ラベル 小名浜 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 小名浜 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年5月21日金曜日

在来種おびやかすチョウ

        
 去年(2020年)9月末のことだ。朝、庭に出て歯を磨いていたら、シソの葉に隠れるようにして止まっているチョウがいた=写真上1。後ろの翅(はね)に赤い斑紋が付いている。こんな鮮やかな紋様のチョウは見たことがない。ネットで調べると、タテハチョウ科のアカボシゴマダラだった。国立環境研究所の「侵入生物データベース」に情報がアップされている。在来種をおびやかす厄介者らしい。

去年10月4日の拙ブログでアカボシゴマダラについて書いている。それを抜粋する。

――アカボシゴマダラの自然分布はベトナム北部~中国南部・東部~朝鮮半島などで、別亜種が奄美諸島と台湾に分布する。日本列島では1995年、突然、埼玉県で確認された。その後、関東南部で多発・定着するようになった。2010年以降では関東地方北部や山梨県、静岡県、福島県でも見られるようになった。

自然の分布域から飛び離れていること、突然、出現していることから、マニアによる「ゲリラ放虫」の可能性が大きいという。幼虫はエノキの葉を食べる。日本の国蝶オオムラサキやゴマダラチョウ、テングチョウなどと競合する。ゴマダラチョウとの雑種も生まれている。拡散させてはならない防除対象種だ。

地球温暖化による北上は自然現象だからしかたがない。しかし、人為的な放蝶による生態撹乱(かくらん)は、あってはならないことだ。温暖化そのものが人間の活動の結果には違いないが、ゲリラ放虫は生態系に対する犯罪といってもいいのではないか――

先日(5月16日)、県紙に「外来のチョウ生息拡大/本県でも確認、在来種に悪影響も」という見出しで、アカボシゴマダラの記事が載った。それで去年秋、わが家の庭に現れたことを思い出したのだった。

 記事によると、いわき市小名浜の海岸近くに生える高さ約1メートルのエノキで5月12日、3センチほどのさなぎが羽化する様子が確認された。アカボシゴマダラの幼虫はエノキの葉を食べる。数が増えすぎると、在来種とエノキの葉の取り合いになる恐れがある、ともあった。

 このところ、よく平の石森山へ行く。同山は平市街地に最も近い、標高225メートルの里山だ。フラワーセンターがある。雑木林内には遊歩道が張り巡らされている。その遊歩道を散歩する。

 林道から遊歩道に入ってすぐのところに「どんぐり平」がある=写真上2。昔はクヌギの幹に「樹液酒場」ができていた。ほとんどが人為的なものだった。そこへ昼はオオムラサキやスズメバチが、夜はカブトムシやクワガタが現れた。樹液をなめてみたことがある。わりと冷たくて甘酸っぱかった。なるほど、これが虫たちの滋養源か――。

オオムラサキがいるということは、幼虫が葉を食べるエノキも同山には生えているということだ。もしかしたら、そこで繁殖・羽化したアカボシゴマダラがふもとの神谷の里へ降りてきた、ということは考えられないか。そうだとしたら、エノキの葉の奪い合いが起きている? 今度、石森山へ行ったら、アカボシゴマダラにも注意して歩こう。

2018年1月18日木曜日

戊辰戦争と目明

 いわきでの戊辰戦争について、小名浜の「二ツ橋の戦闘が東西両軍の勝敗の大勢を決した観」があると、考古・歴史に詳しい八代義定(1889~1956年)が書いている。
 八代の論考や短歌・俳句作品を収めた『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(菊地キヨ子・八代彰之編、2001年)を読んでいたら、西軍は平潟上陸以来、作戦が巧妙を極めた、西軍の勝因は諜報機関の利用活用よろしきを得たことによる、というくだりに出くわした。

 その秘密を解く鍵を握った――と、八代は書く。「それは西軍の参謀堀直太郎と小名浜在住の若松鉄五郎父子の関係であります」として、堀ら西軍から小名浜の目明(めあかし)・鉄五郎父子に贈られた賞金や賞状など4種類の史料を紹介している。史料には、官軍のために探索・道案内に尽力した、という意味のことが書かれている。

 鉄五郎とその子・明(妙)五郎(のち誠三郎)は、作家吉野せいの曽祖父と祖父だ。昨年(2017年)10~12月、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた企画展「没後40年記念 吉野せい展」では、小名浜の生家や誠三郎の関連写真が紹介された。

 写真は①「若松(旧姓)せい生家 いわき市小名浜下町 昭和30年代」②「せいの祖父若松誠三郎の顕彰碑『北辰真武一刀流師範/若松誠三郎源尚之翁碑』地福院常福寺 いわき市小名浜 戊辰戦争の折、誠三郎は、目明役だった曽祖父鉄五郎とともに活躍した」③「若松(旧姓)せいと兄真琴 大正10年」――などで、誠三郎は剣術使いとして知られていた。

 新藤謙『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(たいまつ社、1978年)には、曽祖父は「目明し鉄五郎」と呼ばれた侠客肌の男で、官軍の奥州征討の際、道案内を務めた。祖父・誠三郎も同行した。誠三郎は剣術を学び、のちに道場を開いている。門弟は数百人を数えた、とある。若松家の史料や八代の小論「戊辰戦争」には目を通していなかったようだ。
 
 誠三郎は江戸で千葉周作門下の小栗篤三郎に学んだ。この線から鉄五郎父子が西軍の手引きをするようになったのではないか、と八代は推測する。「若松父子が生前発表すれば勤皇家として格別の沙汰があったと思われるのでありますが、是非善悪は別として、異郷の人に土地の情報を提供したという点に遠慮があって、遂に生涯この事を他に漏らすことをしなかった」のだろうという。
 
 賞状が八代によって紹介された背景には、八代がせいと吉野義也の結婚を仲介したこともあるのではないか。若松家としては八代への信頼が厚かった、それで史料を提供した、ということがいえるのではないか。いずれにしても、目からうろこのような史料にはちがいない。

2017年10月12日木曜日

吉野せい没後40年展

 いわきを代表する作家は、短編集『洟をたらした神』で知られる吉野せい(1899~1977年)。今年(2017年)は没後40年だ。亡くなった翌年(昭和53年)に創設された「吉野せい賞」も今年で40回目になる。
 節目の年を記念したイベントがいくつかある。9月には「朗読と邦楽器による『吉野せいの世界』」が開かれた。今週は土曜日(10月14日)、神山征二郎監督の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。草野心平記念文学館では先週の土曜日(10月7日)、「没後40年記念吉野せい展」が始まった。

 トークショーに呼ばれている。その前にと、きのう(10月12日)、「没後40年展」を見てきた。旧知の学芸員が解説してくれた。文学館では18年前の平成11(1999)年秋、「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」が開かれている。

 結局は図録が頼りだ。「生誕百年記念展」は50ページほどだが、「没後40年展」は16ページと少ない。小名浜で育ったせいの「誕生・文学に傾倒した教師時代」(2~3ページ=写真)の写真のうち、3枚は初見だった。

 そのキャプション(えとき)にこうあった。①「若松(旧姓)せい生家 いわき市小名浜下町 昭和30年代」②「せいの祖父若松誠三郎の顕彰碑『北辰真武一刀流師範/若松誠三郎源尚之翁碑』地福院常福寺 いわき市小名浜 戊辰戦争の折、誠三郎は、目明役だった曽祖父鉄五郎とともに活躍した」③「若松(旧姓)せいと兄真琴 大正10年」――。
 
 新藤謙『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(たいまつ社、1978年)によると、曽祖父は「目明し鉄五郎」と呼ばれた侠客肌の男で、官軍の奥州征討の際、道案内を務めた。祖父・誠三郎も同行した。誠三郎は剣術を学び、のちに道場を開いている。門弟は数百人を数えたという。来年は戊辰戦争150年の節目の年。鉄五郎・誠三郎親子にも光が当てられるといい。
 
 せいの思想形成に大きな影響を与えたのは鹿島村(当時)の八代義定――「没後40年展」でそのことをあらためて胸に刻んだ。

2017年9月21日木曜日

塩ゆで落花生

 3%の塩水でゆでるといい、といわれた。晩酌のつまみに塩ゆで落花生が出てきた=写真。殻を取ったピーナッツの硬さしか知らない人間には、枝豆のようなやわらかさが衝撃だった。ほくほくして、ほのかな塩味が効いている。 
 9月10日にいわき市平・本町通りで「三町目ジャンボリー」が開かれた。イタリア料理のスタンツァと同じブースで生木葉ファームの野菜、加茂農産のナメコが売られていた。ナメコを買い、勧められるままに生の落花生を買った。
 
 乾燥して硬い落花生は子どものころから口にしている。ピーナッツは酒のつまみの定番だ。しかし、生をゆでて食べるという発想はなかった。身近に栽培している人がいなかったのが大きい。

昔、小名浜で栽培されていたのは知っていた。いわき市南部で栽培されていることは、「いわき昔野菜」発掘調査のレポートで知った。
 
 いわき市が2012年3月に刊行した『いわき昔野菜図譜 其の弐』の巻頭言に、次のようなことを書いた。文中の「45年前」は「50年前」と読み替えてもらえるとありがたい。
 
「今はどうかわからないが、45年近く前、小名浜の友人宅で自家栽培の『落花生』を食べたことがある。藤原川下流域の沖積地に家があり、家の前には田畑が広がっていた。千葉産ではなく小名浜産であることに大変驚いた。図譜から田人と山田で栽培されていることを知る」

 小名浜の落花生は、塩ゆでではなかったように思う。硬い落花生だったので、つい本場の千葉と比較したのではなかったか。

 いわきの塩ゆで落花生を食べながら、カミサンに胸を張る。「殻が硬くて割れない」というので、簡単な割り方を教えた。殻の先っちょ(とがっている方)を筋に沿って親指と人さし指でつぶすように押す。すると、きれいに殻が二つに割れる。割れなくてもひびが入って割れやすくなる。実は、私も昔、仲間のだれかかに教えられたのだが。

 冬、あるいは正月、よく殻を割って落花生を食べた。今度の正月はいわきの落花生をポリポリもいいかな、なんて思っている。

2017年7月18日火曜日

いわきの花街

 平町(現いわき市平)にカフェーやバーが登場するのは、大正時代中期。好景気もあって、遊郭以外に新しい遊興を求める人間が周辺町村から平町に流入した、という。
 土曜日(7月15日)、いわき地域学會の第328回市民講座が市文化センターで開かれた。講師は小宅幸一幹事。「花街の盛衰(1)―明治・大正・昭和の夜を華やかに彩った女性たち」と題し、明治41(1908)年、平町に設置された「貸座敷」(遊郭)の歴史を中心に話した=写真。サブタイトルが珍しく「カストリ雑誌」風だ。

 カフェーやバーといった新商売の話に引かれた。昭和7(1932)年ごろ、欲望を抑えきれない農家の若者の話が新聞記事になった。あとで、小宅さんが紹介した同年8月30日付磐城時報に当たる。

 平町に隣接する平窪村(現いわき平・平窪)は農産物の生産・供給地。農家の青年がリヤカーに野菜を積んで町へ売りに出かけたのはいいが……。

 持ち帰る現金が、野菜の量に比べて少ない。青年は「不景気で売値がめっぽう安い」と言い訳をする。実際には「連夜カフェーで白粉(おしろい)臭いサービスにうつつをぬかし」ていた。「甚(はなはだ)しいのは飲み代(しろ)がはりに胡瓜(きゅうり)、茄子(なす)、南瓜(かぼちゃ)を、カフェーにあづけ、そのカフェーは翌日にその附近に販賣してゐるものさひ(え)あ」った。
 
 同時代のエピソードを思い出した。好間の菊竹山で妻とともに開拓小作農業を営んでいた詩人三野混沌(吉野義也)が、収穫した小麦を町に売りに行く。持ち帰ったカネはわずか40銭。6円40銭で売れたのだが、6円で本(カンディンスキーの芸術論)を買ってしまったのだ。妻のせいは、この一件で経済観念のない夫に愛想をつかす。
 
 小宅さんの話に戻る。新聞記事かどうかは不明だが、昭和8(1933)年、平警察署は風紀取り締まりのために特別警察隊「新撰組」を結成した。目に余る事態に業を煮やしたのだろうが、特別チームが「新撰組」とは――。
 
 ついでに、小名浜の話を。小名浜には公認の「貸座席」はなかった。カフェーは昭和3(1928)年5月、中島南裏通りにオープンした「カスケード」が第一号だったとか。場所はどこなのだろう、「○×ランド」があるあたりか。

2017年6月6日火曜日

タワークレーン

 年に一度は胃カメラを飲み、大腸の内視鏡検査を受けた方がいいというので、先日、いわき市立総合磐城共立病院へ行って検査日を予約した。敷地内で新病棟の建設が進められている。タワークレーンが2基そびえていた=写真。
 クレーンのオペレーターを相手に、組み上げつつある鉄骨の上でとび職人が「ゴーヘー」、あるいは「スラー」なんて合図をしているに違いない。

 前日の朝、BSプレミアムで2012年放送の「東京スカイツリーのすべて」前編をチラ見した。タワークレーンを紹介するコーナーでは、「ゴーヘー」と「スラー」の用語解説もあった。初めて語源を知った。

 はるか昔の10代後半、日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」の建設現場などでアルバイトをした。そのとき、「ゴーヘー」「スラー」を初めて聞いた。レッカー車の“手子(てこ)”として「ゴーヘー」「スラー」などと合図をした記憶もある。「ちょいスラー」という言葉が耳にこびりついている。

「ゴーヘー」は「go ahead(ゴー・アヘッド=進む)」からきているという。意味は「巻き上げる」。「スラー」は「slacken(スラッケン=緩める)」で、「巻き下げる」ときに使う。「ちょいスラー」は「ゆっくり巻き下げる」。そういえば、腕でも「上げる」(手のひらを上にして上に振る)、「下げる」(手の甲を上にして下に振る)をやった記憶がある。

 朝ドラの「ひよっこ」が今、私が17歳(青天目澄子の1歳上)だったころの東京を舞台にしている。店の看板や壁の張り紙を見ただけでも、当時の記憶がよみがえる。乙女たちの合言葉は「がんばろう」「がんばっぺ」。がんばれば必ずいい結果が出る、と信じられていた「ゴー・アヘッド!(前進!)」の時代。至る所で超高層ビルが建ち始め、「ゴーヘー」「スラー」が使われていたはずだ。

 病院へ検査の予約に行った翌日には、定例の飲み会があった。一人が、浜の言葉をまとめた昔の冊子を入手し、コピーをしたのを見せてくれた。なかに巻き網漁船にからんで「ゴーヘー、マキ」という言葉があった。「このゴーヘーは、たぶんゴー・アヘッドからきている」と仕入れたばかりの知識を披露する。

 さらに検索したら、船舶用語(ゴーヘー=前進)がクレーンの合図用語に転化したらしいことがわかった。漁業のまち・気仙沼市には震災からの創造的復興をめざす組織として「ゴーヘイ!気仙沼の会」がある。前に進め!気仙沼。同じように、「ゴーヘー!いわき」があってもいいわけだ。

2017年5月25日木曜日

青天目澄子は「食べる人」

 朝ドラの「ひよっこ」を昼(再放送)も見る。朝、よくわからなかったセリフ、特に「小名浜中」卒の青天目(なばため)澄子の、重くくぐもった言葉が、1回聞いただけではわからないときがある。
 今は――向島電機で繰り広げられる、昭和40(1965)年夏の乙女たちの青春編、といったところか。同じ年に17歳だった身には、小道具や挿入歌のひとつひとつが生々しい。しかも、「きのう」どころか「さっき」のことのように、当時の情景がよみがえる。昭和40年代を知らない若い視聴者と、当時ハイティーンだった団塊世代の「二兎(にと)を追う」作戦のようだ。

 真夏、工場の生産ラインで乙女たちが首にタオルを巻いてトランジスタラジオをつくっている。同じように、超高層ビルなどの建設現場のアルバイトには、タオルが欠かせなかった(今もそうだろうが)。
 
 歌謡曲が最後に燃え上がった時代でもある。美声の春日八郎や三橋美智也らとは別に、美少年歌手の人気が沸騰した。橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」(昭和37年)、三田明の「美しい十代」(昭和38年)、舟木一夫の「高校三年生」(昭和38年)、少し遅れて西郷輝彦の「星のフラメンコ」(昭和41年)に酔いしれ、なりきって歌った。
 
 きのう(5月24日)のラストシーンでは、夕日に照らされたなぎさで“茨城巡査”の綿引クンが♪アイ・ラブ・ユー……と歌い出す。そこに、原曲の加山雄三のラブソング「恋は紅いバラ」(昭和40年の映画「海の若大将」主題歌)の♪アイ・ラブ・ユー……が重なる。きたきた、次は「君といつまでも」(昭和40年)だな――。
 
 美少年歌手がアイドル化する一方で、グループサウンズがはやり、フォークソングの波が押し寄せてきつつあった。自分で歌をつくる人間が増えていた。加山雄三は、その代表的な存在だ。「君といつまでも」は、やはり昭和40年、映画館で見て覚えた。ほかにも、当時のヒット曲が次々に登場する予感が広がる。
 
 澄子の話に戻る。よく食べる。カレーライス(当時は「ライスカレー」と言っていた)から始まって、バナナ=写真=を食べ、きのうはつまみ食いをして、おむすびまで手に持っていた。
 
 そのころ、叔父が小名浜に住んでいた。義叔母の名前はスミ子。娘が3人いた。いとこたちだ。長女は私より2歳上、次女は1歳下、三女は4歳下だったか。年齢的には、澄子は次女の同級生、ということになる。胸の底で化石化していたはずの“青春”がうごめきだして、コントロールがきかない。

2017年4月5日水曜日

45年前の海難事故

 会社を辞めて間もない後輩が遊びに来た。雑談をしているうちに、「きょう(3月31日)は母の命日なの」とカミサンがもらした。忘れていた。すると、後輩も応じた。「私もけさ、父親の墓参りをして来ました」。命日が一緒だったか。
 いわきにゆかりのある作家真尾悦子さん(1919~2013年)が『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房)を著したのは、昭和59(1984)年。<あとがき>に、本を書いた経緯を記している。
 
 漁村の女性の日常を知りたくていわきの浜で取材を重ねているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合いになった」「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員二十六人行方不明のまま、六年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通い」続け、作品を仕上げる。
 
 後年、真尾さんと親しく言葉を交わすようになった。そのなかで後輩も真尾さんと交流があることを知った。<あとがき>にある「ふたり」のうちの1人が後輩の母親だった。それが頭にあったので、父親の墓参りをしたと聞いたとき、3月31日が遭難日だと了解したのだった

『海恋い』を読み返したくなった。家にあったはず。私より本のありかに詳しいカミサンが探したが、見つからない。しかたない、図書館から借りてきて読んだ。最初の章<花咲へ>に「昭和四十七年に遭難した夫は、この、花咲沖に眠っているのだった」とあって、海難事故が起きた年月日がわかった。

 現実の事故はどうだったのか――図書館のホームページを開いて、電子化されたいわき民報の記事を探す。第一報は昭和47年3月31日付「第八協和丸消息断つ」、詳報は翌4月1日付「26人をのんだ“吹雪の海” 第8協和丸 いわきでは最大の海難事故」で、以後、同14日の合同慰霊祭まで関連報道が続く=写真。

 45年前の今ごろ、私は記者生活1年目を終えたばかりで、取材は先輩たちがした。26人が一瞬のうちに犠牲になるという事故の大きさに、胸の詰まる思いがしたことだけは覚えている。
 
 記事によれば、遭難したのは小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった。後輩のお父さんは当時28歳の機械長。後輩はまだ10歳にも満たない女の子だったか。真尾さんと『海恋い』のおかげで、あらためてそれぞれの「その後」に思いがめぐった。

2017年2月28日火曜日

坂の上の飛行機雲

 日曜日(2月26日)に夏井川渓谷の隠居へ出かけた。水道は止まったまま。自宅からやかんに水を入れて持参した。庭に生ごみを埋めたあと、井戸からポンプアップするモーターに“呼び水”をする。が、今度も空振りだった。
 カミサンは、断水がガマンできないらしい。「せっかく水を持ってきたのだから」とハッパをかける。駄目なものは駄目だ、無駄なエネルギーは使いたくないのだ、と言っても、呼び水を続けているうちに復活するかもしれない、と言ってきかない。言葉の波動が左の耳から右の耳に抜けていく。

 隠居ではいろいろやることがある。カミサンはヘルメットをかぶってあちこち木の枝を剪定している。私も、カミサンが前に剪定した菜園の梅の木の枝を片づける。庭に出ているササダケの地下茎を切断する。そうして少し体を動かしたあと、隠居に戻って朝寝をした。

 昼になった。「どっか、食べに行こう」。白菜漬けが切れたのを思い出して、1月8日に出かけたのと同じルートで、三和町下市萱の直売所・三和町ふれあい市場を訪ねることにした。

 V字谷の底(川前)から山上(差塩=さいそ)に駆け上り、天上の平野を過ぎて下ると、好間川沿いの三和の集落(下市萱)に出る。今度も川前の田んぼの土手に雪が残っていた。2月になって雪が降った。その名残だろう。差塩は、日陰の山の斜面が雪で覆われていた。路肩に残る雪の形を見ると、除雪車が出たようだ。おかげで車道は日陰でも雪なしだった。

 下市萱へと下る前に長い坂がある。峠に近づいたとき、前方の空をジェット旅客機が斜めに横切って行った=写真。「坂の上の飛行機雲」とはおもしろい。

 ふれあい市場では、パック入りの漬物をいくつか買った。白菜は? 朝はあったが売り切れた、という。時期としては終わりに近いし、内部に花芽を形成し始めているから、これからは「菜の花」が食材だ。マチのスーパーには出回っているが、それは南の方から入って来たもので、いわきではまだ早い。で、糠漬けを再開するまで地場のみそ漬けなどでつなぐことにした。

 ふれあい市場のとなりのラーメン屋で昼食を――と思っていたのだが、またまた混雑していてあきらめた。結局、昼食は同じ三和町でも平のマチの方へ寄った店でとった。

 けさはかなり冷え込むという予想だったが、小名浜では最低気温が氷点下0.6度にとどまった(6時発表で氷点下1.3度)。渓谷の隠居の室温は小名浜より2、3度は低い。洗面所の水道の元栓を開けてしまったことを思い出す。とはいえ、これもおとといは水が出なかった。水道管内の空気は冷えるだけ。問題はないだろう。「光の春」と「寒さの冬」の綱引きはまだまだ続く。春が近いからと油断したときほど寒波にやられる。

2017年2月14日火曜日

西に満月、東に朝日

 朝6時半すぎ、家の前の通りに出ると、西空に満月が浮かんでいた=写真。2月12日、いわきサンシャインマラソンの日。首都圏に住む知人2人が近所の故義伯父の家に泊まった。小名浜のアクアマリンパークがスタート・ゴールの10キロの部に出場する。シャトルバスがいわき駅前から出る。7時のバスに乗る。車で送る約束をしたので、早起きした。 
 東の空から朝日が昇りかけていた。「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)の名句が思い浮かぶ。いや、蕪村が見たのとは真逆の風景だ。月は西で、日は東。夕景色ではなく朝の景色。菜の花の代わりに車の霜。放射冷却で窓ガラスが真っ白くなっていた。底冷えするなか、西の満月が「おやすみ」をいい、東の太陽が「おはよう」をいう。
 
 年寄りなのでふだんから早起きだ。が、寒中、外へ出ることはない。早朝はせいぜい玄関を開けて新聞をとりこむか、家の前の電柱にごみネットをくくりつけるだけだ。いつもより1時間早く目を覚ました。二度寝すると約束の時間に遅刻する。で、そのまま起きて時間がきたら、満月の入りと日の出を同時に見ることができた。これも自然の運行の妙と感じ入った。
 
 きのう(2月13日)、座業にあきて気分転換に長田弘(1939~2015年)の『最後の詩集』(みすず書房、2015年)をパラパラやっていたら、「ハッシャバイ」という詩が目に留まった。ハッシャバイには「静かに眠れ」という訳が付されていた。
 
 最後の5行。「人生は何でできている?/二十四節気八十回と/おおよそ一千回の満月と/三万回のおやすみなさい/そうして僅かな真実で」。月の満ち欠け、つまりは太陰暦をベースにして、「人生80年」という想定で書かれた詩のようだ。
 
 満月は19年で235回。私も800回以上は見てきた計算になる。ときには、こうして用事ができたおかげで早朝に沈む「終わりの満月」を望むことも。家に閉じ込もっていたら見逃していた自然の、人生の一瞬だ。
 
 12日、いわき地方は晴れてカラッ風が吹いた。午後、「完走できました」という連絡が入った。なにはともあれ、いわきらしい早春の空気を体感したわけだ。今週末の18日は、二十四節気でいう「雨水(うすい)」。春がまた一歩近づく。