2024年7月12日金曜日

福島県史料情報

                    
 福島県歴史資料館から、定期的に「福島県史料情報」が届く。たまたまわが家がいわき地域学會の事務局になっているからだが、いわき地方の史料も載るので目が離せない。

 Å3判二つ折り、つまりはA4判4ページで、フロントページと合わせて数点の史料を紹介している。

 前にマンボウの史料が載った。それを参考にしながら、ブログを書いたことがある。記録をみると、7年前(2017年)の3月だった。

 ――「福島県史料情報」第47号が届いた。なかに、「佐竹永海が描いた磐城産のマンボウ」の記事があった。筆者は地域学會の会員でもあるWさんだ。

 嘉永3(1850)年、国学者山崎美成(よししげ)が5巻5冊の随筆集『提醒紀談』を刊行する。

挿絵の多くは、会津生まれで彦根藩の御用絵師佐竹永海(1803~74年)が描いた。

その一つに、マンボウの外形と皮をはいで肉や内臓を描いた「牛魚全図」がある。「牛魚」はマンボウのこと。

 マンボウは、ほかに「満方」「満方魚」「万寶」と表記され、「ウキキ」と呼ばれて「浮亀」「浮木」などとも書かれたという。

見出し以外に「磐城産」の文字は出てこないが、江戸時代、マンボウといえば磐城産で通っていたのだろう――。

 というわけで、新聞コラムのつもりでブログを書いている元記者にとっては、「福島県史料情報」は「ひそかなネタ元」のひとつではある。

 最新号(第69号=2024年6月)は、個人的には二つの史料に目が留まった=写真。

 1面トップの「福島県域初の民間新聞」、そして写真では右上に位置する「『古社寺建築物調』に見える白水阿弥陀堂」。白水阿弥陀堂については、やはりWさんが執筆している。

 明治31(1899)年の内務省訓令に従って、県は翌年、『古社寺建築物調』を作成する。この公文書には県内80余の建物の平面図が収められている。

そのひとつに昭和27(1952)年、建築物として県内で唯一、国宝に指定された白水阿弥陀堂がある。

白水阿弥陀堂は古社寺保存法によって、明治35年7月31日、特別保護建造物に指定される。が、翌年1月8日、暴風のために倒壊する。

「この平面図は、大規模な修復・復元工事が施される前の白水阿弥陀堂を正確に記録したものであり、建築史研究の上で大変貴重な史料」だという。

明治時代の白水阿弥陀堂に関する情報を得てからほどなく、県紙がこの史料を大きく取り上げた。

なるほど。ネタは誰にでも公開されている。記者のアンテナが反応するかどうかだと、今さらながらに思った。

それはそれとして、県内初の民間新聞「官許福島新聞」は明治7年2月に創刊された。福島市の神社の社司が興した開明社が発行元というが、残念ながら1年余りで廃刊になった。

いわき地方初の民間新聞「いはき」は、それより33年遅れて明治40年5月に創刊される。発行人は吉田新聞店主の吉田礼次郎(平)。こちらはクリスチャンだった。

2024年7月11日木曜日

照り返しがきつい

                     
   7月9日は、いわき地方は「曇り」の予報だった。朝10時から行政区内の事業所を回り、8月に行われる市民体育祭の協賛広告をお願いする。曇りならなんとかなるか――。

当日朝になると、なんとなく外が明るい。といっても、晴れているわけではない。気象会社とNHKの1時間予報をチェックすると、気象会社は曇りのマークが並ぶが、NHKは10時台だけ晴れのマークに変わっている。

 現実もその通りになった。格好はつけられない。冷蔵庫で冷やしておいた氷ベルトを首に巻き、スポーツドリンクをバッグに入れて、区の会計さんと一緒に旧道と国道沿いの事業所を巡った。

 回る事業所の数は15余り。旧道沿いには商店が密集している。国道沿いはというと、広告を出してくれる事業所はポツリ、ポツリだ。ひたすら歩き続ける。

 10時台なので、日陰はあっても狭くて短い。頭上だけでなく、足元からも照り返しがくる。この照り返しがきつかった。

 訪ねた先で汗をぬぐい、歩道でスポーツドリンクを飲みながら、なんとか1時間以内に予定の事業所を回り終えた。

 われわれ内陸部の人間は、海に近い小名浜ではなく、同じ内陸の山田の記録を参考にして、いわきの気温をはかる。

 山田ではこのところ真夏日が続いている。9日もやはりそうだった。小名浜でさえ、8日32・0度、9日31・3度と2日続けて最高気温が30度を超えた。

 11時に帰宅すると、すぐ風呂場に直行し、ぬるま湯と水を交互に浴びて汗を流し、ほてった体を冷やした。あとは水を飲んで、午後に街で開かれる会議の時間まで静かに過ごした。

 人間だけではない。この暑さは毛皮をまとった犬や猫もこたえただろう。飼い猫ではないが、居候のようなトラの「ゴン」は、このごろ、日中の居場所探しに苦労しているようだ。

 わが家の縁側は、もう日中にいる場所ではなくなった。姿が見えないなと思っていたら、隣家の北側スペース(玄関前の駐車場)でゴロンと横になっていた。

 9日は夕方、わが家の玄関先に戻って、やはり体を投げだしている=写真。わが家は店~帳場~居間~玄関が唯一、「風の通り道」だ。それをよく知っているのだろう。

 近所に黒い柴犬がいた。私が近くを通っても、隣人と認めて吠えるようなことはしなかった。

いつの間にか老いて、散歩にもいかなくなった。それもあってか、酷暑続きのある日、リールが体に巻き付いた状態で息絶えていた。熱中症だったかもしれないという。

梅雨とは名ばかりで、曇りなのに酷暑が続く。今からこうなら、梅雨が明けたら、どうなるのか。ゴンはどこへ避暑に行けばいいのか。

移動できない植物はなおさら耐え切れない。キノコだって、いずれは北へ北へと分布域を移すようになるのではないか。

2024年7月10日水曜日

鬼平ならぬ鬼天

                                 
 なにか毛色の変わった読み物を――。家の本棚をながめていたら、フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳『ヴィドック回想録』(作品社、1989年第3刷)=写真=が目に留まった。

 帯の表のキャッチコピーがすごい。「詐欺が跳梁(ちょうりょう)、強盗が跋扈(ばっこ)、フランス大革命が生んだ悪の百科全書」だ。

 帯の裏の推薦文は種村季弘が書いた。「泥棒にして警察官、犯人にして探偵。いまでこそめずらしくないタイプだが、元祖ヴィドックはできたてほやほやの二重人。バルザックやユゴーのモデルとなったのもむべなるかなだ(略)」

 ざっと770ページ。しかも、2段組みという長大な回想録だ。最初から順を追って読んでいったら、終わりがいつになるかわからない。興味を持ったところから読んでいくことにした。

 この本がなぜわが家にあるのか。買った覚えはない。どこからかのダンシャリ本だ。その経緯がブログに書いてあった。

 所有者は、市役所取材を始めた24歳のとき、某課の課長補佐だった人だ。その後、課長、部長、助役(副市長)と、一般職員のトップにのぼりつめた。

 本人が読んだかどうかは、問題ではない。元助役の家にあったという驚きが、この本を引き取るバネになった。

すぐ池波正太郎『鬼平犯科帳』の鬼平こと、火付盗賊改方長谷川平蔵の名せりふが思い浮かんだ。

「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく」

公僕精神を貫くには人間の心の奥底にあるものを知らないといけない、それには小説が一番、とでも思っていたのではないだろうか。

それから4年。いつかは読もうと思いながらも、本棚に差し込んだままになっていた。

この5月以降、かかりつけ医院ではなく、そこからの依頼で、病院での検査が続いた。近々、血栓と出血リスクを同時に減らすための予防的手術を受ける。

気分転換を兼ねてパラパラやっていると、鬼平と同じようなあだ名に出合った。ヴィドックは、逮捕・投獄・脱獄を繰り返し、やがてパリ警察のアンリ警視に出会い、警察の密偵になる。

 このへんのくだりは、「鬼平犯科帳」とそう変わらない。アンリ警視は「鬼の天使」といわれていた。

 江戸の盗賊たちが長谷川平蔵を鬼平と陰で呼んだように、アンリ警視もパリの盗賊たちから「鬼天」と呼ばれていた。

 『鬼平犯科帳』の密偵たちとは違って、ヴィドックはやがて特捜班が誕生すると、正規の刑事になる。

いやはや、なんともまあ……。飛び飛びに読んでも、意想外な展開が待っている。バルザックやユゴーが飛びつくはずだ。というのが、3分の1ほどを読んだ段階での感想だ。

2024年7月9日火曜日

たまらず海岸へ

                   
 雨が降ってもお湿りにさえならない。この週末は、いわきの内陸部でも真夏日が続いた。カラ梅雨にはちがいない。

 テレビが伝えるいわきの気温は、内陸部にある中心市街地・平ではなく、海に面した小名浜の気温である。

測候所が小名浜にあり、無人化されたあとは「特別地域気象観測所」として、自動観測を継続している。

いつからか「いわき○○度」が「いわき小名浜○○度」と、「小名浜」を加えるようになったのは、視聴者からの苦言・要望があったからだろう。

平に住む人間は、そのへんは先刻承知で、体感気温の参考にするのは、いわき南部の山田町だ。

平の気温が福島地方気象台のデータに反映されているならともかく、それがない。で、「気温と暮らし」ということになれば、いつも山田の気温を参考にする。

7月に入ると、山田は最高気温が4日33・6度、5日32・0度、6日30・7度、7日31・9度と、4日連続で真夏日になった。

小名浜はどうか。いずれも最高気温は30度に届かず、7日の日曜日は28・1度だった。

7日はいつものように、夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをした。といっても、体感ではこの週末で最も暑かった。

畑の日陰を求めて穴を掘り、生ごみを埋めると、もう息が上がった。15分で作業を中止し、早々に隠居を離れた。

どうやら内陸部に行くほど気温が上昇したようだ。あとでデータを確かめると、中通りでは最高気温が石川町37・8度、小野新町35・5度、船引町33・9度。浜通りでも隠居から近い阿武隈山中の川内村は36・7度だった。

こんな暑さの中で土いじりをすること自体無謀だが、一方では「ヤマユリが咲いているはず」という期待もあった。

小川町・三島のハクチョウ飛来地にさしかかると、川側の道端にヤマユリが開花していた。渓谷の入り口、高崎でもやはり咲いていた。

渓谷に入ると、つぼみが白く大きくなって開花寸前のものがあった。籠場の滝の近くまで進むと、まだ小さくあおいつぼみが散見された。

その先、少し開けたところで一輪、ヤマユリが咲き、かたわらでつぼみが大きく白くなっていた=写真。

ヤマユリはやはり夏の暑さと結びついた花だ。パチリとやって、爽快な気分になったのも束の間、「酷暑」の現実にげんなりさせられる。

家に戻っても暑い。街へ買い物に行っても暑い。夕方、海辺の農村地帯に住む後輩の家へ寄ったついでに、海岸へ出かけた。

車は、スタート時にはエアコンをかけるが、途中からとめて窓を全開する。集落を過ぎて海岸の防風林が見える水田地帯に来ると、急に空気がひんやりした。さっと体の熱が引いていく。

こんなに違うんだ。で、後輩の家からの帰り、海岸へ直行し、ひとときひんやりした空気の中を移動して帰宅した。

ハマの気温は、いわきの大多数が住むマチ(内陸部)の気温にはなりえない。そのことをあらためて胸に刻むドライブだった。

2024年7月8日月曜日

橋名板が消えた

                       
 よくぞ通報してくれた、という思いがある。金属買い取り業者のもとへ、橋名板が持ち込まれた。不審に思った業者が警察に連絡した。警察が動いて小名浜の会社員を窃盗の疑いで逮捕した。

古巣のいわき民報=写真=によると、直接の容疑は、同じいわき市内の山間部、三和町下永井字中根前の橋から橋名板4枚を盗んだというものだ。

 中根前はネットで調べればすぐわかる。そう思っていたが、下永井の住所(字名)欄にはない。

地理院地図には、「中根」はある。でも、メディアは続報でも中根前で通している。人間が住んでいないから、住所欄からははずしてある?

そんなことがあり得るのかどうかはともかく、山里でも集落から離れた山林内の市道、つまりは林道に違いない。

グーグルマップに描かれている道路と川が交差するあたりに狙いを定め、ストリートビューで山道をチェックしているうちに、被害に遭った中根橋に出合った。

 小川町の山中に小玉川をせき止めたダムがある。人工の「こだま湖」で、周囲には落葉樹林が広がる。春はヤマザクラが咲き乱れる。私はこの辺一帯を「いわきの吉野」と勝手に呼んでいる。

ダム湖に沿って三和町下永井へと道路が続いている。通常、市民が利用するのは湖の左岸側だ。下流の小川からいうと、ダム湖の右側のルートになる。

夏井川渓谷に隠居がある。隠居から川前経由で対岸の差塩(三和)へ駆け上がり、小玉川に沿って上永井から下永井へ下ると三差路に出る。

道なりに進めば、山を越えて三和の国道49号に出る。小玉川に沿って細道に入れば、ダム湖が待っている。

このダム湖の手前、東北電力の水力発電所があるあたりで、小玉川が屈曲する。その発電所に最も近いところに架かるのが中根橋だ。今度初めて知った。

橋には「中根橋」「平成4年11月竣工」(上流側)、「小玉川」「なかねはし」(下流側)の4枚の橋名板が設けられている。この4枚がすべてはがしとられたということになる。

 30~50代と、野鳥や野草の観察、山菜やキノコの採集を目当てに、「山学校」を続けた。

市道とはいっても林道のような狭い道を4輪駆動車で走り回った人間には、緑に覆われた山中の道がどんなものかはおおよそ見当がつく。

 軽トラックはともかく、普通乗用車では草がボデーをこすったり、折れた枝が行く手を遮ったりする。

それよりなにより道幅が狭いので、対向車が来たらどちらかが交差できるスペースまで戻らないといけない。

よほどの用事でもなければ通るのを敬遠するような交通環境だ。だからこそ入り込んだか。

私は車にカーナビが付いていても、使いこなせない。3・11以来、放射線量が高いままなので、キノコ採りにも行かなくなった。

とはいえ、人の目につかないところだけでなく、都市部でも橋名板の盗難が相次いでいるらしい。今度の余罪も数十件というから、こちらの想像をはるかに超える。

2024年7月6日土曜日

部屋に届く一筋の光

         
 これは夏至のころの、わが家の「レイライン(光の道)」には違いない。

 東側の台所の壁に古いタイプの換気口が二つある。まだ家の中か薄暗い5時半ごろ、そこから茶の間のカウチとそばの押入に朝日が差し込む=写真。

 少し時間がずれると、レイラインは消える。そのときだけ人間が見ることで生まれる「感動」といってもいい。

 春分あるいは秋分の日に、日の出・日の入りが東西の線と重なる。春分のあとの夏至までは日の出の位置が北に寄り、秋分から冬至までは逆に南に傾く。

 何年か前にレイラインの話を聴いた。夏至や冬至、春分・秋分といった節目の日に太陽の光と結ばれる「聖地」がある。

わけのわからない「パワースポット」とは違って、地学的データやGPS(全地球測位システム)を利用し、聖地の構造を科学的に分析する。合理的に聖地性の理由を説明できるのだという。

 その話を受けて、冬至の朝のレイラインを見に行ったことがある。場所はいわきの中心市街地・平の西方高台にある子鍬倉神社だ。

境内に八坂神社がある。冬至の朝、拝殿と参道、鳥居を結ぶ線の先から朝日が昇る配置になっているという。

冬至からは1日遅れの朝6時54分、八坂神社の参道に立つと、東の木々の間で一部、白銀のように明度を増すところが現れた。

やがて、そこが黄金色になったかと思うと、赤々と輝き、光線が放射状に伸び始める。まさしく鳥居の真ん中から朝日が昇ってきた。「一陽来復」の生まれたての朝だ。

拝殿の中は、と振り向けば、格子戸の奥に朝日が当たっている。昔は、元日の朝ではなく冬至の朝が初日の出だったことを講演会で知った。

実際に光の道を見て、そのことを納得した。「冬至のご来光」を拝むことですがすがしい気持ちになった。

というか、節目の日の朝日との一体感、つまりは敬虔な思いがそこはかとなくわき上がってくるのだった。

グーグルアースで八坂神社を見ると、正面は真東ではなく、やや南を向いている。わが家のレイラインはその逆で、カウチと座卓付近からは、換気口はやや北に見える。

もうひとつ、これは光の反射なので、レイラインといえるのかどうか。秋になると庭から家の床の間の壁に光が差しこんでくる。

ガラス戸をはさんで南の庭と茶の間が隣り合っている。庭に車を止めているので、その反射光が茶の間に飛び込んできたのだった。

あるとき、カミサンがこれに気づいて、手でキツネの影絵をつくった。子どもが小さかったころ、明かりを消して、ロウソクや懐中電灯の光で影絵遊びをしたものだが、昼間、太陽の反射光でそれができる。

外気とじかにつながっている「昭和の家」だからこそ体感できる夏至のレイライン、そして秋の反射光による影絵遊びだった。

2024年7月5日金曜日

モンテの「遺品」

                                 
 平の国道399号沿いに、中南米音楽の店「モンテビデオ」があった。今年(2024年)6月1日、50年の歴史に幕を閉じた。

 いわき駅前の飲み屋街からは少し離れている。最初からモンテで飲むか、あるいは駅前からタクシーで行くか――となるので、私がモンテのドアを開けたのは半世紀で10回あったかどうか。

 5年前、モンテのことをブログに書いた。この5~6月、旧投稿へのアクセス数が急増した。

モンテ閉店を知った人たちが、ネットで情報を探っているうちに、拙ブログにたどり着いたのだろう。中身を要約・抜粋する。

――2019年3月某日夜、飲み会があった。会場の近くに、中南米音楽の店がある。一次会が終わると、何人かその店に流れた。私以外は40代以下の若者だ。

店の名前は「モンテビデオ」。昭和49(1974)年に開店した。2階前面を黄土色のテントが覆っている。

私たちが入ると、ママさんがジプシー・キングスのビデオをかけた。フラメンコ系のアコースティックギターの音色が心地いい。

「パコ・デ・ルシアの音楽かと思った」というと、「パコのあとに(このグループが)出てきたのね」。ラテン音楽にはさすがにくわしい。

福島県川俣町は、今や日本のフォルクローレ(南米アンデス山脈に住む先住民を中心にした民族音楽の総称)のまちとして知られる。

同町のホームページによると、年に一度、「コスキン・エン・ハポン」という祭りが同町で開かれる。

アルゼンチンの避暑地・コスキンで、南半球の夏の1月、中南米の国民音楽祭が開かれている。その日本版を、同町の故長沼康光さんが中心になって開催した。

長沼さんらがフェスティバルを始めたのは昭和50年だ。「モンテビデオ」のママさんもこれに共鳴し、川俣町へ出かけたり、店を休んで長沼さんらと中南米へ出かけたりした。

ママさんはわがカミサンと中学校の同級生なので、若いときから知っている。「店を出してから、もう45年よ」。たぶん店内は当時となにも変わっていない。

ラテン音楽一筋に店を切り盛りしてきた。今も続けている。それはそれであっぱれな生き方ではないか。こういう店が“場末”にあるまちは楽しい――。

ここからは店をやめたあとの話。要らなくなったイス、テーブル、コーヒーカップ、グラス……。それらを引き取りに行った。

そのとき初めて、じっくり店の正面を見た。ドアとそばのエクステリアを包むように、白い壁が楕円に切り取られている。そうか、欧米の教会によくあるアーチ状の柱を模したものだったか。

カミサンの目当てはドアのそばにあった鉄柵=写真。ほかの鉄柵と含めて花壇の柵になった。

店名がローマ字綴りのタイルもあった。これは壁にしっかりはめ込まれている。後日、業者が来てはがし、ほかのものと一緒に廃棄してしまったという。

半「世紀の誤植」というか、「テ」が「チ」(TI)になっていた。ぜひ欲しいモンテの「遺品」だったのだが……。

2024年7月4日木曜日

大塚ひかり訳「源氏物語』

                               
 カミサンが移動図書館から借りた本の中に、特異なテーマのものがあった。大塚ひかり『うん古典――うんこで読み解く日本古典』(新潮社、2021年)。

 大塚さんは古典エッセイストだという。『源氏物語』も個人で全訳している。ちくま文庫全6巻で、こちらは総合図書館にある。とりあえず3冊を借りて併読することにした=写真。

 今年(2024年)の大河ドラマは『源氏物語』を書いた紫式部が主人公だ。毎週日曜日に「光る君へ」を見ている。

大塚源氏は、文体がほぐれていて軽い。「光る君へ」が放送されていることだし、この際、「世界最古の小説」を読んでみるか、という気になった。

 『源氏物語』については教科書レベルの知識しかない。古文を理解できないうえに、作品が長大だ。最初から敬遠していた。

 ところが、大昔のトイレ事情を扱った大塚さんの『うん古典』が全訳『源氏物語』への興味を呼んだ。大塚訳なら入っていけそうだ、多様な解釈のひとつとして――。

 大塚さんは、世間一般にいわれている見方、たとえば光源氏の栄光と没落、政治的野望と権力闘争の数々(ウィキペディア)といった話ではなく、貴族社会の「男と女の物語」として描いている。

 「『源氏物語』は、性愛が栄華の基盤になっていた時代の人間たちの物語である」(「はじめに)

 とはいえ、直截(ちょくせつ)的な表現は、原文にはない。代わりに、「当時の流行歌や自然や天候など、あらゆるものに託して『性』を『エロ』を、そこから生まれる『感情』を代弁させ、時に物語を牽引する伏線となっている」。

 訳と訳の間に「解説」(ひかりナビ)が入る。たとえば、最初の「桐壺」の章。「歌に宿、戸、山(月が入る)など何かを容れるものが出てくれば……」女を、「月(山に入る)など何かに入るもの、傘のようにさしたり、形状がそれらしいものが出てくれば……」男を暗示するのだとか。

桐壺は光源氏の母親で、ミカドの寵愛を受けた。が、嫉妬の渦の中で衰弱し、里に下って死ぬ。

 源氏は最高権力者の一人娘を妻に、申し分のない暮らしを送るのだが、心は満たされない。

「桐壺」のラストでは、そんな憂愁の貴公子が「光る君」と名付けられたゆえんを伝えて現実味を添える、とナビにはある。

 光源氏は近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣と進み、最後は准太上天皇という天皇に準じた待遇を受けるところまでいく。

 貴公子の女性遍歴と出世を重ね合わせた光源氏の一代記とでもいえる物語なのだろう。

わかりやすいといえばわかりやすいのだが、この年では全6巻を読み通す気力と興味を持続できるかどうか……。

2024年7月3日水曜日

1年の半分が過ぎた

                     
 6月30日は今年(2024年)の上半期最後の日、そして最後の日曜日。2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 やることは一つ。ネギの苗床から比較的育ちのいい苗を引き抜き、ネギの溝に定植する。

 今年は苗の養生に失敗した。苗が鉛筆くらいの太さになれば定植するのだが、それに近いのは数十本といったところ。大多数は耳かき棒くらいの細さだ。

 育ちの悪い苗は定植しても大きくならない。耳かき棒どころか楊枝(ようじ)のように細い苗は、これは畑の肥やしにするしかない。

 ネギ苗の定植は6月中に終えること――。幸いなことに、6月最後の日曜日は曇りがちの天気だった。それと、苗の本数が少なかったこともあって、引き抜き・定植はすぐ終わった。

 古いネギはすでにネギ坊主を形成したあとに、新しいネギを宿していた。いわゆる「分けつ」だ。

 ネギ坊主は採種用に摘み取り、わが家へ持ち帰って、軒下で陰干しを続けている。間もなく実の入った種だけを選び、乾燥剤とともに小瓶に入れて、秋の種まき時期まで冷蔵庫で保管する。

 ネギ坊主を形成した古いネギをいったん掘り起こし、皮をむいて花茎を根元からはずし、残りの分けつネギを溝に植え直したのが、2週間前の日曜日(6月16日)だった。

 それが45本。思ったより多かった。新しく植えた苗と合わせると、ざっと65本はある。とりあえず食べることよりも育てることが、今年のネギ仕事の目標になる。

 苗の定植が終わったあと、一休みをして、梅雨に入った庭の様子をチェックする。キノコの出る立ち枯れの木には何の変化もない。

 その根元付近に、遅まきながらホタルブクロの花が咲いていた=写真。ホタルブクロは梅雨の花で、渓谷では6月の半ばになると咲き出す。

 隠居の前の県道小野四倉線では、6月前半に花が咲いていた。それに比べると、隠居の庭のホタルブクロは日陰のためか開花が遅れたようだ。

 そんなことを思っていたら、後輩が軽トラに草刈り機を積んでやって来た。いつものように上の庭と下の庭を刈ってもらう。

 能登半島地震からちょうど半年。それだけではない、6月最後の日にネギ苗の定植をすませた。同時に、庭の草刈りも後輩の手で完了した。

 7月にはあれこれ厄介なことがある。できるだけ「宿題」はすませておきたい。少なくとも6月中をメドにしていた仕事は、あらかたすませた。

夜はいつものように、カツオの刺し身をつつきながら、一杯やる。これは初旬の何日に、あれは何日に……。あれこれ7月の日程を整理すると、気持ちもだいぶ落ち着いた。

2024年7月1日月曜日

ひん曲がった標識

                     
 抗凝固薬(血液をサラサラにする薬)の代替療法として、心臓の「左心耳閉鎖術」を受けることになり、そのための検査が何回かあった。

 採血や心電図はともかく、心エコーは初めてだった。引き続き、経食道心エコー検査が行われ、日をおいて心臓CTも行われた。これらも、もちろん初めてだ。

 かかりつけ医院と違って大きな病院なので、どこになにがあるかさっぱりわからない。院内を行き来する人の数も驚くほど多い。

 それだけで気が張る。あるとき、血圧を計ったら、薬を飲んでいるのに上が145もあった。脈拍も少し多めだ。「病院に来ると緊張するから」。私のつぶやきを、看護師さんがやんわり受け止めてくれた。

 検査そのものは短時間で終わる。とはいえ、そのための準備がある。昼前の検査だと、前日夜9時以降はモノを食べられない。朝食は抜く。午後の検査なら、昼食は抜く。

 ある検査では点滴を受けた。これも初体験だ。かかりつけ医院での採血と同じように、看護師さんが針を挿入するのにてこずっていた。

こうしたあれこれが重なって、検査が終わるころには疲れがたまったような感じになる。

マチへ行ったら、帰りは夏井川の堤防を利用する。それが習慣なのだが、どうもその気になれない。出かけたときと同じ国道~旧道を直帰する。

国道から旧道に折れる交差点に来ると、決まって思い出すものがある。夏井川の堤防を帰るときには、全く頭に浮かばない「事故」だ。

旧道は、国道とは斜めに交差している。その三角コーナーの歩道沿いに、歩行者の親子と自転車のマークのある道路標識が立っている。

あるとき、この標識が支柱の根元から雪国の根曲がりブナみたいにひん曲がっていた=写真。

自転車も利用できる歩道ということになるが、その標識がなぜ曲がったのか。自転車ではなくバイク、あるいは車が突っ込んでポールを押し倒した?

たとえば、こんなふうに(あくまでも空想)。国道と旧道の間には横断歩道がある。当然、歩道と接する部分には、縁石はない。国道から旧道へ入ろうとしてハンドル操作を誤り、横断歩道の端から歩道へ突っ込んで標識に激突した?

しかも、車は軽。というのは、車道との縁石、そばに立つ道路管理者の小さなポール、電柱には、それらしい痕跡が見当たらないからだった。

国道へ出るときだけではない。病院から直帰して旧道へ入るときにも、つい左折しながら、どうしたらこの標識がこんなふうにひん曲がるのかを想像する。

今ははるか昔、新聞記者になってサツ回りを経験したときの、いわば「職業病」のようなものだ。心身ともに疲れていたとしても、「現場」を見ると、なにかネジがまかれたような状態になる。やっぱりいつ見ても不思議な「根曲がり標識」だ。

2024年6月29日土曜日

名字が一字違っていた

                              
 長い間もやもやしながらも混同していた。「怖い絵」シリーズの作家中野京子さんと、小説「長いお別れ」を書いた中島京子さん。

 中野京子と中島京子。「中」と「京子」に引っ張られて、「怖い絵」を書いたり、「長いお別れ」を書いたり、ずいぶん多才な人なんだと思い込んでいた。

私だけではない。ネットで検索するとやはり、2人を混同していた人がいる。ということは、世の中には混同組がいっぱいいるにちがいない。

 「怖い絵」の方の京子さんは西洋文化史、特に絵画と歴史に通じている。雑誌「芸術新潮」などを介して西洋絵画に独特の光を当て、こちらの解釈の幅を広げてくれた。

 最近、『災厄の絵画史』(日経プレミアシリーズ、2022年)=写真=を読んだ。カミサンが移動図書館「いわき号」から借りた中にあった。

 大洪水、古代戦争・天変地異、中世の疫病、宗教戦争、大火、ペスト、梅毒、天然痘、コレラ、ジャガイモ飢饉、結核、スペイン風邪。

これら人類を襲った災厄の歴史的な背景を、絵画を介して取り上げている。そして、最後の最後に、世界的に流行した新型コロナウイルスに触れて、「コロナ・パンデミックを、現代の画家たちははたしてどのように描くのであろうか……?」と結ぶ。

自分の人生に降りかかった「災厄」を思い出しながら読んだ。小学2年生になったばかりのときに起きた、ふるさとの一筋町の大火事。わが家も焼け落ち、初めて避難生活を余儀なくされた。

それから半世紀後の東日本大震災と原発事故。家は残ったが、原発事故のために10日近く、人生二度目の避難生活を経験した。

この災厄を思い出しているなかで、カミサンとあることわざの話になった。「いつまでもあると思うな親と金」には続きがあるという。

その続きとは、「ないと思うな運と災難」。災難はすなわち災厄。災厄と同時に、運=希望の元もあるのだとフォローしている。人生は、世間はだから面白い。

京子さんの話に戻る。『災厄の絵画史』を読んだとき、初めて「あれっ」となった。もう一人の京子さんが書いた『長いお別れ』を読んで2カ月もたっていない。「中野」と「中島」の違いに、つまり京子は京子でも別人であることにやっと思いが至った。

「長いお別れ」とは認知症のことだった。アメリカでは「ディメンシア」(認知症)を「ロンググッドバイ」(長いお別れ)ともいう。そのワケは「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」だそうだ。

中野京子も、中島京子も、どちらも読んで面白い作家だ。この際、「中野中島京子」と覚えておくことにしよう。本を手にしたとき、どちらの京子さんかすぐわかるから。

2024年6月27日木曜日

クチナシの花

                    
 慢性の不整脈を抑える薬のほかに、血栓を防ぐための抗凝固薬を飲んでいる。そのせいか、どことはわからないが出血があって貧血気味らしい。

 前にも書いたが、血栓による脳卒中と、抗凝固薬による出血のリスクを同時に減らすため、カテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けることにした。

心臓にも耳があることを初めて知った。心臓由来の血栓の90%は左心耳で形成される。左心耳閉鎖術は抗凝固薬の代替療法だという。

 そのための準備が続く。手帳に書き込まれた会議や行事の予定日を避け、病院側のスケジュールを照合しながら、検査日を決める。

 「左心耳閉鎖術」を提案されて以来、自分の心と世の中の動きとに、ちょっとしたズレが起きているような感じになってきた。

 寝ても覚めても、というわけではない。が、やはり「入院」「手術」といった言葉が日々の暮らしの合間に浮かび上がる。

 それもあってだろう、今年(2024年)は夏至が6月21日であることをすっかり忘れていた。

いつもは事前に確かめてその日を待つのだが、新聞に躍る文字を見てうめいた。あれ、夏至になったんだ――。

 梅雨入りもそうだ。東北地方(南部と北部)は6月23日だった。南部については、平年より11日、昨年より14日遅い。

 梅雨前なのに猛暑が続く、といったニュースには接しても、東北地方の梅雨入りは夕方にテレビが報じるまで知らなかった。

 日曜日に梅雨に入ったと思ったら、いわき地方の内陸部(山田町)では月・火曜日と真夏日が続いた。わが家の茶の間も連日、30度を超えて、人間がいる場所ではなくなりつつある。

 6月16日の「父の日」に合わせて、社会人になった「孫」の母親からプレゼントをもらった。

「熱中症にならないように」。花火の柄の薄手の上下で、着ると軽い。外出するときには、この花火柄の半そでシャツをはおるか。

 梅雨や夏至、父の日のプレゼントなどはすぐブログに反映させたものだが、今年はどうもエンジンのかかりが悪い。

 気持ちに余裕がなくなっているのだろう。それを思い知ったのは、早朝、玄関を開けて新聞を取り込んだときだ。

 庭の緑の一角に、前日まではなかった白い花が一輪咲いていた=写真。クチナシの花だ。

 クチナシは7月の花。今はまだ6月の下旬だ。ちょっと早い。そう思った瞬間に、自分の心が世の中の動き、いや自然の移り行きと「連動」していないことに気づいた。

 世の中の動きには、身近な区内会や所属する団体の仕事も含まれる。これは相手があることなので、自分ではコントロールができない。

 それをこなしながら「手術」に備えるといっても、心の余裕が必要だ。張りつめていては夏至も、梅雨入りも視野に入ってこない。

クチナシの花はそのことを教えてくれているようだった。(というわけで、単に原稿を書く時間がなくてブログを休む日があるかもしれません)

2024年6月26日水曜日

北里柴三郎の一番弟子

                              
 八田與一(1886~1942年)は台湾の「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」(かんがい事業)、新渡戸稲造(1862~1935年)は「台湾製糖の父」。

それと同じように、いわき市渡辺町出身の高木友枝(1858~1943年)は「台湾医学衛生の父」といわれる。

高木は北里柴三郎(1853~1931年)の一番弟子だ。師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生に尽力した。

総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

長木大三『北里柴三郎とその一門』(慶應通信)が平成元(1989)年に出版された。そこに高木は載っていない。

出版の3年後、高木の遺族から資料の提供を受けて、長木は高木の章を加えた増補版を出す。

それで初めて、高木は赤痢菌を発見した志賀潔(1870~1957年)などに先んじて、「北里の高弟として筆頭に挙げるべき人」(長木)という認識に変わった。

この増補版がターニングポイントになったのではないだろうか。図書館の新着図書コーナーに、新村拓『北里柴三郎と感染症の時代――ハンセン病、ペスト、インフルエンザを中心に』(法政大学出版、2024年)=写真=があったので、即、借りた。

 読み始めるとすぐ、「北里の信頼の厚い高木友枝」というフレーズに出合った。少しオーバーな言い方をすると、北里を語ることは高木を語ることになる、そう思った。

長木の増補版が出てから32年。3年前に上山明博『北里柴三郎――感染症と闘いつづけた男』(青土社、2021年)が出版されたときにも、高木についての記述があるはずという期待をもって読んだ。やはり高木が載っていた。

今度の新村本では、第4章の「急性伝染病と衛生」で高木を詳述している。北里と高木は東京大学医学部の先輩と後輩で、北里がドイツ留学から帰国して伝染病研究所長に就くと、高木は鹿児島の病院長をやめて北里の助手になる。

この人事には衛生局後藤新平が関与していたともいわれている。というのも、後藤は高木を医学生時代から知っていたからだ。

そうしたエピソードを含めて、日清戦争終結に伴う帰還兵の臨時検疫業務に携わったこと、明治27(1894)年、広東と香港で「黒死病(ペスト)」らしい疫病が発生すると、高木の建言で北里が政府から香港へ調査に派遣されたことなどを紹介している。

 第4章の「台湾に渡った後藤新平を支えた面々」には当然、高木や新渡戸が出てくる。さらに「台湾の衛生・医育・台湾電力に尽力する高木友枝」という項目もある。

 日本の紙幣が7月3日から変わる。1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

 千円札は、実は門弟から恩師へのバトンタッチということになる。野口もまた北里の弟子の一人だった。

2024年6月25日火曜日

「私のふるさと」実地調査

                      
 いわき市教育文化事業団の研究紀要第21号(令和6年3月29日発行)をいただいた。

 自分の興味・関心からいうと、やはり文学に目がいく。渡辺芳一さんの「草野天平『私のふるさと』をめぐって――空中写真をもとにした草野杏平氏への聞き書き」を真っ先に読んだ。

 草野天平は草野心平の弟、草野杏平氏は天平の長男だ。天平も心平同様、詩を書いた。

 病気で妻を失った天平は、太平洋戦争末期、わが子を連れてふるさとの上小川村へ帰郷する。心平一家も終戦後、中国から引き揚げてくる。

 天平は戦後、比叡山に居住し、そこで生を終えた。「私のふるさと」は天平の絶筆になった(天平の口述を、再婚した妻の梅乃が筆記)。

昔、といっても東日本大震災の直前だが、この随筆をもとにしゃべったことがある。そのときのブログを中心に振り返る。

 天平の「生誕101年」の前日、平成23(2011)年2月27日午後、いわき市小川町の草野心平生家で「草野天平の集い」が開かれた。

当時、いわき市立草野心平記念文学館の学芸員だった渡辺芳一さんから頼まれて、「天平の作品とふるさと」というテーマでおしゃべりをした。

天平は「歩く人」という視点から話した。息子の杏平氏もお見えになったが、ご本人にとっては当たり前の父親の姿だったろう。

心平の「上小川村」の詩にある「ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……」の町並みの描写、これを実証したらおもしろい。

というのは毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、国道399号の中島バイパスを利用する。帰りは上小川の旧道を通る。

旧道沿いは一筋町で、心平の生家がある。ブリキ屋はどこ、下駄屋はどこ……と家並みをチェックしながら過ぎる。

渡辺さんの今度の論考もたぶん目的は同じ。昭和22(1947)年に米軍が撮影した空からの写真をもとに=写真、杏平氏とともに現地調査をし、杏平氏の記憶を重ねて、心平および天平の作品に出てくる建物や場所などを特定していった。

グーグルアースの写真と照合すれば、今と昔の比較ができる。そうすることで、私自身、当面の疑問が解けた。

旧道の集落の南、水田地帯に「新川という沼」や「夏井川に繋がる小川」がある。杏平氏はこの沼(大小二つあった)で泳ぎを覚えた。小さい沼は釣り専門だったという。

この小川はもしかして、「私のふるさと」に出てくる「裏山の方へ行くとシューベルトの『鱒』を思はせる様な清らかに澄んだ流れもあります」、これではないか。

二ツ箭山から発する下田川が集落の西のはずれを南下し、水田地帯を東進しながら、やがて夏井川に合流する。小川とはこの下田川のことだろう。

そして、米軍の空撮にはその小川(下田川)の南側に、東西に長い沼があった。たぶん、中島バイパス、そしてコンビニのあるあたりがそうではないかと見当をつけているのだが、どうだろう。

2024年6月24日月曜日

紫色の花

                              
 食べる楽しみだけではない。見る楽しみもある。薄紫色のアーティチョークの花はその一つ。

 このところ毎年、6月後半になると後輩からアーティチョークが届く。つぼみ、といってもソフトボール大だ。

食べるには、先端がとがって硬い皮をむいていく。花になる部分をえぐると、直径5センチほどのおちょこの底くらいの「花托」が現れる。コーヒーや紅茶でいえば、「受け皿」の真ん中、それが食用部分だ。

今年(2024年)は花を咲かせ始めたアーティチョークをもらった。ヒマワリやアザミと同じキク科の花である。色からいうとアザミに近い。

アーティチョークは和名がチョウセンアザミ。「異国のアザミ」といったニュアンスだそうだが、花がアザミに似ているところからその名が付いたか。

日をおかずに、後輩がまた桃色がかった大きな紫色の花と「ニンニク」を持って来た。ジャンボニンニクだという。

花はアリウム・ギガンチウムに似ている。アリウム・ギガンチウムについては前に一度、その球状の花に引かれて調べたことがある。

ネギやニンニクの仲間で、花茎の長い大型種は切り花に利用される。球状の花は直径が10センチ以上だという。

このアリウム・ギガンチウムに似たソフトボール大の花を床の間に飾ったあと=写真、ネットでジャンボニンニクについて調べた。

背が高く、広く平らな葉はリーキ(ネギの一種)に似る。しかし、鱗茎はニンニクに似て、それよりはるかに大きい。ジャンボニンニクと呼ばれるのはそのためだが、ニンニクとは別種だという。

刺激は少なくてマイルド、スープやサラダなどに利用される。煮込み料理には向いているが、生食はあまりよろしくない(まずい?)そうだ。

ジャンボニンニクが届いた翌日、今度はNHKの「あしたが変わるトリセツショー」でニンニクを取り上げていた。

カレーや豚汁などにニンニクを使うと、「うまみが増す」、あるいは「味が決まる」という。それはアリインというコク味物質のおかげだった。

90度以上のお湯にスライスしたニンニクを入れると、アリインが抽出される。このアリインたっぷりの「ニンニク水」が料理のうまみとコクを引き立てる。

つまり、「ニンニク水」そのものがダシになる。しかも、料理の味や香りを邪魔することがほとんどない。

ジャンボニンニクとは関係のない話しながら、ニンニクがらみの番組なので、つい最後まで見た。

むろんニンニクではないので、ジャンボニンニクから「ニンニク水」をつくることはできない。が、あらためてネギの仲間の多様さには驚かされた。

2024年6月22日土曜日

ネギの種選り

                      
 夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギを栽培している。今年(2024年)のネギ苗はどうやら養生に失敗した。早春に追肥を怠った。草引きも手を抜いた。たぶんそのせいで育ちが悪い。

いつもだと5~6月には300本以上を定植する。ところが今年は、定植できるのは20~30本だろうか。

たとえば、2021年はこんな具合だった。立派に育って、一気に定植するには時間が足りない。

溝は4列。そこに35本。翌週30本。平日にも出かけて、結果的には5月末までに400本ほどを定植した。

それからが本番で、2020年の場合は300本ほどを植えたのに、ちゃんと育ったのは半分ほどだった。おおかたはネキリムシに食害された。

そのために、というわけではないが、苗床にもネギを残しておく。いい具合にすき間ができたら土を盛っていく。これも夏の食材になる。 

ネギの定植と収穫には目安がある。わが生活圏は夏井川下流の氾濫原だ。堤防沿いの畑では、砂質土壌を生かしてネギの栽培が行われている。

堤防を行き来しながら、河川敷の自然の移り行きを、人間が住んでいる堤内ではネギの畑の1年を観察する。

冬に収穫がすんでなにもなくなった畑に、6月になると溝ができて、ネギ苗が定植される。それを渓谷の隠居で行う「ネギ仕事」の参考にする。

最初は溝、やがて追肥と盛り土を繰り返して高いうねにする。晩秋から冬に収穫し、同時に採種用のネギを越冬させると、春にはネギ坊主ができる。

それとは別に10月10日ごろ、畳1枚分くらいの苗床に種をまく。越冬して春になると、この苗が育つ。

定植と採種がほぼ同時にくる。まずはネギ坊主を観察し、黒い種が見えるようになると一気に収穫する。

今年は6月9日にネギ坊主を切り取り、我が家へ持ち帰って、軒下で陰干しをしている。ときどき、ネギ坊主をたたいたり、もんだりしてやると、黒い種が下にたまる=写真。

ここから殻と砂やごみを取り除けばいい。とにかく6月中に種を確保して秋の種まき時期まで冷蔵庫にしまっておく。7月には持ち越さない。これだけを心がける。

ネギ坊主をカットした古いネギは、皮をむくと「分けつ」して新しいネギを抱えている。古いネギはすでに役目を終えているので、新しいネギから切り離して畑の土に返す。

新しいネギは溝に植え戻す。これが30本ほどあるだろうか。定植可能な苗と合わせれば、今年は50本程度しか栽培できない。

それでもいい。半分採種用に残せば、来年はまた種が確保できる。そうして調整しながらネギの栽培を続ける。

原発事故に負けてたまるか――。2011年以後、全面除染で表土がはぎとられたあとも、三春ネギの種だけは絶やさずにきた。「負けてたまるか」だけをエネルギーにして。

2024年6月21日金曜日

テレビでラジオ体操

                   
 たまたま正午前に昼食をとりながらテレビ(NHK)を見ていたら、体操の時間になった。

テレビ体操? 違う。聞き覚えのある音楽と手足の動かし方を指導するアナウンスが流れてきた。ラジオ体操第1だ。

 テレビでラジオ体操をやるのか! 食事を終えたカミサンがアナウンスに合わせて体操を始めた=写真。私も座ったまま上体を動かした。

 テレビの向こう側にはスポーツウェア姿の女性が3人いる。1人はいすに座っている。座っていてもできますよ、というサインだろう。

 足が衰えてずっと立っていられなくても、車いすを必要としていても、座ったままで上体を動かすことはできる。そんな思いが読み取れる。

 震災前に早朝と夕方、散歩をするのを日課にしていた。国道を横切り、夏井川の堤防に出て、ただただ風景をながめながら歩き続ける。

 朝は家を出るとほどなく6時半になる。すると近所の民家の玄関前で、老夫婦がラジオ体操をやっている。雨で散歩を休んだ日以外は、毎朝、目撃した。

 学校の夏休みには、少し離れたスーパーの駐車場で、やはり6時半から小学生が集まってラジオ体操をした。私らも小学校の夏休みのときには、小学校の校庭に集合してラジオ体操をした。

昔も今も同じ歌で始まる。「あたらしい朝がきた/希望の朝だ/……」。私らが子どものときは、ラジオで体操を指導するのは主に紅林(くればやし)武男という人だった。

「ラジオ体操の歌」だけではない。体操そのものも全く変わっていない。はやりすたりがない。これだけは75歳も、50歳も、15歳も一緒に体を動かすことができる。

別の言い方をすると、後期高齢者になっても、小学生のときに体を使って覚えた動きはすぐ思いだす。

地区の球技大会でも開会式のあとに、準備運動として参加者と役員がラジオ体操第1をやる。

急に体を動かすものだから、体操をしているうちに肩が重くなったり、足がグラグラしたりはする。が、できない人はまずいない。

早朝散歩で老夫婦のラジオ体操を目撃したころから、いずれラジオ体操だけが体を動かす最後の希望になるのでは――という予感を抱くようになった。

75歳を過ぎた今はまさにその通り、という思いが強い。それこそリハビリ体操としての一面もある。

実は、6時半になったらラジオをかけるか、なんてことをときどき考えるようになってはいた。

早朝の習慣として、ついテレビをつけてしまう。6時半になっても体を動かすことはしない。

テレビでも6時半からラジオ体操をやると、茶の間でも体を動かす年寄りが増えるのではないか。

ラジオ体操は、地域を超え、世代を超え、時代を超えて日本を一つにする最強のコンテンツ(番組)――そんなことを思いながら、しばし子ども時代に戻っていた。

2024年6月20日木曜日

正書法とは

                            
 図書館の新着図書コーナーに、今野真二『日本語と漢字――正書法がないことばの歴史』(岩波新書、2024年)があった=写真。

正書法とはなつかしい。それが、日本語にはない? なぜ? さっそく借りて読み始めた。

 地域新聞社に入ると渡される「辞書」がある。共同通信社が発行している『記者ハンドブック 新聞用字用語集』だ。

 そのハンドブックに従ってニュース原稿を書く。内閣告示による当用漢字(使える漢字)、現代仮名遣い、送り仮名の付け方のほか、用事用語集、日時・地名・数字の書き方などが網羅されている。

 広辞苑よりは記者ハンドブック――。ハンドブックを開いては表記の仕方を確かめ、確かめしているうちに、ニュース原稿の「正書法」が身に付いてくる。

 大手新聞社にもハンドブックがある。細部には異なるところがあるとしても、内閣告示を踏まえ、日本新聞協会用語懇談会の基準を参考にしている点では共通している。

 で、正書法に従って文章を書いてきたと思っていた人間には、「正書法がない」というサブタイトルが気になった。

 そのワケは? たとえば、英語の「心」は「heart」と書く。5つのローマ字をこの順に書かないと、間違ったつづりになる。つまり、文字化の仕方が一つしかない。これが「正書法がある」ということだという。

 日本語はどうか。「心」「こころ」「ココロ」と、少なくとも三つの文字化の仕方がある。文字化の仕方が一つではないから、「正書法がないことば」ということになるそうだ。

 日本語の文字は実際、漢字と平仮名、片仮名の組み合わせによってできている。その歴史的経緯が語られる。

 朝鮮半島を経由して、日本に漢字文化がもたらされる。『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成った8世紀の時点では、「漢字によって日本語を文字化する」ことが一つの到達点をみる。

 その漢字から仮名が生み出されるのが9世紀末ごろ。『万葉集』が成った8世紀から250年ほど後のことだという。

 そうした歴史的な変遷を経て、寛弘5(1008)年には、部分的ながら紫式部の『源氏物語』が書かれていたらしい。

 『源氏物語』には『史記』や『白氏文集』などの一部が、漢文ではないかたちで引用されている。

このころには、すでに漢文を訓読し、日本語文として書き下すことが行われていたことが推測されるという。

 ここまで読んできて、日曜日の夜を迎えた。毎週、大河ドラマ「光る君へ」を見る。今回も、中国人(宋の見習い医師)との交流が描かれていた。

交流というよりは恋愛だろう。しかしそれとは別に、主人公である「まひろ」の中国語に関する興味・関心がすごい。つまりは知的好奇心の高さだ。

 手元には読みかけの新書。そこに出てくる源氏物語に関する文章を思い浮かべながら、日本語はもちろん、中国語を、漢字をどん欲に吸収し、やがては「和文」としての物語をつくりあげる作家・紫式部――そんなイメージが頭に浮かんだ。