2019年2月28日木曜日

電車で湯本温泉へ行くときに

おととい(2月26日)夜、いわき湯本温泉で集まりがあった。アルコールが入るので、行きも帰りも常磐線の電車を利用した。
いわき駅発午後5時37分の普通列車で出かけた。およそ3カ月前も、同じ電車に乗って湯本駅に降り、同じ温泉旅館へ行った。

いわき駅の5番線ホームに入っている電車に、早めに乗り込む。日中は春めいてきたとはいえ、日が沈むと寒さに包まれる。電車のドアは一車両に三つ。全部開けておくと、暖房が逃げる。一つだけ開いているドアから離れたドアのそばに座る。ドアのそばには仕切りがある。これがいい背もたれになる。

見るともなく見ていると、閉まっているドアのそばから人が座っていく。私がそうだったように、たちまちドアのそばの座席が人で埋まった。次はドアとドアの真ん中、その次はそれらの間。だんだん人と人との距離が縮まって、ベンチのような座席が発車間際にはほぼ埋まった。隣に座った女性は、と湯本駅で降りるときにチラッと見たが、OLのようだった。

車内広告は……。真向かいのドアの上に富士通の広告があった=写真。スマホで花の写真を撮ると、AI(人口知能)がすぐ解析して名前や情報を教えてくれる。名付けて「花ノート」。「キノコノート」が開発されたらスマホにするのだが――そんなことを考えているうちに、向かいの6番線に列車が入って来た。
 
磐越東線だから電車ではない、ディーゼルカーだ。いわき駅のはじっこ、6番線にあるのもそのためだろう。

知った顔が降りてきて、エスカレーターに向かった。最初はどこかへ仕事に行って来たのかと思ったが、住んでいるところがいわき駅の次の赤井駅近くだ。事務所が平にある。仕事帰りではない。最近、男2人組でアマチュアのコンサートに出演している。それか、そのあと飲むつもりか――そう推測した。

普通だと、家で晩酌を始める時間帯だ。街へ出ると、日中とは違った風景が見える。発見もある。温泉旅館の集まりでも、天皇陛下在位30年式典の「あ、そうか」や、100歳を目標に「90歳まで生きる」とか「ボケるが勝ち」といった話で盛り上がった。

2019年2月27日水曜日

「いわきねぎ」を買う

いわき市平市街の里山、石森山にある市フラワーセンターで日曜日(2月24日)、「いわきいちご・いわきねぎフェスティバル2019」が開かれた。「ねぎショップ」では「いわきねぎ」だけでなく、郡山市の「阿久津曲がりねぎ」も展示・販売するというので、出かけた。
夏井川渓谷の隠居で「三春ねぎ」を栽培している。集落のおばさんから苗と種をもらい、2、3年失敗したあと、種を冷蔵庫で保存することを覚えてから、自家採種による栽培がうまくできるようになった。

阿久津曲がりねぎは阿武隈川東岸、郡山市西田町阿久津地区で栽培されている。同市に吸収合併される前は田村郡西田村の阿久津だった。三春町とは地続き、田村市常葉町で栽培されている三春ねぎも曲がりねぎとくれば、阿久津曲がりねぎと三春ねぎは同種、ないし親戚と、私はみている。品種としては「加賀群」だ。

いわきには「千住群」の昔野菜「いわき一本太ねぎ」がある。ブランド品のいわきねぎとどうちがうのか。フェスティバルでは勉強のために、両方のネギを買った=写真(右がいわきねぎ、左が阿久津曲がりねぎ)

三春ねぎは白根だけでなく、あおい葉も食べる。香りが高く、甘く、軟らかい。阿久津曲がりねぎも白根の先に少し残っている葉は、ぬめりがあってやわらかい。もう10年以上前、平のスーパー(本社・郡山市)で初めて阿久津曲がりねぎを買って食べた。以来、冬になると系列のスーパーをのぞく。

日常食としてはジャガイモとの味噌汁にする。阿久津曲がりねぎはお椀を口に持ってくると香りが立つ。軟らかい。甘みも三春ねぎより濃厚だ。ぬめり感もある。この甘みとぬめり感は、葉の内側にあるぬるぬる(多糖類)が加熱されて変化したものだろう。

いわきねぎも、同じように味噌汁にした。白根は加熱すると、もちろん甘くやわらかくなる。葉は、これは食べるには硬い。つまり、白根だけ食べるネギだ。さっぱりした味だが、三春ねぎを食べて育った人間にはいささか物足りない。

先日、いわき昔野菜保存会がいわき昔野菜フェスティバルを開いた際、いわき一本太ねぎを参加者にプレゼントした。これも味噌汁にして食べた。香り・やわらかさ・甘みがあった。

いわき一本太ねぎは、風が吹くと倒れやすく、病気に弱い。栽培にも手間がかかる。そこで品種改良が進み、栽培しやすいものが主流になった結果、市場から姿を消した。いわきねぎはそのあと、いわきのブランド野菜として登場した。あらためてそれぞれのネギの歴史を確認するフェスティバルになった。

2019年2月26日火曜日

LEDの防犯灯

防犯灯は主に電柱に取り付けられている。場所によっては支柱を立てて、近くの電柱から電線を引く。わが行政区内に1カ所、民家の庭を利用した防犯灯があった=写真下1。きのう(2月25日)朝、この支柱の電線を切り、防犯灯をはずした。
民家はすでに解体され、防犯灯の支柱を残して更地になっていた。先週の木曜日(2月21日)、土地を管理する不動産会社の担当者が来て、「支柱を撤去したい」という。

わが行政区では、防犯灯の電気料金は区が負担している。今までは蛍光灯だったが、平成29、30年度と市の補助事業を使って、すべてLEDに切り替えた。LEDの寿命は10年以上だ。しかも、電気料金は蛍光灯より格段に安い。税金を使って取り付けたばかりだから、回収・保管して再利用する必要がある。

すぐ電力会社や区の会計と連絡を取り合った。地続きに市営住宅跡地がある。ここでも住宅の解体が進められている。前に市の担当者が説明に来た。その担当者にも電話で相談した。要は、だれがなにをすればいいか、その確認のための情報収集でもある。

単純にいうと、電力会社は電線を撤去するだけ、不動産会社は地権者から土地の管理をまかされただけ、行政区は防犯灯廃止の手続きをとって取り外すだけ、残る支柱は誰が始末する?となって、摩擦が起きないとも限らない。

電線を切断するのに併せて、支柱から防犯灯をはずしてもらえないだろうか。現場でお願いしてみて、だめならしようがない、区で発注した業者にアフターサービスとしてはずしてもらおう――区の会計と詰めたうえで作業に立ち会ったら、あっさり取り外してくれた=写真下2。ありがたかった。
不動産会社の担当者もやって来て、電線と防犯灯がないのを見て、声が弾んだようだった。残った支柱は地権者側で始末することを確認して、一件落着となった。

 ごみが不法投棄されている、カラスにごみネットを破られた、草ぼうぼうのところがある……。暮らしの現場ではこうした小問題がときどき起きる。が、家の解体に伴う防犯灯の撤去は初めてのケースだった。

国と国の駆け引きのようなことをしていたら、かえって話がこじれる。まずは相談・相談・相談。絶対、一人では判断しないことだ。防犯灯廃止には該当防犯灯の19桁の番号が必要になる。事前に区の会計から番号を聞いていたので、コールセンターとのやりとりもスムーズにいった。

木曜日に防犯灯支柱撤去の話を受けてから月曜日朝の防犯灯回収まで、週末の土・日を除いて3日間、正味3時間ほどのやりとりだったが、後味はよかった。

2019年2月25日月曜日

日曜日はラジオ

 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。きのう(2月24日)は、自宅から車で5分ほどの里山にあるいわき市フラワーセンターで「いわきいちご・いわきねぎフェスティバル」が開かれた。そこへ寄って買い物をしてから出かけた。
 生ごみを埋めたあと、三春ネギの苗床と、栽培に失敗した未熟白菜の様子を見ながら、きょうはなにをするか、考えた。ネギ苗は追肥をしたばかり。白菜はヒヨドリにつつかれる心配がある。ヒヨドリに食べられるなら人間の胃袋に入れた方がいい――というわけで、“ミニ白菜”を4個カットした=写真。

 それが終わると、やることはない。あとはこたつに入って昼食をとり、ラジオ(NHK第1)を聞くともなく聞いて過ごした。

お昼のニュースのあとは「のど自慢」だ。「合格だな、これは」。うまい人にはすぐ反応し、予想に反して鐘が二つだとガッカリする。きのうは主に中・高校生が合格した。

ラジオでは顔やスタイルが分からない分、声に意識が集中する。合格した中学校の生徒会副会長(男子)は立派な大人の甘い声だった。この子の声は歌手向きだ。どこのなんという子か知りたくなった。

 のど自慢が終わると、タレントの山田邦子とアナウンサーが司会の「日曜バラエティー」だ。きのうは途中、「天皇陛下在位30年式典」の生放送が入った。式典は1時間ほどで終わったが、ラジオの特性なのかどうか、「おやっ」と思うことが二つあった

 一つは、女優波乃久里子さんの息遣い。両陛下の御製(短歌)を朗読した。ところが、始まる前に息遣いが聞こえてくる。ふつう、放送ではありえないことだ。緊張しているのがありありとわかった。声も少し震えていた。

 お言葉を述べられた天皇陛下も、後半、お言葉が途切れた。そのあと、「なに? あ、そうか、これだ」という言葉が入って、朗読を再開された。ラジオだから想像するしかなかったが、きっとそばに美智子さまがいて、アドバイスを受けたのだろう。あとで、ユーチューブを見たら、そのとおりだった。「何?」のあとに、美智子さまの「違うんです」という言葉があったが、ラジオでは聞こえなかった。

今朝の新聞にそのときの様子が描かれている。「陛下が原稿を読み間違え、冒頭の言葉に戻ってしまった。/隣に立つ皇后さまはすぐに小声で話し掛け、正しい紙を示してフォロー。陛下は皇后さまに『どうも』と優しい声でいい、再び読み始めた」

 国民の代表として祝辞を述べた2人のうち1人は、わが福島県の内堀雅雄知事だった。「大地震」という言葉は、メディア的には「おおじしん」だ。が、巨大地震の意味なのか「だいじしん」と読んだ。これも「おやっ」といえば「おやっ」だった。

 ラジオだからこそというべきか、胸にしみたのが天皇作詞・皇后作曲の琉歌「歌声の響」だった。沖縄出身の若い歌手三浦大知が歌った。目をつぶって聴いていると、母親が赤ん坊を抱くように「レラ抜き音階」が体を包んだ。

しかし、なによりも私には、夫婦としての両陛下のふだんのやりとりが垣間見えた「なに? あ、そうか、これだ」が一番だった。

2019年2月24日日曜日

姥捨山が内郷にも?

 内郷学の特別講座が3月24~25日に開かれる。初日、内郷公民館で座学が行われたあと、2日目に炭鉱関係施設跡や事業所などを見学する。現地見学会では最初に白水のみろく沢炭鉱資料館と周辺を散策する。周辺とは、姥捨山(うばすてやま)~石炭の道だという。
 先日、内郷学運営委員会が開かれた際、特別講座の講師の一人でもある運営委員から、内郷にも姥捨山があることを教えられた。炭鉱資料館の館主が詳しいという。

 白水の山は高くても標高212メートルだ。地理院地図では名もない丘が連続している=写真。炭鉱資料館の裏山は、標高が126メートルほど。東西に延びた丘陵の先に国宝白水阿弥陀堂がある。館主がいう姥捨山はそのへんのどこか、らしい。

すぐ人里に戻ってこられるところではないか。元気な人間はそう考えてしまうが、体力が落ちた老人には、里山もまた家には戻れない場所、姥捨山だったにちがいない。

 この話を聞いたときに、反射的に「山上がり」という言葉が思い浮かんだ。哲学者内山節さんの『「里」という思想』(新潮選書)と『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)に出てくる。山と人間の関係が濃密だったからこそ、姥捨山が生まれ、山上がりが可能だったのだろう。

 群馬県上野村の、高度経済成長期の前の話だという。今でいう自己破産に追い込まれた一家が山にこもり、「適当な森のなかに小屋をつくる。(略)上野村の山には、天然のクリの木がいっぱいあったし、ドングリもアク抜きすれば結構おいしく食べることができた(略)。茸(きのこ)や山菜、薬草の知識も豊富だった」から、「一銭のお金もなくても、一年や二年はどうにでもなった」。

「その間に、働きに行ける者は町に出稼ぎに出て、まとまったお金を持って村に帰り、借金を返す。そのとき、山に上がって暮らしていた家族も戻ってきて、以前の里の暮らしを回復する」。山の実りが豊かで、人間も山をよく知り、山のものを活用するウデをもっていたからこその一時的な離脱だった。共同体としても一家を応援したという。

歴史的には、過酷な課税に対する農民の抵抗手段として「山上がり」(逃散=ちょうさん=の一形態)があった。要求が通れば、農民は山を下りた。

姥捨山の話に戻る。姥捨山伝説は山深い里の話と思っていたが、平地の里山にもあった。驚いた。年をとった親を子が捨てる――。少子・高齢社会が進み、地域に独り暮らしの老人が多くなった今、姥捨山伝説は現代の民話になった、そんなふうに考えてみたりする。

2019年2月23日土曜日

大きいナメコがいい

 スーパーや道の駅へ行くと、必ず栽培ナメコを買う。最近は、傘ができたばかりの幼菌よりは、成菌に近い大きめのものを選ぶ。店の品ぞろえも幼菌だけでなく、傘の開きかけた成菌を並べるようになった=写真。
 大きいナメコはぬめりが強い。たいていは豆腐とナメコの味噌汁にする。味噌汁にぬめりが溶け出して、ナメコだけでなく味噌汁も喉ごしがいい。ぬめりの正体はムチン。食物繊維のひとつで、胃や鼻の粘膜を丈夫にするらしい。ナメコ自身の乾燥も防ぎ、防寒コートの役目も果たすという。

 東日本大震災時、1Fが事故を起こして放射性物質をばらまいた。以来、いわきでも野生キノコは食べたり出荷したりできなくなった。

栽培キノコにブナシメジやマイタケがある。マイタケは天然ものを一度採っただけ。ブナシメジは、暖地のために採ったことはない。それで、慣れ親しんでいた栽培ナメコがウラベニホテイシメジやタマゴタケ、ナラタケ、その他もろもろのキノコの舌ざわり・味・見た目の象徴になった。

 2週間ほど前、いわき昔野菜フェスティバルが開かれた。打ち上げは、昔野菜保存会の会員でもある中華料理店で開かれた。フルコースに近い料理のなかで、青のりとナメコ(大)の茶わん蒸しが出た。口当たりがさっぱりしていた。なにより、組み合わせが意表をついていて、おもしろかった。いわきでは、今、地物の創作料理がふんだんに食べられる。

1970年代、フランス料理に革新の波が生まれた。「ヌーベル・キュイジーヌ」(新しい料理)という。原発震災後、いわきの生産者と料理人の間に、食の原点に立ち返った関係が再構築される。こういったら「オーバーな」といわれるかもしれないが、料理名は同じでも中身が、中身に込められた栽培者・シェフの心が「ヌーベル・キュイジーヌ」を生んだように思えてならない。

 青のりとナメコの茶わん蒸しをつくったシェフは、以前は小粒のナメコを麺に使っていたように記憶する。私が大きめのナメコを食べるようになったときに、ナメコ(大)が茶わん蒸しに使われていた。いよいよ大きいナメコが消費者から好まれるようになってきたのでは、と内心喜んだものだ。

きのう(2月22日)も朝、食卓にナメコと豆腐の味噌汁が出た。最初のころは「大きすぎる」といっていたカミサンが、「大きいナメコは味があるね」に変わっていた。ナメコはもちろん、いわき産。

2019年2月22日金曜日

明治34年のカツ刺し

 正岡子規の最晩年の日記、『仰臥(ぎょうが)漫録』=写真=を読む。死の1年前、病床にありながら、主に朝・昼・晩、なにを食べたかを克明に記す。
 月曜日(2月18日)、街へ行ったついでに古本屋へ寄った。文庫本のコーナーにあったのを手に取り、パラパラやったら、「松茸(まつたけ)」の字が目に入った。値段は150円。家に子規全集が眠っている。引っ張り出して探すのも面倒だ。迷わず買った。

一読、子規の刺し身好きは、尋常ではないことを知る。『仰臥漫録』は、明治34(1901)9月2日に書き始めた。最初の1週間、いや半月だけでも、昼はほとんど刺し身を食べている。

2日「鰹(かつを)のさしみ」。3日「鰹のさしみに蠅の卵あり、それがため半分ほどくふ」。4日「鰹のさしみ」。5日「めじのさしみ」(めじはメジマグロのことだろう)。6日「さしみ(かつを)」。7日「かつをのさしみ」。8日「松魚(かつお)のさしみ」。

そのあとも、9日「まぐろのさしみ」(晩は昼の刺し身の残りも)、10日「松魚のさしみ」、11日「鰹のさしみ」、12日「松魚のさしみ」、13日「堅魚(かつお)のさしみ」と続く。

なんだろう、この病人の食欲は、刺し身好きは――。書き出しているうちにあきれてきた。

明治30年代、魚屋の冷蔵・冷凍技術はどんなだったか。ましてや、家庭の冷蔵・冷凍方法は? 「鰹のさしみに蠅の卵あり」がよく示しているのではないか。

私もときどき刺し身の話を書くが、子規ほどではない。食べるのは週に1回、日曜日の晩と決めている。ほぼ毎日、子規が口にしていた刺し身の量はどのくらいか。一人前6~7切れとして、1週間換算では45切れ前後だろう。週一の私は、マイ皿(径22センチの染付の中皿)に盛り付けてもらう。自分の写真で数えたら、30切れくらい。一度に4~5人分というところか。

しかし、それが甘い計算だったことを9月30日の日記が教える。9月1カ月の支払いのうち、魚(刺し身)代は6円15銭。一皿15銭ないし20銭とあるから、単純計算で9月は400~300皿分を食べたことになる(ただし、子規一人で、とは限らない。妹の律と母親がいる)。

それに比べたら、わが刺し身好きはかわいいものだ。2月10日の日曜日は飲み会があって魚屋へ行けなかった。17日は、行くのが遅くなった。魚屋のシャッターが閉まったところへ着いた。車にかぎをかけているひまはない。走ってシャッターをガンガンやったら、数秒後にシャッターが上がった。

若だんなが顔を出す。「カツオの刺し身があります。先週は来なかったですね」「夜まで催しが続いたものだから。次の日(建国記念の日)来たんだけど、閉まってたよ」「ああ、早く閉めたから」。2週間ぶりにカツ刺しにありつけた。

子規のように毎日、刺し身を少量(たぶん)食べるのと、毎週1回、どんと食べるのと、どちらがいいか。子規の場合は妹と母親が世話をしたわけで、魚屋が届けるのか、魚屋へ買いに行くのか、どちらにしても苦労は絶えない。わが家では、日曜の晩だけカミサンが台所仕事を休める、という意味がある。

2019年2月21日木曜日

「むすめきたか」を実食

 いわきの山間地で栽培されている在来小豆「むすめきたか」は、小粒で皮が薄い。嫁に行った娘が里帰りしたときにすぐ煮て食べさせられる――というので、その名が付いた。
 2月10日にいわき昔野菜フェスティバルが開かれた。カミサンが「むすめきたか」を手に入れた。

 きのう(2月20日)、近所のTさんがわが家にやって来た。米国・コロンビア大学の博士課程にある女性が、「原発労働者とその家族の暮らし」を中心に調査研究をしている。Tさんは、原発とは直接関係ない暮らしをしてきたが、双葉郡からの避難者だ。仲立ちをした縁で、わが家でインタビューをすることになった。

 彼女が来るまで時間があった。カミサンが石油ストーブで「むすめきたか」を煮た=写真。普通の小豆だと前の晩に水に浸しておく必要がある。が、「むすめきたか」はそのまま水を張って煮ればいい。

 そこへ博士の卵が現れた。彼女は、母親が日本人で、日本語でやりとりができる。女性3人に男が1人。男の私からすると、母・娘(というよりは妹に近いか)・孫が、「むすめきたか」を煮て、今にも「おやつ」にして食べようか、という図に見えた。

 煮る。Tさんの指示に従って、カミサンが水を足す。小豆がどの程度ほぐれたかを、Tさんが舌で確かめる。カミサンが砂糖を加える。Tさんが「味がない」という。また、砂糖を足す。水に入れて煮てから、「これでいい」となるまで、30分しかかからなかった。4人で「ゆであずき」を楽しんだ。なるほど、これだと里帰りした娘に、すぐ「つくってやるから」といえるわけだ。

 肝心のインタビューは、どうだったか。元ブンヤとしては、彼女が意図していたことの4分の1も聞きだせなかったのではないか、と思う。しかし、最初から全部吐き出せるような人はいない。何度も顔を合わせているうちに、自然と本音が出るようになるものだ。

 たびたび話が脱線した。Tさんは原発事故の前、キノコ採りをした。「マツタケは採ったことがないけど、イノハナ(コウタケのこと)はいっぱい採った」という。イノハナは、阿武隈高地ではマツタケ以上に好まれる高級菌だ。

私も調子に乗ってキノコの話をした。博士の卵は「アメリカでもマツタケが採れます」。「それを食べるのは現地に住む日本人で、日本に輸出してるんだよね。アメリカ人はあまりキノコに関心がないし」「そうです」

そこからまた原発事故の話に戻った。原発事故が罪深いのは、人の生命を危険にさらすだけでなく、市民の「自然享受権」を広範囲にわたって奪うことだ。趣味の釣りやキノコ狩り・山菜採り・家庭菜園などの“生きがい”“楽しみ”をぶちこわした罪は、どう償うのか。領収書とは無縁の世界にいる人たちのうらみつらみ。これも、頭に入れて調査するといい――そんなことを勝手に“アドバイス”していた。

「むすめきたか」を含めたいわきの昔野菜も、原発震災前に調査事業が始まったからこそ存在が知られ、危機感が生まれて、市民の間に種を継承・存続しようという動きが強まった、と私は思っている。

2019年2月20日水曜日

ノビルは早春の味

冬から春へ――。風は冷たいが、光は日に日に明るさを増している。大地と大気の温度は寒暖の波を繰り返しながらも、上昇ラインを描いている。
さきおとといの日曜日(2月17日)、3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。さすがに雪は消えていた。庭の畑に3週間分の生ごみを埋める。スコップが凍土にはねかえされるようなことはなかった。この冬、畑の凍土は5センチまでいったかどうか。

 キヌサヤエンドウの苗2本と、三春ネギの苗の一部が白茶けていた。土手には鮮やかな緑色のかたまり=写真。ノビル(方言名・ノノヒョロ)だ。地上部のあおい葉も、地中の鱗茎も食べられる。鱗茎は生みそか酢みそで、葉は刻んで納豆や卵焼きの具にする。汁の実にするのもいい。早春の土の味だ。しかし、原発事故後は一度も口にしていない。

 図書館から『世界の食文化』シリーズを借りて読み続けている。「世界のキノコ食文化」と「北半球のネギ食文化」に興味がある。

 ネギの原産地はどこか。学問的には立証されていないが、野生のネギの仲間が生えている地域については、おぼろげながらイメージがわくようになった。中央アジア、シルクロード、高山、砂漠、乾燥地……。ネギは乾燥に強い。その理由がこうした原産地の環境と関係しているのだろう。

 最近読んだ「モンゴル」編――。調味に利用する「ニラやネギの類はモンゴル高原のここかしこに野生している。そもそもこれらの植物は中央アジアが原産地であり、そこに連続するモンゴル高原にもまた豊富なニラやネギの草原がつづいている」。

モンゴルの野生ネギについて検索すると、中国・内モンゴル自治区~甘粛省では「砂葱(シャーツォン)」といって、砂漠に生えるネギが食べられていることがわかった。写真を見ると、今の日本の太ネギのようなものではない、ノビルに似る。つまり、草。今、私たちがいわきで食べている太ネギは、これは改良に改良を重ねたものだ、ということがわかる。

「モンゴル」編に収められた「ニラの塩漬け」の写真には、こんな説明が付いていた。「ニラやネギを摘んでヨーグルトとまぜて乾燥させた粉末はゾードイといい、春用の子畜の餌になる。塩漬けにすると人の食料になる」。子畜とは羊やヤギ、牛の子どものことだろう。

 今ふと思ったのだが、いわき市は北緯37度の線上にある。それを含む同40度前後の地域には、内モンゴル自治区・新疆ウイグル自治区・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・アゼルバイジャンなどがある。偏西風の通り道でもある。

 種は人が運ぶだけでなく、風も運ぶ。中央アジア原産のネギは、それで東へ東へと伝わって、改良に次ぐ改良がなされ、あとは海しかないいわきまでたどり着いたときには太ネギになっていた――そんな空想が許されるのではないだろうか。

 きのう(2月19日)は少し雨が降った。きょうは、いわきでも最高気温16度、4月並みの暖かさが予想されている。寒さに震えていたネギ苗も、これからは内部に命がみなぎり、ぐんぐん葉を伸ばすことだろう。

2019年2月19日火曜日

内郷学講座に寄せて

 先週の金曜日(2月15日)、いわき市内郷支所で内郷学講座運営委員会が開かれた。3月の特別講座と、新年度の講座について話し合った。
 新年度講座は、たたき台となる案が示された。講師の内諾は得たが、テーマは未定だという。いわき市内の土地利用に詳しい地理学の講師がいる。個人的な希望ながら、地理学から見た「吉野せいと内郷」というテーマが可能ならやってもらいたい、と提案した。

 去年(2018年)の5月にも拙ブログで取りあげたのだが――。せいの作品集『洟をたらした神』に「水石山」が収められている。好間・菊竹山の自宅から、夫への憎しみを抱えて“プチ家出”をしたせいは、「鬼越峠の切り割りを越えて隣町」に出る。「いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

 それから田圃をたどり、炭鉱から排出された温水でうっすらと湯気の立つ川の、「くねくねの堤防をのろのろ」歩いたが、気持ちは次第にへこんでいく。「どの山もどの道もどの家も結局は無縁の空しさしかない」と悟って、「まだ陽の落ちないうちに」町へ出て、魚屋でサンマを買い、バスにも乗らずに帰宅する。

 内郷支所の旧支所長室の前に、昭和36(1961)年秋の内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。去年の運営委員会のときに続いて、今回もパネルを複写した。トリミングしたのがこれ=写真。

 画面右端に北西から南東へと道が伸びている。今の国道49号だ。その西側、丘陵を刻んでカーブしたあと、南東へ向かっているのが「鬼越峠の切り割り」から続く道路。二重の白線は、現国道49号バイパスだろう。左端、北から南へと延びて常磐線に合流するのは、好間からの炭鉱鉄道だ。

「水石山」は、作品末尾に「昭和30年秋のこと」とある。鬼越峠の切り割り・梨畑・水田・炭鉱・湯気の立つ川(新川)とくれば、空撮写真がそのまま「水石山」の舞台になる。ここはやはり土地利用、特に昭和30年代の「内郷市」の様子に詳しい講師に解説してもらうのが一番だろう。


 去年は「水石山」にからめて、調べれば調べるほど、せいの文章の正確さが浮き彫りになる、といったことを書いたが、今はいささか違った考えを抱いている。

「事実小説」かもしれないが、やはり作家である。一筋縄ではいかない。文末の「昭和30年秋のこと」も、額面通りには受け取らないことにした。別の作品に「昭和6年夏」のできごとがあるが、現実には「昭和4年初秋」に起きたものだった。文末の年代表記も、作品に深みを与える仕掛けの可能性がある。せいは、今では「百姓バッパ」から「手ごわいばあさん」に変わった。

2019年2月18日月曜日

「100年の生き証人」

カミサンの親友の母親がきょう(2月18日)、満100歳の誕生日を迎えた。きのう、カミサンと自宅を訪ねて2時間ほど雑談した。そのひとこま――。「あなたのおかあさんはきれいだった。どうしてる?」「母は85歳で亡くなりました」「あら、若かったわね」。85歳で若いとは!
親友の母親とカミサンの母親は大正8(1919)年に生まれた。13歳で磐城高等女学校(現磐城桜が丘高校)に入学し、同級生になった。昭和18(1943)年生まれのカミサンと親友も、小・中・高校と一緒だった。二代続きの同級生の付き合いは、合算すると87年に及ぶ。

義母が亡くなってから、もう15年。自分の母親への思いも重ねて、カミサンが花束を持って親友の家を訪ねた。アッシー君を務めた。冒頭のようなやりとりがおもしろくて、女性たちの会話の合間に口をはさんだ。

「100年の生き証人」の話はめったに聞けるものではない。哲学者の内山節さんが東日本大震災の復興にからんで、「行政は何でも5年計画。目先の利益を追うから理念が生まれない。5年から100年に時間軸を延長すれば、“何をつくるか”から、“何を残すか”という計画にかわる」といっていた。「100年の時間軸」を思い出して、元ブンヤの血が騒いだ。

義母たちの100年を考える。関東大震災が起きたのは4歳のとき。義母は東京の下町で生まれた。震災前、磐城平の米屋の養女になった。東京にいたら死んでいたという。満洲事変~太平洋戦争は12~26歳のとき。東日本大震災のときには、義母は亡くなっていたが、親友の母親は92歳。最近までコーラスグループに所属して歌をうたっていたという。

親友の母親は双葉郡富岡町出身で、磐城高女へは朝6時10分の汽車に乗り、1時間10分をかけて通学した。だから、「授業中は眠くてね」。おちゃめなおばあさんだ。

100歳ともなれば老化はまぬがれない。が、同じ質問を繰り返すことはあっても、受け答えはしっかりしている。「自分の母親は平・南町の造り酒屋『山宗(やまそう)』の出なの」「銘柄は『たひら正宗』ですか」「いや、天に宅、『天宅』」。ほう、また宿題ができた。図書館のホームページを開いて、昔の地域新聞を調べる楽しみが増えた。

 そうそう、100歳の誕生日となれば、活字メディアが取材に来る。「何にもしてないのに新聞に載るのは恥ずかしいから、(県と市の担当者には取材を)断った」という。ならば、私がメディアになる。乙女のような100歳の女性がここにいる、ということを伝えたくて、写真も載せる。長生きすることも芸術のひとつだから。

2019年2月17日日曜日

家によっては「常夜鍋」と

 基本はしゃぶしゃぶ用の豚肉とホウレンソウ。作家向田邦子の随筆集『夜中の薔薇』に出てくる「豚鍋」だ。わが家で冬に食べる「ホウレンソウ鍋」と同じではないか。そう書いたら――。
 内郷のKさんからフェイスブック経由で、「常夜鍋」と教えられた、「とてもおいしかった記憶がある」というコメントが入った。カミサンの平の同級生も、はがきでコメントを寄せた。「私は友人から『常夜鍋(とこよなべ)』とおそわって食べてました」

「豚鍋」がところを変えて「ホウレンソウ鍋」になり、「常夜鍋」となる。どれが元祖で、どれが亜流、ということではないだろう。私もまた、昵懇(じっこん)にしていたドクターから教えられたが、ドクターは、映画監督の山本嘉次郎がテレビで実演していたのを見て覚えたそうだ。

同じようにして知ったのだろう。愛知のある家では「嘉次郎鍋」として「ホウレンソウ鍋」を食べていることが、新聞の生活面に紹介されていた。

 Nさんのはがきには、「『常夜鍋』で検索してみて」とあった。最初に出てきたもの=写真=だけで十分だ。これには「じょうやなべ」と仮名が振ってあったが、「とこよなべ」でも「じょうやなべ」でもかまわない。それぞれの家で好きなように呼べばいいレベルの話なのだから。

「常夜鍋」は、豚肉以外はなんでもあり、のようだ。ホウレンソウの代わりに小松菜、白菜、キャベツを入れる。味付けは、「豚鍋」は小鉢にレモン醤油だが、「ホウレンソウ鍋」は鍋の湯そのものに塩と醤油を加えて調える、「常夜鍋」はポン酢醤油というから、小鉢をつかうのだろう。どれも違って、どれもいい、のだ。

料理を創作するのは、なにも料理店のシェフだけではない。家庭の台所をあずかっている主婦、ないし主夫が、家族のために、簡単で体にいいものを、とあれこれ考える。見たり、聞いたりする。それらを踏まえて試したものが受け入れられれば定着する。

具材も、家族の好みによって変化する。ただし、「豚しゃぶ」であって「牛しゃぶ」でないのは、「牛しゃぶ」だとお湯が濁るからで、これは経済より見た目の問題だと私は思っている。

 豚鍋=ホウレンソウ鍋=嘉次郎鍋=常夜鍋=豚しゃぶ(豚ちり)は、一人の人間が創作したというより、同時多発的にあちこちで試みる人がいて、口コミで広まった。それに輪をかけたのが、テレビというマスメディアだった、ということではないか。いずれにせよ、豚肉とホウレンソウの組み合わせは広い範囲で受け入れられていることがわかった。

2019年2月16日土曜日

図書館がすべて臨時休館に

いわき市内6図書館と2台の移動図書館は図書館情報システムでつながっている。中央図書館がいわき市文化センターからいわき駅前再開発ビル「ラトブ」に移転し、総合図書館としてオープンしたのに合わせ、同システムが更新された。
以来、12年目。平成25(2013)年に次ぐシステム更新(機器更新)だと思うのだが、きのう(2月15日)から28日まで、移動図書館を含むすべての図書館が臨時休館に入った。同時に、ホームページでの資料検索や予約も一時休止になった。一斉休館は、東日本大震災のときにも経験した。

総合図書館を日常的に利用している人間には、休館はもちろんだが、ホームページの休止がこたえる。

最近はキノコに集中して本を借りてきた。「楽しむ」より「調べる」が多い。5~6冊借りてはパラパラやり、2~3日後には返して別の本を借りる――を繰り返していたが、これからほぼ半月はそれができない。

休館中はどんな本と付き合うか。いちおう考えて選んだのが、龍應台『台湾海峡一九四九』(天野健太郎訳)、『図説・中国文化百華』第10巻(木村春子「火の料理 水の料理」)のほかは、ご覧の7冊=写真=だ。

日常の暮らしのなかでは次々に疑問、興味がわく。すべて答えを見つけられるわけではないが、一つ二つにしぼれば調べてわかることもある。『台湾海峡一九四九』は訳者の死がきっかけだった。どんな本をどう訳しているのか。訳者の生き方・思想が知りたくなった。キノコは、よその国ではどう受け入れられているのか、という文化史的な興味からだ。

さて――。今度の機器更新に合わせて、図書館情報システムはどんなバージョンアップがなされるのか、期待が膨らむ。

ホームページで<郷土資料のページ>が公開されている。新聞・地図・絵はがき・企画展示・その他の5ジャンルがある。平成25(2013)年3月から、私は、いわきで最初に発行された民間新聞「いわき」(明治40年)をはじめ、昭和50年代初期のいわき民報まで18紙の地域新聞を、家にいながらにして読んでいる。この6年間にプリントアウトしたデータは膨大な量になる。

同30(2018)年11月1日には、東北日日をはじめ、磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞など18紙が新しくデジタル化された。現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読めるようになった。

デジタル化された地域新聞は、年月日でしか閲覧できない。キーワードで検索ができれば、郷土史の調査・研究が飛躍的に進む。システムの恩恵にあずかれる。今回はどうか。そこまではいかないとしても、いつかそうなれば、いわきの近現代史を調べてみようという若い人が輩出するはずだ。

2019年2月15日金曜日

「スペイン風邪」100年

「スペイン風邪」は、もはや歴史的用語だとは思うのだが、ウイルス学者は風邪ではないので「スペイン・インフルエンザ」という。岩波書店のPR誌「図書」2019年2月号に、田代眞人という人が「大流行による惨劇から100年――スペイン・インフルエンザ」という題で書いている。
 同氏によると、流行当時、インフルエンザの病原体は細菌(インフルエンザ菌)と信じられていた。しかし、山内保ら3人の日本人研究者がウイルスであることを証明した。「被験者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある」のだとか。

 医学的史実はさておき、スペイン・インフルエンザから100年ということは、日本だけでも何十万という人の「没後100年」でもあるわけだ。その一人、いわきゆかりの俳人・俳論家大須賀乙字(1881~1920年)に思いが飛んだ。

 いわきの碩学、大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)は日本有数の漢詩人にして画家だった。乙字はその息子で、今私たちが普通に使っている「季語」という言葉をつくった人としても知られる。

震災前の2010年、いわき地域学會の事務局に連絡が入り、5月に仲間と私の4人で茨城県ひたちなか市へ出かけた。同市は乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、その血筋の家に筠軒・乙字関係の手紙やはがき、絵の下書き、その他が小さいトランクに入って残っていた。

日本では①1918(大正7)年8月下旬にインフルエンザが流行し始め、10月上旬に蔓延して11月には患者数・死者数が最大に達した②2回目は翌1919年10月下旬に始まり、20年1月末が流行のピーク――だった(東京都健康安全研究センターによる精密分析)。乙字は2回目のピーク時、インフルエンザにかかり、肺炎を併発して、1月20日に亡くなった。

 田代氏の文章に戻れば、「生存患者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。原因も予防・治療法も不明であった。医療体制は崩壊し、葬儀や埋葬も間に合わず、社会機能は破綻した」。そんな状況のなかでの、乙字の死だった。

 さらに、ここがポイントだと思うのだが、この100年の間に「インフルエンザウイルスはヒト以外にもブタ、ウマ、鳥類などで伝播・維持される人獣共通感染症」であること、「すべてのインフルエンザウイルスは、カモなどの渡り鳥がもつ鳥インフルエンザウイルスに由来していること」がわかってきたそうだ。

2008年晩春、北帰行中のハクチョウが鳥インフルエンザにかかって死んだ。ニュースで初めて鳥インフルを知った。同年秋からはハクチョウが飛来=写真=すると、えさやり自粛が叫ばれた。いやでも鳥インフルエンザを意識するようになった。

スペイン・インフルエンザによる没後100年の人物には、島村抱月(1918年11月5日没)、アポリネール(1918年11月9日没)、村山槐多(1919年2月20日没)らがいる。抱月が死んだ2カ月後には松井須磨子が後を追った。

「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」を見て以来、いつかは中身を公開し、研究の道が開かれるといいな、と思ってきた。没後100年記念企画展として、どこかで開かれるのではないか。

2019年2月14日木曜日

「早春の山の乙女」

 月に1回、義弟を病院へ連れて行く。診察時間が決まっていて、朝8時半には家を出る。カミサンが弟に付き添う。戻って米屋の店番をしたあと、迎えに行く。
 いわき市平の中神谷から内郷の労災病院へ――。夏井川に架かる国道399号(この区間はもう「国道6号」ではない)の平大橋に差しかかるころ、西方の山並みに「乙女」が見える(何年か前、若い仲間に教えられて、なるほど人の姿をしている、と思った。午後は逆光でよく見えなくなる)。

湯ノ岳(594メートル)の東側斜面に杉林の黒いかたまりがある。周りを広葉樹が取り巻いている。その組み合わせが「横を向いて座っている乙女」に見えた。

 去年(2018年)の5月下旬、夏井川渓谷の隠居へ行く前に遠回りをして、平大橋から「乙女」の写真を撮った。「5月の乙女」といったら、カミサンがけげんな顔をした。その顛末を去年の5月23日付拙ブログに書いた。

 広葉樹が葉を落とした今、「乙女」はくっきりと斜面に浮き出ている。朝、平大橋に差しかかると同時に、思い立って助手席のカミサンに声をかける。「『乙女』の写真!」。あわててカミサンがカメラを構える。1コマだけ撮れた=写真。

 次の日は朝から雪になった。翌10日開催予定のいわきサンシャインマラソン大会が中止と決まった。おととし、去年と首都圏の知人2人に宿を提供した。その経験からいっても、選手・大会スタッフ・ボランティアなどにとっては、早い決断はよかったのではないか。午後、「雪の乙女』を撮りたくてラトブに行ったが、西方の山並みは雪雲で見えず、翌日午後に再び出かけたものの、今度は逆光で乙女の輪郭が消えていた。

 それはさておき、「5月の乙女」が「早春の山の乙女」になったと思ったら、18歳の水の乙女の衝撃的なニュースが飛び込んできた。白血病、練習すると肩で息をする……。もう6年前になるが、慢性の不整脈が進行して、2階に上がるだけで目が回り、息が切れたことがある。おととい、きのうと、それを思い出しながら、彼女の内面をあれこれ推し量って過ごした。

本人が(実際は周囲の人間と相談の上だろうが)、ツイッターで病名を公表した。そのこと自体に、病気に立ち向かっていく彼女の意志の強さを感じて、胸が熱くなった。これからは、本人と病気とドクターとの「三者会談」が続く。水泳で培った底力をなんとしても発揮してほしい。

2019年2月13日水曜日

向田邦子ドラマ傑作選

 BS12トゥエルビは、ふだんは見ない。ところが最近は火曜日夜、カミサンがチャンネルを合わせる。向田邦子ドラマ傑作選が2時間枠で放送されている。向田ファンに付き合っているうちに、昭和前期の日本の近代史、なかでも庶民の暮らしを見ているような感覚になってきた。
 1週間前(2月5日)は「わが母の教えたまいし」=写真、きのうは<皇紀二千六百年>(昭和15年)ごろの「隣りの神様」だった。いずれも原案・向田、脚本・金子成人、監督・久世光彦の、30年ほど前のTBSドラマだ。前は「寺内貫太郎一家」をやっていた。NHKでも、師走にBSのプレミアムカフェで「阿修羅のごとく」を再放送していた。

たまたま数日前、カミサンが2階から向田の随筆集『夜中の薔薇(ばら)』を持ってきて、「これって、『ホウレンソウ鍋』と同じじゃないの」と、あるページを開いていう。「豚鍋」のことが書いてあった。

本棚はあらかた本が二重になっている。手前の本をはずすと、奥にまた背表紙が見える。断捨離を兼ねてカミサンが前にある本を、近くの故義伯父の家へ移すことにした。その作業中に『夜中の薔薇』が出てきたのだそうだ。

『夜中の薔薇』のタイトルは、ある女性が子どものころ、ゲーテ作詩・シューベルト作曲の「野ばら」に関して、「野中の薔薇」を「夜中の薔薇」と間違って覚えていたことに由来する。向田自身も、「荒城の月」の「めぐる盃」を「眠る盃」と間違って覚えていた。それをタイトルにした随筆集を出すと、似たようなエピソード(「兎追いしかの山」→「兎美味しかの山」など)が寄せられた。

 その本に「食らわんか」が収められている。「新らっきょうの醤油漬け」をつくる。北アフリカから帰って来たときには「海苔(のり)弁」をつくった。風邪気味なら「葱(ねぎ)雑炊」をつくる――手料理のあれこれを紹介するなかに「豚鍋」があった。

 詳細は本を読んでもらうとして、食材はしゃぶしゃぶ用の豚肉とホウレンソウだけだ。鍋で湯を沸かし、皮をむいたニンニクと、その倍量のショウガを入れる。そこへ豚肉を入れて、レモン醤油で食べる。肉を食べたら、次はホウレンソウをちぎってさっとゆで、やはりレモン醤油で食べる。

 ホウレンソウ鍋と豚鍋の違いは、たれ、だろうか。ホウレンソウ鍋は、お湯に塩と醤油で味をつける。豚鍋は、湯に入れるのは湯量の3割の日本酒で、たれのレモン醤油は小鉢に入れておく。

ちょうど2年前、朝日新聞生活面に「記憶の食」として、愛知のある家の「嘉次郎鍋」が紹介されていた。わが家で30年以上食べている「ホウレンソウ鍋」と同じだった。ホウレンソウ鍋は映画監督の故山本嘉次郎が考案した、とされる“簡単鍋料理”だ。

冬に人が集まったとき、ホウレンソウ鍋にすることがある。初めての人間も、一回ですぐ料理法が頭に入る。シンプルで飽きがこない。枝分かれするように料理が継承・伝播されて、あちこちでその家の冬の定番料理になっている。私自身も敬愛するドクター(故人)から継承した。

 向田邦子は、豆腐を入れてもおいしいが、豚肉とホウレンソウだけでいい、といっている。実際、私もドクターから伝授されたときには、豆腐も入れたが、今は省略している。必要がない、というより、豚肉とホウレンソウだけで満ち足りてしまうのだ。

 と、ここまで書いてきて、ホウレンソウ鍋が恋しくなった。夫婦2人では寂しい。また、人を呼んで“鍋奉行”をやるか。

2019年2月12日火曜日

小豆の行く道・来る道

 いわき昔野菜保存会主催のいわき昔野菜フェスティバルがおととい(2月10日)、中央台公民館で開かれた。
 メーンの座談会=写真上=にしぼって書く。いわきの在来小豆に「むすめきたか」がある。茨城県常陸太田市では同じ在来小豆の「むすめきた」(「「か」はない)が栽培されている。「きたか」と「きた」を介した地域文化の交流を目的に、フロアも交えて語り合った。

コーディネーターの江頭宏昌山形大教授によると、「きた」は「きたか」より少し大きいが、ともに白い縞がある。「きたか」は6月上旬に種をまき、10月末には収穫が始まる。「きた」はやや遅い6月下旬~7月あたまにまいて、11月あたまに収穫する。豆の形質や栽培特性は同じ範疇に入るという。

いわきでは、遠野町で「いわき遠野らぱん」が「きたか」を原料に水ようかんを開発、新商品として売り出す段取りになっている。社長の平子(たいらこ)佳廣さんが明かした。品物も提供し、参加者が試食した=写真下。さっぱりした味だった。
常陸太田には、いわき昔野菜保存会と同じような目的を持つ「種継人(たねつぎびと)の会」がある。地元の和菓子屋・パン屋・ケーキ屋・カフェなどと連携して契約栽培を広め、新しい商品開発などが進んでいる。

「種継人の会」代表布施大樹さんは常陸太田の北部、福島県矢祭町と接する山間地に住む。同地域には福島県から嫁に来た女性が多いという。いわきの三和や川前、田人といった山間地と地域環境が似ているようだ。

川を軸にした人・モノの往来だけでなく、山間地には山間地同士の横のつながりがある。フェスティバルのあとの懇親会では、布施さんに同行した常陸太田の北山弘長さんとそのことに関連して語り合った。布施さんらは久慈川の支流・里川流域で暮らしている。いわきに当てはめれば、夏井川の支流・好間川流域といったところだろうか。

いわきの三和町で栽培されている「むすめきたか」が、山里のつながりのなかで常陸太田まで伝わったのかもしれない――そんなことが想定できる。

 私のなかでは、「きたか」と「きた」は2年前、在来種の豆を調べている長谷川清美さん(神奈川)から連絡が入ったときにつながった。昔野菜保存会の仲間の案内で長谷川さんが三和町の生産者を取材するのに同行した。そして今回、「きた」の地元で「きた」の栽培を続けている生産者と話をして、推測の確度が上がった。

 江頭さんの話では、常陸太田には「むすめきた」のほかに、黒い小豆の「むすめきたか」がある。横からいきなりパンチを食らったような衝撃が走った。種は人をつなぎ、人は人とつながる――ある意味、スリリングでロマンあふれるフェスティバルになった。

2019年2月11日月曜日

「空き家バンク」を知る

いわきに「空き家バンク」があると知ったのは、去年(2018年)の秋。若い知人が専門家を連れて来た。お茶を飲みながら話を聞いた。それと前後して、市から委託を受けた業者が住宅地図をもって行政区内の空き家の情報収集にやって来た。
 それから間もない1月下旬、平地区行政嘱託員協議会の研修会が開かれた。テーマは、いわき市の空き家対策について、だった。いわきの空き家の現状と対策計画、直接の窓口になるNPO法人いわき住まい情報センターの事業内容について説明を受けた。

 いわきの空き家率は、平成20(2008)年で14.4%。東日本大震災を経験したあとの同25(2013)年でいったん10%を割ったものの、15年後の2034年には30%を超える、と試算されている。5~6軒のうち1軒が空き家、賃貸物件も含めると3~4軒のうち1軒が空き家になる可能性が大きい。

住宅が空き家になれば急速に荒廃する。庭木が茂りに茂る。住宅密集地では近隣トラブルのもとになりかねない。コミュニティにとってはゆゆしい問題だ。それを見越して、市は空き家等対策計画を立てた。①予防②除却③活用――を計画の三本柱に、空き家の自然増を食い止めたいという。

予防については相続・解体・改修・売買・管理のための相談会など、除却については危険な空き家の法に基づく指導・勧告・命令と除却支援、活用については空き家バンクによる物件情報収集・公表による市場流通・活用希望者とのマッチング・改修支援などを行う、としている。

このうち予防と活用については、おととし9月に設立された同センターが担う。行政などと連携して空き家の利活用支援事業(空き家バンク)、住まい相談窓口事業、管理サポート事業を手がけている=写真(リーフレット)。

少子・高齢社会が進行し、どこの地域でも空き家問題が顕在化しつつある。いわきの空き家問題に関してはまずNPOへ相談を、そのためにも「いわき住まい情報センター」の認知度を上げなくては、ということなのだろう。

2019年2月10日日曜日

よりによって雪とは

 きょう(2月10日)は、10回目のいわきサンシャインマラソン大会が行われるはずだったが……。
きのう、朝のうちに降りだした雪は、なかなかしぶとかった。小やみになったかと思うと、また静かに降り続ける。それを繰り返しながら、夜になるとぼたん雪に変わった。早い段階での中止発表は、雪に弱いいわきの交通事情を考えれば、やむをえない。

 夕方、同じ平地でも山寄りの小川町からわが家へ来た人が言っていたそうだ。「小川に比べたら平は雪が少ない」。そのころ、街からの帰りに夏井川の堤防を通って、ハクチョウの様子を確かめた。「白鳥おばさん」がえさをやる時間帯だ。ん!? 2、3日前にも感じたことだが、150羽ほどはいたはずのハクチョウが一気に数を減らしている=写真。40羽もいない。

寒暖の波が激しい。2月4日の立春は、小名浜で最高気温が15度を超え、文字通り春を感じさせる一日になった。と思ったら、翌5日は9.7度。6、7日と10度を超えたが、8日は6.8度、そして雪が降ったきのうは0.9度だ。

平・塩のハクチョウは立春の暖かい風に刺激されて北帰行の準備に入り、少し北へ移動したのだろうか。

さて、いわきサンシャインマラソンは中止になったが、いわき昔野菜保存会主催の第9回いわき昔野菜フェスティバルはきょう午前10時半から、予定通り中央台公民館で開かれる。

昔野菜づくり相談会、田人そばの手打ち実演・試食のあと、在来小豆の「むすめきたか」(いわき)と「むすめきた」(茨城県常陸太田)をつないだ地域文化交流座談会が開かれる。同フェスでおなじみの江頭宏昌山形大教授がコーディネーターを務める。種の来る道・行く道を考えるまたとない機会になる。

気になるのは天気と路面だが……。けさ、新聞を取りに外へ出ると、星が輝いていた。庭はきのうの夜10時ごろと変わっていない。車の屋根の雪はさらさらしているが、側面の雪はザラメ状だ。橋上はうっすら凍っているかもしれない。

2019年2月9日土曜日

自分史としての詩集

 いわき市小名浜の竹林征人さん(75)から、詩集『海獣 第5号』の恵贈にあずかった。270ページを超えるハードカバーの美麗本だ=写真。1981年から2018年まで、37年間にわたって発表してきた作品51編が収められている。
 繰り返しあらわれる“主題”がある。「狂うことでしか生き抜けなくなった悲しい青春」(「医学部中退」)、あるいは少年時代のあれこれ。詩を書くようになってからは(今もそうだと思われるが)、折々に青少年期を振り返り、それと向き合い、生きるバネにしているかのようにみえる。

 父上は東京帝国大学医学部卒のドクターで、地域医療のリーダーとして、名士として尊敬を集めていた。彼も同じ道を歩むべく(本人の意志かどうかはともかく)、東北大学医学部に進む。しかし……。

 そのころの心情を伝える詩句。「砂漠のなかにいるような/小学、中学時代/心にしみる/一滴の水さえ無かった/(略)/大学に進学し、仙台に行った/(略)/疲れ果て、精神を冒され/病になり、挫折した/両親は希望を砕かれ、悲しんだ」(「阿修羅」)

 実は、カミサンと彼は小・中学校の同級生だ。1979年7月、最初の詩集『海獣』を出したころ、文学仲間を介して知り合った。海獣といっても、オットセイやラッコではなく、旧約聖書に出てくる「リヴァイアサン」を指していたように記憶する。今度の詩集にも「社会という巨大な怪物(リヴァイアサン)」(「それぞれの日本・2」)が出てくる。

彼と言葉を交わすようになって以来、詩人の彼と生身の人間の彼とを、縄のように縒(よ)り合わせてみてきた。だから、「兄ばかりか私まで狂って/両親は子に対する期待を失った」「二度と帰らない/児童期・思春期・青年期は/愛の欠如した、苦しみが多い/悲しい時期だった」(いずれも「医学部中退」)には、痛みさえ感じられた。

 少年たちの真情があふれた詩句もある。中学校の「二年生の時に身近な友と年上の従兄弟が/ヘルマン・ヘッセの青春小説『車輪の下』の主人公/ハンス・ギーベンラートの悲劇を/私に重ね合わせて人生の忠告をした」(「想い出」)。

「車輪の下」は、「周囲の人々からの期待を一身に背負い、その軋轢(あつれき)で心を踏み潰されていく少年の姿」(ウイキペディ)を描いた小説だ。彼も兄もハンスになった。

30代半ばで彼は、両親の住む平から叔母の住む小名浜へ移り、労働者となった。詩を書きはじめるとすぐ、最初の詩集を出す。

 以来、40年。東日本大震災を経験した今、「それでも私は、平凡な冬の日の様に/弱い、穏やかな日差しと/寒風が家を包む中/幸せな老いの日を過ごしている」(「冬の日」)。平穏な日々をもたらしたのは詩を書くことだった、詩を書くことで彼の魂は救済されたのだと、私は詩集を読み終えてほっとした気持ちになる。

2019年2月8日金曜日

ついでに海岸をドライブ

 ネギが切れたので、道の駅よつくら港へ買いに行ったついでに、海岸道路をドライブする。日曜日(2月3日)、平・藤間沼に半分つかっていた乗用車はもう引き揚げられているはずだ。それを確かめたい気持ちがあった。
 四倉~藤間の新舞子海岸は、大津波の後遺症で黒松の密林が疎林に変わった。陸側に道路に沿って藤間沼がのびる。乗用車のフロントガラスから上が見えていたくらいだから、水深は1メートル前後か。

 さすがに沼から車は消えていた。赤黒い頭と白っぽい胴、黒い尾の水鳥が1羽、静かに泳ぎ回っていた。冬鳥のホシハジロ(雄)らしかった。

道端に沼へ食い込むように膨らんだスペースがある。若い黒松が十数本並んで植えられたが、あらかたは立ち枯れている。その木を利用して、「福島県警 立入禁止」の黄テープが張られていた。

 車がどこから沼へダイビングしたかはわからない。黄テープが張られている場所からだろうと推測するだけだが、引き揚げた場所は、テープをからめた立ち枯れ松が倒れていた(前から倒れていたかもしれないが)のでわかる=写真。左側の岸辺に一つだけ車輪の跡があった。

 なんにせよ、沼は前の沼に戻った。それを確かめたあと、近くにある直売所へ寄った。

 午後も遅い時間である。直売所の野菜は少ししかなかった。一本太ネギと、それよりは細いネギがあった。細いネギは「西田ネギ」だという。「西田は地名?」「地名ではなく、品種名」。初耳だ。このネギを買いながら、「太ネギは硬いんじゃないの?」というと、「ラーメン屋さんには好まれる。くずネギがあるから、あげる」。喜んでちょうだいした。

くずネギといっても、白根が割れて、見た目が悪いだけだ。夜、これを切って焼いてもらい、晩酌のつまみにした。

 焼けば白根部分は甘く、やわらかくなる。緑の葉の内部にはしかし、ヌルヌルがほとんどない。私は、白根も葉も食べたい人間なので、好みからいうと、郡山の「阿久津曲がりネギ」、それと近縁と思われる「三春ネギ」に軍配を上げる。それをまた確認した。にしても、「西田ネギ」って? まだまだ知らないネギがある。