2013年10月31日木曜日

二ツ箭の雲

日曜日(10月27日)、草野心平記念文学館のカフェで昼食をとった。文学館は丘の上にある。眼下に小川の里が広がる。そのうしろに里を守るようにでんと立っているのが、男体、女体二つの岩場に分かれた頂きをもつ二ツ箭山。

山頂の上に綿雲が浮かんでいた=写真。「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」。青空に浮かぶ綿雲を見ると、決まって山村暮鳥の詩を思い出す。次から次に現れては去っていく。ふもとを覆う黒い影が動いている。この影もまた綿雲だ。

山の背中から肩口を巻くように駆け下っているのは、東電の広野火力発電所の送電鉄塔。送電線はこのあと夏井川をまたぎ、三和町の新いわき開閉所に接続する。

原発事故のあと、国土地理院の電子地図で福島第一原発(双葉・大熊町)、同第二原発(富岡・楢葉町)、広野火発(広野町)からの送電線が、どこを通って首都圏に向かっているのか確かめた。送電線は海岸部から西の阿武隈高地に向かい、そのあと山中を南下していた。

田村市都路町古道に南いわき開閉所がある。いわき市三和町中寺に新いわき開閉所がある。東電の両施設は送電線でつながっている。電気の交差点だろう。

過酷事故を起こした第一は発電所としての機能を喪失した。間一髪で危機を回避した第二は冷温停止状態にある。すると、両原発はどこから外部電源を手に入れるのか。

2012年1月中旬、南いわき開閉所でトラブルが発生した。報道によると、瞬間電圧低下で第一、第二の使用済み燃料プール冷却装置などが一時停止をした。関東など広範囲で瞬間的に停電が発生し、工場では機械の稼働に問題が生じた。東北電力の女川原発の使用済み燃料プールの冷却ポンプも一時停止をした。

東電と東北電の送電網はつながっている。東電の電気でトラブルが起きたとしたら、それは広野火発から供給されたものではないか。

3・11の前と後では、同じ風景でも見方が違うようになった。送電線と鉄塔は自然景観を損ねる人工物には違いないが、原発事故収束に欠かせない“動脈”でもある。二ツ箭山の送電鉄塔を見るたびにトラブルなど起きないように――と、胸のなかで手を合わせる。

2013年10月30日水曜日

太陽の力

夏井川渓谷の隠居(無量庵)に備えてある、ふとんやタオルケット、丹前、座ぶとんを干した=写真。初夏と晩秋の2回、天気のいい日曜日に、寝具などにこもった湿気を取る。日光に当たった寝具類はふかふかしていい匂いがする。太陽の力を実感するときだ。

週末の曇雨天が晴天に変わった10月27日。早朝の一斉清掃を終えて、無量庵へ車を走らせた。

そこは戸数10戸に満たない、隠れ里のような谷間の小集落。テレビの紅葉情報で「色づき始め」を知ったのか、行楽客がチラホラ姿を見せるようになった。東日本大震災から3年目の秋、紅葉でも――という心のゆとりが生まれたのだろう。一昨年、昨年と行楽客はさっぱりだったが、今年はにぎわいが戻ってきそうな予感がする。

地面が湿っているので、少し時間をおいてから、カミサンがウッドデッキ、庭のテーブル、車の上に寝具などを広げた。

こちらは久しぶりに対岸の森へ入って“キノコ撮り”をした。10月下旬にはクリタケが発生する。アミタケとオウギタケがそろって顔を出す。原発事故さえなければ何度も森に入っているはずだが、今年はまだ3回目だ。森を巡っても、採らずに撮るだけだ。キノコはしかし、ほとんど見かけなかった。

正午前、子ども用の花火の音がした。イノシシが出たか! 誰が花火を打ち上げたかはわかっている。見当をつけて訪ねると、図星だった。

追っ払った相手はしかし、イノシシではなくてカラスだった。隣の隠居(母上の家)に入り込んで食べ物などをくわえていくのだという。街のカラスと違って、山のカラスは人間の生活の中に溶け込んでいる。いや、鳥や虫たちの世界に人間が入り込んでいる。ある意味ではカラスも、イノシシも隣組の一員だ。

少し彼とキノコ談議をした。「マツタケはさっぱり採れなかった。毒キノコも出なかった」という。夏に猛暑が続いて山が乾燥していたから、無理もない。キノコには、太陽の力が逆に作用した。

山里に限ったことではないが、過剰にエネルギーがはたらくこともないわけではないが、人間はおてんとさまの力をうまく利用しながら暮らしていくのが一番だ。

2013年10月29日火曜日

「みみたす」再び

FMいわきのPR誌「みみたす」10・11・12月号を読む=写真。7月最終日曜日に、草野心平記念文学館で初めて「みみたす」(7・8・9月号)を手にした。新しい企画展「サイデンステッカー カエル・コレクション展」が始まったので、日曜日(10月27日)に文学館へ足を運んだら、最新号が置いてあった。

前号は草野心平のふるさと・小川町の特集だった。さてさて今回は? 夏井川を軸にして小川町の上流に位置する川前町の探訪記事が載る。小川のときは「胡瓜(きゅうり)をめぐる冒険」で、今回は「川前散歩ぷかぷか」だ。葉タバコ生産地としての川前を紹介している。それで、煙のようにぷかぷか川前を散歩した、ということなのだろう。

最初に取り上げたのは、国指定天然記念物の「沢尻の大ヒノキ」。ヒノキとあるが、樹種はサワラだ。樹高約34メートル、目通り幹回り9.5メートル。日本最大のサワラで、それ自体森のような巨樹だ。樹下に立つと、たちまち巨樹の存在感、生命力、霊性に包まれ、心が浄化される。

推定樹齢800年。1100年余も前の貞観地震は経験していないが、その後の天変地異は年輪に刻んでいる。小さな集落を見守るように、野中にでんと立っている。なにか思い屈するものがあるとき、会いに行くと木霊(こだま)に慰撫される。元気がよみがえる。川前の、いやいわき市の誇る自然・歴史遺産のひとつだ。

そして、本題の葉タバコである。阿武隈高地、なかでも川前に接する田村郡は全国有数の葉タバコ生産地だった。私は、家が床屋だったが、周囲の畑の葉タバコを見ながら育った。

隣家が農家だった。子どものころ、夏休みになると隣家の山の畑へ出向き、小屋で縄に葉タバコをはさむ手伝いをした。冬は夜、隣家で茶色く縮れた乾燥葉タバコを伸(の)す手伝いをした。いずれも小遣い稼ぎだ。「川前散歩ぷかぷか」から、一気にそんなことを思い出した。

いわきの平地の人間は、山間部の葉タバコ栽培にはなかなか思いが至らない。「みみたす」の探訪記者はそこにちゃんと目がいった。阿武隈高地で生まれ育った人間にはうれしい紹介だった。

最後は、「品質日本一」の川前インゲンの素揚げを紹介している。素揚げしたインゲンをおろしショウガとめんつゆ、あるいは醤油につけて食べる。同じ山あい、川前の夏井川の対岸・三和町で教えられたのは、ショウガの代わりにおろしニンニク醬油を使った食べ方だ。この夏もちょくちょく酒のつまみになって出た。風土がはぐくんだ山里の食文化は個性的で、多彩で、深い。

2013年10月28日月曜日

秋の清掃デー

日曜日早朝6時半、各家から人が出て清掃が始まる=写真。主に道路沿いのごみを拾い、車道と歩道を分ける縁石の草を取り、いわき市から支給・配布された専用のごみ袋に詰める。小一時間もすれば、あらかた家の周りはきれいになる。あとは指定の場所にごみ袋を出しておけばいい。やがて収集車が来てごみ袋を回収していく。

事前に団体(行政区)としての清掃実施計画書をいわき市役所に提出し、回覧で住民に実施日時と内容を知らせ、ごみ袋を配布しているからこそできる役割分担(協働作業)だ。

いわき市は昭和57(1982)年度から年2回、「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」を実施している。6月と10月のある週、金・土・日の3日間、テーマを決めて環境美化活動が展開される。

金曜日は「清潔な環境づくりをする日」(学校や事業所周辺の清掃)、土曜日は「自然を美しくする日」(海岸や河川の清掃)「みんなの利用する施設をきれいにする日」(公園や道路の清掃)、日曜日は「清掃デー」(市内の全家庭周辺の清掃)と分けられているが、もちろん前倒しも、まとめての実施もOKだ。

今年の秋の総ぐるみ運動は25、26、27日に実施された。最終日「清掃デー」の様子を、冒頭に記した。

今年で31年目の、いわき独自の総ぐるみ運動だが、原発震災の発生で中身が変わった。側溝清掃は原則実施しないように、という。なぜか。土砂の受け入れ先が確保できないからだ。

ごみ拾いのほかは草取り程度の軽作業のために、作業時間が30分程度に縮まった。しかし、側溝の泥上げをしないことで大雨時に歩道が冠水しやすくなるのではないか、という心配も年々ふくらむ。

放射能はいったん環境にばらまかれると、煮ても焼いても消えない。埋めても沈めても残っている。ここから去ってもそちらに現れる。そのうえ、地域の美化活動でさえも制限が生じ、二次的に水害の懸念をもたらす。ほんとうに始末が悪い。

2013年10月27日日曜日

アウターライズ地震

きのう(10月26日)の続き――。きのう午前2時10分ごろ、福島県のはるか沖で発生した地震で、沿岸部に津波注意報が発令された。相馬では40センチの津波が観測された。3・11の余震だという。

強くはないが、長い地震だった。3・11を想起した。すっかり目が覚めた。テレビ=写真NHK)=とインターネットで情報を集めた。

緊急時には、フェイスブックやツイッターの方が、情報を早く広く拾える。体感したこと、ニュースで知ったことを、いろんな人が次々にアップする。中に、地震に詳しいと思われる人のつぶやきがあった。

「正断層ですね」「USGSだとM7.3。震源の位置的に海溝の外側。アウターライズ型でほぼ決まり」

「アウター」は日本海溝の外側、「USGS」はアメリカ地質調査所で、そこの速報値ではマグニチュード7.3。気象庁は最初、マグニチュード6.8と発表し、あとで7.1に修正した。夜7時のNHKニュースで、ツイッターにあった通りに、津波が心配される正断層型のアウターライズ地震だと知った。

マスメディア(テレビや新聞)の情報は、正確かもしれないが遅いときがある。ソーシャルメディア(フェイスブックやツイッター)の情報は主観的かもしれないが、周りの状況や様子がリアルタイムでわかる。新しい知見も得られる。「アウターライズ型」がそれだった。

3・11後は自分のなかで、マスとソーシャルの両方から得られた情報を比較・統合しながら、地震や津波の規模、そして何より福島第一原発への影響を探るようにしている。その繰り返しのなかで思うのは、震央地名としての「福島県沖」とか「福島県浜通り」では漠然としすぎている、ということだ。

東日本大震災は2年7カ月が過ぎてもまだ現在進行形で、思い出したように大きな余震がくる。で、被災者としては震源(震央)が「福島県浜通り」なら、具体的にどこなのかを突き止めないと落ち着かなくなった。

アウターライズ地震も「福島県沖」ではピンとこない。「福島県はるか沖」といった使い分けがあってもいいのではないか。市民、つまり被災者はおそらくそんな思いでいる。

2013年10月26日土曜日

紅葉情報

紅葉前線は北から南へ、高山からふもとへと下りてくる。福島県内のローカルテレビでも毎日、その情報が流れるようになった。「紫外線情報」や「積雪情報」と同じく、人間の暮らしや仕事・レジャーと結びついた季節限定情報だ。

いわき市内では夏井川渓谷=写真=の紅葉の状況がわかる。カエデのマークの下に「青葉」とあったのが、「色づきはじめ」に変わった。

夏井川渓谷には隠居(無量庵)があるので、この18年、定期的に通っている。どこで、だれが紅葉の有無をチェックするのか――確かめたわけではないが、だいたい見当がつく。無量庵の近くに旅館がある。今は代替わりしたが、経営者が、春はアカヤシオの開花時期を、秋は紅葉の時期を観察している。その情報が反映されているにちがいない。

「紅葉情報」の対象がカエデだけだとしたら、夏井川渓谷の中央部はまだ青葉だ。ツツジ類、ヤマザクラ類、その他の落葉広葉樹ならまだらに赤く染まってきた。それらはしかし、だいぶ前から色づいている。「色づきはじめ」は溪谷でも上流のカエデ類なのだろう。

今週の火曜日(10月22日)午後、1カ月ぶりに無量庵へ出かけた。用事が次々にできて、週末の渓谷行きがままならなかった。この間に、造園業の知人に頼んで庭の草を刈ってもらった。遅ればせながら、夏座敷を冬座敷に替えた。障子をはずしてすだれを掛けていたのをもとに戻しただけだが、冬の備えはひとまずできた。

11月に入ると、カエデの紅葉が見ごろになる。赤松とモミの常緑、岩場、そして多彩な紅葉の組み合わせが、天然の錦繍となって広がる。11月10日には無量庵の隣の広場・錦展望台を発着会場に「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれる。今年も谷間に人語が満ちることだろう。

以下は、付録――。

きょう(10月26日)未明、福島県沖(宮城県牡鹿半島の東南東290キロ付近)を震源とする地震があった。9月20日未明の直下型地震と違って、3・11を連想させる長い地震だった。津波注意報が出た。テレビとインターネットで情報を探した。

津波注意報は最初、福島県限定だった。小一時間たって岩手から千葉県までに拡大した。福島限定ってありうるのか――首をかしげた。

もうひとつ。ツイッターをウオッチしていたら、「朝まで生テレビ」は生ではなかった、看板に偽りあり、といったつぶやきにでくわした。確かめるとその通りで、「直前に収録したものを放送しています」という、弁解のテロップが画面に表示されていた。がっかりした。腹が立った。こういうでたらめがメディア不信を増幅する。

2013年10月25日金曜日

台北故宮展

1週間前の、いわき民報の「くらし随筆」には笑い、同情した。冒頭にこんなことが書いてあった。金曜担当の筆者が台湾の観光名所・九份=写真=を視察研修中、いわき民報の担当者から連絡が入った。「昨日頂いた随筆の原稿は最終回用のようですが、一週まだ残っているんですが……」。じぇじぇじぇ!となって、旅行気分も吹き飛んだ。

「くらし随筆」は市民が3カ月間、月曜から土曜日まで日替わりで健筆をふるう。現在の筆者は8~10月が担当で、きょう(10月25日)から順に筆を擱(お)く。その金曜日の筆者が1週間早く、自分を「締め切り」から解放してしまった。その結果、「早めに書いた原稿が空を切り、またまたギリギリに書いております」という事態になった。

2010年9月下旬に高専の仲間と台湾を旅行した。台風の直撃を受けたため、新幹線を利用しての高雄行は中止となったが、台北を中心に北部の烏来・野柳・九份と観光名所を巡った。

野柳の海岸ではアミガサタケの形状とそっくりのキノコ岩をながめ、九份では映画「非情城市」の舞台となった、マッチ箱を並べたような家並みの続く石段を昇って降りた。九份のレストランには、経営者の父か祖父かはわからないが、日本語を話すじいさんがいた。しばらく歓談した。子どものころに習ったという日本の歌まで披露してくれた。

そして、台北。国立故宮博物院の文物を、時間をかけて見た。北宋・汝窯青磁の最高峰といわれる「青磁無紋水仙盆」の青には引かれた。青磁は「雨過天晴雲破処(うかてんせいくもやぶれるところ)」から生まれた。同博物院のHPによると、この名品は「雨上がりの空の青の如く明るく静けさに満ちた美しさ」をたたえている。

10月17日の全国紙が、2014年6月から11月いっぱい、日本で「台北故宮展」が開催されることを報じた。翌18日にはいわき民報に九份発の随筆が載った。至宝に出合える喜びと、台湾で「締め切り」に追われる随筆筆者の苦しみとで、ヒトゴトながらいい読後感を味わった。

かつて日本が統治した是非はともかく、台湾を懐かしく思うと同時に、東日本大震災ではどの国よりも多い200億円超の義援金を寄せてくれたことを、ありがたく思い出したのだった。

2013年10月24日木曜日

イワシの行列

小名浜のアクアマリンふくしまで、久しぶりに生きた魚を見た。イワシの群れ=写真=に出合って、すぐ思い出した書画がある。

8月28日から9月8日まで、北茨城市の天心記念五浦美術館で無料のキルト展と書画展が開かれた。キルトは地元・茨城県常陸太田市の女性の作品、書画はいわき市の菅原吾法さんらの作品(掬墨画塾同志展併催)が展示された。キルトが目当てのカミサンを車に乗せて、最終日に出かけた。

「稚魚行列」と題された菅原さんの横長の書画は、今思えばイワシに似た小魚の群泳図。画面左の方へと魚たちが一斉に泳いでいるリズミカルな構成だが、中に1匹だけ反対向きの魚がいる――と、作品の下に張られた紙が種明かしをしていた。

たまたま知り合いのカップルが見にきていて、3人で目を凝らしたが……。10分がたち、20分がたっても探し当てられない。作者本人に教えてもらって、やっとわかった。「子どもは簡単に見つけますよ」。「星の王子さま」ではないが、とっくの昔に「ゾウをのみこんだウワバミ」を「帽子」と見誤る大人になっていた。ぐうの音(ね)も出ない。

「稚魚行列」の寓意は「大勢に順応しない」「わが道をゆく」、あるいは「人と違ったことをする」といったところだろうか。

わが道をゆくイワシがいるかと目を凝らしたが、実際にはだれが指示するわけでもないのに、そろって旋回・反転、上昇・下降を繰り返している。シンクロナイズドスイミングだ。秋空を群れ飛ぶムクドリも同じようにシンクロする。隣の個体とだけいつも同じ距離を保つ、というメカニズムが生まれつき備わっているのだろうか。

3階オセアニックガレリアには「俳句の季(とき)コンテスト」の入選作品が展示されていた。タイミングよく、夕刊に記事が載った。そこから最優秀賞のひとつを引用する。「冬空にアザラシの子の宙返り」。魚が水中を飛び、鳥が空中を泳ぐ――しばし少年の心に帰って夢想を楽しんだあとだったので、句意がよく理解できた。

2013年10月23日水曜日

あっぱぐち

スパリゾートハワイアンズのホテルで中学校の同級会が開かれ、翌日、アクアマリンふくしまへ足を延ばした。宴の夜のあとには頭痛の朝がくるものだが、ロビーに集合した面々はいたって元気そうだった=真。

何時間かたっぷりふるさとの言葉に浸かった。福島県中通りの中央部、阿武隈高地の最高峰大滝根山(1193メートル)の北西麓に広がる町がふるさと。語尾は「~だっぺ」のいわきと違って、「~だばい」「~だない」と一音多くつく。「行くべ」は「行くべー」、「~した」は「~しただ」になる。

宴会で世話人の一人があいさつした。口元がなにかおかしい。酒を注ぎにきて“告白”した。入れ歯だという。「あっぱぐちしてたら歯をほうろった」(ぽかんと口を開けていたら入れ歯がはずれて落ちた)こともあるとか。「あっぱぐち」「ほうろった」。久しぶりの“母語”に周りの人間が大笑いした。

中通りののんびりした「~だばい」で育った少年には、浜通りのせっかちな「~だっぺ(だべ)」が荒っぽくて怖かった。“老少年”になった今はすっかりその言葉がしみこんでいる。「~だばい」が飛び交う中で「~だっぺ」を使っている自分を、もう一人の自分が苦笑しながら見ていた。

夜も朝も昼も、大きな声を出して仲間を笑わせる人間がいる。参加者全員に、彼のつくった新米と三春のゆべしがお土産として配られた。新米は帰宅してすぐ食べた。うまかった。「ほうがい」(そうかい)「飲みんせー」(飲みなさい)」「しんせー」(しなさい)と“母語”を連発する道化役が健在なのはいいものだ。こちらまで元気になる。

さて、同級会の会場をスパリゾートハワイアンズに決めた理由のひとつが、首都圏との間を運行している無料送迎バスだった。指定された乗り場に来るだけで目的地に着く。こんな楽な道中はない。福島県中通りからの参加者もマイカー組を除いてバスをチャーターしてやって来た。地元いわき勢は、5年前がそうだったように仲間が車を出してくれた。

5年後は70歳。同級会を開くにしてもそれが最後だろうか。その前に「毎年やったっていい」「今度もハワイアンズで」といった声が聞かれた。「んだない、そうすっかい」となると、いわき勢としてはうれしい。

2013年10月22日火曜日

同級生たちの3・11

昭和39(1964)年3月に現田村市常葉町の中学校を卒業した。20歳のときから5年ごとに同級会を開いている。10回目、65歳の今年は20~21日、いわき市常磐のスパリゾートハワイアンズで開かれた。ハワイアンズに一泊し、翌日、小名浜のアクアマリンふくしま=写真=を見学した。全体の5分の1にあたる40人余が参加した。

5年前の同級会で、「次はいわき開催」が決まっていた。いわきに住む人間が事務局を引き受けるべきなのだが、東日本大震災が発生した。結局、いつものように常葉町の同級生が準備を進めた。結果的にいわき支援の同級会になった。

3・11には首都圏も“帰宅難民”が出るほどの揺れに見舞われた。と同時に、ふるさとを遠く離れている同級生は、実家や親類、同級生の安否が気になったことだろう。そのときどうだったのか、が話題になった。

いわき勢の3・11は――。四倉町内で店を開いているA子さん「駐車場まで津波が押し寄せてきた」。滑津川河口近くに家があるB子さん「川の堤防から逆流してきた水があふれだしたので、怖くなって逃げた」。双葉郡からふるさとの近くに原発避難をした人間もいるという。幸い、同級生のなかに犠牲者はいなかった。

いわき民報社発行の『東日本大震災特別報道写真集/保存版 3・11あの日を忘れない いわきの記憶』を持参し、アクアマリンへのバスの中で見てもらった。ハワイアンズ、小名浜港、アクアマリン、街並み……。見た目はきれいになったが、あのときは甚大な被害に遭ったのだ。

昭和31(1956)年4月17日夜の強風下、「常葉大火」で焼けだされた同級生が私を含め十数人いる。小学2年に進級したばかりで町の中心部が焼け野原になった。ずっと向こうまで何もない“異空間”と化した。ガレキが撤去された津波被災地について、「常葉の大火と同じだと思えばいい」という私の言葉にうなずく同級生がいた。

その同級生は、妻が伊豆大島の元町出身だ。今度の土石流で知人が亡くなったという。私たちは“災害列島”で暮らしていることを実感しないではいられなかった。

2013年10月20日日曜日

中学の同級会へ

10月に入ったとたん、わが行政区と個人で所属している団体、自分の仕事が、三つ巴になって押し寄せてきた。締め切りのあるものがほとんどだ。その合間に、いわきサンシャイン・フェスタ、小名浜絆まつり=写真=と、2週続けてカミサンを小名浜へ送り届けた。初旬の動きを記すと――。

2日、市役所へ。27日の一斉清掃の事業計画書を出し、ごみ袋340枚を受け取る。併せて、ある隣組から要望のあったごみ集積所変更申請書をもらう。3日夜、神谷公民館。11月の青少年育成事業「歩こう会」の打ち合わせ。4日、ごみ集積所変更申請書を市役所に提出。

5日早朝、カミサンをいわきサンシャイン・フェスタの会場へ送る。同日昼前から午後いっぱい、いわき地域学會の仲間と市民講座・巡検・会報原稿募集の案内文書を印刷。6日、再びカミサンを車に乗せて小名浜へ。「日曜日だから休め、休め」とささやく自分がいて、ネジを緩めてサンシャイン・フェスタの会場で過ごす。

7日、地域学會の案内文書を郵送。8日、若い仲間(古本屋)が来てダンシャリの本を持っていく。9日、行政区内の回覧物(行政文書)を班(隣組)ごとに振り分け、担当の役員さんに届ける。

中旬もまた、余震で落下したコンクリートブロックを若い仲間の軽トラで仮置場に運搬したほか、役所関係の会議と広野・楢葉行、地元の神社祭礼式典への出席、好間公民館の夜の講座、地元事業所への区費協力のお願いと、日替わりで用事に追われた。

ルーチンワークの現役時代と違って、毎日、用事が変わる。これだけ予定が立て込むと、前の晩に確認し、当日の朝も頭に入れるので、かえって忘れないようになるらしい。9月は逆に二度も予定を忘れて、他地区の区長さんから電話が入り、あわてて駆けつけるようなことがあった。

ひとまず当面の用事をすませたために、きょう(10月20日)とあすはすっきりした気持ちで中学校の同級生に再会できる。

私は中通りの現田村市常葉町の中学校を卒業した。20歳から5年ごとに同級会が行われている。前回、郡山・熱海温泉で開かれた際に、「次回はいわきで」という話になった。この間に東日本大震災が発生した。地震・津波、原発事故でひどい目に遭っている浜通りを支援しようという名目が加わった。

正午過ぎには近所に住む同級生の車に便乗して、会場のハワイアンズへ向かう。行政区の仕事も、地域学會の仕事も家に置いて、“老少年”の時間を楽しんでこよう。(あしたのブログ休みます)

2013年10月19日土曜日

鼻水が垂れる話

庭のホトトギスが次々に花をつけている=写真。10月も、はや中旬の終わり。日中は暑くても、日が沈むと寒気に包まれる。今週に入って、朝、鼻水が垂れるようになった。夜の食卓兼机代わりのこたつをオンにし、長袖シャツの上にベストをはおった。秋冷の気に、いよいよホトトギスの花が冴えかえっている。

今週、たまたま連続して双葉郡の空き巣の話を耳にした。これらも鼻水が垂れるくらいに寒々しいものだった。

広野町は出入りも、寝泊まりも自由になった。が、夜は怖くて泊まれない、という。聞けば、家が空き巣被害に遭った。いわき市で暮らすのが便利なので帰らない人も多いが、防犯面から帰還をちゅうちょしているのだという。

その空き巣が、富岡町の例だとかなりみみっちい。1階も、2階も荒らされた。醤油や革靴、衣類まで盗られた――と話すおばあさんがいた。いわきで避難生活を送っているから、最近か、ずっと前かはわからないが、一時帰宅をしたときのことだろう。

震災で店のシャッターの柱が折れ、閉まらなくなった。そのすきまからしのびこんだという。四本足の生きものが悪さをしないとも限らないが、衣類までは……。

もう一例。一時帰宅をしたら、わが家からテレビを抱えて出てくる隣のじいさんと鉢合わせをした、という話も伝わってきた。じいさんは一時帰宅をしていたが、まさか隣家の人も同様に一時帰宅をするとは思わなかったのだろう。

震災直後、外国メディアは日本人の我慢強さや忍耐力、助け合いや思いやりの精神を称賛した。一方で、2011年の双葉郡内の空き巣被害は前年の約30倍、20件から594件に急増した、という新聞記事に、なにが思いやりだ、なにが助け合いの精神だ、と思ったものだ。

出入りが自由になると空き巣が増える。懸念されたとおりになっているようだ。お天道様はお見通しだし、星はなんでも知っている――ということを知らない人間が増えてきたのだろうか。

2013年10月18日金曜日

災害公営住宅

夏井川の下流域にあるわが家から小名浜へ行く最短ルートは二つ。沿岸部の県道小名浜四倉線に出るか、内陸部の国道6号バイパスにのる。同じ道の往復ではつまらないので、たいがい違った道を行って戻る。沿岸部には津波被害に遭った沼ノ内、豊間、薄磯、永崎などがある。

県道沿いで沼ノ内、豊間の災害公営住宅の建設工事が進められている。薄磯は県道から海岸に向かう道路の中間、細長い田んぼで敷地づくりが行われている=写真。沼ノ内は畑で埋め立てが不要だったため、早くも集合住宅の骨格が見えてきた。

いわき市復興交付金事業計画によると、沼ノ内は集合40戸、薄磯は集合170戸・戸建て10戸、豊間は集合・戸建て190戸ほどができる。この3地区で津波被害に遭い、借り上げ・応急仮設住宅など一時提供住宅に入居しているのは約640世帯に及ぶ。

県道沿線の風景がこの2年半で少しずつ変わってきたのを実感する。発災直後はガレキの山の中を行き来した。道路だけ、利用できるようにガレキが取り除かれていた。

その後――。ガレキは片づけられた。見晴らしがよくなったために、海が荒れているときには波が見える。

道路沿いに双葉郡富岡町の応急仮設住宅が建った。被災者支援のためのオーガニックコットン畑ができた。「ハーブの里」の跡地で災害公営住宅の工事が始まった。豊間のトンネルを抜けた坂道のわき、田んぼでは敷地造成工事が始まった。

こうして、県道を行き来していると、高久~豊間の間だけでも変化がわかる。そのたびに、定点観測ならぬ定線観測をするのが内陸部の人間の務めではないか、という思いを強くする。

2013年10月17日木曜日

関東大震災詠

関東大震災から4カ月後の大正13(1924)年1月に、平町(現いわき市平)で同人誌「みみづく」第3輯が発行された。東日本大震災に伴うダンシャリで出てきたのを、古本屋をしている若い仲間が持ってきた。鈴木茶茂子という人が震災関連の短歌を発表している=真。

タイトルは「悲報」で、前書きに<亡き浅香様におくる>とある。作者の短歌仲間の訃報に接して詠んだものと思われる。最後に「九、二五」の数字が記されている。大正12年9月25日に筆を擱(お)いた、ということだろう。震災から3週間と少ししかたっていない。

亡(ほろ)び行く其日(そのひ)の都夢にだに知るよしもなく文を書く我れ
なかなかに文は来たらず彼(か)の君の安否を問ふにすべもなきかな
十日経て文は来たらず何となく胸さわがしきこの日この夜
天地(あめつち)の裂けよと許(ばか)り地震(なゐ)ゆりし去(ゐ)にし其日を君や何地(いずち)に

大災害が起きた直後は、家族や友人・知人の安否が気になる。が、なかなか連絡が取れないのは、今も同じ。ましてや89年前の大正時代は、庶民が利用できるほど電話は普及していなかった。手紙かはがきでのやりとりになるが、配達先は焼け落ちていた? 何日たっても往信がない。胸騒ぎが日ごとに増したことだろう。

 漸やくに生命(いのち)を得しと喜びの短かき文も代筆にして
 辛うじて生命を得しも束の間の欣(よろこ)び浅く今君は逝く

代筆による生存の誤報がどうして起きたのかは知るよしもない。すぐ訃報が届く。

 泣けど泣けど今は皈(かへ)らず吾が友は焼野の原に吸はれてぞ逝く
 病み痩せの手をばさしのべ愛子(はしきこ)を抱きし其人忘れかねつゝ
 秋来れば又遭ひなんと別れ来し一人の友は今世にあらず
 消し難く文字は哀しき死の報(し)らせ胸をつらぬく箭(や)を受けしごと

台風26号が福島沖を通過し、風雨がやんだきのう(10月16日)午後、台風を理由にさぼっていた仕事を再開する。その間に「みみづく」の震災詠を読んだ。東日本大震災でもそうだが、関東大震災もこうして1人ひとりに思いを致すことでしか実相には迫れないのではないか。挽歌には古いも新しいもなく、うまいもへたもない。

2013年10月16日水曜日

大型台風接近

台風と聞いて気になるのは、近くの夏井川の水位だ。近くといっても、直線距離にしておよそ300メートルは離れている。それより少し上流、蛇行して国道6号に接する堤防が切れたら、住宅が密集する旧道に濁流が押し寄せる。そうならないように堆積土砂を取り除き、河川の幅を広げる工事が行われた。

夏井川の堤防の散歩を中断して10カ月になる。河川敷の季節の巡りを肌で感じることができなくなった。たまに車で堤防を行き来するのは、それを補うためだ。先日、猪苗代湖にハクチョウが飛来したと聞いて、街へ行った帰りに夏井川の越冬地(平・塩~中神谷)へ寄った。6羽がいた。翌日の昼には5羽に減っていた=写真。コハクチョウだった。

飛来したばかりのハクチョウは落ち着かない。朝に姿を見せても、日中にはどこかへ移ったり、塩~中神谷の上流・中平窪へ戻ったり……。中平窪は、いわき市内の夏井川では一番古い越冬地だ。そこへ行けば、今シーズン最初の飛来状況がわかる。ところが新聞はどうしたろう、1行も報じていない。季節の便りを届ける感受性が鈍くなったか。

そんなことを考えているうちに、大型で強い台風26号が近づいてきた。きょう(10月16日)は未明、吹き荒れる風の音で目が覚めた。雨も前夜から降り続いている。ありがたいことに、もう新聞が届いていた。

全国紙は1面でやなせたかしさんの死と台風26号の接近を報じていた。この夏、草野心平記念文学館で「みんなだいすきアンパンマン やなせたかしの世界展」が開かれた。記録的な大入りになった。企画展に子どもを連れて行った若い親たちは感無量の面持ちでいることだろう。

学校はきのうのうちに臨時休校が決まった。下校中の小学1年生が店頭で丸くなっているネコを見に、毎日、わが家に入ってくる。たまたまネコはいなかった。帰り際、カミサンに「あしたは台風が来ます」とはずんだ声でいうのが聞こえた。「学校が休みでうれしいな」と続けたかったのだろう。

よこなぐりの風雨になると、トイレの天井から雨が漏る。そのためにテラスを改修した。雨漏りは止まったと思ったら、今度は階段の壁からしずくが垂れていた。2階のテラスと階段を仕切る板壁から雨がしみこんだらしい。家にこもって台風をやり過ごすしかないと思っていても、“雨漏り警報”が出ては気が休まらない。

2013年10月15日火曜日

戸建て住宅

知人たちといわきニュータウンにある応急仮設住宅を訪ね、管理スタッフから話を聴いた。外に出ると、スタッフが道路向かいの戸建て住宅群=写真=を指さして言った。「仮設ができたころは空き地だったんです」

窪地を走る環状道路をはさんで、3・11後に広野町と楢葉町の仮設住宅ができた。楢葉側は、仮設住宅しかなかった。空き地が広がっていた。そのことを、管理スタッフに言われて思い出した。

真新しい2階建ての住宅がすき間なく並んでいる。洗濯物を干している家がある。建て主への引き渡しを待つばかりの家がある(窓ガラスに張り紙がしてあるので、それとわかる)。

東日本大震災から2年半余、いわき市内では家の建築ラッシュが続く。「不動産バブル」などともいわれている。

身近な暮らしの場では震災家屋の建て替えが進む。津波で家を失った人、双葉郡から避難してきた人たちが市内に土地を求め、家を建てるケースも出ている。それやこれやで、空き地になっていたニュータウンの宅地も家で埋まった。

かたや、仮設住宅のすぐわき――。セイタカアワダチソウの黄色い花が覆う法面(のりめん)の肩に、大根その他の野菜が葉を広げていた。1列4メートルほどの、猫の額ならぬ猫の鼻くらいのスペースでしかない。

避難する前は畑をやっていたというおばさんたちにとっては、ままごとのようなものだ。代用にもならない。が、なにもしないでいるよりはまし――土と向き合ってきた人生がそうさせるのだろう。<わが家に帰って思いきり畑を耕したい、野菜をつくりたい>。おばさんたちの「叫び」が、大根の葉を通して聞こえてくるようだった。

2013年10月14日月曜日

里の秋祭り

神谷(かべや)の里――。私の住む地域は、隣接する行政区を含めてそう呼ばれる。旧神谷村の中枢をなす。大きな神社が二つある。立鉾鹿島神社と出羽神社だ。祭りは、立鉾が5月、出羽が10月。初夏は神谷の里の五穀豊穣を神に祈り、秋はそれを神に感謝する。きのう(10月13日)、出羽神社の例大祭が行われた=写真

祭礼には神谷の行政区長が招待される。どちらの氏子でもない「新住民」なので、これまでは神輿が家の前に来てハレの日だと気づく程度の知識しかなかった。招待状が届き、式典に出席して初めて、おぼろげながら祭りの流れがわかった。朝6時の打ち上げ花火も、今年は祭りの実施を告げるものだと認識できた。

式典は拝殿で行われた。氏子、神社崇敬者、議員その他の招待者が列席した。終わって社務所で直会(なおらい)が行われた。

宮司が、式典を締めくくるあいさつのなかで、9月20日の震度5強の余震について触れた。大谷石でできた宝蔵が被害を受けたという。あとで確かめたら、継ぎ目にすき間ができていた。ここでも、あそこでも――。9・20の被害集中地区の一つが神谷の里ではなかっただろうか。

直会が続くなか、若者のかつぐ神輿が何段もある急な石段を下り、刈り入れのすんだ神谷の里へと繰り出した。用事があって早く辞したので、神輿渡御の出発を田んぼから見ることができた。青空の下、いかにも実りの秋にふさわしい光景だった。

出羽神社の神輿で特に興味深いのは、堤防安全を願って夏井川にも渡御することだ(志賀伝吉著『夏井川』昭和59=1984年刊)。

ある年の例大祭で、神輿をかついでいた若者たちが夏井川に入り、みそぎをするのを見たことがある。午後遅く、たまたま堤防の上を車で通りかかったら、集落から神輿が現れ、河川敷へと下りて行ったのだった。川と人間の、カミを介した原初的なふれあいが、今も強い印象となって残っている。

2013年10月13日日曜日

海の見える坂

1歳年下の後輩を車に乗せて、いわき市の北、広野町と楢葉町を巡った。後輩の父親は学校の先生だった。子どものころは楢葉町の教員住宅で過ごしたという。福島高専(当時平高専)に入り、上京してからは、親の住む広野町の教員住宅に“帰省”した。今もそうかどうかはわからないが、広野の教員住宅は海の見える坂の上にあった=写真

1年に一度、いわき市教委の仕事で顔を合わせる。後輩は若いころ、小説を書いていた。著名な文芸雑誌の新人賞をとったこともある。その後、雑誌編集長に転じ、定年退職をした今は請われて書籍の編集をしている。

仕事が終わったのは午後3時半ごろ。いわき発午後6時20分の「スーパーひたち」で帰るまで3時間弱、彼の“ふるさと”を訪ねる時間的な余裕はある。広野・楢葉行を提案すると、同意した。

広野町は緊急時避難準備区域に指定されたが、2011年9月30日に解除された。楢葉町は大部分が福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域に入っていたが、昨年8月10日に避難指示解除準備区域に再編された。広野町は立ち入り・宿泊が自由、楢葉町は日中の立ち入りは自由でも宿泊はできない。

楢葉町への立ち入りが自由になったために、広野・楢葉と様子を見に行くことはできたが、なんとなくはばかられた。後輩を“ふるさと”に案内する名目ができたので、やっとこの目で確かめることにしたのだった。

最初に広野の教員住宅を訪ねた。親が住んでいたころには、海側にあるJR常磐線の広野駅で降り、国道6号を横切って狭い坂道を上ってきたという。建物は健在だった。が、何軒か更地になっている。除染が行われたらしく、各家の庭に新しい砂利が敷きつめられていた。後輩はかつての“わが家”を、前から後ろからせわしくなめるように見て回った。

楢葉町では後輩の言うままに木戸駅、竜田駅周辺を巡り、閉鎖中の楢葉北小、楢葉中に寄った。楢葉の教員住宅は中学校のそばにあったという。北小入り口で放射線量を測ったら、毎時0.4マイクロシーベルトだった。「早く帰りましょ!」。いわきの人間には驚く数字ではないが、後輩はゾッとした様子だった。

国道6号沿いに田んぼが広がる。稲刈りが真っ盛りの時期なのに、田んぼを覆っているのは黒いフレコンバッグとセイタカアワダチソウの黄色い花だ。8月にこの地を訪れた作家多和田葉子さんは雑誌「ミセス」11月号(巻頭連載エッセー<言葉と言葉の間で>⑧)にこう書いた。

「あの黒い袋の中の物質は何千年たっても子供たちを癌にするかもしれない。いつまでもなくならない。いつか鴉につつかれて袋に穴が開くかもしれない。(中略)とんでもないもの、手に負えないものを無責任にこの世に送り出してしまった人間のとりかえしのつかない過ち。福島への旅は、わたしにとっては、これまでで一番悲しい旅だった。」

楢葉町には40年間、反原発運動を続けてきた元高校教員の住職氏がいる。今はいわきで避難生活を送る。その人が率先して寺の田んぼをフレコンバッグの仮置場に提供したという。寺は楢葉中学校に近いところにある。国道6号から見える「黒い袋」の一部がそれかもしれなかった。

後輩が楢葉町に住んでいたのは半世紀も前のことだ。今は除染作業員のほかに人気はない。ちょうど夕方のラッシュ時で、国道6号はいわき方面へ南下する車で込んでいた。道の両側の黒い袋と黄色い花。片側だけ途切れなく続く幹線道路の車両。不気味ささえ感じられる光景だった。

2013年10月12日土曜日

災害ごみ運搬

9月20日未明、いわき市南部の山あいを震源とする震度5強の地震で義弟の家のブロック塀の一部が壊れた。その話を小欄で書いたら、若い仲間が連絡をくれた。「うちに軽トラックがあります、良かったら使って下さい」。渡りに船だ。おととい(10月10日)、彼の運転でブロック=写真=を市の仮置場に運んだ。

軽トラは、農家にあるものよりは少し大きい。それでもブロック約40個を積むと、タイヤが沈んだ。

仮置場の四倉市民運動場には災害ごみが山をなしていた。木くず類・金属類・コンクリート類などに分別されている。前に、「半壊」になった離れを市の委託業者が解体した。その段階ですでに分別が行われた。災害ごみもできるだけリサイクルをする、というのが行政の方針だ。若い仲間と2人で、指示された場所にブロックを下ろした。

東日本大震災から2年7カ月がたつ。余震が収まらない。9月20日の余震では、本棚が倒れ、食器が落下した。3・11の教訓を忘れたか?といわれてもしかたがない。が、かなりの家で小規模ながら被害が出たようだ。市も早速、罹災証明の発行や災害ごみの受け入れに動いた。

海岸部にあるいわき新舞子ハイツグラウンドは、9月中旬に日中の利用が再開された。以前は災害ごみの仮置場になっていた。近くの道路を通るたびに、高く積まれた災害ごみが目に入った。その山が消えた。復旧・復興の流れを示す変化のひとつではある。

四倉市民運動場から災害ごみが消え、スポーツやレジャーを楽しむ市民の姿が見られるのはいつのこと
だろう。

2013年10月11日金曜日

一気に秋がきた

夏井川でサケのヤナ漁が始まった=写真。9月中旬、鮭増殖組合がヤナをつくりかけたときに台風が福島県内を縦断し、大水で作業がストップした。ヤナが流されたのではないか。ときどき車で堤防の上を行き来する人間には心配だったが、今はいつものようにヤナが川を遮り、いつものように組合員が投網を手繰り寄せている。

サケのヤナ場は、「目に見える秋」のひとつだ。次に「目に見える秋」はハクチョウ、そう思っていたら、おととい(10月9日)、会津の猪苗代湖に第一陣が飛来した。テレビのローカルニュースで知り、きのう朝の県紙で確かめた。となると、浜通りの夏井川に現れるのも時間の問題だ。

きのう夕方、カミサンを車に乗せて街へ出かけた。帰りは5時過ぎになった。まだ少し明るい。夏井川の堤防を利用して戻ることにした。「まっすぐ帰ってよ」という声を無視して、堤防の上を進む。と、新川との合流点にいた、ハクチョウが6羽。カミサンが歓声を上げた。写真を撮ったが、ボケ・ブレがひどい。撮影はあきらめた。

さらに堤防を先へ進むと、すぐそばの小さな社の境内で四季桜が咲いていた。満開に近い。河川敷ではセイタカアワダチソウの黄色い花が波打っていた。

そういえば、キンモクセイの香りをかいだのはほんの数日前だ。近所から戻ってきたときに、隣家の庭から漂ってきた。一気に秋がきた。

ちょっと北にある原発では連日、汚染水漏れのトラブルが起きている。いわきでは、いや福島県内では、住民が不安をかかえて日々を暮らしている。そんな“異常な日常”になってしまったからこそ、季節のシグナルは瞬時の慰めになる。

2013年10月10日木曜日

古書は巡る

大正末期の、磐城平の同人詩誌「みみづく」の現物を初めて手にした=写真。通巻第3輯、第2年第1号、大正13年1月15日発行、発行兼編集印刷人馬場京助、などとある。馬場は「いはらき新聞」記者で、山村暮鳥の取り巻きの一人。暮鳥が巻頭に詩4篇を寄せている。

そのなかの1篇。<おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>のタイトルが「友らをおもふ」だ。研究者は、この詩が相聞歌ではない証拠として、「友ら」と複数になっているタイトルを挙げる。暮鳥を研究する上では重要な文献の一つではある。

四半世紀も前になるが、いわき地域学會初代代表幹事の故里見庫男さんから、この「みみづく」第3輯のコピーが届いた。いわきの近代文学を調べるように、という暗黙の指示でもあった。里見さんの思いに反して、「みみづく」はずいぶん長い間ほこりをかぶったままだった。

平成20年正月、里見さんが中心になって運動を進めてきた「野口雨情記念湯本温泉童謡館」がオープンした。毎月1回、童謡詩人について話すようにいわれて、尻に火がついた。いわき総合図書館に通い続け、素人が知り得る範囲で金子みすゞやサトウハチロウ、野口雨情について、童謡ファンのおばさんたちに“報告”した。

それをきっかけに、今も「いわきの大正ロマン・昭和モダン」を調べている。「みみづく」第3輯をきちんと読みこんだのは、その意味では近年のことだ。ただし、コピーには限界がある。紙の質、表紙絵の色、活字の凹凸感、重さ……。これらは、本物でないとつかめない。

表紙絵は版画家・詩人・装幀家として知られた恩地孝四郎。詩も1篇寄せている。当時、上り調子の33歳だった。2012年、池内紀『恩地孝四郎 一つの伝記』(幻戯書房)が出版された。図書館の新着図書コーナーに飾られてあったので、借りて読んだ。初めて恩地の世界に触れた。

実は、本物の「みみづく」第3輯は、古本屋を営む若い仲間が持ってきた。3・11後のダンシャリで某家から出てきたという。わが家ばかりではない。あちこちでダンシャリが行われている。が、救済される本はほんの一部でしかない。こちらへ巡ってくるものとなると、その一部の一部でしかない。

これまでに、コピーの「みみづく」を材料にして、何回か小文を書いた。「みみづく」第3輯は関東大震災からわずか4カ月ちょっとあとに発行された。なかに大震災を詠んだ短歌がある。いずれその作品を紹介したい。