2023年8月31日木曜日

ときどき「帰る」本

                      
 ときどき「帰る」本がある。『地底の青春 女あと山の記』(筑摩書房、1979年)。著者は真尾悦子(1919~2013年)さんで、いわき地方の炭鉱で「女あと山」(地底から石炭を運び出す女性労働者)として生きた女性の一代記だ。

真尾さんの「いわき物」の1冊で、好間の元炭鉱住宅に住む知人の家で出合った女性、「藤沢マキさん」が「女あと山」だったと知り、首都圏から通って彼女の話を聴き続けた。

 この本に「帰る」理由は二つ。一つは、マキさんが語る濃密ないわき弁に触れること。もう一つは、晩年、私を「いわきの息子」として接してくれた著者の心を推し量ること。これに尽きる。

 真尾さんは戦後の一時期、夫と2人の子供とともに、縁もゆかりもない平市(現いわき市平)で暮らした。

 もともとは編集者(夫)、文芸誌同人(真尾さん)として、文学の世界に身を置いていた。戦後の混乱期、食うためには家を探し、仕事を見つけないといけなかった。それでたどりついたのが平市だった。

 平市時代には「氾濫社」をおこし、印刷・編集事業を手がけた。その体験をつづった『たった二人の工場から』が大評判になった。やがて一家は帰京し、夫は出版社に勤め、真尾さんはノンフィクション作家として取材・執筆活動を続けた。

 本の真ん中あたり、「第2章 地底の青春」を読み進めているうちに衝撃的な場面に出合った。マキさんが家族とともに内郷の炭住に住んでいた昭和2(1927)年3月27日、町田立坑で火災事故が起き、134人が死亡する。

 「日曜日だったのよ。公休日も日曜もなしに一生けんめい稼いだ人らがやられたんだ」と、マキさんは当時を振り返る。

「立坑の底で火が出たんだから、早く始末しねえと拡がっちまうべ。ある程度、人間のいのち犠牲にしても、会社の損害を少なくしなければなンね、炭鉱は潰さンね、てそういう考えしたんでねえけ? まあ、いえば、会社はその立坑にフタをして火イ消す算段したのよ。下で働いてた人らは、出口ふさがれたんだもの、どうにもなんねえ」

いわき市立図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。明治以降、いわき地方で発行された新聞がデジタル化されて収められている。

昭和2年3月29日付の磐城時報(前日28日に夕刊として配達された)=写真=を例にとると、こんな具合だった。

1面トップに見出し4本が並ぶ。「磐城町田坑内焼け/140名即死/死体79名は発見/本邦炭礦界空前の大悲惨事」

犠牲者は「179名」とか「137名全部は遂に惨死」とか、情報が錯綜していて定かではない。

ただ、斜坑の上部を厚さ3尺のコンクリートで密閉した、といった記述と、マキさんが語った話が重なる。

そのころ、マキさんには思いを寄せていた鉱員がいた。彼は結局、別の女性と結婚し、やがてブラジルへ渡航する。

彼の父親はこの坑内火災の犠牲者の一人だった。本と当時の新聞記事を接続すると、マキさんの「地底の青春」とは切り離せない大事故だったことがわかる。

2023年8月30日水曜日

梨のシャーベット

                     
 8月最初の日曜日だったか、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、平地の小川町下小川地内の国道399号(兼県道小野四倉線)を通ると、道沿いの農家の門口に梨の「幸水」を販売しているという札が立っていた。

 「おっ、もう梨の季節になったか」。「いわき梨」の出荷は、覚えている限り8月後半だ。早い直売の理由は想像がつく。好天だ。

梅雨を含めて雨が少ないと、実は小ぶりだが糖度は増す。今年(2023年)は雨が少なかったうえに、春先も、夏も気温が高く推移した。当然、8月上旬に梨の直売が始まっても驚かない。

梨生産農家だった作家吉野せいの短編集『洟をたらした神』の注釈づくりをしているうちに、自然といわき梨への興味・関心が深まった。

ちょうどそのころ、拙ブログのパソコン画面のわきに表示される「人気のある投稿」欄のトップに、突然、2021年9月21日付「梨のコイン自販機」が登場した。

新聞でいうと2年前は「過去の記事」だが、ネットでは「知りたい情報」が「新しい情報」になる。時間の古さ・新しさは関係がない。アナログとデジタルの違いだ。

おそらく「いわき、梨、出荷(あるいは直売)」といったキーワードで検索する人が増えて、拙ブログにたどり着いたのだろう。そのブログの中身は次のようなものだった(要約)。

――夏井川渓谷の隠居へ行くのに、上平窪(平)の坂を越えて下小川(小川町)に下ると、道路沿いに農家の庭先直売所がある。近年はその先、同じ道路沿いの関場に梨のコイン販売機がお目見えした。

庭先直売所はたまに利用する。コイン販売機はまだだ。隠居で土いじりをした帰り、初めて販売機から梨を買うことにした。

ちょうど午後3時ごろだった。いつもその時間に補充するのかどうか、奥の家から若い女性が袋詰めの梨を運んできた。

カミサンが販売機からではなく、直接、女性から梨を買った。今は「豊水」が出回っている。4個で300円だった。名前の通り、水分がたっぷり含まれていた。(このあと、吉野せいと梨の関係について書いているのだが、ここでは省略する)――。

今年(2023年)も先日、いわき梨の共同出荷が始まった。報道によると、雨が少なくて気温が高めに推移したため、開花が早まり、小粒ながら甘い梨ができた。例年より10日ほど出荷が早かったという。

するとほどなく、知人から「幸水」1箱をいただいた。さっそく食卓に上った。さっぱりしたみずみずしさだ。昔は「長十郎」が主流だった記憶があるが、今は「幸水」、そして「豊水」、そのあと「涼豊」「新高」と続く。

 カミサンが皮をむき、細かく割ったのを冷たくしようと、ちょっと冷凍庫に置いたら、表面が凍っていた=写真。

 これを口にするとひんやりしていて、シャリシャリする。「梨のシャーベット」だ。この厳しい残暑の中、こういう食べ方もありだなと思った。以来、カミサンに頼んで、ときどき梨のシャーベットを食べている。

2023年8月29日火曜日

窓辺のアサガオ

                       
 早く寝ても遅く起きる子どもと違って、ジイ・バアは早く寝ると早く起きてしまう。起きて寝室の窓を開けると、フェンスに絡まったアサガオの花が目に入る=写真。その一瞬だけ、爽快な気分になる。

 この夏は異常な暑さが続く。8月8日の立秋のあとも変わらない。海水表面温度が高いため、小名浜でさえ日中の気温が30度を超え、最低気温が25度以上の熱帯夜になる日が続いている。

 ハマがそうなのだから、5キロ内陸のわが家はそれ以上に熱せられる。国連事務総長が7月の世界の気温に触れて、「地球温暖化」を越えて「地球沸騰化」の時代が到来したと警告した。それに続く8月の暑さは、確かに「沸騰化」が比喩ではないことを思わせる。

 室温が30度を割って28度台にとどまっていた日がある。その日の心身状態が安定していたことが「目安」になる。28度台だと、普通に物事を考えられる。考えを文字化できる。つまり、当たり前に読んだり、書いたりできる。

イギリスの詩人T・S・エリオットに「4月は残酷な月だ」という詩句がある。それにならって、月単位で「残酷な月」を振り返ったことがある。

年度末の3月はだいたいそうだ。特に去年(2022年)はコロナ禍、2月に始まったロシアのウクライナ侵攻、3・11、福島県沖を震源とする地震、行政区の年度末の事務や会議、そして検査通院が続いて、精神的にも余裕がなかった。

 「残酷な月」より「散々な月」もあった。2016年の7月。メガネのつるが壊れた(フレームを交換)。魔法瓶が壊れた(ヤカンで代用)。ファクスが機能しなくなった(メールでやりとり)。テレビの画面がおかしくなった(いよいよ症状が悪化、買い替えた)。不具合が次々に発生した。

それに輪をかけたのがドロボウだった。店(米屋)の一角にカミサンが運営する地域文庫がある。おばさんたちの茶飲み場でもある。フェアトレード商品も展示・販売している。

ある日の早朝、カミサンが見ると文庫の様子がおかしい。東側の出窓の外に、中に置いてあった茶わん入りのかごなどが置いてある。フェアトレード商品の売上金約5万円もなくなっている。

 米も、レジも無事。荒らされたのは文庫だけ。レジは寝室のわきにある。いつも電気スタンドをつけっぱなしにして寝てしまうので、真夜中でもうっすらレジの方に明かりがもれている。レジへ近づく度胸はなかったらしい。

確かにこの年の7月は散々だった。その年の大みそかにドロボウは好間でコトに及び、逮捕された――そんな知らせが年明け後、警察から届いた。

 今年(2023年)は、冒頭に書いたように残酷なほど暑い夏になった。8月は特にそうだった。中~下旬のおよそ2週間余り、一日に2~3本、集中して何万字もの文章と向き合った。やっとその「縛り」から解放された

2023年8月28日月曜日

スペインからの客人

 夜には茶の間の明かりに向かって飛び込んで来る。朝には玄関のたたきで息絶えているものもいる=写真。ミンミンゼミだ。

異常な暑さが続く。セミの鳴き声がいっそう暑さをかきたてる。そんな危険な暑さの日本に、スペインから旧知のダニエルがやって来た。

 ダニエルはスペイン在住の画家阿部幸洋(いわき出身)の亡妻すみえちゃんがかわいがっていた近所の男の子だ。といっても、もう30代半ばになる。

 すみえちゃんを介して日本語と日本の文化に興味を持ち、今はスペインのUCLM(カスティーリャ=ラ・マンチャ大学)で日本の歴史を教えている。

夏休みになると、日本研究のために来日する。コロナ禍の前の2019年、阿部を介していわきでの「民泊」を引き受けた。

いわきへ来る日や滞在日数などは、本人からメールで連絡がきた。4年前、初めて顔を合わせたときの様子を拙ブログから振り返る。

――8月15日朝、札幌から移動し、いわき駅には夜の7時過ぎに着く、というメールが入る。駅前からタクシーで来るよう、手順を説明し、「あとは電話で」と念を押したが、ケータイは鳴らなかった。

7時半を過ぎてメールをチェックすると、「いわきに着いた。草野駅に行きます」。不意を突かれた。まだアルコールを口にしていなかったので、すぐ草野駅へ車を走らせたが、駅には車も人もいない。

「外国人が降りなかったか」。駅員に尋ねると、「降りた、男と女」。それらしい歩行者を探しながら、ゆっくり戻ると、神谷マルト店の手前で、大きなトランクをガラガラ引いて進む2人が目に入った。連れは妻のラサレットだった――。

今回、コロナ禍を経て4年ぶりに来日した。阿部がいわきで個展を開いたときに話があり、あとで本人からメールが入った。

期間は8月22~25日の3泊4日だ。22日に「夜8時半にいわきに着きます」。メールがきて、また4年前と同じドタバタ劇を繰り返した。

今回も晩酌を控えていた。メールをやりとりし、いわき駅のコインロッカー前にいることがわかったので、夫婦で迎えに行く。

その日は前に泊まった、わが家の向かいの故義伯父宅に案内して終わり、翌日夜、歓迎の小宴を開いたのだが……。街から戻ってきたのは7時半だった。

タクシーには乗らずに、とにかく歩く。それに、向こうとこちらでは夕食の時間感覚が異なっている。

わが家ではリタイア以来、6時前には晩酌を始める。ところが、スペインでは10時ごろから、たまたま別の日本人宅に泊まった際、7時半ごろから夕食になったので、日本ではそのころが普通だと思ったという。

違いを忘れていた。彼が戻ったころには睡魔が降りてきた。それでも、8月初めに来日したこと、アイヌに興味があること、学生も日本国内を旅していることなどがわかった。

いわきを離れる前日夕には、学生たちが草野駅経由で故義伯父宅に合流した。学生たちはその晩、街に泊まった。

   夕方、街へ行くとき、わが家へあいさつに来た。「歩いていく」と聞いて、彼らスペイン人の健脚に、半分あきれながらも感心した。 

2023年8月26日土曜日

老いの独り暮らし

                      
 月遅れ盆に田村市常葉町の実家へ出かけた。義姉(兄の妻)が去年(2022年)の暮れに亡くなった。実家に直行すると誰もいない。町のはずれの葬祭場が新盆会場だった。そのことに半ば戸惑ったことを前に書いた。

 葬祭場は国道288号沿いにある。道路向かいには「英霊合祀碑」などの石碑が立っていた=写真。隣接して元町長らしい人物の銅像もあった。

 もっと西の方、同じ国道288号沿いに江戸時代の餓死者を弔った「三界萬霊等(塔)」がある。

それについては小学校のときに授業で学び、実際に見に行った。石碑の大きさに驚いた。が、町はずれに「英霊合祀碑」などがまとまってあることは知らなかった。

同じ町内でも初めての場所にいるような感覚に襲われた。兄も家にいるときとは違って、こまごまとしたことを娘たちがやってくれるせいか、じっくり私らと向き合って、問わず語りにこの半年余を振り返った。

「ご飯を炊いて、味噌汁はつくる。しかし、おかずはなぁ」。近くの店か、隣町のスーパーから買って来るのだという。

義姉は料理が上手だった。2010年7月26日付のブログ「マメダンゴご飯」を要約・再掲する。

――阿武隈高地の実家に帰って、義姉の料理に舌鼓を打った。キノコ料理が出た。私がキノコ好きだと知ってのことだ。

一泊二日の初日。晩ごはんにチチタケのけんちん汁が出た。「チチタケがもう採れたの?」と私。床屋をやっている兄夫婦のところへは、知り合いからいろんなものが届く。チチタケは夏キノコ。採れて不思議ではない。それをもらったのだという。

イノハナ(コウタケないしシシタケ)も近所の店で売っていた、という。これには義姉もびっくりした。聞けば、地元の常葉産。梅雨が明けたばかりでイノハナとは。

本来なら、10月下旬に発生する「高級菌」だ。実家に帰ると、こうしていつも、思いもかけなかったキノコの情報に接する。

チチタケは料理が難しい。一度、油で炒めないことにはチチタケのうまみを引き出せない。義姉は、そんなことは先刻承知で、いったん油でいためてから、けんちん汁をつくる。そうすると、チチタケからうまみ成分がしみ出る。

翌朝は「マメダンゴご飯」(マメダンゴはツチグリ幼菌)が出た。やはり、何人かが持ってきてくれた。いっぱいもらったので、冷凍していたのを、私のために炊き込みご飯にした――。

老いて独りになると、すぐ日々の食事に変化が起きる。兄の話を聞いてそのことを思った。それはまた、いつか私らが経験することでもある。

家事のあらかたをカミサンに依存している。私が引き受けている家事は、糠漬けのほか食事の後片付け、風呂、月曜日朝のごみネット出し、そんなものだ。

新盆から帰った何日かあと、晩酌をしていて焼酎と水が足りなくなった。いつものように「お願い!」をすると、「私がいないと思って自分でやったら!」といわれた。それに従うしかなかった。

2023年8月25日金曜日

工事予告

                    
 日曜日(8月20日)に夏井川渓谷の隠居へ行くと、隣の「錦展望台」近く、県道のガードパイプに「工事予告」の看板がかかっていた=写真。

 場所は、隠居のある小川町上小川字牛小川から7キロ先の同字高崎地内で、道路補修工事のため全面通行止めになることがある、というものだった。

 「7キロ先の高崎地内? ああ、あそこだな」。最近、谷側の道路が一部、陥没したところがある。その補修工事だろう。

 7月下旬のブログで陥没事故が起きたことを書いた。おさらいの意味で、要約・再掲する。

――川の流れからいうと、山地の夏井川渓谷を過ぎて、平地の扇状地へと抜ける、その接続部といってよい。

山は迫るが、渓谷の急な崖と谷はゆるくなり、尾根が低くなって平地に滑り込むあたり、谷側の県道が何メートルものコンクリート護岸で守られているところがある。

その護岸を残したまま、道路の一部が陥没し、谷側の車線に転落防止柵と仮信号機が設けられた。

それに気づいたのは7月前半の日曜日、夏井川渓谷の隠居へ出かけたときだ。その1週間前の日曜日には何ともなかったから、わずか数日の間に異変が起きたことになる。

谷側のガードレールと路肩はなんともない。道路からは見えないが、コンクリート護岸のどこか、下の方が破損して道路内部の土砂が流失したか。しかし、それもよくわからない――。

県道小野四倉線は渓谷の幹線道路である。山側は崖、谷側も崖になったり、川と同じ高さで並走したりしているため、絶えず落石や倒木、冠水、護岸崩落などの危険がある。

隠居までの間に、陥没個所とは別に護岸の一部が崩れてカラーコーンが置かれているところが2カ所ある。

1カ所は一時、工事が行われたが、またカラーコーンだけになった。なんとも中途半端な補修工事だった。

それに比べたら、高崎の陥没事故は緊急性が高い。素人目にもそれはわかる。放置したらさらに陥没範囲が広がりかねない。というわけで、補修工事が始まることになったのだろう。

期間は8月28日から9月9日(予定)までの13日間、時間は朝8時半から夕方4時半までで、この間に30分間、全面通行止めになる時間帯がある――そう読める看板だった。

ただ、看板には「30分/回」とあるだけで、「回」が1回だけなのか、複数回なのかははっきりしない。複数回なのかもしれない。

 そもそも陥没事故の広報がなかったので、週末だけの「半住民」にはなぜそうなったのかがつかめない。ま、予定通り工事が終われば、それも解消されるわけだが。

2023年8月24日木曜日

年中行事とその再現

                     
 いわき地域学會の第376回市民講座が8月19日、いわき市文化センターで開かれた。市文化財保護審議会委員の四家久央さんが「古文書に書かれた年中行事とその再現――四家家の『定例帳』を中心に」と題して話した=写真。

 四家さんは「又兵衛」で知られる四家酒造店(内郷高坂町)の7代目当主。幕末のころ、先祖の四家又左衛門が書き残した「定例帳」など、同家所蔵の古文書を参考に再現した年中行事を紹介した。

 「定例帳」は嘉永5(1852)年に下書きができ、安政4(1857)年に清書されたという。市民講座では、旧暦元日から7月まで、事細かに書き記された行事の一部を翻刻して、画像とともに紹介した。

 又左衛門は25歳で高坂村の名主を務め、その後、割頭・郷目付、さらには御徒士格・独礼(どくれい=儀式のある日、藩主に謁見する際に一人で進み出ること、またはそれを許された身分)などを経て、天保8(1837)年給人格になった。弘化2(1845)年には酒造の鑑札を得た。

 四家家では「定例帳」を基に年中行事を再現している。しかし、現代では手に入らない材料もある。昔からのやり方を継承しながらも、今あるもの、手に入るものでまかなっている。買えるものはそれで間に合わせている、ともいう。

 実例として、①正月飾り②5月の軒菖蒲③7月の藁馬(七夕馬)と盆棚飾り――について詳述した。

 七夕の藁馬については、6日の夕方、小麦藁を使って馬を2匹つくり、厩のぐしに飾る――と「定例帳」にはある。

四家さんは、この藁馬を飾るために、暮らしの伝承郷などで作り方を学んだ。そうしてつくった2匹の藁馬(雄と雌)を会場に持参した。

 面白かったのは、家や土地、あるいは時代による盆棚飾りの違いだ。四家家では13日に若竹4本を切って、盆棚の四隅に立て、小手縄で結びつけたのに杉葉とホオズキの実をはさむ。杉葉にはそうめんをかける。「定例帳」には、ホオズキの実の記述はない。

 四家さんの母方の三和町・田子家の盆棚は、杉葉の代わりに檜葉を使い、縄の代わりにビニールひもを利用している。郡山市のおば宅では檜葉にそうめんだけでなく、ワカメもかけるという。

 そうめんはもちろん、ゆでたものだ。このそうめんのかけ方だけでも、家によって違いがある。

 さらに四家家では、「定例帳」にはないが、昔から米・茶・団子などをカラムシに包んだ「冥途のみやげ」を用意する。

 四家さんは、行事の再現に当たっては古文書に書いてないから「やっていない」のではなく、「当たり前で書くまでもないと判断したかもしれない」、そういった疑問を持って常に検討する必要があると語った。

旧家が実施する年中行事にも試行があり、変化があることと知って、なぜかホッとした。

2023年8月23日水曜日

キュウリの切り口

                     
 初夏にキュウリのポット苗を買って、夏井川渓谷の隠居の畑に定植するのを恒例にしてきた。キュウリは主に糠漬けにする。

5年前(2018年)にはこんな具合だった。――ゴールデンウイーク中にポット苗を二つ定植した。7月上旬に初めて3本を収穫すると、カミサンが「初物だから」と床の間に飾った。

それからは週2回のペースで収穫した。そのたびにキュウリの株の根元に水をやった。キュウリは乾燥に弱い。ナスや里芋もそうだ。うねの乾燥を防ぐために敷き草もした。

そうして潅水と収穫を兼ねて、行くたびに8本前後を摘んだ。9月に入るとさすがに葉が疲れてきたが、それでも花を咲かせた。

9月中旬の日曜日に見ると、曲がったり、先端だけ肥大したりしたものが5本ぶら下がっていた。いよいよこれで株の元気が尽きた、「終わり初物」(最後の収穫)にした――。

 実が生(な)り出すと、お福分けもあちこちから届く。大量に手に入ったときには、糠床とは別に、ホーローのキッチンポットに塩を振り、重しをのせて古漬けにした。

 去年(2022年)の古漬けがまだ残っている。6月から2カ月ほどはお福分けが続く(と予想される)ことから、今年はキュウリの栽培を見合わせた。

直売所とスーパーからキュウリを買い、合間に届くお福分けを加えて、糠漬けやサラダにする。それでこの夏、キュウリには事欠かなかった。

キュウリは、97%が水分でできている。漬かりやすくするために両先端を切ると、断面が緑っぽくてみずみずしい。

ところが、しばらく野菜かごに置いていて、同じように切って断面を見ると、水分が飛んで綿のように白くなっている。こうなったら、食べてもおいしくない。味もしみこまないので、切り捨てるしかなくなる。

買ったら(届いたら)一気に漬け込む、水分を保っているうちに――。自分で栽培し、糠漬けにして、失敗から学んだ経験則だ。猛暑が教えてくれた知恵でもある。

8月初めまで相次いだお福分けが収まったので、月遅れ盆の前後から、キュウリを買って漬けるようになった。

このキュウリの中に、「ん?」という代物が入っている。糠床に入れるため、先端をカットしたら、既に乾いて白くなっているものがあった。漬けたのを取り出したが、やはり白いものは白いままだった=写真。

家庭菜園だと収穫したらすぐ消費されるが、プロの農家はそうはいかないのだろう。決まった時間、流通経路がある。しかも、この猛烈な暑さだ。なかには水分が飛んで白く乾燥してしまうものが出てくる。

結局、「安物買い」のなんとやらになってしまう。夏の露地キュウリも今は端境期らしい。

2023年8月22日火曜日

「キョセム」ドラマ一休み

                                
 月~金の午後2時半から1時間、何もなければBS日テレの「新・オスマン帝国外伝――影の女帝キョセム」を見た。

 先日、8月21日からは韓国ドラマ「ペントハウス」を放送するという字幕が現れた。「あれっ、キョセムのドラマにしては中途半端な終わり方だな」

 番組のホームページに当たると、ドラマは「シーズン1(全84話)」で、その最終回が8月18日に放送されたあと、韓国ドラマに切り替わる、という流れのようだった。

やがて「シーズン2」が放送されることになるのだろう。6月にこのドラマについて、感想を書いた。それを抜粋・要約する。

――以前、皇帝スレイマン1世の寵姫(ちょうき)、ヒュッレムを主人公にした「オスマン帝国外伝――愛と欲望のハレム」が放送された。いわば、その続編だ。ヒュッレムからキョセムへ、である。

前作のときもそうだったが、今回も初めのうちは、カミサンがそばで見ていても気にならなかった。これといった事件があるわけではなかったからだ。

それが6月第3週は、キョセムが「影の女帝」としての覚悟を決めるような修羅場が展開された。

キョセムは、もとはギリシャの島から献上された奴隷の1人に過ぎなかった。皇帝アフメト1世が彼女を寵愛し、やがて子どもが生まれる。

それからドラマが激しく展開する。番組宣伝に従えば、キョセムは暗殺や裏切り、愛する者との別れを乗り越えて、権謀術数の渦巻く後宮から帝国を動かす影の女帝になっていく――

ヒュッレムを主人公にした前のドラマから、小笠原弘幸『オスマン帝国 英傑列伝』(幻冬舎新書、2020年)を手元に置いて、時折、史実を確かめている。

今回はさらに、カミサンが移動図書館から借りた同人著『ハレム 女官と宦官たちの世界』(新潮選書、2022年)=写真=をたびたび開く。

「トルコ人とは、モンゴル高原を故地とし、中央アジアに広がった遊牧騎馬民族である」「トルコ・モンゴル系諸王朝における王族女性は、相対的に隔離される度合いは少なく、儀礼や祝宴などでは、積極的に姿をあらわした」。そうした先にオスマン帝国のハレムが形成された、といってもいいのだろう。

ドラマでは史実にフィクションを織り込みながら、皇子の母親や姉、祖母、そして女官と宦官たちが入り乱れて、王位継承争いを繰り広げる。

「シーズン1」の最終週(8月第3週)はそれこそ日替わりで陰謀・殺戮が繰り返された。王位継承に伴う「兄弟殺し」も“復活”した。

キョセムはやがて、幼い皇子の「摂政」として国政を取り仕切るが、最後はハレムで殺害される。「シーズン2」はそれこそ、キョセムの絶頂と破滅を描くものになるのだろう――そんな推測がはたらくのは、史実からドラマを見過ぎているからか。

2023年8月21日月曜日

ゲリラ雷雨

           
 日曜日(8月20日)も朝から厳しい暑さになった。夏井川渓谷の隠居でほんの少し土いじりをした。

 クワの木が葉陰をつくる畑の隅に生ごみを埋めること15分。さらに、シダレザクラの日陰になっているネギうねの草むしりを15分ほど。それだけで汗みどろになった。

あとは隠居にこもって、時折、吹き抜ける谷風に涼気を感じながら、ただただぼんやり過ごした。

昼食をとったあと、茶の間で横になった。すぐアブがやって来る。アブよけに蚊取り線香をたくと、ほどなく庭の方が薄暗くなった。

そのちょっと前、空を見上げたら、北側が灰色の雲に覆われていた。三大明神山の方だ。そちらから遠雷が届く。渓谷にはまだ青空が広がっていた。

40代後半に渓谷へ通い始めたころ、近くの水力発電所に勤めていたという集落の長老から、渓谷近辺には二つの「雷の道」があることを教えられた。

一つは、白河あたりで発生した雷雲が久之方面に抜けるルート。もう一つはより北側、会津方面からやってきたのが木戸川(楢葉町)あたりに抜けるルートだ。

遠雷からすると、「会津―木戸川」ルートらしい。こちらには来ない。そうタカをくくっていたら、さらに空が陰ってきた。

「車の窓を閉めたら」。カミサンが言うのに従ってそうしたとたん、雨が降り出した。そのうち、頭上で雷が鳴り始めた。

落雷したかと思うと、横に雷が走る。濡れ縁に置いた雨だれ用の火鉢がたちまち満パイになった=写真。

長老の話だと、渓谷で怖いのは「白河―久之浜」線。直撃を受ける可能性がある、ということだった。

しかし、今度のは「ゲリラ雷雨」とネットにあった。北東から南西に下って来た。既存の「雷の道」ではない。

雲は今、どこに来ているのか。雨量はどの程度か。たびたびスマホで雨雲の様子を確かめては、これから激しくなりそうだ、あるいはいつごろ峠を越しそうだ、などと案じながら雷鳴の強弱を探った。

 というのは、かつて生きた心地がしないくらい激しい雷雨を経験したからだ。雷が谷間を横に走るのを見た。すぐそばで音が鳴り、光が走った。

地響きがして空気が震える。電気を消して縮こまっているしかない。雷雲の真っただ中に取り残された思いがした。

 それに比べたら、日曜日の雷雨は規模が小さかった。1時間もすると雲は南に去り、青空が戻った。

 室温は32度から27度台へと、5度ほど下がった。少ししのぎやすくなったので、またネギのうねに戻って草むしりをした。

 そうそう、ネギうねのそばに辛み大根が「自生」している。月遅れ盆が終わると、こぼれ種が発芽する。その自生サイクルを思い出して確かめたら、ちゃんと芽を出していた。

2023年8月19日土曜日

入力ミス

                                
 平市街の南方に小丘陵が連なる。山裾を縫う道路(鹿島街道)に旧バイパスが通り、併せて住宅団地が切り開かれた。

 そうしてできた明治団地や自由ケ丘、郷ケ丘は、団地としては古い方だろう。新しいバイパス沿いにある平南白土の八ツ坂団地も、同じくらいに歴史がある。

 旧バイパス沿いに高専の校舎と学生寮ができたころ、学校から平駅(現いわき駅)まで、丘をはさんで道路が直結した。

恩師や知人が沿線の団地に住み始めたことから、社会人になったあと、たまに団地を訪ねるようになった。明治団地の道路の狭さとわかりにくさにはいつも閉口した。

八ツ坂団地へは、しかし一度も踏み入れたことがない。知人の家が2軒ある。いずれも向こうからわが家へやって来る。

月遅れ盆の前、知人からカミサンに電話が入った。ダンシャリで出た着物や毛布がある、という。

今まではマイカーでわが家へやって来た。年齢を考えて運転免許を返上した。「では後日、荷物を引き取りに行きます」。カミサンが約束した。いつものパターンだ。 

震災後はたびたびアッシー君を務めた。拙ブログによると、最初は平成23(2011)年4月だった。

――カミサンの幼なじみの家が解体されることになり、リサイクル用の着物を引き取った。私は本箱を二つもらった。冷蔵庫や洗濯機は沿岸部の知人の家に収まった。

同年7月には、双葉郡広野町にも遠征した。カミサンの知人の家で、大規模半壊の判定を受けたうえに、原発事故の影響で家族全員が避難した。たちまち空き巣に入られた。

捨てるしかないという古着を10袋ほど持ち帰り、いわきで古着のリサイクル活動を展開しているザ・ピープルに回した。

カミサンも私も、東京に本部のあるシャプラニール=市民による海外協力の会に関係している。シャプラは「ステナイ生活」を展開している。それで得た益金も支援活動に充てられる。本類などは換金してそちらに送る――。

その後も2回、小名浜へ出かけた。去年(2022年)はたまたま震災後知り合った避難者から連絡がきて、ダンシャリの品物を引き取った。こちらは住所を聞いて、ネットで場所を確認して出かけた。

八ツ坂団地の場合も、カミサンのメモに従って、場所を確かめたはずだったが……。坂の途中にあるそれらしい家にたどり着くと、どうも空き家のようだった。

カミサンのメモを持って行ったので確認する。おやっ、番地が一つ足りない。「〇✕―〇✕」と数字が四つあるのに、最後の数字を見落とした(いや、数字とは思えない筆跡だった)。それで、「〇✕―〇」と三つの数字しか打ち込まなかった。入力ミスだった。

スマホで連絡すると、坂をそのまま上がってくるようにという。坂を上がりきって平坦な場所に出ると、前方の路上に知人がいた。

段ボール4箱を受け取り、帰宅してカミサンが中身を整理した=写真。一方で私は入力ミスが頭から離れなかった。これも「75歳の壁」なのかもしれない。

2023年8月18日金曜日

「台湾漫遊」の小説

                              
 「台湾」と「鉄道」の文字に引かれた。6月中旬、新聞の読書欄に、楊双子/三浦裕子訳『台湾漫遊鉄道のふたり』(中央公論新社、2023年)=写真=が紹介されていた。

 図書館のホームページでチェックすると「貸出中」だった。後日、また確かめたら「貸出中」が消えていた。急いで借りて来た。

 日本が台湾を統治していた昭和13年5月、「内地」の日本から作家青山千鶴子が台湾へ講演に訪れる。

 植民地政策の例にもれず日本語教育が行われているとはいえ、講演には通訳が必要だった。台湾の高女を卒業して、「本島人」(台湾の人間)が通う公学校で先生をしている若い女性、王千鶴が通訳として作家に同行する。

 2人は台中市を拠点に、台湾縦貫鉄道(基隆~高雄)を利用して移動する。竹南駅―彰化駅間には「山線」と「海線」があり、「山線」は台中が主要都市なので、「台中線」と呼ばれた。

 日本統治下の台湾という時代設定が意想外だった。そこから逆に日本と台湾の関係が照らし出される。

 支配する日本、支配される台湾。それを通奏低音にしながらも、小説に描かれる物語は痛快そのものといっていい。

小説は全12章立てで、すべてが「瓜子 瓜の種」「米篩目 米粉の太うどん」「麻薏湯 黄麻の葉のスープ」といった食べ物のタイトルになっている。そう、日本のテレビ番組でいうところのグルメと旅番組、それをごちゃまぜにしたような構成だ。

本文に「米篩目」は「ビータイバッ」、「麻薏湯」は「モァーイータン」とルビが降ってあるので、現地の食べ物だとわかるが、それがどういう味で、どんな形をしているのか、までは想像がつかない。

青山千鶴子の食欲はすさまじい。自他ともに認める「大食いの妖怪」だ。千鶴もまた食いしん坊のようだ。

それを知ったときの青山千鶴子の驚き。「私みたいな大食いの妖怪の仲間など、この世に存在しないだろうとずっと思っていた。/『千鶴ちゃん、これは運命の出会いよ!』/私は思わず立ち上がり、大声で宣言した。/『いっしょに台湾を食べ尽くしましょう!』」

小説を読み始めてすぐ、『放浪記』の作家林芙美子が頭に浮かんだ。小説中に、青山千鶴子は「青春記」の作者で、『青春記』は映画にもなった、とある。

それからの連想だったが、「訳者あとがき」に青山千鶴子のモデルは林芙美子とあって、「やっぱり」と思った。

台湾へは仲間と2回出かけた。2回目は新幹線で台北から高雄へ出かけた。途中、台中で下り、山手の日月潭を巡った。

そんなことを思い出しながら、食べ物の描写に引かれて読み進めた(「小籠包」の章がないのは残念だったが)。

統治された側の複雑な思い――。これこそが「千鶴ちゃん」を通して、作者が訴えたかったことなのだろうと、後半になって思いが至る。そう、逆に言えば台湾の「原風景」が見えてくるような物語だった。

2023年8月17日木曜日

たまたま雨がやむ

                      
 この10年余、月遅れ盆にだれかと飲んだり、どこかへ遊びに出かけたりしたことはない。「お盆のレジャー」とは全く無縁になった。

 理由は簡単だ。8月16日早朝、お盆の供え物を受け取り、あとで収集車に積み込む「精霊送り」が行われる。それを行政区の役員が担当する。その一員に加わったからだ。

 精霊送りの場所は、わが区の場合、県営住宅の集会所前庭と決まっている。集会所前の道路に車が止まっていると、供え物の受け取りや収集車の横付けに支障をきたす。そこでまず、14日に「駐車自粛」の立て看板を出す。

 翌15日は夕方5時から集会所前庭の草刈りをし、四隅に竹を立てて縄を張り、「結界」をつくる。正面には杉の葉とホオズキを飾る。

 当日16日朝は、6時から1時間単位で役員が交代しながら供え物を受け取る。受け付けは原則8時で打ち切りだが、収集車が来るまでの間は、遅れてきた供え物も受け取る。

 先日も精霊送りと天気の話を書いた。これは、いわば今年(2023年)の顛末記。一部重複するが、流れに沿って振り返る。

 この何年か、15日夕と16日早朝に雨が降ったらどうしよう、そんな心配がよぎるようになった。

 若いころの記憶だと、8月中旬は、夕立はあっても天気が大きく崩れることはなかった。この天気が最近は不安定になってきた。

 そんな気象の“ゆらぎ”については前にも書いた。今年の精霊送りはちゃんとできるだろうか。台風6号が発生し、追いかけるように7号が現れると、雨の不安がふくらんだ。

 平の七夕まつりが終わったころから、連日、台風の進路をチェックした。月遅れ盆に入ると、それこそ雨が降ればすぐネットで雨雲の動きを確かめた。

 セミもまた雨には敏感だ。雨が降り出すと、庭のセミの鳴き声がやむ。雨がやむと、すぐまたセミが鳴き出す。これを一日に何度も繰り返す。

まだ雨雲が少なかった8月10日朝は、雨がやんでセミが鳴き出したのを合図に、回覧資料を配った。なんとか雨は避けられた。

15日は、そうはいかなかった。次々に雨雲が現れる。セミも鳴いては沈黙し、沈黙しては鳴き出す。ネットで雨雲を何回チェックしたことだろう。

たまたま、というほかない。夕方5時前には雨雲が去った。予定通り草を刈り、竹を立てて精霊送りの準備を終えた。

翌朝5時半にはもう供え物が置いてあった=写真。雨の心配はない。南から北へ雲が走っていく。時折、朝日が差す。これがきつい。すぐ汗がにじむ。

今年はむき出しの供え物を3~4個、あとで袋に詰め直した。そうすれば、収集車が来たときに時間の短縮ができる。

タイミングよくというか、いつもは9時前後に現れる収集車が8時半には到着した。すでに受け付けは終了し、供え物もすべて袋に入っている。この10年余で初めて、9時前には後片付けをすませて解散した。

2023年8月16日水曜日

なじみのルートで田村市へ

                      
 いわき市のわが家から田村市常葉町の実家(国道288号沿い)へ行くには、いくつものルートがある。

一番西側のルートは国道49号~同349号~県道船引大越小野線~国道288号、同じく東側のルートは「山麓線」(いわき浪江線)~国道288号だ。

 この中間には、小川町からの国道399号~同288号、川前町からの県道上川内川前線~同小野富岡線~国道399号~同288号ルートがある。

 国道399号は「十文字トンネル」ができたことで、山越えの難所が解消され、かなり時間が短縮されるようになった。

新しいところでは、磐越道を利用して田村市大越町の「田村スマートIC」で下り、既存のルートに出る方法もあるが、このICは「ETC専用」なので、カードを車に装着していないと利用できない。

どのルートを選ぶかはそのときの気分次第でもある。夏井川渓谷の隠居を経由する場合は、夏井川に沿ってそのまま田村郡小野町へ駆け上がるか、左岸の山中に分け入って川内村から田村市に向かうか、のどちらかだ。

今回は若いときからなじみのある夏井川沿いのルートを選んだ。夏井川だけでなく、磐越東線ともほぼ並行して道が続く。

ふだんの日曜日は先行車両も、対向車両も少ないのだが、月遅れ盆の入りの朝ということもあって、どちらにも車の列ができていた。

渓谷には飛び飛びに小集落がある。集落が現れるたびに、何台か道端に車が止まっていた。周辺には黒ズボン、白い半そでシャツ、黒ネクタイの人たち。

おもしろいことに、いわき市と小野町の境あたりになると、車の往来が途切れる。新盆回りをするほどにつながりが濃いわけではない、ということなのだろう。

小野町の夏井地区に入ると、じゃんがら念仏踊りの一行が目に留まった。元は同じ田村郡だったわがふるさとには、じゃんがら念仏踊りはない。

いわきの「じゃんがら文化圏」は、夏井川流域では小野町まで及んでいる――。仲間の調査研究をこの目で確かめるような出会いだった。

小野町を過ぎて田村市滝根町、そして同大越町を通る。すると、「このへんで車のバッテリーが上がったんだよね」「このへんに古い建物があったはず」などと、カミサンが問わず語りにいう。

私もこのルートを利用するたびにバッテリーが上がって、道路沿いの農家に助けてもらったことを思い出す。

古い建物は、一つは医院。もう一つは、旧「大越娯楽場」=写真=だった。あとで田村市のホームページで確かめると、娯楽場は平成19(2007)年7月31日、田村市初の国登録有形文化財になった。

この建物は大正15(1926)年5月に完成した。設計は建築学者で民俗学研究者の今和次郎。舞台と桟敷(さじき)席が設けられ、芝居や映画などの興行が行われた。

その後、町の公民館や教育委員会の事務局などに転用され、現在は武道館として利用されているという。

今和次郎とは、阿武隈の山里の先人もなかなか目が高かったと、これは「考現学」を聞きかじった人間の独り言。

2023年8月15日火曜日

葬祭場での新盆

                      
 去年(2022年)の暮れに実家の義姉が亡くなった。阿武隈高地の一筋町で、兄と一緒に家業の床屋を営んでいた。

 今年は新盆なので、月遅れ盆の入りの8月13日(日曜日)、夫婦で出かけた。昼前には実家に着いたのだが……。どうも人の気配がない。

 店のドアに、8月13~15日は地元の葬祭場で新盆を営む、という葬祭場の「知らせ」が張り出してあった。

 それを見て、山里にも時代の流れが及んでいることを痛感した。核家族化と少子・高齢化が、不変と思われていた慣習にも変化をもたらしたのだ。

 新盆は自宅で――というのが一般的だが、実家の兄には同居する家族がいない。娘3人はいずれも近隣のマチで一家を構えている。その子どもたちも大きくなった。

独りで店の仕事をし、独りで家事をこなさなければならない兄には、新盆の準備をする時間も、余裕もなかったのだろう。

父や母の新盆は自宅で行った。自宅での新盆は同居する家族がいてこそできたのだと、今さらながら思った。

 町のはずれに葬祭場がある。いつ開館したのか、盆の帰省を控えるようになった人間にはわからない。義姉の葬儀はそこで執り行われた。新盆の会場もそこだった。

 実家からUターンして葬祭場に着くと、足が止まった。よその家(2軒)の新盆会場になっている。スタッフに尋ねると「こちらです」。駐車場をはさんだ別の建物に案内された。

 ホールの規模からいえば、2軒の新盆が行われている方はメイン、わが実家の方はサブ、といった感じだろうか。

 葬祭場が新盆会場になると、お盆の間は葬儀ができない。逆にいうと、お盆中は葬祭場が空いているからこそ、新盆会場として利用できるようになったのではないか。それを裏付けるように、お盆中に葬儀をするという話は聞いたことがない。

その理由は、どうやらお坊さんが新盆供養で忙しくなるためらしい。日本の葬式はほとんどが仏式だから、お坊さんがいないと始まらない。坊さんが多忙なお盆は、それで葬式を避ける、という流れができた――そんなことがネットに書いてあった。

 実家の新盆は11時半にお坊さんがやって来て読経し、終わって会食という段取りになっていた。私たちも臨席し、昼食をよばれることにした。

そのお坊さんが予定の時間になっても現れない。娘の一人が心配して父親に尋ねる。「お坊さんに連絡したのは葬祭場?」「もしかしたら今日ではなくて、あした来るのかも」

「では昼食にするか」となって、仕出し弁当を食べ終わるころ、お坊さんが現れた=写真。お坊さんにとっては、やはりお盆は師走以上に忙しいようだ

2023年8月14日月曜日

サンゴの化石?

        
 表面に変わった模様のある「石」を見た=写真。形と大きさが鶏のむね肉を連想させる。手に載せると、重い。

「変わった模様」で思い浮かぶのは焼物だ。粘土に直径5ミリ前後の丸い印花(いんか)をすき間なく押して焼くと、こんな感じになるのではないか。

 一つひとつの円は、それぞれ中心から放射状に十数本、線が浮き上がるようにして伸びている。花でいえばキク。つまり、小さなキクの花畑だ。

 ネットで検索すると、似たようなものに「サンゴの化石」があった。福島県立博物館で令和3(2021)年1月30日から3月5日まで、「サンゴ化石の世界」と題するポイント展が開かれた。その解説がわかりやすい。

 ――サンゴはクラゲやイソギンチャクなどと同じ刺胞(しほう)動物の仲間で、石灰質の硬い外骨格をつくるものがサンゴと呼ばれる。

 サンゴの骨格は地質時代を通して化石として残されてきたため、その構造を調べることでサンゴの進化や生態が詳しく解明されてきた。

 最古の確実なサンゴ化石は、オーストラリアの古生代カンブリア紀初期の地層から見つかる床板(しょうばん)サンゴの仲間の化石で、これ以降、四放サンゴ、六放サンゴ、八放サンゴなど、さまざまなサンゴの仲間が登場してきた――。

 なるほど。化石一般にも、サンゴにも全く知識のない人間でも、この化石(と思われるもの)がすごい時間を経て、今ここにあることはわかった。

 粟津則雄いわき市立草野心平記念文学館名誉館長によると、詩人草野心平の特質は「対象との共生感」であり、「眼前の姿への凝視とそれを生み出しそれを支えて来たものへの透視」もまた、心平の本質的な要素であるという。

 たとえば、わずか6行の詩「石」。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」。石もまた人間と同等の存在として、目の前に億年という時間を内蔵して存在している。

 川内村での、こんなエピソードも「凝視と透視」に結び付く。あるとき、心平はまな板用に栗の木の切れ端を村の棟梁に削ってもらう。

住職と一緒の帰り道、木の年輪を見て「君、こっちは北なんだね。こっちは南側だったんだね」という。

「君、同じ南側でも育ち具合が違うんだね。育たなかった年は気候が悪かったんだね。この時は、この木も随分と苦労したろうね。木ばかりでなく、みんな苦労したんだね。凶作だったりして……

心平にならって、「サンゴ化石」を凝視する。このかたまりが生きていたのは遠い海だったかもしれない。暖かい海流の真っただ中だったかもしれない。そこでサンゴたちはどんな夢を見ていたのだろう……。残念ながらそんなレベルでわが想像力、つまり透視力は途切れてしまった。

2023年8月12日土曜日

月遅れ盆と台風7号

                     
 8月9日。長崎市の平和祈念式典が台風6号の影響で、急きょ、平和公園から屋内施設に会場を移して行われた。

 7月29~31日。相馬野馬追に参加した馬2頭が熱中症などで死亡し、騎馬武者と観客83人が熱中症の疑いで救護され、うち11人が救急搬送されたという。こちらは猛暑による影響だ。

 これだけ大きな行事になると、非常時の対応マニュアルはちゃんと用意されているにちがいない。が、実際には想定を超えた出来事も起きる。

気象はその典型だ。身近な例でいうと、地域の球技大会や体育祭がある。まずは晴天(あるいは曇天)を前提にしてスケジュールが組まれる。

 大会当日の早朝、雨か雨になるのがはっきりしている場合は、区長らが集まって延期を決め、関係者にその旨を連絡する。この10年の間に秋の体育祭で一度、延期を経験した。

 それよりはスケールの小さな区内会レベルの「精霊送り」などは、実施を前提にしたマニュアルはあっても、雨天時のそれはない。

精霊送りは月遅れ盆最終日の8月16日早朝に行われる。わが行政区では、前日夕方、県営住宅集会所の前庭を利用して祭壇を設け、翌日朝6時から供え物をあずかり、同9時前後に収集車が来るのを待つ。設営から片付けまで、すべてを区の役員6人で行う。

私が役員になってからは、まだ雨にたたられたことはない。しかし、このごろはなぜか天気が気になるようになった。拙ブログから、精霊送りと天気の記述を拾うと――。

【2018年】雨の精霊送りにならないように。役員はいつも天気が気になる。祭壇づくりをした8月15日も、16日朝も大丈夫だった。

精霊送りが無事すみ、のんびりしていた16日午後、それこそ黒雲がわき出て空を覆った。同じころ、竜巻注意情報が発表された。急に風が吹き出した。

やがていっとき、風が強まり、雨がたたきつけた。雷は聞こえなかった。精霊送りのさなかでなくてよかった。

【2021年】前線が停滞し、西日本では大雨が続く。いわき地方も南部を中心に雨が降り続いた。8月15日も雨だったが、午後にはやんだ。精霊送りの準備が滞りなくできたことにホッとする。

精霊送りの朝も曇りだった。それはしかし偶然というものだろう。「雨のときにはどうしたら」と、役員の一人がいう。

コロナだけではない。異常気象がある。台風や土砂降りの8月15、16日も想定しないといけない。ほかの行政区ではどうしているのだろう。

今年(2023年)の7月は、入道雲がたびたび現れた=写真。8月の今は台風7号が本州に向かって北上している。

浜通り地方もお盆中は「曇一時雨」か「曇時々雨」の予報が続く。市に問い合わせると、雨でも精霊送りは実施するという。祭壇を設営する身としてはなんとも悩ましい。

2023年8月10日木曜日

健康保険証

         
 会社を辞めたあとは国民健康保険の世話になっている。毎年7月になると、市から新しい保険証が届く。有効期限は1年。8月1日から翌年7月31日までだ。

 今年(2023年)も7月に新しい保険証が届いた。が、有効期限は11月中旬の誕生日前日まで、わずか3カ月半ほどだ。なんで、まちがいじゃないの? そう思いながらも、同封の文書=写真=を読んで「うーん」となった。

 今年の誕生日で75歳になる。昭和23年8月2日~同24年7月31日までに生まれた人の有効期限は誕生日の前日までで、それ以降の保険証は「後期高齢者医療保険」に変わる、有効期限前に新しい保険証が届く、とあった。

「75歳の壁か」。とっさにそんな言葉が思い浮かんだ。というのは、先日、運転免許更新のために自動車学校で認知機能検査を受けたからだ。

前回は座学と実車指導だけだった。今回は新たに認知機能検査が加わった。内容は複数の絵を見て、覚えて、答える検査検査当日の年月日と時間を答える検査――の二つだった。

認知機能検査に続く後期高齢者医療保険への移行。これが「75歳の壁」というやつか。とはいえ、どちらも制度で決まっているから、75歳を迎えればだれでも経験する。

ほんとうの「壁」は、やはり心身の問題だろう。高齢者を長く取材してきたという作家がインタビューに答えていた。

60~74歳は一般に元気だし、家族の扶養義務も軽くなる、時間的にもゆとりが生まれる。人生で最も楽しめるのがこの時期だ、と。

確かにそういう面はある。いや、あった、というべきか。これからは文字通り「高齢」を実感する場面が増えてくるのだろう。

保険証の話に戻る。メディアは連日のように「マイナ保険証」の問題を報じている。政府はマイナンバーカードを導入し、健康保険証を廃止して「マイナ保険証」に一本化しようとしているが、別人の情報と紐づけられるなど、誤登録が相次いでいるという。

わが家にもだいぶ前、「最大2万円分のマイナポイントがもらえる」という触れ込みでマイナンバーカードの申請書が届いた。カードは健康保険証としても使える、とあった。

そのまま申請しないでいたら、誤登録問題が起きた。他人の薬や医療情報が閲覧される事故もあったという。

これでは、個人情報は守れない。これからマイナカードを取得しようという動きにもブレーキがかかる。

政府は来年(2024年)秋の保険証廃止を変えていない。で、マイナ保険証を持たない人には「資格確認書」を交付するという。なら、今のままでいいじゃないの、とならないか。制度への不安は尋常ではない。不信が怒りに変わっていく流れが見えるようだ。