2016年10月31日月曜日

「代金は正確に」

 夏井川渓谷の隠居へ行くのに国道399号~県道小野四倉線を利用する。道沿いに無人直売所が4つある(もっとあるかもしれないが、目に入るのはこれだけ)。季節の野菜を中心に売っている。果物も並ぶ。
 ひとつは自宅の門口(かどぐち)にある。きのう(10月30日)午後、隠居へ行くときに梨があった。帰りに買った。ソフトボウル大の「新高(にいたか)」で、2個入り500円だった。

 値段表のほかに、「代金は正確に入れて下さい」と書かれた紙が張ってあった=写真。ここでもやられるのか。近所の無人直売所の話だが、無人をいいことに料金を払わない、払っても1円、というケースがある。ある無人直売所では料金入れを盗まれた、という話もある。
 
 値段は100円、150円、200円といったレベルだ。直売所の運営者は「性善説」に立って、人はきちんと代金を払ってくれるものと信じて無人にしている。それを見事に裏切る人がいる。食べてもうまくないだろうに。
 
 それはともかく、いわきの梨は「幸水」から出荷が始まって、「豊水」「涼豊」「新高」と続く。「幸水」はみずみずしさが暑い盛りにぴったりだ。もう終わりに近い「新高」はシャリシャリした肉質感と、ほのかな香りが特徴だろうか。寒くなりかけた時期に、こたつに入って食べる――そういう梨だ。1個250円は安い。

2016年10月30日日曜日

防災ラジオ

 きのう(10月29日)の朝、座卓のそばに置いてある「防災ラジオ」が自動的にオンになり、「照明」と書かれたそばの小さな四角の窓(ランプ)が白く明るくなった=写真。時計を見ると、ちょうど8時だった。
 なにごと? たまたまそばにいた。夫婦でかたずをのんでいると、女性の声で「これは訓練放送です」。そのあとは、四倉と川前2地区の原子力防災実動訓練について、実際の事故を想定した指示がなされた。

 いわき市のホームページで確かめると、こんな内容だった。「午前8時、福島第二原発の事故が悪化し、本市まで放射性物質が飛散する可能性があることから、国から四倉地区および川前地区全域に『屋内退避指示』が発令されました。四倉地区および川前地区の訓練に参加される皆様は、不要な被ばくを防ぐため、住宅などの建物の中に避難してください」

 いわきの場合、まずは屋内退避を――。これが1Fの事故の教訓だ。東北地方太平洋沖地震で、わが神谷(かべや)からおよそ40キロ北の大熊・双葉町にまたがる1Fが全電源を喪失して事故をおこした。同じくざっと30キロ圏内の楢葉・富岡町にまたがる2Fもメルトダウン寸前だったが、奇跡的に復旧した。

「防災ラジオ」は市から各行政区に配られた。わが区では、自主防災会長(区長が兼務)のわが家に置いてある。万一の場合、防災ラジオからも情報を得て、区長~役員~班長という流れで地区民に情報を伝えるようになるが、その連絡網は未整備だ。師走までには確立しないといけない。

 平成24(2012)年11月、福島県地域防災計画でいわき市が「UPZ(緊急時防護措置を準備する地域)」(原発からおおむね30キロ)に指定された。
 
 それに基づき8月23日、平・神谷地区でも原子力防災訓練(ワークショップ)が開かれた。今回は最初の図上訓練で、「情報伝達」と「避難」の二つをテーマに、いわゆるKJ法で現状を分析した。その結果、「連絡網が未整備」などといった課題が浮き彫りになった。師走には、同じように避難の課題解決のための方策を探る訓練(ワークショップ)が開かれる。
 
 四倉、川前地区は先行して図上訓練をすませ、訓練2年目の今年(2016年)、実動訓練に入った。実は、市から「仮想避難所」の中央台公民館でスクリーニング検査などを見学しては、という誘いがあったが、用事が入っていたので断念した。

 1Fが事故をおこしたとき、避難先でスクリーニング検査を受けた。実動訓練を伝える夕刊の記事から思い出したことがある。「原子力災害はいつ自宅に戻れるか分からないので、持ち出し品をもう一度検討してほしい」(市長の講評)。原発事故の恐ろしさがここにある。
 
 あのとき、着替え用の下着しか持ち出せなかった。あとは2冊の本。伊東達也著『原発問題に迫る』(2002年刊)と、寺内大吉著『法然讃歌』(中公新書、2000年刊)だけ。本を熟読して、初めて原発事故の罪深さを知った。

2016年10月29日土曜日

蚊に刺された最後の日

 水曜日(10月26日)は、いわき市山田町で最高気温が25.9度あった。小名浜でも22.2度。沿岸部はともかく、いわきの内陸部は夏日だった。それが一転、きのう(28日)は小名浜で最高気温が13.8度と、11月下旬並みに下がった。山田は12.6度とさらに冷え込んだ。初めて石油ストーブを使った。
 10月下旬でも夏日になる日があるため、蚊がなかなか姿を消さない。私は自宅を“フィールド”に、蚊に刺された最初の日と最後の日を記録している。それによれば、わが家では5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。最後に「チクッ」とやって姿を消すのは10月下旬、20日ごろだ。

 20日―この日も暑かった、小名浜で27.2度の夏日を記録した―を過ぎたので、もう「チクッ」からは解放されると思っていたが、おとといも気温が20度を超えた。カミサンが庭仕事をしていて蚊に刺された。きのう午後、来宅した知人も同じ日に刺された、といっていた。「蚊に刺された最後の日」が10月20日から1週間伸びて10月27日になった。

 そこから、急な寒暖、紅葉の話になった。テレビではこの時期、「紅葉情報」が流される。カエデのマークで程度が示される。つまり、「カエデの紅葉度」を伝えているわけだが、視聴者はカエデよりも、山が紅葉しているかどうかを知りたいのだ。現に、夏井川渓谷では広葉樹の紅葉がピークを迎えつつある=写真。
 
 この紅葉が終わるころ、ようやくカエデの葉が赤くなる。渓谷の名勝「篭場の滝」に歌碑が立つ。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」(作者は随筆家大町桂月)。落葉樹の普通の紅葉を見たい人には、カエデの紅葉は「あとの祭り」のようなものだ。
 
「紅葉情報」はカエデの葉のマークだけでなく、ふんわりした広葉樹の葉も加えて、例えば夏井川渓谷の場合、「広葉樹は赤、カエデは緑(あお)」と表示してはどうか。テレビが紅葉情報を伝える季節になると、決まってそう思う。

 蚊の話に戻る。11月に入っても蚊に刺されるようだと、「蚊に刺された最初の日」も早まる可能性がある。蚊の活動期間が長くなる。これは困る。だから、私の中では「11月チクッ」が現実に起きたら大ニュースだ。地球温暖化を示す身近な例になる。

 10月10日付朝日新聞に「デング熱運ぶ蚊 青森まで北上」の記事が載った。国立感染症研究所の調査でヒトスジシマカが今夏、青森県内に生息域を広げていたことがわかったという。ヒトスジシマカは、年平均気温が11度以上の地域で定着する可能性があるらしい。で、昭和25(1950)年ごろの生息域は栃木県が北限だったのが、温暖化の影響で北上を続け、ついに本州北端に達した。津軽海峡を超えるのも時間の問題か。

 専門家は「家にある植木鉢の受け皿やバケツなどにたまった水も発生源になる」と注意を呼びかけている。わが家の庭が……怪しい。

2016年10月28日金曜日

「あれっ」「えっ」

 最近、「あれっ」「えっ」と思うことが続いた。こちらの興味・関心に基づく反応だが、なかには早く捕まえてほしい、というものもある。
「あれっ」1。わが生活圏の夏井川に現れるウが、今年(2016年)は急増した。それだけ川魚がいるということなのだろうか。9~10月になると、決まって岸辺に釣り人が現れる。釣り人もウのようなものだが、ウの情報収集能力は人間より高い。中州で羽を乾かしている。なかにはハクチョウと一緒に。白い鳥と黒い鳥が同時に見られるのは初めてだ=写真。

「えっ」1。10月12日夜、BSプレミアアムを何となく見ていたら、「アナザーストーリーズ運命の分岐点」になって、アナウンサーとは異なる女性がナビゲーターとして登場した。あとで女優・歌手の沢尻エリカと知って、びっくりした。すっかり大人になっていた。

「あれっ」2。10月17日、月曜日。朝刊に折り込みのチラシがなかった。朝刊は3紙を取っている。3紙とも同じだった。「折り込みなし」は東日本大震災のような非常時をのぞいて記憶にない。元ブンヤとしてはあれこれ深読みをしたくなる。ま、一過性だろう、とは思うが。

「えっ」2。10月15日夜には、隣接地区で建物火災があった。不審火らしい。その後、わが地区でも何夜かポンプ車が巡回した。空気が乾燥する冬場、地元消防団がポンプ車を巡回させて「火の用心」を呼びかける警防活動を展開するが、今はまだ10月だ。隣接地区の不審火が影響して警防活動に入ったのだろうか。

「えっ」3。実は、これが一番問題なのだが。わが家(店舗兼住宅の店の方)に7月中旬未明、コソ泥が入った。それからおよそ2カ月半後、近くの店舗兼住宅でも店にコソ泥が入った。侵入手口や取られた金額が似ている。季節が替わるごとにコソ泥に“変身”する人間がいる?

 テレビや新聞に関する「あれっ」「えっ」は血が流れないが、不審火・コソ泥は焼死や居直り強盗殺人にエスカレートしないともかぎらない。一般住家でも、日中、在宅しながら鍵をかけているところが多い。悲しいかな、地域の自衛のレベルはそこまできた。それを承知のうえで、深夜から未明、警備会社とは無縁の店舗兼住宅に狙いを定めたか。冬になったら、また……?

2016年10月27日木曜日

小名浜代官中井清太夫

 今年(2016年)親鸞賞を受賞した、澤田瞳子の小説『若冲』(文藝春秋、2015年)=写真=を読む。後半、幕府・勘定所の下っ端役人、中井清太夫が重要な役で登場する。
 清太夫は天明8(1788)年から寛政3(1791)年までの3年間、幕領の小名浜代官を務めた。カミサンが移動図書館から借りて読み、「中井清太夫って人が出てくるけど」というので、がぜん、興味がわいた。

 小名浜へ転勤する前は、甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官職にあった。天明の大飢饉対策として、幕府の許可を得て九州から馬鈴薯を取り寄せ、村人に栽培させたという。のちに当地では馬鈴薯を「清太夫芋」(あるいは「清太芋」)と呼ぶようになる。小名浜でも「清太夫芋」の栽培を奨励した。

 世は田沼時代、舞台は京都――。現代の東京では「豊洲市場」問題がテレビの視聴率稼ぎに貢献しているが、京の「錦高倉市場」は“もぐり”ではないかとそしられ、商売敵から役所に営業差し止めの訴えが出されていた。そこへ江戸からやって来た清太夫がからむ。窮地に立たされた若冲(青物問屋)らが清太夫のアドバイスで活路を見いだし、市場が存続する。
 
 作家のインタビュー記事によれば、史実として①清太夫が禁裏(皇居)の財政を預かる「口向役人」(朝廷に仕えた役人)の不正摘発にかかわった②錦市場の騒動を記した伊藤(若冲)家の史料に清太夫の名前が出てくる――ことから、特捜検事のような清太夫像を造形した。しかも、若冲の絵のファン、という設定で。
 
 清太夫の小名浜代官時代はどのくらい解明されているのだろう。『いわき市史』や『新しいいわきの歴史』を読んでも、「清太夫芋」の話が出てくるだけだ。小説では「田沼さまご隠居後は、それがしも相役たち同様、些細な罪咎(つみとが)を問われ、小名浜代官の職を追われましてな」と、後年、若冲の妹に語るくだりがある。作者は、清太夫解職に田沼後の松平定信の「寛政の改革」が影響した、とみているようだ。
 
 今年4~5月、若冲生誕300年を記念して東京都美術館で若冲展が開かれた。待ち時間が最大5時間余と、連日、大変なにぎわいだった。すっかり若冲ブームになった。これまで何度かテレビの特集を見てきたので、美術館行きは最初からあきらめていた。そうしたメディアの余熱のなかで『若冲』を読んだ。
 
 小説の醍醐味はやはり、作者の想像力による「あり得たかもしれない非日常の世界」の構築にある。

2016年10月26日水曜日

マンスリーサポーター

 シャプラニール=市民による海外協力の会から「ゆうメール」で品物が届いた=写真。「マンスリーサポーター」になって15年だという。で、支援への感謝の気持ちを込めて記念品を送ります、とあった。記念品は小物入れ、ハンコと朱肉入れなんかを入れるにはよさそうだ。
 シャプラは、南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開している。その一つが「クラフトリンク」のフェアトレード活動だ。届いた小物入れは、シャプラのパートナー団体であるバングラデシュの「サリーアン」が扱っているフェアトレード商品で、同団体には生産者約1100人が在籍している。

 拙ブログで何度も書いている。いや、何度でも読んでほしいのだが、東日本大震災では、シャプラが初めて国内の緊急支援に入った。その後もいわきで生活支援活動を続け、今年(2016年)3月12日まで交流スペース「ぶらっと」を運営した。

 昨年(2015年)4月、シャプラの活動国でもあるネパールで大地震が発生した。シャプラはいち早く支援に入った。いわきはもちろん、全国から寄せられた浄財は、主に①救援物資の確保②仮設住宅の支援③コミュニティセンターの運営④青少年への奨学金支援――に使われた。コミュニティセンターには、いわきでの経験が生かされている。

 シャプラの前身である「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ち上げた1人が、いわきの私の学校仲間だった。で、「台所からの国際協力」をとカミサンが会員になってフェアトレード商品を扱い、私が遅れてマンスリーサポーターになった。

 マンスリーサポーターといっても、月に1000円(最近、1500円にした)を口座から自動的にシャプラに振り込むだけだ。シャプラといえども財政的な余裕はない。そのなかで震災支援を続けてくれたという思いもあって、少し奮発して月1500円にした。
 
「支援する」側にいたつもりが、ある日、「支援される」側になる。バングラだろうが、ネパールだろうが、日本、そしていわきだろうが、事情は変わらない。「おたがいさま」の気持ちで「貧者の一灯」「富者の万灯」が広がれば、と思う。

2016年10月25日火曜日

「お茶飲んでがせ」

 顔を見せると、隠居にいれば必ず声がかかった。「お茶飲んでがせ」。私のことをどこまで知っていたかはわからない。でも、自分のせがれのところへ来た“若い人”だから歓迎する。それが「お茶飲んでがせ」になったのだと、勝手に思っている。
 夏井川渓谷の小集落、牛小川。戸数は10戸ほどだが、週末だけの半住民である私と、家はあるもののマチで暮らす1人を除いて、住んでいるのは8世帯、十数人だ。最長老は「お茶飲んでがせ」のおばあさん。そのおばあさんが亡くなった。満90歳だった。

 21年前、高齢の義父に代わって牛小川にある隠居の管理人になった。当時の区長さんのはからいで、ふだん暮らしている地域の隣組とは別に、山里の隣組にも加わった。集落の人々と無縁の“別荘感覚”では自然を眺めるだけだが、隣組に入ったおかげで山里暮らしの面白さを知った。哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店、1988年)の世界を生きているような感覚があった。

 最初、「冠婚葬祭だけは遠慮します」といっていたのが、交流を深めるうちに、いつか葬式に顔を出し合う関係になった。で、おばあさんが亡くなったときも、牛小川の区長さんから「知らせ」が入った。

 藩政時代、シイタケ栽培法を伝授するため、先進地の伊豆半島から専門家である村人がやって来た。伊豆へ帰らずに土着した一人が、その家の先祖だった。
 
 きのう(10月24日)、通夜に出かけた。きょう、葬儀にも「生花」を受け取って墓に供える役割があったが、告別式と同時刻に用事があり、代役を集落の仲間に頼んだ。

 人は、それぞれが“生きた図書館”だ、人が亡くなるということはその図書館が消えることだ、と私は思っている。
 
 聴きたいことがいっぱいあった。つい最近は、若い仲間が磐城地方のシイタケ栽培の歴史を調べていて、牛小川のその家を訪ねたい、というので、連絡を取ろうとしていたのだが、日曜日はいつも留守だった。
 
 おばあさんの顔写真も撮っていなかった。谷間の小集落で風雪に耐えながらも子育てを終え、土を相手に生き抜いた一人の人間を、「紙のいしぶみ」に残すためにも、通夜式を終えたあと、喪主に断って遺影を撮り=写真、「牛小川無常講」と墨書された提灯を写真に収めた。

2016年10月24日月曜日

いわきの現代美術シンポ

「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムがきのう(10月23日)午後、平・大町のアートスペースエリコーナで開かれた。6人の登壇者の1人として参加した。
 1部では、私と書家田辺碩声さん、佐々木吉晴いわき市立美術館長の3人が順に登壇した。2部では、さらに写真家上遠野良夫、画家峰丘さんが加わり、美術家吉田重信さんを司会に6人で座談を繰り広げた=写真。

 シンポジウムは、「いわきまちなかアートフェスティバル玄玄天」の一環として行われた。NPOのワンダーグラウンドが主催した。吉田さんは玄玄天のアートディレクターを務めている。彼から連絡がきてシンポジウムに加わった。

 テーマは、市立美術館の建設へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動と、その推進力になった画家松田松雄の人と作品を振り返り、いわき現代美術黎明期の熱を次世代に伝えていく――というものだった。
 
 私は「市民ギャラリー・前史」を念頭に、同ギャラリーを生み出す母体となった「草野美術ホール」と経営者の故草野健さん(通称「おっちゃん」)について話した。
 
 おっちゃんは昭和44(1969)年、こんにゃく屋を廃業して貸しビル業に転身し、3階に大きな展示場を設けた(最初は「渡辺ホール」、1年後に「草野美術ホール」と改称)。いつかは美術館を、という夢の実現に向けて、画家たちに安く、ときには出世払いで発表の場を提供した。やがて、立て続けに個展・グループ展が開かれるようになった。
 
 それだけではない、おっちゃんは人と人とをつなぐネットワーカーでもあった。新米記者だった私はそこで阿部幸洋(現在はスペイン在住の画家)と松田さんに会い、田辺さんを引き合わされ、メキシコ帰りの峰さんを知った。「生涯の友」といえる人間とは、学生時代を除けば、この草野美術ホールで出会った。みんな若かった。
 
 そうやって横のつながりが広がり、縦の結びつきも強固になって、「市民ギャラリー」が誕生した。ヘンリー・ムーアやロダンなどの一流の展覧会を誘致し、成功させる。それが行政を動かして、現代美術を主に収集するユニークな美術館の開館につながった。
 
 とまあ、45年余前の草野美術ホール開設かから今に至るいわきの現代美術の歴史を概観し、そのエンジン役だった松田松雄について語る、楽しい3時間だった。「黎明期の熱を次世代に伝える」というときの「次世代」とはつまり、今、ワンダーグラウンドその他で汗を流している若者たちのことだろう。シンポジウムの終わりに、玄玄天の主会場である「もりたか屋」を「第二の草野美術ホールに」とあおってみた。

2016年10月23日日曜日

三春ネギ発芽

 三春ネギは、種をまいて1週間も過ぎれば発芽する。今年(2016年)は10月9日に種をまいた。1週間後の日曜日(16日)は神谷公民館まつりがあって行けなかった。どんな様子か、案じられた。
 2週間後のきょう、日曜日(23日)は、朝6時半から「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」が行われる。行政区内で出たごみ袋を数えて役所に報告しないといけない。午後には、若い人たちが企画した「いわきまちなかアートフェスティバル『玄玄天』」のイベントの一つ、「いわきの現代美術の系譜」と題したシンポジウムが開かれる。登壇者の一人として加わる。芽ネギの様子を見に行くゆとりはない。

 平日ならいつでも様子を見に行ける、と思っていたが、平日は平日で用事があるものだ。ガマンして、ガマンしきれなくなって、きのう朝、夏井川渓谷の隠居へ車を飛ばした。すぐ三春ネギの苗床をチェックする。緑の筋ができていた(種を筋まきにしたのでそうなる)。まずは安心だ。昔野菜のネギを食べながら保存するサイクルがつながった。

 ネギの芽生えは変わっている。黒い種の殻から出てきた芽はいったん上向きに伸び、やがて根の部分と茎の部分が屈曲し、根は下へ、下へと向かっていく。茎の方は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる。それから地中の黒い殻を持ち上げる。

 このときの芽ネギがおもしろい。播種から2週間。地上に現れた芽ネギは高さ5センチほど。物置からむしろを引っ張り出して苗床のそばに広げ、腹ばいになって観察する。芽ネギは黒い殻を付けたまま、数字の「7」や「?」になっている、ひっくり返った四分音符に見えるものもある=写真。やがて黒い殻は脱落し、茎は針のようにピンと一直線になる。この“おたまじゃくし”を見に来たのだ。

 防寒用にもみ殻を敷き詰めるとトンボ帰りをした。午後は、カミサンが同期会へ出かけ。車で送り届け、米屋の店番をしながら調べ物をした。今年(2016年)の10月はとりわけ忙しい。そのなかで三春ネギの種をまき、発芽を確認した――というだけで気持ちがみたされた。

2016年10月22日土曜日

震度6弱

 今度は鳥取か――。今年(2016年)4月14日夜、「平成28年熊本地震」(最大震度7)がおきた。きのう(10月21日)は午後2時7分ごろ、日本海に面した鳥取県中部で最大震度6弱の地震。「東北地方太平洋沖地震」(震災名は「東日本大震災」)がおきたときの、いわきの震度と同じだ。
 東北の最南端に住んでいるから、揺れは全く感じなかった。ネットで調べ物をしていたので、時折、チェックするフェイスブックで地震を知った。発生から1時間余り、テレビ(NHK)の空撮映像から被害の程度が想像できた。屋根瓦が崩れた家がある。屋根のグシが壊れた家がある。墓地の墓石が倒れている――。

 東北地方太平洋沖地震では沿岸部が大津波に襲われ、甚大な被害が出た。地震被害だけの内陸部は今度の映像とほぼ同規模の被害のように思われた。原発事故が起きて一時避難し、空き巣と墓参り(春分の日がきた)が気になって、9日後に帰宅した。墓参りをしてあぜんとした。あらかた墓石が倒れていた=写真。

 熊本地震のときにもアップしたが、今度も災後3日あたりまでの余震、家の様子を当時の拙ブログで振り返る。5年7カ月がたって細部の記憶はあいまいになったが、記録があるおかげで「あのとき」を思い出し、鳥取県の被害状況を、被災者の心を想像することはできる。一種の「情報支援」になれば、という思いもある。
                *
【3月11日】午後2時46分ごろ、大地が揺れた。揺れて、波うって、今にも大地に亀裂が入るのではないか、と思われるほどの大地震になった。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後する。二本の足では立っていられない。揺れが収まった時点で家に入る。本棚が倒れ、食器が落ち、テレビが倒れている。2階も足の踏み場がない。

【3月12日】いわきで震度6弱の「東日本大震災」に襲われた2日目だ。夜10時24分ごろ、震度5弱の横揺れがきた。12日のなかで一番大きな揺れだったかもしれない。震源地は福島県沖。11日午後2時46分ごろの、最初で最大の一撃に比べたら、時間も短く、揺れ方も弱かった。とはいえ、絶えず余震が続いている。震度5弱にはさすがに肝を冷やした。

 ケータイがかからない。固定電話も「込み合っています」になった。外からはかかってくる。地震、津波だけではない。放射能にも注意が要る。避難指示の範囲が福島第一原発から半径20キロに拡大され、建屋の爆発が起きた際には一般市民が被曝したという。いわきは第二原発からは半径15キロ圏内だ。いつ避難してもいいように心の準備だけはしておかないと。

 家の中の片づけも進まない。1階の茶の間、台所、寝室は片がついたものの、2階はしばらく散乱したままにしておく。片づけようという気持ちが起きないのだ。もっと落ち着いてからにしよう。

【3月13日】朝7時ごろ、息子から給水所へ行かなくては、という電話が入る。知人から「井戸水ならあります」という連絡が入っていたので、あるかぎりの容器を持って夫婦で出かけた。給水所へ出かけても待たなくてはならないので、知人の家へ向かったのだ。知人は公務員。召集がかかっていて出かけるところだった。

 飲むためには一度煮沸しなくてはならない。水洗トイレには十分、間に合う。わが家は水洗ではないから水は必要がない。二度往復して、ひとまず洗い水、飲み水にはめどをつけた。最初の地震のマグニチュードが9に修正された。
               *
 それから1カ月後の4月11、12日の2回、いわきはまた震度6弱の巨大地震に襲われた。

2016年10月21日金曜日

表紙を替えても

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」が10月25日、オープン9年を迎える。開業前日、新聞社をやめた。以来9年間、いわき地方の新聞の歴史を調べることを、暮らしの軸においてきた。
 明治、大正、昭和前期と、いわきの活字メディアは興隆する。が、日中戦争が泥沼化し、さらに対米戦争へと坂道を転がる過程で総動員体制が敷かれ、5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統合される。
 
 太平洋戦争が始まると、さらに統制が強まる。統合されたいわきの夕刊は「1県1紙」政策のなかで福島民報に組み込まれ、「磐城夕刊」になる。それもつかの間。物資不足のあおりで休刊される。戦争は身近な地域メディアの存在を許さなかった。

「時代の空気」のなかで「個人の内面」にふれる――そんなことを意識して、アカデミズムとは異なるブンヤ流で図書館通いを続けている。ラトブにある総合図書館は、9年前のオープン以来、「私の書庫」だ(リタイア後はカネがないから、本はめったに買わない)。

 カミサンが読書推進関係のメディアに原稿を書いて、謝礼に1万円の図書カードをもらった。それがこちらに回ってきた。
 
 いそいそと本屋へ出かけた。大黒岳彦『情報社会の<哲学>』(勁草書房)、加藤陽子『戦争まで』(朝日出版社)、森正人『戦争と広告』(角川選書)――8000円近い買い物をした。最初の本はともかく、銃後を生きた市民の心にふれるには、戦争を、戦争を引き起こした時代を知る必要がある。そのための資料でもある。
 
『戦争と広告』は、半年前にも買った。表紙が違うから続編だな、これは――早とちりして、つい手が出た。並べると違いがわかる=写真。家に帰って、念のために同じページを比較した。んっ、同じじゃないか。なぜ表紙だけ替えた? 帯に「メディアはいかに嘘をつくのか?」とある。「嘘をついてるのはあんただろ」なんていうのはウソだが、いい気分はしなかった。

 次の日、ワケを言って返品し、返金分より100円高い別の本を、消費税をプラスして買った。
 
 なぜこのごろ「戦争」本なのかと考える。東日本大震災を契機に、過去におきたことは未来にもおきる、自然災害であれ人災であれ戦争であれ――という思いが強くなった。戦前の地域紙も、やがてつぶされる運命にあるのに、戦意高揚色の強い紙面に変わっていく。銃後のプロパガンダの一翼を担った。
 
 前に、中東でフリージャーナリストら2人が殺されたとき、某紙のコラムニストが「仇をとってやらねばならぬ、というのは当たり前の話である」と書いたのにのけぞった、と書いた。メディアが勇ましいことをいいはじめたら要注意だぞ、コラムは雄々しくある必要はない、女々しくていいんだぞ、と私は現役の記者たちに叫びたくなった。

少子高齢化であれ、なんであれ、兆候は地域の隅っこに現れる。そこは「末端」ではなく「最先端」。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)なんてことが、夢にも現れないようにと念じながら、戦争の本を読み続けている。

2016年10月20日木曜日

ハクチョウ飛来

 街からの帰りには夏井川の堤防を利用する。「川のある風景」を眺めるために。そして、今はハクチョウの飛来の有無を確かめるために。
 きのう(10月19日)、午後1時からの会合に合わせて昼過ぎに堤防を経由して街へ出かけた。福島市の阿武隈川にハクチョウが飛来した、というニュース(福島民友)がネットにアップされていた。ならば、いわき市の夏井川にも――。
 
 図星だった。8羽が平・塩~中神谷地内にかたまって羽を休めていた。カメラに収めることができたのはうち6羽=写真。肉眼ではもちろん、車に常備の双眼鏡でもはっきりしなかったが、コハクチョウらしい。
 
“予兆”はあった。さきおとといの昼過ぎ、街からの帰りに堤防を通ると、マガモが数羽、下流から飛んで来た。今シーズン初めて見る冬鳥だ。いよいよ、秒読み開始。街への行き・帰り、いずれも堤防を利用しよう。1~2時間の間にハクチョウが飛来しないとも限らないから――そう決めた矢先の第一陣だった。
 
 長谷川博著『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)によると、コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ帯で営巣・育雛する。オオハクチョウはそれより南の森林ツンドラからタイガ(針葉樹林)帯が繁殖地だ。繁殖地と越冬地との距離の長短には体の大きさ(重さ)が関係しているらしい。

 猪苗代湖に飛来したのは10月8日。オオハクチョウ3羽とコハクチョウ2羽が確認された(福島民報)。17日、阿武隈川にやって来たのはオオハクチョウ4羽とコハクチョウ1羽。いわきへはまず、コハクチョウがやって来る。オオハクチョウは遅れてポツリ、ポツリと現れ、年明けの真冬にその数を増す。オオハクチョウが早々と福島県内に現れたのは珍しい?

 夏井川の対岸、平山崎地内では文字通り、山の先端の急カーブで道路拡張工事が行われている。ハクチョウが越冬するそばの細長い河畔林が、それで伐採された。風景が変わってとまどっているのか、ハクチョウは少し下流に舞い降りた。
 
 同じく河畔林の前、川から突き出た岩場を休み場にしているウも、今は下流の中州に移動して羽を乾かしている。上流の中州でも休んでいる。黒い鳥と白い鳥、そして地味な色のカモたち。ハクチョウおじさんが亡くなったあと、近くの女性がえさをやるようになった。本格的にえさやリが始まったら、ハクチョウは新川との合流点に戻ってくるだろう。

 この時期、鳥たちが季節の移り行きを教えてくれる。なにより、ハクチョウの第一陣をこの目で最初に確かめられたのがうれしい。

2016年10月19日水曜日

299年前の句・歌碑

 10日ほど前のことだ。近くの出羽神社で例大祭が行われた。案内がきたので出席した。宮司あいさつで、境内にある内藤露沾(1655~1733年)の句・歌碑=写真左=が、来年(2017年)、建立からちょうど300年を迎えることを知った。
 江戸時代前期、内藤氏が磐城平藩を支配した。露沾はその内藤氏の跡継ぎに決まっていたが、ワケあって隠退させられ、六本木の邸(やしき)で和歌や俳諧に親しむ日々を送った。松尾芭蕉のパトロンでもあった。
 
 元禄8(1695)年、41歳で江戸から磐城平の高月台(現磐城高校)に移り住んだ。そのころ、本名を義英から政栄に改めている。碑には、和歌「羽黒山 御影も清き みそぎこそ 茅(ち)の輪をこゆる 代々の川波」が彫られ、句「清祓 千代をむすばん 駒清水」が併刻された。神社は小丘の頂上にある。それで「羽黒山」なのだろう。
 
 同神社は平成21(2009)年7月20日、しばらく中断していた「茅(ち)の輪くぐり」を復活させた。露沾の和歌が後押しをしたのだろうか。神事復活と同時に「羽黒露沾会」が組織され、和歌・俳句・川柳の募集も始めた。毎年、この日に表彰式が行われている。
 
 故佐藤孝徳さんの「内藤露沾について」(「いわき地方史研究」第42号、2005年)を読むと、歌碑は享保2(1717)年6月18日、神主佐藤出羽守信胤が建立した。3世紀の星霜を経て古さび、文字も読みにくくなっている。「いしぶみ」としての価値は確かに文化財級だ。
 
 露沾は、磐城では社寺を訪ね、多くの人間と交わった。なかでも(と、我田引水になるが)、神谷はお気に入りの里だったようだ。享保3年には同神社に猿田彦面を、同11年には出目洞白作の能面(市指定文化財)を奉納し、近くの一山寺へはたびたび花見に訪れている。住善寺でも歌と句を詠んだ。
 
 露沾の詠んだ作品の背景を一カ所、一カ所確認しながら歩くことで彼の偉大さがわかるような気がすると、佐藤さんは記した。“遺言”にしたがって神谷だけでも歩いてみるか。

2016年10月18日火曜日

公民館まつり

 神谷(かべや)公民館まつりがおととい(10月16日)開かれた。これまで土・日の二日間だったのを、日曜日の一日限りにした。同まつりの実行委員長は神谷地区区長協議会長だ。ほかの区長は自動的に実行委員、ということになる。前日の準備作業は用があって参加できなかった。当日は、朝8時から準備に加わった。
 9時半にスタートした。館内ではサークルの作品展示が、駐車場では同じく芸能発表とPTAなどの模擬店が行われた=写真。区長協議会は「花鉢売り」を担当した。「花売りじいさん」だ。
 
 同まつりは今年(2016年)で25回目。朝から青空が広がった。初回から芸能発表の司会を担当する地元の植松泰宏さんが、「これほどの晴天は初めて」と場を盛り上げた。植松さんは、ユーモアセラピスト・百笑溢喜(ひゃくしょういっき)という芸名を持つ。「いわきの綾小路きみまろ」でもある。
 
 小学校のPTA役員時代から、ダジャレと軽い毒舌と時事風刺をまぜた漫談で人気があった。最近はますます話芸に磨きがかかっている。
 
 これまでの漫談録。「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。今は『あるところに』ではなく、『いたるところに』住んでます」「魚で頭がいいのはサケではない、メダカです。なぜって、学校に行ってるから」
 
 植松さんは震災後、いわき市内の交流スペースや仮設住宅で「笑いの出前」を続けた。シャプラニール=市民による海外協力の会が開設・運営した交流スペース「ぶらっと」での“口演”が始まりではなかったか。以後は引っ張りだこだ。

 芸能発表は分刻み。大正琴、コーラス、健康体操、太極拳、カラオケ……。次のプログラムへ移るまでに間があると、植松さんは話芸でつなぐ。フラダンスのおばさんたちが真っ赤なドレスで現れたときには、「今を時めくヒガンバナかと思ったらサルビアですって」。カラオケの曲かなにかを紹介するときには「灘(なだ)の酒はうまい、ただの酒はもっとうまい」。
 
 今年初めて芸能発表を見た。日常のひととき、仲間とともに踊りや歌を楽しんできたご婦人方にとっては、一年に一度の晴れ舞台だ。出番が済めば、知り合いの観客に「恥ずかしかった」「緊張した」「足がもつれた」などともらす。この市民の芸の多様さと距離の短さが、公民館の「文化祭」らしくていい。地元の神社の例大祭を除けば、コミュニティの唯一のまつり、といっていいかもしれない。

 コーラス団のなかに一人、蝶ネクタイの紳士がいた。80歳をゆうに超えているのではないか。長寿社会の象徴のような出演者だ。地域には表現者がいっぱいいる――と知った一日だった。

2016年10月17日月曜日

後の月

「中秋の名月」の「後の満月」だった。きのう(10月16日)、カミサンが縁側に揚げもちとミカン、花を供えた。揚げもちは、この日行われた神谷公民館まつりの模擬店から買ってきた。ミカンと花(ブルーサルビア、シュウメイギク)は、カミサンが仲良くしている近所のお年寄りからもらった。
 おとといの夕方、いわき地域学會の市民講座からの帰り、ハクチョウが来ているかどうかチェックするために、夏井川の堤防を通った。海の方からまん丸い月が昇りはじめていた=写真。その前日、金曜日の夕方も街からの帰り、同じ場所で月の出を見た。

 今年(2016年)は10月13日が「後の月」の十三夜、しかし満月は16日だ。月の満ち欠けを計算したら十六夜ではなく満月に、すると十四夜は二日続きに?――このへんのところがよくわからない。
 
「『片見月』(『片月見』ともいう)は縁起が悪い、『後の月』にも同じように供え物をすると、ばあさんに教えられた」とカミサンがいう。「後の月」は本来、「次の十三夜」のことだそうだ。それより遅れたが、「片見月」にならないよう、夕べ、供え物をして満月を見た。

 1カ月前の中秋の名月の晩はあいにくの曇りだった。ややたって、夜8時半に外へ出ると、満月がうっすらと中天近くにあった。そのとき、首都圏から電話がかかってきた。拙ブログの一部を再掲する。

「昔、集団登校から遅れて小学校へ行く兄弟がいた。聞けば、朝ご飯を食べていないという。カミサンが大急ぎでおにぎりをつくり、食べさせた。それがしばらく続いた。ほかにもいろいろあった。それから12年後の、当時小2の弟からの電話だった。20歳になった。結婚し、2歳の娘がいる。『おばさん、遅れましたが、ありがとうございました』
 
 後日、拙ブログを読んだカミサンの幼なじみから絵はがきが届いた。絵は、アメリカの絵本作家エドワード・ゴーリー(1925~2000年)の作品、ということをあとで知った。さっそく図書館から絵本を借りてきた。ひとことでいえば、「反絵本」的絵本。苦しい人間はますます苦しみ、悲しい人間はますます悲しみに沈む――そういう救われない世界を描いている。これもまた名月の贈り物だったか。

 今度の「後の月」はどうだろう。地域では絶えず小問題が起きている。それがうまく解決できるようにと、月に吠える代わりに祈った。

2016年10月16日日曜日

クモの巣城

 大気が少し落ち着いたらしい。きのう(10月15日)は朝から青空が広がった。雨でも曇りでも、ましてや晴れでも“宿題”に追われて、朝から晩まで茶の間にカンヅメ――が続いている。合間に行事があって出かける。きょうもいい天気だ。朝8時には「神谷公民館まつり」の準備が待っている。
 木曜日(10月13日)に「健康いわき21推進市民大会」が開かれた。いろいろ資料をもらってきた。「やってみっぺよ、健康づくり」(いわき市健康づくり計画)の概要版をパラパラやったら、快適睡眠のために「朝目覚めたら日光を浴び、体内時計を整えよう」とあった。そうだった。生き物は外気にさらされて生きているのだ。

 草木が光合成をするように、人間も日光を浴びることで体内にビタミンDをつくると、なにかで読んだことがある。北欧の人々が寒くても晴れれば日光浴をするのは、冬に日中でも薄暗い極夜が続いて日光不足になっているからだろう。

 庭に出て、歯を磨きながら朝の光を浴びた。ん? 地上2.5メートルあたりに大きなクモがいる。ジョロウグモだ=写真。庭から道路へと車が出入りする真上に、生け垣のマサキの葉と葉、家の軒の角を結んで大きな網をかけた。庭を見渡すと、いるは、いるは。クモの巣が20近くある。クモの巣城だ。このところ車をあまり動かさない。その間に、車の屋根に糸をくっつけたクモもいる。

 庭木は茂るまま、離れの跡も草だらけ。虫にはいい環境だ。それを捕食するクモたちがそこかしこに網を張る。庭の手入れがなってないのは恥ずかしいが、できるだけ自然に近く――ということでいえば、そこはワンダーランドだ。夏は次々にセミが羽化し、ハグロトンボまで現れる。カナチョロが、トカゲが棲んでいる。モグラも出没する。アシナガバチが軒下に巣をつくる。

 孫が来て、庭に出ると、下の子が決まって「ハチは?」と聞く。「いない」、あるいは「あそこにいる」となって、やっと安心・注意して遊ぶ。夏に来たときには、「蚊に刺されたい」と言いだした。文明から野蛮にタイムスリップしたような物言いだ。で、蚊が目の前に現れると、すばやくパチリとやる。

 アウトドアは楽しいだけではない。危険な生物をいかにして避けるか。そのシミュレーションができる場所でもある。クモの巣だらけの庭を見たら、孫はなんというだろう。喜ぶか、まゆをしかめるか。

2016年10月15日土曜日

アルコール問題講演

 行政区の保健委員をしている。地域の健康づくりを推進するための、行政と住民のパイプ役だという。市が委嘱する。行政区役員が兼務してきたので、引き受けて5年がたつ。日常的に多いのはごみ問題だ。先日、「表彰します」という案内がきた。年数がくれば「ねぎらう」決まりになっている。ごみ問題はカラスと違反のエンドレス。それを少しでも支えようということなのだろう。
「健康いわき21推進市民大会」がおととい(10月13日)、いわき市総合保健福祉センターで開かれた。初めて参加した。各種表彰、大会宣言の決議のあと、特別講演が行われた。

 演題は「アルコールと心身、睡眠の問題」。福島医大「災害こころの医学講座」主任教授前田利治さんが講演した。どこかで見た顔と名前のような……。帰宅して朝刊(朝日)を開いたら、ご本人のインタビュー記事が載っていた。朝、見出しだけながめ、あとでじっくり読もうと思っていた記事だった。

 まず、インタビュー記事から。福島県内で避難指示が出た市町村に住んでいた21万人の健康調査を行っている。うつ病の可能性がある人の割合は全国平均より高いが、減る傾向にはある。「ただ、岩手、宮城では急減した震災関連自殺は、福島では依然として高く、累計で80人を超えました。アルコール摂取に問題を抱える男性も2割前後で横ばいが続いています」

「震災の年の関連自殺は宮城、岩手、福島の順に多く、津波の死者数に比例し、震災の直接的な影響と思われます。5年後も福島だけ突出して多いのは、原発事故の影響と考えざるをえません。(中略)当初は希望を抱いていた人が希望を失いつつあります。地域社会との断絶が自殺の根底にあるのかもしれません。(中略)我々の調査で、地域社会が持つ助け合い機能の低下が、人々の心の回復を妨げることもわかってきました」

 睡眠やアルコールの問題、生活習慣病にかかわる問題に注意しなければならない――というのを受けるかたちで、特別講演が行われた。

 アルコール量に合わせて自殺リスクも高くなる。アルコールを摂取すると体内温度は38度になる。脳は熱に弱い。脳は体重の2%しかないのに、エネルギーは20%近く消費する。健康を保つためにも節酒と睡眠が大切だという。「頭寒足熱」とはこのこと。
 
 酒の純アルコール量を量る単位を「ドリンク」(純アルコール10グラムを含むアルコール飲料=1ドリンク)というそうだ。通常、日本人の適量は一日に20グラム(2ドリンク)とされている。焼酎一合は純アルコール36グラムなので、「3.6ドリンク」。すると、私は……軽くそれを超える。もちろん個人差はある。「鉄の肝臓」に感謝している。
 
 ゆうべは4ドリンクくらいで早々と切り上げた。生活習慣病の「敵」ではなく、生活美風の「味方」の中身を知って、より長~く愛する気持ちが強まった。とはいえ、それは個人のレベルの話。地域社会の喪失、受け入れ側の受容と反発、孤独死などを頭においてアルコールと向き合わないといけない。

2016年10月14日金曜日

宅地販売チラシ

 いわき市泉ケ丘にあるギャラリーいわきからの帰り、坂道の歩道も歩道橋も下校を始めた泉北小生であふれていた=写真。10月7日金曜日、午後2時45分ごろ。足取りには休みを前にした軽やかさが感じられた。
 あの日も金曜日だった。午後2時46分、小学生が一斉下校をしているところに、最大震度7、いわきで6弱の巨大地震が襲った。歩道橋を歩いていた子は生きた心地がしなかっただろう。

 泉地区はJR泉駅を中心に、常磐線をはさんだ両側で区画整理事業が行われた。今も行われている。その結果、いわき市内でもめざましい人口急増地区になった。

 平成8(1996)年4月には、泉小から分離するかたちで泉北小が丘の一角に新設された。市教育ガイドブックによると、今年(2016年)の児童数は泉小923人、泉北小829人と、市内他地区の少学校より群を抜いて多い。常磐線の北側は「泉玉露」、南側は「泉町滝尻」。小学校も南側は泉小、北側は泉北小というふうに分けられているようだ。

 泉北小生の下校風景に遭遇して間もなく、泉町滝尻地内の宅地(保留地)2区画を販売するチラシが新聞に折り込まれた。「販売対象者はいわき市民」とあった。「いわき市民とは販売開始日にいわき市に住民登録がある方」だそうだ。相双地区から避難している人もいわき市民になっていればOK。施行者はいわき市。市民のための事業だから、そうなるのだろう。

 市都市建設部小名浜区画整理事務所で申し込みを受け付ける。物件は①約80坪・1179万円②約87坪・1405万円――の2件で、価格が高いのか安いのかはよくわからない。けさの新聞には、わが家から車で5分ほどのところにある草野地区の宅地販売チラシが折り込まれていた。約87坪・古家付きで2265万円だという。価格的には同レベルとみていいのだろうか。

 なにはともあれ、区画整理事業によって泉地区は一大ベッドタウンになった。事業区域外だがカミサン好みの店もできた。ギャラリーに足を運んだついでに別の店も――といった感じで滞留時間が長くなりつつある、

2016年10月13日木曜日

エンジンオイル

 車のエンジンオイルを定期的に交換している。目安の走行距離を記したシールが、ドアの付け根のボデーに張ってある。先日、息子が来て、「Tさんが『エンジンオイルを交換する時期ではないかな』っていってたよ」という。あとで走行メーターを確かめたら、目安の数字をはるかにオーバーしていた。
 Tさんはディーラーだ。この20年ほど、車に関してはなんでも彼に頼んでいる。その彼が最近、独立した。普通はそれでバイバイとなるが、彼とは違っていた。個人事業主になって、かえって相談しやすくなった。

 ディーラーが企業に属しても、ユーザーは企業と付き合っているわけではない。ディーラーとの信頼関係のなかで車を買い替え、車検やオイル交換などをしている。
 
 彼がしばらく留守をしたとき、整備工場に電話をしたら、「車を持ってきてください」といわれた。そのとき初めて、代車を用意してオイル交換をするのは彼独自のサービスだったと知った。なんというか、顧客と車のメンテナンスを第一に考えるプロの意識に感動したものだった。

 組織と個人ということでいえば、好きではない企業(組織)でもじかに向き合う人間が信頼できれば付き合うし、頼み・頼まれもする。新聞社と記者、出版社と編集者、役所と職員、ホテルと従業員……。要は、「看板」よりも「人」。

 看板を外したとき、それまで付き合っていた人間が離れた、ということはよくある。そうならないよう、夜の付き合いは「一市民」として、を心がけてきた。企業として付き合っていた人は、会社をやめると離れていった。と、まあ、Tさんの独立にかこつけて自分を振り返ってみたが、彼はたぶん自分の「看板」でやっていける。
 
 彼でないとだめだというユーザー(私もその一人だが)がいる。独立して最初に車を買ってくれたのが息子だったそうだ。で、そのとき、私の車のエンジンオイルの話になったのだろう。
 
 電話をすると、代車でやって来た。ほどなく帰ってきた車を見ると、乱雑な車内がきれいになっていた。一瞬、筋雲を遊ばせる青空=写真=のような気持ちになった。掃除機をかけてごみを取り、布でほこりを取ってくれたのがわかる。この気配りにユーザーはまいってしまう。暮れの車検も当然、彼に頼む。

2016年10月12日水曜日

ハクチョウの渡り

 この2、3日、急にこたつが恋しくなった。先週末の10月8日には、猪苗代湖にハクチョウが飛来した。コハクチョウ2羽、ほかにオオハクチョウ3羽を確認したそうだ(福島民報)。道理で。でも、コハクチョウより飛来が遅いオオハクチョウが同時に姿を見せるとは――。
 猪苗代湖に飛来すると、ほどなくいわき市の夏井川にもコハクチョウが現れる。街からの行き帰り、夏井川から目が離せなくなった。
 
 今までの記録をみると、夏井川には10月10~29日にハクチョウが飛来している。記事によれば、猪苗代湖への飛来は去年(2015年)より一週間ほど遅い(自分のブログでは5日遅れだが)。
 
 去年はそれから夏井川へやって来るまでに意外と時間がかかった。その時間差を当てはめると、2週間ほどあと、20日あたりか。ま、生きものの行動は予測がつかない。きょうかもしれないし、ずっとあとかもしれない。

 ハクチョウの越冬地は、いわきの夏井川では3カ所。平・中平窪、小川町・三島、そして一番下流の平・塩~中神谷地内だ。その塩の対岸、夏井川と合流する新川直下で細長い河畔林(竹林)の伐採作業が行われている=写真。面積はそんなにないから、ハクチョウが飛来するころにはきれいに払われていることだろう。

 一帯ではこれまで、両岸で「(夏井川筋)河川拡幅工事」と「(夏井川筋)広域基幹河川改修工事」が行われてきた。その延長にちがいない。

「台風や豪雨でも安全な川を整備する」のが工事の目的だが、野球場ができるくらいに広くなった河川敷は、今どうなっているか。岸辺にヤナギが密生し、かえって前より川幅が狭くなった感じを受ける。“川中島”も何カ所かできた。草が密生する、やがてヤナギが生えてくる――そうした自然のサイクルを実見できる格好のフィールドだ。

 それはまあおいて、北極圏で子育てを終えたハクチョウは秋、サハリン(樺太)~北海道~本州コースで南下する。
 
 今年8月初旬、サハリンを旅し、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖の岸辺に立った。南下・北上の途中でハクチョウたちが集結する。この湖を訪ねたおかげで、ツンドラ地帯から日本列島へと南下するハクチョウの渡りのコースをイメージできるようになった。サハリンは、地形的には日本列島の北端、だということも。

2016年10月11日火曜日

秋まきネギ

 現役のころは、日曜日は日曜日だった。連休も3連休も自分のためにあった。今は波がある。10月はほぼ週末、予定が入っている。この3連休(8~10日)はダブルヘッダーになった。
 土曜日=午後・いわき地域学會主催のいわき学検定立ち会い、夜・行政区の役員会。日曜日=朝・出羽神社祭礼、昼・アート集団展を見たあと、夏井川渓谷の隠居で三春ネギの種まき。月曜日=吉野せい賞関係の文章書き。午後・遅れて届いた「広報いわき」ほかの回覧資料振り分け・配布。

「三春ネギは毎年10月10日(前後)に種をまく」と、渓谷の住民に教わった。私の「体育の日」は「三春ネギの種をまく日」だった。ハッピーマンデー制度ができてからは、10月第二月曜日が体育の日になったので、三春ネギの種まきは10日に近い日曜日と決めている。いわき市内で魅力的なイベントがあっても、まずは街を離れて種まきだ。

 三春ネギは、その名からして田村地方から小野町を経由して夏井川渓谷の集落に伝わった。郡山市の「阿久津曲がりネギ」と親せきだろう(このネギも秋まき)。春に種をまくいわきの平地のネギとは種類が違う。

 田村地方では曲がりネギにする。そのネギを食べて育った。20年ほど前、集落の住民から苗をもらい、育て、種を採ったものの、3年ほど種の保存に失敗した。種は冷蔵庫で保存する、と知ってから、やっと自前で採種・播種ができるようになった。
 
 ふるさとの習慣に従って夏に掘り返し、「やとい」(斜め植え)をして曲がりネギにした。最近知ったことだが、集落ではそんなことはしない。定植したまま、まっすぐの一本ネギにする。曲げるかまっすぐにするか、まっすぐなら手抜きができる。年も取ったし――というわけで、今年はまっすぐのままにした。
 
 三春ネギは甘くてやわらかい。その味に再会してからは、白根が長くテカテカしている太ネギは夏場以外、ほとんど買わなくなった。

 渓谷の森が赤く染まり始めるころ、小野町の農業Nさんが、JR磐越東線江田駅近くの県道沿いで曲がりネギと長芋を直売する。何年か前、阿久津から苗を買って栽培しているという話を聞いた。やはり、甘くてやわらかい。
 
 おととい(10月9日)、いつもの場所にブルーシートを張って屋根にするためのパイプが組み立てられてあった。震災前は、週末、地元のおばさんたちも路地で野菜やキノコ、塩蔵フキなどを売っていたが、道端直売所は、今はNさんくらいになった。
 
 自分のブログで以前の種まきの様子を確かめたら、仕上げにもみ殻を敷き詰めている。苗床の乾燥防止と冬場の保温のためだ。物置にもみ殻が残っていたことを思い出す。ひまをみて車を飛ばし、種にもみがらのふとんをかけてやろう。

2016年10月10日月曜日

サカムカエ

 わが神谷(かべや)地区には、出羽と立鉾鹿島の二つの神社がある。地区内の行政区のひとつで役員をしているので、例大祭が近づくと招待状が届く。立鉾鹿島神社は初夏の5月、出羽神社は秋の10月に祭りが行われる。 
 きのう(10月9日)朝、出羽神社の例大祭に臨席した。神社は急な石段を何段ものぼった小山(羽黒山)の頂上にある。息を切らして境内に立つと、旧知の長寿会長からほめられた。まだ石段をのぼってこられる体力がある――耐久レースでゴールする選手のような迎え方だった。
 
 拝殿での神事のあと、社務所で直会(なおらい)が行われた。途中で抜け、ふもとで神輿が下りてくるのを待つ。と、担ぎ手の青年氏子だけが石段を下りてきた。神輿は軽トラで、別の道を下ったという。雨上がりで石段が濡れている。神輿を担いだまま下りると、滑ったときにオオゴトになる、という判断があったのだろう。
 
 神輿渡御は神社によって特徴がある。立鉾鹿島の場合は、神輿が境内そばの常磐線を渡る。明治時代、参道を横断して常磐線が敷設された。祭りの日だけは旧参道が復活する。出羽の神輿は稲穂が垂れる田園地帯を練り歩き、さらに夏井川で担ぎ手がみそぎをする。
 
 交通誘導係の総代の一人が「ここで最初のサカムカエをします」。教えられたところは、平六小そばの、元診療所の建物を利用してオープンした「スープカフェあかり」だ。診療所の主は「やけど医者」として有名だった。別の誘導係が「3歳のとき、やけどしてここに来た。母親が先生に怒られた」という。
 
 いったん南の道路に出た神輿が回って来た。「あかり」の庭に神輿が鎮座する=写真。店のオーナーがうながされて神輿の前に立つ。同じようにお札を頼んだ近所の氏子も並ぶ。こうして何カ所かで神輿が鎮座し、お札を配るサカムカエが行われるのだろう。
 
 神事の間、担ぎ手が「スープが……」どうの、「診療所が……」どうのといった話をしている。山すそに沿って伸びる小集落の一角にできたスープの店に興味津々、といった風だった。
 
 サカムカエを見るのは初めてだった。「あかり」の経営者も街のなかから店を移転・再開して初めて迎える“村祭り”だ。お札をもらう当事者としてハレの日に加わり、いい経験をしたにちがいない。

2016年10月9日日曜日

第2回いわき学検定

「いわき学博士号」の取得をめざそう――いわき地域学會の第2回いわき学検定がきのう(10月8日)、いわき市生涯学習プラザで行われた=写真。42人が申し込み、38人が一次試験に挑んだ。石川県からの受検者もいた。
 初回の去年(2015年)は65人ほどから申し込みがあり、約50人が90分・100問に挑戦した。難問が多かったので、できるだけ多く上位の成績者がニ次試験に進めるようにした。その経験から、今年の問題は少しやさしいものにした、と担当者。

 歴史分野は正解が多かったという。しかし、統計ものには苦労したらしい。「平成27(2015)年10月1日現在、川前地区の人口は?」「いわき市の面積は平成25(2013)年10月1日時点で、全国の市のなかで第何位か?」などで、このへんは受検者でなくてもヤマカン頼りになる。

 地名の問題もあった。「いわきに『森戸』という地名があるが、何と読むのか?」。「もんじょ」だそうだ。あとでネットで検索したら、わが家から見える丘の陰、平上片寄地区の一部ではないか。灯台下暗し、だ。

「いわき学検定」の狙いは「学ぶ・わかる・楽しむ」体験を通じて、「わがまち・いわき」の魅力を知り、まちづくりや観光に生かしてもらうことだ。去年誕生した「いわき学博士」4人は、生涯学習や観光の推進・支援者だった。

 街なかを舞台に、美術展その他のイベントにかかわっている知り合いの若者が受検した。いわきの新しい文化ををつくる――いわきを舞台に若者が新芸術祭を展開している。いわきの昔話や歴史に材を取った「市街劇」もある。そういう催しこそ、「いわき学」を踏まえて遊ぶ、といった姿勢が大切になる。

 解答用紙と引き換えに答えの紙を渡した。すぐ自己採点ができる。去年も受検した知り合いの若者に聴くと、結構いい点数だった。10月29日には二次試験が行われる。

2016年10月8日土曜日

草野ホール“同窓”

 10月11日まで、いわき市泉ケ丘のギャラリーいわきで「スペインの光と風 阿部幸洋新作展」が開かれている。2日目のきのう(10月7日)午後、出かけた。
 阿部(という言い方を許していただきたい)とはざっと45年前、彼がいわき市平の草野美術ホールで2回目の個展を開いたとき、取材で知り合った。私は23歳、阿部は20歳だった。やがて結婚し、スペインへ渡ってラ・マンチャ地方の村に住み、奥さんが亡くなったあともひとり、そこで絵を描き続けている。

 個展のたびに新しい試みをする。今回も壺を主体にした幻想的な作品に引き寄せられた=写真中央。
 
 先客の応対に忙しい本人とは「おー」「ああ」で終わり、あとは旧知の人間と草野美術ホールの話になった。
 
 10月23日に平のアートスペースエリコーナで、「いわきの現代美術の系譜」と題したシンポジウムが開かれる。<いわきまちなかアートフェスティバル玄玄天>の一環で、6人が登壇する。
 
 ギャラリーにも主催者が告知のチラシを届けたらしく、「講演するんだって?」と知り合いがいうので、「シンポジウムだよ、その一人として話すだけだよ」と返したあたりから、一気に「いわきの現代美術のルーツ」である元草野美術ホールにタイムスリップした。同ホールに出入りしていた後輩の奥方も話に加わった。
 
 同ホールがいわきの美術界に果たした役割・意義の大きさはいうまでもない。同ホールを母体に生まれたものの一つが「いわき市民ギャラリー」といってもよい。

 シンポジウム告知のチラシには「市民が自主的に参集し、自らの手で作品を選び、企画運営する『ハイレベルの美術展』」を目指すと宣言した「市民ギャラリー」はその後、その宣言通りに、ヘンリー・ムーア、ロダン、クリムトなどの現代美術の展覧会を成功させていく。その熱は行政も動かして、市立美術館の建設に結実した――とある。

 と同時に、と思う。ホール経営者の「おっちゃん」は“避難港の灯台守”のようだった。当時、高校生だった奥方がいう。本人のことかどうかはわからない。「学校へ行きたくないのでホールに寄った。『海を見たい』というと、バス代を出してくれた」。別の女性も、先日、こんなことをいっていた。「草野ホールの事務所は心療内科のようだったね」。おっちゃんに救われ、励まされた人間がいっぱいいる。そんなことも話そうと思う。

2016年10月7日金曜日

サケの帰還

 いわき市平中神谷(対岸は平山崎)地内の夏井川――。例年だと、9月中旬にはサケの簗(やな)ができる。今年(2016年)は遅れること半月、やっと対岸に鉄柵の生簀(いけす)が組み立てられた=写真。こちら・中神谷の河川敷には鉄製の簗を支えるドラム缶。(堤防を通ったのは4日前だから、もう簗はできただろうか)=きょう(10月7日)朝見たら、そのままだった。 
 夏井川では、東日本大震災とそれに伴う原発事故後も、鮭増殖組合が採捕・採卵・ふ化・放流事業を続けている。県のデータによれば、同川の採捕尾数は平成24年度2707匹、以後、3048匹、2764匹と続き、昨27年度は2971匹だった。

 春に放流された稚魚はおおむね4年後、北洋からふるさとの川へ戻る。今、夏井川を遡上するサケは震災後に放流されたものだ。

 原発事故が起きる前には、簗場のそばにテントが立ち、「夏井川の鮭」ののぼりがはためいていた。テントの柱には「サケ売ります メス一尾1500円」の張り紙。ずいぶん前の記憶だが、河口部でもサケを売っていたことがある。

 いわき市の北、双葉郡楢葉町の木戸川では昨年、震災で中断されていたサケ漁が再開し、一本釣りも2日間だけ試験的に復活した。同川のサケ増殖事業は、夏井川の比ではない。採捕尾数は平成21年度8万5千弱、22年度3万8千弱と際立って多い。一本釣りはサケの有効利用調査という名目で、一日40人限定で1カ月間実施されていた。

 8月初旬、ロシアのサハリン(樺太)を旅した。日本語ガイドの勧めもあって、仲間が川でカラフトマスの一本釣りを体験した。マス釣りの楽しみは大物を釣り上げる豪快さにあることを実感した。

 カラフトマスは体長50センチ前後。日本の川に帰ってくるシロザケは70~80センチと、はるかに大きい。木戸川の一本釣りが人気を集めるのは、この大型魚の引きの強さだろう。サハリンへ行かなくても、楢葉でサケの一本釣りができる――門外漢にもようやく、そのくらいのことはわかるようになった。

 秋が少しずつ深まっている。とはいえ、10月に入って真夏日を記録した。こうした気象変動の影響でサケの南下・遡上が遅れ、簗場づくりも遅くなった?ということはあるまいが。間もなく簗場の上流にハクチョウが飛来する。神谷の夏井川がいのちで満ちる時期だ。

2016年10月6日木曜日

「毒キノコに注意」

 きのう(10月5日)は、朝刊(福島民報)を読んで驚き、夕刊(いわき民報)=写真=を読んでまた驚いた。
 いわき市内の女性(77)が毒キノコを食べておう吐し、救急車で病院へ運ばれた(朝刊)。いわき市議会の正副議長を第一会派が独占した(夕刊)。議会人事は別に驚くことではないかもしれないが、事前の朝刊報道とは違っていたので。

 食中毒を起こしたキノコはクサウラベニタケだ。自分のブログを確かめたら、6年前にも同じキノコで食中毒事故がおきている。いわき市の隣村の道の駅で買った「山キノコ」を食べて、いわきの女性2人が吐き気と下痢をおこした、命に別条はない軽毒だが、店で売られていたこと自体が問題だ。今回は知人からもらったものを食べたのだという。

 キノコと向き合うときには、いつも「生兵法は大けがのもと」と言い聞かせる。2008年のことだが、ウラベニホテイシメジを3本採った(つもりだった)。炊き込みご飯にするとうまい。わが家に帰ってじっくり見たら、1本がどうもおかしい。傘にクレーターもかすり模様もない。クサウラベニタケだった。それほどよく似ている。同じ場所に出る。
 
 原発事故後は、いわき市でも野生キノコの摂取・出荷制限が続いている。いくら年寄りだからといって、毒キノコを誤食することはないだろうと思いながらも、食べたい気持ちは募る。農作物にはよろしくなくてもキノコにはいい気象状況が続いている。森のあそこにここに、あのキノコが――郊外を行くたびに食菌が思い浮かぶ。
 
 もう一つの驚き――。9月11日に市議選の投開票が行われ、37人の新市議が誕生した。37番目と次点の票差は1票で、次点氏は当然、再点検の申し立てをした。結果はミスがあったものの、票差は2票に拡大した。それとは別に、会派構成がかたまり、きのう、正副議長を決める臨時会が開かれた。
 
 このところ、市長選は事実上、保守による一騎打ちが続いている。その影響を受けてか、市議会の保守会派が割れ、飛びぬけて大きい会派がなくなった。事前の報道では、議長は最大会派から、副議長は第二会派から――で話がついていたはずだった。なにがあったのか。
 
 けさの新聞の“言い訳記事”には、複数の会派がその後の調整で第一会派に転じた、とあった。市民の反発が強かったか。

 話は変わって、西の方の議会では政務活動費の着服が問題になっている。「政活費」をだましとって「生活費」に使っていた。わがいわき市議会はチェックが厳しいはずだから、そんな毒キノコのような議員はいない。

2016年10月5日水曜日

10月なのに真夏日

 10月なのに真夏日とは! 8月下旬からぐずついた天気が続いている。きのう(10月4日)も夜明けは曇りだった。農作物にいいとされる「五風十雨」(五日目ごとに風が吹き、十日目ごとに雨が降る意)はもう過去のもの――うんざりしながら新聞を取り込む。 
 しばらくすると外が明るくなってきた。晴れている。7時なのに空気が温かい。茶の間と玄関のガラス戸を開ける。ついでに車内の熱気を逃がすために車の窓を開けようとしたら、おやおや、朝露をかぶった屋根にアシナガバチが1匹へばりついている=写真。生あったかさに誘われて動き出したのはいいが、まだ十分体が温まっていないのだろう。
 
 たぶんしばらく動かない。デジカメを持ち出し、20センチほどの距離から接写した。それから少したって、体を動かし始めたと思ったら飛び去った。ハチの方がカメラを向けられて怖かったのではないか。
 
 9月後半から長袖にしたり、半袖にしたりする日が続いている。きのうはためらいなく半袖に手が伸びた。午前中は茶の間で仕事をし、午後は会津からやって来た後輩とラトブでコーヒーを飲んでから、一緒に文化関係の会議に出た。部屋のエアコンが効いていた。
 
 帰宅して、テレビをつけたら、小名浜で最高気温が31.5度だったことを知る。驚いた。実は前日の晩、「昔野菜」関係の集まりがあって、会議前に旧知の生産者と雑談した。この秋の野菜は日照不足でできがよくない。人間もそうだが、農作物には日照が一番、という話になったばかり。
 
 こういうときには、数字で実際の動きを見るに限る。福島地方気象台のホームページで小名浜の気象データを確かめた。きのうの気温は昼前の午前10時50分にピークを迎えた。10月としては観測史上最高で、東北・北海道では小名浜が最も暑かった。
 
 ついでに、本降りはむろん少しでも雨量を記録した日を数える。8月後半から9月末までで28日間に及んだ。これでは、「秋の長雨」というより「雨季」ではないか? きょうはまた曇りで夜遅くには雨になる。台風18号も日本海上を東進してくる。

2016年10月4日火曜日

托鉢姿に元気をもらって

 朝8時前、車でいわき市平の中神谷から下平窪へと中塩地内の田んぼ道を通った。「あっ、きょうは月初めの日曜日だったな」。網代(あじろ)笠をかぶり、墨染の法衣をまとった坊さんがこちらへ向かって歩いて来る=写真=のを見て、反射的に思った。
 中塩の山すそ、農業用水路の小川江筋沿いに禅寺がある。毎月最初の日曜日早朝、住職が近隣を托鉢して回る。檀家などから寄せられた布施を、社会福祉などに寄付している。私が現役のころ、定期的に住職が職場(新聞社)へ浄財を持参した。

 日曜日の早朝に車を走らせるのは夏井川渓谷の隠居へ行くためだ。去年(2015年)5月最初の日曜日にも、住職が托鉢へ出かけるところに遭遇した。道の先の民家の庭にはお年寄りが立って住職を待っていた。

 同じ月初めでも、10月は年度の折り返し時期。何かと気ぜわしい。行政区関係だけでも市に届ける書類の作成、保健衛生関係の負担金の手配などがある。加えて、公民館の後期市民講座が始まる。安請け合いをしてしゃべる場所を増やしたために、9月後半以降、毎日、レジュメづくりに追われている。

 そこへ今年(2016年)は、いわき市が誕生して50年の節目の年だ。“誕生日”の10月1日を中心に、さまざまなイベントが展開された。実行委員としてかかわった「いわきを繋ぐプロジェクションマッピング」が1日夜、いわき駅前で実施された。
 
 1日は朝、近くの公民館で清掃作業が行われた。それをすっかり忘れていた。というより、前日、臨時に届いた回覧資料を加えて、住民に配る行政資料の振り分け・配布をすませると、すぐレジュメづくりを再開した。「すっぽかし」に気づいたのは夕方だった。10月の声を聞いたとたん、どっと「締め切り」が迫ってきた。そちらに引っ張られて、余裕がなくなっていた。

 2日の日曜日には夏井川渓谷の隠居でやることがある。三春ネギの種まきは、渓谷の住民のアドバイスに従って10月10日ごろと決めている。そのためにはあらかじめ苗床をつくっておかないといけない。10月最初の日曜日を逃したら、種まきが遅れる。

 前日の「清掃すっぽかし」が尾を引いて、欝々しながら車を運転していると、托鉢姿の住職を見て元気が出た。できないことをしようとするからほころびがおきる、できることをするだけ。自分で決めた務めを粛々とこなす人に刺激されて、せめて三春ネギは種を切らさずに「自産自消」を続けようと、自分に言い聞かせた。

2016年10月3日月曜日

谷間のアレチウリ

 この時期、夏井川の堤防や郊外の農道を通るたびにチェックするものがある。というより、目に飛び込んでくるので、ゆっくり車を動かしながら、ここにもあそこにもと「アレチウリマップ」を頭の中に描く。その一つ(これは歩いて気づいた)――。
 夏井川渓谷の小集落・牛小川に“更地”がいくつかある。わが隠居の東隣、「錦展望台」がそうだ。家があった。西隣の東北電力空き地は社宅跡だ。そこから1軒おいたところにも廃屋があった。その隣は一段下がって公衆トイレがあったような……。

 錦展望台も電力空き地も、所有者が草を刈る。わが隠居の庭も年に2回は人に頼んで草を刈る。きのう(10月2日)、隠居で土いじりをしたあと、近所へ用があって出かけたら……。電力空き地はきれいに草が刈られていた。トイレ跡は、アレチウリが土手まで覆い、道路をうかがう勢いだった=写真。

 7年前の2009年秋、牛小川で初めてアレチウリに気づいた。隠居の対岸のやぶをアレチウリの葉が覆い、つるがそばの2本の高木まで伸びていた。長い柄のついた小鎌で根元からつるを刈り払った。そのあと、気になって集落を巡ったら、廃屋と公衆トイレ跡の間にアレチウリが葉を広げていた。きのうアレチウリを見たところと同じ場所だ。まだ草刈りをしているようだからその程度ですんでいるのかもしれない。

 アレチウリはおびただしい数の種をつける。こぼれた種を鳥が食べて、よそでフンをする。大水が上流から下流へと種を流す。それで一気にアレチウリが広がる。ヨシ原をアレチウリが覆うのを見たことはないが、ヨシ原のそばの木がアレチウリで覆われている姿を見かける。そうなると、木は光合成ができないから弱って枯れる。
 
 外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)で規制されている侵略的な植物だ。花が咲けば実がなるから、種をつけさせないためには花を咲かせないことだ。アレチウリを見つけたら引っこ抜く・刈り払う――つまり「広げない」を一人ひとりが意識して実践しないと、あっという間に広がる。
 
 草刈りは、農・山村の景観を守るための基本作業だが、侵略的な植物を防ぐ効果もある。これを続けていれば、ひとまず拡大は抑えられる。

2016年10月2日日曜日

続「額の中の小さな宇宙」展

 きのう(10月1日)の続き――。「額の中の小さな宇宙」展には、川内村に窯をもつ土志工房の志賀敏広・志津さん夫妻の作品と、高校時代の恩師やアート仲間の年賀状・書・写真・その他が展示されている。敏広さんが地元産のがっしりした板材で額をつくった。額を見せる展示会でもある。
 それぞれのコーナーにコメントが記されている。一部を紹介する。高校の元美術教師「3・11の津波/海岸線にあった崖っぷちは崩れ/その脇にあった幽玄さを包んだ林は跡形も無い/原発事故/山に放射線はぶつかり麓で計器音がケタタマしい/足繁く通った海も山辺も近寄れない/もう、八十も過ぎた、車で遠乗りムリ/近間の雑木林でネタを見つけるしかない/新芽、雑草、枯葉、野の花」

 画人「浪江町生まれ。/高校の頃から陶仏作りと墨彩画を描くことを始めました。/震災の時猪苗代町に避難し、そのまま定住しました。/(略)絵も陶仏も、仕事として描いたり作ったりしているわけではありません。/ただ気ままに楽しんでいます」

 写真家(敏広さんのコメントらしい)「震災前の飯舘村の暮らしの写真展を全国各地で開催し、反響を呼んでいる。自身も浪江町で原発事故の被災者となりながらも福島の現状を撮り続けている」

 ある日突然、家を、ふるさとを追われ、家族や友人・知人たちとも離れ離れになる。浪江町では2万人超が県内外に避難し、そのまま5年半が過ぎた(受け入れ自治体の一つ、いわき市で暮らす双葉郡からの避難民は2万3000人弱に及ぶ)。

 拠って立つコミュニティなしには、人は生きられない。かといって、新たにコミュニティを築くにも、受け入れコミュニティのなかで再出発を図るにも、覚悟とエネルギーがいる。「土志工房の仲間たちのハガキ絵と書とオリジナル額展」は、いったんばらばらになった「土志工房コミュニティ」の再生という意味合いもあるのだろう。12人が協力した。

 2人は旧知の人だった。1人は川内村の前教育長石井芳信さん。いわき地域学會が『川内村史』の編集を引き受けたとき、村側の責任者だった。

 もう1人は谷平芳樹さん。いわきの広告業界では知られた存在だった。去年(2015年)5月、80歳で亡くなった。今回初めて、浪江町出身だったことを知る。私も谷平さんもあまりはやらないスナックの常連で、たいがい客がいないときに顔を合わせた。すると、ぼそぼそ言葉を交わしながら飲み続ける。そんな関係が何年も続いた。

 敏広さんは谷平さんから届く多色刷り版画の年賀状を高く評価している。それだけで「額の中の小さな宇宙」展を開いてもよかったのだが、ともいう。確かに、版画なのに色に深みがあって温かい=写真。奥さんの文章にこうあった。「いわきの風土を愛し、スケッチブックを片手に、のんびりと歩いていた(略)」。熊のように大きく優しい人の姿が思い浮かぶ。

2016年10月1日土曜日

「額の中の小さな宇宙」展

 東日本大震災で津波と火災に見舞われたいわき市久之浜町の市街は、ほかの沿岸部と同様、重機が入って大改造中だ=写真。海岸堤防はすでにかさ上げされた。そばには防災緑地がもうけられ、背後では土地区画整理事業が進められている。大久川河口の蔭磯橋も、少し上流に高くなって架け替えられる。
 橋を渡ってすぐ、殿上(とのがみ)崎へと続く丘の中腹・翠涛荘(立127-1番地)で、10月3日まで「額の中の小さな宇宙」展と題した展覧会が開かれている。川内村の土志工房、志賀敏広・志津さん夫妻が主催した。初日のきのう(9月30日)夕方、夫婦で訪ねた。
 
「きょうは客が来ない」と思っていたら、やっと来た、私ら夫婦が2人目、3人目だという。広い庭から太平洋と久之浜の町、阿武隈の山並みが一望できる。庭には敏広さんが作った木のテーブル。青空の下で海を眺め、コーヒーをいただきながら、雑談した。
 
 敏広さんは浪江町生まれで、私とは同年齢だ。カミサンが、川内に移り住んだ陶芸家夫妻がいるという話を聞きこんで、父親の命日に田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家へ焼香に行った帰り、立ち寄った。以来、四半世紀、ゆるゆると付き合いが続いている。

 2年前の6月にも大学生の娘さんと3人で、同所で陶器展を開いている。娘さんは生まれたと思ったら、すぐ小学生になり、中学生になり、高校から大学へと進んで、両親と同じ世界に入った――夫妻にとってはうれしい「家族3人展」だったにちがいない。

 今回の展示会は、自作ももちろん出品しているが、浪江町の人たちとの“共同展”という意味合いが濃い。5月にも大型連休を利用して、川内村で開催した。
 
 浪江町は原発事故による全町避難が今も続く。敏広さんが行き来していた先生や知り合いもばらばらに避難し、今もばらばらのままだ。「この5年間を振り返る旅のような展示会をしたい」。そのために敏広さんはそれぞれの避難先を訪ね回ったという。
 
 作品展示協力者のなかに知り合いが2人いた。1人は川内村の前教育長氏、もう1人は平の飲み屋で一緒だった谷平芳樹さん(そのころ、いわきのアドプラン取締役・いわき短大講師だった)。谷平さんの作品は、敏広さんが受け取った多色刷り版画の年賀状で、敏広さんが地元産の板で額装した。

陶芸家であると同時に、工芸家でもある敏広さんの本領を発揮した展示会だ。お近くの方はぜひ。(続く)