2012年12月31日月曜日

シルバーカー


スーパーの駐車場でカートを押すお年寄りを見た=写真。荷物は手提げバッグにほんの少し。バッグをカートに載せている。カートは「シルバーカー」代わりだった。

検査のために病院で「車いす」を体験した。買い物に行ったスーパーでカートが杖代わりの「シルバーカー」になることを知った。その体験が車いすやカートを見る目を変えた。

これまでずっと二足歩行が当たり前と思っていた。が、体調次第で車いすやシルバーカーの世話になる――そんな領域に踏み込んだことを自覚する。ならば、その領域を探検してやろう、記録してやろう、とも思う。

昨年の大震災で「当たり前の暮らし」がかけがえのないものだったことを教えられた。今年は持病の亢進で「普通に歩ける」ことのありがたさを痛感した。

人を思いやる心が大切といっても、車いすの人や、シルバーカーの人の内面にどこまで触れ得たか。ましてや、家や肉親を失った津波被災者と、住む土地を追われた原発避難者の心に――。体験がすべてではない。が、体験は想像力を広げるきっかけになる。弱って少し、つらい思いをして暮らしている人たちに近づいたかと思う。

2012年12月29日土曜日

決死の行動


福島第一原発の西方約30キロ、大滝根山=写真=の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。3・11に福島第一原発が津波に襲われ、原子力災害現地対策本部が設置された際、本部長(経済産業副大臣)は市ヶ谷の防衛省からヘリで大滝根山へ飛び、レーダー基地の車で現地に入った。

門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所刊)を読んで知った。取るに足らない事実かもしれないが、わがふるさとの山が原発事故の最初期になにがしかの役目を果たした――そのことを胸に刻まないではいられない。

その山の西方約30キロ、郡山市に陸上自衛隊が駐屯している。駐屯地には消防車が配備されている。3・11の夕刻、原発側からの要請で福島市の駐屯地にある消防車と合わせて2台に出動命令が下った。翌3月12日朝にはもう、東電の消防車と連結して1号機への注水・冷却活動を始めている。建屋爆発にも遭遇した。これまた門田本で知った事実だ。

郡山に駐屯している特科連隊は「浜通りはもちろん、福島全体から隊員が集まった“郷土部隊”」だ。なかでも阿武隈高地の町村出身者が多いのではないかと思う。私のいとこがそうだったし、別のいとこの子がそうだ。自衛隊で技術を習得して独立する――そういう夢を語る人間も少なくなかった。

吉田所長以下、東電社員などが命がけで原子炉の暴走を止めようと奮闘した。その最前線に立ったのは、やはり地元出身の人間だった。その最前線に同じ地元出身の自衛隊員が加わっていた。

「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」。福島というふるさとに住むわが“隣人”たちの、決死の行動もまた胸に刻まないではいられない。

2012年12月27日木曜日

本のお見舞い


知人がわざわざ書店から本を買って持って来てくれた=写真。向田邦子著『眠る盃』(講談社文庫)は持病が亢進する前に、一志治夫著『宮脇昭、果てなき闘い』(集英社)は亢進した後に。

『眠る盃』には、草野心平が開いたバー「学校」にからむエッセー「新宿のライオン」が収められている。知人は心平研究家でもある。私も、周辺の人々の話題を含めて心平には興味がある。

『宮脇昭、――』は旧著『魂の森を行け 3000万本の木を植えた男の物語』の新版だ。こちらは病気見舞いだという。著者が大幅に増補・加筆して新版としたのは、84歳の宮脇さんが東日本大震災後、「森の防潮堤」構想を提唱し、「これが自分の最後の仕事」と多くの時間を割いているからだろう。

同構想は「大量に発生した瓦礫をマウンド(盛土)の中に沈め、その上に照葉樹の森をつくろう」というアイデアだ。照葉樹はタブノキやスダジイ、アラカシ、シラカシなどで、タブノキは東北の海岸部にも自生する。宮脇さんのいう「ふるさとの木」(潜在自然植生)だ。

わが家の近く、国道6号常磐バイパス終点に「草野の森」がある。2000年3月、宮脇さんの指導でタブノキなどのポット苗が植えられた。「ふるさとの木によるふるさとの森」再生事業だ。その12年後の、若く元気な姿を目の当たりにしているので、「森の防潮堤」構想には関心がある。瓦礫を処理する、いや生かす名案ではないか。

が、環境省は「一般廃棄物」の瓦礫をマウンドに埋めることをよしとしない。林野庁の管理する国有林での実施も難しい。そうしたなかで、液状化被害に見舞われた浦安市では「森の防潮堤」づくりがスタートした。岩沼市でも「千年希望の丘」プロジェクトが始動し、岩手県大槌町では「千年の杜」植樹会が行われたという。

「いまや宮脇の提唱する『瓦礫を活かす森の長城プロジェクト』には実に多くの心ある人々が共感し、あるいは関心を示している。実際9000万本必要とされる幼苗のために、東北地方でタブノキの種やカシ、シイのドングリを拾い、植え、苗を育てているボランティアは何百人もいるのだ」

この市民の力こそが「縦割り行政の壁を乗り越えて、前へ前へ突き進む」(本の帯)復興の真のエンジンになる。

2012年12月25日火曜日

クリスマスカード


師走に入って、大小2通のクリスマスカードが届いた=写真。ちょうど1年前、東京で「リッスン!いわき」が開かれた。その延長で、2月にはいわきで「フィール!いわき」、8月には平七夕祭りに合わせて「みんなでいわき!いわき市訪問ツアー」が開かれた。それに参加した首都圏その他の人たちの寄せ書きだ。

国際NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が3・11後、いわきで緊急支援活動を展開した。それが始まり。シャプラは現在、イトーヨ-カドー平店2階で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営している。主に借り上げ住宅に入居する津波被災者や原発避難者が利用している。

そのシャプラのスタッフによる、いわきと首都圏をつなぐ企画が「リッスン!いわき」などだった。旧知の豊間の大工とともに、東京といわきで3回、首都圏の人たちと顔を合わせ、言葉を交わした。以来、絆を深め、「いわきに思いを寄せる人たち」の動きをフエイスブックなどでつぶさに知ることができるようになった。

クリスマスカードは二重の意味で望外の喜びとなった。「いわきに思いを寄せる人たち」は「いわきの人間の親戚」のように思えること。そして、極私的なことだが持病が亢進して自宅静養を余儀なくされている人間には、精神的な酸素吸入になったということ。頭に血が戻る滋味豊かなクリスマスプレゼントになった。

2012年12月12日水曜日

地域医療連携室


いわき市立総合磐城共立病院の「地域医療連携室」=写真はリーフレット=の世話になった。かかりつけ医を通じて、スムーズに受診できる予約システムだ。

入院するほどではないが、解放されたわけでもない。アルコールについて聞くと、「アルコールで病気が悪くなってもよくなることはない」。体調がととのうまでアルコール(とブログ)を控えなくちゃ、という心境です。

にしても、共立は込んでいた。巷間いわれるとおりで、ドクターも、看護師も、患者も大変。次回も時間がかかると予告された。

2012年12月11日火曜日

ふくしまNGO協働スペース


カミサンが関係する国際NGO(シャプラニール)の北日本連絡会の集いが日曜日(12月9日)、福島市で開かれた。JR福島駅東口真向かいのビルの3階に「ふくしまNGO協働スペース」がある=写真。NGOを応援するNGO、国際協力NGOセンター(JANIC=ジャニック)が今年6月に開設した。そのスペースが集いの場になった。

JANICについてはシャプラニールが昨年3月、いわき市で支援活動を始めた直後に知った。シャプラの副代表理事大橋正明さんがJANICの理事長を務める。以来、いわきと東京で何度かお会いした。JANICはまた、県内外のNGO・NPOを支援するため、福島市に事務所を開設した。その所長竹内俊之さんともいわきで二、三度お会いしている。

JANICが運営する「ふくしまNGO協働スペース」については、遅まきながら今回初めて知った。竹内所長によれば、同スペースは①県内外の福島の人々を支援するNGO・NPOにとって、活動に関する情報収集・出会いの場となっている②震災支援にかかわるNGO・NPOであれば、シェアオフィスとしても無料で利用できる。

エレベーターで3階に上がれば、そこはもう協働スペースの入り口、というより「家」の中。カーペット敷きの広い事務スペースにはこたつまである。くつろぎやすい空間づくりを心がけていることがわかる。その奥、テーブルといすのある会議スペースだけがスリッパ着用だ。早起きしてやって来たのでこたつに入って昼寝を、と思わないでもなかった。

この「ふくしまNGO協働スペース」=JANICと、いわきのさまざまなNPOはつながっている。たとえば、交流スペース「ぶらっと」はシャプラニールが単体で運営する。JANICはそうしたNGO・NPOを支援する。いわきの視点、福島の視点、東京の視点――支援にもいろんな仕組みがあることを再認識させられた。

2012年12月10日月曜日

ほっかぶり白菜


夏井川の堤防沿い、農家の庭の畑に自家消費用の白菜がある。大きく結球している。あるとき、外葉がはがされ、ポリ袋のようなもので“ほっかぶり”をしていた=写真

いわきの山里では、師走に入ると白菜の先端部を稲わらやテープで縛る。結球した白菜は、外側の葉の先端が霜に焼けてチリチリになる。外葉に“鉢巻き”をして中の葉を寒さから守る農家の知恵だ。

鉢巻きをしないと、どうなるか。極寒期が過ぎるころから“葉ボタン”状になる。防寒のほかに、葉の展開を防ぐ役目もあるようだ。さらにはヒヨドリ対策。ヒヨドリは、1月後半には鉢巻きをした白菜をつつき始める。鉢巻きをしないと簡単につつかれる。被害を減らす工夫も兼ねているのだろう。

下流部の散歩コースの畑では、極寒期から春にかけて、白菜やキャベツがヒヨドリにやられる。でも、外葉をむいて“ほっかぶり”をした白菜は記憶にない。まあ、見た目はほっかぶりというよりは、“マント”を着たような感じのものもあるが。

先日、わが家に白菜が2株届いた。この冬、2回目の白菜漬けをする。小玉だから四つ割り、あるいは六つ割りにして干し、夕方には塩を振って重しをのせる。香り漬けにはユズの皮が欠かせない。買って来るかどうか、使うかどうか、悩ましいところだ。

2012年12月8日土曜日

「津波!避難!」


きのう(12月7日)夕方、5時18分ごろ。静かに揺れが始まった。夫婦で茶の間にいた。だんだん揺れが大きくなる。カミサンがそばの石油ストーブを消す。似ている、3・11の揺れに――そう思った瞬間、揺れが最大になった。玄関の戸を開ける。そのまま揺れ続ける家の様子をうかがう。さいわい倒れるものはなかった。

揺れが収まったあと、NHKのテレビを見る=写真。宮城県に津波警報、それ以外の太平洋沿岸に津波注意報が発令された。画面には赤い字で「津波!避難!」の文字が表示されている。

3・11を教訓に、呼びかける内容と口調も変わっていた。「東日本大震災を思い出してください」「命を守るために急いで高台に逃げてください」「今すぐ逃げてください」。叫びに近い、切迫感のある呼びかけだった。

いわきに住む人間(ばかりではないだろうが)は、大きな余震がくると、事故を起こした福島第一原発が気になる。津波が来るとなると、なおさらだ。「これまでのところ異常は報告されていない」というアナウンスがあっても、どこかで不安をぬぐいきれないでいる。ふだんでも100%安心できていないのだから当然だろう。

ところで、福島県の最大震度は4だった。震源地は三陸沖。青森、岩手、宮城県は最大5弱、栃木、茨城県もそうだった。なぜ福島は4なのか。

いわきでは、体感は5弱に近かった。カミサンは石油ストーブを消したあと、風呂に水があることを確かめ、すぐご飯を炊いた。心の底の底には3・11の不安と恐怖がわだかまっている。私もすぐ、車のガソリンのことが頭に浮かんだ。

2012年12月7日金曜日

室温0度


きのう(12月6日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。生ごみがバケツにいっぱいになった。無量庵の堆肥枠に生ごみをあける。同時に、菜園から三春ネギを何本か収穫する。冬がきて、甘く、やわらかく、香りのあるネギを食べたくなった。

雨上がりで、地面がぬれている。家を出るころには暗く、ライトをつけての運転だった。小川町・三島の夏井川にハクチョウたちがかたまって休んでいるのがぼんやり見えた。渓谷に入ると、夜が明けた。山霧がたなびいていた=写真

無量庵の対岸の落葉樹はあらかた裸になっていた。カエデが色あせ、葉を落としながらも、なおところどころに残っている。

無量庵の寒暖計は、室温0度。ちょっと早いかなと思いながらも、台所の温水器の水を抜き、洗面台のボックスの中の栓を締めた。繰り返し凍結・破損しているので、今シーズンは早めに手を打った。あとは堆肥枠に生ごみをあけ、三春ネギを5本ばかり掘り起こして、わが家へ直行するだけ――。

玄関から差し込まれていた回覧チラシ(各戸配付)=放射能検査結果=を見る。野菜や米、果物のほかに、野生キノコの線量が載っていた。クロカワ303、コウタケ1019ないし278、ハツタケ1432、マツタケ129ないし48ベクレル。ついでにイノシシ肉は3540ベクレル。

そういえば、前に地元の人と話したとき、マツタケは口にしなかったと言っていた。マツタケとコウタケは高級食菌。料亭などに卸すため、秋にマツタケ採りに専念する人がいる、という話を聞いている。結果的に経済的損失を受けた人もいたに違いない。――渓谷に身を置くと、考え方がたちまち「自然と人間の関係」に切り替わる。

2012年12月6日木曜日

「静かな家」に


家の前の市道の“へこみ”にきのう(12月5日)朝、アスファルトが盛られた=写真。区内会からいわき市に要望を出してからほぼ7カ月。昨年から続いていた家の振動がやっと収まった。

“へこみ”には理由がある。3・11前の正月、松の内が明けると、わが家の前の側溝と車道中央の下水管を直結する工事が行われた。集中豪雨になると歩道が冠水する。冠水防止対策を区内会として要望したら、年が明けて工事が行われた。

道路のアスファルトを切り、土を掘り起こして、側溝と下水管を直結した。工事が終われば土を埋め戻して、アスファルトを盛る。そのやり方が結果的に甘かったのだろう。アスファルトが時間を追うごとに沈む。乗用車程度ならいいが、トラックが通るとズン、グラッとなる。3・11では家の基礎にひびが入った。それも影響しているのかもしれない。

わが家に来た客人がドキッとする。われわれも、このごろはン?となる。一日に何十回と家が揺れ、「ズン」が「ズーン」と尾を引くようになった。我慢の限界だ。区長さんを通して市に応急処置を促した。

きのう朝、たまたま家の斜め前にある郵便局にはがきを出しに行ったら、市の道路パトロール車が止まっていた。2人が“へこみ”にアスファルトの盛り付け作業を始めるところだった。つぶさに作業を眺めた。

あとからもう1台、道路パト車が来た。なかにベテランがいて盛り付け具合をチェックする。その彼の話に納得した。

道路の土を掘り返して戻す段になったら、何回か細かく土を固めてやらないといけない。下水工事では一気に土を戻して上から一回固めただけだろう。地中にすき間が残っているから、車の往来ごとに沈むという仕儀になる。

要望して7カ月。「揺れる家」が「静かな家」になるのに1時間。「やっと順番がきたので」。それほど道路補修の要望が多いということなのだろう。

2012年12月5日水曜日

福島から始まる選挙


師走に入ったとたん、霜が降り=写真、昼には雪が降った。霜はともかく、いわきにしては珍しい12月1日の雪の洗礼だった。それから3日後のきのう(4日)、衆院選が公示された。

日本は昨年、大震災と原発事故に見舞われた。原発事故は福島県の浜通りで起きた。いわきはその事故を収束するための前線基地でもある。

野田首相は党としての第一声をいわき駅前で発した。「福島の再生なくして日本の再生はない」。昨秋の首相就任時につかったフレーズを再び強調したという(夕刊いわき民報)。

野田首相の来市は、3日・夕刊の折り込みチラシで知った。ほかの3党首もまた福島県内で第一声を上げることを4日の朝刊で知った。なるほど、「福島から始まる選挙」なのだ。

きのうの朝、街に用事ができたので、第一声の様子を見るべく行き帰りにいわき駅前を車で通った。急に雨がぱらついたり、やんだりする天気のなか――帰りに首相がマイクを握っていた。さすがに歩道は人で埋まっていた。

福島5区は浜通り南部のいわき市と双葉郡が選挙区域。双葉郡の有権者は各地で避難生活を送っている。6人の立候補者はいわきだけで遊説をすませるわけにはいくまい。いちだんと冷え込んだ師走に大変な選挙が始まった。

2012年12月4日火曜日

元気をくれるはがき


いわきの海岸部(豊間=写真)で津波に襲われ、今は内陸部で避難生活をしている知人がいる。私のブログを介して、息子さん(タイにいる)と、知人と、私とがつながっている――そういう実感を持てるのは、知人からときどき、タイ経由の感想をふまえたはがきが舞い込むからだ。

きのう(12月3日)届いたはがきには、家庭菜園で栽培している辛み大根・白菜・普通の大根のこと、タイの息子さんとの電話のやりとり、豊間の私の知人(大工)のことなどがつづられていた。

なかに厳しい体験がつづられてある。いつも魚をぶらさげて届けてくれる隣のおっちゃんがいた。津波が来襲した3・11の翌日。その「おっちゃんは私のすぐ近くで毛布に包まれており、そのそばに二人の警官が。私は遺体の名前をつげて」その場を離れるしかなかった。生き残った知人が身元確認をしたのだ。

それから1年8カ月、そのおっちゃんの奥さんが亡くなり、葬式が12月2日に行われた。はがきには「明日(2日)……葬式です」とあった。読み返すうちに文面がぼやけそうになった。

津波に遭遇した人の心には、今も3・11のできごとが映っている。だから、残った者はちゃんと生きるのだ――不思議なことだが、知人のはがきはいつも私に元気をくれる。

2012年12月3日月曜日

カブトガニ


うまいでも、まずいでもない。ベトナムのハロン湾で食べたカブトガニ=写真=のことだ。それに、日本のカブトガニのことを思い出して、少し罪悪感がはたらく。

9月に仲間と連れ立ってベトナムとカンボジアを旅した。そのことを、何回か書いている。最初の観光地はベトナム北部のハロン湾。「海の桂林」だ。観光船の中でシーフードの昼食になった。

ハロン湾に暮らす水上生活者(漁民)が、魚介類を売るべく小舟で観光船に近づいてきた。カブトガニがあるという。西日本のいくつかの市で天然記念物になっている「生きた化石」だ。日本人の感覚では、食べるのはなぁ――となる。

が、ベトナム、いや東南アジアでは食材の一つなのだろう。仲間が興味を示して、1匹買った。8ドル。1ドル80円だから640円だ。それを船のシェフが調理してくれる。

ゆでたか、いためたかしたのだろう。細かく刻まれたものが出てきた。うーむ、殻ばかりで身が少ない。あとでネットで調べたら、タイでは雌の卵を食べる。すると、これは雄か。

身が少ないから、味もよくわからない。残ったのは「話のタネ」だけだ。カブトガニはどうも日本人の口にはなじまないのではないか、と思った。

「話のタネ」のついで――。ガイドの青年の物言いがおもしろかった。われわれがアルコールを口にする。「飲み放題、払い放題です」。ユーモアのわかるガイドだった。

2012年12月1日土曜日

霜の降りる季節


おととい(11月29日)の早朝、散歩に出たら、北向きの駐車場の車に霜が降りていた。夏井川堤防のシロツメクサも白く霜に覆われていた=写真

6時半過ぎ。海からのぼったばかりの朝日が、橋や家や堤防を水平に照らす。堤防の南側の土手はすでに霜が解けて、草たちがきらきら光っている。日陰の北向きの土手は畑のへりの方が部分的に白い。空気が温められると、こちらの霜も解けて水滴になるのだろう。

散歩の効用はなんだろう。体にいいだけではない。空や山や川や畑や家々を眺めながらも、頭の中ではいろんなことを考えている。考えが整理されること、されなくても道筋が見えてきたりすること。それが大きな効用ではないだろうか。

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」ではないが、今、しなくてはならないこと、たとえば年一回、3月発行の雑誌のことなどを考えながら歩く。こうして、ああして。ああして、こうして――そんなときに“初霜”に出合うと、冬の寒さを実感する。「不思議の国のアリス」に登場する白ウサギが思い浮かぶ。

きょうから師走。かつてこの時期、夕刊の正月版づくりに忙殺されたことがある。それを思い出すこのごろ。気ぜわしい。

2012年11月30日金曜日

ツワブキの花


海岸のがけでこの時期、黄色い花を咲かせるものがある。ツワブキだと教えられたのは、もう三十数年も前のこと。すると、内陸部の民家の庭にも咲いているのが目に入る=写真。いわきでは結構、庭に植えられているのではないか。

わが家は米屋(カミサンの実家)の支店。店はカミサンが仕切る。店では、米のほかにちょっとしたつまみのようなものも売っている。仕入れ先は静岡の食品会社。ファクスで発注すると宅配便で届く。その会社からルートセールスの社員が来訪した。何の脈絡もないが、ツワブキは暖地の植物、彼も暖地の人間、などと思う。珍客だからだろう。

年に2回、顔を見せるのだという。スーパーなどの大規模店ではなく、幹線道路沿いの小売店を相手に取引をしている、地道な会社だ。昨年は3・11を受けて、お得意さん回りを中止した。3・11後、初の来訪だ。カミサンとしばらく話していた。

カミサンが、彼の話をかいつまんでいう。福島、宮城、岩手、そして青森までのお得意さんを巡って、津波被害の大きさを実感した。津波で店が流されたり、亡くなったり……。しかし、津波被害を免れた住民の要望で、プレハブ店舗で営業を再開したお得意さんもいる。そんな話を聴くと元気が出る。

そして、ここが肝心なのだが、静岡県には浜岡原発がある。津波被害に遭った東北を、さらに原発避難を余儀なくされた福島を自分の目で見て、それが静岡で起きたらどうなるか、を体で感じたらしい。静岡と福島を結ぶ、こうした細い回路も“当事者”には大切になる。

2012年11月29日木曜日

カラスの親指


またまたカラスの話で恐縮だが、この鳥はとにかく人間の上をいく。「燃やすごみ」の日に、わが家の前のごみ集積所に舞い降り、ごみ袋をつついて生ごみを食い散らかすようになった。少し離れた隣の集積所も、カラスの格好の“えさ場”だ。毎回、群れをなして舞い降りる=写真

「プラスチック容器類」の日は、生ごみは出ないから大丈夫と高をくくっていた。が、この日にも舞い降りてごみ袋をつつくようになった。歩道に散乱した「プラスチック容器類」を見ると、食べかすがついているようなものばかり。どちらかというと、これは「燃やすごみ」として出した方がいいものだ。

週2回の「燃やすごみ」どころか、週1回の「プラスチック容器類」までカラスに襲われる。カラスの記憶力と、ごみネットのすきまを狙ってつつくくちばしの正確さには驚き、あきれて、怒る前に力が抜ける。

朝7時過ぎから“たたかい”が始まる。<カラスめ、カラスめ>とぶつぶついいながら、左手にごみ袋、右手に庭ぼうきをもって、散乱したごみを片づける。おかげで、集積所のそばで集団登校のグループを待つ小学生の姉妹とはあいさつしあう仲になった。

ところで――と、話題を別のカラスに変える。映画「カラスの親指」がポレポレいわきで上映されている。どんな内容かは知らない。急にテレビのワイドショーで取り上げられるようになった。それで「カラスの親指」に興味を持ったわけではない。理由は別にある。

カミサンの同級生から電話がかかってきた。別の同級生からのはがきに、息子が「カラスの親指」の監督をしたので、みなさんにお伝えください、とあった。それで、電話をかけたのだという。

監督は伊藤匡史(ただふみ)さん。母親を介していわきにゆかりがある、ということになる。「カラスのくちばし」のいたずらはよろしくないが、「カラスの親指」はどんなだろう――久しぶりに映画館へ足を運んでみようか、などと思っている。

2012年11月28日水曜日

光のさくら


いわき駅前大通りのケヤキ並木に「光のさくら」が咲いた=写真。夕方の4時になると、ソメイヨシノの花のかたちをしたLED電球に光がともる。光の印象は青みがかった、淡い紫色だろうか。

双葉郡富岡町にある夜ノ森公園はソメイヨシノの名所。春になると、いわきからも夜桜の下で一献を、というグループがあって、誘われたことがある。

都合がつかずに夜桜は見そびれたが、日中、満開の桜のトンネルの中を、車を走らせたことはある。規模が半端ではない。後年、ソメイヨシノの苗木を植え続けた一人の人間の思いが、公園に結実したことを知る。

ソメイヨシノは江戸時代後期、人間が作り出した桜だ。西行が愛した桜は、言うまでもない。山桜。明治になって、急速にソメイヨシノが普及した。戦争に勝つたび(日清、日露)、記念樹として各地に植えられた。寿命は100年前後らしいから、今はどうなっているか。

西行は「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」と詠んだ。それは、自然と人間の関係がそこなわれずにすんだ時代、公害がどうの、地球温暖化がどうの、原発事故がどうの、と考えずに済んだ900年も前のことだ。

「桜の花の下にて春死なん」などという旅人のことばは、福島県の浜通りにはいらない。いつかは「桜の下にて春生きん」、その祈りを照らし出す「光のさくら」だ。双葉郡から避難している人たちを知るにつけ、そんな思いが強くなってくる。

2012年11月27日火曜日

濡れ縁の効用


夏井川渓谷にある無量庵の縁側は、前には幅が30センチ程度だった。3年前の初冬、いわきで大工をやっている中学校の同級生に頼んで、幅1・5メートルほどの濡れ縁に替えた=写真。そこに座って目の前の渓谷林を眺める、というのが狙いだった。

ところが、無量庵へ行けば雑仕事がある。庭の片隅に菜園をつくって以来、行くたびに草引きをする。生ごみを埋める。家の周りをチェックする。森を巡る。濡れ縁に座って対岸の林を眺めながら、<ああ、きれいだ>などと陶然とする時間はほとんどない。

が、濡れ縁にした効果はあった。布団が干せる。だれかが来たときに、そこで語らうことができる。夜にはテンなどもやって来る(ふんがあるので分かる)。

留守の間にやって来て、濡れ縁で一服する知人がいる。11日の日曜日に実施された夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタで、私らと一緒に案内人を務めた学校の元校長先生。「留守のときでもここで休ませてください」「どうぞ、どうぞ」。留守のときが多いのだ。濡れ縁が広くなったからこその“縁”だろう。

きのう(11月26日)は、わが家にカミサンの知人が来て似たような話をしていた。夏井川溪谷へ紅葉を見に行ったとき、無量庵の濡れ縁で一休みしたのだとか。「どうぞ、どうぞ」。私らを知っているだけに、瞬間的ではあっても臨時の管理人になってくれる。なにかあれば連絡がくる。

むろん、そうではない人たちも入ってくる。たばこの吸い殻やごみがあるので、それとわかる。「来たときよりきれいにして帰る」なら、どなたでも歓迎だが、現実にはそうはならない。そこが悩ましい。

2012年11月26日月曜日

やっとハクチョウ定着?


この秋、ハクチョウが早々といわきへ飛来した。が、夏井川にある3カ所の飛来地のうち、最下流の平・塩~中神谷地内には、すぐには姿を見せなかった。現れても朝のうちだけ。日中は姿がない。飛来から1カ月半がたった今、ようやく定着しそうな一群が現れた=写真。全体では60羽ほどか。

きのう(11月25日)は日中、夏井川と新川との合流点から少し下流に、5羽、10羽、20羽といったかたまりで散開していた。おとといもほぼ同数のかたまりがいた。

ハクチョウについては何度もこの欄で書いている。が、今年は特別な気持ちがはたらく。3年も前に姿を消した残留コハクチョウの「左助」が姿を現した。今はまたどこかへ消えたが、ハクチョウの群れのなかに「左助」がいないか、探る楽しみが増えた。

新聞折り込みにさまざまなフリーペーパーが入ってくる。そのなかの一つに、川に引かれる人間の話が出てくるコラムがあった。それを読んだあと、しばし川とハクチョウ、川と人間、川とふるさと(夏井川はわがふるさとの山が水源だ)などに思いが巡った。

コラムには「思い屈したとき、川に吹く風に身を浸してみることをおすすめします」とあった。そんなときこそハクチョウは人間を慰撫してくれるにちがいない。

2012年11月25日日曜日

カンボジアのスズメ


シェムリアップのレストランで昼食をとったあと、店の前で専用バスを待っていたら、そばの広告塔にスズメがやって来た=写真。ネオンらしいのだが、カバーが壊れている。中に巣があるのだろう。カンボジアにもスズメがいる――妙な感慨にひたりながら思ったのは、スズメとイエスズメのどちらか、ということだった。

60歳になって、10代後半を一緒に過ごした同級生たちと海外旅行を始めた。北欧、台湾、そしてベトナム・カンボジア。圧倒的に多い観光情報に留まるな、周りの植物・鳥・キノコも意識して見よ――自分に言い聞かせて、すぐそばの自然にカメラを向けてきた。

北欧のキノコ(店で売っているアンズタケ以外は特定できず)、鳥のコクマルガラス、カササギ、イエスズメ。台湾の鳥・ペタコ(シロガシラ)、街路樹のハクセンソウ(白千層)。そして、ネギ。ネギは台湾も、ベトナムも葉ネギだった。東南アジアは葉ネギの食文化であることが、道路沿いの畑からわかるのだった。

さて、カンボジアの自然だ。遺跡に根を生やしたガジュマルは逆に人を引きつける観光資源になっていた。

人々の暮らしのそばにある小さな自然はどうか。雨に降りこめられたこともあって、つぶさに眺める余裕はない。その中で目に入ったスズメだ。スズメはほっぺたが黒く、イエスズメは白い。撮った写真を拡大してみると、日本のスズメと同じようにほっぺたが黒かった。そんなことがわかるだけでなにかいい気分になるのだった。

2012年11月24日土曜日

正しいごみの出し方


「燃やすごみ」の日になると、家の前にある集積所がカラスに荒らされる。その対策として一計、二計、三計を案じた。一計=ごみネットをかぶせる。二計=ごみを出す人間のためにボードに注意書きを張って立てる。三計は、カラス相手に“カカシ”(人型ハンガー)を立てた=写真。この1カ月余の間のことだ。

人間には、生ごみが見えないように紙で包む、レジ袋に入れるといった、ごみの出し方についての注意を喚起するしかない。ところが、一度生ごみをつついたカラスは、生ごみが見えなくてもあるはずだと決めてかかっているようだ。容器包装プラスチックの回収日でもごみ袋をつつくようになった。

わが家の前の集積所だけではない。別の集積所でも同じような問題が起きている。「この頃ゴミ集積所のゴミ散乱が目立っています」。先日、注意を喚起するチラシが隣組を通じて回ってきた。

ごみ収集作業に携わる人によると、カラスそのものが増えているらしい。それを受けての勝手な想像。スズメは人間がいるところに生息する。カラスも「都市鳥」化した。原発避難によって人がいなくなった双葉郡では、事故前と後とで数に変化はないか。スズメも、カラスも、人がいなくなったので、人のいるところに移動した個体があるのではないか。

ともあれ、人間がスキを見せるとカラスにつけこまれる。正しいごみの出し方を。

2012年11月23日金曜日

線量は低減傾向


4月から月に1回、行政区域内=写真=の放射線量を定点10カ所で測定し、結果を回覧している。11月の測定をしたのに合わせ、これまでのデータを整理してみた。

4月から11月まで8回測定したわけだが、なにが読みとれるか。まずいえるのは、線量が低減傾向にあることだ。放射性セシウム134は半減期が2.1年、セシウム137は30年。セシウム134は、来春には半減する。低減傾向はその流れを反映しているのだろうか。

4、5月は毎時0.2マイクロシーベルト以上だったのが、6月に入ると0.1台にとどまるポイントが出てきた。10地点で高さ1cm、1mの線量を測るから、記録されるのは20ポイント。その後、0.1台が増え始め、10~11月は7~6ポイントで0.2を切った。

高さ1mの、4月と11月のデータを単純に比較すると、11月は5地点で15~18%減、ほかも20%、10%、2%減だった。

なかに県営住宅集会所がある。雨樋の吐きだし口2カ所をチェックしている。軒から柱に沿って垂直に垂れる樋が壊され、雨水が垂れ流し状態だった。6月のチェック後に取り換えられた。こちらも劇的に線量が下がった。

「放射線・除染」講習会のテキストを読んで知った言葉だが、線量の低下の一因に「ウエザリング効果」というのがある。風雨などによる「自然要因の減衰」だ。「放射性物質の物理的減衰」とは半減期のことだろう。数字を記録し、解釈し、それに一喜一憂をする、そんな状況に身を置いている情けなさ、悲しさ、むなしさ、腹立たしさ。

2012年11月22日木曜日

リンドウの庭


庭のリンドウが花盛りだった=写真。亡くなってもう10年。懇意にしていたドクターの家を訪ね、線香をたむけた。

昨年は3・11後、ずっと「非常時」のままだった(今もその感覚に変わりはないが)。命日の11月15日を前に、奥さんから電話があった。「用事があって留守にするから」。没後、初めて焼香を休んだ。

3・11後、知り合いから連絡があれば、何でも取りに行く。洗濯機や衣類、ふとん、本……。衣類などは津波被災者と原発避難者に回す。奥さんからは、その前からときどき連絡があった。ドクターの蔵書を「整理したので」。シャプラニールの「ステナイ生活」に送った。

今度もカミサンが電話をすると、布団と座布団があるという。命日には用事があるというので、きのう(11月21日)、焼香を兼ねて取りに行った。

ドクターに出会うまではステロタイプ的にこう思っていた。医師は仕事が終わると、ストレスを発散するために田町へ行く。田町は、いわき市の代表的な飲み屋街だ。が、ドクターは違っていた。自宅にこもって読書に費やす。もちろん晩酌もする。蔵書から、そうした生活が容易に想像できた。そのうちの何冊かが手元にある。

11月15日は七五三の日。それで、必ずドクターを思い出し、ドクターの家の庭に咲くリンドウを思い出す。私的には「竜胆(りんどう)忌」の日だ。リンドウの青紫色が鮮やかだった。

2012年11月21日水曜日

東洋のモナリザ


旅の効用だろう。東南アジア諸国連合と日中韓の首脳会議がプノンペンで開かれた、というニュースに、カンボジアの自然・人間・遺跡群、なかでも「東洋のモナリザ」と称される「バンテアイ・スレイ」の女神のレリーフ=写真=がパッと思い浮かんだ。

9月中旬の後半、学生時代の仲間とベトナム・カンボジアを旅した。カンボジアではプノンペンの北方、シェムリアップのホテルに泊まり、アンコールの遺跡群を見て回った。

実質二日の初日、アンコールワットの「夜明け」を体験した。雨季の終わり、つまり雨がとめどなく降ってくる時期。曇っていて朝日は拝めなかったが、間もなく降ったりやんだりの一日になった。次の日もそうだった。

アンコールワットの夜明け体験のあと、ホテルに戻って朝食をとり、最初に出かけた遺跡が「バンテアイ・スレイ」だった。「東洋のモナリザ」たちがほほえんでいる。実際、心が吸い寄せられ、見ほれた。右手で傘をさし、左手で写真を撮る。斜めになった。しかたない。

この遺跡は10世紀につくられたという。ほほえみをたたえた女神は時間を超えて美しい。そこが魅力の源泉なのだろう。

旅行者の共通した心理だと思うが、帰国したあともその国のことが気になる。テレビについていえば、ついつい旅行番組を見てしまう。北欧、台湾、ベトナム、カンボジア。観光というのはそういうものなのだろう。

2012年11月20日火曜日

ユネスコの被災学校支援


土曜日(11月17日)に、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。同会幹事でいわきユネスコ協会事務局長の佐久間静子さんが「いわきユネスコ協会の活動について」と題して話した=写真

ユネスコの名前はよく聞く。いわきに協会があることも承知している。が、どんな活動をしているのか、私を含む市民は、実はよくわかっていないのではないか。地域を多面的に見るうえでは、専門的な講座だけでなく、こうした活動報告もありだな、と思った。

ユネスコの正式名称は「国際連合教育科学文化機関」。ユネスコ憲章にある「平和のとりで」を人の心の中に築く活動をしている。具体的には識字率の向上、義務教育の普及、世界遺産の登録と保存などだという。協会の会員に元教師が多い理由がここにある。

昨年、いわきの協会を介して日本ユネスコ協会連合が行った被災学校への支援活動がどんなものだったのか、佐久間さんの報告でよくわかった。

1校あたり150万円、計10校(津波被災幼稚園・小・中・高校6、4月11日の余震被災中学校1、放射能避難小・中学校3)に1500万円の備品支援が行われた。

たとえば、津波に襲われた海星高校。「じゃんがら念仏踊り」の太鼓一式、テレビ、トランシーバー、テレビ用アンテナ工事、ワイヤレスアンプ、横幕などの備品をそろえた。豊間中はデジカメ3台、ビデオカメラ1台、冷蔵庫1台、ラック2台、ワゴン16台、応接用テーブルなど。

ポイントはこれらの備品を地元の業者から調達したことだ。中央の業者に一括発注すれば楽かもしれないが、それでは地元にカネが下りない。地元業者を利用することで地元経済界への震災支援にもなる。佐久間さんらは半年余、被災学校支援に奔走した。

2012年11月19日月曜日

地元学からの出発


いわきの山里=写真=にも通じる話だった。11月16日、いわき駅前のラトブで市主催のまちづくり・未来づくり講演会が開かれた。民俗研究家の結城登美雄さんが「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」と題して話した。

結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。宮城県の旧鳴子町(現大崎市)での「鳴子の米プロジェクト」では総合プロデューサーを務めた。

結城さんと哲学者の内山節さんが対談している、内山節著『共同体の基礎理論』(農文協刊)によれば、市場原理ではなく、一種のフェアトレードとして、米の地域内流通を進める、というのがプロジェクトの目的のようだ。

その過程で多彩なおむすびができる、おむすびを入れる漆塗りの器ができる、くず米を使ったパンができる――といったように、新しい仕事が生まれ、おカネが地域を循環する可能性がみえてくる。

自然とともに生きる村にこそ可能性がある、未来がある――。結城さんは鳴子のほかに、岩手県・旧山形村(現久慈市)の「バッタリー村」、沖縄や宮城県丸森町の「共同店」などの事例を紹介した。

「バッタリー村」の憲章。「この村は与えられた自然立地を生かし この地に住むことに誇りを持ち ひとり一芸何かをつくり 都会の後を追い求めず 独自の生活文化を伝統の中から創出し 集落が共同と和の精神で 生活を高めようとする村である」

結城さんは講演冒頭に、地元学の要諦を語った。「ないものねだり」ではなく「あるもの探し」をする、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す――グローバリズムの経済とはちがったローカリズムの経済、それこそが村には必要なのだ。

結城流「よい地域であるための7カ条」も記しておこう。①よい仕事②よい居住環境③よい文化④よい学びの場⑤よい仲間⑥よい自然風土⑦よい行政――があること。6番目の自然風土が村のあり方を決める。

2012年11月18日日曜日

七五三


「七五三のおまいりをする」というので、きのう(11月17日)の土曜日、平・飯野八幡宮へ出かけた。晴れ着姿の親子連れが次々に訪れていた=写真。ジイバアもいる。こちらもその一人だ。

曇り、ときどき微雨。順番がきて、拝殿のなかに4組ほどの家族がそろった。まとめておはらいを受けた。このグループの主役は5歳、3歳児の6人。

5歳と3歳では体格が違う。落ち着きが違う。神妙に座っている5歳児、わけがわからずに体を動かす3歳児。大人にも通じない祝詞(のりと)が幼児に通じるはずはない。が、なにか自分たちが中心の行事、という感覚はあるらしい。

なるほど人間はチンパンジーとは違う、と思ったのは、玉串奉奠(たまぐしほうてん)だ。若い神官にうながされて「2礼2拍1礼」をする。次の子、そのまた次の子がたちまち学習し、神官の言葉にあわせてそつなくこなす。3歳児もそれらしいかたちをとる。

多摩動物公園でチンパンジーの飼育係をしていた知人がいる。知人の本や、テレビの番組を通して類人猿の学習能力の高さは承知していた。人間同様、しっぽがないということも。

で、ヒトの子も最初はチンパンジーの子と変わらない、などとみていた。が、3歳を過ぎたあたりからぐんぐん知恵がついてきた。ヒトに近づいてきた。背広を着てネクタイを締めた5歳児は、思った以上に“紳士”だった。

2012年11月17日土曜日

ケヤキの落ち葉


いわき駅前大通りのケヤキが落葉して歩道にたまっている=写真。車道のへりも落ち葉に覆われている。この時期、沿道の店の人たちが片づけても間に合わないのだろう。

別の場所だが、知り合いの店の前に公園がある。何年か前、知り合いが落ち葉をごみ袋に詰めていた。「燃やすごみ」として集積所に出すのだという。それはもったいない。翌日だったか、乗用車に積めるだけ積んで夏井川渓谷の無量庵へ運んだ。街の落ち葉を山に返す(家庭菜園用に堆肥枠に入れる)――そんな気持ちからだった。

その山里で落ち葉が降る、道路にも、線路にも。線路に落ち葉が積もると、列車の車輪が空回りする。そうならないよう、早朝、地元の人が自発的に近所の線路を見て回ると聞いたのは十数年前。今、別の人がそれを引き継いでいるかどうかはわからない。

先日、落ち葉で列車が空回りして遅れた、という新聞記事を目にした。切り抜いているわけではないからうろ覚えだが、磐越東線も、西線もそんな事態に見舞われた。

いわき駅前の大通りは、両側にケヤキが列をなす。震災の影響で空っぽになったビルもある。空きビルと落ち葉という取り合わせは少し寒い。それを温かい情景に変えようと、間もなくケヤキにイルミネーションが飾られる。

2012年11月16日金曜日

災害情報と避難


「広報いわき」11月号が隣組を通じて各戸に配布された。震災時の情報入手などに関する市民アンケート結果が載っている。無作為抽出の市民を中心に1261人が回答した。あとで市のホームページに掲載された資料をダウンロードして読んでみた=写真

広報紙に載ったのは10項目余の質問からピックアップされた5項目。震災時に①どんな情報を必要としたか、なにからそれを入手したか②避難したか、いつ避難し、いつ戻ったか――簡単にいえば、「災害情報と避難」の2本立てだ。

必要とした情報を、災害発生から1週間、1週間~1カ月、1カ月~2カ月と、3段階に分けて尋ねた。「原発事故の状況・放射線量」がダントツに多い。しかも、時間がたつほど必要としている人が増えた。次に多かったのが「生活関連」、そして「ライフラインの復旧状況」で、こちらは時間がたつほど減っている。

なにから情報を入手したか――。「テレビ」がどの時点でも90%前後と圧倒的に多い。震災直後は「一般ラジオ」37%、「FMいわき」29%、「新聞」31%で、いわきも津波被害に遭ったとはいえ、多くの住民が住むマチ(内陸部)で電気が通じていたのが、こんな結果になったのだろう。沿岸部に絞った調査ならまた違う結果になったと思われる。

避難の有無では、「した」698人(55%)、「していない」553人(44%)、無回答10人(1%)=広報紙と人数が違っているが、「あとだし」の方が正しいと判断。避難した日は「3月15日」24%がピークで、「3月11日」9%は市内への避難が大半だった。津波被災者が避難したあと、一気に市外へと原発避難が行われた、と読める。

避難から戻った時期は「3月ごろ」50%、「4月ごろ」25%と大多数は2カ月以内に戻っている。

テレビとラジオから情報を入手し、原発建屋の爆発映像を目にして、いわき市民の緊張感、危機感は3月15日にピークに達した。マチに住む人間の一人として、おおよそアンケート通りの行動をとった。ハマ(沿岸部)・マチ(内陸部)・ヤマ(山間部)と分けられるいわき市の広域性を反映した結果だと、つくづく思う。