2017年2月28日火曜日

坂の上の飛行機雲

 日曜日(2月26日)に夏井川渓谷の隠居へ出かけた。水道は止まったまま。自宅からやかんに水を入れて持参した。庭に生ごみを埋めたあと、井戸からポンプアップするモーターに“呼び水”をする。が、今度も空振りだった。
 カミサンは、断水がガマンできないらしい。「せっかく水を持ってきたのだから」とハッパをかける。駄目なものは駄目だ、無駄なエネルギーは使いたくないのだ、と言っても、呼び水を続けているうちに復活するかもしれない、と言ってきかない。言葉の波動が左の耳から右の耳に抜けていく。

 隠居ではいろいろやることがある。カミサンはヘルメットをかぶってあちこち木の枝を剪定している。私も、カミサンが前に剪定した菜園の梅の木の枝を片づける。庭に出ているササダケの地下茎を切断する。そうして少し体を動かしたあと、隠居に戻って朝寝をした。

 昼になった。「どっか、食べに行こう」。白菜漬けが切れたのを思い出して、1月8日に出かけたのと同じルートで、三和町下市萱の直売所・三和町ふれあい市場を訪ねることにした。

 V字谷の底(川前)から山上(差塩=さいそ)に駆け上り、天上の平野を過ぎて下ると、好間川沿いの三和の集落(下市萱)に出る。今度も川前の田んぼの土手に雪が残っていた。2月になって雪が降った。その名残だろう。差塩は、日陰の山の斜面が雪で覆われていた。路肩に残る雪の形を見ると、除雪車が出たようだ。おかげで車道は日陰でも雪なしだった。

 下市萱へと下る前に長い坂がある。峠に近づいたとき、前方の空をジェット旅客機が斜めに横切って行った=写真。「坂の上の飛行機雲」とはおもしろい。

 ふれあい市場では、パック入りの漬物をいくつか買った。白菜は? 朝はあったが売り切れた、という。時期としては終わりに近いし、内部に花芽を形成し始めているから、これからは「菜の花」が食材だ。マチのスーパーには出回っているが、それは南の方から入って来たもので、いわきではまだ早い。で、糠漬けを再開するまで地場のみそ漬けなどでつなぐことにした。

 ふれあい市場のとなりのラーメン屋で昼食を――と思っていたのだが、またまた混雑していてあきらめた。結局、昼食は同じ三和町でも平のマチの方へ寄った店でとった。

 けさはかなり冷え込むという予想だったが、小名浜では最低気温が氷点下0.6度にとどまった(6時発表で氷点下1.3度)。渓谷の隠居の室温は小名浜より2、3度は低い。洗面所の水道の元栓を開けてしまったことを思い出す。とはいえ、これもおとといは水が出なかった。水道管内の空気は冷えるだけ。問題はないだろう。「光の春」と「寒さの冬」の綱引きはまだまだ続く。春が近いからと油断したときほど寒波にやられる。

2017年2月27日月曜日

「忍者」本を読む

 金正男氏殺害事件の裏に「草」がいた?――このところ「忍者」関係の本=写真=を読んでいるもので、つい連想がはたらいた。
 アップダウンの続く山道を走るトレイルランニングの話から。普通の陸上競技の「走り」は、グラウンドのトラックで行われる。マラソンは舗装された平坦なロード。マラソンと登山を組み合わせたようなものだろうか。さらにいえば、山伏の修行にも通じるものだろうか。

 もう20年ほど前、今思えばトレイルランを実践している若い登山家に会った。夏井川渓谷のわが隠居へ知り合いが連れて来た。茶飲み話をしているうちに、「対岸の山の尾根筋も走りますよ」という。「走って山を下りたら、また別の山へ駆け上がります」ともいう。山伏のような人間がいることに驚いた。以来、山を修行の場にしている人間には親近感と尊敬の念を抱いてきた。

 戦国時代には、大名が連歌師や山伏を使って生き残るための情報戦を展開した。連歌師や山伏は大名たちの駒、生身のメディアでもあった。大名に召し抱えられた山伏は、道なき道を、山を、夜も昼も走って使命を果たす。あるいは諸国を巡りながら情報を収集する。忍者は山伏の親戚のようなものではないかと、このごろは思っている。

 いわき市立草野心平記念文学館で企画展「忍たま乱太郎ミュージアム」が開かれている。それに合わせて、先日、「戦国時代のいわきにも忍者がいた!?――戦国大名岩城氏と忍者」と題する講演が行われた。そのときに紹介された山田雄司『忍者の歴史』(角川選書)を図書館から借りて読んだ。和歌森太郎著『山伏』(中公新書)も借りた。
 
 講演会でも引用された伊達家関連文書が『忍者の歴史』に載る。「奥州の軍言(いくさこと)ばに、草調儀或は草を入る、或は草に臥、亦草を起す、(以下略)」。「草」は忍びのことで、自領から他嶺へ忍びを派遣することを「草調儀」(草を入る)、他嶺へ忍ばせることを「草に臥す」、敵地から外に出る人間を討ち取ることを「草を起す」と言ったとある。いわき地方でも「草」という言葉が使われた。

 マレーシアの国際空港で起きた事件には、どこかの国の「草」たちが関係していたと、容易に想像ができる。どの国も裏では「戦国時代」を生きている?

2017年2月26日日曜日

園児の防火パレード

 先日朝、家の向かい側の歩道で幼稚園児の防火パレードが行われた=写真。歩いて行ける範囲内に幼稚園が二つある。少し遠い西の幼稚園だった。「防火」の字入り消防法被を着た「幼年消防クラブ」の一行は年長組、それを見守る子たちは年少組だろうか。パレードが東へ向かうと、年少組は西の幼稚園へ戻って行った。
 その3日前の日曜日、東にある幼稚園で園舎改築工事の地鎮祭が行われた。地元の区長3人も招待された。先に届いた案内には幼稚園名に「認定こども園」の冠が付いていた。保育、教育、保護者への子育て支援を総合的に提供する施設のことで、幼稚園要覧に平成28(2016)年度から園舎の改築工事をし、認定こども園に移行する、とあった。

 同幼稚園は昭和39(1964)年、教育基本法・学校教育法・私立学校法・幼稚園教育要領に基づいて創設された。教育方針の第一は「幼児期にふさわしい人的、物的環境を整え、地域に密着しながら時代に即応した心の通うあたたかい幼児教育を進めています」。一般的にはこういうものだろう。

 関西方面から伝わってくるニュースは、しかし、ちょっとおどろおどろしい。某学校法人が開設を計画している小学校用地として、国が鑑定価格9億5600万円の国有地を、地中のごみ撤去費8億1900万円などを差し引いて1億3400万円で売却した。首相夫人が名誉校長に就くはずだった。系列の幼稚園では教育勅語を朗誦させている――。

 こちらとあちらとでは大違い。世の中には不可解なことが起きるものだ。地域に根づき、地域の子どもたちの未来を見すえて幼児教育に携わっている施設を、ちらりとだがのぞいたばかりの人間にはそう思われた。学校法人と行政、行政と行政の関係はどうなっているのか、裏になにかあるのかないのか。マスメディアの本領が問われる一件だ。

2017年2月25日土曜日

乗ったら新式電車だった

 きのう(2月24日)の続き――。22日の夕方、電車でいわき駅から二駅先の湯本へ出かけた。帰りも電車を利用した。いわきは広い。ハンドルを握って帰って来る覚悟があれば車で行く。が、ノンアルではどうも、という人間なので、前からの習慣で電車にした。
 常磐線の広野発水戸行きだった。電車が到着する。高校生たちにまぎれて乗り込む。あとからやって来た高校生が、乗ってはドアのそばのボタンを押す。ドアが閉まる。別の高校生が外のボタンを押してドアを開ける。閉める。乗り込んでもボタンを押さずに開け放したままの大人がいた。私もそうだった。暖房の効率を上げるために停車中は開けっ放しにしない、ということなのだろう。

 震災後、何度か「スーパーひたち」を利用した。品川まで延伸されたり、座席指定の有無がランプに表示されたりと、常磐線の特急は“進化”していた。普通列車にも新式が導入されていた。
 
 それだけではない。湯本駅も内郷駅もおおよそ2年前にリニューアルされた。内郷駅は去年(2016年)の暮れに、やはり飲み会のために降り立ってリニューアルを実感した。湯本駅も、リニューアル後、初めて利用した。
 
 湯本からの帰り、電車が来るまで時間があったので、駅舎のなかをじっくり見た。「大人の休日倶楽部」のリーフレットが置いてあった=写真。下りホームの足湯は、新しくできた駅舎2階の「湯本美食ホテル」からインターフォンで飲み物を注文できるという。
 
 きのうのいわき民報に、常磐線水戸~いわき駅間開業120年の企画広告が載っていた。同区間は明治30(1897)年のきょう、2月25日に開通した。
 
 磐越東線は100年前の大正6(1917)年10月10日、小野新町―小川郷駅間に夏井、川前駅が新設されて全通した。川前駅も駅舎がリニューアルされたそうだ。あしたは夏井川渓谷の隠居へ行くので、川前まで足を延ばして駅の写真を撮るか。

2017年2月24日金曜日

4年ぶりの総会

 いわき市常磐の温泉旅館・古滝屋でおととい(2月22日)夜、ブッドレア会の総会・懇親会が開かれた。総会資料=写真=には4年分の収支決算・事業報告と、29年度の予算・事業計画が盛り込まれていた。
 同会は文化と福祉のボランティア団体で、昭和57(1982)年に故里見庫男さんが中心になって設立した。里見さんは古滝屋の社長を務める一方、いわき地域学會の初代代表幹事となり、いわき商工会議所の副会頭にも就いた。

 里見さんの死後、東日本大震災が発生した。温泉旅館は原発事故収束作業員の宿舎になった。震災から復旧した古滝屋へは、関係するシャプラニール=市民による海外協力の会の被災地ツアー食事会や、交流スペース「ぶらっと」のクリスマス会などでお邪魔したほかは、すっかり足が遠のいた。
 
 ブッドレア会も震災や会員の高齢化などが活動に影響したのだろう。4年ぶりの総会は、会の再出発を確認する決意の場のようにも感じられた。地元・常磐に住む会員とは震災後、初めて顔を合わせる人が大半だった。
 
 懇親会では、温泉街の現状を教えてもらった。「温泉旅館から原発関係の作業員の姿が消えた。宿舎が原発の近くにできたから。駅前の商店街も灯が消えたような状態。これからが正念場だ」。かつては平(いわき駅)から二駅目の湯本へ、毎月、飲み会に電車で通った。駅から古滝屋まで10分ほどの通りは、夜ももっと明かりがともっていたような気がする。
 
 それはさておき、ブッドレア会設立時に40歳だった人も、今は75歳だ。マイクを持つと「後期高齢者になった」というあいさつが続いた。ボランティアの最前線は若い世代にまかせ、サブとして活動する――そういう時期にきたようだ。

2017年2月23日木曜日

ホープツーリズム

 いわき市の観光部門の職員と雑談しているうちに、インバウンド事業とダークツーリズムの話になった。インバウンドは訪日外国人旅行、ダークツーリズムは福島県の場合、地震・津波・原発事故のあった浜通りの「悲しみ」に触れる観光のことだ。県はその裏返しなのか、「ホープ(希望)ツーリズム」ということを言っている、という。
 1年近く前のことだが、震災後知り合ったフランス人女性写真家デルフィンと一緒に、若い同時通訳氏らが京都からやって来た。彼は右京区京北(けいほく)の山里を拠点に、外国人を対象にした里山ツーリズムを手がけている。インバウンドという言葉をこのとき知った。

 2013年晩秋、デルフィンが「森を歩きたい」というので、夏井川の渓谷林と集落を案内した=写真左。おととし(2015年)の月遅れ盆には「じゃんがら念仏踊り」を写真に撮りたいというので、ハマに近い農村の新盆の家(カミサンの親戚)へ出かけた。どちらも「ディープないわき」だ。日本人の普通の暮らしや習慣、自然に興味を持つ外国人が増えているという。その実例を見る思いがした。
 
 ダークツーリズムとホープツーリズムはセットだ――と若い評論家が言っている。コインでいえば裏と表の関係だろう。

 視察ツアーを案内している人の話や県の資料をネットで読むと、浜通りの復興に向かっている団体や人の活動、現状を見て、自分の住む地域の防災に生かしてもらいたい、ということのようだ。悲しみのなかから未来への教訓をくみ取ってほしいからこそホープツーリズムなのだ、ということになる。

2017年2月22日水曜日

魚の干物の今

 知人から、いわきのハマの水産加工場でつくられた魚の干物をもらった。次の日、別の知人がマチで売っている魚介乾燥品(つまみ)を持ってきた。どちらにも「添え状」があった。
 加工業者の添え状=写真=は、地場の魚を使えない悔しさがにじんでいた。「平成25年10月より、小名浜港で試験操業が始まり、県の放射性物質検査で安全が確認された対象8魚種(ミズダコ、ニクモチ、メヒカリなど)が、スーパーなどの店頭に並ぶようになりました」

 しかし、「加工部門には、まだ、試験操業の魚は、流通していません」。だから、というべきか。「東日本大震災からいわき市の水産業が復興へ向かう大事な試験操業ではありますが、引き続き、当店では、お客様の気持ちを第一に考え、北海道などの安全な地域の魚を加工し、販売しております」
 
 マチの店の添え状には「当店の商品は全て、放射性物質の基準値を確認し安全と認められたものです。(略)ひものやみりん干し等の干し物は乾燥機を使って仕上げておりますので、御安心くださいませ」
 
 漁船が海に出て操業し、水揚げして市場でセリにかけられたものが店に並ぶ――私たちが魚を口にするまでの流れだが、福島県ではスズキ・カサゴなど12種類を除いて、97種の出荷制限が解除された(県、県漁連のホームページ=1月17日現在)。
 
 私は、山里で生まれ育ったこともあって、魚にはあまり食指が動かない。唯一例外がカツオの刺し身だ。いわきに移り住んでカツ刺しのうまさにびっくりし、そのために根っこを生やしたといってもいいほど、夏は毎週、「カツ刺し」を口にする。
 
 そんな人間からみても、魚の出荷制限があらかた解除された状況は喜ばしい。が、加工部門には地場もの、つまり「常磐もの」が回ってこない。添え状から魚介類の流通量の少なさ、加工業者の苦衷がうかがえるのだった。

2017年2月21日火曜日

梅前線、渓谷に到着

 1月中旬、いわき市小名浜のお寺の境内。マンサク=写真=とロウバイが満開だった。
 毎年、初観音に合わせて、境内で「かんのん市」が開かれる。カミサンが、シャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品を販売する。「荷物運搬人」だけではつまらない。なにか絵(写真)になるものはないかと、境内をめぐる。真っ先にマンサクの花が目に入る。パチリとやる。晴れて風が強かった。

 それから1か月後の2月中旬最後の日、19日。いわきの平地では紅梅と白梅が満開になった。スイセンも咲き誇っている。

夏井川渓谷へ出かけた。晴天、強風。梅前線は渓谷の小集落・椚平(くぬぎだいら)に到着していた。わが隠居のある牛小川はそれより少し上流に位置する。隠居の梅は、1、2輪は咲き出したが、まだつぼみ。庭ではオオイヌノフグリが咲いていた。

 きのう(2月20日)は、久しぶりに平市街からすぐの山寺を訪ねた。帰りは林道を下って来た。ヤブツバキが咲いていた。

 二十四節気の「雨水(うすい)」がすぎた。きのうは夕方、ほんものの雨水が少し降った。郊外では「田おこし」が始まった。おとといもきのうもトラクターが動いていた。

 近所の家の庭で大きく枝を広げていたソメイヨシノが、先日、伐採された。てんぐ巣病に侵されたわけではなさそうだが……。そこにあって、風景にどっしりとした安定感を与えていた大きな木が消える。しばらくは間が抜けたような景色になじめなかった。近所にあるソメイヨシノの大木は残り1本。こちらはまだ大丈夫だろう。

きょうも晴れて風が強くなる、という予報。寒暖を繰り返しながら、季節は冬から春へと移りつつある。今はその「踊り場」にさしかかったところ。

2017年2月20日月曜日

「風刺」と「揶揄」の違い

 いわき地域学會の第325回市民講座がおととい(2月18日)、いわき市文化センターで開かれた。講師は同会幹事でいわき市立美術館長の佐々木吉晴さん。「風刺の限界は?」と題して話した=写真。
 つい1カ月前のことだという。韓国の国会内で野党が「時局批評風刺展示会」を開いた。現職大統領を風刺した裸体画に保守派の人間が激怒し、それを破壊した。メディアは、エドゥアール・マネの裸体画「オランピア」を下敷きにした作品としか言及しなかったが、「オランピア」の着想の原点のひとつにもなったジョルジョーネの裸体画「眠れるヴィーナス」からも引用している、と佐々木さん。

「オランピア」が生まれた1863年ごろのパリ画壇の状況は――。サロンで、高級娼婦をモデルにした「オランピア」は落選したが、タイトルに女神の「ヴィーナス」の名が入った裸体画は入選した。「オランピア」そのものが、同じ裸体画でも「ヴィーナス」ならOK、という風潮への風刺だった。

「ゆるやかな共通理解として、あくまで風刺の対象は公的な部分に限定される。服の内側の生理的・個人的な部分への言及は、多くの場合、『風刺画』というカテゴリーから離れた、単なる『揶揄』とみなされる」。佐々木さんは風刺画家ドーミエその他の作品も例示し、風刺の歴史を紹介しながら、「絵画表現として自律していること」「個人攻撃になっていないこと」を風刺画のポイントに挙げた。
 
 韓国で問題になった作品は、風刺ではなくてただの揶揄でしかないという。破壊行為は許されないが、作品そのものは低劣だったのだろう。
 
 2年前、フランスのパリで風刺週刊誌本社襲撃事件がおきた。「表現の自由を守れ」という声がわきあがる一方で、「自由ならなにを描いてもいいのか」という疑問も出された。「人の批評はその人に面と向かって言える程度にとどめる」と学んだ者は、過度な風刺はもちろん、揶揄にもついていけない。「ほどらひ(ほどあい)といふことがござる」(金子光晴)と、絶えず脳内でささやく者がいる。

2017年2月19日日曜日

「ぶらっと」同窓会

 ご主人の仕事の関係で中国で暮らすTさん母娘が里帰りした。娘のHちゃんは小学4年生。いわきへ帰るたびにかつての仲間10人前後が集まる。おととい(2月17日)、その集まりがあった=写真。男は、Tさんのご主人がいるときを除いて、いつも一人。
 東日本大震災から半年後、「シャプラニール=市民による海外協力の会」が、いわき市平に交流スペース「ぶらっと」を開設した。前から関係している国際NGOなので、昨年(2016年)3月12日に閉鎖するまで、ときどき顔を出した。おととい集まった仲間は「ぶらっと」の元現地採用スタッフ、ボランティアだ。

 ピアノの先生をしている、私と同年代の女性はいわきの海辺に住む。家が少し津波被害に遭った。幹事役のフラガールは地震で家が壊れた。ほかの何人かは浪江町や双葉町、富岡町からいわきへ原発避難をした。その意味では全員が被災者・避難者でもある。

 浪江から避難しているNさんと隣り合わせになった。阿武隈高地の同郷の人間だ。「ぶらっと」開設後に会って、そのことはわかっていた。今度初めて、若いころ、私の弟夫婦と交流があったことを知った。

 いわきに住んでいる私の中学校の同級生はわずかに数人。以前は毎年、忘年会を開いていたものだが、震災後は65歳の全体同級会、仲間の葬式で顔を合わせたほかは、一度集まっただけだ。

「ぶらっと」で出会った“後輩”は、一回り以上は年が若いだろう。私の実家のこともよく知っていた。いや、それよりも同郷の人間と知り合い、深い話をするのは“奇跡”に近い。

 地震で家を壊され、原発事故で住まいを追われながらも、ほかの被災者・避難者のことを思って「ぶらっと」にかかわる。「ぶらっと」が閉鎖されたあとも、こうして“同窓会”を開く。「高校生になった娘がピアノの先生のところに通っている」なんて話を聞くと、つながりはさらに深化している。人間のネットワークにはいつも思わぬ展開が用意されている。

2017年2月18日土曜日

公民館の講座終了

 10月から小名浜公民館で5回、11月から神谷(かべや)公民館で4回、おしゃべりをした。昔の地域紙の記事を材料に、いわきの明治~大正~昭和を振り返った。時系列的にいえば、明治の「鈴木製塩所」(小名浜臨海工業地帯の先駆け)、金子みすゞと二つの「巨星」と評された童謡詩人島田忠夫、いわきの関東大震災、戦闘機献納、セドガロ(背戸峨廊)の由来、いわきの新聞に連載された絵物語月光仮面などを取り上げた。
 9年前の平成20(2008)年1月5日、いわき地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんらによって、常磐に野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンした。会社をやめて2カ月ちょっと。里見さんに誘われてオープニングイベントを手伝った。それから間もなく、里見さんから「童謡館で月に1回、文学教室を開いてほしい。最初は金子みすゞ、あとは自由」と宿題を出された。
 
 会社をやめるのと、いわき駅前に再開発ビル「ラトブ」がオープンするのが同時だった。ラトブには総合図書館が入居している。そこへ日参してみすゞを調べ、さらに師匠の西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは工藤直子、竹久夢二、野口雨情、山村暮鳥などを調べて、連続15カ月おしゃべりをした。

 その過程でいわきの「大正ロマン・昭和モダン」が見えてくる実感を得た。以来。今もそれを追い続けている。

 おととい(2月16日)、神谷公民館の講座の締めくくりに選んだのは、大正ロマンでも昭和モダンでもない、昭和48(1973)年5月29日に発生した炭鉱の坑内火災事故。

 4人が亡くなった。うち1人は福島県文学賞を受賞した歌人。同じヤマ(炭鉱)の文学仲間・俳人結城良一さんは九死に一生を得た。短歌と俳句、あるいは詩、さらにはノンフィクション作家真尾悦子さん(1919~2013年)の作品『地底の青春』を通して、いわきの<炭鉱と文学>について話した。

 結城さんとは坑内火災の半年前に知り合った。事故のあと、無事を確認した。文学仲間の霊前に手を合わせるところを写真に撮って、記事にした=写真・左。
 
 坑内火災を詠んだ一句、「鼻の汗レールにこすり脱出す」。炭鉱仲間でもある俳人の解説で初めて緊迫した状況を理解する。煙が充満する中、「鼻をレールに擦り付けるほど、腹這いになって、脱出する決死のさまが生々しい。そして蒼白の顔々が、迫真の圧力で眼前に迫って来る」

この句を知ったのは、事故から33年後の平成16(2004年)に第二句集『弥勒沢』の恵贈にあずかったときだ。

「坑出づと死者に告げたる遅日かな」。坑内で死者が出た場合、たんかの死者に坑内の辻々で鐘を鳴らし、「いま〇×を通過」と死者に知らせる習わしがあったそうだ。この句も坑内火災の一断面を伝える。
 
 歴史のなかに埋もれている個人の営み、生と死を掘り起こして、光を当ててみる。震災、戦争、大事故の一断面が生々しく浮かび上がってくる。大局・全体だけでなく個別・具体の視点を忘れてはならない、と思う。

2017年2月17日金曜日

鶏卵・納豆・ドレッシング

 わが家で食べる鶏卵は川内・獏原人村の生産者が持ってくる。納豆は、それを扱うことで手数料が運営資金になる授産所の人が届けてくれる。質・味はもちろんだが、鶏は平飼い、授産所の支援になる――ということで、震災前から買って食べている。
 鶏卵は週に1回。納豆は月に1回。値段は市販品よりちょっと高い。わが家をステーションにして、何軒かが契約している。品物が届くと取りに来る。こちらから届けることもある。そのときには運転手を頼まれる。

 食でもなんでも“べき論”者ではない。安ければいいだけの消費者でもない。フェアトレードには興味がある。それに近い鶏卵、納豆、それから「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品。そのくらいならわが家でも扱える。

 6年前の原発震災のあと――。川内の鶏卵を食べていた知り合いが、パタッと買うのをやめた。生産者が専門機関で放射線量を測り、問題はないというデータを得ても安心できなかったのだろう。それはしかたがないことだ。一方では最近、若い人がこの鶏卵を買って食べるようになった。

 きのう(2月16日)、納豆が届いた。カミサンにいわれるまま、運転手になってある寺へ出かけた。スイセンが暖かな午後の光を浴びていた=写真。いわきの平地は梅が満開の早春だが、阿武隈の山里はまだまだ冬。先週の2月10日朝、鶏卵の生産者から電話が入ったのを思い出す。「雪で出られないので配達を休みます」

 鶏卵、納豆とも、取りに来る人、届ける人との関係は、モノの売り買いだけで終わらない。「納豆コミュニティ」「鶏卵コミュニティ」といったものが形成されている。
 
 きのうはお寺の奥さんからたくあんをもらった。前にもこの時期、ちょうだいしたことがある。砂糖を使わずに柿の皮で漬けたからすぐ食べるように、ということだった。帰ってくると、今度は別の人が納豆を取りに来た。「魚を食べて」と、新聞紙に包んだものを手渡された。

 鶏卵と納豆のほかには、月に1回、玉ネギをベースにしたオリジナルドレッシングが届く。パルシステムからも週1回、2軒分が宅配される。いずれも便宜的にステーションになっているだけだが、こうしてたまにはたくあんや魚の「贈与」にあずかる。

2017年2月16日木曜日

先取りのひな人形と生チョコ

 3月の桃の節句を前に、カミサンがテレビのわきのタンスの上におびな・めびなを飾った。床の間には赤ん坊大の日本人形とフランス人形、それより小さい人形、計6体。ひな人形はともかく、和服を着た黒髪の人形とドレスを着た青い目の人形を、孫たち(男)は敬遠する。小3と小1だが、まだ怖いのだ。
 先の連休初日(2月11日)の朝、孫たちが父親とやって来た。9年余り使っていたプリンターが壊れたので、息子にみつくろってもらっていたら、「買いに行こう」という。孫と一緒にヤマダへ出かけた。

 戻ると、「自分でつなげるよね」という。おいおい、それはないよ。ノートパソコンとつないで、プリントできるようにしてくれよ――。上の孫は父親の手伝いを、下の孫はその間、私とお手玉でキャッチボールをした。
 
 その前に“事件”がおきた。上の孫が床の間を見て、くるりと背を向ける。下の孫が私にねだって、恐るおそる日本人形を抱く。なにをするのかと思ったら、上の子に近づける。逃げる。カミサンがあわてて人形に風呂敷をかけた。上の子は今年も駄目だった。

 自分のために先取りして飾るのはいいのだが、孫が来たらまずいぞ――その通りになった。

 生チョコレート=写真=も9日夜、先取りで晩酌のつまみに出た。前にもバレンタインデーに食べたことがある。おととい(2月14日)、バレンタインデーの話になって、「えっ、11日でなかったの」。これも“事件”といえばいえるか。
 
 バレンタインデーは桃の節句と違って、年寄りには「借り物」のイベントにすぎない。建国記念日と混線したか。まど・みちおの<トンチンカン夫婦>という詩(一部)を思い出した。
 
 私が片足に2枚かさねてはいたまま
 もう片足の靴下が見つからないと騒ぐと
 彼女は米も入れてない炊飯器に
 スイッチを入れてごはんですようと私をよぶ
 おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに
 笑いはたえずこれぞ天の恵みと
 図にのって二人ははしゃぎ
 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを
 お恵みいただけるかと胸ふくらませている 

2017年2月15日水曜日

「昔野菜」のレジェンド

 いわき市でフランス料理店を営むオーナーシェフ萩春朋さんが「私の料理の先生」と呼ぶ女性がいる。いわきの山里・田人の「チイばあちゃん」だ。「自然な味で勉強になる」「遊びに行くと料理を作って待っていてくれる」「地元の食材を使うことの大切さを学んだ場所」――フェイスブックでそう紹介している。
『いわき昔野菜のレシピ3』(いわき市発行、いわきリエゾンオフィス企業組合編集=2016年刊)に、春・夏・秋・冬の4回に分けて、<蛭田チイさんの思い出は食と共に>というタイトルで、昔野菜を調査したスタッフがコラムを書いている(ネットで、「いわき昔野菜のレシピ3」で検索すると、すぐ読める)。調査スタッフが驚き、プロが尊敬する野菜栽培と料理の“鉄人”だ。

 前にも書いたが、いわき昔野菜保存会が2月5日、中央台公民館で「いわき昔野菜フェスティバル」を開いた。同保存会は、ブランド化した伝統野菜も、昔からの自産自消の野菜も等しく大切――そんな精神で、「在来作物」も「伝統野菜」も包含した新しい呼び名として「昔野菜」を使っている。

 フェスティバルでは、栽培講座、昔野菜を使った昼食弁当、講演のほかに、昔野菜種自慢の座談会が開かれた。映像も流され、チイさんは「作り手のレジェンド(伝説的人物)」として、座談会に出席した萩シェフは「料理する人代表」として紹介された。萩シェフがマイクを持ち、「新品種の栽培にも挑戦している。高級店よりもチイさんの料理が印象に残っている」と、「チイばあちゃん」のすごさを語った=写真。

 スタッフのコラムによれば、チイさんは年間100種類以上の野菜を栽培する。うち約20種は昔野菜。母親から受け継いだ種で栽培を続けている。萩シェフは「昔野菜に出合って人生が変わった」とも言った。昔野菜の生産者と料理人のネットワークが広がり、市民が「その時期だけ・そこでだけ」の<いわきの味>を享受する――こういうまちっていいな、と思う。

2017年2月14日火曜日

西に満月、東に朝日

 朝6時半すぎ、家の前の通りに出ると、西空に満月が浮かんでいた=写真。2月12日、いわきサンシャインマラソンの日。首都圏に住む知人2人が近所の故義伯父の家に泊まった。小名浜のアクアマリンパークがスタート・ゴールの10キロの部に出場する。シャトルバスがいわき駅前から出る。7時のバスに乗る。車で送る約束をしたので、早起きした。 
 東の空から朝日が昇りかけていた。「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)の名句が思い浮かぶ。いや、蕪村が見たのとは真逆の風景だ。月は西で、日は東。夕景色ではなく朝の景色。菜の花の代わりに車の霜。放射冷却で窓ガラスが真っ白くなっていた。底冷えするなか、西の満月が「おやすみ」をいい、東の太陽が「おはよう」をいう。
 
 年寄りなのでふだんから早起きだ。が、寒中、外へ出ることはない。早朝はせいぜい玄関を開けて新聞をとりこむか、家の前の電柱にごみネットをくくりつけるだけだ。いつもより1時間早く目を覚ました。二度寝すると約束の時間に遅刻する。で、そのまま起きて時間がきたら、満月の入りと日の出を同時に見ることができた。これも自然の運行の妙と感じ入った。
 
 きのう(2月13日)、座業にあきて気分転換に長田弘(1939~2015年)の『最後の詩集』(みすず書房、2015年)をパラパラやっていたら、「ハッシャバイ」という詩が目に留まった。ハッシャバイには「静かに眠れ」という訳が付されていた。
 
 最後の5行。「人生は何でできている?/二十四節気八十回と/おおよそ一千回の満月と/三万回のおやすみなさい/そうして僅かな真実で」。月の満ち欠け、つまりは太陰暦をベースにして、「人生80年」という想定で書かれた詩のようだ。
 
 満月は19年で235回。私も800回以上は見てきた計算になる。ときには、こうして用事ができたおかげで早朝に沈む「終わりの満月」を望むことも。家に閉じ込もっていたら見逃していた自然の、人生の一瞬だ。
 
 12日、いわき地方は晴れてカラッ風が吹いた。午後、「完走できました」という連絡が入った。なにはともあれ、いわきらしい早春の空気を体感したわけだ。今週末の18日は、二十四節気でいう「雨水(うすい)」。春がまた一歩近づく。

2017年2月13日月曜日

戦国大名岩城氏と忍者

 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」が始まってすぐ、密書を託された山伏が殺される。山伏は戦国大名の情報収集・伝達役の一人だ。去年(2016年)の「真田丸」には同類の忍びの者・佐助がいた。こちらはしかし、情報収集役というよりは黒装束の忍術使いに近い役柄だった。
 時代とともに変わる「メディア」を調べている。それで、戦国時代の大河ドラマが始まると、脚本家、あるいは演出家が大名の情報戦略、「メディアとしての人間」(山伏など)をどう描いているのか、興味を持ってウオッチする。
 
 いわき市立草野心平記念文学館で3月26日まで、冬の企画展「忍たま乱太郎ミュージアム」が開かれている。その一環としてきのう(2月12日)、「戦国時代のいわきにも忍者がいた!?――戦国大名岩城氏と忍者」と題する講演会が開かれた。いわき市教育文化事業団の統括研究員中山雅弘さんが文献をもとに話した=写真。
 
 室町幕府が終わりを迎えるころ、浜通りでは南の岩城氏と北の相馬氏が領土の分捕り合戦を繰り広げていた。相馬氏が優勢だったころの元亀元(1570)年、岩城氏が富岡城と楢葉の木戸城を取り返す。
 
 相馬の富岡城代は酒宴遊興を好み、岩城領から盲人を呼んで日夜遊んでいた。それを聞いた岩城氏が「盲人ヲ近ヅケ、ナホ富岡ニ遣ハシ、城中ノ様子人数ノ小勢ヲ能ク聴キテ」夜襲をかけたのだった(『相馬市史』第5巻)。盲人は琵琶を弾き、歌がうまく、踊りを披露する随伴者もいた。一行に城中の様子を探らせたのだろう――と中山さん。
 
 岩城氏の文書(もんじょ)には、木戸城がある楢葉の「上山田へ『草(くさ)』を入れ」といった記述がある。「木戸城モ落城」したのはそのため。
 
 戦国大名が生き残るためにやったのは合従連衡、あるいは政略結婚、そして情報戦。「草」は山伏や僧侶として諸国を自由に動き回り、百姓として土着し、情報を探った。
 
 連歌師も、裏では情報戦の一翼を担った。綿抜豊明『戦国武将と連歌師――乱世のインテリジェンス』(平凡社新書)に詳しい。宣伝文だけでもその実態がわかる。連歌師は「諸国を廻り、武将間のメッセンジャーやネゴシエイターをつとめ、困窮する公家のサイドビジネスの口利きをするなど、『裏稼業』を通じ、戦国の世に欠かせない存在となっていった」。岩城氏に仕えた猪苗代兼載とその子孫も例外ではなかった。

 中山さんは伊賀・甲賀の忍者の歴史にも触れながら、「松尾芭蕉隠密説」を一蹴できなくなった、といった。私も連歌師の裏稼業を知ってからは、同じ思いでいる。

2017年2月12日日曜日

土砂災害防止法の説明会

 夏井川渓谷の隠居へ出かけたら、地元の区長さんが回覧資料を持ってきた。家の前を車で通ったかして、私が来ていることを知ったのだろう。資料には、福島県いわき建設事務所長名で2月末、土砂災害防止法に基づく基礎調査結果の説明会を開くので出席を、とあった。わが隠居のそばの小さな沢が対象区域のひとつになっている。「出席して話を聞かないとね」と区長さんに答える。
 渓谷では絶えず小さな落石が発生している。大雨や地震が引き金になって大規模な崩落が起きることもある。東日本大震災のときがそうだった。渓流沿いの県道はしばらく通行止めになった。

 土石流も警戒しないといけない。いわき市は平成27(2015)年、防災マップ改訂版を出した。新たに土砂災害警戒区域、同特別警戒区域を掲載した。同26年8月、広島県の大規模土砂災害を踏まえたもので、夏井川渓谷では人家のある4カ所の沢が「土石流危険渓流」「同危険区域」として書き込まれた。このマップで、渓谷の隠居が土石流に巻き込まれる可能性があることを知った。
 
 渓谷の左岸、県道小野四倉線、JR磐越東線の山側に小さな沢が連続する。回覧資料に土砂災害警戒区域等の指定図(案)があった=写真。わが隠居は「下の沢地区」の土砂災害警戒区域に引っかかり、隣の地区の友人宅は同特別警戒区域内に含まれる。隠居のそばの沢が「下の沢」というのを初めて知った。通称地名だろう。

 地元の人は、身を守るために地形的な特徴を記憶し、通称地名として共有化し、次の世代に伝えている。じいさんから「ここはジャクヌケ」「ここは〇〇のボッケ」などと実地に教えられた知人がいる。

「ボッケ」は小高い丘で、「ジャクヌケ」は土砂崩れ(土石流)が起きやすい沢のこと。「ジャクズレ」「ジャヌケ」というところもある。隠居のある牛小川では「ジャッコケ」(土砂崩れがあったところ)という言葉を聞いた。広島市の大規模土砂災害では多くの住民が亡くなった。もともとの地名は「ジャラクジアシダニ」(蛇落地悪谷)だった。ジャのつく地名は要注意ということがわかる。
 
 説明会では①土砂災害防止法②基礎調査結果③警戒避難体制――について建設事務所の担当者が話す。宵の6時半から1時間の予定だという。いのちにかかわることなので、晩酌を返上してまちから会場の江田・牛小川集会所へ駆けつける。

2017年2月11日土曜日

ホウレンソウ鍋30年

 さきおととい(2月8日)の話。朝日新聞をめくっていたら、生活面の「記憶の食」が目に留まった=写真。愛知のある家の「嘉次郎鍋」が紹介されていた。わが家で30年以上食べている「ホウレンソウ鍋」と同じだ。ホウレンソウ鍋は映画監督でグルメだった故山本嘉次郎が考案した。同じ「冬の味」に魅せられた人が全国各地にいる、ということだろう。
“孫”の母親が記事を読んで連絡をくれた。冬になると一家を呼んで、カレーライスではなくホウレンソウ鍋にすることがあった。一回ですぐ料理法が頭に入る。シンプルで飽きがこない。で、枝分かれするように料理が継承・伝播されて、やがてその家の冬の定番料理になる。私は敬愛するドクター(故人)から継承した。

 いわき市は昭和61(1986)年、「非核平和都市宣言」をする。市民有志が中心になって短期間に何万人もの署名を集め、市と市議会を動かした。政治運動とも市民運動とも無縁だったドクターが事務局長を引き受けた。そのときに出会い、ドクター宅で初めてホウレンソウ鍋をつついた。
 
 ドクターは、山本監督がテレビで紹介していたのを試して病みつきになったという。嘉次郎鍋の方はテレビではなく、監督が55年前の昭和37(1962)年12月1日、朝日新聞の家庭面に寄稿したレシピを継承した。

 水を張った鍋を卓上コンロにかけ、スライスしたニンニクとショウガを入れて、塩で味を調え、しょうゆを加えてほんのり色をつける。それがスープになる。豚しゃぶ用の肉と葉を一枚一枚ちぎったホウレンソウをそれで湯がいて、そのまま食べる。嘉次郎鍋はしょうゆが主体のようだ。豆腐も入れる。わが家でも最初は豆腐を入れていたが、なくても十分なので今は省略している。
 
 ホウレンソウ鍋は人数に合わせて具材を用意すればいい。晩秋、夏井川渓谷の隠居で“ミニ同級会”を開いたときにも、ホウレンソウ鍋にした。2年前(2015年)の3月12日、フランス人写真家のデルフィン、故郷のマルセイユの親友(女性)と、京都に住む日本人男女2人が来たときにも、ホウレンソウ鍋にした。
 
 東日本大震災の月命日のきょうは、わが家の近くにある「ゲストハウス」に、いわきサンシャインマラソンに出場する知人2人が泊まる。夜はホウレンソウ鍋にしようとカミサンがいう。午後には買い出しに行く。今回は豆腐も加える。「ホウレンソウ鍋 湯豆腐添え」といった感じになるといいな。

2017年2月10日金曜日

ハクチョウのいる中州も白く

 雪が降っても用事は待ってくれない。車は雪をかぶったが、アスファルト路面は黒く濡れているだけだ。スタッドレスタイヤもはいている。朝10時前に印刷会社と銀行へ出かけた。
 きのう(2月9日)、いわき地方は早朝から雪になった。雪は細かいが、湿っている。街からの帰り、夏井川の堤防を通った。家の屋根も土手も、畑も河原も白くなった。新川との合流点、ハクチョウの越冬地に6羽が羽を休めていた=写真。小さな中州も雪をかぶっていた。

 左岸は平・塩、右岸は平・山崎。左岸ではときどき、たまった砂を採取するために重機が入り、ダンプカーが行き来する。最近も砂採取が行われた(土建業者は砂がほしい、川を管理する県の建設事務所は砂を除去したい――ウインウインの関係なのだろう)。この冬は右岸でも道路拡張のための工事が行われている。

 ハクチョウには落ち着かない環境だが、日中は四倉の田んぼあたりでえさをついばんでいる。そのために、朝は鳴きながらわが家の上空を東へ向かい、夕方は逆に東から戻ってくる。昼間、居残っているのはほんの数羽だ。いないときもある。けさは8時前に鳴きながら飛んで行くグループがあった。
 
 中州の近く、川の中央の岩場を休み場にしていたウは、道路拡張工事が始まると姿を消した。ハクチョウはえ付けされて人間に慣れているが、ウはアユなどを食べて害鳥扱いをされる。その差だろう。右岸の工事は、雪で休みだった。久しぶりに静かな昼寝になったか。
 
 ハクチョウは北極圏生まれとはいえ、雪が降り、池沼に氷が張る前に南下する。日本の湖も川も一部を除いて凍りつくほどではない。ハクチョウといえども、雪はあらかた日本で体験するだけではないのか――そんなことを聞いたら、首を縦に振って「ウン、ウン」というかもしれない。

2017年2月9日木曜日

6年ぶりに猫が飼い主のもとへ

 カミサンに会いに来たのだが、あいにく出かけていない。留守番の私では、したい話もできない。でも、伝えずにはいられなかったのだろう。「リンちゃんが戻って来ました。夫が“捕獲”しました」。リンちゃんとは震災前、わが家を経由してその家にもらわれていった猫のことだ=写真。ほぼ6年ぶりに“同居”が復活した。
 ご主人は広野町で歯科医院を営んでいた。3・11で自宅が「大規模半壊」の判定を受けた。津波も床下まで来た。そのうえ、原発事故で広野町は全町避難を余儀なくされた。リンちゃんは家を飛び出したまま。家族全員が避難民になった。すぐ空き巣に入られた。

 広野町は緊急時避難準備区域に指定されたがほぼ半年後には解除され、役場も1年後にはいわき市から町に戻った。ご主人は避難先の東京で仕事を始め、今は福島市で歯科医院を営んでいる。2年半前の2014年7月には町から請われて、3年4カ月ぶりに広野で歯科医院を再開した。休診日(木曜日)に福島から通っている。今は週2日になった。

 奥さんと子どもたちは東京暮らし。原発震災から間もなく6年。長女は結婚し、子どもも生まれた。それだけの時間が経過したが、「家族はバラバラのまま」だという。奥さんは東京と福島市、広野町、いわき市を行き来している。いわきはご主人のふるさとで、実家は津波で流された。さいわい親は無事だった。
 
 リンちゃんはこの間、広野の近所のお年寄りが面倒をみていた。そのお年寄りが入院した。で、ご主人がリンちゃんを保護して福島へ連れ帰った。写真は、右がもらわれていった直後の2011年1月、左がそれから6年余りたった、きのう(2月8日)のリンちゃんだ。奥さんが撮影して持ってきた。きのうは長い間、カミサンと話し込んでいた。
 
 奥さんは古布に興味を持っている。カミサンが古裂れなどを扱っている。ときどきお茶飲み話をしにわが家へやって来る。ご主人は沖釣りが趣味で、夏にはスズキが届いた。毎回、行きつけの魚屋さんに頼むわけにもいかないので、おろして刺し身にすることを覚えた。それも、原発事故後は絶えた。

 原発震災は、それまであったいろんな「つながり」を断ち切った。回復・再生し、新たなつながりができたものもあるが、喪失感は今も深い。そのなかでの、リンちゃんとの6年ぶりの“同居”の知らせだ。家族の間では一筋の光だったにちがいない。私たちがそうだったように。(おや、けさは雪だ。リンちゃんも窓辺から雪をながめていたりして)

2017年2月8日水曜日

五目飯とのっぺい汁ほか

 日曜日(2月5日)、中央台公民館で開かれたいわき昔野菜フェスティバルの昼食弁当は、「五目飯」「のっぺい汁」「のりまめの豆もち」「ひやしまめ」「里芋のじゅうねんだれ」「おくいもとあおばた豆の焼きコロッケ」「むすめきたかの白玉ぜんざい」だった=写真。のりまめ、ひやしまめは大豆、おくいもはジャガイモ、むすめきたかは小豆の一種だ。
 22年前、いわき市がいわき地域学會に調査・編集を委託して『いわき市伝統郷土食調査報告書』を発行した。同書の校正、一部調査にかかわった。「五目飯」と「のっぺい汁」「豆もち」はこの報告書のレシピに従って作った。で、「在来野菜と伝統郷土食」についてミニ解説を――主催のいわき昔野菜保存会の仲間が言うので、報告書を読みなおして役目を果たした。

「五目飯」は祝い事や法事のときにつくる。酢を用いたちらしずしで、生のものは一切使わない。「ちらし」は「災いをちらす」にかけている。「のっぺい汁」も法事につくる。「はちはい」ともいう。東北地方では普通だが、九州・延岡でも食べられる。そのわけは――。江戸時代、磐城平藩を治めていた内藤氏が延岡藩に転封され、家臣の食文化も延岡にもちこまれた。その子孫が今も法事には「のっぺい汁」をつくる。そんなことを話した。

 イベントが終わったあとの懇親会で、江頭宏昌山形大教授と「ごんぼっぱ」(オヤマボクチ)の話になった。阿武隈高地の山里では、ちょうど今ごろ、ごんぼっぱをまぜこんだ「凍みもち」をつくる。夏場、小腹がすいたときの「コジュウハン(小昼飯)」、あるいは子供のおやつになる保存食だ。

 市販の本や伝統郷土食調査報告書には、凍みもちは水につけてやわらかくしてから食べるとあるが、子どもはそんなまどろっこしいことはしない。硬いまま火にあぶり、表面がキツネ色になったら口にする。せんべいのようにカリッと砕けて、「ごんぼっぱ」の香りが広がる。ああ、急に今、食べたくなった。今度、山里の直売所に行ったとき、売っていたら買おう。まだ歯は大丈夫。

2017年2月7日火曜日

市民による昔野菜フェスティバル

 おととい(2月5日)、中央台公民館でいわき昔野菜フェスティバルが開かれた=写真。家庭菜園を営んでいる市民を中心に70人ほどが参加した。スタッフを加えると100人は超えただろうか。
 今度で7回目といいたいところだが、6回までは市が主催した。今回は事業を受託してきた企業組合が事務局になり、市民団体の「いわき昔野菜保存会」が主催した。

 原発震災をはさむこの6年の間に、昔野菜(在来野菜)の栽培者(生産)~料理人(加工)~市民(消費)のネットワークが生まれた。種(たね)をもらっていわき昔野菜を栽培する消費者も増えた。

 いわきの食文化に新しい光がさしつつある、行政と市民の協働が着実に根づきつつある、という確信をいだきはじめたところへ、次は経済団体によるビジネス化だと、市は事業の“ステップアップ”を打ち出した。せっかくできた協働の芽を枯らすわけにはいかない。市民の手で種を次世代に伝える活動を継続することにした。
 
 生産~加工~消費のネットワークは震災を危機バネに、調査スタッフが現場で生産者と向き合い、信頼関係を築いてきたからこそできあがった。そのネットワークが生きた。

 フェスティバルの中身はこれまでと変わらない。午前10時から午後3時半まで、昔野菜を使った昼の弁当タイムをはさんで、みっちり「座学」が展開された。生産者による栽培講座、江頭宏昌山形大教授による講演、種自慢の座談会と続き、参加者と生産者の間で熱心な質疑応答が続いた。受講者は自分でも家庭菜園を営んでいる「プロシューマー」(消費者にして生産者)が多かったように感じた。

 私も弁当に出た「のっぺい汁」(はちはい)や、いわき一本太ネギなどの解説を兼ねて、「在来野菜と伝統郷土食」をテーマに15分ほど話した。
 
 行政がまいた種は確かに芽生えた。花が咲き、実がなって、採れた種は市民の間に広がった。種を切らしたら、その栽培技術も食文化も消える。この一点だけでも、昔野菜を保存・継承する意義がある。それを再確認したイベントでもあった。

2017年2月6日月曜日

春を告げる野焼き

 夏井川下流域の左岸、平・塩~中神谷地区では立春前後に堤防と河川敷の“野焼き”をする。今年(2017年)は1月29日に行われた。先日、堤防を通ったら、中神谷地区のヨシ原が焼き払われていた=写真。いつもの年より焼け残りが少ない。いい具合に風が吹いて火勢を保ったか。
 堤防のスイセンは師走のうちに咲き出した。川岸のヤナギもかすかに緑の点々をまとっていた。今は目の錯覚だったと思うしかないのだが、1月に入って寒波に襲われると、ヤナギの緑が消えた。

 土曜日、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。篭場の滝には“しぶき氷”がなかった。これでは隠居の対岸にある“木守の滝”も凍結してはいないだろう。菜園に生ごみを埋める。厳冬だと、表土は5~7センチの厚さで凍っている。スコップがはねかえされる。それが、サクッと入っていった。

 しかし、地下水が水源の水道は蛇口をひねっても水が出ない。水道管が凍結・破損して漏水し、地面を濡らしていないか――庭や家の周りをチェックしたが、変化はみられなかった。いよいよ水道のホームドクターに見てもらうしかないか。
 
 いわきの極寒期は1月下旬から2月初め。金曜日(2月3日)、節分。土曜日、立春。節分の日にわが家の庭の水仙が開花しているのに気づいた。きのうは夕方、雨になった。植物の芽生えをうながす慈雨の始まりといってもいいが、寒暖の波はまだまだ繰り返す。

2017年2月5日日曜日

卵かけごはん

 中国から里帰りしたばかりの、お母さんと小4のお嬢ちゃんが訪ねてきた。震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで津波被災者・原発避難者のための交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。そこでボランティアとして知り合った仲間だ。お嬢ちゃんはまだ幼稚園児だった。そこへ偶然、「ぶらっと」の健康運動教室に関係する知人が加わった。
 いわきに戻ってすぐ、お嬢ちゃんは卵かけごはんを食べた。それを聞いた知人が、外国から帰ってきた親類が真っ先に食べたのもそれ、といった。男の私だと、まずカツオの刺し身を、となる。そこからの連想――。

 鶏卵とバナナ=写真=は物価の優等生、と昔から言われている。どちらもほぼ毎日、口にする。鶏卵は朝食に目玉焼きとして。バナナは、カミサンが刻んでヨーグルトに加えて食べた「余り」を。鶏卵は川内の「獏原人村」から週に一度宅配される。バナナはスーパーで買う。が、まれに行きつけの魚屋さんからも。

 写真のバナナは、1月29日の日曜日、魚屋さんで手に入れた。市場へ行くと、青果関係の知り合いから売れ残ったバナナを「買ってくれ」と頼まれることがあるそうだ。一房15本前後で300円。今度も原価の300円で手に入れた。小売店では4~5倍になることを知った。バナナの消費に異変が起きているのだろうか。
 
 バナナはさておき、卵かけごはんだ。画家岸田劉生(1891~1929年)の父親は岸田吟香(1833~1905年)といって、日本で最初の従軍記者だった。ほかに、宣教師にして医者のヘボンと一緒に和英辞典を編集したり、盲唖学校を創設したり、目薬の調剤・販売などをしたりした。日本で初めて卵かけごはんを食べた人間、ともいわれている。
 
 ここ10日ほど、卵かけごはんのことを思い出し、最初に吟香が食べたという証拠はどこにあるのだろうと気になっていたところに、卵かけごはんの話が出た。

 赤穂浪士の面々は討ち入り前、グループごとに分かれて食事をした。大石内蔵助らが食べたのは、蕎麦ではなく鴨入り卵かけごはんだったと、池波正太郎が書いている。うまそうな再現料理もネットに載る。「へぇー」とはどうもなれないでいる。どこかに卵かけごはんの歴史を調べた論文や文献はないものか。

2017年2月4日土曜日

窃盗犯が捕まった

 わが家に泥棒が入ったのは去年(2016年)7月中旬。それから7カ月近く。犯人が捕まったという知らせが届いた。
 店舗兼住宅の店(米屋)の一角に、カミサンが運営する地域図書館がある。ふだんはおばさんたちの茶飲み場。震災後は被災者・避難者の交流サロン「まざり~な」になった。フェアトレード商品も展示・販売している。
 
 7月のある日早朝、カミサンが、茶飲み場の様子がおかしいのに気づく。周りを見たら出窓の外に、中に置いてあった茶わん入りのかごなどが置いてある=写真。フェアトレード商品の売上金5万円ほどがなくなっていた。

 警察に通報した。すぐドロ刑氏が来て調べた。きのう(2月3日)、若いドロ刑くんが来て「犯人が捕まった」とカミサンに告げた。

 去年の大みそか、いわき市好間町の店舗に侵入して捕まった男がいる。20代にコソ泥を始め、シャバと刑務所を行き来しているうちに72歳になった。犯行はこの1年間で50件に及ぶ。そのなかにわが家が入っていた。盗んだ金が多いときには田町で“豪遊”していたというから、主にいわき市をフィールドにしていたか。車上生活者で、車で行き来しながら狙いを定めていたらしい。

 捕まったあと、新聞に載ったというので、図書館へ行ってチェックした。県紙に小さく載っていた。「いわき中央署は12月31日午後8時20分ごろ、建造物侵入の疑いで本籍南相馬市、住所不定、〇〇×容疑者(72)を現行犯逮捕。逮捕容疑はいわき市好間町下好間の店舗に侵入した疑い」(福島民友)

 わが家の店のレジは住まい部分にある。茶の間に近い。それには手をつけなかった。人の気配がするところまで忍び込んで来る度胸はなかったのだろう。派手にやると足が付く。小金(こがね)なら気づくのが遅れる。「鬼平犯科帳」風にいえば、小心な「独りばたらき」だ。

 泥棒にも個性、癖、パターンがあるという。店は、夜8時前には閉める。茶の間の明かりは店には届かない。好間では夜8時20分ごろに侵入して捕まった。わが家にもその時間帯に忍び込んだか。

 コソ泥人生、半世紀。「事実は小説よりも奇なり」で、なぜそうなったのか、どうやって盗みに入る店を、侵入口を決め、カネをかぎわけるのか、じっくり聞いてみたいものだが……。若いドロ刑くんいわく、「罪の意識なんかありませんよ」。なんともうら悲しい犯人逮捕の知らせだった。カネはたぶん戻らない。

2017年2月3日金曜日

いわき昔野菜フェスティバル

「いわき昔野菜」が市民に認知されたのは6年前。3・11前に発掘・調査事業が始まったことが、今となっては大きな意味を持っている、と私は思っている。震災後なら、日の目をみなかったかもしれない。
 平成22(2010)年度から27年度まで、いわき市が①在来作物の発掘・調査②展示・実証圃(ほ)での栽培③フェスティバルの開催④在来作物に関する冊子の製作――を柱とする事業を展開した。
 
 在来作物の「三春ネギ」を栽培している。で、事業初年度の夏に2回、市の広報と、事業を受託したいわきリエゾンオフィス企業組合のインタビューを受けた。以来、毎年発行される冊子の巻頭言を頼まれ、フェスティバルにも参加している。生産者や料理人、市民らによる「いわき昔野菜保存会」も組織された。
 
 フェスティバルでは、毎回、江頭宏昌山形大教授が講演している。先日もちょっと触れたが、あさって(2月5日)、同保存会が中央台公民館で開くフェスティバルでも講演する。いわき昔野菜を使った昼食(弁当)も出る。
 
 私も主催者側の一人なので、フェスティバルに備えて、成果品の冊子と、平成7(1995)年3月発行の『いわき市伝統郷土食調査報告書』(いわき地域学會が市から受託して調査・編集した)=写真=をパラパラやった。
 
 この6年間、行政・企業組合・生産者・料理人・市民が協働して成果を出した。“原発震災”を乗り越えることができたのはそのためだろう。しかし、さあ次のステージへ、という段階で市の事業が終わった。カネの切れ目が縁の切れ目にはならなかった。むしろ、市民の側に継続するためのエネルギーが生まれた。今回から市民による、自立したフェスティバルになる。

2017年2月2日木曜日

気象予報官の話

 雨の降り方が局地的・集中化・激甚化している。新たなステージに対応した防災・減災に取り組む必要がある。その一つが「特別警報」の運用だ。「これまでの警報基準をはるかに超える異常な現象が予想され、重大な災害がおこるおそれが著しく大きい場合」に発表される。「数十年に一度」が目安なのに、毎年、特別警報が出されているという。
 おととい(1月31日)、いわき市文化センターで自主防災組織研修会が開かれた。いわき市内の区長や自主防災会代表などおよそ200人が参加した。知った人間が何人かいた。市が防災施策を説明し、平城山、玉川町、内郷高坂町3地区の防災まちづくり活動事例が報告された。3地区は独自にハザードマップを作成した。休憩時間に同マップをもらう列ができた=写真。

 そのあと、福島地方気象台の予報官が講演した。タイトルは「近年における気象の変化といわき市民が留意すべきことについて」。

 平成23(2011)年3月11日、東北地方太平洋沖地震(地震名は気象庁が命名、災害名「東日本大震災」は閣議了解で決定)が起きた。同じ年の夏、台風12号によって主に紀伊半島で甚大な被害が生じた。気象庁はこれらを重く受け止め、同庁としての危機感を伝えるために、同25年8月30日、「特別警報」の運用を始めた。
 
 年降水量はあまり変化がみられないが、1970年以降、年ごとの変動が大きくなっている、短時間強雨は増加傾向――大気中の水蒸気が世界的にも、日本でも増えている。この地球温暖化が大雨や短時間強雨の増加に関係している可能性が大きいという。最近では竜巻にも注意が必要になった。
 
「特別警報が発表されたら、ただちに命を守る行動を!」。予報官は、特別警報が発表された時点ではすでに避難が終わっていないといけない、とも強調した。そのためには、気象庁のホームページを活用するなど、みずから情報を取りにいくことも大切になる。
 
 私は震災前から、福島地方気象台のホームページをクリックするだけでのぞけるようにしている(若い仲間にそうしてもらった)。新聞社時代も絶えず天気予報や最高・最低気温、地震、生物季節観測などをチェックしてきた。コラムを書く上で欠かせない基礎データになるからだ。実感をデータで裏付ける、あるいは修正する。そのためのネタの宝庫でもある。
 
 予報官の結論は、災害は「まさか」ではなく、「いつか」起こるものと認識せよ、「自分は大丈夫」とは思うな――だった。3・11の予報官自身の経験も大きい。予報官は仙台空港にいた。津波が押し寄せた。気象の専門家でさえ「まさか」「自分は大丈夫」という「正常化の偏見」に支配されていたという。肩を骨折したそうだが、原因はなんだったのだろう。

2017年2月1日水曜日

ときどき“庭師”

 日曜日には夏井川渓谷にある隠居へ行く。用があって行けないことも、もちろんある。おととい(1月29日)がそうだった。昼、近所の中華料理店で新年会が開かれた。
 隠居へ行けば土いじりをする。が、今はシーズンオフ。わが家の生ごみを菜園に埋めると、やることはない。首からカメラをさげて周りをぶらぶらしたあとは、茶の間のこたつに入って昼寝をするだけ。

 カミサンは、冬でも庭の草むしりをする。のこぎりを持ち出して庭木の剪定もする。父親はなんでもできる人だった。カミサンの実家の庭は広い。父親が自分で作庭した。ときどき“庭師”になるのは、父親の血を受け継いだからだろう。

 渓谷の隠居は、庭から一段下がったところに第二の庭(空き地)がある。上の庭だけで手いっぱいなので、下の庭は地主に返した。ヨシやススキが密生する。年に2回は業者に頼んで草を刈る。
 
 元は畑だったそうだ。第二の庭の境は土手になっている。今は木が生えてヤブ化した。1カ所、けもの道がある。冬、ヤブの木に何度かエノキタケが発生した。が、あまりにもボサボサなので、カミサンがときどきノコギリを握って格闘する。

1月下旬の日曜日、隠居の茶の間から向かい山をながめていたら、ヘルメット姿のカミサンが下の庭に降りて、境界の木々に絡まるつるを切り始めた=写真。ヘルメットには「(有)〇×土木」と書いてある。わが家の近所に元土建業の老夫妻が住んでいる。奥さんとカミサンは茶飲み友達だ。その縁で、不要になったヘルメットをもらったのだろう。

 街場の庭も山里の庭も、手を抜けばたちまち草木に覆われる。庭が庭であるためには草をむしり、木の枝を剪定しないといけない。小学校の分校の校庭くらいはある庭だとなおさらだ。雑仕事が次から次に見つかる。わが家では、力仕事はカミサン、軽作業は私と役割が逆転している。