2024年4月27日土曜日

ノノヒョロその他

                      
 春のお福分けが続く。前に書いたが、今年(2024年)はセリの鮮度がとてもいい。ほのかな苦みと香り、シャキシャキとした歯ざわり。晩酌のつまみとしては最高だ。

 先日はノノヒョロ(ノビル)と、豚肉と大根のしゃぶしゃぶが届いた=写真。ノノヒョロは味噌で生食した。

しゃぶしゃぶの大根は縦に薄切りにしたもので、味もしみている。大根も豚肉もやわらかくてうまかった。

震災前は、春になると川の堤防からノノヒョロを、渓谷の小流れからセリを、そばの湿地からコゴミ(クサソテツ)を摘んだ。

ただし、この「震災前」は「まだ現役だったころ」と同義でもある。現役のころは川の堤防を散歩していた。

夏井川渓谷の隠居へは、仕事を終えた土曜日の夕方に出かけた。こちらは一泊二日の滞在になるので、隠居の周辺を歩き回る時間がたっぷりあった。

小流れの湿地にコゴミの芽が現れるのは大型連休の直前だ。もちろん、生物季節観測と称して毎年ウオッチングしていた結果として、そのころになるとチェックを始める。

もっと標高の高い阿武隈高地の山里では、これが少し遅れる。それを頭に入れて低地から山地へと山菜を採り続けることはできる。

大型連休中に阿武隈の山里を巡ると、コゴミの葉で覆われた土手が目に入る。土地の人はすでに初物を口にしたことだろう。そう想像しながら通り過ぎる。

でも、やはり手っ取り早いのは、わが家の庭や渓谷の隠居の庭にあるものを摘むことだ。

わが家の庭にはサンショウの若木がある。毎年春になると若芽を摘む。これがさわやかな辛みを演出する。地面からはミョウガタケも現れる。

渓谷の隠居の庭から摘んだ若いフキの「きゃらぶき」の上にサンショウの若芽が載る。「さんしょうみそ」にもなる。ミョウガタケは汁の実にする。

「野菜の代用になるので助かる」。お福分けがいっとき、出費を抑えてくれることは確かだろう。それに、「季節を食べる」うれしさが加わる。

毎年この時期になると、野菜は「家菜」、山菜は「野菜」ではないか。しかも、山菜は家計の助けになる――そんなことを思う。

そこへ、こんな本を読んだ。経済アナリストの森永卓郎さんが書いた『ザイム真理教』(三五館シンショ、2023年)の「あとがき」。

「高い生活費をまかなうために、必死で働いて増税地獄のなかに身を置く都市生活を捨て、田舎に逃避し、そこで自給自足に近い生活を送ることだ」

 「自ら育てて収穫した食料も、太陽光パネルで発電した電気も、井戸からくみ上げる水も消費税はかからない。そして、住民同士で『おすそ分け』をし、不用品を売買する。個人間の売買に消費税は課せられない」

 少なくとも「おすそ分け」=「お福分け」の精神は堅持する、というふうに受け止めた。

2024年4月26日金曜日

巨岩のような人だった

                      
 「百姓バッパ」の吉野せいさんはさておき――。著名な文学者とじかに接したのは2回。いわき出身の詩人草野心平さんと、彼と親交のあった文芸評論家粟津則雄さんだ。

 私がいわき民報社に入るとすぐ、編集長が試すように言った。大黒屋デパートで心平さんが個展を開いている、会って話を聞いてこい。

 まだ取材のイロハも知らない人間には、何を聞いたらいいのかさっぱりわからなかった。女性秘書が取り次いでくれたが、心平さんは結局、一言もしゃべってはくれなかった。

 それから二十数年がたって、いわき市立草野心平記念文学館が開館し、粟津さんが初代館長に就いた。

 いわき地域学會の初代代表幹事でいわき湯本温泉の老舗旅館古滝屋の社長だった故里見庫男さんが毎月、同旅館を会場に異業種交流の飲み会を開いた。たまたま粟津さんと席が向かい合い、文学の話をしたことがある。

 「文化と福祉のボランティア団体」であるブッドレア会も、里見さんが中心になって発足した。例会で粟津さんが講師を務めたことがある。アリオスで開かれた朗読コンサートにも出演した=写真。

 粟津さんが4月19日に亡くなった。96歳だった。訃報に接して古滝屋での懇親会と講演、アリオスでのコンサートを思い出した。

平成20(2008)年のブログに講演とコンサートの記録が残っている。粟津さんをしのんで、それを要約・再掲する。

【ブッドレア会講演】粟津さんは「日本人の心とことば」と題して、心とことばの奥深いところ(つまりは詩、と私は解釈したが)で結びついている個人的な体験を主に語った。

最初は小学校へ上がる前に見た「赤黒く恐ろしい夕焼け」の記憶。その夕焼けが、心とことばの奥深いところと結びついた一番早い出合いだったという。

中学生でアルチュール・ランボーを知り、旧制高校時代に枝垂れ桜の怖さ、すごさを知って、「梅好き」から「桜好き」になった。

詩人(たとえばランボー)に助けられた――とも語った。戦争末期の暗い時代、粟津さんはランボーに支えられて「時代にはむかう牙」を磨いた。

そして、宮沢賢治の「永訣の朝」を読んだときの衝撃。草野心平、小林秀雄との出会い。「永訣の朝」は、粟津さんにとっては「事件」だった。草野心平、小林秀雄は「決定的な存在」となった。

【朗読コンサート】コンサートの後半は、粟津さんがピアノ伴奏にのせて草野心平の詩を朗読した。「秋の夜の会話」から「噛む」まで、粟津さんが心引かれてやまない心平の詩10篇を朗読した。

「秋の夜の会話」はやさしい声音と野太い声音を使い分けて、いかにも会話をしている雰囲気を出す。

「カエル語」でつづられた「ごびらっふの独白」はフランス語風、そのうえシャンソン調。そして、「わが抒情詩」の重く暗いため息。役者顔負けの演技力だ。

「知的巨岩」ないし「知的ブルドーザー」とでも形容したくなる人が、きめこまやかに心平の詩を朗読した。

2024年4月25日木曜日

芽吹き前線

                      
 田村郡小野町からいわき市川前町小白井へと延伸した「あぶくま高原道路」プラス県道を「走り初め」したことを前に書いた。

 いわきの平地から川前町の小白井(旧小白井小・中あたり)までは、標高差が600メートルはある。

 いったん夏井川渓谷の隠居に寄り、30分ほど土いじりをしてから、小野町へ向かった。大型連休前の日曜日(4月21日)である。

いわきの平地はすでにヤマザクラの花も、ソメイヨシノの花も散って、丘陵はすっかり初夏の装いだ。

渓谷の隠居の対岸を彩っていたアカヤシオ(岩ツツジ)とヤマザクラの花も消えた。隠居の庭のシダレザクラと若いサクラが少し散り残っている。シダレザクラの樹下に立っていると、隣接する空き地から声がかかった。

「ちょっとお聞きします。岩ツツジがあるのはこのへんですか」「もう終わった、ここの前の山が一番。先週の日曜日までは満開だったんだけど」

例年だと4月中旬がアカヤシオの見ごろで、下旬に入っても花は残っていたのだが、このごろは開花が早まっている印象が強い。

それからほどなく、小野町へ向かう。隠居のそば、JR磐越東線と並走する県道小野四倉線の土手は、セイヨウカラシナらしい菜の花で黄色く染まっていた=写真上1。

川前を過ぎ、市境の峠を越えて小野町夏井地区に入ると、また平地が広がる。阿武隈高地の太平洋側は、いわば2階建ての家と同じだ。1階(いわきの平地)と2階(小野町の平地)を階段(夏井川渓谷)がつないでいる。

磐東線の夏井駅あたりで標高は420メートル前後だろうか。ゆるゆると流れる夏井川の両岸にソメイヨシノが植えられている。「夏井千本桜」だ。

駅近くのソメイヨシノ=写真上2=を含めて満開は過ぎていたが、駐車場はどこも満パイ状態だった。

小野町の周囲の山は木の芽が吹いたばかり。さすがに標高の低いいわきよりは春の訪れが遅い。

小野ICのループ橋を利用して、あぶくま高原道路の延伸部分に入る。すぐ滝根ICを通過し、ほどなくいわき市川前町小白井に着く。こちらも木々の芽吹きは少ない。

このドライブで最も標高が高かったのは、やはり小白井だ。旧小白井小・中前で650メートルほど。芽吹き前線の中核となるコナラなどの雑木山はまだ冬の眠りから覚めてはいなかった。

小野町のコンビニで昼の弁当を買った。見晴らしのいいところで食べようとなったのだが、これはという場所がない。

結局、下川内、小川町・戸渡から国道399号の十文字トンネルを抜け、沿道のスペースに車を止めて、そこで食べた。 

右手にヤマザクラの花で染まった山が見える。「なんという山?」と問われても、方角がわからない。

二ツ箭山なら「裏二ツ箭」だが、どうもそちらではなさそうだ。背戸峨廊(セドガロ)の源流だろうか。いずれにしても、そこからの眺めを楽しんでから、小川の平地へ下りた。

2024年4月24日水曜日

ロング・グッドバイ

                              
 月に1回、移動図書館「いわき号」がやって来る。カミサンが運営している「かべや文庫」の本を返し、また新しい本を借りる。

 このごろはシルバー関係の本が増えた。茶飲み話をしに来る同世代の人の興味・関心を反映しているのだろう。

「これ、おもしろいよ」。いつもの流れで、カミサンが矢部太郎著『マンガぼけ日和』(かんき出版、2023年)=写真=を差し出した。原案は長谷川嘉哉、とある。

 長谷川さんは認知症の専門医だ。長谷川さんの著書『ボケ日和』の装画を矢部さんが手がけた。その縁で『ボケ日和』を原案に、矢部さんがマンガを描き下ろしたのだろう。

 矢部さんはお笑い芸人でもある。大河ドラマ「光る君」では、主役の紫式部に仕える従者「乙丸」を演じている。

 父親は絵本作家のやべよしみつ。介護職の母親が働きに出ている間、在宅で仕事をする父親が矢部さんの面倒をみたという。

漫画家としては『大家さんと僕』がベストセラーになり、手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。

 漫画の特性なのか、認知症をテーマにしながらも、どこかゆるやかで、ほのぼのとした仕上がりになっている。

 たとえば、「モノ盗られ妄想」。隠した場所を忘れて、見つけてくれた人=実は一番面倒をみてくれているお嫁さんと結びつけて、「アンタが盗った」と思い込む。

「アンタがいないと困る」の裏返しで、「介護の勲章」だと医師から説明を受けても、お嫁さんは「その…勲章、ぜんっぜん嬉しくない…です…」。そして、最後。「息抜きも忘れないでくださいね」「はい」

なかでも心に残ったエピソードがある。「夏」の章の「ゆっくり…」。カメラが趣味のおじいさんと、チャーミングなおばあさんが暮らしている。

おばあさんは認知症の中核症状がみられる。おじいさんが付き添って専門医のもとへ通っている。

キャッシュカードは使えるかと聞かれて、おばあさんは答える。わたしは問題ないよ、カードの裏に暗証番号を書いておいたから。なんてことを!

認知症の最大の要因は「加齢」で、発症したとしても薬物療法やリハビリで悪化するまでの時間を引き延ばすことができる。医師は「ゆったり構えればいいんです」という。

その帰り道。おばあさんがおじいさんに語りかける(言葉遣いは男女が逆転している)。「ロングなんとか言うとったなあ先生…認知症のことを英語で…」。「ロンググッドバイですね」とおじいさん。

すると突然、おばあさんはおじいさんの手を握る。「ゆっくり…さよならしていこうなあ」

そうか! そういう年齢になったんだ。ロング・グッドバイ(長いお別れ)。これは認知症に限らない。

老夫婦が一緒にいる時間は、一日が終わるたびに短くなる。しかし、時間は過ぎていくのではない。記憶の中に日々の暮らしが蓄積されるのだ。

一日を終えるときに「きょうも一緒でよかった、ありがとう、お休み」と胸の中で語りかける。それもまた、ロング・グッドバイにはちがいない。

2024年4月23日火曜日

シン・あぶくま高原道路

                     
 「シン・ゴジラ」とか「シン・ウルトラマン」とかにあやかれば、「シン・あぶくま高原道路」となる。

 西の東北道・矢吹ICから東の磐越道・小野ICを結ぶ自動車専用道路(あぶくま高原道路)が4月13日、いわき市川前町小白井まで延伸されたというので、日曜日(4月21日)に「走り初め」をした。

 あぶくま高原道路は、直接にはいわきと関係がなかった。ところが、原発事故が起きたあと、浜通りの復興と再生を支える幹線道路の一つとして、小野ICから東側への延伸が決まった。

 いわきのマチに住む人間には無縁の道路かもしれない。が、阿武隈高地の山里で生まれ育った人間には、この道路の新設は気になる。

 道路の延伸は、報道では知っていた。しかし、どこをどう通るのかはよくわからなかった。

 去年(2023年)の夏、新盆で田村市常葉町の実家へ帰る途中、小野町内ではなく、夏井地区から滝根町へ直行する夏井川沿いの道路を利用した。

このとき、空中に架かる橋を見た。これが「シン・あぶくま高原道路」か。初めて具体的に道路のイメージがわいた。

マイクロツーリズムと称して、年に2回くらいは夏井川渓谷の隠居から小野町へ駆け上がる。

そのあと、小野ICから平田ICまで無料のあぶくま高原道路を利用し、道の駅ひらたで買い物をする。あとは国道49号を下っていわきへ戻る。

そのドライブの延長で、今度は小野ICから東へ、つまりいわきへ足を運んでみることにした。小野ICのループ橋にも興味があった。

小野IC付近は道路網がややこしいので、事前にシミュレーションをして、どことどこで左折するかを頭にたたき込んだ。が、やはり現場では少しとまどった。

ループ橋は進入するとこんな感じ=写真上1(撮影はカミサン)。さらに延伸部分に入るとほどなくトンネルが待つ。その先に滝根ICが設けられている=写真上2。

自動車道としては滝根ICまで2.6キロ、その先6.6キロは一般道(県道)として整備された。

矢大臣山の西北麓を走り、矢大臣山トンネルを抜けると、ほどなく閉校になった小白井小・中学校の前に出る。

ここまでくると、あとは頭に地図が入っている。川前の荻から下川内へ抜け、国道399号を利用していわきのマチへ戻った。

ほとんど山あいを通るので、景色を楽しむということはない。距離的にも短いので、あっという間に小白井へ着いた、という印象だ。木々は少し芽吹いたばかりだった。

この道路は県道小野富岡線と接続する。その意味では、浜通りの富岡から阿武隈の山々を越えて中通りに向かう幹線道路には違いない。

復興再生という意味もあるのだろうが、事故を起こした1Fは、安定しているとは決していえない。万が一のための「避難道路」でもあることを実感した。

ただし、平田ICへ向かう小野IC合流部は引き続き通行止めになっている。こっちの方は確かに困ったものだ。

2024年4月22日月曜日

誤認による食中毒

            
 春は山菜、秋はキノコ。自然の食材がいろいろ手に入るという意味ではその通りなのだが、この時期には誤認による食中毒も多くなる。

 先日の県紙に、いわき市内の夫婦が有毒のバイケイソウをウルイ(オオバギボウシ)と誤認して食中毒になった、という記事が載った。

 さいわい命に別状はなかったようだが、春になると、このバイケイソウを誤食する事故が後を絶たない。

 バイケイソウは、一般には高山植物に分類される。いわきに高山、あるいは亜高山はあるのか――となれば、「ないよなー」となる。

 しかし、『福島県植物誌』によると、三和町や田人町の山地にはこのバイケイソウが自生している。

 植物が専門の高校教師を先生に、仲間で「山学校」をしていたころ、田村市の大滝根山やいわき市の四時川渓谷などでバイケイソウの若葉を見たことがある。入遠野川支流の大風川渓谷(古殿町)でも出合った。

新聞記事に載った食中毒の経緯は――。夫が日曜日(4月14日)、いわき市内の山から「ウルイ」を採取し、その日の晩、チャーハンの具材に加えて食べた。1時間もすると嘔吐、吐き気、下痢、めまいなどの症状があらわれ、救急搬送された。

いわき市のホームページには、①令和2(2020)年4月=知人からウルイといわれて譲り受けたのを油炒めにして食中毒に②同4年3月=自分で誤認して採取し、酢味噌和えにして食中毒に――と、2例のバイケイソウ中毒事故が紹介されている。

バイケイソウをウルイと思って誤食するのは、もしかしたら春の典型的な例なのかもしれない。

山菜がらみの食中毒だけではない。秋にはキノコの食中毒事故が起きる。いわきキノコ同好会は年に1回、会報を発行している。全国のキノコ中毒例が掲載される。

3月末に発行された第29号=写真=にも載る。令和5(2023)年度中に国内では二十数件のキノコ中毒事故が発生した。

そのなかで最も多かったのが10~11月のツキヨタケの中毒事故だった。親戚がムキタケと思って採取したものをもらった、道の駅でムキタケとして売っていた、ヒラタケ、あるいはシイタケと思って採取した――いずれも誤認(誤食)が原因だ。

ツキヨタケは夏井川渓谷にも発生する。生長したものはホットケーキより大きい。見た目は確かに、ムキタケやヒラタケに似る。

迷ったら1個、木からはがし、傘を縦に割いて柄の付け根を見る。黒っぽいシミがあれば毒、つまりツキヨタケであることがわかる。

「ツキヨタケを採って家に持ち帰り、夜、部屋の明かりを消したら光った」。いわきキノコ同好会の仲間には、食・毒を超えてキノコの生態や形態に魅了されている人が多い。まずは毒キノコを覚える。それが中毒を減らす近道、ということになる。

2024年4月20日土曜日

大きな変化

                               
 すっかり春めいてきた。カミサンが庭からニリンソウの花を1本取って、食卓に飾った=写真。

 だいぶ前、親類の土地に自生していたニリンソウを分けてもらい、庭に移植した。前はひとかたまりになって咲いていたが、土が合わなかったのか、年々数を減らし、もう消えたと思っていた。

 しかも、4月の後半だ。ニリンソウやカタクリは早春植物といわれていて、ほかに先駆けて開花する。スプリング・エフェメラル(春の妖精)にしてはずいぶん寝坊助ではないか。

 朝食のときに見ると、花が閉じていた。日中はもちろん開いている。温度の変化に応じて花を開閉するのを初めて知った。

 「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」。花は時期がくれば咲くが、人間の世界はいつも同じではない。

 拡大解釈をすると、人の世は移り変わるのを常とする、という意味では、これはもしかしたら大きな変化だったかもしれない。

   3月最後の日曜日に行政区の総会が開かれた。やることは毎年同じなので、予算と事業計画も前年度と大枠では変わらない。

 とはいえ、今回は全く前例にない提案をした。区費の3年間減額である。審議に先立って、私がその理由を説明した。総会資料にも盛り込んだ。

 話は1年前にさかのぼる。コロナ禍が収まらないため、対面による総会ではなく書面審議による総会が続いた。

 去年の書面審議の過程で「繰越金が多すぎるのではないか」との指摘があり、5年度中に善後策を検討することを約束した。

 数字を出すことは控えるが、けっこうな額になっていた。理由は何か。役員会で過去10年の収支決算書を精査した。

やはりというべきか、コロナ禍による行事の中止が相次いだことが主因だった。球技大会や体育祭をはじめ、各種の行事が中止、あるいは規模縮小され、事業費や負担金、助成金、交際費(祭礼等の祝い金)の支出が減った。

通常の水準(令和元年度までの平均収支)を目安に、何パターンか区費減額による収入減、各種行事再開による支出増を試算した結果、「区費の6分の1減額3年間」で繰越金がコロナ禍前に落ち着くことがわかった。

コロナ禍で活動が停滞したため、団体によっては負担金の徴収を見合わせるといったケースもあった。

それと同じで、遅まきながら活動が抑えられた分、個々の負担も軽減しよう、ということになった。

これはたぶん、世代的な視点が影響しているように思う。長老組はどうしても前例踏襲主義になってしまう。

 ところが、若い世代は違う。おかしいのではないかという問題意識とセンス、これが地域で暮らす視点と結びついたとき、ではどうしたらいいかという答えと変化を生むエネルギーになった。

2024年4月19日金曜日

お前はハナクロ

                      
 4月の中旬にはなんとなく気持ちが重くなる。同じ日常の繰り返しなのに……。するとやがて(これも毎年のことながら)、16、17日に個人的な記念日が重なっていることを思い出す

 16日は下の子の誕生日、そして義父の命日。17日は田村郡常葉町(現田村市常葉町)の「常葉大火」があった日だ。

 常葉町で生まれ育った。大火事が起きたのは、小学2年生になって間もない昭和31(1956)年4月17日の夜。

そのときの様子を、『かぼちゃと防空ずきん』(いわき地域学會)に書いた。それを抜粋して紹介する。

 ――夜7時10分。東西に長く延びた一筋町にサイレンが鳴った。こたつを囲んで晩ご飯を食べようという矢先だった。消防団に入っていた父が飛び出していく。母と弟は親類の家に出掛けていない。残ったのは祖母と小学5年生の兄、そして私だけ。

 火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れる――。

買ってもらったばかりの自転車も、赤ん坊のときから小1までの写真も、何もかもが灰になった。飼い猫の「ミケ」はほかのペット同様、どこかで焼け死んだにちがいない。

ところが一週間後、私たち家族が身を寄せている親類の石屋の作業場にミケが姿を現した。

自宅から親類宅まではざっと500メートルある。猫が生きのびたことだけでもすごいのに、飼い主一家が避難しているところをよくぞ探り当て、たどり着いたものだと感心した。

13年前の原発震災でも「奇跡」が起きた。わが家には猫が3匹いた。茶トラ2匹、ターキッシュアンゴラの雑種らしいのが1匹。古株の「チャー」は老衰がひどかった。えさをたっぷりおいて、人間だけ避難した。

 9日後に帰宅すると――。チャーは衰弱して息絶え、ミイラ化しているのではないか。そう思っていたら、3匹とも元気な姿で現れた。

足を引きずっていたチャーはミイラになるどころか、4本の足でちゃんと歩いている。下半身に力が戻り、排便もきちんとできるようになっていた。カミサンが歓声をあげた。

 チャーたちが死んだあとは、猫を飼うのをよした。代わって、今は迷い込んできた「さくら猫」にカミサンがエサをやる。

すると、そのうち白と黒の「ハナグロ」もやって来るようになった=写真。これはまだ私の姿を見ると逃げる。

ハナグロより「ハナクロ」。何かの名前が頭に浮かんだので、それに合わせてハナクロと、濁らずに呼ぶことにした。とにかく鼻が黒い。それを見ただけで口元が緩む。

2024年4月18日木曜日

令和5年度ガン・カモ調査

                      
   毎年1月、環境省主催で「全国一斉ガン・カモ調査」が行われる。いわき地方は日本野鳥の会いわき支部が担当する。

ありがたいことに、同支部の元事務局長峠順治さんから毎年、調査結果の載った支部報「かもめ」の恵贈にあずかる。今年(2024年)も4月に入ると届いた=写真。

まずは一覧表を眺める。コハクチョウの合計が令和4年度は818羽だったのに、同5年度は343羽と激減した。

パッと思い浮かんだのは、ハクチョウ越冬地での河川改修工事だ。「かもめ」もまた、同じような指摘をしていた。

それはそうだろう。ハクチョウのホーム(繁殖地)は極寒の地だ。冬は寒さを避けるために南下し、セカンドホーム(越冬地)で過ごす。

そのセカンドホームで工事が続いている。しかたないこととはいえ、ハクチョウたちにとっては落ち着かない。で、どこかいわき以外に散らばったのだろう。

ガン・カモについては、私は街からの帰りに平・塩~中神谷の夏井川で、日曜日に小川・三島の同川で観察する。

いちいち細かくカウントはしない。「見た目」でざっと20羽、50羽、100羽といったように、概数をつかむ。

その数は毎回変わる。1月のガン・カモ調査時とも一致はしない。日々、あるいは時間によって増減がある。

今年は1月14日の日曜日に一斉調査が行われた。私はこの日、カミサンと一緒に朝、夏井川渓谷の隠居へ行ってネギを収穫した。

それがすむと、カミサンに従ってアッシー君を務めた。その行き帰りにチラッと三島のハクチョウを見た。

そのときのコハクチョウの数はどうだったか。夏井川水系では、上流から三島111羽、平窪と愛谷(あいや)堰85羽、新川合流部の塩123羽、いわき南部の鮫川では沼部24羽の計343羽だった。

沼部にはコハクチョウのほかに、コブハクチョウが4羽いた。日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』によれば、コブハクチョウはいわきでは「漂鳥」扱いだ。

公園などで飼われていたのが逃げ出し、野生化したのが日本各地に定着している。平成30(2018)年度のガン・カモ調査では、鮫川でコブハクチョウが繁殖し、定着していることがわかった。つまりは留鳥化した、ということだろう。

ほかの水鳥も減った。マガモは751羽。一昨年並みで、去年の945羽よりはかなり少ない。

三島では冬場、ハクチョウに寄り添うようにオナガガモがいる。そこは113羽だったが、ほかは塩20羽、沼部43羽だけだった。去年は全体で483羽だったから、これも激減した。

特記事項として、①南部=沼部橋上流・ポンプ場で河川改修工事中、高柴ダムは堤体付近で工事中②中部=夏井川の複数個所で河川改修工事中③北部=夏井川河口で横川水門工事中、立場橋―大苗代間で工事中――とある。

減少理由としてはたまたまかもしれないが、工事個所の多さ、気温上昇などが気になるところだという。

2024年4月17日水曜日

春の土の味

         
 夏井川渓谷の隠居の庭にフキが群生する一角がある。今年(2024年)はなぜか、フキノトウの出現が遅れた。とはいえ、1月下旬の極寒期が過ぎると、目に見えて頭をもたげ始めた。

 私はとりあえず一つ、二つ、といった程度にフキノトウを摘んで持ち帰り、水洗いをしてカミサンに渡す。

 ナメコその他が入った味噌汁に、フキノトウのみじんが浮いているのを口に含む。ほのかな苦みと香り――。これこそが春の土の味なのだと、年をとった今は納得する。

 子どものころはこのフキノトウの苦みが嫌いだった。祖母、両親、子どもたちの3世代が同じ食卓を囲む。大人にとっては春の土の味も、子どもにとってはただ苦いだけの食べ物にすぎなかった。

 それが大人になって就職したあと、酒の席に出てきた。苦いのは苦いが、なぜか酒に合うことを知った。そのことは前にも書いた。

 男の私と違って、カミサンは丹念にフキノトウを摘む。日曜日のたびに、笊(ざる)にいっぱい収穫した。

 多くは「ふき味噌」になって出てきた。これも子どものころに味を覚えた。砂糖の加減で甘みが強かったり、弱かったりするのはしかたがない。

 最近は薹(とう)が立ったフキを刻んで酢味噌和(あ)えにしたものを食べた=写真上1。これは面白い味の組み合わせだった。

 フキの苦みがきたあと、酢の味と味噌の味がくる。時間差がある。フキノトウとしては終わっているが、花茎はまだやわらかい。知り合いから教わった作り方だという。

 今は隠居の庭がヨモギの新芽で覆われつつある。これもカミサンは2時間、3時間と飽きずに摘む。

 まずはアクを抜き、刻んで、油で炒め、醤油で味を付けたものが出てきた。さっぱりした味だった。

 種本があるという。移動図書館から若杉友子『若杉ばあちゃんのよもぎの力』(パルコ、2022年第5刷)=写真上2=を借りた。その中に「よもぎのしょうゆ炒め」が出てくる。

まず、①アク抜きしてしぼったよもぎを1センチ幅くらいに切る②フライパンを熱してごま油を回し入れ、よもぎを入れて菜箸を回してサッと炒める。

そして、③よもぎに酒を振って混ぜ、アルコール分が飛んだら醤油を鍋肌から回し入れ、再度混ぜて仕上げる。

別の日には、よもぎのパンケーキを試食した。小麦粉や砂糖その他が入ったパンケーキミックスを利用したという。

種本には出てこない。ミックスされたものに卵や牛乳を混ぜ、サラダ油で炒めると、それらしいものが出来上がる。

ゆでて、冷水でアク抜きをする、というのが基本らしい。そこまでやっておけば、刻んだり、すりおろしたりするだけでいい。昔ながらの食べ方もいいが、洋風の春の土の味も、それなりに新鮮で面白かった。

2024年4月16日火曜日

花見谷

                     
 「花見山」という言葉がある。その連想で「花見谷」という言葉が思い浮かんだ。4月14日・日曜日の夏井川渓谷はまさに「花見谷」だった。

 Ⅴ字谷をアカヤシオ(岩ツツジ)の花が彩り、ヤマザクラの花が咲き誇っていた。隠居の庭にあるシダレザクラも満開になった。

 それだけではない。隠居の庭には上の孫が小学校に入学したときに植えたサクラがある。

 このサクラは義弟からの入学祝いだ。義弟がホームセンターから買ってきた苗木を、私が代わって植えた。

 それが10年ほどたって樹高3メートルを超え、四方に枝を広げながら、花をいっぱい咲かせるようになった。

 2~3年前まではいかにも幼木そのものといった感じだったが、今年(2024年)はりりしく立っている。若木なりに生長し、花見の対象木に加わった。

 前の日曜日(4月7日)、対岸にある前山のアカヤシオが満開だった。庭のシダレザクラと、義弟のサクラは開花したばかりで、1週間後は庭も、対岸の奥山も花で彩られるはず――そう踏んだとおりになった。

 カミサンが弟に声をかけると、「花を見たい」という。14日は朝から快晴だった。義弟を加えて3人で隠居へ出かけた。

 平郊外の丘陵地は青空とヤマザクラのピンクの花、淡い芽吹きの緑でさわやかな水彩画を見るようだった。

 道々のサクラは、今年は開花が順不同だ。行く先々でシダレザクラは散り、ソメイヨシノが満開だった。

 さすがにソメイヨシノの花の華麗さは群を抜く。遅まきながら満開のソメイヨシノに心が洗われた。

 渓谷に入ると、ヤマザクラの花が迎えてくれた。木々も芽吹き始めていた。隠居に着くやいなや、カミサンが弟をサクラのそばに連れて行く。

 義弟は、自分で買い求めた苗木が育ち、いっぱい花を付けていることに満足した様子だった。

品種はソメイヨシノらしい。にしては、花の色が白い。土壌がそうさせるのか。あるいは、ヤマザクラ系の品種だろうか。一部ですでにあおい若葉を広げていた。

 その白い花を手前に、庭のシダレザクラと対岸のアカヤシオのピンクを一つのフレームに収めようと、カミサンがカメラを手に取った=写真。

 足元にはオオイヌノフグリの青、辛み大根のピンク、タンポポの黄色い花が散らばるように咲いている。

快晴無風。徐々に気温が上がって、上着を脱ぐ。樹木も、草も陽光に輝いて、いっぱい酸素を吐き出している。

30年近く前、渓谷へ通いはじめたころ、地元の長老に教えられた。「ここは『五春』だよ」。梅、ハナモモ、アカヤシオ、ヤマザクラ、ソメイヨシノが時を重ねるようにして咲く。

それだけではない。木々の芽が吹いて、早緑色や臙脂色、黄色、薄茶色のグラデーションが広がる。梅の花はすでに散ったが、渓谷はまさに春の花盛り。

この日、「花見谷」にはひっきりなしに行楽客が訪れ、隠居の前の県道を行ったり来たりしながら花を楽しんでいた。

2024年4月15日月曜日

「カフェー燈台」

                               
 4月の1日は月曜日。新年度の始まりと、NHKの新しい朝ドラ「虎に翼」の始まりが一緒になった。

 「虎に翼」は、日本初の女性弁護士・裁判官になった三淵嘉子(1914~84年)がモデルだという。今は昭和初期の東京が舞台。主人公はまだ学生だ。

 女学校を卒業した主人公猪爪寅子が明律大学女子部に入学する。法律を学ぼうとしたのは、ひょんなことで明治民法に疑問を持ったからだ。

女性は結婚すると「無能力者」になる。ハア?――。そうか、主人公は「新しい女」の側に身を置いているのだ。

「良妻賢母」や「男尊女卑」の世界から飛び出して、自分らしく生きる、そうした女性を守る「盾」として法律家になることを決意する。

 「新しい女」の淵源は明治44(1911)年に発行された雑誌「青踏」だろう。平塚らいてうを発起人に、与謝野晶子や伊藤野枝、田村俊子らが集った。

男性につき従う「良妻賢母」の殻を破り、自我の確立を主張する、その先陣を切ったのは、しかし、いいとこのお嬢さんたちだった。

高等教育を受けていて、物おじをしない。ときに、世間が眉をひそめるようなこともする。「虎に翼」の主人公も、どちらかといえばこちら側のお嬢さんだ。

そんな時代の表と裏を思い起こさせるシーンがあった。男装の女子学生山田よねは、上野歓楽街の「カフエー燈台」で「ボーイ」として働く苦学生だ。いいとこのお嬢さんではない。

 男装にこだわるのは、たぶん男になめられてたまるか、という気持ちの表れだろう。男尊女卑に抗う手段として男装する、というのは、むしろ男性優位を認めてしまうことになりはしないかと、令和の男は考えてしまうのだが、ここではそこに深入りしない。

 そのころのカフェーについては、前にちょっと触れた。林芙美子や佐多稲子、平林たい子らも若いころ、「女給」として働きながら作家を目指した。

 いわきでも大正時代にカフェーやバーが開業し、女性給仕員、いわゆる女給の仕事が生まれた。

やがて濃厚なサービスをするところも出てくるが、女給といえば、すその長いエプロン姿というイメージが定着する。

 ちょうど野口孝一著『明治大正昭和 銀座ハイカラ女性史――新聞記者、美容家、マネキンガール、カフェー女給まで』(平凡社、2024年)=写真=を図書館から借りて読んでいたところだった。

 朝ドラでは上野の「カフェー燈台」をのぞき、本を開いては銀座にひしめくカフェーを追う。

カフエーは銀座から周辺へ、地方へとひろがり、関西系カフェーが参入して、サービスをエロ化するところも現れる。

 そんなカフェ―文化がおぼろげながら頭に入りつつあったので、どうしても今は男装の山田よねから目が離せない。

山田よねがこれからどう変貌し、寅子とどうからんでいくのか。当面はこのへんに絞って朝ドラを見る。

2024年4月13日土曜日

朝の体操

        
  月に1回、診療のために義弟を内郷の病院へ送って行く。カミサンが付き添う。国道399号(旧6号)の交差点にある平消防署のそばを、朝8時半前に通過する。

署員が何人か体操をしているときがある=写真。8時半過ぎに通ると、もうだれもいない。なるほど! そうやって119番に備えるのか。

しかし、事故や急病は時間を選ばない。体操どころではないときもあるだろう。実際、国道を、家の前の旧道を、朝となく夜となく救急車が通る。近くでサイレンが止まることもある。

最近は救急車が日常化している――そんな実感がある。地域全体が高齢化して、体調を崩したり、家庭内で転んだりする人が増えているのかもしれない。

 救急車だけではない。新聞折り込みの「お悔やみ情報」や記事で訃報に接する回数も増えてきた。

「あれっ、先日、電話で話をしたばかりだったのに……」。ふだんはつきあいがないが、行政区の役員として一緒に仕事をした元区長さんが亡くなった。お悔やみ情報で知った。

 3月末の日曜日に行政区の総会が開かれた。あらかじめ議長をお願いしていた人が、日曜日に急用ができた。

 あとは元区長さんしかいない。というわけで、電話をかけると……。「もう歩けなくなった、入院もした。できない」という。

 ウオーキングを欠かさない人だった。私が車で夏井川の堤防を行き来すると、河川敷のサイクリングロードをスタスタと歩いていた。

 最近は確かに姿を見ないな、そう思ったが、まさか電話からわずか10日ほどで亡くなるとは。

 通夜に参列した。行政区では、区長経験者は「顧問」になる。まだ元気だと思っていたので、なにかあったときには「最後のとりで」のように頼っていた。それも今となってはかなわない。享年88だった。

 少子化が進んで、地域の行事が負担になったのか、子どもを守る会が去年(2023年)解散した。

 もう一方の高齢化では、まず行政区の役員のなり手がいなくなった。隣組の班長がなかなか決まらないケースも出てきた。そうしたなかで顧問を失うのは心細いことでもある。

 しかし、これは行政区の役員に限らない。カミサンもまた知人の訃報に接する機会が増えてきた。

 1年以上音信がないと思っていたら、亡くなっていた。共通の知り合いから連絡がきて、知り合いと2人で墓参に出かけた。

 同じころ、朝日新聞の社会面に、若いころ、いわき支局に勤めていた元同社幹部の死亡記事が載った。私よりは3歳、年下だった。

 ほかにも、年下の知り合いが急死した、という連絡が入った。カミサンも同じように、昔、世話になった人の訃報に接した。

 そういう年齢になったということなのだろう。ここまできたら、もうジタバタせずに、成り行きにまかせるしかない。

2024年4月12日金曜日

石炭ができたワケ

                     
 なるほど、なるほど――。「なるほど」一つでは足りないくらいの納得感だった。植物と菌類(キノコやカビなど)の関係を論じた啓蒙書を読み始めてすぐのことだ。

 前に紹介した斎藤雅典編著『もっと菌根の世界――知られざる根圏のパートナーシップ』(築地書館、2023年)の「序章・菌根とは何か」に出てくる=写真。

 ネギもまた菌根共生をする。菌と共生すると生育がいい、と知ったあとに、それが記されていた。

 「植物と菌の出合い」の項目、つまり地球規模の歴史の中で、あっさりと述べられている。シロウトにはそのことが驚きだった。

 石炭ができたワケは、科学の知見からいえばそうなのだろう。そして、炭鉱が基幹産業だったいわき地方の人々にとっては常識だったのかもしれない。

が、15歳まで阿武隈の山里で暮らした人間には、石炭を菌類レベルから考える発想はなかった。

全く単純なことだ、といってもいいかもしれない。「チコちゃんに叱られる」風にいえば、「石炭ができたのは菌類がいなかったから」となる。

地球が誕生したのはざっと43億年前。やがて生物が生まれ、進化を重ねて、4億5千万年前ごろ、水中から陸上へと植物が進出する。

さらに3億5千万年前、シダ類が巨大化し、大森林が出現する。植物の体はリグニンなどによって構築されたが、それを分解する微生物はまだ現れていなかった。

その大森林を構成していた巨木が倒れ、湿地に埋まり、土中深く積み重なって、今の石炭になった。

一方で、石炭紀の終盤ともいえる3億年前ごろになると、リグニンを分解できる担子菌(白色腐朽菌と呼ばれるグループ)が登場する。

この菌の出現によって、リグニンを含む樹木はほかの有機物と同様、分解されるようになった。というわけで、石炭ができたのは菌類がいなかったから、なのだった。

植物は生産者、動物は消費者、菌類は分解者――。菌類は菌根共生もするが、分解もする。

リグニンがなぜ残ったのか、つまり樹木がなぜ分解されずに石炭になったのか、逆から発想すれば、おのずと答えは見えていたのかもしれない。

ともあれ、産業革命以降、人類は地中から化石燃料を掘り出し続け、石炭が閉じ込めていた二酸化炭素を大気中に放出し続けてきた。それが何をもたらしたかは、私がいうまでもない。

43億年という長い地球の歴史のなかでは、温暖化があり、寒冷化(氷河期)があった。大きな寒暖の波があるとはいえ、現代の温暖化は「地球沸騰」ともいわれるほど、人類がもたらしたものだ。まさかキノコから地球温暖化を考えるとは思ってもみなかった。

2024年4月11日木曜日

生活季節観測

                             
 「生物季節観測」があるなら、「生活季節観測」もあるのではないか。検索すると、あった。

 確かにあったが、しかし、すでに過去のものだった。ストーブや水泳の初日・終日などを、気象庁がかつて調べていた。

 生活季節観測を意識するようになったのは2月20日の「暑さ」だった。小名浜と山田町ではこの日、最高気温が22.5度に達した。むろん今年(2024年)の最高だ。山田はこれに「2月の観測史上最高」が加わった。

この冬初めて、朝から石油ストーブをつけずにいた。こたつの電気マットもオフにした。2月としては記憶にない。たぶん初めてのことだ。

 真夜中、布団の中に熱がこもって寝苦しくなり、それで目が覚めた。茶の間へ行くと、室温は19度ちょっと。寒さは全く感じなかった。

ブログをアップしたあと、再び寝床にもぐりこんだが、やはり熱がこもって寝苦しい。タオルケットを1枚はずすと、なんとかいつものぬくもりに戻った。その延長で日中、気温が上昇した。

 2月20日は今年最初に石油ストーブをつけなかった日――。生活季節観測的にいうと、そうなる。

 その後も寒暖の波は続いた。3月に入ると、かえって寒いくらいになった。灯油を買いに行くたびに、2月より消費量が多いのでは、などと思った。

 初めて蚊に刺された日を記録している。これも生活季節観測の一つにはちがいない。一面では生物季節観測だが、人間の暮らしに比重を置けば生活季節観測になる。

 若いころから「天気と暮らし」「自然と人間の関係」に興味があった。新聞記者になると、「二十四節気」や俳句の季語に親しんだ。

 季節の巡りがニュースになり、コラムの材料になる。基本は地元気象台の生物季節観測だが、それだけでは暮らしと季節の関係が表現しきれない。

 というわけで、個人のデータとして「初めて蚊に刺された日」を記録するようになった。それはしかし、初夏。冬から春にかけては、生活季節的な意識はなかった。

夏井川渓谷の隠居では、それこそ生物季節観測と生活季節観測が一体になったような事象に事欠かない。

 一年中、畑にネギがある。冬は採種用として十数本を残す。4月7日の日曜日に見ると、そのネギから花茎が伸び始めていた=写真。辛み大根もそれぞれ花茎を伸ばし、花を付け始めたものもあった。

 これらは、私が植えたり、種をまいたりしたものだ。自然そのものではない。人間がかかわった作物である。その意味では、花茎の観測は生物的でもあり、生活的でもある。

 生活季節観測という言葉を知って、あらためて思ったのは――。私がブログに書いていることは、生活季節的なことが多いということだった。それは、いわきを中心にした歳時記でもある。

 実際、俳句歳時記は京都の季節の移り行きを中心につくられた。地方には地方の俳句歳時記があっていい。生物であれ、生活であれ、季節観測を重ねれば重ねるほど、そんな思いを強くする。

2024年4月10日水曜日

台湾東部沖地震

                     
 台湾を2回、高専の同級生と訪ねた。最初(2010年9月)は台北周辺。台湾高鉄(新幹線)で南部の高雄まで行く予定だったが、台風の直撃を受けて運休したため、台北から基隆一帯を巡った。

2回目(2015年2月)は新幹線に乗るために出かけた。行き先はむろん高雄。途中、日月潭に寄った。

3回目(2017年10月)は台北から高雄へ一気に南下したあと、東海岸を北上した、といいたいところだが、私は急な用ができて参加を断念した。「おまえが提案したのに」。ほんとに申し訳ないことだった。

3回目も3泊4日とコンパクトな日程だった。事前に届いていたスケジュール表によると、台東~花蓮~基隆と東海岸を列車で移動する。

泊まるのは高雄・花蓮・台北。二度目の故宮博物院見学が入っていた。表にはないが、基隆近くの九份も再訪する、ということだった。

 東海岸も旅した仲間は、4月3日に起きた「台湾東部沖地震」について、いろいろ思いをめぐらせていることだろう。

 最大震度は花蓮県で6強。ビルの1階部分がつぶれたり、太魯閣(たろこ)渓谷ではあちこちで落石や土砂崩れが起きたりした。入渓していた観光客が一時、取り残された。

 台湾もまた地震多発島であることを知ったのは2回目の旅行のときだ。そのときのブログがあるので、要約・再掲する。

――台湾観光2日目の2月7日は台北市から台中市へ新幹線で移動し、南東の山中にある湖、日月潭(標高748メートルだとか)へ観光バスで直行した。

台湾中部は1999年9月21日午前1時47分、直下型の大地震に襲われた。ネットで検索すると、「921大地震」とも「台湾中部大地震」とも出てくる。

日月潭の西のふもとにある川(濁水渓)沿いの町・集集鎮付近が震源地だった。2400人余が亡くなり、建物約8万棟が倒壊したという。周辺の山々は崩れてはげ山になった。「山津波」が同時多発したようなものだろう。

 ガイド氏に大地震の話を聞いたので、バスの窓から川沿いの風景に目を凝らした。大地震から15年たっていたこともあって、その傷跡を探すのは難しかった。

日月潭の観光名所、玄奘寺と文武廟=写真=も被災したが、ここでも修復がなされていた。

 台湾は小さな島なのに、南北にのびる山脈は玉山(日本統治時代は新高山=3952メートル)をはじめ、3000メートル以上の山だけでも166座ある。

そのワケは、大陸側のユーラシアプレートと海側のフィリピン海プレートがせめぎ合って隆起してできた陸地だから、らしい。こんにゃくを両側から押すと真ん中が盛り上がる。それと同じ、と考えるとわかりやすい。

 921大地震の際には、日本からいち早く救援隊が駆けつけた。義援金も群を抜いていたそうだ。その恩義に報いようと、東日本大震災では巨額の義援金が寄せられた――。

 渓谷の規模こそ違え、東日本大震災では夏井川渓谷でも落石と土砂崩れが多発し、岩肌がむきだしになった。

2024年4月9日火曜日

花見ドライブ

                                

 某気象会社の予報だと、日曜日(4月7日)のいわき地方は朝から雨。ほかの気象会社やNHKは曇りだが、雨を前提にして日曜日の「動き」を決めた。

 朝、夏井川渓谷の隠居へ行く。とんぼ返りで街へ下り、暮らしの伝承郷経由で泉ヶ丘のギャラリーいわきへ行く。するとすぐ、カミサンから「異見」が出た。逆ルートの方がいいという。

 まずは渓谷へ、と考えたのは、アカヤシオ(岩ツツジ)の花を見るためだ。晴れているなら午前は逆光、午後には順光になる。写真を撮るなら午後の方がいいが、雨なら逆光も順光も関係ない。

 そもそもアカヤシオは、午後の日差しをたっぷり浴びるような尾根筋に多く生えている。尾根と尾根の間の沢には少ない。

 花を見るだけなら雨でもいいのではないか、と思いながらも、カミサンのいうとおりにした。

 朝、起きると雨はやんでいた。やんだからには、天気は回復する。まずは午前9時の開館時間に合わせて伝承郷へ向かう。カミサンが事務局に用があった。

 ギャラリーいわきでは、いわき市出身でスペイン在住の阿部幸洋新作油彩画展が開かれている。その最終日だ。

開廊時間は11時。伝承郷から直行すると30分ほど待つようになる。鹿島ブックセンターへ寄って時間を調整した。

 ギャラリーにはほぼ11時に着いた。旧知の彫刻家氏も来たばかりらしい。何年かぶりで再会した。阿部本人もほどなく現れた。

「ダニエルに送るから」というので、阿部の作品をはさんで、私ら夫婦と阿部の3人が並んだ写真を撮ってもらう。

ダニエルは阿部の亡妻すみえちゃんがかわいがっていた兄弟の弟の方だ。スペインのUCLM(カスティーリャ=ラ・マンチャ大学)で日本の歴史を教えている。

夏休みになると来日し、国内を巡る。2019年は7月下旬に来日し、8月15日から23日まで、わが家の近くの故義伯父宅に9泊した。

コロナ禍が収まった去年(2023年)、4年ぶりに来日し、同じように8月22~25日の間、故義伯父宅に泊まった。

 阿部の絵を見たあとは夏井川渓谷へ向かう。国道6号の周辺にある丘陵は淡いピンク色に染まっている。まさに山、微笑む。

 国道49号バイパスも、そこから折れて小川町に入ってからも、丘陵は淡いピンクの点描で彩られていた。

小川諏訪神社ではシダレザクラが満開のようだった。神社の前を通るだけにしたものの、道路に長い車の列ができていた。

大渋滞だ。これでは時間ばかりかかる。手前のコンビニで昼食を買うつもりでいたが、Uターンして夏井川を渡り、いつものコンビニに寄った。

アカヤシオは満開だった。が、こちらの花見客は数えるほどしかいない。東日本大震災以後、ずっとこんな調子だ。

それはともかく、満開のアカヤシオとは別に、隠居の庭にあるシダレザクラが数輪開花していた。畑の辛み大根も花を付けていた=写真。地べたから春が本番を迎えつつある。

2024年4月8日月曜日

植物の根は菌根

                                
 キノコ図鑑で学んだ固定観念といってもいい。植物は生産者、動物は消費者、菌類は分解者。自然界はこの生産~消費~分解の循環で成り立っている、と思い込んでそれ以上深く考えることはなかった。

 が……。いつのころか、木材腐朽菌(分解=シイタケやヒラタケなど)のほかに、菌根共生(生産=マツタケなど)というものがあることを学んで、モヤモヤした思いがふくらんできた。

 そのモヤモヤを吹き飛ばしてくれたのが、斎藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』(築地書館、2020年)だった。

 菌根菌は陸上植物の約8割と共生関係を結んでいる。菌根が地球の緑を支えていると言えるだろう――。

 キノコ、あるいはその仲間のカビなどが地球の緑を支えている! 蒙(もう)が啓(ひら)かれる思いがした。

 菌根共生とはこういうことらしい。菌が土中のリン酸や窒素を、菌根を通して宿主である植物に供給する。宿主は光合成で得られた炭素化合物を、菌根を通じて菌に供給する。土中でもちつもたれつの関係を維持している、というのだ。

 コロナ禍が収まって、去年(2023年)9月に常磐共同ガスのガスワンふるさと教室が再開された。これまでのつながりで3月の講師を引き受けた。

 以前はいわきの文学や地域新聞をテーマにしていたが、令和元(2019)年には熱帯地方のキノコであるアカイカタケがいわきで発見されたことを中心に話した。

 それから4年ちょっとたつ。が、菌根共生は今までの自然観を修正するような、強烈な概念だった。今回もそのことを中心にキノコの話をすることにした。

 題して「文化菌類学の楽しみ」。文化人類学にひっかけて、勝手に文化菌類学と呼んでいる、そのワケは――。

研究書ではなく啓蒙書、論文ではなく小説やエッセーなどを読んだり、キノコの登場する絵を見たりするのが好きだから、といってもよい。

ふるさと教室のレジュメをつくっているなかで、『菌根の世界』の続編が去年(2023年)、同じ出版社から刊行されていることを知った。

図書館にあったので、さっそく借りて読んだ。斎藤雅典編著『もっと菌根の世界――知られざる根圏のパートナーシップ』=写真。

地球の緑は30万種を超えているといわれるように、多様な植物から成る。その8割以上の種の根には菌根が共生している。ほとんどの植物の根は菌根を有しているという。

菌根共生がいつ始まったのか。地球誕生からだいぶたった4億5千万年前、不毛の大地に植物が現れ、何かの拍子に菌と出合い、お互いを利用しあう関係ができた。そんな成り立ちを経て菌根共生が出来上がった。

続編で驚いたのは、ネギもまた菌根に支えられているということだった。今度ネギを掘り取る機会があったら、じっくり根を、菌根を見てみよう。

それからもう一つ、石炭ができた理由がよく分かった。それについてはいずれ紹介したい。