曜日、隠居からの帰りに寄った小川諏訪神社のシダレザクラも満開だった。それで、シダレザクラはソメイヨシノより早く開花することを知った。

平六小の校庭のソメイヨシノは、と見れば、咲き出したばかりだった。サクラが開花したなかでの入学式はともかく、修了式・卒業式に桜が咲いたのは今まであったかなかったか。

春の花が咲き出すなかで、地域の子どもたちを40年以上も見守ってきた人が、次にバトンを渡す。地域はこうした地道な活動を続けている人々によって支えられている。そういう人こそほんとうのヒーローではないか――Nさんの、交通教育専門員としての最後の朝に、そんなことをしみじみと思った

2021年3月23日火曜日

「今を生き抜く女性たち」展

                     
 3月初め、カミサンに根本美樹さん(いわき市出身)という人から案内状が届いた。いわきアリオス本館1階東口ウオールギャラリーで、写真展「female notes――今を生きぬく女性たち」が開かれている(3月29日まで)。ネパールやインドなどアジアの作品も展示しているので、どうぞ――とあった。

 根本さんは去年(2020年)秋、いわき駅前の「faro」で写真展「パレスチナのちいさないとなみ 働いている、生きている」を企画した。食事を兼ねて見に行ったついでに、パレスチナのフェアトレード商品(オリーブせっけんとハーブミックスの「ザアタル」)を買った。そのとき、カミサンがたまたま居合わせた根本さんと会って話をした。

今度の写真展は「ジェンダー」がテーマだという。ジェンダーとは、生物学的な性別ではなく、社会的・文化的につくられた性別のことを指す。身近な例としてよくいわれるのが、「料理は女がするもの」という決めつけ。「ジェンダー平等」のためには、夫である男もつくる、あるいは交代でつくる、といったことが当たり前にならないといけない。

案内状の一文。「世界では、女性というだけで自由を制限されたり、LGBTQ(性的マイノリティ)の当事者として生きづらさを抱えて暮らす人々がいます。日本でも、男女の格差を示すジェンダーギャップ指数は世界で121位、ジェンダー平等からは程遠い状況です」

写真展では「アジア・アフリカを中心に世界で女性たちが今も直面している困難や、これまで男性優位であった政治や社会システムを変えようと立ち上がった人々を取材したフォトジャーナリストの写真を展示」している。

案内状が届いてほどなく、写真展を見に行った=写真。翌3月8日は「国際女性デー」だった。国際女性デーを意識した写真展だったか。

シャプラニール=市民による海外協力の会に関係している。シャプラは主にバングラデシュやネパールで児童教育支援、防災支援などを行っている。家事使用人として働く少女たちのために読み書き・計算を学ぶ機会の提供、性暴力を防ぐための教育、あるいは技術指導などを手がけてきた。これも子どもの権利を守りながら、広くジェンダー平等につながる支援活動とみていいのではないか。

 ひるがえってわが家はどうか、といえば、恥ずかしながら「料理をつくる人」と「食べる人」の関係は変わっていない。ただ、漬物(夏の糠漬け・冬の白菜漬け)は私がつくる。月曜早朝にはごみネットを出す。風呂もわかす。若い世代からみたら、ジェンダー平等からは程遠いかもしれないが、老が老を支えるという意味では、家事の分担が前よりは進んだかもしれない。

 ジョン・レノンが自分と妻のヨウコを描いた絵に「トゥー・イズ・ワン(二つは一つ)」がある。若いころはそれが「愛の弁証法」だと思っていたが、老いた今はジェンダーを超えた「福祉的弁証法」に変わった。1人ではいろいろ抜ける、忘れる。それをどちらかがカバーする。カバーし合ってやっと「2人で1人」という感覚になってきた。

一つだけいえることがある。拙ブログはカミサンのひとこと、つまりは主婦=女性の視点をきっかけに組み立てることが多い。きょうのブログもそうだ。天下・国家より野菜の値段が大事――個別・具体の「主婦のおしゃべり」に耳を傾けると、男とはまた違った風景が見えてくる。

2021年3月22日月曜日

アカヤシオの雨に打たれて

                     
   きのう(3月21日)の日曜日は、未明に起きると静かな雨だった。時間がたつにつれて風が強まり、横なぐりの雨に変わった。それが夜まで続いた。けさは、雨こそやんだものの強い風が吹いている。

 この連休は、初日が行政区の仕事、2日目が雨の中の墓参・寄合と、自分を奮い立たせながら動き回った。

春分の日の土曜日は回覧資料を振り分けて、行政区の役員さん宅に届けた。年度末は新年度用の資料が届く。「ごみカレンダー」は少し前に配った。おとといは厚みのある「保健のしおり」が入った。

 隣組の世帯数は平均すると10前後。最大でその倍近い。平均的な隣組でさえ、「保健のしおり」が入ると、通常の大型封筒では間に合わない。去年(2020年)までは捨てずに取っておいたレジ袋を利用した。全国一律にレジ袋が有料化された7月以降は、まずレジ袋が手に入らない。代わって、大きめの紙袋(これも捨てずに残しておいた)を使った。

 私が担当する隣組は中層住宅が多い。ふだんは1階の郵便受けに差し込めばすむのだが、とても入りきらない。3階、4階の班長さん宅まで何回も上り下りした。この振り分け・配布だけでエネルギーが尽きた。

 翌日曜日は、午前中はカミサンの実家の墓参り、午後は夏井川渓谷の小集落での寄合――と前から決まっていたので、横なぐりの雨でも行かないわけにはいかない。

 寺へ着くとすぐウグイスのさえずりを聞いた。「おっ、今年(2021年)初めてだ!」。風にこうもり傘をあおられないようにしていた体が、いや心が一瞬軽くなる。「日曜日は荒天」の予報に、前日の春分の日に墓参りをする人が相次いだ。カミサンの実家(米屋)ではこの時期、墓に供える花も売る。前の日、早々に売り切れたという。確かに、日曜日の墓参り組は少なかった。

 それからいったん街へ出て用をすませたあと、渓谷の寄合に出た。平の市街ではソメイヨシノがチラホラ花を咲かせている。渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)は街のソメイヨシノと同時に咲き出す。

 まず、籠場の滝付近の対岸をチェックする。谷に近い崖で咲き始めていた=写真。隠居に着くとすぐ対岸を見たが、肉眼では確認できなかった。寄合が開かれる家に行く途中、対岸を振り返ると、1カ所、薄くピンク色になっているところがあった。アカヤシオの花だ。

 寄合では、やはりアカヤシオの花が話題になった。「アカヤシオの花が咲き出したのはきのう」。つまり、春分の日だ。人によっては基準木にしているアカヤシオが異なる。私は隠居の対岸、10時方向の岩盤のそばにあるアカヤシオだ。一人は水力発電所のわきのアカヤシオ。もう一人は、今は空き家になった庭のアカヤシオだ。春分の日に咲くのは「とにかく早い」部類に入る。

 普通のカメラと望遠レンズを付けたカメラでピンクのかたまりを撮影し、拡大すると、周りにもピンクの点々が写っている。肉眼でわからないのは雨がそれを遮っていたからだろう。

アカヤシオの開花を雨の中で確認するのは、25年以上通い続けて初めてだ。「アカシアの雨に打たれて……」という西田佐知子の歌をもじっていえば、アカヤシオの雨に打たれて春の喜びがきた。

「今年はもうカエデも芽吹きそうになっている」。確かに、平地から渓谷へ入ったとたん、県道沿いの木々の枝が赤っぽく感じられた。雨に濡れて枝がそうなったのではなく、カエデの木の芽が赤みを増しているのだった。どういうわけか今年、植物は春機が乱れて発動している。

2021年3月21日日曜日

ダンシャリと終活と地震

 シャプラニール=市民による海外協力の会は、活動資金の一部を賄うために「ステナイ生活」を展開している。一例として、家庭や職場に眠っている使用済み切手や書き損じはがきなどを送ると、換金されたおカネがそのまま寄付金となって活動資金に充てられる。

 カミサンがシャプラニールのいわき連絡会を引き受けているので、あちこちから使用済み切手が届く。先日、知り合いの家に行くと、お母さんが終活を始めたという。それで手紙の切手を切り取り、小箱に入れたものをカミサンに託した。

 それと前後して、カミサンに幼友達から小学校時代の写真が送られてきた。学芸会の劇らしい。子どもたちの表情からすると、小3ないし4年生だろうか(追記:あとから同じ劇の別の写真が出てきた。写真の裏書きに「昭和26年冬の学げい会」とあった。小学2年生のときの劇とわかった

舞台の後方に木が立っている。その前に木の葉を盾のようにして座っている子が9人。そこにカミサンと幼友達がいる。9人は手製の葉っぱのようなものをかぶっている。さらにその手前、男の子が泣いている子の手を取って助けようとしている。2人のかぶりものは白い鳥のようだ。アヒル?(そのころ、つまり65年ほど前のいわき地方には、ハクチョウは渡って来なかった)

 手紙には、2月13日深夜の大きな地震に触れたあと、写真のダンシャリを延々とやっている、カミサンがかわいく写っていたので捨てるにしのびず送った、とあった。

終活で出た使用済み切手とダンシャリの写真がそろう=写真上1=のは、偶然ではない。年齢的なものはもちろんある。それ以上に、10年前の東日本大震災と原発事故が影響しているのではないか。私らも10年前、かなりの量の本をダンシャリした。ダンシャリの意識はその後も途切れることなくある。近年はこれに終活が加わった。

 カミサンが写真の解説をしてくれた。残念ながら、何年生のときの、なんという劇かは覚えていないという。「その他大勢」組だったからか。

幼友達はカミサンの後ろにいる。アヒルのようなかぶりものをした男の子は、後年、出版社に入って編集者になる。今は私も一緒に会ったり、連絡を取ったりしている。

ただ、写真は劇が終わってからポーズをとって撮ったものらしい。「劇をやっている最中には撮れないから」。道理で、「葉っぱ」の9人がそろってカメラ目線になっているわけだ。

春分の日のきのう(3月20日)、晩酌をしながら以上のような話を聴いていると、急にスマホが鳴りだした。緊急地震速報だった=写真上2。揺れがくると同時に石油ストーブの火を消し、茶の間の戸を開けた。2月13日深夜並みの長く大きな揺れだった。揺れが鎮まったあと、階段の本を見ると1冊も落下していなかった。いわきでは震度4だった。しかし、体感では5強にはいかないが、4よりは大きかった。

 こんな状況だから、東北の太平洋側では特にダンシャリ・終活が進んでいるのではないか。2月13日の場合は、わが家から少し離れたところで「り災証明書」を必要とする家が出ている。壁に亀裂が入った写真を見せられた。きのうの地震でさらに傷が広がった、ということになっていなければいいのだが。 

2021年3月20日土曜日

あちこちに春の花が

                      
 前日の陽気とは打って変わって、ややひんやりしたきのう(3月19日)朝――。台所から庭を見てカミサンがつぶやく。「プラムが咲いてる」。ご飯を食べたあと、カメラを手に庭へ出た。刷毛でうっすら白く塗られたような雲をバックに、白い花を咲かせたプラムの枝にスズメが来て止まった=写真上1。おや、花をつついているようだ。スズメはそんなこともするんだっけか。

 写真を撮ったあと、過去の拙ブログでプラムの開花・満開時期をチェックする。開花日がはっきりしているのは、早い順から3月22日(2020年)、同25日(2019年)、同27日(2018年)で、ほかは満開のころが記録されている。その時期は3月30日(2016年)、4月4日(2015年)、同6日(2017年)、同10日(2014年)。

今年(2021年)は、自分のブログの記録の上では最も早い開花になったようだ。

気象庁のサクラの開花発表はソメイヨシノが基本。日本列島は南北に長いため、沖縄県や奄美大島の名瀬はヒカンザクラ(緋寒桜)、北海道は札幌や室蘭・函館を除いてエゾヤマザクラが観察木になる。ヒカンザクラは、1月中旬には咲く。何年か前の2月に台湾を旅行したとき、この花に出合った記憶がある。

東京では3月14日にソメイヨシノが開花した。その直後から、東北最南端のいわきでも「しだれ桜、全部で5輪、開きました」「お墓参りに行ったら桜が二輪開花」といった情報がフェイスブックにアップされるようになった。サクラ以外の春の花も咲き出した。

古い人間には、まずはソメイヨシノだ。それが咲くと「春」になる。ところが最近は、マスメディアも前のめりになっているらしい。

ソメイヨシノを待ちきれずに、オオシマヤマザクラとヒカンザクラの自然交雑から生まれた早咲きの「河津桜」を追う流れが強まった。しかし、「地ザクラ」ということでいえば、そこにあるソメイヨシノ、あるいはヤマザクラ系をちゃんと見て伝えることも大切だろう

きのう朝、街へ行ったついでに、早咲きで有名な平市街のソメイヨシノ(エドヒガンザクラという説もある)を見た。満開だった=写真上2。すると、ほかに見た春の花があれこれ思い浮かんだ。同じ日、街へ行く途中で、満開のユキヤナギの花を見た。何日か前には小川町の平地でハクモクレンの花を見た。似たような花のコブシは平の住宅地で。

帰りは、いつものように夏井川の堤防を利用した。今は操業を停止している工場の裏手にソメイヨシノが10本余り植わってある。その1本に花が二つほど咲いていた。

きのうは昼前、また街へ出かけた。帰りは堤防ではなく国道を戻った。塩地内のコンビニへ寄って買い物をした。国道へ出たら、車道と歩道を分ける縁石のへりに1輪、鮮やかな黄色い花が咲いていた。セイヨウタンポポだ。

家に着くと、玄関のそばでヤハズエンドウ(カラスノエンドウ)が生えているのに気づいた。根元に一輪、赤紫色の小さな花を付けている。

なんだか今年の春は、順序に関係なく花が入り乱れて咲くような感じがする。いや、それはフェイスブックなどで花の情報に多く接しているからか。

2021年3月19日金曜日

屋上看板が真っ白に

                     
 きのう(3月18日)は、けっこうな暖かさだった。朝、定期診療のために義弟と付き添いのカミサンを内郷の病院へ送り届け、昼前、2人を迎えに行った。午後はまた薬をもらいに内郷へ出かけた。平と内郷の間を3往復した。

 午後2時過ぎ、国道399号(旧国道6号)沿いの電光表示板は、気温20度を示していた。車の窓を閉めきっていると、すぐ暑くなる。厚手のシャツが体熱の放散を抑える。それだけでも汗ばむので、運転席の窓を半開きにして車内の熱を逃がした。

 義弟の受診後、必ずヨークベニマル内郷店へ寄って、昼の弁当その他を買う。今回は店内改装のために臨時休業中だった。午後、薬をもらいに行った帰り、食材その他の買い物のために最寄りのマルト平尼子店へ行くと、ここも店舗建て替えで1月中旬から休業中だった。4月下旬には新装開店をする予定だとか。

 こうなったら、マルトの城東店へ行くしかない。いわき駅前を通り、JR常磐線の大工町踏切近くで信号待ちをしたとき、2月28日に閉店したイトーヨーカドー平店の屋上看板が目に入った。白地に赤色の「7」と緑色のi」を組み合わせたマークが消えて、真っ白になっていた=写真。

 2月末の閉店後、建物の前の道路を何回か通っている(わが家からいわき駅前の総合図書館へ行くのに必ず利用する)。当然、店は閉まったままだ。そのときは「確かに閉店している」としか思わなかったが、真っ白な屋上看板を見たとたん、二つのことが思い浮かんだ

一つは、昭和46(1971)年4月28日の開店から閉店までの50年の歴史。もう一つは、街なかに住んで車を持たないお年寄りはマルト平尼子店が休業中の今、どこへ買い物に行くのか、ということ。ラトブの1階か。あるいはタクシーで線路をまたぐ?新川を渡る?

50年前の4月、いわき民報社に入った。その月の終わりに始まる大型連休の前にヨーカドー平店が開店した。平店のスタートはそれでよく覚えている。

 それから40年後、東日本大震災と原発事故が起きる。シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで交流スペース「ぶらっと」を開設し、被災者や原発避難者、一般市民の支援活動を続けた。

 最初はいわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階(2011年10月1日~2012年3月末)で、次にヨーカドー平店2階(2012年4月1日~2014年3月末)で、最後はスカイストア(2014年4月6日~2016年3月12日)で。5年間、被災者・避難者・市民の交流の場として機能した。

 シャプラの会員(カミサン)とマンスリーサポーター(私)なので、「ぶらっと」にはしょっちゅう顔を出した。特にヨーカドー平店ではすぐ、1階で買い物をすませられる。「ぶらっと」利用者はほとんどがそうして買い物をして帰ったのではないだろうか。

 ヨーカドー平店は半世紀の営業に幕を閉じて、いわきの歴史の1ページになった。私的には「『ぶらっと』とヨーカドー平店」という「一節」が深く胸に刻まれた。

2021年3月18日木曜日

詩と写真集『曖昧な喪失』

                      
 フランス人写真家デルフィン・パロディと日本人作家多和田葉子さんの詩と写真集『曖昧な喪失』をじっくり読む。

津波被災者や原発避難者と2人をつないだ知人のTさん(いわき)の元に本が届いた。届いたら見せてもらう約束をしていた。深く考えさせられる1冊になっている。

 3・11の直後、シャプラニール=市民による海外協力の会が、国内で初めて、いわきで長期的な支援活動に入った。その拠点になったのがラトブ、次いでイトーヨーカドー平店(今年2月28日で閉店)などで開設・運営した交流スペース「ぶらっと」だ。

震災から1年余りたった2012年5月中旬、Tさんや私ら夫婦がボランティアとしてかかわっていた「ぶらっと」に、デルフィンがやって来た。以来、英語に堪能なTさんが彼女の写真取材に協力した。デルフィンとドイツ在住の多和田さんが知り合うと、Tさんは多和田さんの福島取材を支えた。

結果、ドイツで2人の作品展が開かれ、多和田さんの長編小説『献灯使』(2018年全米図書賞受賞=第1回翻訳文学部門)などが生まれた。

 ぜひ、詩と写真集を――。デルフィンも日本での出版を願っていたが、なかなか実現しなかった。それが去年(2020年)、クラウドファンディングで、母国フランスで出版が実現した。Tさんも協力したという。

 同年11月4日、フェイスブックにデルフィンが情報をアップした。フランス語から日本語に切り替えて読んだ。2人の本が、フランスの2020年HiP賞(自然と環境部門)を受賞した、とあった。

 その本が今、手元にある=写真(右側の瓶はTさんからいただいた焼酎)。縦に長い変形本だ。1ページに1枚の写真が配され、パート、パートの区切りとして見開き写真が使われている。

生々しい惨状を伝えるようなものはない。避難した友の語らい、仮設住宅での一コマ、あるいは里山・渓流・夏の稲田・海……。「ぶらっと」で知り合い、親しく言葉を交わした人が何人か登場する。それもあって、何も変わらないような風景の向こうに失われた世界が浮かび上がる。追われてきたふるさとが重なる。それが、いわきで暮らす私にも見える。

表紙は鈍色(にびいろ)の布張り。平安時代には、鈍色は「喪の色」だった。タイトルの『曖昧な喪失』をよく表している。

それぞれのパートの後半には、日本語・ドイツ語・フランス語・英語の4カ国語で多和田さんの詩が載る。最後のパートだけは、詩ではなく、被災者・避難者のことばが、やはり4カ国語で収められている。

 たとえば、富岡町から避難した人のことば。「私の家族は富岡町の立ち入り禁止区域の中に稲田を持っていました。収穫したての味新米それを毎年待ち侘びていた。けれど、もうそれは二度と出会うことができない」

 この言葉と対応するような多和田さんの詩がある。「もう二度と自分でつくった米を食べることはない/五十年間 穀物の錬金術をみがいた男/海を真似て稲穂に塩を与えたこともあった/刻一刻 苗が緑をこえた緑に輝き/種が金をしのぐ金色に育つのを/子供の時に目撃した/海にのまれた後の稲田に訪れる豊作を」

 デルフィンの写真と多和田さんの詩が交感し、さらに避難者一人ひとりのことばが、静かに、深く、強く、こちら側に響いてくる。