2014年4月11日金曜日

置き薬ネットワーク

 先に薬を使い、代金はあとで払う――「越中富山の薬屋さん」の置き薬は、江戸時代、薬効と「先用後利」の信用で全国に広まった。わが家にその薬箱=写真=が二つある。

 一つは越中富山の流れを汲むもので、先代は昔ながらに薬の入った行李(こうり)を風呂敷に包み、自転車でやって来たという。子どもには定番の紙風船をおみやげにくれた。2代目は車でやって来る。いわきに住む。

 もう一つは、システムだけまねたものらしい。きのう(4月10日)、薬のチェックに来たので聞いてみた。「富山出身?」「いいえ、宮城県です、白石です」「白石には松窓乙二(しょうそう・おつに)という俳人がいるけど、知ってる?」「知りません」。反応が早い。話の接ぎ穂がないくらいにけろっとしている。

 江戸時代のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に興味がある。極めつけは、乙二などが加わっていた俳諧ネットワークだろう。士農工商と幕藩体制下、身分・上下を超え、地域を超えて俳人が一座し、5・7・5の長句と7・7の短句を詠みつなぐ。この「付け合い」を今風に表現すると、「約束事に基づくチャット」、「俳号」は「ハンドルネーム」か。

「先用後利」のしたたかな戦略で築いた置き薬ネットワークも、江戸時代に端を発したSNSではないのか――そんな視点で検索したら、富山には置き薬を含む「3大ネットワーク」があることがわかった。立山信仰(立山曼荼羅を使った全国出張レクチャー)、北前船(北海道から沖縄・東南アジアまで結ぶ交流貿易ネット)、そして売薬(全国に薬を配置する売薬ネット)がそれだ。
 
 物の本によると、江戸時代、北前船によって蝦夷地~富山~琉球~清国の「昆布ロード」ができた。富山の売薬商・蜜田家は北前船の船主でもあった。西の物資が北へ行き、北の昆布が薩摩に渡り、琉球で「唐物」の薬品などと交換された。その薬品は薩摩経由で富山に流入した。

 置き薬は立山信仰とも結びつきがあった。修験者が全国の得意先に、護符とともに、立山産の熊の胆(い)を配ったという。その伝統を基盤にして置き薬ネットができたらしい。富山の三大ネットワークは互いにつながりあい、連関しあいながら強化・発展してきたことが読みとれる。

 それだけではない、富山では売薬人教育が重視された。寺子屋では読み・書き・そろばんのほかに、行商地の地理や歴史、薬の知識を身につけさせたという。
 
 売薬さんのなかには俳句をたしなむ人間もいたことだろう。須賀川の、江戸時代後期の俳人市原多代女と交流した富山の俳人がいる。富山の研究者は、売薬さんだったのではと推測する。俳句ではないが、阿久津曲がりネギ(郡山)は明治時代、その売薬さんが「加賀ネギ群」の種をもたらしたのが始まりだとか。今年はこのあたりを少し調べてみようかなと思っている。

2 件のコメント:

かぐら川 さんのコメント...

富山の文化の基底にあるコミュニケーションの的確なご紹介、ありがたく拝読。ただし、その歴史遺産(文化DNA)を現代に発現できているかと考えると忸怩たるものがあります。

タカじい さんのコメント...

かぐら川さん、おひさしぶりです。かぐら川さんのことを思い浮かべながら書きました。歴史遺産をいかに現代に生かすか。どこの地域にもいえることですね。