2025年6月27日金曜日

磐城の災害史

                                 
   近世以前の場合、歴史研究家は「いわき」を漢字で「磐城」と書く。故佐藤孝徳さんに教えられたことだ。

江戸時代前半、譜代の内藤家が支配した磐城平藩は、いわき市のほかに双葉郡の南半分を含んでいた。

今の富岡・楢葉・広野町と川内村、いわき市の久之浜町・大久町・川前村――それらを含んだ広域行政圏だった。つまり、「いわき」よりは広い。

いわき地域学會の定時総会が6月7日、いわき市生涯学習プラザで開かれた。それに先立つ市民講座で、いわき市文化財保護審議会委員の田仲桂さんが「磐城の災害史~江戸時代におきた地震・水害・流行病~」と題して話した=写真。

田仲さんの講話のポイントは、藩の記録などの「一次史料」から災害の状況をひも解いていることだ。

たとえば、延宝5(1677)年10月9日の「延宝房総沖地震」では、磐城平、湯長谷、泉各藩の津波被害状況のほかに、磐城平藩がこの災害にどう対応したかを、藩の「万覚書」から時系列で紹介している。

内容としては、現地代官からの津波到来報告、調査のための足軽派遣、江戸への急報準備のあと、藩主の現地視察、施餓鬼供養の実施などが続く。

なかでも、私が注目したのは被災者の緊急雇用対策だ。10月13日の項に中間(ちゅうげん)50人を召し抱えることにした、とある。

10月20日の項には、沿岸部に「鍋師」を派遣したことも記されている。鍋師とは「鋳掛屋」のことで、煮炊きに必要な鍋の修繕に藩が職人を派遣した、ということなのだろう。

この地震・津波による被災状況(家屋と人命にしぼる)は――。磐城平藩内では流倒330軒・溺死75人、湯長谷藩内では流倒218軒・溺死44人、泉藩内では流倒39軒・溺死13人に及んだ。

講話後の質疑応答で、レジュメに載っていない元禄9(1696)年の大きな災害について質問が出た。

いわき地域学會が平成3(1991)年に著した『新しいいわきの歴史』には、同年6月27日から翌日まで風雨が強く、磐城七浜では高波による破船・死亡・けが人などが続出した、とある。一方で、これを大津波とする研究者もいる。

これまでの論考によれば、延宝5年には、磐城七浜の死者は800人余に達した。元禄9年にはそれ以上の2400人余が犠牲になっている。

津波であれば、ほかの地震のように地震名・震源・規模などが明らかにされるのだろうが、それがない。これも判断を難しくしている。

ということで、謎は謎のまま残ったが、「万覚書」の中身に触れらたことで、行政の災害対策は昔も今も変わらないことがよくわかった(水害と流行病は省略した)。

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