2023年5月31日水曜日

蚊帳を枕カバーに

                      
 カミサンがなにげなくつぶやいた。「夜、眠れないというから、枕カバー用に蚊帳(かや)をあげたの。すると、熟睡できたって」。カミサンの友達の話である。ほんとうか。

 年寄りが熟睡できないのは、経験的にわかる。熟睡には体力が要る。その体力がなくなっているのだ。

 いつごろからか、そのことを自覚するようになった。そして今。布団にもぐりこむと、すぐ眠りに就く。が、3~4時間後には目が覚める。9時就寝だと、12時か1時ごろだ。

 そのあとがよろしくない。睡眠薬代わりの本は、最初布団に入ったときには抜群の効き目があるのだが、2回目以降はあまり効かなくなる。

 眠るために読むのに、ますます頭がさえて読み続けてしまう。そうなればなるほど、朝までの睡眠が浅く、細切れになる。

 睡眠の質からいうと、前半3~4時間はともかく、後半3~4時間は「不眠」に近いものになってきた。

 わが家では、カミサンが古着のリサイクルの“中継基地”のようなことをしている。古い蚊帳も、どこからか届いた。捨てるのはもったいない、しのびない、といったものも含めて、とにかく受け入れる。

 蚊帳は何枚かにカットされてたたんである=写真。一部は今、茶の間のカーテンになっている。カミサン自身も枕カバーに使っている。

 「オレも枕カバーにしてみるかな」。友達が熟睡したという話を聞いた晩、さっそく、蚊帳の端切れを枕カバー(正確には枕シート)にして寝床に入ると――。

 3~4時間でいったん目が覚めたのは以前と同じだが、その後が違っていた。本を読むと、またすぐ眠りに入った。というわけで、ほんとうに久しぶりに「熟睡」の実感がわいた。

 なぜ蚊帳を枕カバーにすると睡眠の質量が改善するのか――。ネットで文献を探すとあった。

 北海道でへき地医療に従事していた福島出身の医師が、子どものころ、蒸し暑い夏の夜、蚊帳の中で快適に過ごしたことを思い出す。

蚊帳を肌に当てたら、睡眠障害で悩んでいる患者を救えるのではないか。戦前の大麻の蚊帳を取り出して枕カバーをつくり、自分の患者に無料で配ると、睡眠の質はもちろん、全員が朝の満足感を得たという。その臨床結果を漢方専門誌「漢方の臨床」で紹介した。

戦前の「蚊帳の原料は、日本産麻(大麻)であり、麻(大麻)は熱伝導率がよくて、頭の熱感をとることで頭を冷やす効果があるため、よい睡眠の助けになる」。

そうか、頭の熱を逃がすことが大事なのか。前はタオルで枕を覆っていた。熱は逃げ場所がなかった。そこに小さな網目の付いた蚊帳をカバー代わりに置いた。それだけでも熱が散るようになったか。

少なくとも、蚊帳を使い始めてからは、睡眠時間が2時間ほど増えた。これは大助かりだ。

2023年5月30日火曜日

これがイノシシの破壊力

                     
 もう耕作はやめたのだろうか。夏井川渓谷の隠居へ行く途中、そう思わせる畑が道路沿いにある。

 渓谷に入ると森が続き、ちょっと開けたところに家と畑、それより広いところに家々と田畑が連なる小集落がある。隠居はそうした小集落の一つにある。

 森の中の一軒家風のそこは、小集落の「飛び地」なのかもしれない。段々畑にはネギや里芋、トウモロコシなどが栽培されていた。

 昨年(2022年)か一昨年かははっきりしないが、家から一番遠い道路沿いの小さな畑から作物が消えた。それが「耕作をやめたのかな」と思った最初だった。

 5月28日の日曜日、隠居へ向かっていると、そのへん一帯が掘り返されて黒い土がむきだしになっていた。「おや、今年は野菜を作るのか」。にしても……、ちょっと様子がおかしい。耕運機で耕したような整然さとは程遠い。

 隠居からの帰り、車を止めて掘り返されたあとを確かめた。畑=写真=だけでなく、土手も黒い土がむき出しになっている。これは人間のすることではない。

 犯人は? ピンときた。これだけの破壊力を持った生物はイノシシしかいない。渓谷で、これまで目撃してきたイノシシのラッセル痕が思い浮かぶ。ブログに記録されているものを再録する。

――(2019年3月)隠居からの帰り、磐越東線の江田駅前を過ぎ、踏切を渡ると、山側の高い土手がほじくり返されていた。

ここは前にも激しく広くほじくり返されたことがある。拙ブログで確かめると、原発震災からおよそ1年1カ月後、2012年4月のことだった。

(2017年5月)隠居の下にヨシ原が広がる。夏には2メートルほどに生長したヨシで覆われる。ある日、その一角が畳2枚分くらいほじくり返された。

頑丈な吻(ふん)で土を掘り、石を飛ばしてミミズをあさったようだ。ヨシの地下茎が切断されてむき出しになっていた。

イノシシは、複数の群れが同じ地域を利用しているらしい。寿命は長くて10年というから、代替わりをしながら山里を転々としているのだろう――。

わが隠居では幸い、菜園そのものが破壊されるようなことはない。むしろ、草刈りが大変なので、「ラッセルしてくれてありがとう」そんなレベルにとどまっている。

しかし、集落で暮らす人々は、そうはいかない。田んぼに「電気柵」を張り巡らせ、畑をトタン板で囲う。そういった自衛策をとらざるを得ない。

隠居へ通うようになって四半世紀。道路沿いでたびたびイノシシ被害を見てきたが、今回ほどの広さでラッセルに及んだのは初めてだ。いったい何頭現れたのだろう。

蛇足ながら、前に隠居の庭が小さな穴だらけになった、という話を書いた。地元の人は、「タヌキではないか」という。タヌキもミミズを好むらしい。

2023年5月29日月曜日

ドクダミが咲き出す

                     
 「おや、咲いたか」。雨が上がった水曜日(5月24日)の朝、庭へ出るとドクダミの白い花が目に留まった=写真。

 その数日前、とがった筆先のような蕾が形成されているのに気づいた。気温が急に上がったと思ったら、雨が降って急に下がった。その翌日の開花だ。植物たちも寒暖の大波には戸惑っていることだろう。

 ドクダミにも八重咲きがあると知ったのは7年前。そのときはなぜかそんなに驚かなかった。

――小川町の知人の家は、南側が落葉樹と山野草とで小さな林になっている。日本の里山をそっくり持ってきたような風情だ。「山野草が好きなので」。自宅のそばで介護施設を運営している知人がいう。

キキョウが咲いている。ホタルブクロも庭のあちこちに咲いている。植えたのが繁殖したのだろう。山野草にはそういうたくましいものが結構ある。

わが家の庭のホトトギス、ユキノシタ、ドクダミがそうだ。ミョウガも、野菜というよりは山菜、あるいはハーブの一種だろう。春には芽を出し(食材のミョウガタケになる)、月遅れ盆の前後からミョウガの子(これも食材)が現れる。

ドクダミも、陰干しをして煎じると「どくだみ茶」になる。知人の庭のドクダミは八重咲きだった。初めて見た――

当時のブログの抜粋だが、単に「初めて見た」で終わっている。その後、わが家の庭にも八重咲きのドクダミが現れた。そのときは、「驚いて」いろいろ調べている。ブログにも書き残した。

――30年以上前、ドクダミを何株か植えた。それが毎年数を増やしてきた。2021年も白い十字の花を付けた。

しかし、花と見えるのはヤマボウシと同じく総苞片(そうほうへん)で、ほんとうの花は中央の黄色い粒々だ。そのなかに八重咲きのドクダミがあった。

驚いた。ネットで調べる。けっこうあるらしい。図書館から多田多恵子『したたかな植物たち――あの手この手の㊙大作戦』春夏篇(ちくま文庫)を借りてきて読んだ。

この本にも驚いた。八重咲きは突然変異の一種らしい。「このような八重咲きの出現は『花びら』が進化する過程を示すモデルとして注目されている。もともと葉の変形なので、緑がかった苞がつく突然変異株も見つかる」

掲載写真の説明にも「葉と総苞と個々の花につく小さな苞の遺伝的調節が狂うと、多様な『八重咲き』が生まれてくる」とあった。

なかでも、ドクダミのあの独特のにおいの解説が新鮮だった。このにおい物質には細菌やカビの増殖を抑えるはたらきがある。

「冷蔵庫の中をドクダミの葉で拭けばカビ退治ができるし、細菌が関与して生じる冷蔵庫臭もすっかり消える」のだそうだ。

ドクダミは「受粉せずに結実(無融合生殖という)する便利な性質を獲得しているので、せっかくの『花びら』に似せた広告塔もじつは無意味である」。なんのための「花」戦略なのか――。

以来、わが家の庭に限らず、ドクダミの花を見ると、十字か八重咲きか確かめる癖がついた。

2023年5月26日金曜日

彼岸へ旅立ったのか

 知り合いが家に来て、共通する知人の話になった。「亡くなった? いつ?」。驚いてカミサンがたたみかける。

 風の便りを耳にしたようだが、どうも気にかかる。というのも、もう1年以上、顔を見ていないからだ。

 夜、娘さんに電話をかけると、「ごめんね、おじちゃん」。それだけでもう察しがついた。あとはカミサンがいろいろ聞いた。

昨年春、娘さんから引き継いだ花屋をたたんだ。そのころすでに病気が進行していたらしい。晩秋に自宅で息を引き取ったという。

 カミサンとは家が近いので幼なじみだった。私は草野美術ホールがあったころ、「おっちゃん」(経営者)の紹介で知り合った。ざっと半世紀前のことだ。

 同ホールには美術系の若者が出入りしていた。個展やグループ展を開く。それを観覧する。取材で事務室を訪れると、たいがい同世代の若者がいた。

事務室は芸術論や文学論がとびかうサロンと化した。彼女もまたそのサロンの一員だった。

わが家に彼女が描いた仏画がある=写真。署名の上に「1981年」とあるから、30代前半の作品だろう。仏様の身のこなしと温顔がどこかユーモラスで人間臭いところが、いかにも彼女らしい。

 やがて結婚し、子どもができたあともつきあいは続き、娘さんが大きくなると野鳥などの生物を介して、やはりつながりができた。

 震災の前年、娘さんが花屋を開いた。それを手伝ううちに創作意欲がわいたらしい。ドライフラワーのリースやアレンジメント風の作品を作って、単独で、あるいは娘さんと2人で展覧会を開いたこともある。

 娘さんが結婚したあとは花屋を引き継ぎながら、定休日にわが家へ遊びに来た。カミサンとひとしきり雑談して過ごした。私が加わることもあった。

 花屋をたたむときには、「あいさつ状」を頼まれた。原稿を渡すと、あとで連絡がきた。「やっぱり、自分の言葉で書く」

 こうして若いときから細く長く、半世紀も行き来が途絶えなかった人間は、ほかにはいない。今、振り返ってしみじみそう思う。

 このところ、知人の訃報に接する機会が増えた。草野美術ホールで出会った陶芸家夫妻がいる。奥さんが4月に亡くなったことを、個展を報じる新聞で知った。高専の陸上競技部の後輩も先日亡くなった。

 知り合いがぽつりぽつりと彼岸へ渡っていく。現実の川が生と死を隔てる川に見えてくる、というのは大げさだが、そんな幻像が脳裏に浮かぶ。

※おことわり=4年ぶりに対面の行事が集中し、準備や調整に追われています。とりあえず27、28日のブログは休みます。 

2023年5月25日木曜日

新しい橋と支所

                      
   JR磐越東線でいうと、始発のいわき駅から次の赤井駅を過ぎたあたり。小川町との境にある切り通しを抜けると、夏井川の左岸に水田が広がる。

昭和17(1942)年10月、中国から一時帰国した草野心平は、4年ぶりに列車(ガソリンカー)に乗って故郷へ帰る。

そのときの詩「故郷の入口」に、「もう切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」とある。

「長い竹藪」はそのころから、夏井川の両岸(西小川・下小川)を小川郷駅の方へと伸びていたことがわかる。

心平の詩を読んで以来、磐東線と並走する西小川の道路を通るたびに、「長い竹藪」も手入れ次第では立派な記念物になるのではないか、などと考えたものだが……。

夏井川渓谷の隠居で土いじりをした帰り、思い立って小川郷駅へ寄り道をした。ふだんは夏井川に沿ってまっすぐ県道小野四倉線~国道399号を戻るのだが、駅のそばに新しいいわき市小川支所の建物ができた。それがどんなものか見ておきたかったのだ。

昭和31(1956)年、小川町役場が建設される。14市町村が合併していわき市が誕生すると、役場はそのままいわき市小川支所として利用された。

老朽化に伴う新築移転が計画されているなか、「令和元年東日本台風」がいわき市を襲った。なかでも平地の夏井川流域では支流の好間川・新川を含めて、甚大な被害を受けた。

小川支所も1階部分が浸水した。そこで新しい支所の建物は土台がかさ上げされて建築されることになったそうだ。すでに1月12日に落成式が開かれ、同30日から新庁舎で業務が行われている。

工事を請け負ったのは堀江工業だ。同社のフェイスブックによれば、新庁舎は鉄骨2階建てで、1階に住民交流の場でもある地域活性化センターなどが設けられた。支所の業務は2階で行っている。

もう一つ、支所建設と連動するように、夏井川に架かる小川橋の架け替え工事が行われた。これも堀江工業が請け負った。

 同社の創立百周年記念誌『百年の軌道』(2020年1月刊)によると、昭和11(1936)年、同社が小川橋の架け替え工事を落札し、夏井川に架かる橋としては初のコンクリート橋ができた。80年余がたって、再び同社が架け替え工事を手がけたわけだ。

実は新しい橋をまだ利用したことがなかった。新しい橋と支所、駅をつなぐ道路も新設された=写真。個人的な「渡り初め」を兼ねて、駅前へと寄り道をした。

心平は昭和17年秋、小川郷駅に着いたあと、こう述懐する。「ああ見える。/眼前に仰ぐ二箭山(ふたつやさん)。/阿武隈山脈南端の。/美しい山。/美しい天。/おれは泪にあふれながらオモチャのやうな地下道をくぐる。」

 小川地区でもなお、水害の復旧・防災工事が続く。「長い竹藪」もかなり姿を消した。長い歴史を持つ「竹藪」はやがて、心平の詩のなかだけの存在になってしまうのかもしれない。

2023年5月24日水曜日

ホトトギスが飛来

                      
   JR磐越東線の時刻表は頭に入っている。夏井川渓谷を通る列車は、上り・下りとも朝2本、午後2本、夜2本の計6本だ。

 渓谷にある隠居へ通い始めて四半世紀になる。隠居の前を通過する列車は、最寄りの江田駅の出発時刻からみて、プラス・マイナス3分といったところだろうか。

 列車は時計代わりでもある。たとえば、いわきからの2番列車(下り)は朝8時51分に江田をたつ。隠居の前を通過するのは同54分ごろだ。

逆に、郡山からの2番列車(上り)は9時13分ごろ、隠居の前を通過し、同16分江田をたつ。そのあとは、午後2時近くまで列車の運行はない。列車が通過するたびに、「今、9時すぎ」「今、午後2時前」と、おおよその時間がわかる。

 日曜日(5月21日)の朝、上小川トンネルと直結する磐城街道高崎踏切に近づくと、珍しく遮断機が下りていた。

やがて列車が通過して、トンネルへと吸い込まれていった=写真。時刻は9時20分ごろ。江田を発車して数分たった2番列車であることがわかる。

 江田駅近くの踏切を超えて知り合いの家に寄り、車へ戻ろうとすると、近くの山からホトトギスの鳴き声が降ってきた。

 ホトトギスの鳴き声は、一般的には「トッキョキョカキョク」や「テッペンカケタカ」などと表記される。しかし、阿武隈の山里では「ポットオッツァケタ」である。

 ホトトギスは夜も鳴く。鳴き声が聞こえると、祖母がよく「兄弟げんか」を戒めるためにホトトギスの昔話をした。

 前に、日本昔話記録3・柳田国男編/岩崎敏夫採録『福島県磐城地方昔話集』(三省堂)を取り上げたことがある。双葉郡富岡町の60代女性から採録したホトトギスの「弟恋し」が載っている。

 ――あるところに兄弟がいた。兄は仕事に出かけ、弟は山へ行って芋を掘って暮らしていた。兄思いの弟は、芋のおいしいところを兄に食べさせ、自分は芋の端っこばかり食べていた。

ところが、腹黒い兄は、弟が自分よりもっとうまいところを食べているのだろうと邪推して弟を殺し、腹を裂く。中から出てきたものは芋の皮や“しっぺた”(端っこ)ばかりだった。

 兄は悔い悲しんで、ホトトギスになった。春から夏になると、それで「弟恋し弟恋し」と鳴く――。

 わがふるさとでは「オトウトコイシ」ではなく、腹が裂けたことに引っ掛けて、「ポットオッツァケタ」と聞きなした。

 さまざまな鳥が隠居の庭にやって来る。土いじりをしているそばでウグイスがさえずる。あるいは「フィーチョー、フィーチョー、フィフィフィ……」などと複雑な節回しで鳴き続ける鳥がいる。ガビチョウらしかった。

 今は午後の列車が通過する前に街へ下ることが多くなった。泊まれば、最終列車が通過したあとも鳥の鳴き声を聞くことができる。

そういえば、5月10~16日は愛鳥週間だった。人間界の用事に追われてすっかりそれを忘れていた。

2023年5月23日火曜日

気ぜわしい日々

                     
 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。今は辛み大根の花が咲いている=写真。花を見るだけで心がほぐれる。

 花はやがて実をつける。こぼれた実は、月遅れ盆のころには発芽する。芽は育ち、やがて冬にはずんぐりむっくりとした辛み大根になる。

 自然の移り行きは毎年ほぼ変わらない。それに比べたら、人間の世界は波がありすぎる。この3年はコロナ禍に翻弄された。

 地区の行政嘱託員や保健委員をやっている。青少年育成市民会議などにも属している。年度末~年度初めは、各種組織の総会や打ち合わせ、書類作成その他の用事が途切れなく続く。合間に、地区の球技大会や市民総ぐるみ運動(一斉清掃)などが入る。

責任者となって招集する会議がある。責任者ではないが、出席義務のある行事や会議がある。この3年間はこれら行事の中止や延期、書面審議による議決などが続いた。

それが4月に入ると、対面で行事が再開されるようになった。コロナ禍前の流れに戻っただけなのだが、3年間のブランクは大きい。

一例が地元の神社の祭礼だ。前に書いたことを引用する。4年ぶりにいつもの流れで祭典を催すことになり、その旨の案内状が4月に届いた。

案内状によると、例大祭は、新型コロナウイルス感染症のまん延を受けて、3年にわたって規模を縮小してきた。感染症が鎮まりつつあり、政府の対策が緩和されてきた状況を踏まえて、感染に留意しながら、恒例の例大祭を斎行(さいこう)する、とあった。

例大祭は春の大型連休中に行われる。近隣の区長も来賓として祭典(神事)に出席する。この3年間、来賓は出席を見合わせてきた。

当日、「みどりの日」の朝6時、頭上で花火が2発鳴った。祭典が始まるのは午前10時。これは従来と変わらない。祭典から直会(なおらい)の流れは頭に入っている。

とはいえ、コロナ禍が消えたわけではない。直会による飲食は差し控え、「直会の粗肴」を手渡しするという。マスクなしの「三密」は避ける、という判断からだった。

4年ぶりに同じ祭典に出席したのだが、何かが違っている、そんな感じを受けた。一つは「簡素化」が進んだということだろうか。

もう一つは、車の運転と同じで、休まずに動くからこそ持続するカンのようなものが衰えている、という自覚だった。

しかし、一番実感したのは、年をとったということ。この3年間、行事の中止や延期で体を動かすことが減った。例えれば、仕事の量が半減したのに慣れて、当たり前の仕事をするのに2倍のエネルギーが必要になる、そんな感覚だろうか。もう後期高齢者の一歩手前だよと、脳内でささやく者がいる

2023年5月22日月曜日

震災ボランティア活動の記録

                                
 文化人類学の子島(ねじま)進・東洋大学国際学部教授から『いわき発ボランティア・ネットワーク――ソーシャル・キャピタルの視点から――』(ミネルヴァ書房、2023年)と題する本の恵贈にあずかった=写真。

いっとき職場が一緒だったいわきの記者・中村靖治クンが編集協力者として名を連ねている。中村クンが持参した。

中村クンも加わるいわき市海岸保全を考える会が2011年秋、被災者130人の声をまとめて冊子『HOPE2』を発行した。これが同書の前半の土台になっている。

東日本大震災と原発事故が起きると、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきを拠点に、被災者(原発避難者を含む)の支援活動を始めた。

 当時、子島さんはシャプラの評議員、私たちは会員(カミサン)とマンスリーサポーター(私)で、子島さんとはシャプラを介して知り合った。

 やがて子島ゼミの学生が被災者の話を聞くためにいわき入りをする。そのころの様子を、拙ブログから抄出する。

――2012年6月初旬、東洋大の国際地域学科に学ぶ3年生6人が子島さんとともにいわき市を訪れた。「原発震災」の現状を海外に発信するための現地調査だった。

子島さんから現地ガイドと、聴き取り調査の相手の選定などを頼まれた。こちらでスケジュール案をたて、調整した。

デジカメのほかに、デジビデオで撮る。学生が英語でレポートするシーンも撮る。後日、インターネットの動画共有サービスを利用して発信するための“現地取材”だ。若者の「発信力」の高さを目の当たりにした。

そのとき、彼らは豊間の被災者宅で『HOPE2』に出合った。東日本大震災と原発事故の現実を、インターネットを介して世界に発信しなくては。現地調査の発展形として、学生による『HOPE2』の英訳プランが浮上した。その年の秋、子島さんと中村クンの打ち合わせにも立ち会った――。

『いわき発ボランティア・ネットワーク』は第1章「地震、津波、原発事故」、第2章「行動を起こした人々」、第3章「オリーブプロジェクト」、第4章「天空の里プロジェクト」、第5章「ソーシャル・キャピタルから見るボランティア・ネットワーク」からなる。

第1、2章は主に現地調査と『HOPE2』に基づいて構成されている。私が肌でわかる部分でもある。

 第3、4章は、現地調査からボランティア活動へと進化するなかでかかわりを深めてきた二つの現地プロジェクトを詳述している。

 「オリーブ」にしろ、「天空の里」にしろ、同じいわきに住んでいても、かかわりがなければ内容を知りえない。今回初めてそれを理解できた。

 第5章は、「ボランティアにおける信頼関係の深化や新たなつながりの生成」といったものが、いわきへ通うことで見えてきた、ということのようだ。

ソーシャル・キャピタル(「社会関係資本」などと訳されるようだ)は、私にとっては新しい概念だ。なるほどと思うことがいろいろあった。

2023年5月21日日曜日

科捜研の先駆者

                              
 「科捜研の女」は沢口靖子が主演するテレビドラマだ。科学捜査研究所、略して科捜研。歴史や現状を知らないまま、「科捜研」だけはテレビのおかげで耳になじんでいる。

日本では、警察庁に科学警察研究所、警視庁と各県警に科学捜査研究所がある。前者が科警研、後者がいわゆる科捜研だ。

これらのルーツの一つともいうべきフランス・リヨンの科捜研創設者の伝記を読んだ。ジェラール・ショーヴィ著/寺井杏里訳『科学捜査とエドモン・ロカール――フランスのシャーロック・ホームズと呼ばれた男』(鳥影社、2023年)=写真。

図書館の新着図書コーナーにあった。迷わず手が伸びたのは、若いときに「サツ回り」を経験したからだ。

 交通事故だって、窃盗だって、一つとして同じものはない。交通事故であれば、スピードは、アルコールは、信号は……といった事故の要因になり得るものを想像し、警察に疑問をぶつける。ときには、当事者の心理状態にも思いをはせる。

取材力の足りなさを痛感しながらも、事件・事故は個別・具体であり、1件1件が異なる、記事にするためには科学を基礎にした質問力を鍛えねばならないことを学んだ。

若いときの経験が元になって、知らないことは聞く・読むという習慣ができた。ネットが普及する前は、当然、図書館を介して「答え」を探った。

 今は図書館とネットを併用している。ネットでササっと検索してわかったつもりには、どうしてもなれない。本を読んで裏を取る――それが習い性のアナログ人間なので、図書館へはよく出かける。

 文学系は楽しみのために、自然科学系は知識を得るために。数学や物理学はさておき、動植物や鳥類、菌類、地理などは、一般向けの本が出回っているのでありがたい。

 その延長で「科学捜査とエドモン・ロカール」を読んだ。エドモン・ロカールは「フランスのシャーロック・ホームズ」と評されるだけでなく、「フランスの犯罪学の父」とも呼ばれる存在だという。

 「指紋、足跡、衣服についた痕跡や残された繊維、死体、筆跡などは科学的に調べる要素の一部で、犯人を見つけるうえで役に立つ。科学捜査の分野でエドモン・ロカールは先駆者であり、彼が開設した科学捜査研究所は世界標準」になった。

 指紋検査法は19世紀から20世紀初頭にかけて、犯罪捜査の分野に導入されたという。そこまでには指紋についての研究が蓄積される。

コラムにボヘミア(現チェコ)生まれのヤン・エヴァンゲリスタ・ブルキニェは「指紋研究の父」とあった。それだけではない。17世紀イタリアの解剖学者マルチェロ・マルピーギは「指紋研究の祖父」だという。その言い方がおもしろかった。

 なかでもうなったのは、エドモン・ロカールの息子ジャックの功績だ。「アルコール検知器の先駆けとなる『エブリオスコープ』を発明」したという。こうやって科捜研は絶えず新たな犯罪と向き合っているわけだ。

2023年5月20日土曜日

茶の間は真夏日

                    
   まだ5月だというのに、梅雨のような日が続いたかと思うと、いきなり真夏日になる。そのあとまた梅雨のような日に戻る……。

いわき市の内陸部にある山田では5月18日、最高気温が32.5度と真夏日を記録した。前日も29.6度と、真夏日に近かった。

わが家の茶の間にあるデジタル時計も気温の表示が30度を超えた。そうなると頭がボーッとして、「在宅ワーク」を続けるどころではない。暑さをしのぐためにあれこれ手を打つ。

真冬や真夏ならそれなりの服装で対応できる。怖いのは季節外れの寒暖の差だ。半そで・夏ズボンに切り替えたら、急に寒くなって風邪を引いた、なんてことになりかねない。年寄りは特に体調管理が難しい。

5月16日までは暖かい日があっても長そで・冬ズボンで通した。ところが、室温が真夏日とほぼ変わらない17日は、長そでシャツを脱いでTシャツ1枚になった。汗を逃がすにはそうするしかない。

18日はさらに暑さが増した。午後遅く街で会議があった。会場はエアコンが効いているはず。あれこれ考えて、上はTシャツと半そでシャツ、夏用の背広、下は夏ズボンに切り替えた。

翌19日は一転して気温が低めに推移した。上は長そで、下は冬ズボンと、以前の服装に戻った。

服装だけで対処できるなら簡単だ。冬場は電気マットを敷き、壊れたこたつを座卓代わりにしている。5月も後半に入ると、こたつのカバーが熱をためて足が蒸れるようになる。

そんなときには、反対側のカバーをめくって通気をよくする。18日に今年(2023年)初めてそれをやった。

春から初夏へ、梅雨から盛夏へ――。エアコンのないわが家では、少しずつ窓や戸を開け放つ。17、18日は一気に全開した。

明け放たれた茶の間はそのまま庭の延長になる。北側の店と南側の自宅玄関の間にも風の通路ができる。

まずは、蚊とハエが現れる。19日は開け放った玄関付近でスズメバチが飛びまわっていた。さすがにこれには緊張した。

台所と茶の間がある1階部分の三角屋根直下に、空気抜きの塩ビ管が2つ突き出ている。玄関の真上、約4メートルの高さで、その東側の管をスズメバチが忙しそうに出入りしていたことがある。

何年か前はそこに巣があったが、今はどこかに移ったらしい。とはいえ、早くも庭に現れたとなると、動きを注視しないといけない。

 カミサンが2階から扇風機を引っ張り出してきた=写真。スイッチを入れると、今まで聞いたことのないような音がする。左右に動きながら、かすかに振動する。

 いったんカバーと羽根を外し、取り付け直したが、音と震動は収まらない。「寿命かな」。扇風機が使えない分、暑さが倍加した。これもまた、エアコンのない昭和の家の現実。買い替えの必要な道具が一つ増えた。

2023年5月19日金曜日

明治40年の新聞「いはき」

                              
   明治末期からいわき地方で発行された地域新聞がいわき市立図書館に収蔵されている。図書館のホームページを開いて「郷土資料のページ」の「新聞」をクリックすると、デジタル化された地域新聞48紙を読むことができる。

最初(平成25年3月1日)は明治~昭和期の18紙、5年後(平成30年11月1日)には倍増されて計36紙がアップされた。

そのあともデジタル化が進み、大正後期に発行された「平陽新報」「磐城興信日報」「いわき新報」「磐城日日新聞」「磐洋新聞」「常磐鉱報つるはし」「磐城商工時報」「磐城新報」「新いはき」「たひら」「東北実業新聞」「四倉新報」の12紙が加わった。

今につながる最初の新聞は磐前県庁が発行した「磐前新聞」(明治6年創刊)だが、これは未収蔵のためか「郷土資料のページ」にはない。

それに続くのが明治40(1907)年、いわきで最初に発行された民間新聞「いはき」だ。これはデジタル化されているので、「郷土資料のページ」からプリントアウトして、新聞そのものを調べたことがある。

それによると、創刊号から翌41年4月11日付の23号まで閲覧が可能だが、創刊号の1~2面、4・6号、および23号の3~4面(推定)は欠落している。

発行日と面建ても動いている。第5号までは月1回25日発行(創刊号20ページ、第2号12ページ、第3号16ページ、第5号8ページ)で、第7号(10月25日付)からは月3回(5・15・25日)、各4ページに落ち着く。

第14号は明治41年1月1日付の新年号として16ページに拡大。3月は8・18・28日発行に変わる。終わりは何号で、いつまで発行したのかはむろんよくわからない。

発行人は平の新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。クリスチャンで、創刊2号には遊郭設置反対論が載る。

礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称された。昭和8(1933)年6月25日、63歳で急逝すると、各紙・誌が死亡記事を載せて追悼した。そのひとつ、月刊「ジャーナリズム」7月号を要約すると――。

彼は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。

先日、やはり若い古書店主が「こんなものが出てきた」と、「いはき」のつづりを持って来た=写真。創刊号から4号までが綴じられている。

新聞の実際の大きさがわかった。夕刊いわき民報と同じタブロイド判だ。創刊号の1面は破れているものの、横題字の下は広告で埋められていた。

2面は記事だが、「露国」「戦後の経営」「国家の盛衰」などとあるから、日露戦争後の日本について論じたもののようだ。とりあえずきょうは「いはき」の現物を目にしたという報告にとどめ、4号については後日よく読んで、内容をお伝えしたい。

2023年5月18日木曜日

小さな穴がいっぱい

                     
 おや、なんだろう。ここにも、あそこにもある。草がきれいに刈り払われた隠居の庭に、小さな穴がいっぱいできていた=写真。

 日曜日(5月14日)の朝、夏井川渓谷の隠居へ行って、真っ先にシダレザクラの樹下を歩いた。

 もうアミガサタケは出ていないとわかっていても、もしかしたらと淡い期待に動かされて地面を見ないではいられなかった。そのとき、丈の低い草がところどころでひっくり返っているのに気づいた。

 最初は気にも留めなかったが、上下二段の庭をつなぐ西端の「あぜ道」を中心に、同じような穴がいっぱいできている。

 穴の大きさは人間の足の親指大から大人のこぶし大、さらには子どもの足跡大までさまざまだ。

 庭を荒らすのはイノシシ? しかし、イノシシはこんなに慎ましくはない。ブルドーザーで表土をはぎとるような勢いでラッセルする。

 隠居の庭や近所の空き地をラッセルしたときの様子が、3年半前のブログに残っている。それを抜粋・引用する。

 ――隠居に着いてすぐ庭を見たカミサンが苦笑しながらいう。「またイノシシが……」。庭のラッセル痕が半月前より広がっていた。シダレザクラの木の下は、前は疊1枚分くらいだったが、3枚くらいに拡大している。しかも、掘り返したあとが深い。

 菜園に生ごみを埋めてから、周辺を歩いてみた。隠居の隣は水力発電所の社宅跡だ。駐車場を兼ねた広場になっている。

谷の方からみると、吊り橋と同じ高さで最初の広場があり、そこから石垣と盛り土でがっちり固めた上部に、社宅跡が2段になって広がっている。

下の社宅跡の南東隅、隠居との境に大きなモミの木がそびえている。その根元から下の土手が、およそ幅3メートル、長さ20メートルにわたってほじくり返されていた。

前は土手も広場も草で覆われていた。がっちり土の流出を抑えていた草の根がどこにもない。雨が降ればむきだしの土砂が流れ出す。

ここまでやるのはイノシシしかいない。しかも1頭や2頭ではない、群れをなして、地中にひそむミミズなんかを狙って斜面をラッセルしたのではないか。

わが隠居の庭のラッセルはこれに比べたら、月とスッポン、ブルドーザーと鍬、くらいにかわいい。それほど激しく土手がほじくり返されている――。

ネギ坊主がふくらみ、ネギ苗が育って、辛み大根の花が咲いている菜園には、穴はない。が、隠居の玄関近く、庭木が数本植わってあるへりと、車を止める樹下にも小さな穴があった。それらも含めると、穴の数は100近い。

 庭木の下の葉ワサビが、菜園の一角のタラの芽が消えたことはある。これは人間の仕業だ、ということは容易に察しが付く。

イノシシの荒々しさからは程遠い。しかし、人間だってここまではやらないだろう。イノシシでも人間でもないとしたら……。やっぱりよくわからない。

2023年5月17日水曜日

海の幸

                      
 子どもが小さいころはときどき、車で10分ほどの新舞子海岸へ遊びに出かけた。堤防のすぐ前には波消しブロックが続く。そこは避けて、夏井川河口に出て砂浜を歩き回った。

 台風はもちろん、大雨のあとは、砂浜にいろんなものが打ち揚げられている。大物は流木だ。

この流木を拾い集めてオブジェをつくったのが、同海岸にあったカフェ「ブルボン」のマスターだった。この店へも記者仲間とときどき出かけた。

 半世紀前の昭和40年代後半、いわき中央署担当の新聞記者たちが、朝、事件・事故の有無を確かめるために同署へやって来る。

ニュースになる材料はない、ほかに取材の予定も入っていない、となると、しめし合わせて「ブルボン」までモーニングコーヒーを飲みに出かけた。

一緒にさぼっていればニュースを抜かれる心配はない、たぶんそんな安心感が一番の理由だった。

今のようにスマホがあるわけではない。急に連絡が必要になったとしても、固定電話を利用するしかない。わざわざ連絡が取れないところへ行って、おしゃべりを楽しんだ。

別の言葉でいえば、情報交換、いや情報収集の方が大きかったか。言葉の端々から、何かを追っているのではないか、そんなことを絶えず探る気持ちもあった。

流木は、大水と一緒に川を流れてきたものと想像がついた。海からの揚がりものは、遠いところから潮の流れに乗ってやって来たものばかりではない。

川から海に流れ出したものが、波に押し返されて砂浜に揚がる。夏井川河口では、山の方から流れてきたものと察しが付くものがよく揚がった。

ソフトボールなどはかわいいものだった。あるときは、豚の死骸が脚を天に向けて横たわっていた。

子どもには貝殻が魅力的だったようだ。色も形もさまざまだ。なかに穴の開いた貝殻がある。二枚貝だが、とっくにバラバラになっている。図鑑にはツメタガイが“犯人”とあった。

実は先日、知り合いから生きたツメタガイやアサリをもらった=写真。説明を受けて、初めてわかった。そこからいきなり、子どもを連れて砂浜を歩き回ったころの記憶がよみがえった。

ツメタガイは一見、カタツムリに似る。それで「海のエスカルゴ」と呼ばれることもあるようだ。食べられるが、身は硬い。薄切りにしてコリコリ感を楽しむ、とネットにあった。

何はともあれ、「潮汁」にして、晩酌の友にする。アサリは知った味だから、「まあ、こんなもの」。ツメタガイはやはり硬い。が、これはこれでいい味をしている。というわけで、久しぶりに海の幸を堪能した。

2023年5月16日火曜日

にわか雨

                      
   このところ、週末になると天気が崩れる。日曜日は雨か雨模様。大型連休最後の5月7日も雨模様から雨になり、同14日も同じように夕方、にわか雨が降った。

 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。朝から雨では隠居へ行ってもしかたがない。図書館へ行くか、家にこもって“宿題”を片づけるかだが、これだと気分転換にはならない。

 14日は、雨が降る前にと、朝食をとるとすぐ出かけた。9時過ぎには隠居に着いた。後輩が上下二段の庭をきれいに刈ってくれたおかげで、当面、草むしりをする必要はなくなった。畑に生ごみを埋め、庭をウオッチングすると、あとはすることがない。

 昼が近づくと、カミサンから声がかかった。「『サーフィン』へ行きたい』。日曜日に気分転換をしたいのは、私だけではない。カミサンも同じだ。

山里から海岸へ、そこで昼食をとろうという腹積もりだ。カミサンの友達が経営している薄磯のカフェへ車を走らせた。

 3月にも、隠居から平窪の「やさい館」を経由して薄磯へ行った。そのときはカフェが休みだった。コンビニに寄ってサンドイッチなどを買い、帰宅して昼食をとった。

 今度もまた、「やさい館」でキュウリなどを買った。レジをすませると、カーネーションを1本、プレゼントされた。「そうか、『母の日』だったんだ」。ありがたくちょうだいしてカミサンに見せる。

 薄磯のサーフィンに着くと、客の車が止まっていた。店は開いている。いつものように、私はグリルサンド、カミサンはナポリタンを注文した。

 たまたま外に目をやったカミサンが「カメラを貸して」という。何を撮ったのか、あとで確かめると、公園で親子がボールを転がしていた=写真。こうして子どもはサッカーになじんでいくのだろう。

 私が子どものころは野球(ソフト)が男の子のスポーツだった。それから少したって、サッカーが子どもたちを引きつけるようになる。

 2人の孫も父親の影響か、サッカーに熱中している。一時は陸上競技をやっていた上の孫も、またサッカーに戻ったようだ。

 話をサーフィンに戻す。昼食をすませ、家に帰って昼寝をしたあと、ホームセンターへ買い物に出かけた。

 店内をのぞいて必要なものを買い、車に戻ろうとすると、外は土砂降りだった。風も吹いている。わずか10分ほどの間に天気が急変した。

ほかの客もこれには驚いて、出口で唖然としている。土砂降りの中を走って車に戻る勇気はない。そこへとどまること十数分、雨が上がりかけたところを急いで車に戻った。

その足でいつもの魚屋さんに直行する。下水路をはさんで店の物置がある。店から物置へ行く間にずぶぬれになった。着替えたところだという。やはり、ここでも意表を突く雨だった。

2023年5月15日月曜日

ヨモギからカヌレまで

                     
 早い春に追われるように、大型連休前は山菜のお福分けが続いた。てんぷら=写真=にしたり、ゆでて和え物にしたりした。セリのおひたし、フキの煮物なども口にした。

 東日本大震災と原発事故の直後は、山菜を食べること自体、制限された(もっとも、山菜を採りに行けるような状況でもなかったが)。

 今も、いわき市は野生キノコの出荷制限が続いている。山菜は一部、制限が緩和された。震災当時に比べたら状況は改善されつつある。

 春になると、ひとまず行政のホームページをチェックする。最新のデータでは、コゴミ(クサソテツ)、シドケ(モミジガサ)、フキ、ウドは出荷制限がなくなった。タケノコ、ゼンマイ、ワラビ、タラの芽、コシアブラなどはまだ制限が続いている。

 そうした現実を踏まえて、夏井川渓谷の隠居へ出かけると、四季折々、除染された庭だけをウオッチングする。

 事故以来、蓄積された「知見」もある。ゆでこぼすと野生キノコの線量は下がる。同時に、キノコのうまみも失われる。

 ベクレルはキロ当たりで表示される。一度に1キロもキノコを摂取することはありえない。せいぜい100グラムとか200グラムだろう。ベクレルも10分の1とか5分の1にとどまるはずだ。

キノコはゆでこぼしたら味が落ちる。それを承知で採りに行くのもばからしい、というわけで、森へはもうずいぶん入っていない。

この春一番驚いた食べ物は、渓谷の隠居の庭に生えたヨモギの新芽を使ったパンケーキだ。ヨモギの緑とパンケーキのもちもち感が新鮮だった。

山菜だけではない。大型連休を利用して、知人が就職・進学などで新しい生活を始めた子供の様子を見に行ったり、遠方から実家へ里帰りをしたりした。

珍しい食べ物をおみやげにちょうだいした。「トリュフのカヌレ」というのを初めて食べた。カヌレは、「カヌレ・ボルドー」が正式な名称で、フランス・ボルドーの女子修道院でつくられたのが始まりらしい。

前に食べたとき、ネットで検索してわかったのだが、ボルドーはワインの名産地で、ワインの澱(おり)を取り除くために卵白が使用される。すると、卵黄が大量に余る。この卵黄を利用して焼き菓子のカヌレが考案されたのだという。

「トリュフのカヌレ」は、カヌレの中にキノコのトリュフがまざっている。トリュフに縁遠い人間には、「蜜蝋の香ばしい食感と新鮮な卵をベースにした生地の、もっちりした内側のコントラスト」はともかく、「トリュフの高貴な香り」はよくわからなかった。

神戸名物の「いかなごくぎ煮」は、晩酌のおかずにした。イカナゴは、東日本ではコウナゴで、イワシなどと並んで、沿岸における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚類だという。

瀬戸内海沿岸では、「釘煮(くぎに)」と呼ばれる郷土料理で知られている。今度で2回目だった。「またお願いします」とは、さすがにいえるわけがないか。

2023年5月14日日曜日

5月の兜

                            
   5月に入ると、カミサンが床の間に「兜(かぶと)」を飾った。3月はなんだったか。フランス人形だったり、日本人形だったりした記憶がある。3月と5月はそれで床の間が少し華やぐ。

孫が小さかったころ、3月のフランス人形は不気味だったらしい。雛(ひな)人形の代わりに、ドレスを着た青い目の人形や和服を着た黒髪の人形などが何体も並んだ。大人でもいささか異様な感じを受けた。

拙ブログを読むと、当時、3歳と1歳だった孫は、遊びに来ても青い目の人形には近づかなかった。小学校に入学するころまで、フランス人形を見ると、後ずさりした。孫が怖がるのは人形の表情がリアルだったからだろう。

5月は兜のほかに、絵のぼりの「鍾馗(しょうき)」が飾られた。これにはおびえるようなこともなかった。

鍾馗の絵のぼりは、尊敬するドクターが亡くなり、奥さんが東京へ移るというので、ダンシャリで出てきたのを引き取った。

今年(2023年)は兜だけだった。後ろの壁には、構図的には油絵と少しも変わらない水墨画の軸物が掛けられた=写真。

いつものルーティンと軽く受け止めていた脳内に、ある日、電撃が走った。大谷翔平選手が所属する米大リーグのエンゼルスでは、今年、ホームランを打った選手に、日本の兜をかぶせてベンチに迎え入れるパフォーマンスを始めた。

大谷がホームランを打つたびに、兜をかぶった映像がニュースで流れる。5月に入って間もなく、大谷の兜を見ていて、端午の節句を思い出した。

エンゼルスはどんな狙いから「ホームラン兜」を始めたのだろう。ネットであれこれ探る(メディアのニュースを読む)と、たまたま球団が今シーズン、ホームランを打った選手を迎えるパフォーマンスに日本の兜を使うことを決めたということらしい。

「二刀流」の大谷が賛同し、通訳の水原一平氏が日本の小売店経由で薩摩川内市の工房から取り寄せた。

最初に兜をかぶったのは大谷同様、強打者のマイク・トラウト。4月7日のことで、それまでは、ホームランを打った選手はナインに迎えられ、テンガロンハットをかぶってベンチに戻った。

先のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本が米国を破って世界一に返り咲いた。決勝戦では最後の最後に、大谷がトラウトを三振に打ちとったシーンが忘れられない。

ホームランパフォーマンスに日本の兜を取り入れたのは、「侍ジャパン」大谷への敬意があってこそ、だろう。

おかげで、というわけではないが、今年の「こどもの日」には兜についていろいろ調べてみた。角のように立っているのは「鍬形(くわがた)」、その間にあるのは「前立(まえたて)、頭を守るのは「兜鉢(かぶとばち)、……。

エンゼルスの兜の前立は獅子だが、わが家のそれはよく見ると龍だった。正式には「龍頭(たつがしら)」というらしい。どこにでも勉強の材料は転がっている。

2023年5月13日土曜日

『マルドロールの歌』

                                
 もう半世紀以上も前の話だ。15~20歳が学ぶ工学系の新しい学校に入った。寮にも、学校にも、政治や文学を語る先輩がいっぱいいた。

 開校して3年目。先輩は2年と3年生だけだった。私もいつの間にか文学に引かれ、詩のようなものを書き出した。するとすぐ、同好の先輩たちと知り合いになった。

 作品の質はともかく、3人で詩集を出す、仲間を募って同人誌を出す、といったことをした。単純な話、書いたので読んでほしい、ではなく、書いたから活字にしよう、そんなうぬぼれた気持ちが優先していたように思う。

 そのころ、先輩たちはフランスの詩人、アルチュール・ランボー(1854~91年)のことをよく口にした。

 17、8歳――。島崎藤村や山村暮鳥らの近代詩をくぐり抜けて戦後詩にたどり着き、鮎川信夫や田村隆一、吉本隆明ら、あるいはその次の世代の谷川俊太郎、大岡信らに親しみながら、同時代を生きる現代詩人を視野に収めつつあるときだった。

 先輩たちがランボーなら、オレは違う詩人を選ぶ。現代フランス文学を紹介する本のなかで作家フィリップ・ソレルスと出会い、たぶん彼が言及するなかで名前を知ったのだと思う。

ランボーと同時代を生きたロートレアモン(本名/イジドール・デュカス=1846~70年)に興味を持ち、散文詩集『マルドロールの歌』(栗田勇訳=思潮社、1968年)=写真=を買った。

 ランボーもそうだが、ロートレアモンも謎の多い人物だ。南米のモンテビデオで生まれ、作家を志してパリへ赴き、『マルドロールの歌」を完成させたものの、無名のままに急死した。

 その後、彼の再評価が進み、片田舎の文学少年も『マルドロールの歌』を読むようになった。あまりに早い死も一種の憧れ、「夭折の権利」の行使と映った。

 なぜか最近、この『マルドロールの歌』を枕辺に置いて、睡眠導入の書にしていた。すると、もちろん因果関係はあるはずもないのだが……。

 能登半島で最大震度6強の地震が発生した。能登半島を訪ねたことはない。が、若いとき、ロートレアモンをもじって「能登亜門」というペンネームを使い、勤める新聞社で記事とは異なる文章を書いたりした。

ただそれだけだが、能登の震災が気になり、東日本大震災のとき、こちらは6弱だった、6弱だと室内の揺れと被害はこう、6強はさらにそれよりひどいだろう、などと類推がはたらくのだった。

それと、もうひとつ。この大型連休の終わりころ、新聞がフィリップ・ソレルスの死を伝えた。享年86。

 能登半島の地震、フィリップ・ソレルスの死。『マルドロールの歌』を介した極私的な連環に、いささか胸がざわついた。

2023年5月12日金曜日

座椅子を新調

                               
 新しい座椅子=写真=を使い始めてだいぶたつ。こたつで仕事をしている分にはいいのだが、背もたれを倒して昼寝をすると、ちょっと厄介だ。

 腰のあたりのふくらみがしっくりこない。投げ出した足も関節の裏あたりで座椅子のへりに触れて圧迫感がある。リラックスして仮眠することが難しい。

 古い座椅子は基部の板がじかに畳に接していた。回転はしない。背もたれは2段階に分けて角度を調節する。いつも深く倒して昼寝をしていたのが、あるとき、ガクンとはずれて倒れた。

角度を調節する基部の片方が板からはがれてしまった。座椅子を片づけて、座布団を3枚重ねて座り、ノートパソコンを開いてみたが……。座布団だけではどうも落ち着かない。

背もたれがないので、疲れると体が揺れる感じがする。別の座椅子も試したが、ひじ掛けがないので立ち上がるのに時間がかかる。

結局、壊れた座椅子をこたつに戻し、支えとして後ろに豆椅子を置いた。これだと豆椅子が支えになって、よりかかっても倒れない。

が、次第に背もたれが後ろへ傾く。豆椅子の位置を逆(後ろ向き)にして、背もたれで背もたれを支えると、ずれが収まった。

背もたれを倒して昼寝をするときには、豆椅子を前向きにして高さを調節し、背中のクッションを減らしたり、小さなものに替えたりする。とにかく面倒だ。

 そんなことをブログに書いたら、後輩がすぐやって来た。応急処置をしてみるという。座椅子はあっという間に直って戻ってきた。

左側の基部が壊れた原因を推測して、座椅子を長持ちさせる方法をアドバイスする。背もたれを倒して昼寝をしたあと、体を左にねじって起こすのではなく、ひじ掛けの両端に手を置いてまっすぐ上半身を起こすようにするといい、という。

しかし、これも後輩が「あくまで応急処置」というとおり、再びガクンとなった。ちょうど新年を迎えるころだった。

家具店へ行くと、ひじ掛けが付いた黒い合成皮革の座椅子があった。在庫がないので取り寄せるという。前払いをして1週間後に取りに行った。

回転する座椅子のために、椅子の基部は回転台から少し浮いている。背もたれは背中だけでなく、後頭部も支えられるように高くなっている。

 冒頭に書いたように、仕事中はなんの問題もない。背もたれを倒して体を預けたときに少し違和感がある。

小さいクッションを腰のあたりに置いたり、後頭部に置いたりして調整しているのだが、いまだにピタッとはまるクッションを見つけられないでいる。

と、ここまで書いてきて、最近、どこかの家から薄くてやわらかいクッションが出てきたのを思い出した。それを夏井川渓谷の隠居に運んだばかりだ。あの薄さとやわらかさなら……。今度、試してみよう。