2024年7月31日水曜日

続・日常に戻る

                     
 脳卒中と出血のリスクを同時に減らすため、「左心耳閉鎖術」という予防的な手術を受けたのがほぼ2週間前。

7月22日の月曜日昼には5泊6日の手術・入院を経て、わが家での日常のルーチンが復活した。

ルーチンには毎日、あるいは1週間、10日ごとといったように、いろんなものがある。その撚(よ)り合いのなかで日常が営まれる。

日曜日には、夏井川渓谷の隠居へ出かける。1週間ごとのルーチンだ。行かないとやはり落ち着かない。

退院後初の日曜日である7月28日は、生ごみなしで出かけた。いつもは生ごみを運んで菜園の隅に埋めるのだが、「燃やすごみ」として出した。

今回はネギの苗床とうねの様子を見るだけだ。どちらも無事だった。ネギを見たあとは、時間が余ってしかたがない。

すぐマチへ戻り、いわき駅前の総合図書館で「新着図書コーナー」をチェックしたあと、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」で昼食をとることにした。こちらは3カ月にいっぺんくらいのルーチンだ。

まずはヤマ(渓谷)から。渓谷の道路はもはや緑一色だ。入院前に咲き乱れていたヤマユリは消え、朱色のヤブカンゾウも花びらを散らしていた。代わりに道端の夏草が「うらめしや~」と車にかぶさってくる。

隠居の庭に立つのは2週間ぶりだ。後輩が庭の草刈りをしてくれたのが6月末。ほぼ1カ月が過ぎたからか、上の庭も、下の庭も不ぞろいの緑で覆われていた。

ハマも暑かった。サーフィンへは昼前に着いた。客はいなかった。いつもは午後1時過ぎなので、カウンターにも、テーブル席にも客がいるのだが、私たち夫婦が一番乗りだったのだろう。

わたしはグリルサンド、カミサンはナポリタン。選ぶのは、ルーチンというよりはワンパターンだ。

サーフィンからは見えないが、防災緑地と防波堤の先に薄磯海水浴場がある。海開きをしたのは入院中の7月20日、土曜日。それから2回目の日曜日だ。

防波堤から見ると、海の家の向こうに、パラソルではなくテントがいっぱい張られている=写真。海水浴客もけっこういるようだ。

そういえば、子どもたちは夏休みのまっただなかだ。駐車場が満パイになったのを初めて見た。

海を見に来たのは、それだけが理由ではない。いわきは北緯37度線上にある。この緯度をそのまま西へ向かうと、ソウル(韓国)、ヨーロッパではアテネ(ギリシャ)、セビリア(スペイン)に出合う。

逆に東側、太平洋の対岸はカリフォルニア(アメリカ)だ。「団結すれば山が動く」と演説したのはハリス副大統領。彼女のふるさとだが、それだけではない。

戦争末期、勿来海岸から打ち上げられた風船爆弾がアメリカの西海岸を目指して飛んで行った。

そうしたあれこれが脳内でからみ合い、撚りあって、ヤマからハマへと意識が反転した。

翌月曜日は早朝、目が覚めるとすぐ、家の前にあるごみ集積所にカラス除けのネットを出した。これが1週間のルーチンの始まりでもある。

2024年7月30日火曜日

山は動く

                     
   アメリカの大統領選で民主党からは、現職のバイデン氏に代わってカマラ・ハリス副大統領が立つことになった。

共和党の候補であるトランプ前大統領とともに、選挙集会での発言がニュースになって世界を駆け巡る。

7月25日のニュースでは、ハリス副大統領のこんな言葉が耳に残った。「私たちは、団結すれば山が動くことを知っている。力を集めれば国は変わり、投票すれば歴史をつくることができる」(NHK

山は動く――。日本でもかつて、土井たか子さん(1928~2014年)が言っていたな。

昭和61(1986)年の衆参同日選挙で野党が惨敗し、石橋政嗣社会党委員長(1924~2019年)の辞任に伴って、土井副委員長が女性初の党首になった。

その3年後、平成元(1989)年の参議院議員選挙で「マドンナ旋風」がおき、自民党を過半数割れに追い込んだ。この与野党逆転劇を、土井委員長は「山が動いた」と表現した。

原典は、与謝野晶子が明治44(1911)年創刊の雑誌「青踏」に寄せた巻頭詩「山の動く日」らしい。

ただし、創刊号は未見、詩も引用する人間によって細部が異なる。もとは「そぞろごと」の詩の一部だったという。ここでは「ウィキソース」の「そぞろごと」に従う。

「山の動く日来(きた)る。/かく云へども人われを信ぜじ。/山は姑(しばら)く眠りしのみ。/その昔に於(おい)て/山は皆火に燃えて動きしものを。/されど、そは信じぜずともよし。/人よ、ああ、唯(ただ)これを信ぜよ。/すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覚めて動くなる。」

女性が旧弊を打破して動けば、社会は変わる。平成元年の参議院議員選挙はその典型だった。

ハリス副大統領の「山は動く」は、選挙あるいは国内の団結を訴える文脈のなかで使われている。与謝野晶子の詩もまた、女性の連帯と行動を呼びかけるものだった。

ついでながらもう一つ、「大地動乱」にからむ話を。毎週、夏井川渓谷の隠居へ出かけるとき、小川の平地から二ツ箭山=写真=を仰ぐ。ここに二ツ箭断層がある。

この断層が動いたのは、以前は「新第3紀の後半」と言われていたが、今は「第4紀の後半」と評価が変わったらしい。

つまり、「2303万年~258万年前」から「258万年前~現代」に近づいた? 断層を境にして南側がずり落ち、その断層面が山の南西側に残っている、という。

3・11の巨大地震の影響で、4・11にいわき市の「井戸沢断層」近く(田人)でマグニチュード7.1の地震が発生し、それまでは「動かない」とされていた東隣の「湯ノ岳断層」(遠野~常磐)が動いた。

田人・遠野・常磐には「地表地震断層」と呼ばれるものが出現し、各地で崩落事故が発生した。

いわきの山よ、これ以上動かないでくれ――。比喩ではなく、現実に立ち返るとそういう思いになる。

2024年7月29日月曜日

風船爆弾

                      
 いわきの地域紙「いわき民報」は今年(2024年)で創刊78年を数える。ここで、記者として37年を過ごした。

勿来支局勤務も経験した。が、戦争末期、同地区から打ち上げられた風船爆弾については、全く意識から抜けていた。

 いわき市勿来関文学歴史館で、企画展「語り伝えたい記憶 風船爆弾と学徒動員」が開かれている。会期は9月1日までだが、4月25日の開幕日からいうと、すでに4分の3が過ぎた。

この間、同文学歴史館といわき民報の連動企画として、同紙に5回、戦争体験者の証言が載った。

 さらに、連動企画連載に合わせた企画展の紹介記事から、風船づくりに地元の「遠野和紙」とコンニャクが使われたこと、いわき民報賞を受賞した遠野和紙職人瀬谷俊次さんが風船爆弾に触れていることなどを知った。

 瀬谷さんがいわき民報賞を受賞したのは昭和50(1975)年。私は入社5年目で、式典関係の仕事はなかったが、表彰式は全社員が出席したので覚えている。

 表彰式は毎年11月1日に行われた。その前、10月下旬に受賞者の人となりを紹介する記事が載る。

瀬谷さんの場合は上・中・下の3回で、2回目に「軍用紙で活躍/残したい戦争の記録/米国を驚かせた紙風船」の見出しで、風船爆弾のことがつづられている。

今はすぐ、こうした過去の記事を、いわき市立図書館のホームページで確かめられるので助かる。

平成25(2013)年3月以降、ホームページ内の「郷土資料のページ」で明治~昭和期に発行された地域新聞や機関紙が順次電子化され、今では計72紙がいつでも、どこからでも読めるようになった。

いわき民報については、昭和21(1946)年2月の創刊号から同56(1981)年12月まで、およそ35年分の記事が読める。

で、瀬谷さんのいわき民報賞の記事のなかに、同紙が昭和40(1965)年7月12日から15回、風船爆弾をテーマに連載したというくだりがあることを知り、さっそくその記事を読んだ。

タイトルは「第二次大戦の秘話を探る 勿来の風船爆弾物語」=写真=で、一読、取材の濃さと文章の確かさを感じた。

だれか研究者の寄稿だろうか。そうではなく、社内の記者の取材だとしたら、これはちょっとすごい。

 陸軍の気球連隊本部がどこにあり、勿来のどこに兵舎があったか。兵士の数や製造方法と爆弾の量、終戦後はすぐ部隊を解散したことなどを、関係者への取材を重ねて明らかにしている。

小名浜地区での目撃談や、気流の関係で中之作の港湾にひょっこり現れたことなども併せて紹介している。

最終15回、末尾にだれが書いたかが記されていた。私が入社したときにも勿来、小名浜に勤務していた大ベテラン記者2人だった。

当時は、戦後20年。風船爆弾は、いわき南部の人々にとって、脳裏に生々しく残る奇っ怪な兵器、というより理解を超えた飛行物体だったに違いない。

2024年7月27日土曜日

変な鉱物たち

                              
 毎月、移動図書館「いわき号」がやって来る。カミサンが地域図書館をやっている。移動図書館から借りた本を返し、新たに貸し出す本を借りる。

 そのなかに、渡辺克晃『へんな石図鑑』(秀和システム、2024年)があった=写真。著者は44歳。著者略歴に、理学博士で地質・鉱物写真家とあった。

こういう本を手にしたときには、いつも草野心平の短詩を思い出す。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」

震災の直前、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平と石」が開かれたとき、リーフレットに粟津則雄館長(故人)が記していた。

「眼前の姿への凝視とそれを生み出しそれを支えて来たものへの透視は、詩人草野心平を形作る二つの本質的要素ですが、草野さんと石とのかかわりには、それが純粋かつ端的に立ち現われていると言っていいでしょう」

心平の石好きは有名だが、世にいう水石愛好家ではない。「独り。/石がいた。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石も、植物も、動物も、人間と同じ。粟津さんがかつて評した「対象との共生感」に引かれた。

『ヘンな石図鑑』をパラパラやって、興味を持った鉱物から読む。まずはガーネット。茶色い紙やすりの原料であることを初めて知った。

というより、紙やすりの原材料が何か、などとは考えたこともなかった。紙やすりを使ったのは小・中学生のころだったか。それ以来なら、半世紀上も紙やすりとは縁がなかったことになる。

石墨(せきぼく)は黒鉛筆の芯に使われている鉱物だという。新聞製作システムがアナログのときには、鉛筆で原稿を書いた。が、これも紙やすりと同じで、わが筆立てから消えた。

かたまりそのものがキノコに見える鉱物がある。名前は松茸水晶。ただし、マツタケのように単独で出ているわけではない。「シメジ」として売られている栽培キノコに似る。

中でも引かれたのは、ひすい(翡翠)だ。著者はこれだけを平仮名で表記している。理由は? わからない。

中国から「翡翠」の漢字が入ってくる前から、日本ではハンマーや勾玉(まがたま)に利用されていた。

石そのものが新潟県糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡から見つかっている。同遺跡でのひすい利用が世界最古だという。だから「翡翠」ではなく、「ひすい」なのか。

ひすいで思い出すのは、台湾・国立故宮博物院の「翠玉白菜」だ。白色と緑色を白菜に見立てて彫り、さらに虫を配した装飾品で、9年前に鑑賞したときには、博物院スタッフが「撮影不可」マークの紙を掲げ、「立ち止まらないで」を連発していた。

18世紀の中国では、ひすいのアクセサリーや置物、食器などが盛んにつくられた。その工芸品のなかでは世界的な逸品だという。

さらに驚いたのは、ひすい輝石が日本の国石だということ。日本の国鳥はキジ、国花は桜と菊。国石があったとは。

2024年7月26日金曜日

入院中は本だけに

                     
 5泊6日の入院中、どうやって時間をつぶすか、あらかじめ考えた。ベッドのわきにはテレビが備え付けられてある。テレビカードを買えば見られる。でも、テレビは見ないと決めた。

 新聞は、カミサンが家から持ってくれば読める。実際、2日目に持ってきたが、そのまま持ち帰ってもらった。

新聞も読まない。それをあらかじめ伝えておけばよかったのだが、準備に追われて忘れてしまった。

 本だけは2冊持ち込んだ。高萩精玄『福島人物の歴史第10巻 白井遠平』(歴史春秋社、1983年)と、『「いわき宇宙塾」講演記録集7 市制施行30周年 なぜ、いわき市は誕生したか』(いわき市、1998年)=写真。

先日、いわき市教育文化事業団の研究紀要第21号に収められた渡辺芳一さんの論考「草野天平『私のふるさと』をめぐって――空中写真をもとにした草野杏平氏への聞き書き」を読んだ。

天平は詩人草野心平の弟で、杏平氏はその長男。天平も心平同様、詩を書いた。2人の実祖父は衆議院議員を経験した実業家の白井遠平。

詩人を知ろうと思えば、ふるさとのいわき市小川町上小川、そして遠平を素通りするわけにはいかない。

渡辺論考の延長線上で、常磐線開通と炭鉱開発に尽力した遠平を読む。さらに、炭鉱と漁業から工業のマチへとかじを切ったいわき地方の近代の流れをざっくりつかむ。

直接言及しているわけではないが、それによって心平・天平のふるさとも変化を余儀なくされたことがわかる。いずれも再読、再々読だ。この2冊で十分だった。

 スマホを持ち込んだので、だれかに連絡しようと思えばできたが、それもよした。入院直前に充電し、時計代わりに使うだけなら、退院時にもバッテリーは残っているはず――。最後は充電のサインがついたが、電源切れになることはなかった。

実質5日間は新聞・テレビ・ネットメディアから離れていたことになる。が、それで何の不自由もなかった。

ただ一つ、カミサンからの口コミで土曜日(7月20日)、東北地方の梅雨が明けたと錯覚したが、それは7月18日の東海、関東甲信、あるいは19日の四国のことだったか。

 さて、月曜日(7月22日)の昼前に退院して以来、以前のメディア環境に身を置いている。

 朝起きると新聞を取り込み、折り込みチラシの枚数をチェックする。テレビをつける。とりわけ、朝ドラ「虎に翼」は見逃さない。

 ところが、18、19、20日(週の総集編)、22日と見ていないので、流れがいま一つつかめなかった。

 「虎に翼」は、カミサンも時間がくるとテレビの前に陣取る。行政がらみのニュースが流れるたびに「男ばっかり」と文句を言うくらいだから、今に通じるドラマとして見ているようだ。

かくいう私も、日本国憲法第14条がやっと頭に入るようになった。これが「虎に翼」の根底を流れている思想だろう。

「新潟編」でも第14条が頭をよぎる。すごいドラマだと、実は内心舌を巻いているところだ。

2024年7月25日木曜日

弾性ストッキング

        
 カテーテルによる心臓の「左心耳閉鎖術」を終え、一晩、ICU(集中治療室)で過ごしたあと、一般病棟へ戻った。

 するとほどなく、看護師さんがふくらはぎと足首の太さを計り、ひざ下に合ったハイソックスを持って来て、はかせてくれた。

 なに、それ? ハイソックスを見ると、足の指のところに半楕円形の穴が開いている。しかも、ひざから下が強く押さえ込まれているような感覚がある。

 なんのためにはくのだろう。ハイソックスが入っていたプラ包装には「一般医療機器」「レッグ サイエンス」「一般的名称 弾性ストッキング」「モニターホールタイプ」などとある。「穴」は「モニターホール」というのか。

 取り扱い方法も書いてあった。①洗濯機での洗濯が可能②塩素系漂白剤の使用、アイロン掛け、ドライクリーニングは避ける③陰干しをする――。

 さらに、同封の説明書によれば、下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)を軽減・予防するなど、静脈還流の促進を図るのが目的だという。鬱滞とはつまり、血流の滞りだ。

 ここまで頭に入れて、なんとなくわかってきた。私は、手足が冷たい。末端の血流の悪さが原因だ。それで、できれば握手はしたくない――ずっとそう思っている。その血流を改善するための特殊なハイソックスということなのだろう。

 弾性ストッキングをはいたまま退院し=写真、家に戻ってすぐ風呂に入った。着替えたあとは、入院中に知った新しい言葉の意味などをネットで再確認した。

 まずは弾性ストッキングについて。検索すると、足の血栓予防、いわゆるエコノミークラス症候群を防ぐための「医療機器」ともあった。

 エコノミークラス症候群を知ったのはいつだろう。阪神・淡路大震災のときか。いやそのあとの新潟県中越地震(2004年)・同中越沖地震(2007年)あたりからのようだ。

その後、東日本大震災でも、今年(2024年)の元日に発生した能登半島地震でも問題になった。

弾性ストッキングは、立ちっぱなし(理容業など)、座りっぱなし(私もその一人)の人間には有効なハイソックスである。常時はき続ける必要はない。

というわけで、ここしばらくは座卓にノートパソコンを置き、検索をかけたり、ブログの原稿を打ったりしている間は、このソックスをはくことにした。夜にははずす。

医療技術も、機器も開発が進む。左心耳閉鎖術もまた、新しい治療法だという。そのため、今回の治療に関するデータを学会や医学雑誌、公的機関のウェブサイトなどに発表してもいいかという。

データベース登録というやつで、左心耳閉鎖術に関するデータの収集・解析を進めることで、治療の有効性や安全性が詳細に検証され、より適切な治療が可能になる。これからこの治療法を必要とする人のためにもふたつ返事でOKした。

2024年7月24日水曜日

日常に戻る

          
  6日間の病院生活を経て、月曜日(7月22日)、いつものシャバ(日常)の暮らしに戻った。

そのときの様子の一部を、火曜日のブログに書いた。ブログそのものも7日ぶりに再開した。

ビフォー・アフターでいえば、前は晩酌をやりながらブログの下書きをつくった。今は手術直後なので、しばらくは「自主禁酒」を続ける。

で、日中に下書きをつくり、原稿に仕上げる。それを翌日の未明ないし早朝にアップする。アフターでは、禁酒と日中の下書きづくりが一番大きい変化かもしれない。

やはり、シャバの暮らしは忙しい。帰宅2日目の朝5時45分。起きるとすぐ、区内会の役員さんと担当する隣組の班長さん宅に、3日遅れの回覧資料を配った。

夏場は新聞配達よろしく、この時間帯に回覧資料を配ることがある。もちろん、手渡しするようなことはしない。そっと置いてくる。

酷暑対策でそうするようになったのだが、それでも熱帯夜に続く朝である。駐車中の車は、すでに朝日を反射して熱を帯びている=写真。

回覧配りからの帰路、コンビニに寄ってボールペンを買った。これがないと、メモ(身辺雑記)を書けず、原稿の下書きもつくれない。

家に戻ってからは、玄関と茶の間の戸を開け、台所の糠床をかき回した。入院中はカミサンが代行した。水っぽかったので小糠を足し、食塩を加えたという。

手触りからいうと、糠の量はいいかもしれない。しかし、まだ水分が過剰のようだ。いずれ水抜きをするとして、食塩を追加した。

朝にキュウリを入れたら、夕方には取り出す。これが一般的で、カミサンもそのつもりでキュウリを取り出したそうだ。半漬かりなのはそのためだったか。

私は、味がしみるまで24時間をかけていた。それだけ今年の糠床は塩分が不足していたということだろう。

高血圧症でもあるので、塩分は控えめに――とはいわれている。糠床まで高血圧扱いをしていたか、などと、手抜きを棚に上げて、自分にだけ通じるダジャレを脳内で言ってみる。

それから朝風呂に入る。資料配りのときは半そでとズボンだったが、風呂から出ると、父の日にもらった薄手の「甚平」に着替えた。

入院前は、夜は普通のパジャマだった。退院後は夜だけでなく、日中も、この甚平で過ごすことにした。

扇風機の風が甚平を通して素肌に触れる。しかも、今年(2024年)は2台にした。日中、汗がタラタラ流れるようなことはなくなった。

入院中は口にしなかったものがある。「塩分制限食」ということで、味噌汁が食膳にはなかった。むろん、漬物も。

味噌汁なしは想定外だった。退院して一番うれしかったのは、この味噌汁が復活したことだ。義弟が糖尿病なので、減塩味噌汁には慣れていたが、「全くなし」では食べる楽しみも半減する。

病院食の楽しみを語ること自体、不謹慎なのかもしれないが、朝はやはり味噌汁が欲しい。家に戻って、味噌汁を飲んで、そのありがたみを実感した。

2024年7月23日火曜日

5日ぶりのわが家

                      
 心臓にも耳がある。心臓に由来する血栓の90%は、この心臓の左の耳で形成されるという。

前にも書いたことだが、震災翌年の暮れ、原因のよくわからない貧血症状が出た。2階に上がるだけで息が切れ、めまいがした。

年明け後に胃カメラをのみ、大腸も調べた。抗凝固薬(血液をサラサラにする薬)の影響で消化器官から出血したのが原因かもしれない、ということだった。

それから12年。薬を飲んでいるのでめまいや動悸はない。落ち着いている。が、データからは貧血気味、つまり出血がみられるという。

定期検査の延長で、2年ぶりに地域の基幹病院で胃カメラをのみ、大腸の内視鏡検査を受けた。

循環器科にもかかった。もともと不整脈と薬からきている症状なので、循環器科の見立てが本筋ではある。

担当医は若い先生に変わっていた。データを見ながら、12年前は「入院」して「輸血」しなければならないほどの「大出血」だったらしい(出血場所は不明)。

そのときは地元の雑誌の編集を引き受けていたので、先生に無理を言って通院に切り替えてもらった。

その「大出血」の再発を防ぐには、抗凝固薬を避けることだ。しかも近年、その代替療法が確立された。左心耳閉鎖術という。

冒頭に書いたように、心臓由来の血栓はおおかた左心耳で形成される。この新しい手術法では、出血だけでなく、その血栓(による脳梗塞)も予防できる。

手術の内容は、足の付け根の静脈からカテーテルを入れ、心房中隔を突き通して左心耳に、閉鎖に必要な「器具」を留置するというものだ。

その手術が7月17日入院~同22日退院の、5泊6日の予定で18日に行われた。無事、手術が終わり、月曜日の昼前、5日ぶりにわが家へ戻った。

戻ったらすぐやることをメモしておいた。スマホを充電する。ノートパソコンに届いた迷惑メールを削除する。

土曜日(7月20日)は、いわきの海水浴場で海開きが行われた。この日の早朝、病室の窓から朝日をながめ、梅雨が明けたことを確信したが、東北南部は、発表には至らなかった。

それから連日、酷暑が続く。退院してタクシーに乗り込むとき、早くも外気の暑さにへきえきした。

わが家に着くと、さらに暑い。しかし、ここ=写真=で日常を再開しないことには前へ進めない。庭からはミンミンゼミの鳴き声が響く。

このなかですぐ「仕事」にとりかかる。こちらの入院・手術で手つかずになっていた、20日配布予定の回覧資料がある。それを振り分け、袋に詰めて、3日遅れだが23日早朝、役員さんと担当の隣組に届けた。

すでに朝日がギラギラしていた。「散歩はいいですよ」「重いものは持たないで」。ドクターの言葉を目安に歩く。息も切れず、痛みもなかった。

今回の手術は予防的なもので、症状が悪化したから手術したわけではない。入院6日間の感慨にふけっているヒマもない。

とはいえ、この暑さはやはりこたえる。6時前の「仕事」だったので、汗ばむ程度ですんだ。

2024年7月16日火曜日

7月の実り

                      
 ありがたい、というほかない。家庭菜園からのお福分けが続く。長めのキュウリが何本も届いたときには、急いで二つに切った=写真。そうしないと糠床にも、保存袋にも入らない。

 夏野菜の代表はやっぱりキュウリ。5月に植えた苗がつるを伸ばし、6月には次々に花を咲かせる。それが実をつけ、7月には収穫のピークを迎える。

 夏井川渓谷の隠居にある菜園でも、何年か前まではキュウリを栽培した。苗は1本か2本だが、食べる人間が3人ではそれで十分だ。

6月後半から7月に入ると次々に実るので、日曜日だけでは収穫が間に合わない。週半ばの早朝にも摘みに行かないと、肥大してヘチマみたいになってしまう。

糠漬けやサラダにしても余る。キュウリはそのままにしておくと、水分が飛んで中身が白くなる。

白くなったら食べ物にはならない。というわけで、自分で栽培していたときには、糠漬けのほかに、冬の保存用に塩蔵した。

菜園でつくっているのは、今は三春ネギだけ。あとは勝手にこぼれ種から生えてくる辛み大根が育つのを手助けするだけだ。

カラ梅雨でも砂漠生まれのネギはほっといていいが、キュウリはそうはいかない。普通の梅雨でも、隠居へ行くたびに水やりをした。カラ梅雨の今年(2024年)はずいぶん苦労したのではないだろうか。

先日は、わずか2~3日のうちに、お福分けが相次いだ。家庭菜園とは限らない。おみやげやお福分けのお福分けもあった。

福島市へ行って来たという、若い元同僚からはモモをもらった。カミサンの知人からは電話がかかってきて、急いでアッシー君を務めた。新鮮なメヒカリが手に入った。

近所からはもらい物の昔野菜「小白井きゅうり」と普通のキュウリが届いた。するとほどなく、久之浜に住む元同僚がプチトマトをどっさり持って来た。

糠床は漬けるものがなくても毎日かき回す。何本も漬けると、保存袋かパックに入れて冷蔵庫で保存する。それがなくなるまでは漬けずにかき回すだけになる。

一番いいのは毎日漬ける・食べる――を繰り返すことだが、キュウリは生(な)るときには生る。やはり何本も漬けることになる。

そうやって何も入っていない糠床をかき回していたとき、おや?硬いものがある。半分に切って取り忘れたキュウリだった。

古漬けになったキュウリはしょっぱい。薄切りにして水にさらし、塩出しをしてから、おろししょうがを載せ、醤油をかけて食べることにした。

土曜日(7月13日)の夕食は、糠漬けと古漬けのほかに、味噌を添えた生のキュウリが並び、さらにモモとトマトが添えられた。メーンはメヒカリの唐揚げ。これは熱いうちに急いで食べた。

そうそう、味噌も昔野菜保存会の仲間からちょうだいしたものだった。焼酎と大根の甘酢漬け以外は、すべてお福分けだった。それもとびきり新鮮な――。

というわけで、お福分けの余韻に浸りながら、1週間ほど家を留守にします。その間ブログは休みます。

2024年7月13日土曜日

詩集『遠い春』

                              
 いわき市在住の詩人斎藤貢さんから詩集『遠い春』(思潮社、2024年)の恵贈にあずかった=写真。

 斎藤さんは高校の先生をしながら詩を書いてきた。知り合ってから30年以上はたつだろうか。

 東日本大震災と原発事故が起きたとき、斎藤さんは原発に近い小高商業高校の校長だった。

以来、斎藤さんは地震・津波・放射能の災厄と向き合い、なかでも原発事故の不条理を見据えて詩を書き続けている。

『汝は、塵なれば』(2013年)、『夕焼売り』(2018年)の延長線上に、今回の『遠い春』がある。

3・11から2年後、全国文学館協議会の共同展「3・11文学館からのメッセージ 天災地変と文学」が開かれた。いわき市立草野心平記念文学館のテーマは「3・11といわきの詩人、歌人」だった。

斎藤さんの詩集『汝は、塵なれば』と、高木佳子さんの歌集『青雨記』(2012年7月、いりの舎刊)から作品が選ばれた。そのときのブログを抜粋する。

 ――斎藤さんの作品「南相馬市、小高の地にて」は、小高商校長として体験した3・11の“ドキュメント詩”だが、後半部に彼の思想がこめられる。 

「見えない放射線。/ヨウ素、セシウム、プルトニウム。/それはまるでそれとも知らずに開封してしまったパンドラの箱のようで/蓋を閉じることができずにいる。」

「わたしたちは、ふるさとを追われた。/楽園を追われた。/洪水の引いた後の未来には、果てしない流浪の荒野が広がっていて/神よ、これは人類の原罪。 /これを科学文明の罪と呼ぶのなら/この大洪水時代に、ノアはどこにいるのですか。/地球は巨大な箱船(アルク)になれるのですか。」 

「いくつもの厄災が降り落ちてくる星空をながめながら/カナンの地まで。//荒野をさまようわたしたちの旅は/いったい、いつまで続くのだろうか。」――。

 今度の詩集の表題でもある、最初の詩『遠い春』を読んだとき、原発に対する斎藤さんの根源的な問いは変わっていないことを知った。

 「みちのくの/小さな声が、見えない春に問いかけている。/火をつけたのは、だれか。/恐ろしい災いを置いていったのはだれか、と。」

 あるいは、「あの日から、/ひとはうなだれて、肩を落として歩いている。/苦しいなぁと、こころのなかでつぶやいている。」という詩句には、こちらの姿まで重なる

 それぞれの作品の最後に「反辞(かえし)」が付く。「遠い春」の場合は強制・自主を含めた避難と分断。「それぞれが孤独な戦いを強いられました。それはまだ終わりません」

 文明が生み落としたこの手負いの怪物は、いつ再び暴走を始めるかわからない。いわきの人間も、いつカナンの地を求めて流浪の旅に出るかわからない、そんな懸念が今もときどき胸をよぎる。春はやはり遠い。

2024年7月12日金曜日

福島県史料情報

                    
 福島県歴史資料館から、定期的に「福島県史料情報」が届く。たまたまわが家がいわき地域学會の事務局になっているからだが、いわき地方の史料も載るので目が離せない。

 Å3判二つ折り、つまりはA4判4ページで、フロントページと合わせて数点の史料を紹介している。

 前にマンボウの史料が載った。それを参考にしながら、ブログを書いたことがある。記録をみると、7年前(2017年)の3月だった。

 ――「福島県史料情報」第47号が届いた。なかに、「佐竹永海が描いた磐城産のマンボウ」の記事があった。筆者は地域学會の会員でもあるWさんだ。

 嘉永3(1850)年、国学者山崎美成(よししげ)が5巻5冊の随筆集『提醒紀談』を刊行する。

挿絵の多くは、会津生まれで彦根藩の御用絵師佐竹永海(1803~74年)が描いた。

その一つに、マンボウの外形と皮をはいで肉や内臓を描いた「牛魚全図」がある。「牛魚」はマンボウのこと。

 マンボウは、ほかに「満方」「満方魚」「万寶」と表記され、「ウキキ」と呼ばれて「浮亀」「浮木」などとも書かれたという。

見出し以外に「磐城産」の文字は出てこないが、江戸時代、マンボウといえば磐城産で通っていたのだろう――。

 というわけで、新聞コラムのつもりでブログを書いている元記者にとっては、「福島県史料情報」は「ひそかなネタ元」のひとつではある。

 最新号(第69号=2024年6月)は、個人的には二つの史料に目が留まった=写真。

 1面トップの「福島県域初の民間新聞」、そして写真では右上に位置する「『古社寺建築物調』に見える白水阿弥陀堂」。白水阿弥陀堂については、やはりWさんが執筆している。

 明治31(1899)年の内務省訓令に従って、県は翌年、『古社寺建築物調』を作成する。この公文書には県内80余の建物の平面図が収められている。

そのひとつに昭和27(1952)年、建築物として県内で唯一、国宝に指定された白水阿弥陀堂がある。

白水阿弥陀堂は古社寺保存法によって、明治35年7月31日、特別保護建造物に指定される。が、翌年1月8日、暴風のために倒壊する。

「この平面図は、大規模な修復・復元工事が施される前の白水阿弥陀堂を正確に記録したものであり、建築史研究の上で大変貴重な史料」だという。

明治時代の白水阿弥陀堂に関する情報を得てからほどなく、県紙がこの史料を大きく取り上げた。

なるほど。ネタは誰にでも公開されている。記者のアンテナが反応するかどうかだと、今さらながらに思った。

それはそれとして、県内初の民間新聞「官許福島新聞」は明治7年2月に創刊された。福島市の神社の社司が興した開明社が発行元というが、残念ながら1年余りで廃刊になった。

いわき地方初の民間新聞「いはき」は、それより33年遅れて明治40年5月に創刊される。発行人は吉田新聞店主の吉田礼次郎(平)。こちらはクリスチャンだった。

2024年7月11日木曜日

照り返しがきつい

                     
   7月9日は、いわき地方は「曇り」の予報だった。朝10時から行政区内の事業所を回り、8月に行われる市民体育祭の協賛広告をお願いする。曇りならなんとかなるか――。

当日朝になると、なんとなく外が明るい。といっても、晴れているわけではない。気象会社とNHKの1時間予報をチェックすると、気象会社は曇りのマークが並ぶが、NHKは10時台だけ晴れのマークに変わっている。

 現実もその通りになった。格好はつけられない。冷蔵庫で冷やしておいた氷ベルトを首に巻き、スポーツドリンクをバッグに入れて、区の会計さんと一緒に旧道と国道沿いの事業所を巡った。

 回る事業所の数は15余り。旧道沿いには商店が密集している。国道沿いはというと、広告を出してくれる事業所はポツリ、ポツリだ。ひたすら歩き続ける。

 10時台なので、日陰はあっても狭くて短い。頭上だけでなく、足元からも照り返しがくる。この照り返しがきつかった。

 訪ねた先で汗をぬぐい、歩道でスポーツドリンクを飲みながら、なんとか1時間以内に予定の事業所を回り終えた。

 われわれ内陸部の人間は、海に近い小名浜ではなく、同じ内陸の山田の記録を参考にして、いわきの気温をはかる。

 山田ではこのところ真夏日が続いている。9日もやはりそうだった。小名浜でさえ、8日32・0度、9日31・3度と2日続けて最高気温が30度を超えた。

 11時に帰宅すると、すぐ風呂場に直行し、ぬるま湯と水を交互に浴びて汗を流し、ほてった体を冷やした。あとは水を飲んで、午後に街で開かれる会議の時間まで静かに過ごした。

 人間だけではない。この暑さは毛皮をまとった犬や猫もこたえただろう。飼い猫ではないが、居候のようなトラの「ゴン」は、このごろ、日中の居場所探しに苦労しているようだ。

 わが家の縁側は、もう日中にいる場所ではなくなった。姿が見えないなと思っていたら、隣家の北側スペース(玄関前の駐車場)でゴロンと横になっていた。

 9日は夕方、わが家の玄関先に戻って、やはり体を投げだしている=写真。わが家は店~帳場~居間~玄関が唯一、「風の通り道」だ。それをよく知っているのだろう。

 近所に黒い柴犬がいた。私が近くを通っても、隣人と認めて吠えるようなことはしなかった。

いつの間にか老いて、散歩にもいかなくなった。それもあってか、酷暑続きのある日、リールが体に巻き付いた状態で息絶えていた。熱中症だったかもしれないという。

梅雨とは名ばかりで、曇りなのに酷暑が続く。今からこうなら、梅雨が明けたら、どうなるのか。ゴンはどこへ避暑に行けばいいのか。

移動できない植物はなおさら耐え切れない。キノコだって、いずれは北へ北へと分布域を移すようになるのではないか。

2024年7月10日水曜日

鬼平ならぬ鬼天

                                 
 なにか毛色の変わった読み物を――。家の本棚をながめていたら、フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳『ヴィドック回想録』(作品社、1989年第3刷)=写真=が目に留まった。

 帯の表のキャッチコピーがすごい。「詐欺が跳梁(ちょうりょう)、強盗が跋扈(ばっこ)、フランス大革命が生んだ悪の百科全書」だ。

 帯の裏の推薦文は種村季弘が書いた。「泥棒にして警察官、犯人にして探偵。いまでこそめずらしくないタイプだが、元祖ヴィドックはできたてほやほやの二重人。バルザックやユゴーのモデルとなったのもむべなるかなだ(略)」

 ざっと770ページ。しかも、2段組みという長大な回想録だ。最初から順を追って読んでいったら、終わりがいつになるかわからない。興味を持ったところから読んでいくことにした。

 この本がなぜわが家にあるのか。買った覚えはない。どこからかのダンシャリ本だ。その経緯がブログに書いてあった。

 所有者は、市役所取材を始めた24歳のとき、某課の課長補佐だった人だ。その後、課長、部長、助役(副市長)と、一般職員のトップにのぼりつめた。

 本人が読んだかどうかは、問題ではない。元助役の家にあったという驚きが、この本を引き取るバネになった。

すぐ池波正太郎『鬼平犯科帳』の鬼平こと、火付盗賊改方長谷川平蔵の名せりふが思い浮かんだ。

「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく」

公僕精神を貫くには人間の心の奥底にあるものを知らないといけない、それには小説が一番、とでも思っていたのではないだろうか。

それから4年。いつかは読もうと思いながらも、本棚に差し込んだままになっていた。

この5月以降、かかりつけ医院ではなく、そこからの依頼で、病院での検査が続いた。近々、血栓と出血リスクを同時に減らすための予防的手術を受ける。

気分転換を兼ねてパラパラやっていると、鬼平と同じようなあだ名に出合った。ヴィドックは、逮捕・投獄・脱獄を繰り返し、やがてパリ警察のアンリ警視に出会い、警察の密偵になる。

 このへんのくだりは、「鬼平犯科帳」とそう変わらない。アンリ警視は「鬼の天使」といわれていた。

 江戸の盗賊たちが長谷川平蔵を鬼平と陰で呼んだように、アンリ警視もパリの盗賊たちから「鬼天」と呼ばれていた。

 『鬼平犯科帳』の密偵たちとは違って、ヴィドックはやがて特捜班が誕生すると、正規の刑事になる。

いやはや、なんともまあ……。飛び飛びに読んでも、意想外な展開が待っている。バルザックやユゴーが飛びつくはずだ。というのが、3分の1ほどを読んだ段階での感想だ。

2024年7月9日火曜日

たまらず海岸へ

                   
 雨が降ってもお湿りにさえならない。この週末は、いわきの内陸部でも真夏日が続いた。カラ梅雨にはちがいない。

 テレビが伝えるいわきの気温は、内陸部にある中心市街地・平ではなく、海に面した小名浜の気温である。

測候所が小名浜にあり、無人化されたあとは「特別地域気象観測所」として、自動観測を継続している。

いつからか「いわき○○度」が「いわき小名浜○○度」と、「小名浜」を加えるようになったのは、視聴者からの苦言・要望があったからだろう。

平に住む人間は、そのへんは先刻承知で、体感気温の参考にするのは、いわき南部の山田町だ。

平の気温が福島地方気象台のデータに反映されているならともかく、それがない。で、「気温と暮らし」ということになれば、いつも山田の気温を参考にする。

7月に入ると、山田は最高気温が4日33・6度、5日32・0度、6日30・7度、7日31・9度と、4日連続で真夏日になった。

小名浜はどうか。いずれも最高気温は30度に届かず、7日の日曜日は28・1度だった。

7日はいつものように、夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをした。といっても、体感ではこの週末で最も暑かった。

畑の日陰を求めて穴を掘り、生ごみを埋めると、もう息が上がった。15分で作業を中止し、早々に隠居を離れた。

どうやら内陸部に行くほど気温が上昇したようだ。あとでデータを確かめると、中通りでは最高気温が石川町37・8度、小野新町35・5度、船引町33・9度。浜通りでも隠居から近い阿武隈山中の川内村は36・7度だった。

こんな暑さの中で土いじりをすること自体無謀だが、一方では「ヤマユリが咲いているはず」という期待もあった。

小川町・三島のハクチョウ飛来地にさしかかると、川側の道端にヤマユリが開花していた。渓谷の入り口、高崎でもやはり咲いていた。

渓谷に入ると、つぼみが白く大きくなって開花寸前のものがあった。籠場の滝の近くまで進むと、まだ小さくあおいつぼみが散見された。

その先、少し開けたところで一輪、ヤマユリが咲き、かたわらでつぼみが大きく白くなっていた=写真。

ヤマユリはやはり夏の暑さと結びついた花だ。パチリとやって、爽快な気分になったのも束の間、「酷暑」の現実にげんなりさせられる。

家に戻っても暑い。街へ買い物に行っても暑い。夕方、海辺の農村地帯に住む後輩の家へ寄ったついでに、海岸へ出かけた。

車は、スタート時にはエアコンをかけるが、途中からとめて窓を全開する。集落を過ぎて海岸の防風林が見える水田地帯に来ると、急に空気がひんやりした。さっと体の熱が引いていく。

こんなに違うんだ。で、後輩の家からの帰り、海岸へ直行し、ひとときひんやりした空気の中を移動して帰宅した。

ハマの気温は、いわきの大多数が住むマチ(内陸部)の気温にはなりえない。そのことをあらためて胸に刻むドライブだった。

2024年7月8日月曜日

橋名板が消えた

                       
 よくぞ通報してくれた、という思いがある。金属買い取り業者のもとへ、橋名板が持ち込まれた。不審に思った業者が警察に連絡した。警察が動いて小名浜の会社員を窃盗の疑いで逮捕した。

古巣のいわき民報=写真=によると、直接の容疑は、同じいわき市内の山間部、三和町下永井字中根前の橋から橋名板4枚を盗んだというものだ。

 中根前はネットで調べればすぐわかる。そう思っていたが、下永井の住所(字名)欄にはない。

地理院地図には、「中根」はある。でも、メディアは続報でも中根前で通している。人間が住んでいないから、住所欄からははずしてある?

そんなことがあり得るのかどうかはともかく、山里でも集落から離れた山林内の市道、つまりは林道に違いない。

グーグルマップに描かれている道路と川が交差するあたりに狙いを定め、ストリートビューで山道をチェックしているうちに、被害に遭った中根橋に出合った。

 小川町の山中に小玉川をせき止めたダムがある。人工の「こだま湖」で、周囲には落葉樹林が広がる。春はヤマザクラが咲き乱れる。私はこの辺一帯を「いわきの吉野」と勝手に呼んでいる。

ダム湖に沿って三和町下永井へと道路が続いている。通常、市民が利用するのは湖の左岸側だ。下流の小川からいうと、ダム湖の右側のルートになる。

夏井川渓谷に隠居がある。隠居から川前経由で対岸の差塩(三和)へ駆け上がり、小玉川に沿って上永井から下永井へ下ると三差路に出る。

道なりに進めば、山を越えて三和の国道49号に出る。小玉川に沿って細道に入れば、ダム湖が待っている。

このダム湖の手前、東北電力の水力発電所があるあたりで、小玉川が屈曲する。その発電所に最も近いところに架かるのが中根橋だ。今度初めて知った。

橋には「中根橋」「平成4年11月竣工」(上流側)、「小玉川」「なかねはし」(下流側)の4枚の橋名板が設けられている。この4枚がすべてはがしとられたということになる。

 30~50代と、野鳥や野草の観察、山菜やキノコの採集を目当てに、「山学校」を続けた。

市道とはいっても林道のような狭い道を4輪駆動車で走り回った人間には、緑に覆われた山中の道がどんなものかはおおよそ見当がつく。

 軽トラックはともかく、普通乗用車では草がボデーをこすったり、折れた枝が行く手を遮ったりする。

それよりなにより道幅が狭いので、対向車が来たらどちらかが交差できるスペースまで戻らないといけない。

よほどの用事でもなければ通るのを敬遠するような交通環境だ。だからこそ入り込んだか。

私は車にカーナビが付いていても、使いこなせない。3・11以来、放射線量が高いままなので、キノコ採りにも行かなくなった。

とはいえ、人の目につかないところだけでなく、都市部でも橋名板の盗難が相次いでいるらしい。今度の余罪も数十件というから、こちらの想像をはるかに超える。

2024年7月6日土曜日

部屋に届く一筋の光

         
 これは夏至のころの、わが家の「レイライン(光の道)」には違いない。

 東側の台所の壁に古いタイプの換気口が二つある。まだ家の中か薄暗い5時半ごろ、そこから茶の間のカウチとそばの押入に朝日が差し込む=写真。

 少し時間がずれると、レイラインは消える。そのときだけ人間が見ることで生まれる「感動」といってもいい。

 春分あるいは秋分の日に、日の出・日の入りが東西の線と重なる。春分のあとの夏至までは日の出の位置が北に寄り、秋分から冬至までは逆に南に傾く。

 何年か前にレイラインの話を聴いた。夏至や冬至、春分・秋分といった節目の日に太陽の光と結ばれる「聖地」がある。

わけのわからない「パワースポット」とは違って、地学的データやGPS(全地球測位システム)を利用し、聖地の構造を科学的に分析する。合理的に聖地性の理由を説明できるのだという。

 その話を受けて、冬至の朝のレイラインを見に行ったことがある。場所はいわきの中心市街地・平の西方高台にある子鍬倉神社だ。

境内に八坂神社がある。冬至の朝、拝殿と参道、鳥居を結ぶ線の先から朝日が昇る配置になっているという。

冬至からは1日遅れの朝6時54分、八坂神社の参道に立つと、東の木々の間で一部、白銀のように明度を増すところが現れた。

やがて、そこが黄金色になったかと思うと、赤々と輝き、光線が放射状に伸び始める。まさしく鳥居の真ん中から朝日が昇ってきた。「一陽来復」の生まれたての朝だ。

拝殿の中は、と振り向けば、格子戸の奥に朝日が当たっている。昔は、元日の朝ではなく冬至の朝が初日の出だったことを講演会で知った。

実際に光の道を見て、そのことを納得した。「冬至のご来光」を拝むことですがすがしい気持ちになった。

というか、節目の日の朝日との一体感、つまりは敬虔な思いがそこはかとなくわき上がってくるのだった。

グーグルアースで八坂神社を見ると、正面は真東ではなく、やや南を向いている。わが家のレイラインはその逆で、カウチと座卓付近からは、換気口はやや北に見える。

もうひとつ、これは光の反射なので、レイラインといえるのかどうか。秋になると庭から家の床の間の壁に光が差しこんでくる。

ガラス戸をはさんで南の庭と茶の間が隣り合っている。庭に車を止めているので、その反射光が茶の間に飛び込んできたのだった。

あるとき、カミサンがこれに気づいて、手でキツネの影絵をつくった。子どもが小さかったころ、明かりを消して、ロウソクや懐中電灯の光で影絵遊びをしたものだが、昼間、太陽の反射光でそれができる。

外気とじかにつながっている「昭和の家」だからこそ体感できる夏至のレイライン、そして秋の反射光による影絵遊びだった。

2024年7月5日金曜日

モンテの「遺品」

                                 
 平の国道399号沿いに、中南米音楽の店「モンテビデオ」があった。今年(2024年)6月1日、50年の歴史に幕を閉じた。

 いわき駅前の飲み屋街からは少し離れている。最初からモンテで飲むか、あるいは駅前からタクシーで行くか――となるので、私がモンテのドアを開けたのは半世紀で10回あったかどうか。

 5年前、モンテのことをブログに書いた。この5~6月、旧投稿へのアクセス数が急増した。

モンテ閉店を知った人たちが、ネットで情報を探っているうちに、拙ブログにたどり着いたのだろう。中身を要約・抜粋する。

――2019年3月某日夜、飲み会があった。会場の近くに、中南米音楽の店がある。一次会が終わると、何人かその店に流れた。私以外は40代以下の若者だ。

店の名前は「モンテビデオ」。昭和49(1974)年に開店した。2階前面を黄土色のテントが覆っている。

私たちが入ると、ママさんがジプシー・キングスのビデオをかけた。フラメンコ系のアコースティックギターの音色が心地いい。

「パコ・デ・ルシアの音楽かと思った」というと、「パコのあとに(このグループが)出てきたのね」。ラテン音楽にはさすがにくわしい。

福島県川俣町は、今や日本のフォルクローレ(南米アンデス山脈に住む先住民を中心にした民族音楽の総称)のまちとして知られる。

同町のホームページによると、年に一度、「コスキン・エン・ハポン」という祭りが同町で開かれる。

アルゼンチンの避暑地・コスキンで、南半球の夏の1月、中南米の国民音楽祭が開かれている。その日本版を、同町の故長沼康光さんが中心になって開催した。

長沼さんらがフェスティバルを始めたのは昭和50年だ。「モンテビデオ」のママさんもこれに共鳴し、川俣町へ出かけたり、店を休んで長沼さんらと中南米へ出かけたりした。

ママさんはわがカミサンと中学校の同級生なので、若いときから知っている。「店を出してから、もう45年よ」。たぶん店内は当時となにも変わっていない。

ラテン音楽一筋に店を切り盛りしてきた。今も続けている。それはそれであっぱれな生き方ではないか。こういう店が“場末”にあるまちは楽しい――。

ここからは店をやめたあとの話。要らなくなったイス、テーブル、コーヒーカップ、グラス……。それらを引き取りに行った。

そのとき初めて、じっくり店の正面を見た。ドアとそばのエクステリアを包むように、白い壁が楕円に切り取られている。そうか、欧米の教会によくあるアーチ状の柱を模したものだったか。

カミサンの目当てはドアのそばにあった鉄柵=写真。ほかの鉄柵と含めて花壇の柵になった。

店名がローマ字綴りのタイルもあった。これは壁にしっかりはめ込まれている。後日、業者が来てはがし、ほかのものと一緒に廃棄してしまったという。

半「世紀の誤植」というか、「テ」が「チ」(TI)になっていた。ぜひ欲しいモンテの「遺品」だったのだが……。