2023年2月28日火曜日

光は春だが風は冬

                     
    先週末はとにかく風が吹き荒れた。土曜日(2月25日)、シャプラニール=市民による海外協力の会の小松豊明事務局長がいわきで講演をした=写真。そのあと昼食を共にしたが、窓越しに見える街路灯が強風で折れるのではないかと思うほど揺れていた。

 翌日曜日はいわきサンシャインマラソンが5年ぶりに行われた。10キロ部門にシャプラニールのスタッフが参加した。

 応援の仲間と2人、大会後にわが家へやって来た。風との闘いだったそうだ。 私たち夫婦も、日曜日なので夏井川渓谷の隠居へ出かけたが、あまりの風の強さにすぐ退散した。

 隠居への行き帰り、いわきFMでサンシャインマラソンの生放送を聴いた。しばしば強い風に言及した。光は春だが風は冬――そんな状況の中でマラソンが行われた。

現実の風の冷たさはともかく、この2月はシャプラニールとの縁を再確認する出来事が重なった。

まずは上旬。元スタッフがわが家の道路向かいにある故義伯父の家に泊まった。泉に母親の実家がある。祖母が亡くなったため、通夜と告別式に出た。ホテルが取れなかったという。

故義伯父の家は、震災後、シャプラニールがいわきで5年間、支援活動を続けた際の宿泊所になった。元スタッフはこの家を拠点にいわき駐在スタッフとして活動した。

シャプラニールは前身が「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」だ。独立したばかりのバングラデシュで支援活動を始めた。そのメンバーの一人が私と同じ学校に学び、同じ寮の部屋で寝起きしたいわきの人間だった。それからの長い付き合いだ。

今はネパールへも支援の輪を広げ、両国にシャプラニールの駐在員がいる。小松事務局長はネパールだけでなく、いわき駐在も経験している。

土曜日にいわき市生涯学習フェスティバルが開かれた。そのなかでいわきユネスコ協会が文化講演会を主催した。その講師として、小松事務局長が「海外と国内の課題をつなぐ――シャプラニールの50年」と題して話した。

今回は故義伯父の家ではなく、いわき駅前のホテルに泊まって講演に備えた。サンシャインマラソンの前々日だったので、スムーズに予約ができたのだろう。

サンシャインマラソンに参加した現スタッフも事前に電話をよこした。故義伯父の家に泊まるのかと思っていたら、やはりホテルを予約していた。コロナ禍のために遠慮したようだ。

 震災直後、いわきへ支援に入ったころは、シャプラニールを知る人は少なかった。少なくとも今は、行政、社協、ボラセン元スタッフなどとは深いつながりができた。

シャプラニールが開設した交流スペースで講師を務めた元教師がいる。いわきユネスコ協会に関係している。その縁で講演が実現した。

人はいろんなコミュニティに属している。シャプラニールもまた一つのコミュニティだ。スタッフたちと話していると、ものの見方を含めて多様な価値観に触れられる。それだけ物事の判断がより深く、正確になる。外では北風が吹き荒れていても、いっとき春がきたような温かさを感じることができた。

2023年2月27日月曜日

昭和三陸津波から90年

        
 100年前の関東大震災に関する本を読んでいたら、その10年後に昭和三陸津波が起きたことを知った。首都の復興がなるとすぐ、日本は新たな大災害に見舞われた。

 昭和三陸津波と明治三陸津波は宮沢賢治(1896~1933年)の生涯と結びついている。賢治は明治三陸津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に亡くなった。

 昭和三陸津波は昭和8(1933)年3月3日未明に発生した。ウィキペディアによると、地震そのものによる被害は少なかったが、大津波が襲来し、岩手・宮城県を中心に死者・行方不明者が3000人を超え、6000戸近い家屋が被害に遭った。

 関東大震災といわき地方の関係を、いわきの地域新聞で確かめたことがある。大正12(1923)年の新聞は、残念ながら「常磐毎日新聞」の11、12月分しかない。同紙はこの年の11月に創刊された。

 発災から2カ月ばかりあとの11月8日付(実際は7日の夕刊)。平駅(現いわき駅)の10月の運輸状況について、貨物は発送増・到着減、震災地往来の乗降客は減少、と伝える。12月11日付には、石城郡への震災避難者は1759人という記事が載る。

 というわけで、関東大震災の2カ月後からの様子は地域新聞で確認することができる。さらに、当時の状況を記した単行本や雑誌もそれを補強する。

 同じように昭和三陸津波といわき地方の関係をチェックしてみた。たとえば、昭和8年3月4日付の常磐毎日新聞。3面に記事が集約されている=写真。(表記は現代語に改め、適宜、読点を付した)

 主見出しは「寝入りばなを襲った/今暁の地震/震源地は金華山沖/安否を気づかう不安な一夜」。4日付だが、実際には3日に夕刊として配達された。見出しも記事も「今暁」なのはそのため。

 小名浜測候所によれば、当地方としては関東大震災のあとの大正13年に一度、同規模の地震があっただけで、今回はそれ以来の大きなものだった。

震源は宮城県金華山沖らしく、同県気仙沼や岩手県釜石には海嘯(かいしょう)その他の被害がかなりあった模様、と伝える。それが「四時間半に/わたって震動継続/ツナミ被害甚大/小名浜測候所の談」という見出しになった。

 大正13年の大きな地震とは、同年1月15日未明に発生した関東大震災の巨大余震のことだろう。そのときは「平駅に/列車が着かぬ/電報も大遅延/今朝の震災で」(常磐毎日新聞)と、いわき地方にもすぐ影響が現れた。

 昭和三陸津波では、ほかに小名浜海岸で「鰯煮干し全部流失/築港護岸が崩壊」し、江名港では「激浪で/漁船が/浅瀬に乗り上げる」という被害も。

内陸部の平町では「配電線が切断し、平町の一部と平窪村が停電」したほか、「才槌小路方面の電柱は青い火花を散らしていた」という。

この大災害を契機に、三陸の集落の移動調査に入り、勤務校を平から岩手に移してライフワークの東北研究を続けた教師がいる。山口弥一郎。昭和三陸津波の研究成果は『津波と村』になり、東日本大震災後、68年ぶりに復刊された。

2023年2月26日日曜日

形見分け

                     
 カミサンの同級生から電話がかかってきた。たまたま私が出た。私への電話だった。「夫がかぶっていた帽子があるの。よかったら使って」。つまりは形見分けだ。 「喜んで。行くときは電話します」

ご主人とは知らない仲ではない。晩秋に共通の友人である画家峰丘の個展が開かれる。前はオープニングパーティーがにぎやかに行われた。

そこへご主人はいつも、背広にネクタイ姿で現れた。頭にはお気に入りの中折れ帽。個展初日は「ハレの日」と決めていたのだろう。ヒトコトでいえばダンディー。これを若いときから貫いた。

去年(2022年)の師走、ご主人が亡くなった。「葬儀場にはあの写真が飾られているに違いない」。そのとおりだった。

 「あの写真」とは、いわき市が発行した「紙のいごく 10」の「シニアポートレート2020」のことだ。ご主人と奥さんが載っている。プロのカメラマンの平間至さんが撮影した。そのときのブログを要約して再掲する。

――シニアポートレートには、奥さんとのカップル写真と単独写真が載っている。帽子も背広もシャツもネクタイも違う。いかにもダンディーなご主人らしい選択だ。

ご主人は自動車鈑金の工場を経営している。私が若いころは、木造の工場の大看板に目が吸い寄せられたものだ。建物は交差点の角地にある。その角の中央でマリリン・モンローがほほえんでいた。衝撃的な看板だった。

ご主人から、新聞記者が主役のアメリカ映画(ビデオ)をもらったこともある(どうも年のせいでタイトルが思い出せない)。

シニアポートレートには、息子さんの奥さんが2人に代わって応募したという。ご主人の「ギョロ目」には力がこもっている。アメリカの映画と音楽を愛してきた人らしい雰囲気が出ている。「遺影」にも使える。それを本人に言えば、「イエー!」と応じるにちがいない――。

先日、カミサンと一緒に自宅を訪ねて、帽子とベルト、コートを譲り受けた。ネクタイはすべてストライプで何十本もある。これはもうほとんど使わないので遠慮した。

帽子は①黒いパナマ帽(夏用=イタリア製)②茶色い中折れ帽(つばが狭い)③黒い中折れ帽(つばが少し広い=ニューヨーク「ノックス」とある)④つばがあって黒く硬い帽子(サンフランシスコ「ウィンフィールドカバー」とある)――の四つだ=写真。

いちおうネットで形状やメーカー名を確かめる。驚いたのは「ノックス」だ。リンカーンも、ロックフェラーも「ノックス」の帽子を愛用した。創業は南北戦争時代の1838年。「アメリカ最古のブランド」の一つだとか。

つまりは、それなりに高級な帽子ということになる? ご主人の美意識は背広、ズボン、シャツその他、身に付けるものすべてに及んでいる。あらためておしゃれを楽しんだ人だったことを知る。

2023年2月25日土曜日

記憶再生法

  「時計をみて時間を読み取ることは認知症の早期にできなくなることが多い。(略)時計を読むのは意外なほど複雑な作業である。ディジタル時計によって、時間に無関心になるのをできるだけ遅らせることが重要である」

 例示が具体的でわかりやすい。しかも、「あなたは認知症ですよ」と突き放すのではなく、症状の進行を抑えるようにアドバイスをする。つまりは、文章を読んだ人間が励まされる。

 わが家にはアナログの掛け時計=写真=がある。ふだん時間を知るのは、テレビのそばにあるデジタル時計だ。

スマホは最初の画面に時計の文字盤が表示される。同じ画面の下に時間そのものが数字で出る。文字盤で時間を読む。これらの時計をまず思い出した。

カミサンが移動図書館から借りた本の中に草思社編集部編『作家の老い方』(草思社、2022年)があった。俳人松尾芭蕉から歌人太田水穂まで、33人の作家の文章を収める。

冒頭の認知症と時計の話は、神戸大学名誉教授で精神科医の中井久夫さん(1934~2022年)が書いた「老年期認知症への対応と生活支援」に出てくる。

中井さんの名前は阪神・淡路大震災後に知った。『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち』(みすず書房、1995年)の中に、中井さんの記録「災害がほんとうに襲った時」がある。

東日本大震災のあと、「災害が――」と、新たに書き下ろされた文章を合わせて『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』(みすず書房、2011年)が緊急出版された。心のケアを考えるうえで必読の文章と評判になった。

認知症がらみの文章では、冒頭の時計の話のほかに、中井さんも同じかと思わせる記述があった。「私が使う記憶再生法は『キーワード法』である。最初は自分に対して行った」

一例として中井さんは、17世紀のイタリアの哲学者の名前を思い出すために、こんなことをする。「私は『ア』から始めて『アイウエオ』を頭の中で唱えては、それで始まる名を呼び出そうとしたが、出てこない」

このときはあとで不意に、「ジャンバッティスタ・ヴィーコ」であることを思い出す。「アイウエオ」のキーワード法の中に「ヴ」はなかった。それで記憶を呼び出すのに時間がかかった。

この記憶再生法はどうやら万人に共通の「知恵」でもあるらしい。というのは、私自身、教えられたわけではないが、同じようにアイウエオのキーワード法で忘れた名前を呼び出すことが多くなった(多くはかつて取材した人の名前だ)。

そのほかでは、認知症の「初期とは、私は、自我同一性の喪失までとしたい。というのは、この初期の対応が改善されれば初期が長引き、ひいては初期に留まる可能性があるからである」。

自我同一性は「自分は自分であるという感覚」と説明される。つまり、「自分は誰?」となっても、対応が改善されれば認知症の初期のままで命を全うできる可能性がある、ということだろう。

「老人にはたそがれ時の外出を控えてもらうことである。この優先順位は高い。(略)買い物は夕方に多いが、レクリエーションを兼ねて昼に楽しみながら行うか、同伴で買い物にゆくことである」。たそがれ時にはもう晩酌を始めている。これにも強く同意したい。

2023年2月24日金曜日

「ウクライナ戦争」1年

             
 プーチン大統領がウクライナ侵攻1年を前に、年次教書演説を行った。全国紙によると、「戦争を始めたのは彼らだ」といったそうだ。「彼ら」とは欧米、つまり「西側」のことだろう。

 「西側は19世紀から、今はウクライナと呼ばれる歴史的な領土を我々から引きはがそうとしてきた」とも述べたという。

 この1年、折に触れてウクライナ侵攻について言及・解説している本や雑誌を読んできた。で――。ウクライナはロシアの歴史的な領土というプーチン大統領の発言は、彼独特の歴史観かと思っていたら、どうもそうではないらしい。

 年2回発行される総合雑誌に「アステイオン」(サントリー文化財団、アステイオン編集委員会編集)がある。平成3(1991)年にいわき地域学會がサントリー地域文化賞を受賞した縁で毎回、恵贈にあずかっている。

 最新の97号は特集「ウクライナ戦争――世界の視点から」だった=写真。去年(2022年)11月に発行された。

 96号は同年5月発行だから、2月の段階ではすでに次号の特集企画が決まっていたはずだ。そこへロシアのウクライナ侵攻がおきた。急きょ、特集を組み替えたのだろう。

 特集の中では、ウクライナで生まれ、今はドイツのヴィアドリナ欧州大学教授を務める歴史学者アンドリー・ポルトノフ(1979年~)の論考「ウクライナの抵抗力の源泉――プーチンの理解を超えた多様性の力」が参考になった。

 この論考でまず驚いたのは、当局から弾圧された旧ソ連の作家で、のちにノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918~2008年)のウクライナ観と、プーチン大統領のそれが全く同じということだった。

 ソルジェニーツィンの論考は、邦題が『甦れ、わがロシアよ――私なりの改革への提言』(NHK出版、1990年)で、ポルトノフはこの本を批判的に紹介している。

 ソルジェニーツィンは「ウクライナはロシアの歴史とロシア人に属するものであり、その独立――ロシアからの『分割』――を『共産主義時代に凋落したことの帰結』であるとした」。

 ソルジェニーツィンまで――と思う一方で、ロシア国民の大多数がプーチン大統領を支持しているのは、どうもプロパガンダだけでは説明がつかない、そんな気持ちが膨らむ。

 特集に組み込まれている廣瀬陽子慶応義塾大学教授の「プーチンはなぜ予想外の戦争を始めたか」もまたそれを裏付ける。

 「コロナ禍で孤独な日々を送っていた間、プーチン大統領は歴史書を読み漁り、独自の歴史観を構築していたという」

 それが、2021年に発表された論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」になった。

結果、「ウクライナは本来、主権国家であるべきではなく、ロシアの一部であるべきであり、また2014年以来、ウクライナは西側世界の手に落ちてしまったので、ロシアが救済しなければいけない」という理屈になる。

「アステイオン」を読み返すたびに、この「見下し」観からすべてが始まっているのか、という思いが強まる。

2023年2月23日木曜日

渓谷の踏切

                                 
 夏井川渓谷の隠居に、地元限定の回覧資料が届いていた。集落からちょっと離れたところに磐越東線の踏切がある。その踏切の廃止に関する意見交換会の開催を知らせるものだった。

 回覧資料の裏面に載った位置図と現状の画像=写真=を見て思い出した。県道に沿って磐越東線が走っている。渓谷の名勝・籠場(かごば)の滝のちょっと下流左岸に「ヤマベ沢」の滝がある。その沢沿いに県道から道が伸びる。そこにある踏切だった。

県道からいうと、ヤマベ沢は山側がコンクリート吹きつけの崖、すぐ上に磐東線のトンネルがある。谷側は展望スペースの出っ張りを含めてガードパイプで遮られている。つまりは橋だ。その下に滝がある。沢の水はその下をくぐりぬけて落下する。

もう四半世紀前になるだろうか。橋を架け替えるためにしばらく通行止めになったことがある。隠居へは下流側で車を止め、1キロほどを歩いて行き来した。道路に留め置くために、書類に車のナンバーを書いて出した記憶がある。

 震災前の平成21(2009)年1月、畑の土が凍ってやることがなくなったので、ヒマつぶしにヤマベ沢の道をさかのぼったことがある。そのときのブログの要約。

――思い立って「ミニ背戸峨廊(セドガロ)」のヤマベ沢をさかのぼることにした。籠場の滝の先、夏井川渓谷の左岸、磐越東線を越えて沢が続く。夏井川の支流だ。前に探索して、ごみに汚されていない水環境に清冽なものを感じた。

午前10時をとうにすぎた時間である。線路を越えたら、昔の「木馬道(きんまみち)」に何年か前の倒木が何本もそのまま残っていた。おおかたは赤松だ。

対岸へ渡るのに鉄骨で足場が組まれているところまで行った。この「鉄骨橋」を渡りながら写真を撮り、「今日はここまで」と引き返す。

横に尾根を2つ越えれば「背戸峨廊」だが、整備されたそちらは入渓すれば一周4時間がかりのコース。こちらは「木馬道」が放棄された結果、草木が繁茂して道が消え、すぐ行き止まりになる。

ほんとうはミソサザイのさえずりを聴きたくて入ったのだが、それは後日にしよう。というわけで沢の道を戻ると、倒木の上を小動物が渡って消えた。リスだ。久しぶりに夏井川渓谷で四つ足の小動物を目撃した。ヤマベ沢に踏み込んだかいがあった、というものだ――。

それから14年がたつ。回覧資料の画像を見ると、道をふさぐ倒木の数が増えている。山の荒廃がさらに進んでいるようだった。

とはいえ、踏切の奥の山には持ち主がいる。回覧資料には「土地所有者を把握するのに大変苦慮しております」とあった。

ふだんは忘れられた踏切だが、利用者はゼロではないだろう。たとえば、渓流釣り、山菜・キノコ採り、動植物調査……。私自身、部外者ながら、かつてあった道が埋もれていくのを、つい悩ましく考えてしまう。

2023年2月22日水曜日

2023年の“初ガツオ”

                      
  日曜日(2月19日)の夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行くと、店主の表情がいちだんとにこやかに見えた。

 「カツオがあります」「おっ、今年の初ガツオだ!」。大きいカツオだというから、銚子沖あたりにとどまっていたのだろうか(前にそんな話を聞いたような気がする)。

 カツ刺し=写真=は去年(2022年)11月13日以来、ほぼ3カ月ぶりだ。この間、刺し身はマグロやタコなどだったので、わさび醤油しか使わなかった。

 ニンニクのかけらが残っていた。少し出かかっていた芽を取り除いておろし、久しぶりに“にんにくわさび醤油”でカツ刺しを食べた。“とろガツオ”とまではいかないが、それなりに濃厚な味だった。

 日曜日はカツ刺し、あるかぎりはカツ刺しと決めている。「いわきの日常」が戻ってきた――そんな思いがまず頭をよぎった。

 ブログに残っている「初ガツオを食べた日」は、早い順から1月17日(2021年)、1月23日(2022年)、2月3日(2018年)、2月7日(2016年)だ。それに比べたら、今年は少々遅い。

 阿武隈の山中で生まれ育った人間がいわきに移り住み、根を生やしたのは、半分はカツ刺しのうまさを「発見」したからだ。

刺し身はカツオに限る。オフシーズンは刺し身なしでもかまわない。そう決めて、冬は魚屋さん通いを中断していた。

しかし、刺し身はカツオだけではない。サンマ、ヒラメ、イワシ、ホウボウ、タコ、イカ、タイ、メバチマグロ、天然ブリ、皮をあぶったサワラ……。冬には冬の刺し身がある。冬はカツオ以外の刺し身を味わうシーズンだと、あらためて知ったのは震災後だ。

忘れがたいのはホウボウだ。ホウボウは粗汁も上品だった。初めて口にしたのは平成25(2013)年の師走。そのときのブログを再掲する。

――秋にカツオの刺し身からサンマの刺し身に替わり、それも品切れになって、白身の魚中心になった。

そろそろ打ち止めかと思いながら、師走に出かけると、ヒラメとホウボウ、皮をあぶったサワラの刺し身があった。

サワラとホウボウは初めてだ。盛り合わせにしてもらった。ホウボウの甘みに引かれた。白身も捨てがたい。

で、次の日曜日はヒラメも加えてもらった。ヒラメのえんがわがコリコリしてうまかった――。

というわけで、震災後はかえって1年をとおして刺し身を口にするようになった。ホウボウ以外では、イワシの濃厚な甘みが忘れられない。

そのイワシを、先日、後輩が持ってきてくれた。塩屋埼で捕れたばかりだという。前に漁師の知り合いがいると言っていた。そのルートでお福分けにあずかったのだろう。

夫婦で食べるには多すぎる。近所にもお福分けをした。わが家の分は、カミサンが手開きでてんぷらにした。

熱いうちに食べるのが一番。作家の故池波正太郎さんの言葉にならって、親の敵にでも会ったつもりでイワシのてんぷらを腹に収めた。

2023年2月21日火曜日

山の怪異現象

        
 図書館の新着図書コーナーに田中康弘著『山怪 朱(さんかい しゅ)――山人の語る不思議な話』(山と渓谷社、2023年)=写真右=があった。山の怪異現象がつづられている。キツネ憑(つ)きの話も載っていた。

 もう15年ほど前になる。哲学者の内山節さんが『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)=写真左=を出した。この本を読んで、昭和40(1965)年ごろを境に、キツネにだまされたという話が消えたことを知った。

 そのことを思い出して、とにかく借りて読むことにした。著者はフリーのカメラマンで、農林水産業の現場、特にマタギの狩猟に関する取材を数多く手がけている。『山怪 朱』は『山怪』シリーズの4冊目の本だという。

 山の怪異とは、たとえば「謎の光や音、奇妙な生物や正体不明の何か」といったもので、「山人たちはそれらに翻弄され、また面白がり、時に恐怖で硬直しつつもまた山へ向かう」たくましさを持っている。

 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居で過ごす。現役のころは土曜日に泊まった。週末一泊二日の滞在だった。

夜の渓谷は、昼とはまた違った様子を見せる。深い闇。星が近い。奇妙な鳴き声。たとえば、キョキョキョキョキョ……。ヨタカだと知るまでは、音がするたびに背筋がひんやりした。

夜間、車で走っていたとき、山側から谷へと滑空するムササビを見たことがある。真夜中、隠居の庭木に取り付いて「ギャッ」とか「ギュッ」とか発したのはムササビだったか。

怪異とはいわないまでも、突然、渓谷が大音響に包まれたことがある。ジェット戦闘機が超低空飛行で進入してきたか――そう思わせるような音だった。対岸の森からほこりのようなものが上がった。落石だった。

そんな経験もあるので、山の怪異現象には興味がある。マツタケを採る人は、朝には森から帰ってくる。私はシロを持たないのでそんなことはしない。おそらく、マツタケ採りの達人は闇の中で奇妙な音や光と遭遇した経験があるにちがいない。

大きな倒木にツキヨタケが発生していた。しかし、夜、それが光るのを見に行こうとは思わなかった。イノシシやタヌキ、ハクビシンたちが夜な夜な動き回る。想定外の出会いに震え上がらないとも限らないからだった。

『山怪 朱』で奥会津の分校の先生だった人が同僚の体験談を語っている。バイクのカブでふもとの集落へ買い出しに行った帰り、暗くなった山道の前方を光がいくつも連なって動いていた。「キツネの嫁入り」を見たと喜んだ。ところが、宿舎に着くと、荷台から食料が消えていた。同僚はキツネにやられたと思ったそうだ。

おそらく昭和40年以前の話だろう。私が子どものころは、阿武隈の、いやどこの里や山里でも、大人が真顔でキツネにだまされた話をしていた。

そのころの記憶。「あれは何の声?」「キツネ」。山中の一軒家である母方の祖母の家に泊まった晩、向かい山から聞こえてくるキツネの鳴き声に、だまされたらどうしよう、と縮み上がったものだった。

2023年2月20日月曜日

ヒジキの炒め物

                     
   デイサービスを利用している義弟が、帰って来て昼食に出たおかずの話をした。「あれ、あれ、海苔ではないやつ」。義弟の頭の中には映像が浮かんでいるのだろうが、こちらにはそれが伝わらない。

少したって夕食の時間になった。隣家に住む義弟がやって来るなり、「思い出した、ヒジキの炒め物だった」という。

わが家でもときどき、ヒジキと油揚げの炒め物が食卓に載る=写真。義弟の好物だ。あとで、それが出ると、「やっぱり、ウチのはうまい」。なじんだ味がいいのは当然か。

 義弟は、私より1歳下だ。デイサービスに通っているが、身の回りのことは自分でできる。食事だけはわが家でとる。

ただ、糖尿病と診断されたので、食べ物にはいろいろ制限が付く。塩分の濃い味噌漬けはもちろん食べさせられない。白菜漬けもいったん水につけて塩分を減らす。

それに合わせて、私も白菜漬けの食べ方が変わった。前にも書いたが、今までは子どものころからの習慣で、醤油を注いだ小皿に七味を振って、それに白菜漬けをチョンとつけて食べていた。その醤油皿が消えた。七味も振らなくなった。

一番の変化は味噌汁だろう。このごろは義弟の体に合わせて薄味になった。どうやらそれにも慣れてきたようだ。

そうしたなかで、ある日、義弟の体調が急変した。デイサービスへ行く日の朝、わが家に来るなり、「きょうは休む、めまいがする」という。

たまたまカミサンが近所へ行っていたので、私が急いで施設に電話を入れた。でないと、迎えの車が来てしまう。

程なく戻ってきたカミサンにめまいの話をすると、すぐかかりつけ医院から処方されたブドウ糖を取り出した。

義弟はインスリンを打つので、低血糖への注意が怠れない。そのためにブドウ糖があることを初めて知った。

さいわいめまいはそれで収まった。一過性?といいたいところだが、血糖値には波があるらしい。

そういえば、ちょっと前から血糖値を自分で測るよう、かかりつけ医院から測定器などを持たされた。

カミサンが手伝って、食事前、あるいは食後、ときどき採血して数値を記録している。それを目安にして、低血糖のときはブドウ糖やジュースを飲むようにするわけだ。

私も、薬をもらいに行くと、定期的に採血される。その場で血糖値が出る。「200になると糖尿病」とドクターにいわれている。そこまではいかないが、前よりは高い。

その意味では、義弟の症状は私の体の鏡のようなものだ。糖尿病になったら、こんな症状があらわれるのか、そのときどう対処したらいいのか、思い出すことになるのだろう。

生身の体の異変ということでいえば、若いときは体そのものに復元力があった。今はどうか。薬の力を借りて症状を抑えている――そんなところか。血糖値を軽く見るな。義弟のめまいの一件以来、自分にそう言い聞かせるようになった。

2023年2月19日日曜日

変な「きのこ事典」

                                
 「本書は、巷間言われる伝承や物語、古くから言い慣わされた慣習など、読み物としての一般的な情報を提供することのみを目的」にしている。

 だから、「全ての情報は確実性のある科学的根拠によるものではなく、学術的な信用性を担保するもの」でもない。

 サンドラ・ローレンス/吹春俊光監修/堀田容子訳『魔女の森――不思議なきのこ事典』=写真=を図書館の新着図書コーナーで手にした瞬間、「おっ、これは“文化菌類学”だな」そう直感した。

 学術書ではない。研究者のエッセーでもない(著者はイギリスのジャーナリスト)。あとで表紙の次ページ(見返し遊び?)に記されている冒頭の文章を読んで納得がいった。

 「文化菌類学」はキノコの雑学のことで、私が勝手にそう呼んでいる。文学、美術、音楽、料理その他なんでもかまわない、キノコに関する記述のコレクションといった意味合いで使っている。

本書は、日本のキノコ狩りの木版画や麹(こうじ)の効能、マツタケについても触れている。そこがこれまでの西洋発の文化誌と違うところだ。

たとえば、ローラ・メイソン/田口未和訳『松の文化誌』(原書房、2021年)。著者はイギリスの食物史家・フードライターだ。松と共生するマツタケについては、当然、取り上げていいはずだが、その記述はなかった。

欧米にもマツタケの仲間は分布する。しかし、香りが強すぎるために人気がない。マツタケも同じ理由で切り捨てられたのだろう。

さて、今度の『きのこ事典』で得た新しい情報は、キノコ狩りの様子を描いた浮世絵だ。キャプションに「水野年方の木版画」とある。

ウィキペディアによると、水野年方(1866~1906年)は明治時代の浮世絵師・日本画家だ。今回初めて知った。

 マツタケにも1ページを割いている。「御所に仕える女房は、『まつたけ』と言いたいときは、尊敬を表す接頭語『お』をつけて『おまつ』と言わなければならなかったそうです」。以下、マツタケに関する一般的な話がつづられる。

 いかにも西洋の視点だと思わせるのが、キクラゲの記述だった。「このきのこは伝統的に、『不幸な』ニワトコの木だけに生えると誤解されてきました」

 というのは、「ユダが、キリストを裏切った後に首を吊った木です。ニワトコは小ぶりで比較的弱いので、死者の体重を支えられないと反論する人は、神が罰として昔は立派だったこの木を小さくし、大きかった実も小さなビーズ程度にしてしまったと言い返されたものでした」

 ユダとの関係はともかく、平の石森山で初めてアラゲキクラゲを採ったときの樹種は覚えている。ニワトコだ。以来、ニワトコを見ると、キクラゲの有無を確かめるようになった。今もそれは変わらない。

シイタケにも触れている。日本と中国の話のあと、ヨーロッパには自生しないが、ほだ木で育てるのは簡単だと書いている。西洋でもシイタケの栽培が行われるようになった? キノコの本を読むたびに、偏見や古い知識がほぐされる。

2023年2月18日土曜日

とにかく本を読む

           
 新聞とテレビのニュースだけでは「深層」がわからない。地方に住む人間としては、とにかく本を読むしかない。

 当面、頭から離れない疑問はロシアのウクライナ侵攻や、日本の今の政策決定過程だ。どうしてそうなるのか、なったのか――。

頭をからっぽにして(ニュートラルな状態にして)、そこに入ってくるものを吟味する。すぐ答えは出さない、いや出せない。なにかがかたちになって発酵するのを待つ。

山口大学名誉教授で歴史学者の纐纈(こうけつ)厚著『ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障――長期化する戦争の果てに』(日本機関紙出版センター、2022年)=写真=は、ロシアとウクライナの話にとどまらない。

ロシアの侵略目的は「NATO諸国の東方拡大の阻止のため、ウクライナのNATO加盟阻止のため、ゼレンスキー政権を打倒し、親ロシア政権を樹立すること、プーチン大統領の野望であった大ロシア主義、事実上の旧ソ連が保持していた領土の再統合のためのウクライナ東部から南部に至る一帯を事実上支配下に置くことでした」。

その一方で、東アジアの安全保障環境も変わってきた――との認識から、日本では防衛費の大幅増が決まった。

「もう日本は戦前のような軍事大国でもなければ、戦後の経済大国でもありません。少子化と高齢化などを含めて人口減少に歯止めが掛からず、地震や風水害の多発する自然の脅威に晒され続ける中級国家です」

その体力を無視して「重厚長大な軍拡」を続ければ、ますます国家としての体力を消耗させるという。

だからこそ「平和構築に全力を挙げるべきで、軍事に貴重な人材や資金を注ぐことは愚の骨頂です」。なるほど。

では、その政策はどうやって決まるのか。これはネットからの受け売りだが、21世紀に入ると、官僚や族議員らが中心のボトムアップから、総理を頂点とする官邸のトップダウンで政策が形成されるようになったという。

森功著『官邸官僚――安倍一強を支えた側近政治』(文藝春秋、2019年)を読むと、総理を補佐する「官邸官僚」がいかに実権を握っているか、驚くばかりだ。

「霞が関の官僚たちがかつてないほど首相官邸の支配下に置かれている実態は、疑いようがない」「彼ら官邸の“住人”たちは、ときに首相や官房長官になり代わり、水面下で政策を遂行してきた」

首相秘書官や首相補佐官らは、ときに総理の「分身」「代理人」「懐刀」となり、「振付師」役も務める。

岸田首相の側近である秘書官が同性婚や性的少数者への差別的発言で更迭された。この秘書官は首相のメインスピーチライターでもあったという。彼もまた総理の懐刀であり、代理人を自認していたのかどうか。公文書改ざん以来、政治への疑問は膨らむばかりだ。

2023年2月17日金曜日

イカナゴのくぎ煮

                     
 「珍味」は、めったに味わえない、変わった食べ物、と辞書にある。少し踏み込んで解釈すると、季節や地域が限定されるため、その地域外ではめったに口にできない食べ物――となろうか。

 値段が高すぎて庶民には手に入らない(たとえばトリュフ)、あるいは単に知らない食べ物も、これに加えることができる。

 このところ、その珍味を立て続けに口にした。一つは紙袋に、もう一つは小瓶に入っていた。神戸・大黒屋の「いかなごくぎ煮」=写真=と、新潟・加島屋の「焼きぶりの白醤油漬」で、それぞれのホームページで商品の内容を確かめた。

 「いかなごくぎ煮」は神戸名物ともいえる一品だという。春先に神戸沖で捕れる新鮮なイカナゴを炊いて、甘辛い味に仕上げる。

 しかし、商品の包装袋には北海道産のイカナゴを神戸で炊き上げた、とある。技術的には神戸流だが、原料はよそから調達した。つまり、瀬戸内海のイカナゴだけでは安定供給が難しい、そんな現状が想像できる。

 そもそもイカナゴとはどんなものなのか。阿武隈の山里で育った人間はそこから始めるしかない。こちらもネットでチェックする。

 スズキ目ワニギス亜目イカナゴ科に属する魚類の総称で、イワシなどと並んで、沿岸における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚類だという。稚魚は、東日本ではコウナゴ・コオナゴ、西日本ではシンコと呼ばれるそうだ。

 瀬戸内海沿岸では、イカナゴは「釘煮(くぎに)」と呼ばれる郷土料理で知られる。阪神、播磨地区では春先、各家庭でイカナゴの稚魚を炊く風景が見られるという。

 釘煮は佃煮の一種で、水揚げされたイカナゴを醤油やザラメ糖、せん切りにしたショウガなどで味付けして煮込み、煮汁が減った段階でみりんを加えながら、焦がさぬように数回、煮詰めることで出来上がる。

 炊き上がった稚魚は茶色く曲がっており、その姿か錆びた釘に似ているため、「釘煮」と言われるようになったのが語源として有力らしい。

 新潟でつくられる「焼きぶりの白醤油漬」も、郷土料理の伝統を受け継ぎながら、新たにブリを商品化したもののようだ。ホームページには、安定した商品供給のため、高品質の養殖ブリ(大分県)を使用している、とあった。

 同社はサケなどの北方系の魚を主体としたメーカーだが、約5年の歳月をかけて南方系のブリの商品開発に挑戦した。

 技法的には土地に根差したものであっても、販路の広域化や地球温暖化問題などを視野に入れると、新たな挑戦が必要になっている、ということなのかもしれない。

 「焼きぶり」にしろ、「くぎ煮」にしろ、ガバガバ食べるようなものではない。ちょっとしたご飯のおかず、あるいは酒のつまみ、といったところだろうか。年寄りにはいかにもぴったりの珍味ではある。

2023年2月16日木曜日

エレンとコレン(続)

        
  土曜日(2月11日)の朝、小川町の「白鳥おばさん」から電話が入った。「エレンとコレンが赤井の橋の下にいる。工事の人もかわいがっている」。消息が途絶えたエレンとコレンの情報だ。しかも、2羽とも生きている。

エレンとコレンは翼をけがして北へ帰れなくなったコハクチョウだ。赤井の橋の下は、いわきの夏井川でハクチョウの最初の越冬地になった平窪地区。今は水害復旧工事が進められている。

エレンは一昨年(2021年)の春、三島(小川町)の越冬地に残留した。そこへ幼鳥が1羽飛来した。白鳥おばさんは「コレン」と名付けた。

「コレンは、4月5日にやって来て5月6日にいなくなった」という。およそ1カ月、エレンと共にいた。体力が回復したあと、コレンは本能に従って北を目指したのだろう、と私は考えた。

そのあと、エレンが三島から姿を消す。白鳥おばさんによると、去年5月27日の大水で流された、平窪まで見に行ったがいなかったという。

それからほどなく、白鳥おばさんから電話がかかってきた。三島からざっと2.5キロ下流、夏井川右岸にJAの梨選果場がある。「『選果場の裏にいる』という連絡をもらった」という。私も後日、選果場の下流にいるエレンを確認した。

8月に入るとまたSさんから連絡があった。エレンの姿が見えなくなった。獣に襲われた可能性がゼロではない。が、現時点ではいなくなったということしかわからない。

左の翼をけがして残留したコハクチョウが1羽、偶然にも下小川地区にいた。白鳥おばさんはこちらのハクチョウにも2日に1回、玄米をえさとしてやっていた。

「コレン」と呼んでいるが、エレンと共に三島に一時残留していたコレンとは別の個体だろう。いわば「第二のコレン」。これも、やがて姿を消したらしい。

ふだんは平・塩~中神谷で、日曜日は三島でハクチョウたちを見ながら、エレンたちの幻を追いかけていた。

そこではハクチョウたちのいろんな動きが観察できる。水面から飛び立つ瞬間、あるいは着水するところ。川筋を飛ぶ瞬間は普通のデジカメでも撮影できる=写真。

 それはともかく、久しぶりの朗報だ。この目で平窪にいるエレンとコレンを確かめないと――。

 白鳥おばさんから連絡があった翌日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行く前に、赤井と平窪を結ぶ久太夫橋の左岸たもとから双眼鏡で川面を観察した。ほんとうは岸辺に立つのが一番だが、工事中のために近づけない。

 それもあって、エレンもコレンも、ほかのハクチョウたちも確認できなかった。こうなったら何回か通うしかない。そう決めて隠居へ向かった。

 この日は午後、気温が上昇した。三島の右岸にはハクチョウにえさをやりに来た家族連れでかなりの数になっていた。ハクチョウも慣れたもので、岸辺にいっぱい集まっていた。

2023年2月15日水曜日

喫茶店のマッチ

                      
 若い仲間が来て、酒を飲みながらいわきの喫茶店の話になった。すると、カミサンが若いときに集めたマッチを引っ張り出してきた=写真。

 平の松月堂、花の木、VAN、丘。ほかに、天平(てんぷら)、春木屋(常磐・白鳥温泉)のも。春木屋は今も営業しているが、ほかはどうだろう。

 ここは、おやけこういち著『いわき発・歳月からの伝言3(き~け)』(歴史春秋社、2022年)に当たるのが一番だ。「喫茶店、カフェ」の項目が入っている。

 戦前のカフェの歴史はさておき、昭和30年代に始まった高度経済成長下、日本ではシャンソン喫茶、ジャズ喫茶、歌声喫茶、名曲喫茶などが次々に誕生する。

 いわき地方でも、昭和32(1957)年にはモーニングサービスが始まる。おやけ著に例示された新聞広告から、図書館のホームページを開き、同年5月31日付のいわき民報を閲覧した。

 すると、いわき民報社が経営する「洋食と喫茶ブラジル」だけでなく、銀座通りの「松月の喫茶」(松月堂のことだろう)も、6月1日にモーニングサービスを始めるという広告を載せていた。

 「ブラジル」は「朝9~11時、コーヒー40円」、「松月」は「8~10時、フライエッグ・トースト・コーヒー80円」とあった。

 昭和46(1971)年7月17日付のいわき民報も紹介されている。これも同じようにネットを介して閲覧した。

別刷り「日曜版」で喫茶店について特集していた。いわき市平には大都市並みに多い、という内容だった。

 ちょうどいわき民報社に入った年で、昼は近所の食堂か喫茶店で腹を満たすことが多かった。とにかく、どこにでも喫茶店があった。

 高度経済成長政策と歩調を合わせるように、昭和37(1962)年、平高専(現福島高専)が開校する。2年後、3期生として入学した。

福島県内を中心に「ヤマザル」が平に集まった。先生や先輩、同級生にもまれ、悩みながら考え、考えながら言葉を紡いでいった。そうしないと議論の輪に入っていけなかった。

 そのころ、高校生は喫茶店への出入りが禁止されていた。ところが、高専生はなぜか自由だった。

 『いわき発・歳月からの伝言』を読んで、その背景がわかった。昭和39(1964)年7月、夏休みを前に「石城地区高等学校校外生活指導連盟協議会」が喫茶店への出入りを禁止した。

 高専生は「生徒」ではなく、「学生」であることを先生が言い、先輩が言った。年齢が同じでも「学生」だから、学生服のままでも喫茶店に入ることができた。

 記憶に残る最初の喫茶店は、名前は定かではないが、うなぎの寝床のように細長く狭い平和通りの喫茶店だった。

 その後、いろいろ長居するようになった喫茶店に「丘」がある。いわき民報の当時の新聞広告によると、「茶房 丘」で、ここは朝7時から夜11時までやっていた。

 同級生の親類がやっていた関係で、「じゅん」(三田小路~中町~内郷・御厩町)にもときどき顔を出した。ここは今も営業を続けている。そのころ、喫茶店はつかの間の解放区だった。

2023年2月14日火曜日

国産トリュフの発生に成功

                     
 テレビでトリュフを人工的に発生させることに成功した、というニュースに接したので、発表元を検索したら森林総合研究所だった。

 プレス用の資料=写真=によると、トリュフは日本国内にも自生し、その栽培化が期待されている。同研究所では、「白トリュフ」であるホンセイヨウショウロを人工的に初めて発生させることに成功した。

 栽培技術を確立することで、ホンセイヨウショウロが新たな食材として安定供給される、その風味を生かした加工品の開発など新たな産業の創出が考えられる――。

資料を読んで、近い将来、「栽培トリュフ」が店頭に並ぶようになるかもしれない、そんな期待が膨らんだ。

 ホンセイヨウショウロは、いわきでも発生が確認されている。平成29(2017)年秋、いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の会員が小川町の林道側溝わきでトリュフらしいキノコを採取した。そばにイノシシがミミズを探して荒らしたらしい跡があった。そこに転がっていたのだという。以下は拙ブログの抜粋。

 ――冨田会長はこれをあずかり、『地下生菌 識別図鑑』(誠文堂新光社、2016年)の著者の一人、森林総合研究所の木下晃彦さんに鑑定を依頼した。

結果は、2種ある日本固有のトリュフの一つ、ホンセイヨウショウロとわかった。冨田さんらは後日、裏付けのために現地調査をした。

すると、前よりは少し小さい個体を発見した。これも木下さんによってホンセイヨウショウロと同定された。

 木下さんによると、ホンセイヨウショウロはナッツ様の香りがする、これまで宮城・栃木・茨城・大阪など6府県で確認されており、福島県内では初めての記録だった。

 トリュフは、マツタケがそうであるように、生きた樹木の根に共生して繁殖する菌根菌だ。フランスでは、アブラムシによる被害を受けたブドウ畑のあとに、カシの若木にトリュフの菌根を摂取した感染苗木を植え、トリュフの発生と森林再生の一石二鳥を果たした例がある。

ザッカリー・ノワク/富原まさ江訳『「食」の図書館 トリュフの歴史』(原書房、2017年)に紹介されていた。

トリュフは最初、野蛮人の食べ物とみなされていた。そのうち媚薬効果があると信じられるようになり、王家や貴族が好んで食べるようになった。やがて、オーク(カシの木)を植林してトリュフを増産し、缶詰化する技術も確立して、「世界三大珍味」と持ち上げられるまでになった。

国産トリュフの人工発生に成功したというニュースに触れて、真っ先にこのことが頭をよぎった。

研究所では、ホンセイヨウショウロを共生させたコナラの苗木を、国内の4試験地に植えて栽培管理をしてきた。その結果、茨城県と京都府の試験地で、令和4(2022年)11月、それぞれ8個、14個の子実体発生を確認した。

欧州の例から、日本でも栽培化は不可能ではない、そう確信をもって研究を進めてきたのだろう。次は実用化へ向けた研究・開発になる。

2023年2月13日月曜日

またも南岸低気圧

                      
 またまた福島県浜通りにも雪が積もる、という2月10日の予報におののいた。テレビの気象予報士は、田人で50センチの積雪(予想)をツイートしていた。

1月27日は、やはり南岸低気圧が東進し、海から雪を降らせた。そのときの様子をブログに書いた。こんな具合だった。

翌28日は、いったん3時過ぎに目が覚めた。玄関の戸を開けると、車が雪をかぶっていた。地面もあらかた白い。あらためて朝日が昇ったころ、表に出る。歩道も白い。車のタイヤに圧雪された車道は、アスファルトがうっすら見える状態で凍っていた。

ところが、小川の知人によれば、小川は27日夜、いつもの通り星が見えていた。となれば、小川は平地だけでなく山地も晴れていたのだ。

この情報に背中を押された。夏井川渓谷にある隠居は、水道管が凍結・破損して、台所が水浸しになっていないか。前にそうなったことがあるので、日曜日(1月29日)に急きょ、車を走らせた。

路面はまったく問題がなかった。平地の切り通し(平鎌田)と坂道(平大室)だけがほんの少しアイスバーンになっていた。

そのあとは、日陰でも、坂道でも路面は乾いていた。小川町も雪なしの別世界だった。隠居の一部に雪が残っていた。会津に降った「冬の雪」が中通りを超えて渓谷まで吹っかけたらしい。

それからほぼ半月。2月10日は回覧資料の配布日だった。朝9時前、区の役員さんや担当する隣組の班長さん宅へ車を走らせた。ハラハラと白いものが降ってきた。

これは積もるかも――と覚悟したが、やがて白いものは雨に変わった。夜更けまでずっと雨だった。

いわきはハマ・マチ・ヤマの広域都市だ。平地と山地、南と北とでは天気が全く違うことがある。渓谷は、その意味では平地と山地の中間地帯といってもよい。

翌朝、わが家の庭を見ると、雪はない。西に連なる阿武隈の山もいつもと変わらない。半月前と同じだ。ということは、渓谷も雨だったのだろう。

日曜日(2月12日)は渓谷の小集落で臨時の寄り合いがある。連絡がきて参加することを伝えた。

このため、土曜日の夕方、渓谷の知り合いに電話を入れた。道路は乾いているという。いつものように厚着をして出かけた。半月前と同じく、道路に雪はない。隠居の庭の畑にスコップを入れると、すんなり入っていく。極寒が過ぎたことを知る。

それだけではない。下の庭を巡ると、フキノトウが肥大していた=写真。プラムの切り株に発生したエノキタケが大きくなってとろけ始めていた。庭を歩くだけでじんわり汗ばんできた。

あとでいわき市山田町の最高気温を確かめると、16.2度だった。この冬一番のポカポカ陽気だ。

やはり、三寒四温。また南岸低気圧がやってくる。きょう(2月13日)も未明から雨になった。とはいえ、これは植物の芽生えを促す慈雨には違いない。

2023年2月12日日曜日

ペンタゴン・ペーパーズ

                                
   BSプレミアムで先日(2月7日)、「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」を見た。ホワイトハウスとワシントン・ポストの確執を描いた映画だ。現実にはニューヨーク・タイムズが機密文書をすっぱ抜き、ワシントン・ポストが後から追いかけた。

手元には図書館から借りてきた、スティーヴ・シャンキン/神田由布子訳『権力は嘘をつく――ベトナム戦争の真実を暴いた男』(亜紀書房、2022年)があった=写真。こちらは、この機密文書を持ち出した権力内部の人間に光を当てている。

同書は去年(2022年)秋、図書館の新着図書コーナーにあったのを借りて読んだのが最初だった。その後、何回か借りて読み返している。

泥沼化したベトナム戦争と権力者の思惑が描かれる。一人はジョンソン大統領、もう一人はニクソン大統領。

『権力は嘘をつく』の主人公は、「軍事アナリスト」としてペンタゴン(国防総省の本庁舎)で働いていたダニエル・エルズバーグだ。

ジョンソン政権下、マクナマラ国防長官が部下に指示してまとめた機密文書の報告書がある。「アメリカのベトナム介入を1945年までさかのぼり、時代ごとに調査、研究したもので、やがてこの報告書は『ペンタゴン・ペーパーズ』として悪名をはせる」ことになる。

研究チームのリーダーから誘いを受けて、エルズバーグは自分の知識を深めるために参加する。

その彼が、ジョンソンからニクソンへと大統領が代わったあと、ペンタゴン・ペーパーズを持ち出してコピーし、メディアにリークする。

「ベトナム戦争が権力者のメンツや選挙対策によってエスカレーションしていくことに疑問」を持ったからだという。

本のPR文を借りれば、「なぜ権力者たちは戦争を止めないのか? 彼らのメンツは、兵士や市民の命より大切なのか? 報道の自由とは? 国民の『知る権利』とは? 戦争の構造は、変わらない。権力者は、その力の維持を自己目的化していく」

その権力の欺瞞を暴いたのが「ウオーターゲート事件」だ。ニクソン側の人間がエルズバーグを追う、その一味がまたウオーターゲート事件を起こす。『権力は嘘をつく』のなかでウオーターゲート事件が取り上げられていたのはそのためだった。

アメリカに限らない、権力の裏側ではこうしたことが日々、繰り返されているのではないか――そう思わせるような事例でもある。

日本でいえば、アジア・太平洋戦争のときの「大本営発表」がある。「新聞用紙の配給」を武器にメディアの統制がはじまり、勝っているうちにはそれなりに正確だった「大本営発表」が嘘で塗り固められていく。

ロシアのウクライナ侵攻から間もなく1年。そこでもまた、プロパガンダが行われていることだろう。

2023年2月11日土曜日

手前みそ

                      
   いわき昔野菜保存会では、昔野菜フェスティバルのほかに、「じゅうねんドレッシング作り」(じゅうねんはエゴマの方言)、「おいしいみそ作り」などの体験教室を開いている。

 この3年、フェスティバルが中止になったり、映画「SEED~生命の糧~」の上映イベントが1年延期(先日開催)されたりと、コロナ禍の影響をもろに受けている。しかし、それはほかの団体も同じだろう。

 そのなかで、去年(2022年)も手前みそ作りが行われた。今回はこの手前みそのお福分けにあずかった=写真。

 私はみそ作りに参加したことはない。昔野菜保存会らしい取り組みなので、保存会の会報などを参考にして、原材料や作り方をおさらいしてみる。

 原料の大豆は、いわき市田人町荷路夫地区で栽培が確認された在来種の「さとまめ」だ。市が発行した『いわき昔野菜図譜』(2011年)によると、種皮は少し赤みがかった茶色をしており、主に甘納豆や豆腐、みそに加工されている。なかでも、みそはやさしさを感じる色合いに仕上がる、という。

先日開かれた上映イベントで、参加者から「いわきの豆類」の現物見本をちょうだいした。もちろん、さとまめも入っている。横に長ひょろい緑色の「あおばた」と違って、丸くて小さい。直径は8ミリほどだ。

実は去年秋、保存会の事務局から、さとまめみそができた、私の分として1キロ取ってある、いつでも取りに来て――。うれしい連絡が入ったが、そのままにしていた。結局、上映イベントの当日、事務局からじかにいただいた。

去年の手前みそ作り教室は5月中旬に開かれた。講師の新妻ゆき子さん(大久)によると、ヤマブキの花が咲くころ、麹の出来が最高になる。

仕込んだみそは秋まで涼しい場所で保管する。土用のころ(7月中旬)に一度、天地を返す。そうして夏を越せば完成、だそうだ。

同保存会の会報「ROOT(ルート)」第5号(2020年5月発行)に手前みそ作り教室の記事が載っている。

それによれば、大豆はさとまめのほか、あおばたや黒豆でも可で、事前に準備した米麹を合わせて仕込む。それを各自、タッパーに入れて持ち帰り、天地をひっくり返して夏を越せば、秋にはもう手前味噌が食べられる、ということのようだった。

みそ作りは寒仕込みが定番だが、麹が一番いいときを見定めて、初夏に仕込むというところがミソらしい。

ヤマブキの花と麹の関係を聞いて思い出したことがある。夏井川渓谷の小集落で、古老からこんな話を聞いたことがある。「キンモクセイが咲くとマイタケが採れる」(平地では「キンモクセイが咲くとハクチョウが間もなく飛来する」だろうか)

食文化は風土と結びついている。つまり、風土はフード。語呂合わせだが、意外と本質を突いているのではないかと、あらためて思った。

2023年2月10日金曜日

「うつろ舟」

                     
 藝文風土記「常陸国うつろ舟奇談」の謎――。「常陽藝文」2023年2月号が、UFOのような円盤状の舟について特集していた=写真。

 江戸時代後期の享和3(1803)年、常陸国の海岸に円盤に似た舟が漂着する(正確には、沖に漂っているのを浜の人間が見つけ、船を出して引き揚げた)。船内には奇妙な文字が書かれ、箱を持った異国人のような美しい女性がひとり乗っていた――そんな前文から特集が始まる。

 江戸時代のミステリー「常陸国うつろ舟奇談」は、舟の漂着から20年ほどたった文政8(1825)年、滝沢馬琴が編纂(へんさん)した奇談集『兎園(とえん)小説』に収められたことで広く知られるようになった。

 水戸市の常陽史料館で3月19日まで、企画展「不思議ワールド うつろ舟」が開かれている。それと連動した特集だろう。

 細かい話は省略するが、現代のUFOを連想させるような舟のミステリーが近世にあったことに驚いた。

 で、「うつろ舟」をもっと知りたくて図書館の本を検索したら、風野真知雄著『耳袋秘帖 妖談うつろ舟』(文春文庫、2014年)に出合った。

 「常陽藝文」では奇談をモチーフに、澁澤龍彦が小説に仕立てていることを紹介していた。それも図書館から借りて読んだ。

 風野真知雄の作品は初めてだった。しかも作者は須賀川市在住と、ネットにあった。膨大な作品を書いている。同じ福島県人ではないか。そういう“身びいき”を割り引いても、『妖談うつろ舟』はおもしろかった。一気に読んだ。

 「常陽藝文」の特集と同様、馬琴らの『兎園小説』の紹介から始まる。それを枕にしながら、作者は「漂着」とは逆の「渡海」の物語を展開する。

 「さんじゅあん」という新興宗教の教祖のような人物が登場する。その教祖がこの世から楽土へ向かうための舟だった、ということが次第に明らかになる。

 異国の女性は、小説ではそう演じる日本女性で、名を「まりや」といった。まりやは苦界に身を落とすところを、さんじゅあんに救われた(さんじゅあんの「さん」は「聖」、じゅあんは寿安、つまり「聖・寿安」だろうか)。

 2人はやがて結ばれる運命らしい。「わたしは神の子。この世の真実を告げ、最後は神によって救われると説く。お前はまりや、やがて、わたしとのあいだにうまれる神の母になる女だ」

 さんじゅあんは牢に入れられ、駕籠(かご)で移動中に事故死する。遺体は信者たちに引き渡される。

 安房にはさんじゅあんを慕う者たちが移り住み、新しい村ができた。まりやはそこへ戻り、信者たちに奇妙な舟をつくらせる。さんじゅあんが乗って、遠くへ旅立つのだろうと、信者たちは思った。

 さんじゅあんの死を知らないまりやは、「海をさまよっていた。さんじゅあんが乗るはずだったあの奇妙な舟に乗っていた」というところで物語は終わる。つまり、現実の「兎園小説」に還(かえ)る。みごとな連結というべきか。