2021年11月30日火曜日

いわき地方の道標展

                                 
 震災前の話だ。会社を離れてフリーになるとすぐ、記念誌づくりの仕事が入った。いわき地域学會初代代表幹事の故里見庫男さんからも声がかかった。

里見さんが代表を務めた浜通り歴史の道研究会が平成20(2008)年、『道の文化財――福島県浜通り地方の道標』を出す。原稿の整理と校正などを頼まれた。どうしても使えない道標の写真があった。写真を撮影するために所在地を探してうろうろしたこともある。

いわき市内はもちろん、相双地区、隣接する北茨城市や古殿町、小野町の道標が紹介されている。

いわき市内の場合は、「浜街道」(国道6号)、「岩城街道」(国道49号と国道399号・県道小野四倉線の2ルート)、「御斉所街道」(県道いわき石川線)、それに「小名浜高久海道筋」と「その他の地域」(山田町・川部町・田人町・内郷高野町・四倉町)に分かれる。

国道399号・県道小野四倉線の岩城街道は毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに利用する。小川町上小川字高崎地内の山側に「湯殿山」の道標がある。

故佐藤孝徳さんが『道の文化財――』のなかでこの道標について書いている=写真。①江戸時代は上小川の本村から小野新町への道は、横川から江田を通り抜けて川前へ行くのが本道だった。片石田を経て高崎へ至る道は脇道だった②この道標は天保の大飢饉のときにつくられた。飢餓を抜け出すには湯殿権現に祈ることが必要だった――。

県道小野四倉線は、古い時代にはなかった。明治10年代の中ごろ、県令三島通庸が福島県内の主要道路を改修した際につくられた――文章を読んでいると、耳の奥に孝徳さんの声がよみがえる。

この本を思い出したのは、いわき市暮らしの伝承郷で企画展「いわき地方の道標」を見たからだ。三つの切り口から道標に迫ることにしたと、館長あいさつにある。

道標と地域の民間信仰の様子を紹介する、というのが一つ。二つ目は、道標に刻まれた地名や昔の道筋などを明らかにすることで、長久保赤水の「改正日本與地路程全図」など3点の地図も展示された。さらに、いわきには閼伽井嶽への道を案内する道標が多い。三つ目としてそれを紹介している。

『道の文化財――』にも閼伽井嶽への道標(好間町川中子字八方屋地内)が載っている。それに関連して、孝徳さんは「閼伽井嶽薬師が磐城第一の霊山として、名実ともに君臨することになったのは明治中期以後のことである」と書いている。確かに、この道標は明治30(1897)年に建立された。

閼伽井嶽への道標で強く引き付けられたものがある。「鳥類猪鹿千丸(せんがん)供養」で、享和2(1802)年に「鴨左衛門」が建てた。高野町にある。

江戸時代には鹿が猟の対象になるほど山に生息していた。草野心平の詩「大字上小川」にも鹿が登場する。

「昔は十六七軒の百姓部落。/静脈のやうに部落を流れる小川にはぎぎょや山女魚(やまめ)もたくさんいた。戸渡あたりから鹿が丸太でかつがれてきた。」。そんな時代に一度はタイムスリップしてみたいものだ。

2021年11月29日月曜日

世界の若者が語る夢

           
 先日、いわきPITで「いわき地球市民フェスティバル」が開かれた。外国にルーツを持つ市民による日本語スピーチコンテスト――これがフェスティバルの中身で、コロナ禍のために去年(2020年)同様、出場者は動画で参加した。

 主催したのはいわき市民間国際交流・協力団体連絡会。シャプラニール=市民による海外協力の会のいわき連絡会も加わっている。スピーチコンテストに変わってからは、同連絡会のつながりで5人の審査員の1人になった。

 会場に集まったのはスタッフと関係者、出場者と審査員だけ。審査員が最前列に並び、銀幕に大写しされたスピーチ動画を視聴した。

審査の結果、一般の部(7人出場)では「しょうがの葉と木の板から得た自信」と題して話したALT(外国語指導助手)のキャサリン・ディベンコートさん(米国)、高等教育機関の部(13人出場)では「素敵なまち、いわき」と題して話した東日本国際大2年ルーン・ハ・アインさん(ベトナム)が大賞を受賞した。

 フェスティバルが始まる前にこんなことがあった。スタッフの一人でもあるカミサンと一緒に会場入りしたものの、開幕までにはだいぶ時間がある。その間、読んでみてくださいと、スタッフの一人から、いわき出身の若者がつくった本を手渡された。

 『WE HAVE A DREAM――201ヵ国202人の夢×SDGs』(いろは出版、2021年)=写真。およそ550ペーの分厚い本だ。

「地球を一つの『学校』にすること。世界の人々がお互いに学び合える場をつくることが、僕の夢だ」

学び合いの場から平和を実現したい! 何が起きても夢を描き続けよう――いわき出身の市川太一クンの思いが、インターネットを通じてまたたく間に世界に広がった。

そして、「ロックダウンのさなか家から書いてくれた人、街で紛争が起きるなかで書いてくれた人、本当にいろんな状況から夢の原稿が集まった」。その数201ヵ国の202人。

ひとりの若者が夢を語り、出版社にかけあい、ネットで呼びかけて出来上がった、かつてない本――それが第一印象だった。

スピーチ動画が終わり、私たちが別室で審査を続けている間、市川クンがゲストスピーカーとしてステージに上がった。聴衆は動画の出場者本人、まさに本に登場する若者と同じ世界、環境のなかで生きている。

本の帯に「世界のZ世代、ミレニアル世代の『夢』から僕らは何を学ぶ?」とあった。Z世代はアメリカで生まれた言葉で、1990年半ば~2010年代生まれの世代、ミレニアルはそれより少し先行する世代のことだそうだ。Z世代は真のデジタルネイティブ、パソコンやスマホのある環境で生まれ育った。

表彰式が終わって少し本人と話した。「これまで」のアナログ世代である年寄りは、まずこういう本はできっこない、と思ってしまう。「これから」のデジタル世代である若者は、そこを軽々と突き抜ける。

Z世代である「孫に読ませたい」。カミサンもすっかり本が気に入った。その前に年寄りが精読する。老いては若者に学べ――気候変動が大きな問題になっている今、特にそう思う。

2021年11月28日日曜日

けんちん汁

                      
 さすがにいわきの平地でも寒さがこたえるようになった。先日、夏井川渓谷の隠居の座卓(こたつ)にカバーをかけた。

 平地のわが家でも夏はカバーをはずしてこたつを座卓にしている。11月に入ると、座卓の下に毛布を置いて足を入れていたが、それではほかの人間が暖まれない。座卓の上にある文具や資料をいったんどけて、カバーをかけた。四畳半と六畳ぶち抜きの空間なので、石油ストーブ1台では間に合わない。ヒーターも出した。やっと冬の部屋に切り替わった。

 夜はこたつが食卓になる。ときどき具だくさんの「けんちん汁」が出る。いわきでも、中通りの阿武隈高地でも、「けんちん」といえば味噌仕立ての豚汁のことだ。

 暦が11月に替わってすぐの晩、このけんちん汁が出た=写真。隠居の畑で栽培している三春ネギと、庭のモミの樹下から採ったアカモミタケ、好間の直売所で買ったニンジン、里芋、ほかにこんにゃくや豆腐、ゴボウが入っている。

これをおかずに晩酌を始める。キノコからいい出汁が出ていた。ニンジンと里芋がやわらかい。三春ネギからはほのかな香りが立つ。この時期だけの組み合わせだ。

いつもそうだが、けんちん汁があれば、ほかにおかずは要らない。しかも、晩酌はだらだらと続く。必ず「おかわり」になる。

大きめの鍋でつくるので、1回では食べきれない。次の日の朝もけんちん汁が出る。余れば、また晩酌のおかずにする。ほかの人間はさすがに食傷気味だが、私はかまわない。

 10日後にまた、けんちん汁が出た。三春ネギは1センチの小口切りにしてもらった。ふだんはやや長めの斜め切りが多い。

小口切りは子どものころの「原記憶」だ。小口切りのネギとじゃがいもの味噌汁が出ると、ふるさとの食卓の光景がよみがえる。けんちん汁もそれでいちだんと好ましいものになる。めったに食べられなかった豚肉も味を引き締める。

冬はけんちん汁で朝ご飯、となれば、おかずは自前の白菜漬けだけでいい。カミサンもその分、手を抜ける。その白菜漬けだが……、1回目のできがよくなかった。

11月中旬に三和のふれあい市場(直売所)で白菜2玉を買った。次の日の朝、八つ割りにして天日に干し、さらに翌日、甕を出して漬け込んだ。

去年までは減塩と暖冬もあって、甕の表面にすぐ産膜酵母が張った。今年はそれを抑えるために食塩を多めにした。

これが「多すぎた」ようだ。漬けて1週間もしないうちに試食したら、まだ塩味が残っている。次の日も、また次の日も。もう2週間になるが、塩がなじんだという感覚はない。

食べるときには水に浸けて塩分を抜く。キュウリの古漬けと変わりがない。水に浸けた白菜漬けは、パリパリ、シャキシャキとは程遠い。

 これではお福分けをするわけにもいかない。といって、水っぽい白菜漬けを食べ続けるのもいやだし……。1回くらいはけんちん汁の具に加えてみるか。

2021年11月27日土曜日

新評伝『北里柴三郎』

           
 総合図書館の新着図書コーナーに、上山明博『北里柴三郎――感染症と闘いつづけた男』(青土社、2021年)=写真=があった。

 北里の最初の高弟はいわき市渡辺町出身の高木友枝(1858~1943年)。長木大三『北里柴三郎とその一門』(慶應通信)が平成元(1989)年に出る。そこに高木は載っていない。その3年後、高木の遺族から資料の提供を受けて、長木は高木の章を加えた増補版を出す。

 それで初めて、高木は赤痢菌を発見した志賀潔(1870~1957年)などに先んじて、「北里の高弟として筆頭に挙げるべき人」(長木)という認識に変わった。

 長木の増補版からざっと30年がたつ。『北里柴三郎――感染症と闘いつづけた男』には、高木についての新しい知見が盛り込まれているはず。そんな期待をもって、すぐ借りた。

 そもそもなぜ今、北里柴三郎か。著者の「あとがき」に理由が記される。「2020年2月、日本で初めて新型コロナウイルス感染症による死者が発生しました。そのことを大きく報じるテレビを視聴しながら、真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、世界から『感染症学の巨星』と称揚された北里柴三郎です」

2年前、新型コロナウイルス感染症が中国から周辺国に広まり、あっという間にパンデミック(世界的大流行)になった。人々は「巣ごもり」(ステイホーム)と「3密」(密閉・密集・密接)の回避を求められ、経済が停滞した。

いわきでも事情は変わらない。緊急事態宣言、感染防止一斉行動、小・中学校の一斉休校、公共施設の原則休館などを経験した。いわきサンシャインマラソン大会や小名浜全国花火大会、いわき七夕まつり、いわきおどりその他、地域の行事も中止になった。

そうしたなかで出版された「書き下ろし評伝ノンフィクション」だ。最初に巻末の索引で高木が出てくるページを確かめてから読み始める。本文はざっと370ページ。大冊なので、時間をつくっては集中してページを繰る。以下は3分の1ほど読み進めた現時点での感想。

 明治27(1894)年、広東と香港で「黒死病(ペスト)」らしい疫病が発生する。政府から香港へ調査に派遣された北里は、現地の病院で研究を始めるとすぐ、ペスト菌を発見する。そのへんの状況が詳細につづられる。

 小説ではアルベール・カミュの『ペスト』、絵画ではピーテル・ブリューゲルの「死の勝利」。文学や美術の世界で繰り返し表現されてきたように、人類は何度も黒死病に襲われた。

 その恐ろしい感染症の正体を、北里が突き止めた。それだけでなく、のちのちの感染対策にも大きく貢献した。この本を読み進めていて、やっと北里の偉業に思いが至った。歴史と文学と現実が重なった。

 明治29(1896)年、高木は日本初のペストかどうかを調査するため、北里の指示で横浜へ出向き、警察立ち会いのもと、墓を掘り起こして死体の病理解剖を行い、ペスト菌を検出した。このあと、適切な除染作業が行われ、感染拡大を未然に防ぐことができたという。

2021年11月26日金曜日

カメムシが留守番

                              
  街にいるときは、向き合う相手は人間。鳥や虫のことは忘れている。せいぜい「燃やすごみの日」にカラスを警戒し、庭にやって来る鳥の声に「おや、ヒヨドリだ」「スズメだ」と反応するくらい。

日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行くと、これが逆転する。鳥獣虫魚の世界(といっても、釣りをしないので水の中のことはわからない)、なかでも虫の王国に「ちょっとお邪魔します」といった感覚に変わる。

虫だけではない。庭の木や地面にキノコが生える。草が生える。ほっとけばたちまち庭は荒れ野に変わる。草を刈る(刈ってもらう)のは、ある意味では人間の暮らしがそこにあるというシグナルのようなものだ。

10月末、カミサンが庭のウツギの切り株にキノコが生えているのを見つけた。スギタケの仲間だった=写真上。

同じモエギタケ科にヌメリスギタケモドキがある。20年ほど前、立ち枯れの大木に大発生しているのに出合った。このとき初めてコウモリ傘を開いて逆さにし、柄の長い小鎌でこそげ落とした。渓谷では絶えずキノコの胞子が飛び交っている――そんな感覚にもなる。

虫の話に戻る。隠居の中にも「訪問者」が絶えない。ガラス戸を開放している夏はアブ、ハチ、蚊、アリ。戸を閉めている秋~春はカメムシ。いろんなカメムシがいるが、よく現れるのはこれ=写真下。クサギカメムシらしい。

カメムシは隠居のなかで越冬する。四半世紀前に隠居へ通い始めたころ、カメムシとテントウムシが雨戸の溝の中で眠っていた。

座布団や布団、冬着などが増えていくと、そこにも入り込んで冬をやり過ごすようになった。物置のゴザのすきまにも入り込む。

晩秋から春にかけて、来客に座布団を出す、泊まり込みで同級会をやる、ダウンジャケットを着る、といったときに、カメムシがパラパラと畳に落ちる。部屋が温まると、どこからか現れる。パクチー臭の噴射を避けるには――サッとほうきで掃き出す。

近所の家では網戸やガラス戸に忌避剤を噴霧し、すきまをテープでふさぐ。寄り合いができる「談話室」には超音波式の駆除器をおく。しかし、ストーブで部屋が温まると何十匹も現れる。駆除器の効果はなかったようだ。

わが隠居でも、今年(2021年)の正月、後輩からクスノキの薪をもらって、隠居の茶の間などに置いた。防虫剤の樟脳(しょうのう)はクスノキが主成分だ。クスノキ本体を置けば、強烈な香りに負けてカメムシが逃げていくのではないか。そんな期待を抱いたのだが……

効き目があったかと聞かれたら、なかったかも、と答えるしかない。結局、冬はカメムシが留守番をすることになる。

2021年11月25日木曜日

鳴きながら家の上空を通過

        
 10月10日にこの秋初めて、コハクチョウの飛来を確認した。三島(小川)で残留コハクチョウの「エレン」にえさをやっているSさんから、「8日に飛来した」という電話をもらった。夏井川渓谷の隠居へ向かう途中、エレンともう1羽がいるところを写真に撮った。

 わが生活圏の中神谷(平)にもその後、姿を見せたが、定着するまでには至っていない。中神谷のすぐ上流、新川が夏井川に合流する塩(平)が越冬エリアなのだが、ここにはまだ現れない。と思っていたら、きのう(11月24日)午前11時過ぎ、幼鳥3羽を含む7羽が中州で昼寝をしていた。

すぐそばの左岸で重機が川砂をかき集め、ダンプカーがそれを運んでいる。「令和元年東日本台風」とは関係なく、前から土砂除去・運搬作業が行われている。きのうは重機が動いている様子はなかった。

 塩を目指してやって来たコハクチョウは、動く重機を避けるようにして下流の中神谷に着水する。サケのやな場をはさんで上流の浅瀬に6羽、あるいは10羽、ときに30羽。

 やな場の直下、字調練場では岸辺の立木伐採と河川敷の堆積土砂除去が行われていたが、先ごろ終了した。そこにもハクチョウが3羽、同時に羽を休めていたことがある。

 ねぐらは平窪(平)の夏井川だろうか。えさをついばむために朝、そちらからやって来た一団が中神谷の夏井川経由で四倉その他の田んぼへ向かう。夕方は逆ルートでねぐらへ戻る。

朝は主に7時以降、夕方は主に4時以降、中神谷の上空を「コー、コー」と鳴きながら通過する。きのうは人間が朝食を終えた8時過ぎ、わが家の真上から鳴き声が降ってきた。

その時間帯に夏井川の堤防にいると、飛び立ったり舞い降りたりする姿を見ることができる。たまたま朝、街から戻る途中に堤防で撮った1枚がこれ=写真(2021年1月4日午前9時ごろ)。

集合しているところを撮るなら、平窪だろう。日中は右岸域の赤井(平)の田んぼでえさをついばんでいる。左岸域の平窪の田んぼにも姿を見せるが、今はまだ少ない。

三島も、橋の上流右岸の土砂除去工事が終わった。こちらは日曜日になると、家族連れがえさを持って岸辺に立つ。

ついでながら、最下流の塩~中神谷が越冬地になったのはひょんなことからだった。けがをして平窪に残留したコハクチョウが1羽、大水のときに流れ着く。対岸・山崎(平)の故Mさんが残留コハクにえさをやり続け、それが呼び水になって越冬するハクチョウが増えた。今は、ピーク時には200羽前後になる。これから少しずつ定着することだろう。

中神谷には字南鳥沼、字北鳥沼がある。三面舗装の三夜川をはさんで隣り合っている。地名からしてそこは大昔、水鳥たちの休み場だったに違いない。地形分類図によると、そばの旧道は家並みを含めて夏井川の旧河道だった。

ハクチョウたちに受け継がれた遺伝子が、かつての「鳥沼」という休み場を探り当て、やがて近くの夏井川を越冬の地に選んだ――そんなことを土地の「物語」としてつい妄想してしまう。

2021年11月24日水曜日

環境文学

                                
 年金生活者になってから、本は図書館から借りて読むものに変わった。それでも新書を中心に、年に何冊かは本屋へ行って買う。ネットでの購入はやらない。その場でパラパラやって「買う」「買わない」を決める。

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に入居している総合図書館で本を借りたあと、カミサンが本を買うというので、階下のヤマニ書房へ寄った。

地元出版物コーナーをのぞき、小説コーナーで背表紙をながめていたら、読んだことのある本が目に入った。イタリアの『帰れない山』=写真、そして台湾の『複眼人』、アメリカの『ザリガニの鳴くところ』。ほかにも、同傾向の内容を想像させるようなタイトルの本が並ぶ。

『帰れない山』はパオロ・コニェッティ/関口英子訳(新潮社、2018年)。『複眼人』は呉明益/小栗山智訳(KADOKAWA、2021年)。『ザリガニの鳴くところ』はディーリア・オーエンズ/友廣純訳(早川書房、2020年)。

最近、日本で翻訳・出版された本、つまりは現代の海外文学だ。山の小説、海の小説、湿地の小説。自然と人間の関係を濃密に描いていることで共通する。

別の本で紹介されたり、注釈にあったりして興味がわき、図書館から借りた。知人が貸してくれたものもある。いずれも「環境文学」として読んだ。

若いときから「ネイチャーライティング」に引かれてきた。井上健東京大学名誉教授によると、ネイチャーライティングとは「自然環境と人間の対話、交流、共生を目指すことを主要なモチーフとする小説、詩、ノンフィクション、エッセイなど」のことだ。

米国で、1970年前後に確立したジャンルとかで、「地球規模で進行する自然破壊という現実を前に、ネイチャーライティングは全世界的な注目を集める」ようになったそうだ。

ネイチャーライティングはソローの『ウォールデン 森の生活』に始まる。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』も、もはやこの分野の古典といってよい。日本には石牟礼道子の『苦海浄土』がある。

ヤマニ書房のラトブ店に、書棚の一部とはいえ現代の海外文学がそろい、知っている本が環境文学だったのはたまたまだろうか。本の流通側がそうしたテーマを打ち出し、書店側もそれに応じた?かどうかはともかく、久しぶりに本屋で心がときめいた。

文学は、そのときそのときの社会や人間が抱える問題をあぶり出す。東日本大震災と原発事故が起きると、プロ・アマを問わず、「震災文学」が生まれた。この10年、いわき市の「吉野せい賞」の応募作品にもそうした作品が目立った。

 気候変動で地球が深刻な状況になっている。具体的な対策は政治の問題だが、文学は危機的な状況を「物語」として提示する。スウェーデンのグレタのように、若い世代が環境問題に声を上げ、行動する時代。それと呼応するように環境文学が読まれているのかもしれない。

2021年11月23日火曜日

こたつカバーをかける

                      
 このところ日曜日は天気がいい。11月21日も晴れたり曇ったりしながらも、穏やかな一日になった。

 朝9時過ぎ、夏井川渓谷の隠居に着いて土いじりをした。畑に生ごみを埋め、三春ネギ=写真=を収穫し、ネギの苗床を覆っている落ち葉を取り除いた。

終わって敷地内を巡り、キノコの有無をチェックした。あれば立ち枯れの木のヒラタケだが、新しい発生はなかった。樹下の地面は落ち葉に覆われている。盛り上がるほどの量だ。

 隠居への途中、JR磐越東線の江田駅前を通る。もう行楽客が歩いていた。県道小野四倉線沿いに、紅葉時期だけ直売所が三つできる。一つは地元の人たちの露地売り。白菜・大根などが並ぶ。あとは食事もできるテント村、そして背戸峨廊(セドガロ)入り口付近でのナガイモ直売。小野町のNさんがすでに到着して客と話をしていた。

 田んぼをはさんだ夏井川のそば、キャンプ場の駐車場は“コロナ閉鎖”が解けて以来、満パイの状態が続く。テントも立つようになった。

 穏やかな天気とはいえ、もう師走に近い。ジャンパーをはおって家を出た。隠居では首にタオルを巻いた。コロナ禍で夏もマスクで通したが、やっと今、違和感なく使えるようになった。空気が冷たい。鼻水が垂れる。それを防いでくれる。

 しかし、マスクと首のタオルだけでは足りない。昼食後、座卓(こたつ)にカバーをかけた。部屋が夏から冬に切り替わった。

こたつに入って対岸の山を見る。灰色の幹と枝が斜面を覆い、合間にモミと赤松の濃い緑が伸びる。障子戸を開ければ天然の「ふすま絵」になり、半分閉めれば「掛け軸」になる。

 師走に入ったら、温水器には注意をしないといけない。水を抜かないとたちまち凍結・破損する。洗面台の水道管も元栓を締める。

 落葉樹はあらかた葉を落とし、谷のカエデだけが赤く染まっている。ほかの渓谷は知らないが、夏井川渓谷へは車でささっと来られる。これが人気の理由だろう。

極端な話、路駐をすれば、すぐカエデの赤を目の位置で撮影できる。毎年不思議に思うのだが、人気のあるカエデの木は決まっている。

なぜその木なのか、調べたことがある。写真雑誌でその木の紅葉の写真が特賞かなにかに入った。以来、賞を取れるカエデの紅葉として知られるようになったらしい。

しかし、この時期のお勧めは地面を覆う落ち葉だ。なかでも林内の小道は落ち葉のふとんをかぶってふかふかしている。

晴れた日、足を踏み入れると「カサッ、カサッ」。雨上がりには、落ち葉が濡れてペチャンコになる。ほんとうの「濡れ落ち葉」だ。

カエデの写真もいいが、山道の落ち葉の写真も地面すれすれからあおるように撮るとおもしろい。

もっとも、列車には落ち葉は障害物だ。昔は線路に落ち葉が積もって車輪が空回りすることもあった、と聞いた。そういう人間とのかかわりまで想像して写真を撮ると、味わい深い「作品」になるのではないか。

2021年11月22日月曜日

ハス消滅の原因は

        
 いわき地域学會の市民講座は5月から翌年2月まで年10回開かれる。この2年はコロナ禍で会場のいわき市文化センターが臨時休館になるなど、中止や延期が相次いだ。やっと最近、元に戻りつつある。

 11月は自然部会の阿武隈山地研究発表会を兼ねる。去年(2020年)に続いて、鳥海陽太郎幹事が「いわきの自然環境『天然記念物』を見る~『差塩湿原』『内倉湿原』を巡り現況を知る」と題して話した。

 今、いわきの自然環境がどうなっているのか――。最新情報がわかるという点では、特に興味深い講座でもある。

鳥海さんのこれまでの講演からいろんなことを学んだ。平地のわが家の庭、夏井川渓谷にある隠居の庭には、名前の知らない虫も来る。生き物は温暖化の影響をもろに受ける。手元にある図鑑ではわからないことが多くなった。それを教えてくれる。

その一つがクロコノマチョウだ。去年(2020年)夏の夜、見たこともないチョウがわが家の茶の間に入って来た。天井の梁(はり)に止まったところを撮影し、形と紋様をスケッチしたあと、ネットで検索した。南方系のクロコノマチョウ(黒木間蝶)だった。

鳥海さんはこのチョウについて、「いつの間にかいわきでも見られるようになった、秋型が越冬するかどうかを確認したい」という話をした。

今年の9月後半、隠居の庭でメヒシバを引っこ抜いていたら、クロコノマチョウの幼虫=写真=に遭遇した。さらに1週間後、幼虫が蛹になっていた。

成虫は、翅が木肌色をしていて地味だが、緑色の幼虫は角から顔の輪郭が黒く縁取られている。まるで仮面をかぶっているような感じだった。むろん初めて見た。

今回の講座では、差塩湿原の乾燥化が進んでいること、浮島状の内倉湿原が陸地化しつつあること、川内村・平伏(へぶす)沼のモリアオガエルの産卵が早まっていることなどを報告したあと、平地の白水阿弥陀堂の池や松ケ岡公園のひょうたん池、お城山の丹後沢公園の「今」を解説した。

疑問に思っていたことがある。阿弥陀堂の池のハスが今年は咲かなかったという。アカミミガメ(ミドリガメ)がハスの芽を食べ尽くしたからだ、という話をネットで読んだ。鳥海さんと会ったときにその話になった。

鳥海さんはカメではなく、イノシシが主犯という話をした。現地を調べて、イノシシがレンコンを食べたことによる消滅だった、と判断した。

ネットでは、確かに他市の例としてアカミミガメ犯人説を拾うことができる。カルガモもハスの新芽を食べる。茨城県土浦市やかすみがうら市の霞ケ浦周辺では、年間を通じてイノシシがレンコンを食害しているという。

同県の調査では「アカミミガメはハスの芽や伸長した若い茎葉は食べるが、可食部(レンコン)は食べない」ことが確認されている。

何年か前に阿弥陀堂の入り口の手前、駐車場に続く広い芝生の広場がイノシシに掘り荒らされているのを見た。夏井川渓谷の隠居でも下の庭が広範囲にほじくり返された。ものすごいラッセル痕だった。

ミミズ、タケノコ、ヤマノイモ、日本産トリュフ、ヤマユリの根、ジャガイモ……。そして、今度はレンコン。イノシシの食欲はすごい。いや、すさまじい。

2021年11月21日日曜日

運動能力

        
 大リーグの大谷翔平選手(エンゼルス)がアメリカンリーグのMVP(最優秀選手)に選ばれた。各メディアが大きく報じている。

 今年(2021年)は、私らシルバー世代も大谷選手の活躍に目を見張った。投げて、打って、走る――分業化したプロの世界でひとり、総合力を発揮した。街の声にもあったが、「劇画」に出てくる超人のようなはたらきだ。

11月18日の朝日新聞に、大谷や菊池雄星投手が出た花巻東高校硬式野球部監督佐々木洋さんのインタビュー記事が載った。これがおもしろかった。

 「指導者で才能が開花するというのはうそです。大谷や菊池を私が育てたとは恐ろしくて言えません」。この「恐ろしくて」という言い方に引かれた。大谷や菊池の豊かな才能を思い、指導する側の眼力の確かさを感じた。

 東京の子と同じように体も運動神経もいい岩手の子がなぜ結果を出せないのか――佐々木さんは理由を探る。

「東北の冬は雪深く、実戦練習ができない。だから走り込みをしたり、雪を固めてサッカーをさせたりしていた。下半身こそ基本だ、とか言って」

 すぐ頭に浮かんだのが中学校の冬の体育授業だ。体育館がなかったので、雪のグラウンドでサッカーをした。阿武隈高地でも、指導者の発想は同じだった。

 佐々木さんはそのあと、こう続ける。「野球は前から来るボールを打つ競技です。それができるようになる練習を考えないといけない。(略)ひたすら走り込めばマラソン選手のように下半身が細くなってしまう。うちでは投手はあまり走らせません」

 なるほど、これもわかる。高専時代、陸上競技部に所属していた。同じ部員でも、短距離と長距離では足の筋肉の付け方が違う。

インタビュー記事にあるように、長距離選手の足は走り込むことで細くなる。短距離選手は逆に太ももがはち切れそうになる。昭和39(1964)年の東京オリンピック。マラソンで優勝したアベベを、100メートルに出場した飯島秀雄選手を思い出す。

魚にたとえると、短距離選手は赤身のマグロ、長距離選手は白身のサケだろうか。

佐々木さんはこんなことも言っている。「身体能力は重要です。骨格は遺伝するので、親も観察します。さらに重視するのは、親が子どもにどんな言葉をかけているか、他の親とどんなふうに接しているか。親の育て方や考え方で子どものマインドは変わり、伸びしろに差が出ると感じています」

 「脳力」は遺伝しないが、「運動能力」は遺伝する――と、昔、知り合いの体育教師からいわれたことがある。確かに、イヤになるほど速い仲間が何人もいた。親も速かったのだろう。私は、親が速かったという話は聞いたことがない。が、そこそこではなかったか。で、リレー走者としてはチームで一番遅かった。それでも走ることは好きだった。

最初、体が弱くて走ることとは無縁だった上の孫が小学6年生のとき、市の小学校陸上競技大会に出るというので見に行った=写真。結果には驚いた。下の孫は、これはもう走るために生まれてきたようなところがある。

ごみが落ちていればさりげなく拾ってポケットにしまう、大谷選手の人間性。これは親との関係の中で培われたものだろう。孫たちが見習ってほしい、という前に、大人が、私たちが見習うところもある――そんなことを感じさせるインタビュー記事だった。

2021年11月20日土曜日

ザアタル入りハンバーグ

                      
   パレスチナの香辛料にハーブミックスの「ザアタル」がある。向こうではオリーブオイルと一緒にパンにつけて食べるそうだ。で、わが家でもパンを食べるときには、必ずオリーブオイルとセットになって出てくる。

香辛料といっても七味のように辛いものではない。さわやかな香りが持ち味で、わが家ではパンだけでなく、ハンバーグにもザアタルを加える。

ザアタル入りハンバーグ=写真=は、ごはんはもちろん、晩酌のおかずにもなる。このところ、カツオの刺し身の次くらいにありがたいおかずだ。

カミサンがオリーブせっけんやオリーブオイルとともに、合同会社「パレスチナ・オリーブ」(皆川万葉代表)から取り寄せ、店の一角で販売している。

小瓶の説明書きによれば、ザアタルと呼ばれるハーブを乾燥させてすりつぶし、酸味のあるシューマック、ゴマ、塩、オリーブオイルをまぜ合わせたものだ。振りかけられるようになっている(シューマックはなんだろう、植物だとは思うが、さっぱりわからない)。

この香辛料は、パレスチナの北部(1949年からイスラエル領)の生産者団体「ガリラヤのシンディアナ」がつくっており、パレスチナ・オリーブがフェアトレードで輸入している。

先日、皆川さんからカミサンに電話が入った。注文したオリーブオイルやザアタルなどが「世界的なコンテナ不足で予定通り入荷しない、遅れる」ということだった。

 コロナ禍の影響がここにもあらわれたか。というのも、このところ半導体の品薄やもろもろの原材料の値上げがニュースになる。メーカーや農・漁業、サービス業はおろか、市民の暮らしの場にもそれが及んできた。

 一番大きいのは原油の高騰だろう。車のガソリンも、暖房用の灯油も値上がりが続く。レギュラーガソリンは間もなくリッター170円というところまできた。地方生活者は車がないと生活が維持できない。これはきつい。

 世界発のニュースがすぐ地域の暮らしを直撃する、という意味では、地域は末端ではなく時代の最先端だ。

 たとえば、豆腐と油揚げ。毎週水曜日、わが家へ移動販売の豆腐屋さんが来る。カミサンが留守をするときにはメモと代金が置いてある。それで頭に入った。「豆腐3丁・油揚げ2枚、530円」

 11月に入って2回目の水曜日、豆腐屋さんが来たので豆腐3丁と油揚げ2枚を注文した。いつもの料金を払おうとしたら、足りなかった。11月から570円になっていた。大豆の値上がりが響いて、今のままではもうけが出ない。で、小売価格を上げざるを得なくなったという(単純計算では豆腐10円、油揚げ5円の値上げか)。

 パレスチナの話に戻る。カミサンは、以前、シリアのオリーブせっけんを扱っていた。シリア内戦後も続けていたが、仕入れ量の関係でパレスチナの商品に切り替えた。

 きっかけは去年(2020年)秋、いわき駅前の「faro」で写真展「パレスチナのちいさないとなみ 働いている、生きている」を見たことだった。そのとき、パレスチナのオリーブせっけんとザアタルを買った。

ザアタルは万能香辛料。いろいろに使える。コロナ禍が早く収まり、コンテナ不足も早く解消されることを願うほかない。

2021年11月19日金曜日

「一所懸命」と「一生懸命」

        
 共同通信社の『記者ハンドブック 新聞用語集』では、「一所懸命」は使わない、「一生懸命」に統一する、となっている。NHKも同じだ。

それですっかり「一生懸命」に慣れてしまった。しかし、ほんとうはもっと「一所懸命」を意識して使ってもよかった。

取材エリアと配達エリアが重なるいわき市の地域新聞社にいたので、記者には「一所懸命」が求められる。今ならそう言える。生活者としては「一所定住」、転勤による引っ越しを経験しないですんだ。

平の街=写真=は、その意味ではホームタウンだ。夜はたびたび飲み屋街(田町)に繰り出した。そもそも職場が田町にあった。

全国紙や県紙の記者は、こうはいかない。転勤が付いて回る。「一所不住」だ。若いころ、よく一緒に田町で飲んでは不住と定住の長短・よしあしを考えたものだ。

「風来坊」は各地を見聞しているが、来たばかりの土地のことは知らない。「自然薯」は同じ風景や声にしか接していないが、根っこは深い。

その自然薯が、「懸命」に生きてきたかどうかはともかく、「一所」で「一生」をしめくくる時期にきた。

 図書館から『池澤夏樹の旅地図』(世界文化社、2007年)を借りて読んだ。「旅とトポス」という章から始まる。トポスとは場所のことだ。作家はこう書き出す。

「『一生懸命』という言葉がある。/これは本来は『一所懸命』だった。一つ所に命を懸けること」とあって、中世の封建制が語源になっていることを説明しながら、広辞苑に載る意味「賜った一カ所の領地を生命にかけて生活の頼みとすること」を紹介する。

 本文はそのあと、移動(旅=難民の始まり)と定住の歴史に触れるのだが、まずは書き出しに刺激を受けて、わが来し方を振り返ってみたのだった。

先祖伝来の土地でもいい、自分で購入した土地でも借地でもいい、そこに住み暮らして命を全うする――「一所懸命」を、主従関係など抜きにして今風にいえば、そうなる。

特にこの10年は、「一所懸命」を瞬時に壊した文明の災禍(原発事故)について考えずにはいられなかった。住み慣れた土地を追われた人々は十数万人に及ぶ。

同じ年の1月、シリアで騒乱が起き、内戦に発展した。「国外に逃れられた人々はまだいい方で、国内で居場所を奪われた国内難民は、760万人にも上る。国外、国内を合わせると、シリアで難民化している人たちは、人口の半数を超える」という事態になった(酒井啓子『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』みすず書房)。

災害や戦争がなければ、「難民」化せずにずっとふるさとに住み続け、「一所定住」と「一所懸命」の人生を全うできたはずの人々だ。

吉野せいの『洟をたらした神』はいわきをフィールドにした「トポスの文学」といってもよい。作品「赭い畑」にこんな言葉が出てくる。「自分たちの生きる場所はここより外にない。世界中の空間にここより外はない」

吉野せい賞表彰式のあとの記念講演で女優秋吉久美子さんが紹介した。これも「一所懸命」を考える契機になった。