2024年5月31日金曜日

ワラビの味噌漬け

                     
 春の大型連休をはさんで、フキやコゴミ(クサソテツ)といった山菜、栽培物では越冬して開花し、実が若いサヤエンドウのお福分けが続いた。

 夏井川渓谷の隠居の庭にはフキが出る。早春のフキノトウ、初夏の若いフキがてんぷらや汁の実、炒め物になって食卓に上る。それでも余る。これらも鮮度を保っているうちに、お福分けに回る。

 素材そのもののほかに、このごろは調理されたものが届く。ありがたい。下準備の手間が省ける。カミサンは器に盛るだけ。私もよその人の料理が楽しめる。

 高齢になって独り暮らし、あるいは夫婦だけという家庭が増えた。食べる量が減ったことも、調理済みを歓迎する理由のひとつだろう。

 というわけで、5月は山菜のお福分けのおかげで、あっさりしたおかずが多かった。ときには、何かボリュームのあるものを、と思わないでもなかったが、老夫婦プラス義弟の3人だけでは、量に不服はない。

 山菜は、昔からの食べ方しか思い浮かばない。いや、それが普通だと思っていた。ところが、料理はアイデア次第でいくらでも変わる。

料理そのものが創造的な営みだということは、テレビの料理番組を見ればわかる。同時に、自分でも糠漬けを続けていて、しばしば実感することだ。

先日、ワラビが食卓に出た=写真。味噌漬けだという。ワラビの味噌漬け? 最初はいぶかしがったが、口に入れると、これが「いける!」。

お福分けをよく携えてくるカミサンの茶飲み友達が、「友達がつくったものだ」といって持ってきてくれたという。

お福分けのお福分けだ。ワラビの味噌漬けは初めてだったので、ネットで情報を探ると、いろいろ出てきた。

まずはワラビをゆでる。すぐ冷水にとって一晩さらす。ぶつ切りにしてタッパーに入れ、味噌と味醂をまぜて、冷蔵庫で一晩保管すると翌日には食べられる、とあった。

洗ったワラビを味噌の中に並べる。味噌はワラビ全体にしっかりつける。1~2日で表面に水が出てきたら食べられる、ともあった。

ちょうだいした味噌漬けのワラビも、たぶんどちらかのやり方で出来上がったものにちがいない。

味噌漬けだけでなく、ワラビの糠漬けもあった。こちらはアクを抜いたワラビを糠床に入れるだけ。2日くらいたつと食べられる。茎はオクラのような粘りがあるという。

夏井川渓谷では4月末になるとワラビが採れる。摘んだあとから子ワラビが現れる。これも摘む。夏には次の年のことも考えて、摘むのを最後にする。これを「終わり初物」という。

終わり初物には早いが、ワラビはもういい。糠漬けを試すとしたら来年だ。スーパーから買ってきて、糠床を再開すると同時に漬けてみようか。

創造力という点では、文学や音楽、美術などを思い浮かべることがほとんどだったが、料理もまたそうだ。

日常生活の中では食欲が最も創造力と結びついている。私のなかでは、今や料理は文学を超えている――そんなことをときどき思う。

2024年5月30日木曜日

歴史探偵の本のエキス

                              
 店の一角でカミサンが地域図書館「かべや文庫」を開いている。月に1回、移動図書館「いわき号」がやって来て、借りる本を更新する。

 今回はどんな本を選んだのかな――。およそ30冊ある本の背表紙をながめていたら、半藤一利さん(1930~2021年)の『歴史と戦争』(幻冬舎新書、2018年)があった=写真。

 借りて読んでいるうちに、最近、陸上自衛隊のある連隊がSNSで「大東亜戦争」という言葉を使い、のちに削除したことを思い出した。

 『歴史と戦争』は、半藤さんが90歳で亡くなる3年前、80冊以上の著書から日本の戦争に関する文章を抽出し、同時に幕末以降の近代史の流れを浮き彫りにするという、ちょっと変わったスタイルの本だった。

 いわば、半藤さんの本のエキス、思想の源でもある。女性編集者2人の連係プレーで、本人も「ウヒャー」と驚くような新書ができた。

 「大東亜戦争」に関する見解が明快だ。当時のリーダーたちは「大東亜戦争」という言葉を、表と裏で使い分けていたという。

「対米英戦争は、アジアの植民地解放という崇高な目的をもった戦いであった、ゆえに大東亜戦争と呼称すべし」。時折、抗議の手紙が届いた。

これに対して半藤さんは、昭和18(1943)年5月の御前会議で決定した「大東亜政策指導大綱」第6項を例に挙げる。

「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。……これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」

半藤さんはそのあと、舌鋒鋭く断罪する。「アジア解放の大理想の裏側で、公表できないような、夜郎自大な、手前勝手な、これらの国々の植民地化を考えていた。この事実だけは、二十一世紀への伝言として日本人が記憶しておかねばならないことなのである」

「夜郎自大」は、自分の力量を知らない人間が、仲間の中で大きな顔をしていい気になっていることをいう。原文は『昭和史残日録 1926―45』に収められている。

満州国とモンゴル共和国の国境線をめぐってソ連軍と戦い、日本軍が敗退した「ノモンハン事件」については、学ぶものが5つあるという。

「当時の陸軍のエリートたちが根拠なき自己過信をもっていた」「驕慢なる無知であった」「エリート意識と出世欲が横溢していた」「偏差値優等生の困った小さな集団が天下を取っていた」

そして、最後の5番目。「底知れず無責任であった」。これは今でも続いている、という。

「大東亜戦争」の言葉の裏にも通じる、リーダーたちの身勝手さと無責任さ。半藤さんが繰り返し指摘してきたことは、実はこれだったのかと納得がいった。

2024年5月29日水曜日

うどんの冷やだれ

                              
 いわき昔野菜保存会の総会が開かれた。終わって交流会に移り、2月に実施した昔野菜フェスティバルを振り返りながら、昔野菜(伝統野菜)の栽培や調理の話になった。

 フェスティバルの行事の一つ、種の交換会では昔野菜を食べてみたい人が多いことを実感した。作物や栽培方法などを写真で視覚化すると、より理解が深まる――そんな意見も出たという。

 容器に土を入れてナガイモを栽培した人は、写真を見せながらそのやり方を解説した。

ペットボトルで大根を栽培する人もいるという。これもナガイモと同じベランダ栽培の一つだろう。

 ネットで確認したが、ペットボトルの上部をカットし、底部に排水穴を開ける。ボトルに鉢底石を入れて土を詰める。表面に3カ所、種をまいて、いい苗を1本残す。あとは畑と同じやり方で育てる。

このあと、話が思わぬ方向に発展した。長年、ジュウネン(エゴマ)を栽培している人がいる。夏の食べ物にジュウネンを使った「そうめんの冷やだれ」がある。今度、「うどんの冷やだれ」を試食しよう、うどんはもちろん自家製で――。

 「そうめんの冷やだれ」には思い出がある。平成5(1993)年度から2年間、いわき地域学會がいわき市の委託を受けて、伝統郷土食調査を行った。それが同7年3月、『いわき市伝統郷土食調査報告書』として刊行された。

 カツオやサンマなどの浜の料理のほかに、山菜や野菜などの料理がレシピ付きで紹介されている。

 調査委員の一人として編集・校正を担当した。そのなかで一つだけ、調査を提案した料理がある。「そうめんの冷やだれ」だ=写真。

いわき市の南部、山田町の後輩の家で夏の暑い盛りにこれを食べたことがある。たれにはジュウネンが使われた。

材料はサンショウの皮(1週間ほど陰干しにしたもの)・ジュウネン・味噌・水・醤油で、そうめんは太めのものを使う。

報告書のレシピによると――。まず、サンショウの皮をフライパンで乾煎(からい)りする。弱火から中火でさっと炒り、ジュウネンも加える。これもさっと炒る。

これらを擂り鉢にあけて擂る。味噌を入れてさらに擂り、徐々に水を加えてのばしたあと、醤油や化学調味料などで味を調える。

わが家でも、暑い盛りにはジュウネンの冷やだれでうどんを食べる。拙ブログによれば、月遅れ盆が終わり、あまりの酷暑にげんなりしていたとき、カミサンが庭からミョウガの子を摘んで、ジュウネンの冷やだれをつくった。

茶の間を避けて寝室で本を読んでいたら、ジュウネンを炒って擂る香りが漂ってきた。それに食欲が刺激された――そんなことを書いていた。

阿武隈高地では、「よごし」といえばゴマよりはジュウネンのことが多い。彼岸には「ジュウネンぼたもち」(春)、「ジュウネンおはぎ」(秋)もつくる。

いわきの昔野菜はやはり、ジュウネンが代表(もう一つは小豆の「むすめきたか」)ということになるようだ。

2024年5月28日火曜日

飲み屋街の昼火事

         
 日曜日(5月26日)の昼前、夏井川渓谷にある隠居の庭で土いじりをした。間もなく正午という時間、隠居に戻ってスマホをチェックすると、いわき市平・田町の飲み屋街で火災になっていることを知った。

 飲み屋街の近くに住む知人がフェイスブックに画像をアップしていた。炎と黒煙が激しく立ち昇っている。これはオオゴトだ!

 すぐ正午になった。ラジオ(NHK)が中央のニュースを伝え、東北地方のローカルニュースに切り替わって、2番目に田町の昼火事を報じた。

 午前10過ぎに出火した。消防車が何台も出動した。それだけではない、延焼中だという。これはいよいよオオゴトだ。

 田町は言うまでもない、いわきで一番の飲み屋街だ。狭い路地に飲み屋が密集している。しかも、ほぼすべてが低層の雑居ビルだ。

 ボヤならともかく、建物全体に火が回ると、何軒ものスナックやバーが被災する。隣接する雑居ビルも同様だ。

 昼食のために、ほどなく街へ戻った。国道399号を利用していわき駅前に近づくと、飲み屋街の西側、レンガ通りが通行止めになっていた=写真。

 半分透明な煙が漂っている。南西から北東へと風が吹いていて、並木通り(国道399号)を駅方面に向かうと、きな臭い匂いに包まれた。田町の東側、銀座通りも通行止めになっていた。

 家に戻ってからはメディアの報道に触れ、SNSにアップされた情報を探った。ストリートビューで火に包まれたらしい通りをチェックすると、覚えのある店の看板に出合った。やはりヒトゴトではない。

 鎮火したのは夜の9時半過ぎ。ざっと12時間近く燃えていたことになる。けが人などはなかったようだ。が、鎮火までの時間を考えると、大変な事態になったものだ。

翌月曜日の朝、さっそく新聞で状況を確認する。県紙は、鎮火時間は入れたものの、詳細は不明のまま。警察と消防の調べが進まないうちに締め切り時間がきたようだ。全国紙の朝日には、記事はなかった。

 空から現場を撮影したような写真があった。古巣のいわき民報もその一つだった。位置からみて、銀座通りにあるラトブの上の階、エレベーターフロアの窓際から撮影したようだ。

 私もラトブの総合図書館(4~5階)に行くと、窓越しによく田町方面を眺める。それでなんとなく撮った場所が推定できた。

 古巣が田町の北側、並木通りにあったため、昔はよく田町に繰り出した。本町通りと並木通りの間には、南から「紅小路(べにこうじ)」「新田町通り」「仲田町通り」の三つの路地がある。

 火事に遭ったのは新田町通り~紅小路にはさまれた一角だ。若いころ、同僚、あるいは同業他社の記者とカウンターに並んだ店も焼けてしまったか。

被災した飲み屋は12棟で数十軒という報道がある。どの店にも経営者がいる。常連客がいる。そのつながりを、これからを想像するだけで暗澹たる思いになる。

2024年5月27日月曜日

庭の若葉

                              
 カミサンの実家の庭は和風の「庭園」になっている。義父が造った。その血を引いたのか、カミサンが時折、家の生け垣を剪定したり、草むしりをしたりする。

 手入れまではいかないが、私も気がついたら芽をむしる、茎を引っこ抜く、ということをやる。

 早朝、新聞を取り込む。日中、気分転換を兼ねて庭に出る。特に春から初夏にかけては、つる性植物や侵略的外来種が目に付く。

 そもそも庭にどんな木が、草が生えるのかさえよくわかっていない。春になると地面から次々に緑が現れる。落葉樹が芽吹く。常緑樹も新芽を吹く。

 たぶん鳥が種を運んで活着したのだろう。4月には常緑の葉の先端に、白い羽毛をまとったような新芽が出た=写真。

 そんな新芽が付く常緑樹は、ネットで検索するとシロダモらしい。いちおうそれを前提にして書く。

新芽は、遠目には白っぽく見えるが、そばに行って真上からのぞくと緑色に変わる。いわゆる「産毛(うぶげ)」で、生まれたばかりの芽を、太陽の強い光や乾燥、あるいは害虫から守る役目があるそうだ。

新芽が大きくなるにつれて産毛は減っていき、やがては古い葉よりは少し淡い緑色になる。写真を撮ってからおよそ1カ月。新旧の緑の違いは目を凝らさないとよくわからない。

シロダモはまだ幼木だ。手をかける必要がない。ところが、気にかかるのは侵略的外来種のフランスギクだ。

種をまいたわけでも、苗を植えたわけでもない。なのに、庭の生け垣のへりに、真ん中が黄色くて周りが白い花がびっしり咲く。

最初、マーガレットかと思ったが、そうではなかった。マーガレットは葉が羽状で切れ込む。フランスギクは茎につく葉がヘラ形で互生している。それでわかった。

原産地はヨーロッパで、日本の侵略的外来種ワースト100の中に入っている。寒冷地生まれの植物なので、亜高山や北海道では厄介者扱いをされているようだ。

毎年初夏になると、花が咲く前に茎を引っこ抜く。今年(2024年)も合わせて十数本を始末した。取り忘れて花が咲いたものもある。それらは花ごと燃やすごみの袋に入れて種がこぼれないようにする。

シンテッポウユリもそうだ。フランスギクと同様、生け垣の根元を中心に芽を出す。引っこ抜いてもまた現れる。

つる性の植物では、なんといってもヤブガラシが目立つ。今年も朝、歯を磨きながら生け垣を巡り、新芽をむしり続けた。

キカラスウリはいつのまにか生け垣に絡みつき、キュウリに似た葉をつけ始めた。これも増えてほしくない植物なので、途中からつるを切断した。2~3日たって見ると、葉がしおれていた。

ひとまず増やさないための予防はしたが、必ずどこかで穴が開いている。ヤブガラシが見えないところで花を咲かせることになる。蔓延を防ぐにはときどき手をかけてやらないといけない。

2024年5月25日土曜日

ミョウガタケを収穫

                                
 夏井川渓谷にある隠居の庭では、私が野菜(三春ネギ)を栽培している。カミサンはハーブなどの園芸種を植え始めた。

 野菜はスペースが若いときの半分以下になった。その分、カミサンの守備範囲が広がった。

 隠居へ行くたびにカミサンは草むしりをする。きれいになったカミサンのエリアに、ニョキニョキとミョウガタケが現れた。

 前からミョウガはあった。が、すぐ草にまぎれてしまうので、ふだんは忘れている。草を引き抜くとけっこうな数の新芽が出ていた。葉先を含めて30センチ近くなった若芽をカットした=写真。

 食べ方は決まっている。まずは汁の実だ。細かく刻んだのをみそ汁に散らす。さわやかな香りと、ほのかな苦み、そしてシャキシャキした食感を楽しんだ。

一夜漬けもいい。カブとキュウリを刻み、風味用として庭のサンショウの木の芽とミョウガタケをみじんにして加え、だし昆布も入れる。即席漬けだからこそ、風味とうまみが出る。たぶんこれが一番好きな食べ方だ。

 ミョウガは、隠居だけではない。わが家と、南隣の義弟の家の庭にもある。春はミョウガタケ、秋は茎の根元にミョウガの子が現れ、花を咲かせる。ミョウガの子も汁の実や薬味にする。

 手をかけなくても勝手に出てくる、土の味、和のハーブだ。しかし、汁の実や一夜漬けだけでは物足りない。このごろは糠漬けも試すのだが、これが難しい。失敗と成功の繰り返しだ。

最初は、初夏のミョウガタケを10センチくらいの長さにして漬けたが、イマイチだった。浸透圧がよくはたらかない。

細いわりには硬いので、塩味と滋味がしみこむには時間がかかる。キュウリは1日もかからないが、ミョウガタケは3日ほど漬けてやっとしんなりする。

皮をむかないで入れたウドがそうだった。皮をむいたとたん、すぐしんなりしてうまかった。

ミョウガは皮の連続だから、むくわけにはいかない。いや待て、縦に4つ割りにしたらどうだろう。

4つ割りでは細すぎる。縦に切れ込みを入れるだけにして浸透圧がはたらきやすくしたら、細いところは1日でしんなりした。

それでも、試食したらやや硬い。太めの2本を糠床に残し、取り出すのをさらに1日遅らせると、ようやくしんなりしてきた。

ミョウガの風味は確かにある。とはいえ、子どもの小指くらいの細さだ。それを刻んで食べるわけだから、箸ではつまみずらい。食べ方が面倒だ。それに、食べても筋が残る。

ミョウガタケは、夏になると丈がのびて硬くなる。現役のころ、土曜日に隠居に泊まり、庭からミョウガタケを取って来て、小口切りにして味噌汁に放したが、硬くて食べられたものではなかった。

その意味では旬の時期が短い。今回が今年(2024年)の初物だったが、もう「終わり初物」にしないといけないようだ。

わが家のミョウガタケは、先端の葉も含めて1メートル近くになった。芽が出たなと思ったら、もう「終わり初物」を通り越した。

2024年5月24日金曜日

「集金」が集中

                              
 庭のエビネの花=写真=が満開になったのは4月下旬。その後、あれこれやることが続いて、ブログでエビネを取り上げる機会がなかった。さすがに5月も中旬に入ると花は散った。

 あれこれのほとんどは、行政区と所属する団体の事務のようなものだ。行政区の場合はコロナ禍後の行事再開が大きい。

 3月は年度末のあれこれ、4~5月は年度初めのあれこれが続く。コロナ禍で行事が3年ほど中止になったこともあって、復活後はなんとも仕事のリズムがつかめない。

 行政区のあれこれは、ほかの行政区も含めた地域全体の年間行事に基づくものが多い。

 新年度に入ると、区費のほかに各種団体の会費、あるいは協賛金、募金などのお願いがくる。

 そのつど団体からの「お願い」のほかに、自分の行政区に合わせた「回覧」をつくって隣組に配る。

 隣組に入っている世帯はもちろん、それを取りまとめる班長さんが、いつまでに、だれ(担当役員)に届けるかを、はっきりさせる意味もある。

 5月20日付の回覧資料は、行政からのものが1件、地元の団体のものが2件、いずれも集金を伴うものだった。

 さらに、6月9日の「清掃デー」(春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動)に伴うごみ袋配布が重なった。

 集金は、市社協からの赤十字会費、地元の体育協会協賛金、青少年育成市民会議の支部会費で、それぞれ色の異なる封筒に芳名簿を添えてお金を集めてもらう。

 これが実はなかなか難しい。どうやったら班長さんが混乱せずにとりまとめられるか。資料を振り分ける私自身がいつも悩んでしまう。

 で、今はそれぞれの封筒に必要な書類をはみ出すように差し込んだうえで(そうしないと、封筒そのものを見落としてしまう可能性がある)大きな袋に詰め、さらに行政区独自の「回覧」を添える。

 そのために心がけているのが、現役のころにたたき込まれた「わかりやすく伝える」記事の書き方だ。とにかく読めばわかる回覧をつくり、混乱を減らす。

 配布をすませると、さっそく問い合わせの電話がかかってきた。いちいち芳名簿に署名をしてもらうのか――。

 原則はそうだが、隣組によっては年間の必要経費をあらかじめ集めているところがある。そこは班長さんの判断にまかせるしかない。そうすることで現実がうまく回っていくならいいではないか、という思いがある。

 区内会の半数近くを占める集合住宅には3人の役員がいたが、今はなり手がいない。私ら周辺の人間が役員を代行している。

 その集合住宅でも班長さんは後期高齢者、という場合がある。こちら(役員)も後期高齢者だ。現実的な対応を優先するしかない。

お金がからむときには、とにかく間違いがないように――それだけを念じるのだが、やはりといったらいいのか、ちょっとした解釈の違いが起きるようになった。

それを避けるための「回覧」のはずなのに……、もっと文章をわかりやすくしないといけないか。このごろはそんな思いが募る。

2024年5月23日木曜日

農学校教師宮沢賢治

           
 菌類と植物の「菌根共生」に関する本のなかで、畑山博『教師宮沢賢治のしごと』(小学館、1988年)=写真=が紹介されていた。

 20歳のころ、宮沢賢治にどっぷりつかっていた。新聞記者になって結婚し、子どもができたあとも、賢治の作品を、伝記や研究書を読んできた。

 しかし30歳を過ぎると、買っても「積ん読」に変わった。『教師宮沢賢治のしごと』は、40歳のときに買った。以来、35年も本棚に差し込んだままになっていた。

 土壌と菌類に関する記述はなかったが……。「第二章 初めての授業」に引き込まれた。

 「しめ縄」の話が出てくる。授業の冒頭、教科書を離れて賢治が「しめ縄」の解説をした。

しめ縄に細い藁(わら)を2~3本下げる風習があるが、なぜだか知っているかと、生徒に尋ねる。教え子はそのときの様子をこう振り返る。

 「『太いしめなわの本体は雲、細く下っているのは雨を表しています』というのです。そうして白いごへいは稲妻だったのですね。ぜんぜん知りませんでした」。「ごへい」は「紙垂(しで)」のことだろう。

 ではなぜそこに稲妻が出てくるのか。「それは、稲妻によって害虫が殺されるからです。稲妻はまた、空気中のチッソを分解して、雨と一緒にじょじょに地中に染み込ませます」

農家にとっては、雷雨は恵みをもたらす自然現象だ。五穀豊穣の祈りがしめ縄という形に昇華した、ということらしい。

著者の畑山博ではないが、教え子の証言を通じて、単なる読者にすぎない私もまた、賢治の授業を受けているような気持ちになった。

大相撲の夏場所が開かれている。横綱の照ノ富士は早々と休場したが、横綱の土俵入りこそが賢治のいうしめ縄の意味を担う。横綱とはこのしめ縄そのもののことでもあるそうだ。

相撲はもともと、豊作を祈願する神事だった。それが発展して今のようなかたちになった。

その象徴が横綱の土俵入りだろう。化粧まわしの上に純白の「綱」をしめ、柏手(かしわで)を打って、四股(しこ)を踏む。天地長久を祈り、地の邪鬼をはらい清めて安全を願う儀式でもあるという。

さて、「落雷でキノコが豊作になる」という言い伝えがある。岩手県の農業試験場が人工的に稲妻を照射し、実際にキノコの数が増えるかどうかを調べた。

すると、10種類のうち8種類で収穫量の増大が確認された。最も効果があったのはシイタケとナメコだという。なぜ増えたのか。研究チームの推論は、危機感からではないか、だった。

「キノコにとって、落雷は自分たちを簡単に全滅させる非常に深刻な脅威となる。キノコは死ぬ前に自分を再生しておかねばならないと感じ、稲妻を感知すると自動的に、成長を加速させて子実体の数を増やすのだろう」

『教師宮沢賢治のしごと』に戻る。教え子は、賢治から「とにかくこの地域の風土のことだけをよく勉強しろ」といわれた。東京へ行って百姓をするのではないのだから、が理由だった。

2024年5月22日水曜日

この花は?

                                  

   5月19日の日曜日は、正午過ぎに夏井川渓谷の隠居に着いた。街に用があるときは、朝のうちに隠居へ出かけ、少し土いじりをして隠居を離れる。19日は逆に、街で用をすませてから隠居へ行った。

 街の用事とは……。カミサンのアッシー君だ。内郷・天上田(てんじょうだ)公園で、内郷商工会青年部主催の野外イベント「GOOD TIME」が開かれた。午前11時開始に合わせて出かけた。

 公園の南隣に御厩小学校がある。校庭を駐車場に借りているはず。そのとおりだった。おかげで、知り合いの家に止めるまでもなく、会場をのんびり回ることができた。

 最後は親戚の娘さんが出店しているブースで一休みしながら、30代、あるいは40代の親と子が行き交うのを、眺めるともなく眺めて過ごした。

 会場でお昼のおにぎりセットを調達してから、隠居へ向かう。いつもは隠居の帰りにコンビニで昼食を買うか、街で食堂に入るか、するのだが、今回はその逆をやってみた。

 隠居へ着くとすぐ正午になったので、まずはおにぎりを食べる。たまたまこの日は朝から仕事が続いた。

回覧資料の振り分け・袋詰めをしてから、天上田公園のブースを巡り歩いたので、すぐ睡魔がきた。

 30分ほどで目覚めると、頭がすっきりした。そのあと生ごみを埋め、草むしりをした。前日の快晴から一転して曇り空になったが、それがかえって土いじりにはよかった。

 帰りは3時過ぎになった。帰路につくとすぐ、道端に黄色い花が咲いているのに気づいた。

 そのまま通り過ぎながら、頭の中では葛藤が始まった。「ニッコウキスゲ? かもしれない。近くの谷で見たことがある。しかし、道端では初めてだ」

 やはり気になる。途中から引き返して花を撮影した=写真。カミサンは「なんで今ごろ戻るの」と文句をいう。それはわかる。が、やはり確かめたい。

この付近の道端で咲くのはノカンゾウ、ないしヤブカンゾウだが、時期的にはまだ早い。

 花だけでなく、つぼみも黄色みが強い。やはり、ニッコウキスゲ? しかし、よく見ると花弁が細長い。ニッコウキスゲとは違う?

ネットで調べると、ヒメカンゾウというものがある。その花びらに似るが、つぼみは赤紫色に染まって膨らむのだとか。

 ここは『福島県植物誌』(1987年)に当たるしかない。まずはヒメカンゾウ。ん? ヒメカンゾウは、記載がない。福島県には自生していないということか。

 次に、ニッコウキスゲ。浜通りでは、浪江町、楢葉町、そしていわき市川前町が産地になっている。

 同誌を編集した一人、いわきの「山学校」の先生による情報として、鉛筆による書き込みがあった。

 ユウスゲ(ヒメカンゾウ同様、これも未確認らしく記載がない)が海岸にあるというので見に行ったが、ニッコウキスゲだった。あるかどうか不明。あるという人がいる以上、ないとはいえない――。

 ニッコウキスゲは海岸にも分布するから、渓谷でも十分、生息の可能性はある。としても、断定できない悲しさ。

2024年5月21日火曜日

スポーツフェスタ

                      
 地元の小学校から運動会の招待状が届いた。確か、コロナ禍で来賓の招待が中止になって4年がたつ。土曜日の午前8時半入場行進開始――とあったので、その少し前に校庭のテントへ直行した。

 雲一つない青空。熱中症が懸念される暑さになったが、やがて風が少し出てきた。テントに入っているとひんやりして、直射日光が恋しいほどだった。

 それはともかく、久しぶりの運動会に、「時代は変わった」そんな気持ちになった。

東日本大震災の2年後から地元の小学校の運動会を見続けている。入学式や卒業式にも招待された。しかし、これもコロナ禍以来、招待中止が続く。外でやる運動会が最初の「招待復活」イベントなのかもしれない。

 最初に「あれっ」と思ったのは、招待状の封筒には「運動会」と印刷されていたのが、案内状には「スポーツフェスタ」とあったことだ。

 運動会からスポーツフェスタへ――。古い人間としては、まずこの名称から記憶の更新をしないといけない。配られたプログラムも、もちろん行事名は「スポーツフェスタ」となっている。

 5・6年生の「120メートル走」や、1・2年生の「かけっこ」はそのものずばりだからわかりやすい=写真。

が、地元の新名所にちなんだプログラムなどはどんなふうにやるのか、さっぱりイメージがつかめない。

玉入れは玉入れでも、「ダンシング玉入れ」とあった。これは1・2年生の団体競技で、玉入れの合間にダンスを取り入れたものだ。

ダンス、そして玉入れ。これを2回繰り返して、かごに入れた玉の数を競う。ただの玉入れではない。ダンスと玉入れを融合させたところが新しい。

ダンスは、手の動きが速い。紅白歌合戦に出た「新しい学校のリーダーズ」や、テレビでときどき見かける、若いアイドルグループなどのダンスを連想した。

ただ、演じるのはまだ低学年生だ。ダンスのときは観客席を向いて踊るから、保護者も自分の子の表情がよくわかる。テントからも、かわいいしぐさに笑みがこぼれた。

いちおうネットで探ると、メディアも物珍しさから反応していたようだ。「ダンシング玉入れ」のルーツ探しをするテレビ番組があった。「コロナ禍の時短運動会にはおすすめ」ともあった。

あと、もう一つ。前は昼食をはさんで午後までプログラムが続いていたような気がするのだが……。

運動会、いやスポーツフェスタの花は、やはり紅白対抗リレーであることに変わりはない。それが行われたのは、午前11時半前だ。

観客席で、親と一緒になって昼食を楽しむという光景は消えた。コロナ禍と少子化もあって、時短運動会がそのまま継続されるようになったのだろうか。

2024年5月20日月曜日

ギョウジャニンニクのおひたし

                      
 旧知の消防OB氏から、今年(2024年)も川前産のギョウジャニンニクが届いた。ウドも添えられていた。

 去年、初めてちょうだいした。カミサンが聞いたところによると、奥さんの実家が川前町にある。そこでギョウジャニンニクを栽培している。それに触発されて、去年、ブログを書いた。

――ギョウジャニンニクは北海道の代表的な春の味だ。別名「アイヌネギ」。農文協の『聞き書アイヌの食事』(1992年)などで承知はしていたが、現物を見るのは2回目だ。

 最初はちょうど10年前、原発事故で双葉郡から近所に避難していた老夫婦から、パック入りのギョウジャニンニクが届いた。

 老夫婦とカミサンがいつの間にか仲良くなり、煮物や漬物を分け合ったりするようになった。いわばお福分けの一品だった。

ギョウジャニンニクは、本州でも山深いところには自生する。しかし、阿武隈高地に分布するという話は聞いたことがない。

川前は、いわきでは山間高冷地に入る。平地よりはギョウジャニンニクの栽培に向いているのだろう。

葉は鳥の羽のように長い。根元は赤みを帯びている。これが特徴らしい。似た形状の山菜にウルイ(オオバギボウシ)がある。こちらは、茎は白い。

調理法も調べる。醤油漬けというものがある。ギョウジャニンニクをよく水で洗う。生かゆでたものを刻んで容器に入れる。醤油・みりん・酒を煮たてて冷ました調味液を加えて、冷蔵庫に一晩おくと食べられる。

ほかには、てんぷら。ゆでたギョウジャニンニクを適度な大きさに切ってキムチに和えるのもいいそうだ。

まずはおひたしだ。かつお節を加え、醤油をかけて食べた。今まで経験したことのない変わった風味が口内に広がる。茎には甘みがある。歯ごたえも含めて,ニラに近いといえばいえようか――。

 今回もおひたしにした=写真。甘い。なんといっても、この甘さに引かれる。これはまさに新しい「口福」だ。貴重な山菜、いや高級食材。今回もそんな言葉が浮かんだ。

同時にいただいたウドは、先端と、むいた皮をてんぷらにした。本命は、しかし糠漬けだ。

皮をむいた茎を5~6センチの長さに切って、糠床に入れた。が、キュウリと同じように、半日とちょっと漬けてしまった。

食べやすい長さに刻んで口に入れると、しょっぱい。皮がない分、早く漬かる。それに合わせて、早めに取り出すべきだった。

水につけて塩分を抜いてからご飯のおかずにした。が、やはりこれは酒のつまみだ。池波正太郎『鬼平犯科帳』の「盗賊婚礼」に「独活(うど)のぬか漬け」が出てくる。

「清水門外、役宅の寝間で長谷川平蔵は久栄に肩をもみほぐしてもらいながら/『ああ極楽、極楽!』/独活のぬか漬けを肴に寝酒をやっていた」。肩もみも寝酒も、頼んだら張り倒されるが、ウドはやはりこれに限る。

2024年5月18日土曜日

経過観察

                      
 大腸のポリープを切除してから2年がたつ。その後の状態を確かめるために、かかりつけ医を介して基幹病院で消化器の内視鏡検査を受けた。

 まずはドクターに会って、検査日を決める。そのための相談日が決まった。2年前と違って付き添いが必要だという。

 なぜ? たぶん後期高齢者になったからだ。一人で大丈夫、といってもしかたがない。カミサンが付き添うことになった。

 担当のドクターは前回と同じだった。初日はこちらの予定と照らし合わせながら、何日に胃カメラ、何日に大腸内視鏡と、検査日を決めるだけで終わった。

検査には一人で出かけた。カミサンは店をやっている。胃カメラはすぐ終わるが、大腸は下剤の投与から病院ですることにしたので、長丁場だ。帰りは夕方になる。家を留守にするわけにはいかない。

で、結論からいうとどちらにも変化はなかった。結果はかかりつけ医に伝えておきます――つまり、「今回はこれで終わり」になった。

ただ、食事には制限がかかった。特に大腸の場合は、検査前日の朝から注意が必要だった。

病院からもらったチラシ(「おすすめメニュー」)は、前回のものと同じだ。朝食=食パン(具なし)・ポタージュスープ(具なし)・バナナ・ヨーグルト(プルーン)。昼食=素うどん・卵焼き(具なし)。夕食=雑炊(卵・ささみ入り)・みそ汁(具なし)・焼き魚(皮なし)・豆腐(薬味なし)。

今回もこのどれかを組み合わせて、朝・昼・夕と食事をとった。みそ汁にはナメコもワカメもない。汁をすするだけ。うどんは薬味も具もない。

今回も、胃腸にはやさしいが、食べる楽しみからするときわめて味気ないものになった。

検査当日の朝もチラシに従って食事を控えた=写真。下剤は、今回は病院で飲んだ。

午前中に検査をするとなると、自宅で、未明から下剤を飲んで大腸をきれいにしないといけない。

下剤の量は1・5リットル、それに水をその半分の750ミリリットル。コップに何回も分けてゆっくり飲む。

そのうち洗浄液のまじった排便が始まる。落ち着くまで2時間前後は飲む・トイレへ行く、を繰り返す。

 カミサンがこれを嫌って、病院でやってくれという。そのために、下剤は午前中、病院で飲み、検査は午後からというスケジュールになった。つまり、昼食もとるわけにはいかない。

というわけで、都合3日、病院へ通った。窓口で支払いをすませるために精算を待つ間、いすに座っていると、次々に患者が通り過ぎていく。

 その数の多さに、久しぶりに目を見張った。JR上野駅ほどではないにしても、それに近い込みようだ。

不特定多数の人が行き交う建物としては、やはり浜通りで一番ではないか、と思った。

2024年5月17日金曜日

『木村孝夫詩集 持ち物』

           
 13年前の東日本大震災と原発事故以来、一貫して被災者と避難者に寄り添って詩を書き続けている。

 いわきの詩人木村孝夫さん(平)。若いころからお名前は知っていた。が、実際にお会いしたのは震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわき市で交流スペース「ぶらっと」を開設・運営していたときだ。

 カミサンがシャプラの会員、私がマンスリーサポーターだったので、半分は運営側の人間として「ぶらっと」にかかわった。

 木村さんはそこにできた将棋クラブの一員だった。以来、シャプラが5年に及ぶ活動を終えてからも、夫婦ぐるみで付き合いを続けている。

 木村さんは震災後、『ふくしまという名の舟にのって』(2013年)、『桜蛍』(2015年)、『夢の壺』(2016年)と、精力的に詩集を出した。

 その後も、ポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』(2018年)、同『六号線――140文字と+&の世界――』(2019年)、モノクローム・プロジェクト(兵庫県)のブックレット詩集20『福島の涙』(2020年)と刊行を続けた。

 さらに、2021年春には詩集『言霊(ことだま)』(純和屋)を、翌2022年もモノクローム・プロジェクトのブックレット詩集27『十年鍋』を出している。

『ふくしま――』は福島県文学賞・詩の部門正賞、『福島の涙』はいわき民報社のふるさと出版文化賞優秀賞を受賞した。

と、ここまで書いてきて、木村さんの詩魂の強靭さにあらためて驚く。その思いの強さ、深さは『桜蛍』のあとがきからもうかがえる。

「できるだけ避難者の内面的なものを描くという目的を持って書いています。どこまで避難者に寄り添い、その思いに触れ、描き切れたのかは分かりませんが、書きながら、何回も被災場所に行ったり来たりしながら、また奉仕活動を通して多くの避難者の声を聴きました」

その木村さんからまた詩集をちょうだいした。シリーズ100人の詩㉝『木村孝夫詩集 持ち物』(詩人会議出版、2024年)で、「あとがき」に詩集の意図がつづられている。

  ロシアのウクライナ侵攻などを機に戦争反対の詩も書き始めた。震災詩についても、書くことに蓋を閉じることはしない。

「平和の喫水線が沈みかけている/疑似平和に惑わされてはならない/軍靴の音に高揚してはならない//戦争に蓋を被せる国はないのか?/と 問いたい」(「喫水線」)

この問いには強く同意する。そして、詩集のタイトルになった震災詩「持ち物」。行方不明の魂がある。生き残った者も津波の夢を見る。寝室が、記憶が海になる。

「明け方近くなのだろう/風邪を引かないようにと/叔母さんは/眠ろうとしても眠れないのだ//持ち物を探している/一つ見つかれば仏間に戻れるはずだ/長く深く眠る為に」

 根底にあるのは、人間の尊厳を踏みにじる人災や戦争への怒り、自然災害に対する悲しみだろうか。

2024年5月16日木曜日

シャガは帰化植物

                   
 夏井川渓谷にある隠居までの道路沿いに、1カ所(正確にはガードレールをはさんで2カ所)、シャガが群生しているところがある。

 今年(2014年)の開花に気づいたのは4月下旬の日曜日だった=写真。5月に入ってからも咲き続け、12日の日曜日も白い花をびっしりつけていた。

 シャガを知ったのはざっと40年前の昭和57(1982)年春。前年秋、平の本社から勿来支局へ移り、鮫川流域の勿来・遠野・田人地区が取材範囲になった。そのなかで高倉町の高蔵寺境内がシャガの群生地であることを教えられた。

春になると、三重の塔(福島県重要文化財)をバックに、シャガの写真がメディアを飾る。私も取材をして、大型連休のお出かけスポットの一つとして紹介した記憶がある。

 それから十数年。夏井川渓谷の集落の一角、しかも道路沿いにシャガの群落があることは、隠居へ通うようになってすぐわかった。

 が、既知の花でもあり、車で通り過ぎるだけにして、写真に収めるようなことはしなかった。

 車の通行量が少ないといっても、ゼロではない。車道に車を止めて撮影を――となると、後続の車両に迷惑がかかる。

 それが今回、初めて車を止めて写真を撮ったのは、思ったより花期が長いことを実感したからだ。むろん、後続車両がないことを確かめて車を止めた。

 高蔵寺境内の大群落に触れて以来、シャガはてっきり日本の野草だと思いこんでいたが、そうではなかった。中国東部~ミャンマーが原産地で、日本へは早いうちに渡来した。つまりは帰化植物だ。

 分布の広がりは人為による。初めは誰かが移植した。日本のシャガは種ができない。地下茎で増えるという。群生しているのは、この地下茎のネットワークゆえだった。

 さて、話は変わる。日曜日は隠居で土いじりをする。このごろはしかし、「年寄り半日仕事」で、午前中2時間もすると仕事を切り上げる。

 以前は昼食を持参したが、このごろは街へ下りて、コンビニなどでサンドイッチを買って、家で食べる。

 カミサンは日曜日だけでも家事から開放されたいと思っている。日曜の夜はそれで刺し身を買いに行く。

 昼も、できれば家ではなく、外で済ませたい。というので、12日はラトブにある喫茶店で昼食をとった。

 ドリンク付きのサンドイッチが、なんと千円を超えていた。コロナ禍前は確か千円以内だったはずだ。

 私は、コンビニのサンドイッチと紙パックの牛乳で済ますのが多い。それもあって。街の店で食事をするのは、できれば控えたい。

 とはいうものの、シャガの命の長さに感心しながら下界へ下りてきたら、値段の高さに頭をなぐられた感じがした。

やはり、コロナ禍、ウクライナ戦争、円安といった経済情勢が影響しているのだろう。

2024年5月15日水曜日

シオカラトンボの仲間

                     
 これはたぶん、興味と関心の濃淡による。身近な野鳥はウオッチングをしてきたので、ある程度はわかる。

 野草もそのつど調べて名前を覚えたので、わが家の庭をはじめとする生活圏、あるいは夏井川渓谷にある隠居の周辺の花なら、なんとかわかる。

 地元の人間に聞く。ネットで調べる。アナログであれ、デジタルであれ、知らないことを知るには最大限利用する。ネットには答えが埋まっている。

 ネットの情報は玉石混交だとよく言われる。その通りで、専門家の「玉」の情報も、ネットにはあふれている。そこへたどり着くまでの我慢が大切だ。

そのためには「違う」感覚をあいまいにしないことだ。5月12日の日曜日にこんなことがあった。

渓谷の隠居で休んでいると、庭でカミサンがトンボに出合った。「シオカラトンボがいる!」

声に誘われて、カメラを持って庭に出る。庭には木製のテーブルがある。腐朽が始まってだいぶたつ。そこにシオカラトンボが止まっては飛び、飛んでは止まり――を繰り返していた。

たまたま近い距離でパチリとやった=写真。撮影データを拡大しながら、ネットでシオカラトンボかどうかを確かめた。

トンボもそうだが、昆虫はよくわからない。いわき地域学會に昆虫が専門の仲間がいる。彼の講演や文章から、種の同定は簡単ではないことを承知している。

シオカラトンボを見た瞬間、シオカラにしては小さい、尾が平べったくて先端まで灰色っぽい――この2点で、シオカラとは言い切れない、という感覚がわいた。

そのためにネットを利用し、あれこれ検索していると、シオカラトンボの仲間のシオヤトンボらしいことがわかった。

シオヤは小柄で、腹部が扁平で短い。翅の先の縁紋は、シオヤは橙褐色、シオカラは黒色。尾の先端の黒みは、シオカラが長く、シオヤは小さい。翅の付け根は、シオヤが赤褐色なのに対して、シオカラは透明だという。

以上の特徴を当てはめると、シオヤにほぼ間違いない。そんな確信を抱いたが、シオヤには全くなじみがなかった。

シオヤは平地から低山地にかけての水田、休耕田、池などで見られるという。時期的には春から初夏で、大きさはアカトンボとほぼ同じだとか。

「春一番のトンボ」という形容にも出合った。その延長でいうと、私たちが目撃したのは、やはり成熟した、若いシオヤの雄のようだ。

隠居の周辺の生息地といえば、川べりの平地に沿ってできた小流れがまず思い浮かぶ。あるいは山側にある水田、その他の湿地だろうか。

いずれにしても、初夏が始まったばかりのこの時期、想定外の早さでトンボが出現した。

2024年5月14日火曜日

図案家鈴木百世

                      
 5月7日付のいわき民報1面記事=写真=には驚いた。昭和17(1942)年、42歳の若さで亡くなった図案家がいわきにいた。その孫が遺作を市立図書館と暮らしの伝承郷に寄贈したという。

 「常磐炭田鳥観図(ちょうかんず)」や平七夕祭りのポスター、地酒のパッケージなどの原画が、ほぼ当時のままの状態で残っていたというから、よほど保管状態がよかったのだ。

 鈴木百世(ももよ=1901~42年)。今風にいえば、商業美術を手がけるグラフィックデザイナーだ。

 記事によると、鈴木百世は平で生まれ、豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学び、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年には再び教壇に立ち、2年後に倒れて、暮れには亡くなったという。

 図案家としての仕事はわずか4年ほどだったが、手がけた作品はかなりの数に上る。それを遺族(妻と長男)が大切に保管してきた。

 その長男の娘が、父と祖母の死後、実家の片付けをしているうちに、祖父の遺作を見つけた。

 「常磐炭田鳥観図」は、たとえば『いわき市史別巻 常磐炭田史』(1989年)の口絵に、二つに分割・拡大されて掲載されている。

が、原図の作者が鈴木百世だとはどこにも書いてない。この鳥瞰図から原作者を思い浮かべる読者はいないだろう。

もうひとつ。いわき駅前の総合図書館で、平成29(2017)年12月15日から同30年5月27日まで、常設展「鳥観図と地図に見る『平市』――平市誕生80周年・いわき市誕生前夜譚」が開かれた。その鳥観図「平市と附近景勝案内」(1937年)は、原作者が鈴木百世だった。

いわき市立図書館のホームページから「郷土資料のページ」を開き、「企画展示」をクリックすると、この作品が見られる。

鈴木百世は、『いわき市史第6巻 文化』などでも触れられていない、という意味では「忘れられた図案家」だ。

素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」の売り出しにも力を入れたそうだが、これが成功していれば、今も郷土の工芸品としていわきのお土産の一つになっていたのではないだろうか。

昭和12(1937)年6月1日、平町が平窪村と合併して「平市」が誕生したときには、東京日日新聞が市章を募集し、1等のほかに佳作10人が入賞した。

結果を報じた地元の磐城時報(昭和12年5月24日付=23日夕刊)によると、鈴木百世は佳作の筆頭、そして佳作の3番目には長男・哲夫の名がある。

いわき民報の記事には、図書館が「遺作集の調査分析などを進め、今後の展示に役立てていく」とあった。

「じゃんがら人形」や平市章応募のエピソードなども含めて、「図案家鈴木百世の仕事と思想」を紹介する企画展を、ぜひ早く。

2024年5月13日月曜日

カラスが襲った?

                      
 用事があって朝7時前、街へ出かけた。帰りに旧大黒屋デパート角の交差点で信号が赤になった。

 左手に歩道橋がある。たもとの歩道にカラスがいて、何かをつついている=写真。よく見ると、ドバトだった。ドバトが死んでひっくり返っていた。

 カラスがハトを襲った? ありえないことではない。が、ハトの交通事故ということも考えられる。

事故だとしたら、車道の死骸を目ざとく見つけたカラスが安全な歩道まで引きずり寄せて、食事を始めたところだったのかもしれない。

というのは、これまで何度か、カラスが路上に横たわっている動物の死骸に群がり、あるいは道端に引き寄せて、盛んにつついているのを目撃したことがあるからだ。

自分のブログで確かめると、15年前の6月中旬に「路上の死物学」というタイトルで、生きものの交通事故が多いことを書いていた。それを要約・再掲する。事情は今も変わらない。

――時々、動物が路上で死んでいる。街の幹線道路では犬や猫、特に猫の死骸が多い。

郊外ではタヌキが目立つ。堤防の上では毛虫。夏井川渓谷でも、タヌキ、テン、ヤマカガシなどの死骸を目にしてきた。いずれも車にはねられたり、ひかれたりしたのだ。

鳥も無事ではいられない。スズメ、コジュケイ、フクロウ、ムクドリ……。翼を持っているからさっとよけられるはずなのに、と思っても、車のフロントガラスなどにぶつかって昇天する。

昔に比べて車のスピードが上がっているのだろう。それだけ現代人はせわしなくなっているのだろう。

先日は、夏井川下流の堤防上でツバメの死骸に遭遇した。堤防の上を行き来する車はそう多くない。スピードもそんなに出せない。果敢に、スピーディーに「ツバメ返し」をする空の特急便も、ときには目測を誤って車にぶつかり、命を落とすのか――。

ほかにも、こんなことを書いていた。――路上に横たわっている犬や猫、タヌキのところへ真っ先にやって来るのはカラスだ。

交通量の多い場所では、車が赤信号で止まるのを待って“死物”を道端に寄せようとする。理由は、いわずもがなだろう――。

カラスは、それだけではない。普通の家庭や繁華街の飲食店などから出される生ごみにも敏感だ。

少しでもマナー違反があると目ざとくそこを突いてくる。コミュニティ=ゴミュニティには、ごみと人間のほかにカラスが加わる。

カラスとの知恵比べに負けるわけにはいかない、ということで、こちらはカラス研究の最新成果を絶えず吸収するようにしている。

 ま、それはともかく、カラスがドバトを襲った可能性についても考えておかないといけない。

 コロナ禍でレストランなどが営業を休んだとき、カラスのエサになる生ごみが減った。すると、それを補うためにカラスがハトを襲って食べた、という事例があったらしい。そんな情報がネットの海には漂っている。

2024年5月11日土曜日

仙台の焼物

                                
 江戸時代の仙台藩から続く話。仙台城下の北方を警備するため、奥州街道沿いに足軽衆が配置された。川のそばに堤があった。それで堤町といったのだろう。

現在は町の南をJR仙山線が走り、それと交差するように地下鉄が伸びる。両者が交わるあたりにそれぞれの駅がある。どちらも北仙台駅という。

 堤町について、市民が聞き書きをした冊子がある。『堤町まちがたり』(1992年刊)=写真。短大時代、仙台で暮らしたカミサンが何かの縁で手に入れたらしい。

 簡単にいうと、同市三本松市民センターが講座を主催し、受講生が「堤町」の住人を対象に聞き取り調査をした。それを、「奥州街道」「登り窯」「自然と暮らし」の3章にまとめた。

3人の講師のなかに民俗研究家の結城登美雄さん(仙台)がいた。結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。

震災後、いわきで結城さんの話を聞いたことがある。市主催の講演会で、タイトルは「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」。やはり「地元学」が入っていた。

地元学のポイントは「ないものねだり」ではなく、「あるもの探し」。講演では、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す、ということを強調していた。『堤町まちがたり』も「地元学」の文脈で読み解くことができる。

 冊子の中核は、大小さまざまな生活雑器をつくった「堤焼」と、同じ粘土を使った「堤人形」だろう。地元の土が粘土質だったこともあって、足軽の内職として焼き物が始まった。

 仙台市の中心地の一部となった今では、かつて盛んに登り窯から煙が上がっていたことを知る人も少ない。

 その焼物の町の歴史と自然を学ぶ過程で、受講生同士が、住民がつながりを深める――それこそが講座の最大の収穫だったと、あとがきにある。

 その聞き書きのなかに、いわきと関係の深い項目があった。戦後、堤町でも「蒸しかまど」が製造された。

「名古屋物」だったと、元職人。「親方の命令で作ることになり、2人で名古屋まで研究に行った」

「蒸しかまど」は、実はいわきで発明された。その製法を名古屋へ学びに行ったわけは、こんな経緯があったからだ。

早稲田の大学院でY君が「蒸しかまど」の研究を続けた。情報を集める過程で私のブログに出合い、実際にいわきへやって来て、わが隠居その他で保管してある蒸しかまどを実見した。

研究はやがて「近代におけるムシカマドの発明と普及――時代に翻弄された炊飯道具」という修士論文になった。

その彼の研究から、①蒸しかまどは福島県平町(現いわき市)で誕生した②やがて製造が追いつかず、火に強い粘土を求めて平町から愛知県三河地方に生産の拠点が移った――。結果、蒸しかまどは平ではなく、三河が製造の覇権を握った。

その名古屋物が仙台・堤町での製造につながった。蒸しかまどにも歴史的な変遷があったのだ。

2024年5月10日金曜日

マンリョウも増えている

                     
 夏井川渓谷の小集落は「自然と人間の交通」が濃密なところ。住民は周囲の森に分け入って、季節の恵みを手に入れる。

 今はどうかわからないが、東日本大震災と原発事故が起きる前は、春には山菜、秋にはキノコの話をよく聞いた。

 それぞれに自分のシロがある。マツタケの話をしても、どこで採ったかは誰も言わない。森の中で家に戻る途中の住民に会ったことがある。マツタケを採って来たという。「どこで」と聞くと、「あっちで」と道の奥を指さす。

 その意味では、自然の側も人間の影響を受けている。が、住民が山菜やキノコを採るレベルでは、自然の回復力の範囲内といっていい。

 住民は、季節の移り行きを示す草木の芽生えや開花には敏感だ。家の庭はもちろん、その周囲にも目を凝らす。

 小集落で3月中旬に寄り合いがあった。そのとき、私がブログに書き、古巣のいわき民報に転載されたシュロの北上の話になった。

1年前は全く気づかなかったが、伐採された杉林の跡地にシュロが1本、逆光の中で立っていた。牛小川のシュロは、鳥が種を運んで来たという。それが、あそこにも、ここにもある。

シュロは幹の繊維が燃えやすいので、家の近くには植えない、とも聞いた。ネットにも「燃えやすい着火物」とあった。防火面からもシュロの存在を考える必要があることを知った。

すると、やはり温暖化も関係しているのか、マンリョウも増えている――そんな話になった。マンリョウ? あの正月の縁起物とされる常緑の小低木が増えている?

寄り合いから街に戻り、すぐわが家の庭を見る。ある、ある。マンリョウの幼木=写真=が、あっちにもこっちにも生えている。

庭をパッと見て目立つのはヤツデ。これが何本もある。シュロは小さいのが1本。いずれも鳥が種を運んで来て活着したものだろう。

マンリョウを数えたら、芽生えから20センチほどに育ったものまで十数本あった。思った以上に多い。

ウィキペディアその他のネット情報によれば、マンリョウはサクラソウ科ヤブコウジ属で、茨城県以南の太平洋岸と、鳥取県以南の日本海岸に自生する。

富山県では、家の庭に植えられても、自然の中には生えていなかった。それが近年、植えてもいないのに公園の生け垣の下などで育ち始めているそうだ。

シュロと同じように、マンリョウも北へ、内陸へと生息範囲を拡大しているのだろう。

わが家の庭のマンリョウは、まだ赤い実を付けたことはない。実が生るのは3年目くらいだそうだ。

そのままにしておくとどんどん増える、ともあったので、いつかは整理する必要がありそうだ。

ついでながら4月下旬の日曜日、小野町へ車を走らせた。あぶくま高原道路の延伸部分を試走するのが目的だったが、途中、道沿いにシュロが生えているかどうかもチェックした。

いわき市の川前支所付近と市境の五味沢の民家の庭にシュロが生えていた。小野町の夏井地区では確認がとれなかった。