2022年2月28日月曜日

北帰行が始まった?

 どうやらハクチョウの北帰行が始まったらしい。1月末の極寒期を過ぎたあたりから、少しずつ数を減らしていった。といっても、毎回、同じ時間にカウントしているわけではない。

 朝、あるいは昼に、夕方に街へ出かけると、帰りは夏井川の堤防を利用してハクチョウをウオッチングする。そのとき、水辺で休んでいる個体を数える。

といっても、前より多い、少ない――その程度、つまり感覚だ。その感覚でいえば、ピーク時の半分になった。

 場所は新川合流点(平・塩)から国道6号・夏井川橋(同・中神谷)までの、ざっと2.5キロ区間。対岸は平・山崎だ。

両岸の河川敷は、令和元年東日本台風被害からの復旧・国土強靭化事業のなかで、立木伐採・堆積土砂撤去が行われた。

この冬は工事車両が消えたこともあって、塩地内に集中していたハクチョウたちが下流まで、広く散らばって羽根を休めている。

なかでも、中神谷の調練場~天神河原と対岸・屋越(山崎)の広大な河川敷には大集団が飛来するようになった。合わせると200羽、いやそれ以上はいただろう。もしかしたら300羽前後、これがピーク時の数だ。

2月下旬、昼前に堤防を通った。川で休んでいたハクチョウが5羽、飛び立ち、旋回してどこかへ去った=写真。北へ帰る準備か――ふと、そう思った。

 上流の小川町三島の夏井川に、けがをして残留したコハクチョウがいる。えさをやっている女性が「エレン」と名付けた。

 「白鳥おばさん」によると、エレンは飛べるようになった。とはいえ、ふるさとの北極圏へたどり着けるまでに回復したかどうか。

 長い旅のルートを思う。『鳥たちの旅――渡り鳥の衛星追跡』(樋口広芳=NHKブックス)によると――。

 1990410日、北海道のクッチャロ湖で送信機を付けられたコハクチョウはサハリンへ渡り、ロシアの北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達し、やや北東部に移ったところで通信が途絶えた。

そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だ。クッチャロ湖から繁殖地までの距離は3083キロ、3週間あまりの旅だったと同書は言う。

このコハクチョウは1986年から毎年、長野県の諏訪湖に飛来し、送信機を付けられた1990年の秋には幼鳥1羽を連れて現れた。色足環で確認された。

ハクチョウの寿命がどのくらいかは分からない。が、北の繁殖地と南の越冬地をどう往来するのかは、この本から少し分かった。

ある年の3月中旬の夜更け、わが家の上空をハクチョウが鳴きながら通り過ぎた。慌てて戸を開けたが、既に姿はなかった。十六夜の月が南天近くで輝いていた。月明かりを頼りに北へ飛び立つグループもいるのだろう。

 ハクチョウのふるさとを思い浮かべながら、複雑な気持ちになる。留鳥のヒヨドリは「ピース、ピース」と鳴く。ロシアのハクチョウも、今は「ピース、ピース」と鳴きたいのではないか。 

2022年2月27日日曜日

『小名浜浄光院誌』

共著者の急死、東日本大震災の津波被害、原発事故避難。およそ25年をかけて1冊の本ができあがるまでには、失意と困難を乗り超えて再始動する意志の力と周囲の協力があった。

いわき地域学會の先輩で歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)から、『小名浜浄光院誌』の恵贈に預かった=写真。ほぼ週刊誌サイズの大きさで2段組み、ざっと390ページという大冊だ。分量ももちろんだが、内容の濃さに感服した。

小野さんと、盟友の故佐藤孝徳さん(江名)の共著だ。本ができるまでの経緯が「あとがき」につづられる。

江戸期前半、磐城平藩を治めた内藤家に松尾芭蕉のパトロンでもあり、俳人としても知られた貴顕がいる。内藤露沾。江戸から磐城に下った露沾は領内の小名浜を巡遊し、「小名浜八景」を詠んだ。

中に「虎山の晩鐘」がある。今も続く浄光院の「時の鐘」をうたっている。平成9(1997)年、住職の熱意と佐藤・小野さんの尽力で境内に「小名浜八景碑」が建立された。

住職は「寺史」へも強い思いを持っていた。しかし、寺は戊辰戦争のあおりで焼失、文献史料は期待できない。従来の寺史とは異なるものをつくろう――2人が役割を分担し、調査・執筆を始めた。

ところが、平成22(2010)年5月、佐藤さんが急死する。翌23年3月には東日本大震災が発生し、小野さんの家も床上まで津波被害を受けた。地震で書棚から落下した本や史料が泥まみれになった。そこへ原発事故が起きる。しばらくは首都圏への避難を余儀なくされた。

「寺史」の執筆の気力は萎(な)え、中断の日が続いた。とはいえ、小野さんの家は古くからの寺の檀家だ。いくら思い屈しても放っておくわけにはいかない。逃げられない。思い直してあらためて向かい合うまでには、なお時間がかかったという。

草稿状態で残された佐藤さんの原稿を読み解いてパソコンに入力する協力者がいた。全体の文章のチェックや史料との校合を引き受ける協力者もいた。

アフターファイブに佐藤さんの仕事を手伝ったことがある。『昔あったんだっち――磐城七浜昔ばなし300話』(いわき地域学會、1987年)と、『浄土宗名越派檀林専称寺史』(1995年)の文章整理と校正を担当した。

それで、ハマの昔話といわき地方の浄土宗の歴史的展開を知ることができた。校正の役得というよりは学恩そのものだった。

小野さんと佐藤さんの友情も近くで見てきた。佐藤さんの三回忌には、小野さんが共著『ふるさといわきの味あれこれ』(非売品)を霊前にささげた。

 平成8(1996)年、朝日新聞福島版に佐藤、小野さんが「ふるさとの味 いわきから」を連載した。それを小野さんが冊子にした。

平成7年に市が刊行した『いわき市伝統郷土食調査報告書』は、佐藤さんが中心になって調査をし、小野さんも執筆している。私は編集・校正を担当した。こうしたチームプレーのなかでいわきのあれこれを学んだ。

 『小名浜浄光院誌』は一つの寺の歴史にとどまらない。地域とのかかわりの中で、広く宗教や文化、生活誌として読むことができる。そして、もう一つ。本ができるまでの友情の物語も秘めている。そのことをかみしめる。 

2022年2月26日土曜日

庭のヤツデ

                      
    夏井川渓谷の隠居の庭にはフキが自生している。いつもだと、師走のうちからフキノトウが現れる。正月になるとすぐ、雑煮やみそ汁にちらしたり、てんぷらにしたりする。ところが、今年(2022年)はまだ1個しか見ていない――。

 ブログでつぶやいたら、ハマに近い農村部に住む後輩が「庭に出ていたから」といって、大きなフキノトウを持ってきた=写真上1。

 いやあ、ありがたい。カミサンがすぐてんぷらにした。翌朝は、みじんにしてみそ汁にちらした。春を感じる強い香りと苦みだった。

 大地は冬のうちに春を準備する。凍土がゆるむと緑が芽生える。フキノトウはその一つ。地上でも木の芽が春を待つ。庭の梅の木が満開になった。

人間も「光の春」のなかで庭に立つ時間が増えてくる。スイセンの芽に春を感じるだけではない。植えたこともないヤツデ=写真上2=があちこちにあることに気づく。

なんでヤツデが生えているのか。最初に不思議に思ったのはもう何十年も前のことだ。先日、また思い出して数えたら、白い実を持ったものから芽生えて間もないものでまで7本あった。

 これはまちがいなく鳥が介在している。庭にひんぱんにやって来るのはヒヨドリ。ムクドリも、冬鳥のツグミもいるが、確率的にはヒヨドリが“播種者(はしゅしゃ)”の可能性が高い。

 住宅地とはいえ、もともとは旧街道沿いの田畑だったところ。古くからの家は庭が広い。屋敷林もある。丘陵も近い。野鳥にとってはえさ場と休み場を兼ねたグリーンスポットが点々とある。

 ヤツデは典型的な陰樹だ。日光が少ないところでも育つ。初冬に咲いた白い花は翌年の初夏、黒く熟する。ある大学の観察によると、この実には種が五つ入っている。

ヒヨドリたちが実を食べる。胃の中で糖分を吸収したあと、残りをフンとして出す。フンのなかにはヤツデの種が入っている。

どこかよそでヤツデの実を食べ、わが家の庭に来てフンを落とす。それがたまたま活着して根づき、あそこにもここにも、となったのだろう。

小さな庭でさえ、絶えず自然と自然の交流、自然と人間の交流が行われている。生垣のサンゴジュがいつの間にか枯れ、軒下にアシナガバチが巣をかける……。

プラムは菌類がとりついた。長男の小学校卒業記念に苗木を買って植えたのが35年以上前。二股になった幹の片側にサルノコシカケの仲間が生えてきた。とりあえず片側部分は切断した。

何も手入れしないで、自然の移り行きのままにしておいたら、この小さな庭も雑木林になる? とはいえ、ヤツデばかり増えてもなぁ……。

2022年2月25日金曜日

スマホ充電

                      
   ガラケーからスマホに切り替えてちょうど2年になる。そのときの顛末はこんな感じだった(拙ブログから)。

令和2(2020)年2月――。「2月末でポイントが失効する」「修理受付が終了となる」。矢継ぎ早に封書が届いた。予約した時間に夫婦で店へ行って、ガラケーからスマホに切り替えた。

 ガラケー自体、電話できればいいのだからと、簡単なものにした。スマホも同じ。通話第一でいい。夫婦で説明を聴き、必要な初期設定をしてもらい、使い始めた。

インターネットにつないで、検索もしてみた。このあたりはノートパソコンで“在宅ワーク”をやっているので、なんとなくわかる。大きくて重いノートパソコンがてのひらに納まった感覚だった。

カメラには「花認識モード」がある。カシャッとやったらAIが候補の名前を出してくれる、とある。キノコはどうか。移動図書館から借りた佐久間大輔著『きのこの教科書――観察と種同定の入門』(山と渓谷社)を読んでいたら、スマホを利用した撮影法が載っていた。デジカメと併用しよう。

そう考えたのはいいが……。いまだに実行していない。やはり花も、キノコも、鳥も、写真は今まで通りデジカメに頼っている。

結局はほとんどが通話に使うだけ。そして、たまにショートメールをのぞくだけだ。そんなわけなので、いつも充電が後回しになる。

ホーム画面の下にはバッテリーの容量を示す乾電池のマークがついている。充電する習慣が身についていないので、マークもたまにしか見ない。「残り電池がわずか」。画面に表示されて初めて、あわてて充電器を取り出す。

日曜日の朝、スマホの充電マークがかなり減っていた。これは夏井川渓谷の隠居で充電するしかないか。

初めて隠居に充電器を持ち込んだ。充電器をコンセントに差し込みながら、スマホを忘れないこと――そう自分に言い聞かせる。

隠居ではこれまで何回か、泊まり込みでミニ同級会を開いてきた。そのとき、首都圏に住む1人が充電器を床の間のコンセントに差し込み、ケータイごと忘れて帰ったことがある。

途中で彼はケータイを忘れたことに気づいた。隠居にはもう誰もいないだろう、ここは私の家に電話をかけるしかない。結論からいうと、それが正解だった。電話を受けたカミサンが私のところへ連絡して、わが家で彼にケータイを渡すことができた。

それが頭にあったものだから、出窓のコンセントに充電器を差し込んだ=写真。そこにはラジオの電源プラグを差し込んでいる。隠居を離れるときには必ずこれを抜く。スマホを忘れることはない。

ま、こんな調子だから、「スマホ歩き」はしたことがない。する気もない。手のひらの画面ではなく、人間を包みこんでいる空を見る、光を、風を感じる。渓谷が、街が発する情報を全身で受け止める。やはり、これが一番。

2022年2月24日木曜日

直売所のたくあん

                    

  自前の白菜漬けだけではあきるので、直売所を巡ってはいろんな漬物を買って来る。三和や四倉では味噌漬け、平窪ではたくあん漬け……。

阿武隈の山里には「一升漬け」がある。冬を迎えたころ、漬けて塩抜きしたシソの実と青トウガラシ各一升に、麹(こうじ)、醤油各一升を加えて甕に漬け込む。青トウガラシにナスやミョウガ、キュウリを加えて一升とすることもある。これも、あれば買う。

 白菜漬けにしろ、たくあん漬けにしろ、子どものころに食べて味蕾に刷り込まれた味・食感が「標準」になるようだ。

 梅干しは、赤ジソのアントシアニンの色が美しいものに限る。赤ジソと塩だけでつくる。なかでも、カリカリの梅漬けに引かれる。おふくろの味だ。

宮城県角田市の梅干しも、赤ジソと塩以外は添加物が入っていない。これを売っているスーパーがあった。ときどきカミサンが街へ出たついでに買って来た。

かつお節風味の「かつお梅」、はちみつ入りの「はちみつ梅」などは、どうしても手が出ない。おふくろの味の記憶が「甘い梅干し」を遠ざける。

たくあん漬けは、その点ではあまりこだわらない。いろんな家のたくあんになじんでいたからだろうか。

 先日は川前でつくられたたくあん漬けを買った=写真。ほどよく軟らかくて食べやすかった。後日、また同じたくあん漬けを買ったら、前よりは硬い。何が違うのだろう。大根の種類? 干し方? 若い仲間が来たのでその話をすると、畑1枚でも土が違うということがあるのでは、という。

それで思い出した。戦前、長野県の小・中学校で教鞭をとった地理学者に三澤勝衛(1885~1937年)がいる。

人が拠って立つ生活圏でもある風土を知り尽くすことが自然を活用した産業を育成する基礎になる。田1枚、あるいは畑1枚でも土壌や風や日照量が異なる。その環境に適した作物を選べ――。これが「三澤地理学」のポイントだ。

 三澤地理学とたくあん漬けの硬さ・軟らかさがどう結びつくかはわからないが、自然を活用することの大切さを教えてくれるエピソードではある。

 風土の違いでいえば、次のような大根の漬物を食べたことがある。震災前のある集まりで年長者が持ってきた。

 「たくあん漬けじゃないんですよ」。たくあんは糠漬け。糠の代わりに柿の実を使うのだという。たくあん漬けに干した柿の皮を使うのはあるが、実を使うのは初耳だった。大根の柿漬け。秋田出身のおふくろさんの味で、その人がそれを伝承し、みずから漬けた。

 集まりが終わって、「どうぞ持ち帰ってください」となった。さっそく、晩酌のつまみにした。ほんのり甘みが感じられる。それはそれでさっぱりした味だった。

 今回あらためて検索すると、秋田の角館地方に「大根の柿漬け」があることを知った。皮のままよくつぶし、砂糖と合わせて漬け込むということだった。やはり、「フード」は「風土」である。

2022年2月23日水曜日

ファスナーを閉めたら汗が

                      
 月曜日(2月21日)は西高東低の冬型の気圧配置になった。早朝、冷たい西風が吹いていた。家の前のごみ集積所にネットを出す。寒い。急いで家に引っ込んだ。東の空は青黒く晴れて、家並みの縁にはまだ赤みが残っていた。

 朝食のあと、勝手口まで牛乳を取りに行く。庭の水たまりが凍っている。前日に雨が降った。夜から朝にかけてずいぶん冷え込んだようだ。

 東北最南端の太平洋側に位置するいわきは、冬型の気圧配置になると、晴れてカラッ風が吹き荒れる。

 同じ月曜日、北海道では各地で猛烈な吹雪、いわゆるホワイトアウトになった。多重交通事故が起きて死者が出た。

 天気は刻々と変わる。前日の日曜日は、雨が上がったあと曇天が続いた。夕方まで風はなかった。昼前、いわき駅前・ラトブの総合図書館へ本を返しに行った。

カミサンが「ジャンパーのファスナーをちゃんと閉めて」という。冬は、外出時にはジャンパーを着る。中がセーターならファスナーは閉めない。ベストやシャツのときは、なぜかだらしなく見えるらしい。

 いわれるままにファスナーを首まで上げて図書館に入る。と、ほどなく熱がこもり始めた。「あれ、汗までにじんできたぞ」。風邪?それとも……。体温の上昇を気にしながら車に戻り、ジャンパーのファスナーを下げると、今度は熱が逃げていく。

そうか、ファスナーのせいだったんだ。屋外ならともかく、空調の効いた屋内だったので、「見た目」対策が過剰な防寒につながった。

たぶんファスナーを半分だけ開けていたら、熱がこもることはなかった。きのう(2月22日)、銀行へ行ったついでにジャンパーのファスナーを半分だけ開けて図書館へ寄った。案の定、熱がこもることはなかった。やはり首まで閉めたので、体熱の逃げ場がなくなったのだ。

春から夏、あるいは秋から冬になるころ、上着とシャツだけでは首筋がスース―したり、暑苦しかったりすることがある。「そのときはシャツの一番上のボタンをはずしたり、はめたりするといい」といわれたことがある。

上着を脱ぐほどではないが、体熱がこもって暑いと感じたら、シャツの一番上のぼたんをはずす。逆に、1枚重ね着するほどではないが、寒いと感じたら、ぼたんをはめて体熱を逃がさないようにする。気象予報士などがいう「体感温度の調整」だ。

「三寒四温」は、元は中国北部や朝鮮半島北部の冬の気候を表す言葉だったそうだ。これが日本では春先、低気圧と高気圧が交互にやってきて寒暖を繰り返すことを指すようになった。

「光の春」と「寒さの冬」という言い方もある。光と寒さが綱引きするなかで、大地は春へと装いを変えつつある。わが家の庭でもスイセンの芽が伸びてきた=写真。よく見ると、地面のあちこちに緑が芽生えている。一陽来復の冬至からもう2カ月。日脚もずいぶん伸びた。

2022年2月22日火曜日

市美展、半世紀

        
 いわき市民美術展覧会は今年(2020年)で51回目になる。私の“社会人歴”と重なる。

 日曜日(2月20日)は起きると雨。山里では雪になっているかもしれない。夏井川渓谷にある隠居へ行くのをやめて、雨上がり、市立美術館へ出かけた。

市美展の陶芸・写真の部が開かれている(2月27日まで)。展示場入り口で『いわき市美展50年の歩み』をもらった=写真。この冊子は去年、発行された。

あとで図書館のホームページを開き、電子化された過去のいわき民報を読む。第1回展が開かれたのは、昭和46(1971)年10月。会場は平市民会館(現・いわき芸術文化交流館「アリオス」)だった。

 私は同年4月、いわき民報社の記者になった。この年は警察回りを始めたばかりで、市や市教委がらみの文化的な行事は先輩記者が担当していた。

 第2回展は同じ平市民会館で、10月27~30日に開かれた。26日のいわき民報に予告と審査結果が載った。翌27日には青年書家の田辺碩声さんが日展に初入選した記事が載る。

市美展の方は記憶があいまいだが、田辺さんは私が取材した。草野美術ホールのおやじさんから連絡があり、同ホールの事務所で会って話を聴いた。

そのころすでに、同ホールに出入りする画家松田松雄さんらとつながりができていた。田辺さんともこのときからつきあいが始まった。

 展覧会の記事をさかのぼって探すと、前年の夏、警察回りを始めてほどなく、街なかの同ホールや画廊喫茶で開かれる個展を取材するようになった。記事が生意気な“批評文体”なのでわかる。

 市美展は、昭和50(1975)年の第5回展から新設された市文化センター、同60(1985)年からは市立美術館が会場になった。最初は絵画だけだったのが、順次、書、彫塑、陶芸、写真の部まで拡充された。

草野美術ホールで出会った画家や陶芸家、あるいは写真家たちが毎年、何人も市美展に出品した。若い世代とも顔見知りになった。それで毎年、市美展を見てきた。

 市立美術館の杉浦友治現館長は『市美展50周年の歩み』のなかで、市美展の特徴を五つ挙げている。①表現の多様性②力の入った新作を発表③審査員は市外から招き、一人に責任をもって審査してもらう④美術館で開催されている⑤協力者・協賛者だけでなく、美術ファンなど市民に広く支えられている――。

 市美展が始まったばかりのころ、20歳前後の若者が大人に混じって佳作に入っていた。佐藤和夫、林(松本)和利クン。今回、50年前のいわき民報の記事を読んであらためて驚いた。

私よりは5~3歳年下だった。草野美術ホールで出会い、その後何十年もつきあいが続いた。彼らは60歳、64歳でこの世を去った。若い世代のチャレンジ精神が「表現の多様性」の源だった――そんなことを思いながら、しばし彼らと“対話”した。

2022年2月21日月曜日

サラダ感覚の白菜漬け

        
 この冬は白菜漬けに“野心”を持ちすぎたようだ。1回目は水の表面に産膜酵母が張るのを遅らせようと塩分を多めにした。しんなんりしたのを口にするとしょっぱい。甕(かめ)から取り出しては水につけて塩出しをした。

 2回目は塩分を元の量に戻した。極寒期と重なったこともあって、産膜酵母は張らなかった。まずまずの出来だったので、後輩に2切れ(1株の4分の1)をプレゼントした。

 3回目は1回目と逆に、どのくらい減塩できるか試した。適量の塩分だと、漬けて2日もすれば、浸透圧で白菜からしみ出た水が上がってくるのだが……。

3日がたち、4日がたっても水は上がらない。甕の底の方が少し湿りを帯びているだけだ。塩分が少なすぎた。さて、どうしたものか。

3回目を漬けるころ、いわき市小川町に住む旧知のUさんから手紙が来た。この冬、Uさんがつくった3回目と4回目の白菜漬けのレシピが同封されていた。ブログで私が白菜漬けに失敗した話を書いた。それで、白菜漬けの「マル秘」を伝えることにしたのだという。

わが家で3回目を漬けたとき、ブログでレシピの内容を少し紹介した。Uさんは洗わない・干さない・二度漬けする――を実行している。「レシピは、この冬4回目を漬けるときがあれば、参考にしよう」とも書いた。

4回目どころか、3回目の途中でレシピを参考にした。「差し水は3%塩水500ccをタルのフチから注ぐ」。これにすがったのだった。

目盛りの付いた片口ボールがある。180ccまで水を注ぎ、3%に見合う食塩を加えて溶かし、甕に2回注いだら白菜の上までひたひたになった。

キュウリでもこんなのがあったな――。いわき市川前町の昔野菜「小白井きゅうり」がそうだ。関西ではぬかみそ漬けのことを「どぶ漬け」というようだが、川前では夏場、塩水で漬けることをそう呼ぶ。

平成23(2011)年3月、いわき市が『いわき昔野菜図譜』を発行した。その中に出てくる。一度沸騰させた塩水に小白井きゅうりを入れ、重しをのせて10時間ほど漬けると食べられる。

 差し水を利用した「白菜のどぶ漬け」だ。数日たったところで試食した。株元はむろん、葉先も生に近い。

 最初の白菜漬けが切れたところで、再び甕から取り出して試食する。少ししんなりしてきた感じはあるが、株元の食感はやはり生に近い。あっさりした塩味なので、食べる分には違和感はない。そのうち株元もしんなりしてきた。

 ということで、これは半分負け惜しみなのだが……。サラダ感覚の新しい白菜漬けができた。ご飯のおかずだけでなく、晩酌のつまみにもなる。食べ方の幅が広がった。

そのうえでの反省。白菜漬けのような家庭の伝統食はすでに経験則が確立している。よけいな試みはしない。「下手の考え休むに似たり」という。あれこれ頭で考えないで体が覚えていることに従うのが一番だ。

2022年2月20日日曜日

「まん延防止」延長

                               
 「まん延防止等重点措置」の延長が決まった。福島県は1月27日から2月20日までを期限にしていたが、大阪府や北海道などとともに3月6日まで延長された。これを受けて、いわき市も同日までの2週間、「感染拡大防止一斉行動」の延長を決めた。

年寄りは「3密」回避のために外出を自粛している。しかし、自粛が続けば息が詰まる。「まん延防止」の延長となればなおさらだ。

私はたまたま日曜日に夏井川渓谷の隠居へ出かける。家の周りをブラブラする。それだけで息抜きになる。

地元の人間が「限界集落」と自嘲するくらいだから、まずだれにも会わない。ここではしかし、人間より手ごわいものがいる。

イノシシが出没する。隠居の前、道路沿いの土手がほじくり返されていた=写真上1。そこは前にも一度ほじくり返されて穴だらけになった。

後遺症が続いているところもある。隠居の下の庭がイノシシにラッセルされて、石が露出した。後輩が自走式の草刈り機を動かすと、刃が当たる。下の庭の草刈りはそれでハンドル式に戻った。

隠居の隣は発電所の社宅跡で、一段低い川べりの空き地とは石垣で区切られている。石垣のヘリに小流れがある。この小流れがイノシシに荒らされて、空き地の中央が泥地と化した。今もぬかるんだままだ。

今度のイノシシのラッセル痕は、面積としては小さい。単独? なぜここで? ブラブラ歩きながら想像を巡らせる。庭では、剪定して野積みされた枯れ枝から冬キノコのエノキタケが出ていた。それを写真に撮る。

コロナ禍下でもできるレジャーはある。自然観察のほかには、釣り、キャンプ、ウオーキングなど。単独でするなら「3密」を考えなくていい。

ところが、われもわれもと繰り出せば、野外でも「3密」状態になる。夏井川渓谷キャンプ場がそうだった。

変化に気づいたのは一昨年(2020年)の師走。カエデが散ると静かな山里に戻るのだが……。JR磐越東線江田駅前、夏井川そばのキャンプ場には冬もテントが張られていた。コロナ禍とともに出現した冬の渓谷の新しい光景だった。

市の「感染拡大防止一斉行動」が実施されると、キャンプ場は入り口にロープが張られ、「利用休止」になる。そのときは、さすがにテントも車もパタッと消えた。

今年(2022年)は特に正月以降、テントが何張も立った。日曜日に行くたびに、同じようなテントが同じような場所にある。まさか長期滞在? そう思わせるようなにぎわいだった。

1月下旬、「まん延防止等重点措置」が適用され、いわき市が「感染拡大防止一斉行動」を始めると、前と同じように「利用休止」になった=写真上2。

1月最後の日曜日、それを知らずにやって来たグループがいる。駐車場から一段下がった川岸でバーベキューをやっていたのには驚いた。

2022年2月19日土曜日

黒いマスク

        
 テレビで国際ニュースかなにかを見ていたときだった。「なんでヨーロッパの人は黒いマスクなんだろ」。カミサンが不思議そうにいう。「あっちから見たら、『なんで日本人は白いマスクなんだろ』ってなる」と私。

 黒いマスク着用の理由はむろんわからない。わからないから、向こうの人が日本の今を伝えるテレビで白いマスクを見たら、やはりカミサンと同じように反応しただろう。

黒いマスクと白いマスク。いや、今は黒と白との間に青、ピンク、灰色その他いろんな色のマスクがある。

新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)だけでなく、台湾やベトナムを旅行したとき、あるいは東日本大震災と原発事故が起きた直後、ブログでマスクに触れた。それを再構成してみる。

黒いマスクに初めて出合ったのは、平成22(2010)年9月、同級生と台湾を観光したときだ。朝、出勤時間帯に台北駅近くのホテルからミニバスで台北南方の山地・烏来へむけて出発した。
 赤信号で自動車は数珠つなぎになる。そのあいだを次から次にスクーターやバイクが埋めていく=写真。信号が青になる。自動車とスクーターが一斉に走り出す。ハラハラするような距離感だ。

そのスクーター族の中に黒いマスクの人間がいた。むろん、白いマスクの人間も、マスクなしの人間もいる。日本ではテレビの映像でしか見ていなかったので、黒マスクには異様な印象を受けた。

震災の翌年に訪れたベトナムのハノイでは、道路にバイクがあふれていた。運転者は、ほとんどが排気ガスを避けるためにマスクをしていた。そのことに驚いた。

11年前の原発事故では、不要不急の外出は避ける、外出時にはマスクを――と言われた。今度のコロナ禍でもマスクが欠かせない。11年前と違うのは、色がカラフルになったことだ。黒いマスクにもすっかり慣れた。

100年前にスペインインフルエンザ(スペイン風邪)がはやったときには、マスクは黒色だった。

一昨年(2020年)の暮れ、文藝春秋から創業者で作家の菊池寛(1888~1948年)の文庫本『マスク』が出た。「スペイン風邪をめぐる小説集」で、元日付の書籍広告で知り、すぐ買って読んだ。中に黒いマスクが登場する。

ネット情報によると、日本ではまず炭鉱や工場の防塵用としてマスクが使われ、スペインインフルエンザがはやって、政府が衛生用マスクの利用を呼びかけたことから一般化したようだ。当時のポスターや写真を見ると、黒いマスクも白いマスクもある。

それがいつの間にか「マスクは白」というイメージに変わった。その意味では、黒いマスクは復活しただけにすぎない。

ウクライナ関連でたびたびメディアの前に立つアメリカのバイデン大統領は黒マスク、メディア側には白マスクも。結局は好みの問題か。

震災から1カ月半後の4月下旬、東京・代々木でアースデイの催しが開かれた。来場者はほとんどマスクをしていなかった。マスクをして出かけた私とカミサンは、1F(イチエフ)に近いいわきと電力消費地・東京との意識の違いにがく然とした。

2022年2月18日金曜日

たばこの吸い殻を拾うカラス

                      
    2月15日のNHK「おはよう日本」。「世界のメディアザッピング」で、スウェーデンでたばこの吸い殻をカラスに拾わせる実験が進んでいることを紹介していた。スウェーデン、たばこの吸い殻――すぐピンときた。

 平成21(2009)年9月、スウェーデンに住む同級生の病気見舞いを兼ねて、仲間と北欧を旅行した。ノルウェーのフィヨルドを観光し、デンマークの「人魚姫」も見た。

 スウェーデンの首都・ストックホルムの旧市街地・ガムラスタンを訪ねたとき、たばこのポイ捨てが多いのにがく然とした。そのときのブログの要約。

 ――ストックホルム発祥の地という、旧市街・ガムラスタンに橋を渡って行った。坂道がある。道は石畳になっている。「冬はみぞれのときに凍って滑りやすい」。ガイドの日本人が教えてくれる。その石畳を見ると、たばこの吸い殻が散乱していた。なんてことだ。

 ストックホルムだけではない。ノルウェー・ベルゲンの目抜き通りで、デンマーク・コペンハーゲンの歩行者天国でたばこの吸い殻が散乱しているのを目にした。歩きながらたばこを吸っている現地の女性もいた。――

――われら一行7人のなかに喫煙者が1人いた。単線のフロム鉄道(ノルウェー)に乗ると、途中、駅で5分ほど待ち時間があった。小雨の降るホームに出てたばこを吸う男がいた。彼だった。

スウェーデンでは泊まったホテルの前にベンチと灰皿が置いてあった。夜になると、人がビールを飲んだり、たばこをふかしたりしている。ホテルのレストランと直結していたのだ。吸い殻が灰皿からはみ出し、歩道に散乱していた。

彼はちゃんと吸い殻入れを携帯していた。5泊7日間の旅行中、向こうの人間をつぶさに観察したが、たばこに関するマナーでは彼が北欧一だった。――

 そして、カラス=写真。北欧へ足を踏み入れて初めて出合った生き物はカラスだった。日本のカラスと違って真っ黒ではない。首の周りや胸が灰色っぽい。目がかわいい。極東のコクマルガラスと近縁種のニシコクマルガラスだ。

 「世界のメディアザッピング」によれば、スウェーデンの新興企業が、カラスが吸い殻を拾って入れるとえさがもらえる容器を開発した。その容器に黒いカラスとニシコクマルガラスがやって来た。

ネットで検索したら、実験に利用したのは南太平洋・ニューカレドニアの島に生息する「カレドニアガラス」とあった。黒いカラスがそれか。

カレドニアガラスは「道具」を自作するカラスとして知られる。先端を鉤(かぎ)状にした小枝や葉をくわえて木の穴などに差し込み、昆虫や幼虫を引っぱりだして食べる。

そのカラスをスウェーデンに移して実験した? 檻の中ならともかく、野外での実験だとしたらよろしくないのではないか、とこれは私の素朴な疑問。

 そして、ネットにはこんなコメントもあった。「カラスを清掃活動に駆り出すべきではない」(野生生物学者)。人間がポイ捨てしなければ、カラスに吸い殻拾いを教える必要もない。ま、それが無理だからカラスの力を借りたわけだが。

2022年2月17日木曜日

「団塊世代」の生活誌

                                 
   図書館から井筒清次『「団塊世代」の生活誌――昭和三十年代を中心に』(アーツアンドクラフト、2022年)を借りて読んだ=写真。

 団塊の世代とは、第一次ベビーブーム世代=昭和22(1947)~24年生まれの人間のことで、作家・評論家(元官僚)の故堺屋太一が命名した。私はそのど真ん中、昭和23年に生まれた。子どものころを回想した拙文がある。まずはその抜粋を。

 ――昭和33(1958)年4月5日、土曜日。プロ野球が開幕する。読売ジャイアンツの相手は国鉄(現ヤクルト)スワローズ。新人の長嶋茂雄がデビューするというので、家(床屋)のラジオの前に陣取った。9歳4カ月。4月から小学4年生になったばかり。とはいえ、学校は始まったか、春休み最後の土曜日だったか、記憶は定かではない。

相手のピッチャーは金田正一。終わってみれば、長嶋は4打席4三振。金田の速球と大きく曲がるカーブにきりきり舞いさせられた。

テレビが普及する前だ。ラジオは子どもにとっても身近な娯楽メディアだった。アナウンサーの声を介して、球場の雰囲気を、金田と長嶋の表情を想像する。しかし、三振、また三振、またまた三振……。

同34年春には、『週刊少年マガジン』と「週刊少年サンデー」がほぼ時期を同じくして創刊される。春休みが終わって新学期が始まる、そんな時期の発売だった。

ラジオ、漫画、やがてテレビ。団塊の世代にたちまち新しいメディアが浸透する。幼年から少年に脱皮する時期と、高度経済成長期とが重なった。

「平凡パンチ」は昭和39(1964)年4月に創刊された。中学生たちがなじんでいた芸能誌の「週刊平凡」や「週刊明星」とは違った、ファッションや風俗、女性のグラビアなどを扱った若者向けの週刊誌だった。

阿武隈の山里から浜通りの中心都市、平市(現いわき市平)の高専に入学し、寮に入った。それと前後して「平凡パンチ」が創刊された。同級生がさっそく買い込んできたのを回し読みした記憶がある。――

以上のことはもちろん、『「団塊世代」の生活誌』に出てくる。しかし、なにかちょっと足りない。私のなかに強く刻印されているものが欠落している。

本は「団塊世代の原風景」「住まいと生活」「遊びに夢中」「楽しかった学校」「青春の光と影」「青春の終わりと始まり」の6章立てになっている。

章ごとに本とこちらの記憶を比較してわかった。本は東京・武蔵野市の昭和30年代がベースになっているのだ。都会と田舎。阿武隈の山里の昭和30年代とは微妙に違っている。

たとえば、内風呂。東京では内風呂が少なくて銭湯が全盛だった。山里にも銭湯はあった。しかし、そこへはたまにしか行かなかった。マキで内風呂を沸かすのが子どもの仕事だった。

本には、炊飯道具の蒸しかまどの記述はない。夏休みは、東京ではプール、こちらは近くの川で水泳ぎをした。そういった東京ローカル、阿武隈ローカルの差異が浮かび上がってきた。なにかが足りないと感じたのは。つまりはそこだった。

2022年2月16日水曜日

捕食者は?

                     
   きのう(2月15日)の続きといえば続きだ、「prominence」といういわきのフォト雑誌があった。平成元(1989)年に創刊された。「草のふとんにストン」という通しタイトルで私も1回目「鷹になる」を書いた。もちろん、写真を添えて。いや、写真を主に、「えとき」の文章を添えて。

そのころ、よく時間をつくっては石森山(平)を巡った。野鳥、野草、キノコ……。なんでも写真に撮り、メモをした。フィールドワークと自習を組み合わせて、いわきの中心市街地の里山を丸かじりすることに熱中した。

ある早春の午後遅く、絹谷富士に登ると、たまたま頂上の岩場で伝書鳩を捕食中の鷹と目が合った。「鷹になる」はそのときの体験をつづった。まずは文章を抜粋して紹介する。

――頂上の岩場に人間がヌーッと顔を出したから、そこを調理場兼食堂にしていた鷹は驚いた。食事を中断して反時計回りに一回半、人間を左に見ながら絹谷富士を旋回して絹谷方面へ遠ざかって行った。

頂上に立ってみると、鮮血のなかで鳩は首をちぎられ、両脚と翼を残して、胴体が消えていた。脚環には「87HH02……」とあった。

鷹の犠牲になったのは、なにも鳩だけではない。ほとんど人が歩かない遊歩道を巡っていると、時折、羽根が散乱している場所に出くわす。春先にはカケスが多かった。いや、カケスの羽根しかわからなかった、というべきだろう。

きょうもあなたの頭上はるか、青い空の深みで生と死のドラマが展開されている。その空から見ても、地上の出来事ほど不可解なものはない。――

「鷹になる」を引用しようと思ったのは、日曜日(2月13日)に夏井川渓谷の隠居へ行ったとき、「なんだ、この羽根は?」となったからだ。

隠居と風呂場の間に「坪庭」がある。風呂場からホースを伸ばして「洗い場」にしている。そこに鳥の羽根がまとまって落ちていた。

いや、落ちていたのではない。猛禽が鳥を捕まえ、坪庭まで運んで羽根をむしり取り、そこで食事をしたのだ。

鷹か? そう思った瞬間、石森山での生々しい体験がよみがえり、若い仲間に貸して最近戻ってきた「prominence」創刊号を読み返したのだった。

羽根は長くて11センチ。色はオレンジ色に先端が淡い黒褐色、中央にも黒みがかった帯が入ったもの、あるいは黒褐色にオレンジ色の部分があるものと、バリエーションは豊かだが単純だ=写真上1。

冬鳥のツグミだろうか。細く長い羽根を拾い集め、図書館から笹川昭雄『日本の野鳥 羽根図鑑』(世界文化社)を借りて照合すると、そうだった。

ツグミはムクドリ大だ。わが家の庭にもやってくる=写真上2。渓谷の生き物の頂点に立つのは猛禽だが、鷹の種類までは特定できない。

渓谷へ行くのはこのところ雪の影響もあって、隔週日曜日になった。隠居の主が留守なのを承知している、そんな猛禽の振る舞いだった。

2022年2月15日火曜日

聴く力

 福島県が「まん延防止等重点措置」に適用されて間もない日の夕方、若い仲間が突然、やって来た。いわきの歴史や民俗、芸能などに詳しい。

 仕事はオンラインになった。「巣ごもり」状態のなかで資料を整理していたら、借りている冊子が出てきた。返却しなければ――となったようだ。

 こちらは忘れていたが、貸したのは「平の年中行事調査報告第1集」(いわき今昔ばなし実行委員会、2006年)と、いわきのフォト雑誌「prominence」創刊号(1989年)、同2号(1990年)、「いわきらんど」創刊号(1991年)の4冊=写真。いずれも民俗、芸能がらみの論考と写真が中心だ。

 彼はこうした先行資料を読み込んで地域を見る目を鍛えてきた。人に会っておもしろい話を引き出す能力にもたけている。

昔、ある広報誌にディープな探訪記事が載った。筆力と文章の構成力に舌を巻いた。そのときのブログ(2013年8月22日付)から。

――レポーター・ミミちゃんが小川町を探索中に、ある話を思い出す。「本郷の表(おもて)組の人はキュウリを作れない」「作れないがらってウヂにもらいに来るの。理由は分がらない」。そこからスゴロクよろしく「胡瓜をめぐる冒険」、つまり聞き込みが始まる。

「表」は上小川の字名のひとつ。草野心平生家のある植ノ内とは道路をはさんで向かい合っている。心平が故郷の「上小川村」をうたった詩、<ブリキ屋のとなりは下駄屋。/下駄屋のとなりは……>の世界だ。その通りにある床屋のおばさんからレクチャーを受ける。「表が作れないんじゃなくて草野さんが作れないの」

あちこち転々としながら、キュウリ栽培を禁忌する草野さんの家にたどりつく。草野姓の家が作れないのではなく、「ウヂど、ウヂの分家は作らない」のだそうだ。そのワケは。

昔、馬車による運送業を営んでいた。明治時代に今の品種のキュウリが入ってきた。栽培して与えると馬が喜んで食べた。ところがその年、多くの馬が死んだ。以後、「キュウリを作るべからず」となったという。食べる分には問題がない。で、「ウヂにもらいに来る」という話になるわけだ。

なるほど。おもしろい「物語」だ。いや、「物語」になるまでよくまとめあげた。足を使えばこういう秀逸な読み物ができる。――

その後、筆者である彼を紹介され、たまに会うようになった。彼のユニークさは現実の世界に埋もれている「物語」を読み取れることだろう。新聞は「締切」という呪縛に支配されて、ある一定のところまでいくと取材を切り上げる。彼はとことん疑問がとけるまで歩き回る。

既成メディアがとどまったその先、あるいはもうひとつ深いところまで下りてネタを拾ってくる。それで、こちらが知らないでいた「物語」を提示する。それができるワケは……。

 司馬遼太郎が豊臣秀吉を、「人誑(ひとたら)し」ではなく「人蕩し」と評してから、ポジティヴな意味に変わったと国語辞典編集者はいう。

  聴く力を持った人蕩し――。彼と茶飲み話をしながら、何度もそんなことを感じた。彼と話していると楽しい。取材を受けたジイサン・バアサンも同じだっただろう。 

2022年2月14日月曜日

春の息吹

毎日が「巣ごもり」の身だから、2月11日(祝日)からの3連休は――などというほどのことでもないのだが。

雪が降ったあとなので、祝日と翌土曜日は家で静かにしていた。日曜日(2月13日)は、半月ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 前の週も雪に見舞われた。土曜日(2月5日)。起きたら車の屋根が白くなっていた=写真。寝ている間に“初雪”が降ったらしい。庭も、道路の一部も白くなっている。6日日曜日の渓谷行きは中止した。

 いわきの平地では、雪は主に南岸低気圧の影響で春に降る。日陰の斜面でもない限り、湿った雪は朝日を受けてすぐ消える。

平地より100メートル以上高い渓谷はどうか。2回目は初回より雪の量が少なかった。雪が降ってから2日たつ。路面全体がアイスバーンになっていればそこで引き返す――そう決めて渓谷へ入った。結果的には何の問題もなかった。

渓谷通い27年の経験からいうと、難関は2カ所。高崎から渓谷まで「地獄坂」が続く。南側が杉林になっていて日当たりが悪い。そして、江田の集落手前のS字カーブ。むしろ、こちらが要注意だ。

地獄坂には、雪はなかった。S字カーブには案の定、道端にうっすら雪が残り、路面もぬれていた。

隠居へ通い始めたころ、車はガソリン食いの四輪駆動、タイヤは全天候型だった。ある年の3月初め、隠居から鬼ケ城山(887メートル)の中腹にある「いわきの里鬼ケ城」を訪ねた。とこどころ日陰に雪が残っていた。

帰りに、カーブで制御がきかなくなり、タイヤが側溝にはまってしまった。近くの牧場まで行ってワケを話し、トラクターで引っ張り上げてもらった。春に雪が降ると、必ずこの事故を思い出す。

こんなこともあった。ブログを書き始めてすぐのころ、ざっと12年前の話だ。四輪駆動車からフィットに切り替えたばかりだった。

2月に雪が降って太陽が顔を出したあと、隠居へ出かけた。家と道路との境にモミなどの木が植わってある。それが日陰をつくっていたのだろう。道から隠居へ入る門の前がシャーベットになっていた。何度アクセルを踏んでも空回りするばかり。いろいろ試してやっと庭へ入れることができた。

この冬はモミなどが剪定されて日がよくさすようになった。そのうえ、近年はアイスバーンになるほど雪が積もらない。それもあって、きのう(2月13日)は運転もスムーズだった。

春の雪はすぐとけて地面を潤す。もう2月中旬だ。極寒期よりは地温が上がりつつある。雪がとけたあと、わが家の庭に出て、この冬初めて地面を観察した。落ち葉を払うとスイセンが芽生えていた。地中ではすでに春の息吹が満ちている。

 渓谷の隠居でも地面を観察した。カミサンはフキノトウを探したが、なかった。代わりに、剪定して隅に片づけた木の枝から生えているキノコを見つけた。天然のエノキタケだった。これだから冬も渓谷通いをやめられない。 

2022年2月13日日曜日

従業員不足

毎月、内郷の病院まで義弟のアッシー君をする。都市計画道路内郷駅平線に入ると街路樹が剪定され、前月とは景色ががらりと変わっていた。樹種は何だったか。ケヤキだと思うが自信はない。帰り道にカミサンがパチリとやった=写真。

これも、前月までは考えもしなかったことだ。年寄りなので、かかりつけ医がいる。薬をもらいに行く。と、新型コロナウイルス感染症の影響で薬の流通が減少しているため、医師会から長期処方をしないよう通達があった。そんな張り紙を医院で見たとカミサンがいう。

コロナの第6波ではクラスターが次々に発生している。高校、小学校、事業所、高齢者施設、児童施設……。いわき市が発表しているクラスターは2月11日までで70例ある。だれでも、どこでも感染しうる、そんな状況だ。

市教委では、次のような事例から学校での感染の広がりが想定される、としている。①児童・生徒が風邪のような症状があるのに登校し、後日感染を確認②家族のだれかが風邪のような症状があり、児童・生徒本人には症状がなかったので登校したが、後日感染が判明③教職員が軽い風邪のような症状があったが、部活指導などに従事④休み時間などにマスクをせずに友達と会話した――。

当然、家庭内感染とも連動する。子も、親もとなれば、一定期間、社会との隔離を強いられる。親は仕事を休まないといけない。

そういう事例が増えてきたのだろう。ある薬局にはこんな「お知らせ」もあったとか。休校・休園に伴う従業員不足のため、現在、検査業務を休止している。再開の目途はたっていない。薬の販売のみの対応となる――。

テレビもニュースで従業員不足を取り上げていた。13都県の「まん延防止等重点措置」が延長されたのを受けて、休業中の飲食店経営者の声を聴いた。期間が延びてがっかりしているかと思ったら、むしろホッとしている。従業員の確保が難しいからだという。

再開しても客の要望に応えられるだけのスタッフが確保できない――そんな悩みを抱えている経営者もいるのだ。

クラスターの事例や飲食店業界の現状を知れば知るほど、今はだれもが困難なときを生きているのだと知る。

ところが、反射的に感情を爆発させる人もいる。「通学路を変えろ」、1年生の手を握って集団登校をしている上級生に「手をつなぐな」。実際にあった誹謗中傷だという。

市教委によると、2月10日現在、臨時休校も一部の学年・学級閉鎖もない。放課後学童クラブで1カ所、保育所で5カ所が休所し、保育所2カ所で一部休所が行われている。とにかく状況を冷静に見ていくしかない。

ところで、と最後に備忘録風にクラスターの話を。厚労省の資料には「感染経路が追えている数人から数十人規模の患者の集団」とある。福島県はこれを「5人以上」としているようだ。新聞が報じているクラスターの人数も5人からだ。

  「ウィズコロナ」の時代にはこうしたことも頭に入れておかなければ、と自分に言い聞かせる。「とにかく風邪だけは引かないで」。義弟の診療を終えると、ドクターが言ったそうだ。 

2022年2月12日土曜日

新聞レイアウト

                      

福島民友新聞が「ふくしま近代医学150年 黎明期の群像」を連載している。「福島医大医学部同窓会×福島民友連携企画」だ。

連載のなかで、いわき市渡辺町出身の医学者高木友枝(1858~1943年)を紹介することになった。

私は、医大とは関係がない。医療・医学史の研究者でもない。ブログで台湾旅行記を書き、そのなかで日本統治時代、医学・衛生面で貢献した高木を取り上げた。ただそれだけの縁で原稿依頼があり、軽い気持ちで引き受けた。

台湾へは同級生と行った。「台湾高鐵」(新幹線)に乗るのが目的だった。1回目は台北に着くと台風が襲来して断念した。2年後、再訪した。高鐵を利用して中部の日月潭や南部の高雄を訪ねた。

台湾へ行く以上はいろいろと調べものをした。そのなかで「台湾医学衛生の父」高木がいわき出身であることを知った。高木は電力会社の社長も務めた。

連載が始まると、仰天した。広告を除いた1ページを丸々使っている。同窓会側の担当者と連絡を取りながら、字数や掲載写真などを詰めた。さらには、渡辺町の生家周辺を訪ねて補強取材をした。そうでないと1ページは埋められない。

去年(2021年)10月中には原稿を仕上げ、写真も送った。掲載されたのはざっと3カ月後の2月7日だった=写真。

日本の活字メディアは全国紙・県紙・地域紙の3層構造になっている。私は地域紙で仕事をしてきた。

全国紙には一度、仲良くしていた記者の依頼で東北版に原稿を書いたことがある。若いときの話だ。それ以外は、県紙も含めて単なる読者でしかなかった。

今回初めて、県紙の仕事ぶりに触れた。驚いたのは、なんといっても紙面レイアウトの美しさだ。大きく三つの部分から構成されている。

私の文章を読み取り、高木の生涯の部分と、私が地元・渡辺町を探訪した部分を切り離し、それぞれ独立した文章として組み立てた。さらには、新聞社側が独自に用語の注釈をつけ、写真も用意した。

本文は確かに私が書いた。が、新聞社側も校正・整理といった本領を発揮した。「連携企画」とはつまり、この協働作業のことなのだと了解した。

原稿には参考・引用文献も記したが、それらは新聞紙面という「一般性」から割愛された。学術論文ではない。あくまでも普通の生活者が読んでわかる読み物である。そういう編集方針が貫徹されていた。

とはいっても、私のなかには参考にした本を記して感謝したい気持ちがある。長木大三『増補 北里柴三郎とその門下生』(慶應通信)、渡辺町町史編纂委員会『渡辺町史』、吉田荘人『人物で見る台湾百年史』(東宝書店)など6冊を紹介した。特に前の2冊には学ぶことが多かった。

2022年2月11日金曜日

南岸低気圧

                      
    きょう(2月11日)は午前4時過ぎに起きた。外は暗い。庭の車が少し雪をかぶっていた。地面も枯れ草のあるところはうっすら白くなっている。

 ツイッターで時間をさかのぼると、いわきでは前夜の10時半ごろ、雨が雪に変わったらしい。それがまた、未明には雨に戻った。家の前の車道はシャーベット状になっている。このまま雨がやんで太陽が顔を出せば、路面凍結はさけられるか。

きのうはとにかく天気が気になる一日だった。福島地方気象台の浜通りの予報は「くもり昼過ぎから雪か雨」だった。

午前中は、朝一番で定期診療の義弟と付き添いのカミサンを病院へ送り届け、昼前に迎えに行った。

朝は曇天のなかで太陽が“ぼんぼり”みたいに陰って浮かんでいた。まだ雲海は浅かったのだろう。

送って行った帰りはいつものように夏井川の堤防を利用した。朝の散歩をする人が何人もいた。

立木伐採と堆積土砂除去でだだっ広くなった河川敷に、この冬初めてハクチョウが大群で飛来するようになった。堤防寄りにサイクリングロードがある。そこは地域の人の散歩コースでもある。

ハクチョウがいるそばを人が通る――。こんな光景は、いわきのほかの越冬地では見られない。サイクリングコースのそばにいたハクチョウが5羽、人間が近づいた瞬間に飛び立った。

シャッターチャンスだ。車を止めて、助手席に置いてあるカメラを手に取り、1コマだけパチリとやった=写真。右隅の夏井川の近くに白く点々と見えるのが、飛び立ったハクチョウだ。

いわきの平地は、真冬には雪が降らない。ところが春先、本州の南岸を低気圧が東進するとき、湿った雪が降る。

真冬は晴れる日が多いので、「サンシャインいわき」になる。冬もノーマルタイヤで過ごす人が多い。そのため、雪に見舞われると、たちまち交通がマヒする。渋滞・スリップ事故が多発する。今度はどうか。とりあえず11日が祝日でよかった。

もう10年近く前になる。近くの国道6号(旧常磐バイパス)沿いに、ノーマルタイヤの雪道走行は道交法違反――の看板が立った。それはそうだ、と思ったものだ。今は同じところに「法令違反」の看板が立つ。

 私は、この冬はノーマルタイヤのままだ。去年(2021年)までは夏井川渓谷の隠居へ行くので、スタッドレスタイヤを履いた。が、近年、渓谷の道路が雪道になることはほとんどない。

雪が降ったら車を運転しない。信頼するディーラーがいる。「いわきはそれでいいですよ」という。年金生活者なので、それで済ませることにした。

 だからこそ、10日は気象情報に注意した。昼前には霧雨になった。午後はそれに近い小雨。それがずっと続いた。宵にみぞれっぽくなったが、8時過ぎに庭へ出ると雨になっていた。風が出てきたところで床に就いた――。近所だけなら車も大丈夫か。

2022年2月10日木曜日

古いメモ片

                      
   この何日か、カミサンが急に思いついたように、学生時代のアルバムや古い郵便物に目を通していた。

郵便物の入った収納かごや小さなボックスがいくつかある。ふだんどこにしまってあるのか、私は知らない。

カミサンへの手紙やはがきだけではない。私らが結婚し、長男が生まれたころに友人たちと交わした年賀はがきなども交じっている。

先日、カミサンの学生時代からの親友が急逝した。若いころの手紙やはがきを読み返しては、親友をしのんでいたのだろう。

それが一段落すると、風向きが変わった。残しておくものと捨てるものを分けて――。高専の同級生や先輩、職場の仲間からの賀状だけではない。中学校の国語の恩師のはがきがある。儀礼的なものだけをはずしてくずかごに入れた。

工学系の学校に入ったが中退して上京し、やがてJターンをしていわき民報の記者になった。東京生活に区切りをつけて詩集を出したら、県内の詩人とつながりができた。

そのなかに中学校の先生がいた。同じ職場に国語の恩師がいて、中学校以来の音信が復活した。恩師のはがきは捨てられない。画家の松田松雄の年賀はがきなどはむろん残す=写真上1。

そもそも、前に一度ふるいにかけているのだ。それをさらに振り分けようというのだから、限度がある。

私の古いメモ片も出てきた=写真上2。現役のころはよく田町(平の飲み屋街)に通った。止まり木でしゃべっているときに限って面白い話が出る。次の日はしかし、すっかり忘れている。

で、心がけるようにしたのが職場の原稿用紙(ザラ紙)や飲み屋の箸袋にキーワードを書き込み、シャツの胸ポケットに差し込んでおくことだった。

キーワードから新聞のコラムを書くこともあった。未使用のキーワードはそのまま胸ポケットに眠っている。会社を辞めたあと、それらのメモ片をどこかにしまっておいたらしい。

こんなメモがあった。「『生涯学習』なることばを日本で最初に広めたのはいわき出身の女性……アメリカへ留学」

もう一つ。「ホソメコンブは昭和の初めごろ、独航船が出漁し始めたころからみられるようになった。『ホソメの種が独航船についてきたのでは』と浜の古老。嵐のあとよく打ち揚げられる」

真偽はともかく、まずはメモをする。そこから調べを始める。ニュースにならなくとも、コラムのネタになるものがある。いや、ニュースになる可能性がゼロではない。胸ポケットはいつもメモ片で膨らんでいた。

このメモ片は一度くずかごに入れたのだが、半日たってまた拾い上げ、座卓の資料のそばに置いてある。