2024年5月21日火曜日

スポーツフェスタ

                      
 地元の小学校から運動会の招待状が届いた。確か、コロナ禍で来賓の招待が中止になって4年がたつ。土曜日の午前8時半入場行進開始――とあったので、その少し前に校庭のテントへ直行した。

 雲一つない青空。熱中症が懸念される暑さになったが、やがて風が少し出てきた。テントに入っているとひんやりして、直射日光が恋しいほどだった。

 それはともかく、久しぶりの運動会に、「時代は変わった」そんな気持ちになった。

東日本大震災の2年後から地元の小学校の運動会を見続けている。入学式や卒業式にも招待された。しかし、これもコロナ禍以来、招待中止が続く。外でやる運動会が最初の「招待復活」イベントなのかもしれない。

 最初に「あれっ」と思ったのは、招待状の封筒には「運動会」と印刷されていたのが、案内状には「スポーツフェスタ」とあったことだ。

 運動会からスポーツフェスタへ――。古い人間としては、まずこの名称から記憶の更新をしないといけない。配られたプログラムも、もちろん行事名は「スポーツフェスタ」となっている。

 5・6年生の「120メートル走」や、1・2年生の「かけっこ」はそのものずばりだからわかりやすい=写真。

が、地元の新名所にちなんだプログラムなどはどんなふうにやるのか、さっぱりイメージがつかめない。

玉入れは玉入れでも、「ダンシング玉入れ」とあった。これは1・2年生の団体競技で、玉入れの合間にダンスを取り入れたものだ。

ダンス、そして玉入れ。これを2回繰り返して、かごに入れた玉の数を競う。ただの玉入れではない。ダンスと玉入れを融合させたところが新しい。

ダンスは、手の動きが速い。紅白歌合戦に出た「新しい学校のリーダーズ」や、テレビでときどき見かける、若いアイドルグループなどのダンスを連想した。

ただ、演じるのはまだ低学年生だ。ダンスのときは観客席を向いて踊るから、保護者も自分の子の表情がよくわかる。テントからも、かわいいしぐさに笑みがこぼれた。

いちおうネットで探ると、メディアも物珍しさから反応していたようだ。「ダンシング玉入れ」のルーツ探しをするテレビ番組があった。「コロナ禍の時短運動会にはおすすめ」ともあった。

あと、もう一つ。前は昼食をはさんで午後までプログラムが続いていたような気がするのだが……。

運動会、いやスポーツフェスタの花は、やはり紅白対抗リレーであることに変わりはない。それが行われたのは、午前11時半前だ。

観客席で、親と一緒になって昼食を楽しむという光景は消えた。コロナ禍と少子化もあって、時短運動会がそのまま継続されるようになったのだろうか。

2024年5月20日月曜日

ギョウジャニンニクのおひたし

                      
 旧知の消防OB氏から、今年(2024年)も川前産のギョウジャニンニクが届いた。ウドも添えられていた。

 去年、初めてちょうだいした。カミサンが聞いたところによると、奥さんの実家が川前町にある。そこでギョウジャニンニクを栽培している。それに触発されて、去年、ブログを書いた。

――ギョウジャニンニクは北海道の代表的な春の味だ。別名「アイヌネギ」。農文協の『聞き書アイヌの食事』(1992年)などで承知はしていたが、現物を見るのは2回目だ。

 最初はちょうど10年前、原発事故で双葉郡から近所に避難していた老夫婦から、パック入りのギョウジャニンニクが届いた。

 老夫婦とカミサンがいつの間にか仲良くなり、煮物や漬物を分け合ったりするようになった。いわばお福分けの一品だった。

ギョウジャニンニクは、本州でも山深いところには自生する。しかし、阿武隈高地に分布するという話は聞いたことがない。

川前は、いわきでは山間高冷地に入る。平地よりはギョウジャニンニクの栽培に向いているのだろう。

葉は鳥の羽のように長い。根元は赤みを帯びている。これが特徴らしい。似た形状の山菜にウルイ(オオバギボウシ)がある。こちらは、茎は白い。

調理法も調べる。醤油漬けというものがある。ギョウジャニンニクをよく水で洗う。生かゆでたものを刻んで容器に入れる。醤油・みりん・酒を煮たてて冷ました調味液を加えて、冷蔵庫に一晩おくと食べられる。

ほかには、てんぷら。ゆでたギョウジャニンニクを適度な大きさに切ってキムチに和えるのもいいそうだ。

まずはおひたしだ。かつお節を加え、醤油をかけて食べた。今まで経験したことのない変わった風味が口内に広がる。茎には甘みがある。歯ごたえも含めて,ニラに近いといえばいえようか――。

 今回もおひたしにした=写真。甘い。なんといっても、この甘さに引かれる。これはまさに新しい「口福」だ。貴重な山菜、いや高級食材。今回もそんな言葉が浮かんだ。

同時にいただいたウドは、先端と、むいた皮をてんぷらにした。本命は、しかし糠漬けだ。

皮をむいた茎を5~6センチの長さに切って、糠床に入れた。が、キュウリと同じように、半日とちょっと漬けてしまった。

食べやすい長さに刻んで口に入れると、しょっぱい。皮がない分、早く漬かる。それに合わせて、早めに取り出すべきだった。

水につけて塩分を抜いてからご飯のおかずにした。が、やはりこれは酒のつまみだ。池波正太郎『鬼平犯科帳』の「盗賊婚礼」に「独活(うど)のぬか漬け」が出てくる。

「清水門外、役宅の寝間で長谷川平蔵は久栄に肩をもみほぐしてもらいながら/『ああ極楽、極楽!』/独活のぬか漬けを肴に寝酒をやっていた」。肩もみも寝酒も、頼んだら張り倒されるが、ウドはやはりこれに限る。

2024年5月18日土曜日

経過観察

                      
 大腸のポリープを切除してから2年がたつ。その後の状態を確かめるために、かかりつけ医を介して基幹病院で消化器の内視鏡検査を受けた。

 まずはドクターに会って、検査日を決める。そのための相談日が決まった。2年前と違って付き添いが必要だという。

 なぜ? たぶん後期高齢者になったからだ。一人で大丈夫、といってもしかたがない。カミサンが付き添うことになった。

 担当のドクターは前回と同じだった。初日はこちらの予定と照らし合わせながら、何日に胃カメラ、何日に大腸内視鏡と、検査日を決めるだけで終わった。

検査には一人で出かけた。カミサンは店をやっている。胃カメラはすぐ終わるが、大腸は下剤の投与から病院ですることにしたので、長丁場だ。帰りは夕方になる。家を留守にするわけにはいかない。

で、結論からいうとどちらにも変化はなかった。結果はかかりつけ医に伝えておきます――つまり、「今回はこれ終わり」になった。

ただ、食事には制限がかかった。特に大腸の場合は、検査前日の朝から注意が必要だった。

病院からもらったチラシ(「おすすめメニュー」)は、前回のものと同じだ。朝食=食パン(具なし)・ポタージュスープ(具なし)・バナナ・ヨーグルト(プルーン)。昼食=素うどん・卵焼き(具なし)。夕食=雑炊(卵・ささみ入り)・みそ汁(具なし)・焼き魚(皮なし)・豆腐(薬味なし)。

今回もこのどれかを組み合わせて、朝・昼・夕と食事をとった。みそ汁にはナメコもワカメもない。汁をすするだけ。うどんは薬味も具もない。

今回も、胃腸にはやさしいが、食べる楽しみからするときわめて味気ないものになった。

検査当日の朝もチラシに従って食事を控えた=写真。下剤は、今回は病院で飲んだ。

午前中に検査をするとなると、自宅で、未明から下剤を飲んで大腸をきれいにしないといけない。

下剤の量は1・5リットル、それに水をその半分の750ミリリットル。コップに何回も分けてゆっくり飲む。

そのうち洗浄液のまじった排便が始まる。落ち着くまで2時間前後は飲む・トイレへ行く、を繰り返す。

 カミサンがこれを嫌って、病院でやってくれという。そのために、下剤は午前中、病院で飲み、検査は午後からというスケジュールになった。つまり、昼食もとるわけにはいかない。

というわけで、都合3日、病院へ通った。窓口で支払いをすませるために精算を待つ間、いすに座っていると、次々に患者が通り過ぎていく。

 その数の多さに、久しぶりに目を見張った。JR上野駅ほどではないにしても、それに近い込みようだ。

不特定多数の人が行き交う建物としては、やはり浜通りで一番ではないか、と思った。

2024年5月17日金曜日

『木村孝夫詩集 持ち物』

           
 13年前の東日本大震災と原発事故以来、一貫して被災者と避難者に寄り添って詩を書き続けている。

 いわきの詩人木村孝夫さん(平)。若いころからお名前は知っていた。が、実際にお会いしたのは震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわき市で交流スペース「ぶらっと」を開設・運営していたときだ。

 カミサンがシャプラの会員、私がマンスリーサポーターだったので、半分は運営側の人間として「ぶらっと」にかかわった。

 木村さんはそこにできた将棋クラブの一員だった。以来、シャプラが5年に及ぶ活動を終えてからも、夫婦ぐるみで付き合いを続けている。

 木村さんは震災後、『ふくしまという名の舟にのって』(2013年)、『桜蛍』(2015年)、『夢の壺』(2016年)と、精力的に詩集を出した。

 その後も、ポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』(2018年)、同『六号線――140文字と+&の世界――』(2019年)、モノクローム・プロジェクト(兵庫県)のブックレット詩集20『福島の涙』(2020年)と刊行を続けた。

 さらに、2021年春には詩集『言霊(ことだま)』(純和屋)を、翌2022年もモノクローム・プロジェクトのブックレット詩集27『十年鍋』を出している。

『ふくしま――』は福島県文学賞・詩の部門正賞、『福島の涙』はいわき民報社のふるさと出版文化賞優秀賞を受賞した。

と、ここまで書いてきて、木村さんの詩魂の強靭さにあらためて驚く。その思いの強さ、深さは『桜蛍』のあとがきからもうかがえる。

「できるだけ避難者の内面的なものを描くという目的を持って書いています。どこまで避難者に寄り添い、その思いに触れ、描き切れたのかは分かりませんが、書きながら、何回も被災場所に行ったり来たりしながら、また奉仕活動を通して多くの避難者の声を聴きました」

その木村さんからまた詩集をちょうだいした。シリーズ100人の詩㉝『木村孝夫詩集 持ち物』(詩人会議出版、2024年)で、「あとがき」に詩集の意図がつづられている。

  ロシアのウクライナ侵攻などを機に戦争反対の詩も書き始めた。震災詩についても、書くことに蓋を閉じることはしない。

「平和の喫水線が沈みかけている/疑似平和に惑わされてはならない/軍靴の音に高揚してはならない//戦争に蓋を被せる国はないのか?/と 問いたい」(「喫水線」)

この問いには強く同意する。そして、詩集のタイトルになった震災詩「持ち物」。行方不明の魂がある。生き残った者も津波の夢を見る。寝室が、記憶が海になる。

「明け方近くなのだろう/風邪を引かないようにと/叔母さんは/眠ろうとしても眠れないのだ//持ち物を探している/一つ見つかれば仏間に戻れるはずだ/長く深く眠る為に」

 根底にあるのは、人間の尊厳を踏みにじる人災や戦争への怒り、自然災害に対する悲しみだろうか。

2024年5月16日木曜日

シャガは帰化植物

                   
 夏井川渓谷にある隠居までの道路沿いに、1カ所(正確にはガードレールをはさんで2カ所)、シャガが群生しているところがある。

 今年(2014年)の開花に気づいたのは4月下旬の日曜日だった=写真。5月に入ってからも咲き続け、12日の日曜日も白い花をびっしりつけていた。

 シャガを知ったのはざっと40年前の昭和57(1982)年春。前年秋、平の本社から勿来支局へ移り、鮫川流域の勿来・遠野・田人地区が取材範囲になった。そのなかで高倉町の高蔵寺境内がシャガの群生地であることを教えられた。

春になると、三重の塔(福島県重要文化財)をバックに、シャガの写真がメディアを飾る。私も取材をして、大型連休のお出かけスポットの一つとして紹介した記憶がある。

 それから十数年。夏井川渓谷の集落の一角、しかも道路沿いにシャガの群落があることは、隠居へ通うようになってすぐわかった。

 が、既知の花でもあり、車で通り過ぎるだけにして、写真に収めるようなことはしなかった。

 車の通行量が少ないといっても、ゼロではない。車道に車を止めて撮影を――となると、後続の車両に迷惑がかかる。

 それが今回、初めて車を止めて写真を撮ったのは、思ったより花期が長いことを実感したからだ。むろん、後続車両がないことを確かめて車を止めた。

 高蔵寺境内の大群落に触れて以来、シャガはてっきり日本の野草だと思いこんでいたが、そうではなかった。中国東部~ミャンマーが原産地で、日本へは早いうちに渡来した。つまりは帰化植物だ。

 分布の広がりは人為による。初めは誰かが移植した。日本のシャガは種ができない。地下茎で増えるという。群生しているのは、この地下茎のネットワークゆえだった。

 さて、話は変わる。日曜日は隠居で土いじりをする。このごろはしかし、「年寄り半日仕事」で、午前中2時間もすると仕事を切り上げる。

 以前は昼食を持参したが、このごろは街へ下りて、コンビニなどでサンドイッチを買って、家で食べる。

 カミサンは日曜日だけでも家事から開放されたいと思っている。日曜の夜はそれで刺し身を買いに行く。

 昼も、できれば家ではなく、外で済ませたい。というので、12日はラトブにある喫茶店で昼食をとった。

 ドリンク付きのサンドイッチが、なんと千円を超えていた。コロナ禍前は確か千円以内だったはずだ。

 私は、コンビニのサンドイッチと紙パックの牛乳で済ますのが多い。それもあって。街の店で食事をするのは、できれば控えたい。

 とはいうものの、シャガの命の長さに感心しながら下界へ下りてきたら、値段の高さに頭をなぐられた感じがした。

やはり、コロナ禍、ウクライナ戦争、円安といった経済情勢が影響しているのだろう。

2024年5月15日水曜日

シオカラトンボの仲間

                     
 これはたぶん、興味と関心の濃淡による。身近な野鳥はウオッチングをしてきたので、ある程度はわかる。

 野草もそのつど調べて名前を覚えたので、わが家の庭をはじめとする生活圏、あるいは夏井川渓谷にある隠居の周辺の花なら、なんとかわかる。

 地元の人間に聞く。ネットで調べる。アナログであれ、デジタルであれ、知らないことを知るには最大限利用する。ネットには答えが埋まっている。

 ネットの情報は玉石混交だとよく言われる。その通りで、専門家の「玉」の情報も、ネットにはあふれている。そこへたどり着くまでの我慢が大切だ。

そのためには「違う」感覚をあいまいにしないことだ。5月12日の日曜日にこんなことがあった。

渓谷の隠居で休んでいると、庭でカミサンがトンボに出合った。「シオカラトンボがいる!」

声に誘われて、カメラを持って庭に出る。庭には木製のテーブルがある。腐朽が始まってだいぶたつ。そこにシオカラトンボが止まっては飛び、飛んでは止まり――を繰り返していた。

たまたま近い距離でパチリとやった=写真。撮影データを拡大しながら、ネットでシオカラトンボかどうかを確かめた。

トンボもそうだが、昆虫はよくわからない。いわき地域学會に昆虫が専門の仲間がいる。彼の講演や文章から、種の同定は簡単ではないことを承知している。

シオカラトンボを見た瞬間、シオカラにしては小さい、尾が平べったくて先端まで灰色っぽい――この2点で、シオカラとは言い切れない、という感覚がわいた。

そのためにネットを利用し、あれこれ検索していると、シオカラトンボの仲間のシオヤトンボらしいことがわかった。

シオヤは小柄で、腹部が扁平で短い。翅の先の縁紋は、シオヤは橙褐色、シオカラは黒色。尾の先端の黒みは、シオカラが長く、シオヤは小さい。翅の付け根は、シオヤが赤褐色なのに対して、シオカラは透明だという。

以上の特徴を当てはめると、シオヤにほぼ間違いない。そんな確信を抱いたが、シオヤには全くなじみがなかった。

シオヤは平地から低山地にかけての水田、休耕田、池などで見られるという。時期的には春から初夏で、大きさはアカトンボとほぼ同じだとか。

「春一番のトンボ」という形容にも出合った。その延長でいうと、私たちが目撃したのは、やはり成熟した、若いシオヤの雄のようだ。

隠居の周辺の生息地といえば、川べりの平地に沿ってできた小流れがまず思い浮かぶ。あるいは山側にある水田、その他の湿地だろうか。

いずれにしても、初夏が始まったばかりのこの時期、想定外の早さでトンボが出現した。

2024年5月14日火曜日

図案家鈴木百世

                      
 5月7日付のいわき民報1面記事=写真=には驚いた。昭和17(1942)年、42歳の若さで亡くなった図案家がいわきにいた。その孫が遺作を市立図書館と暮らしの伝承郷に寄贈したという。

 「常磐炭田鳥観図(ちょうかんず)」や平七夕祭りのポスター、地酒のパッケージなどの原画が、ほぼ当時のままの状態で残っていたというから、よほど保管状態がよかったのだ。

 鈴木百世(ももよ=1901~42年)。今風にいえば、商業美術を手がけるグラフィックデザイナーだ。

 記事によると、鈴木百世は平で生まれ、豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学び、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年には再び教壇に立ち、2年後に倒れて、暮れには亡くなったという。

 図案家としての仕事はわずか4年ほどだったが、手がけた作品はかなりの数に上る。それを遺族(妻と長男)が大切に保管してきた。

 その長男の娘が、父と祖母の死後、実家の片付けをしているうちに、祖父の遺作を見つけた。

 「常磐炭田鳥観図」は、たとえば『いわき市史別巻 常磐炭田史』(1989年)の口絵に、二つに分割・拡大されて掲載されている。

が、原図の作者が鈴木百世だとはどこにも書いてない。この鳥瞰図から原作者を思い浮かべる読者はいないだろう。

もうひとつ。いわき駅前の総合図書館で、平成29(2017)年12月15日から同30年5月27日まで、常設展「鳥観図と地図に見る『平市』――平市誕生80周年・いわき市誕生前夜譚」が開かれた。その鳥観図「平市と附近景勝案内」(1937年)は、原作者が鈴木百世だった。

いわき市立図書館のホームページから「郷土資料のページ」を開き、「企画展示」をクリックすると、この作品が見られる。

鈴木百世は、『いわき市史第6巻 文化』などでも触れられていない、という意味では「忘れられた図案家」だ。

素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」の売り出しにも力を入れたそうだが、これが成功していれば、今も郷土の工芸品としていわきのお土産の一つになっていたのではないだろうか。

昭和12(1937)年6月1日、平町が平窪村と合併して「平市」が誕生したときには、東京日日新聞が市章を募集し、1等のほかに佳作10人が入賞した。

結果を報じた地元の磐城時報(昭和12年5月24日付=23日夕刊)によると、鈴木百世は佳作の筆頭、そして佳作の3番目には長男・哲夫の名がある。

いわき民報の記事には、図書館が「遺作集の調査分析などを進め、今後の展示に役立てていく」とあった。

「じゃんがら人形」や平市章応募のエピソードなども含めて、「図案家鈴木百世の仕事と思想」を紹介する企画展を、ぜひ早く。

2024年5月13日月曜日

カラスが襲った?

                      
 用事があって朝7時前、街へ出かけた。帰りに旧大黒屋デパート角の交差点で信号が赤になった。

 左手に歩道橋がある。たもとの歩道にカラスがいて、何かをつついている=写真。よく見ると、ドバトだった。ドバトが死んでひっくり返っていた。

 カラスがハトを襲った? ありえないことではない。が、ハトの交通事故ということも考えられる。

事故だとしたら、車道の死骸を目ざとく見つけたカラスが安全な歩道まで引きずり寄せて、食事を始めたところだったのかもしれない。

というのは、これまで何度か、カラスが路上に横たわっている動物の死骸に群がり、あるいは道端に引き寄せて、盛んにつついているのを目撃したことがあるからだ。

自分のブログで確かめると、15年前の6月中旬に「路上の死物学」というタイトルで、生きものの交通事故が多いことを書いていた。それを要約・再掲する。事情は今も変わらない。

――時々、動物が路上で死んでいる。街の幹線道路では犬や猫、特に猫の死骸が多い。

郊外ではタヌキが目立つ。堤防の上では毛虫。夏井川渓谷でも、タヌキ、テン、ヤマカガシなどの死骸を目にしてきた。いずれも車にはねられたり、ひかれたりしたのだ。

鳥も無事ではいられない。スズメ、コジュケイ、フクロウ、ムクドリ……。翼を持っているからさっとよけられるはずなのに、と思っても、車のフロントガラスなどにぶつかって昇天する。

昔に比べて車のスピードが上がっているのだろう。それだけ現代人はせわしなくなっているのだろう。

先日は、夏井川下流の堤防上でツバメの死骸に遭遇した。堤防の上を行き来する車はそう多くない。スピードもそんなに出せない。果敢に、スピーディーに「ツバメ返し」をする空の特急便も、ときには目測を誤って車にぶつかり、命を落とすのか――。

ほかにも、こんなことを書いていた。――路上に横たわっている犬や猫、タヌキのところへ真っ先にやって来るのはカラスだ。

交通量の多い場所では、車が赤信号で止まるのを待って“死物”を道端に寄せようとする。理由は、いわずもがなだろう――。

カラスは、それだけではない。普通の家庭や繁華街の飲食店などから出される生ごみにも敏感だ。

少しでもマナー違反があると目ざとくそこを突いてくる。コミュニティ=ゴミュニティには、ごみと人間のほかにカラスが加わる。

カラスとの知恵比べに負けるわけにはいかない、ということで、こちらはカラス研究の最新成果を絶えず吸収するようにしている。

 ま、それはともかく、カラスがドバトを襲った可能性についても考えておかないといけない。

 コロナ禍でレストランなどが営業を休んだとき、カラスのエサになる生ごみが減った。すると、それを補うためにカラスがハトを襲って食べた、という事例があったらしい。そんな情報がネットの海には漂っている。

2024年5月11日土曜日

仙台の焼物

                                
 江戸時代の仙台藩から続く話。仙台城下の北方を警備するため、奥州街道沿いに足軽衆が配置された。川のそばに堤があった。それで堤町といったのだろう。

現在は町の南をJR仙山線が走り、それと交差するように地下鉄が伸びる。両者が交わるあたりにそれぞれの駅がある。どちらも北仙台駅という。

 堤町について、市民が聞き書きをした冊子がある。『堤町まちがたり』(1992年刊)=写真。短大時代、仙台で暮らしたカミサンが何かの縁で手に入れたらしい。

 簡単にいうと、同市三本松市民センターが講座を主催し、受講生が「堤町」の住人を対象に聞き取り調査をした。それを、「奥州街道」「登り窯」「自然と暮らし」の3章にまとめた。

3人の講師のなかに民俗研究家の結城登美雄さん(仙台)がいた。結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。

震災後、いわきで結城さんの話を聞いたことがある。市主催の講演会で、タイトルは「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」。やはり「地元学」が入っていた。

地元学のポイントは「ないものねだり」ではなく、「あるもの探し」。講演では、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す、ということを強調していた。『堤町まちがたり』も「地元学」の文脈で読み解くことができる。

 冊子の中核は、大小さまざまな生活雑器をつくった「堤焼」と、同じ粘土を使った「堤人形」だろう。地元の土が粘土質だったこともあって、足軽の内職として焼き物が始まった。

 仙台市の中心地の一部となった今では、かつて盛んに登り窯から煙が上がっていたことを知る人も少ない。

 その焼物の町の歴史と自然を学ぶ過程で、受講生同士が、住民がつながりを深める――それこそが講座の最大の収穫だったと、あとがきにある。

 その聞き書きのなかに、いわきと関係の深い項目があった。戦後、堤町でも「蒸しかまど」が製造された。

「名古屋物」だったと、元職人。「親方の命令で作ることになり、2人で名古屋まで研究に行った」

「蒸しかまど」は、実はいわきで発明された。その製法を名古屋へ学びに行ったわけは、こんな経緯があったからだ。

早稲田の大学院でY君が「蒸しかまど」の研究を続けた。情報を集める過程で私のブログに出合い、実際にいわきへやって来て、わが隠居その他で保管してある蒸しかまどを実見した。

研究はやがて「近代におけるムシカマドの発明と普及――時代に翻弄された炊飯道具」という修士論文になった。

その彼の研究から、①蒸しかまどは福島県平町(現いわき市)で誕生した②やがて製造が追いつかず、火に強い粘土を求めて平町から愛知県三河地方に生産の拠点が移った――。結果、蒸しかまどは平ではなく、三河が製造の覇権を握った。

その名古屋物が仙台・堤町での製造につながった。蒸しかまどにも歴史的な変遷があったのだ。

2024年5月10日金曜日

マンリョウも増えている

                     
 夏井川渓谷の小集落は「自然と人間の交通」が濃密なところ。住民は周囲の森に分け入って、季節の恵みを手に入れる。

 今はどうかわからないが、東日本大震災と原発事故が起きる前は、春には山菜、秋にはキノコの話をよく聞いた。

 それぞれに自分のシロがある。マツタケの話をしても、どこで採ったかは誰も言わない。森の中で家に戻る途中の住民に会ったことがある。マツタケを採って来たという。「どこで」と聞くと、「あっちで」と道の奥を指さす。

 その意味では、自然の側も人間の影響を受けている。が、住民が山菜やキノコを採るレベルでは、自然の回復力の範囲内といっていい。

 住民は、季節の移り行きを示す草木の芽生えや開花には敏感だ。家の庭はもちろん、その周囲にも目を凝らす。

 小集落で3月中旬に寄り合いがあった。そのとき、私がブログに書き、古巣のいわき民報に転載されたシュロの北上の話になった。

1年前は全く気づかなかったが、伐採された杉林の跡地にシュロが1本、逆光の中で立っていた。牛小川のシュロは、鳥が種を運んで来たという。それが、あそこにも、ここにもある。

シュロは幹の繊維が燃えやすいので、家の近くには植えない、とも聞いた。ネットにも「燃えやすい着火物」とあった。防火面からもシュロの存在を考える必要があることを知った。

すると、やはり温暖化も関係しているのか、マンリョウも増えている――そんな話になった。マンリョウ? あの正月の縁起物とされる常緑の小低木が増えている?

寄り合いから街に戻り、すぐわが家の庭を見る。ある、ある。マンリョウの幼木=写真=が、あっちにもこっちにも生えている。

庭をパッと見て目立つのはヤツデ。これが何本もある。シュロは小さいのが1本。いずれも鳥が種を運んで来て活着したものだろう。

マンリョウを数えたら、芽生えから20センチほどに育ったものまで十数本あった。思った以上に多い。

ウィキペディアその他のネット情報によれば、マンリョウはサクラソウ科ヤブコウジ属で、茨城県以南の太平洋岸と、鳥取県以南の日本海岸に自生する。

富山県では、家の庭に植えられても、自然の中には生えていなかった。それが近年、植えてもいないのに公園の生け垣の下などで育ち始めているそうだ。

シュロと同じように、マンリョウも北へ、内陸へと生息範囲を拡大しているのだろう。

わが家の庭のマンリョウは、まだ赤い実を付けたことはない。実が生るのは3年目くらいだそうだ。

そのままにしておくとどんどん増える、ともあったので、いつかは整理する必要がありそうだ。

ついでながら4月下旬の日曜日、小野町へ車を走らせた。あぶくま高原道路の延伸部分を試走するのが目的だったが、途中、道沿いにシュロが生えているかどうかもチェックした。

いわき市の川前支所付近と市境の五味沢の民家の庭にシュロが生えていた。小野町の夏井地区では確認がとれなかった。

2024年5月9日木曜日

小説『長いお別れ』

                              
 前にお笑いタレント矢部太郎さんが描き下ろした『マンガぼけ日和』を取りあげ、英語では認知症を「ロング・グッドバイ」(長いお別れ)と呼ぶ、ということを紹介した。

 ロング・グッドバイに触発されて検索を続けた。まずは中島京子さんの小説『長いお別れ』(文藝春秋、2015年)=写真=がヒットした。実体験を踏まえた小説だという。

 『焼け跡のハイヒール』で知られる作家盛田隆二さんも、ノンフィクション作品『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』(双葉社、2016年)を書いていた。

アメリカではアルツハイマー型の認知症を「ロング・グッドバイ」と呼ぶことがある――。盛田さんは中島さんの小説で初めてそれを知ったことを、「まえがき」で明かしている。

となると、「マンガぼけ日和」の次はこの二つの作品だ。どちらも市の総合図書館にあったので、借りて読んだ。

私も、認知症をロング・グッドバイと呼ぶと知ったときには驚いた。認知症を見直さないといけない、とさえ思った。

でも、医学用語としては「ロング・グッドバイ」のはずがない。正式にはなんというのだろう。検索を続け、2冊の本を借りて読んだのも、それを探るためだった。

『長いお別れ』は9編の連作短編集だ。最後の「QOL」にその答えがあった。父親が認知症を発症してだいぶたつ。3人の娘のうち、長女はアメリカで暮らしている。

その次男がミドルスクールに進学した。ところがほどなく、無断欠席をするようになった。さぼって転校生の家に入り浸っていたのだった。

校長先生が転校生の家で遊びほうけていた子どもたちを一人ひとり、校長室で面接することにした。

「なんでもいいから君のことを話してほしい」。校長室にやって来た次男は、10年に及ぶ認知症の末に祖父が2日前に亡くなったことを語った。

それからこんなやりとりが続く。「ずっと病気でした。ええと、いろんなことを忘れる病気で」「認知症(ディメンシア)か」

次男も、読者である私も、認知症を「ディメンシア」ということを初めて知る。そして、そのあとに校長先生が付け加える。

「十年か。長いね。長いお別れ(ロンググッドバイ)だね」「なに?」「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」

このくだりに触発されて、盛田さんは自分の介護体験記に「ロング・グッドバイ」を使った。私もまた、「ディメンシア」に関する検索を重ね、専門的な説明に触れた。

たとえば、『マンガぼけ日和』に出てくる「中核症状」だが、これは脳の働きの低下によって起きる記憶障害や判断障害などを指すという。

小説を読み、検索を重ねるたびに、認知症は「敵」ではない――そんな意識に変わっていく。

2024年5月8日水曜日

みこし渡御

                     
 なんというか、これもメリハリのひとつなのかもしれない。4月の終わりから5月初めの大型連休に、背広を着てネクタイを締める日がある。

 今年(2024年)は、前半が4月27~29日、後半が5月3~6日と休みが分かれた。平日も含めると、5月1日は回覧資料を配り、翌2日は私用で出かけ、4日には地元の立鉾鹿島神社の祭典に出席した。6日には所属する団体の仕事をした。

 新型コロナウイルスが猛威を振るっている間は、祭典の規模を縮小し、招待の案内がなかったこともあって、大型連休もただ家にこもってやり過ごすだけだった。

 去年から祭典への招待が復活した。わが家から神社までは歩いて10分もかからない。自宅前の旧道からまっすぐ北へ古い参道が伸びる。

 鳥居と本殿の間にはJR常磐線が通っている。例大祭の日だけはここをみこしが渡った。それで、JRの職員が線路に立って安全を確保した。

平成25(2013)年に初めて線路、いや「参道」を通って祭典に出席したときの様子をブログに書いた。それを抜粋・再掲する。

――拝殿で祭典を執り行ったあと、みこしがためらうことなく目の前の線路を横切って行った。

わが家の前の道路は、近世には「浜街道」、明治になってからは「陸前浜街道」(旧国道6号)と呼ばれた。

わが家の斜め向かい、旧道沿いの参道入り口に神社名が刻まれた石標が立つ。それからまっすぐ250メートルほど伸びた参道の奥に一の鳥居がある。二の鳥居は線路の向こう、社務所のわきに立つ

 同神社は、大同2(807)年以前には創建されていたことが、社伝からわかるという。社殿が現在地に落ち着いたのは、江戸時代以前の天正5(1577)年。

明治30(1897)年、常磐線の線路がその参道を横切って設けられた。ハレの日に堂々とみこしが線路を渡っていくのは、そこが参道だから当然か。

 明治になって日本の近代化の一翼を担った鉄道だが、神社のハレの日にはもとの参道に戻る。JR関係者2人が線路に立って、みこしの渡御を見守った――。

 このみこしが、去年に続いてトラックでの巡行となった。線路を渡らずに、西側の新しい参道を利用して域内を巡行する。

 わが家の近くでサカムカエが行われる。やって来るのは午後遅く。太鼓の音が聞こえ、やがてトラックに乗ったみこしが到着する。

道路向かいの郵便局駐車場からサカムカエの場所まで青年がみこしを担ぐ=写真。コロナ禍前は旧道を「ワッショイ、ワッショイ」とやったものだが、青年の数も少なくなったようだ。

これも少子・高齢社会の一断面なのだろう。地域の伝統行事をどう守り、どう維持していくのか――関係者の胸中が察せられる「時代の変化」ではある。

2024年5月7日火曜日

雑誌を買う

                                
 年金生活に入ってからはよほどのことがない限り、本も雑誌も買わなくなった。代わりに図書館の新着図書や古くなった雑誌を借りる。

 それでも手元に置きたい、あるいは読みたいのに図書館にない、といったときには本屋へ足を運ぶ。

 SNSで「ナショナルジオグラフィック日本版」の4月号が目に留まった。表紙にオオトガリアミガサタケの写真が載っている。その下に「不思議いっぱい菌類の世界」という文字が躍る。

 カミサンを乗せていわき市暮らしの伝承郷へ行ったついでに、鹿島ブックセンターへ寄った。新書や単行本を眺めているうちに、「ナショナルジオグラフィック日本版」4月号を思い出す。

雑誌コーナーへ行くと、あった=写真。迷わず買う。ナショナルジオグラフィックだから、どちらかというと写真が主だ。今度の特集でも、意想外なアングルとライティングの写真がほとんどだった。

とはいえ、雑誌の性格からして、菌類は最初のおよそ30ページ、全体の4分の1ほどだ。ほかにも「砂漠にできたファッションの墓場」がある。それは16ページに及ぶ。

さて、菌類の記事は――。4章仕立てだ。「前書き」に当たる部分では、「私たちが知る地球上の植物や動物の多くが菌類なしでは存在できない」と記す。

そして、第1章「自然界の奇妙なヒッチハイカー」。この100年ほどで人と物の移動がかつてなく活発になった。

「菌類も植物の輸送に便乗したり、風に乗って遠くに運ばれたりして、地球規模の旅に出た」

気候変動のおかげで、「以前は気温や湿度が低すぎて定着できなかった地域で大いにはびこっている」。

第2章「謎に包まれた菌界」。「科学者は菌類を系統樹で独立した界(菌界)に分類しているものの、その大半の種をまだ知らない」

第3章「人体に潜む菌類」では、薬用キノコなど、人類の味方にも敵にもなり得る生物としての菌類を紹介し、「菌類を医療に生かす研究の進展を占ううえで、参考になるのはペニシリンの登場だ」と、新しい成果に期待を寄せる。

驚いたのは、最後の第4章「未来のファッションを育てる」だ。「アパレルの世界では、菌糸を利用した人工皮革『キノコレザー』など、環境にやさしい新素材が生まれつつある」という。

オランダのある企業は液体培養技術で菌糸体を育て、バッグや服、ランプシェードも作っている――そんなところまできた。

文学や思想などを扱う芸術総合誌「ユリイカ」が、2022年5月号で「菌類の世界――きのこ・カビ・酵母」を特集した。

そのなかで、アメリカではキノコの胞子を植えつけた「きのこスーツ」を着て埋葬された俳優がいた、オランダではキノコの菌糸体を原料にした「生きた棺」が開発された、といったことが紹介されていた。

ナショジオの第4章とユリイカの「きのこスーツ」や「生きた棺」はどこかで重なり合い、連動しているのではないだろうか。

2024年5月6日月曜日

ブロックと菜の花

                     
 夏井川の堤防を通るのは、ほぼ1週間ぶりだった。新年度が始まって1カ月余り。区内会その他の用事が続いて、街の図書館などへ行くヒマがなかった。

 4月に入ると、堤防は菜の花で黄色く染まった。土砂除去工事が続く右岸でも、波消しブロックの間から茎がのびて花を咲かせていた=写真。

 そのブロックの花が、5月2日に見ると消えていた。こちら側(左岸)の堤防の黄色もだいぶ色あせて、少なくなっていた。

田んぼも水が張られ、大型連休が終わるころには、神谷耕土もおおむね青田に変わる。それはいつもの光景だが、菜の花を咲かせたブロックは初めてだった。

ブロックの形が変わっている。人によっては大きく口を開けたカバに見えるらしい。アルファベッドでいう「C」のように湾曲している。

 検索をかけると、いろんな形状の波消しブロックが現れた。よく知られたのは截頭円錐(せっとうえんすい)体のテトラポッドだ。登録商標なので、メディアでは「波消しブロック」と言い換える。

の字」ブロックは、製品名が「ジュゴン」。護岸の消波工、河川の根固めに使う、とあった。これも書くときには「波消しブロック」だろう。球面体なのでやわらかい感じがし、周りの景観に調和する、ともあった。

 土砂除去から始まって、堤防には護岸ブロックが施され、その手前にジュゴンが整然と並べられた。それが最終形態かどうかはわからないが、大水から堤防を守る備えにはちがいない。

 さて、1週間ぶりに堤防を通って気づいた「変化」がもう一つある。「川中島」だ。北白土(右岸)側は堤防の基礎部分まで土砂が撤去されて、一見「大河」の風情を醸し出す。

 ところが、もともと水量が少ないこともあって、夏井川は平地の下流域に入ると勢いが減衰し、「川の3作用」(侵食・運搬・堆積)に従って、浅瀬に砂がたまる。

 それだけではない。田植えの時期を迎え、夏井川両岸の田んぼに川から水が引かれる。なおさら本流の水量と勢いが失われる。

 これまでにも田植えの最盛期を迎えると、夏井川は各所で「川中島」ができた。

 その夏井川で旧建設省の「ふるさとの川」整備事業が行われたのはいつだったろう。30年以上前だったのではないか。

親水空間をつくるのが目的で、鎌田地区では川幅が広げられ、広場や階段が設けられた。

が、結果として「川中島」ができた。中島にはやがて草が生え、ヤナギの木が茂った。

 鎌田の下流、平・山崎(右岸)では堆砂除去と県道付け替え工事、河川拡幅工事が行われた。野球場が2面も取れるような河川敷になった。

しかし、それもつかの間、一面に草が茂り、岸辺にはびっしり若いヤナギ林が形成された。

そして、令和元年東日本台風による災害復旧・強じん化工事によって、大々的に土砂除去工事が行われた。

川中島が常時見られるようになると、流れは二つに分断される。いずれはまた土砂が堆積する。そのことは覚悟しておくべきなのかもしれない。

2024年5月2日木曜日

やっぱり蚊だ

                     
 4月下旬のことだ。知り合いがフェイスブックに蚊の写真を載せた。そのあとまた、別の人間が蚊の写真をアップした。蚊に刺された最初の日の記録だとすると、今年(2024年)もだいぶ早い。

 まさか4月にはないだろうと思っていたのだが……。最後の最後、30日になって目の前を飛び回るのをバシッとやったら、蚊だった=写真。

 実はその何日か前、カミサンが「庭で土いじりをしていたら刺されたらしい」といっていた。そのあと、といっても29日未明だが、寝床に蚊が現れて額をチクリとやったようだった。

毎年、初めて蚊に刺された日を記録している。去年は4月下旬に出現し、5月4日にチクリとやられた。

記録によると、2012年は5月15日、2013年は同26日、2014年は同25日。2015年は同14日だった。

ちょっと前までは、平均すると刺された最初の日が5月20日前後、最後の日が10月20日前後と覚えておけばよかった。

去年、今年と「平年」よりはかなり早く出現した。というより、蚊に刺される心配のない期間が年々狭まっている。

最後に刺された日も10月20日前後から11月にずれ込んだ。2016年は10月27日だったが、2018年は11月6日、2022年は11月後半の19日だった。

 4月30日にバシッとやったあと、右手の甲が少しかゆくなった。たぶん蚊に刺されたのだ。カミサンの情報、フェイスブックの情報を加味して、今年は4月30日を蚊に刺された最初の日として記録に加えることにした。

 このとき、室温は25度。玄関の戸は開いていた。茶の間のガラス戸は、4月ではまだ開ける気にはなれない。代わりに着ているものを、寒暖の動きに合わせて脱いだり、はおったりする。

半そででは時間帯によって寒くなるので、長そでをまくってしのぐ。毛糸のチョッキに代わって、薄手のベストに替えたが、それでも急に寒くなるとこたえる。

 去年の晩秋まで使っていた缶入りの蚊取り線香が、座いすの後ろにある。11月になっても蚊が飛び回っていたので、ガラス戸のそばからちょっと隅っこにずらしておいた。

 まだ去年の線香が残っている。それを使いながら、新しい蚊取り線香を調達する。ホームセンターやスーパーにはもう、目立つところに蚊取り線香の缶や箱が置いてある。

 晴れた日には茶の間にも熱がこもるようになった。それを防ぐために、座いすの後ろのガラス戸を開ける。

 すると、チョウも蚊も入ってくる。蚊を避けるために線香を焚く。それがまもなく始まる、と自分に言い聞かせる。

地球温暖化は地域温暖化。蚊の活動している期間が長くなっていることからも、それがわかる。

2024年5月1日水曜日

オナガが現れる

                     
 夏井川渓谷の森は早くも初夏の装いに変わった。隠居の玄関前にあるコバノトネリコ(アオダモ)が淡い緑の葉をつけ、円錐状に白く小さな花のかたまりをつけている=写真。

 大型連休前半が終わった。とはいえ、毎日が日曜日で月曜日のような年金生活者には、連休の感覚はない。現に区内会その他の仕事や用事が続く。

 それでも、日曜日には気分転換が欠かせない。4月28日の朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 滞在時間は正午までの2時間ちょっとだったが、その間ずっと鳥の声が耳に飛び込んできた。

 いつもは平地の夏井川の堤防でウグイスの初音を聞き、ツバメの飛来を目撃する。

しかし、この何年か平地の川では土砂除去と強じん化工事が続き、岸辺の木々と河原のやぶが姿を消した。すると、ウグイスのさえずりも消えた。

 それもあって、今年(2024年)のウグイスの初音は渓谷で聞いた。ツバメは隠居へ行く途中、平窪あたりで遭遇した。

渓谷に定着した籠抜け鳥のガビチョウ(中国原産)は、4月前半はまだ静かだった。ところが、4月最後の日曜日はどうだ、ひっきりなしにさえずり、それに負けまいとウグイスもさえずる。

ほかの鳥もさえずっていたようだが、ガビチョウのやかましさにかき消されて、よくわからなかった。

そうこうしているうちに、少し大きな鳥が隠居の坪庭のカリンの木に止まった。オナガ(尾長)だった。私は居間にいた。

その距離ざっと4メートル。枝に止まって黒い頭、青白い体と長い尾を見せたかと思うと、すぐ飛び去った。もう1羽が付き添うように後を追っていった。

拙ブログにオナガを見たときの記録が残っている。東日本大震災のほぼ1カ月前、平地の夏井川の堤防を散歩していたときに、河原のヨシ原に止まっていたのを目撃した。その記録を要約・再掲する。

――オナガはカラスの仲間だ。昔は、いわきにはいなかった。関東から移動してきた。

私が初めて目撃したのは1990年代だったように記憶する。黒い頭、淡い灰褐色の背中、青灰色の翼と尾。この尾が長いので、オナガ。色の組み合わせがいい。しゃれている。

いつも同じところにいる、という鳥ではないようだ。いわき駅裏の物見ケ岡、夏井川渓谷、新舞子の海岸林、夏井川下流の河畔林と、さまざまな場所で見かける。

しかし、それは3カ月ぶり、半年ぶり、そんなサイクルでのこと。一度現れると、しばらくは姿を見せない――。

 渓谷でオナガを目撃したのも久しぶりだ。通い始めて30年近く。夏鳥のアカショウビンの鳴き声を一度だけ聞いたことがある。それと同じように、めったに現れない鳥ではある。

 そうそう、初夏の鳥の声でいえば、カッコウの鳴き声が消えてだいぶたつ。カッコウはオオヨシキリなどに托卵する。

 震災の年の夏、夏井川の堤防で、それこそ久しぶりに「カッコー、カッコー」の声を聞いた。その後はまた沈黙したままだ。この喪失感はどうしようもない。