2025年11月29日土曜日

豹変いや猫変

                                 
 大活字本の動物エッセー、群ようこ『ネコの住所録』は、2匹の近所の猫について書いた「二重猫格」から始まる。

人間の「二重人格」になぞらえて、通行人と飼い主とでは態度をガラリと変える猫のことを「二重猫格」と表現した。

首輪をした黄色いオス猫の「ゴン」は道路に突っ伏して死んだふりをする。通行人はびっくりするが、飼い主が声をかけると「ニャーン」としっぽを振って家の中に入る。

大きな家の立派な門の中にミカン箱のベッドを置いてもらい、ドテッと横になっている「ブタ夫」(キジトラのオス=「チャーリー」という名前が付いている)は、通行人が声をかけても「ブニャー」と押しつぶした憎たらしい声で鳴くだけだが、飼い主が声をかけると「ニャー」と言って起き上がる。

このエッセーを読みながら、わが家の「さくらネコ」の「ゴン」(キジトラ)と「シロ」(全身が真っ白)のふるまいを思い出した。

飼い猫ではない。地域猫で、カミサンがキャットフードをやると、まずゴンが縁側にすみつくようになった。

最初は段ボール箱、ついで「えじこ」(人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)をベッドとして用意した。

あとから来たシロは最初、どこかのお嬢さんみたいにとりすましていたが、ゴンよりは年かさらしく、なにかというとゴンを威嚇する。

カミサンはそれでゴンを応援することが増えたのだが、猫同士の力関係を変えるまでにはいかない。

シロは、人間に対しても横柄なところがある。ゴンは玄関のたたきにある踏み台にお座りをして、時折、物欲しそうに「お手」をしてこちらを見る=写真。

シロはそんなことはしない。ちょっと目を離したすきに茶の間に上がり込む。「コラッ」。一喝すると、脱兎のごとく庭に走り去る。

それだけではない。シロはゴンのベッドを奪った。カミサンは新たにゴンのベッドをつくってやった。

カミサンが足の神経痛に見舞われた時、私が代わってえさを与えた。今も時々、代行する。

すると、私を避けて突っ走り、少し先からこちらを振り返って見ていたシロが、だんだん距離を縮めて、今では「ニャー」と鳴くまでになった。11月に入ると足元にすり寄って一周までした。

君子は豹変する。その「豹変」と「二重猫格」から思い浮かんだ言葉が、シロの「猫変」ぶりである。

えさをやるのは朝と夕方の2回だ。夕方は特に「えさ、ちょうだい」の鳴き声が玄関先で繰り返される。

それだけではない。先日も縁側の方からうなり声が聞こえた。やはりシロである。ゴンを縮み上がらせている。なんだか白雪姫をいたぶる王妃みたいだ。

2025年11月28日金曜日

「ウ・サギ」

                                
 「ウサギ」は「ウ」と「サギ」に分けられる――なんて思ったわけではない。逆である。鳥のウとサギを並べると「ウサギ」になる。で、いちおう間に「・」(中黒=なかぐろ)を入れて「ウ・サギ」とした。

 神谷の夏井川にハクチョウが飛来してから1カ月。朝晩、わが生活圏をハクチョウが鳴き交わしながら飛び交うようになった。

 いわきの夏井川では三島(小川町)、平窪(平)、新川合流部の塩~中神谷(平)の3カ所でハクチョウが越冬する。

 塩の場合は下流のサケのやな場がある調練場(平中神谷)まで、ばらけるようにしてハクチョウが見られる。

 今年(2025年)は10月17日に「孫」の父親が平窪への初飛来を確認した。私はそれから1週間ほどたった25日に調練場で初めてハクチョウを確認した。

 それまでが大変だった。今年はどういうわけかハクチョウの越冬地にダイサギやアオサギが何羽もいる=写真上1。白い大型のサギをハクチョウと見誤ることがたびたびだった。

 三島では9月後半から、三島橋の上・下流で複数のダイサギが見られるようになった。ここでも何度か、ダイサギをコハクチョウと誤認した。

9月28日は朝、早めに家を出て8時ごろに三島を通過した。驚いたことに、三島橋直下の浅瀬にダイサギの大集団がいた。どこか近くにねぐらがあって、朝の食事にやって来たのだろう。

 三島や中神谷ばかりではない。夏井川を渡って平市街に入るとき、常磐線と並行する平神橋を渡る。その下流には国道399号(旧国道6号)の平大橋がある。この橋もちょくちょく利用する。

どちらかの橋を渡りながら、チラッと夏井川を見る。ときには上流にも下流にもダイサギがいる。

カワウも負けてはいない。週末は堤防の改修工事が休みになる。11月2日の昼過ぎ、マチからの帰りに堤防を利用すると、並列する川岸の波消しブロックの上にカワウがずらりと並んでいた=写真上2。

8月31日の夕方。同じように国道399号を帰ると、黒い隊列が見えた。車と同じ東の方向に飛んで行く。62羽ものカワウの大集団だった。

福島県によると、夏井川河口の横川にカワウのコロニーがある。そこへ帰る途中だったか。そのとき以来の衝撃だ。

「ウ・サギ」と夏井川。川には魚がいっぱいいる、というサインなのかどうか。釣りをしない人間は、ただただ「ウ・サギ」と語呂遊びをするだけだが……。

サケはどうだろう。やな場づくりはいつもよりかなり遅かったようだが。サケがどのくらい上がっているのかも気になるところではある。

2025年11月27日木曜日

あったかソックス

                                 
 神谷地区の歩こう会が公民館から夏井川河口の公園まで往復約9.5キロのコースで行われた。

堤防のごみを拾いながら自然と触れ合うウオーキングは、子どもにとっても得難い経験になったことだろう。

歩くこと自体楽しいのだが、さらにもう一つ、公民館に戻れば抽選会が待っている。「はずれ」なしなので、何かは当たる。「完歩賞」としてクオカード(商品券)も付く。

 出発式に合わせて参加者が数字の印刷されたカードをもらい、あらかじめ同じ数字の半券を抽選箱に入れておく。折り返し地点でカードにスタンプを押してもらう。それが完歩した証になる。

 毎回、出発式であいさつをし、番号を引く係になる。景品は米やキッチンペーパーなどいろいろで、抽選する本人は「まるでこたつソックス」が当たった。

 靴下が入っていた袋には「冷え対策」「独自の温熱刺激設計。つま先からふくらはぎまであったか保温」とあった。

 裏面に詳しい「解説」が載っていた。「足首のはなし」として、「足首、手首、首といった“首”は血液が集中して流れるポイント。ここが冷えるとカラダ全体の冷えを呼んでしまう。冷えから守る秘密は“首”にある」。

 「リラックスしたい」「冷えたフローリングがつらい」といったときにはお勧めの靴下だという。

その日の夜、さっそく「あったかソックス」をはいて寝た。なるほど。足元の冷えを感じずに目が覚めた。

実はその日の前の晩、今季初めて湯たんぽを使った。2日目は「あったかソックス」をはいたので、湯たんぽは休んだ。しばらくは湯たんぽなしでいけそうだ。

私は末端の血流が悪い。子どものころから「手足が冷たい」といわれてきた。秋の終わりになると、手足の冷えを自覚する。

で、朝起きるとヒーターをかけ、部屋が暖まったら石油ストーブに切り替える。下着は長袖、そして下ズボンをはき、散歩には手袋とマフラーをして出かける。

後期高齢者は早めの防寒対策が必要――そう思っている人間には、「あったかソックス」は願ってもない景品だった。

区長仲間が解説にあるイラストを見て、「昔はやったルーズソックスだね」という。そういうはき方もOKらしい。

去年(2024年)夏、短期入院で「左心耳閉鎖」術を受けたとき、「弾性ストッキング」(ハイソックス)をはいた(はかされた)。

術後はベッドでじっとしていないといけない。人によっては下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)が起きるらしい。それを軽減・予防する靴下ということだった。

その経験があるので、夜だけでなく日中も「あったかソックス」を使ってみた=写真。とりあえず2日間使い続けて、日中は普通の靴下で過ごし、夜寝るときだけ、「あったかソックス」にはき替えることにした。

次は手か。手首を温めるバンドでもあれば、それを試してみたい。

2025年11月26日水曜日

2年ぶりの歩こう会

                                       
   未明の4時半には起きる。すぐ新聞を取り込む。ついでに庭に出て、まだ暗い空を見上げる。

11月23日の日曜日は、星は見えるが数えるほどしかなかった。夜が明けると曇天だった。

この日は「神谷市民歩こう会」が開かれる。雨天なら、延期ではなく中止である。雨でなくてよかった。

歩こう会を主催したのは青少年育成市民会議神谷支部(地域部会)で、参加者は神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロを、ごみを拾いながら歩いた。

河口の沢帯(ざわみき)公園で一休みをし、記念撮影をしたあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開き、昼過ぎには解散した。

参加したのは市民会議の支部役員や各区長、公民館職員と家族連れなど40人余り。スタッフとして区長仲間と顔を合わせたとき、去年(2024年)の歩こう会の話になった。

「去年は来なかったね」と笑いながらいわれたので、「はて、なにがあったんだっけ」と一瞬考えた。

そうだった。発熱して急きょ、公民館に不参加の連絡をしたのだった。あとで去年の手帳を見て、そのへんの経緯を確認した。

歩こう会が行われたのは11月10日の日曜日。義弟が6日に緊急入院をして、翌7日に亡くなった。

そのあと私が、次いでカミサンが発熱した。近所の医院から薬を処方してもらい、家で静かにしていると回復した。

私にとっては2年ぶりの歩こう会である。出発式であいさつしたあと、河口の公園に車で先回りして一行を待った。公園はチェックポイントになっている。区長仲間が抽選会に必要なスタンプを押した。

歩こう会は長い間、吉野せい賞表彰式と日程が重なっていて、朝、歩こう会であいさつをすませると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。

 それが何年か前から、吉野せい賞表彰式が土曜日に変わったため、日曜日の歩こう会にも最後まで参加できるようになった。

 ただし、今年の歩こう会はいつもより開催時期が遅い。晴れれば冷たい北西の風が吹きやすい。曇天でも風があれば体が冷える。小春日ではないが、風のない曇天なのがなによりだった。

毎回、備忘録のために堤防を歩く一行の写真を撮る。今年はプラスアルファとして対岸からも狙ってみた=写真。

背景の山並みのうち、中央で三角にとがっているのは大久町の三森山(656メートル)である。

こちら側、右岸のサイクリングロードにもウォーキングを楽しむ人がいる。日曜日ならではの光景ではあった。

2025年11月25日火曜日

「草野の森」25年・下

                                                    
   国道6号の神谷ランプにある「草野の森」は広さが約800平方メートル。森としての歴史は25年とまだ浅い。

平成22(2000)年3月、勿来の四沢交差点から神谷ランプまで全長約28キロの常磐バイパスが完成したのを記念して、植樹祭が行われた。

植えられた苗木はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。

いずれもいわきの平地の潜在植生で、植物生態学者の宮脇昭さん(1928~2021年)が指導した。

 ランプ内のスペースは、のり面が半月形の森になり、残りが広場になった。広場と草地の境には照葉樹(シラカシらしい)が植えられ、今では独立樹の風格を備えつつある。

「草野の森」の前に「未来の風の乙女」像が建つ=写真。四沢交差点にも、「クロソイドの乙女」と題するブロンズ像がある。起点と終点で乙女像が交通の安全と地域の発展を祈っているのだ。

 会社をやめたあと、朝晩、夏井川の堤防を散歩した。途中、「草野の森」に寄ってブロンズ像と対面した。森がつくられてまだ10年もたっていなかった。

震災後何年かたって散歩をやめた。そしてまた最近、この「草野の森」を目的地の一つにして「準散歩」を始めた。

広場に立って森をながめるのはおよそ10年ぶりである。木々もまたその歳月を加えて生長した。

時間とともに植生が変化しつつある様子をつづったブログがある。植樹祭からは9年後、現在からだと16年前である。それを抜粋して紹介する。

――まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに生長したのがある。

いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、生長したのだ――。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。これも生長して乙女像を隠すようになった。

若い森にはびこっていたセイタカアワダチソウは、今は反対側の広場を埋め尽くしている。前に草刈りが行われたらしく、丈は低い。「セイヒクアワダチソウ」だ。

いずれにしても、と思う。「草野の森」は人間と鳥と風、そして太陽と雨との協働作業によって絶えず変化し続けていくのだろう。

2025年11月24日月曜日

「草野の森」25年・上

                                
   近所のコンビニへ行くのと同じ感覚で往復30分・2000歩程度の「準散歩」を始めてから間もなく1カ月。3つのコースを設けて週に2回繰り返す。

その日の気分で行き先を選ぶ。行き先は夏井川の堤防か「草野の森」、近所のコンビニだ。コンビニは近すぎるので大回りをして行く。

「草野の森」は旧常磐バイパス(国道6号)終点の「神谷ランプ」(本線車道への斜道)にある。

震災前は朝晩、夏井川の堤防を散歩した。今の時期ならコハクチョウが目的で、途中、必ず「草野の森」へ寄って広場で一休みした。

震災後も何年か散歩を続けた。が、やはり大災害のショックが尾を引いていたらしい。慢性の不整脈が亢進し、長い散歩にドクターストップがかかった。

以来、コンビニへも車で行く始末で、「これではいけない、フレイルの悪循環を断ち切らねば」と思いつつも、実行できずにいた。そんなとき、2000~3000歩ならいいらしいと知って、「準散歩」を始めたのだった。

夏井川の堤防は車でマチへ行った帰りによく利用する。コンビニへもしょっちゅう行く。「草野の森」へ歩いて行くのは、それこそ10年ぶりくらいだろうか。

平成12(2000)年3月、バイパスの全線開通を記念して植樹祭が行われた。当時、国際生態学会会長だった理学博士宮脇昭さんの指導で、地元の平六小、草野小の高学年生や長寿会などが「神谷ランプ」ののり面にポット苗を植えた。

ランプ内のエリアは「草野の森」と名付けられた。「草野の森」の苗木たちはその後順調に生育し、四半世紀がたった今ではうっそうとした森を形づくっている。

しかし、なかで1本、住宅地の小道から見ると、鳥か風が種を運んで来たと思われる松(クロマツ?)が枯れている。

まずその確認を――と、アスファルトで舗装された広場に立ったのだが、ほかの木々に遮られて枯れ松は見えなかった。

のり面を覆う若木群とは別に広場の中央に独立樹が立つ=写真上1。樹下にはベンチがある。

ベンチの周りにはどんぐりがいっぱい転がっていて、歩くたびに落花生の殻を割ったような音がする。

それを集めてカメラを向ける=写真上2。家に帰って、撮影データを見ながら樹種を調べたのだが、よくわからない。

で別の日、今度は落ちていた葉とどんぐりを持ち帰り、ネットでどんぐり図鑑などにあたって樹種を絞り込んだ。

どんぐりは形状と殻斗(かくと)から、スダジイではなくアラガシかシラカシらしい。そう見当がついたので、ダメ押しを兼ねて葉とどんぐりを拾いに行ったのだった。

結論は、シラカシ(らしい)。違っているかもしれないので、断定はしない。

2025年11月22日土曜日

大火の記憶がよみがえる

                                
  大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。

惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。

規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。

佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。

6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。

この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。

新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」

あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。

小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。

そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。

――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――

常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。

 あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。

2025年11月21日金曜日

渓谷の「日の出」

                               
   日の出は、夏至から冬至まではおおむね1日に1分遅くなる。冬至から夏至までは逆に1分ずつ早くなる。日の入りも同様で、冬場は1分ずつ早くなり、夏場は1分ずつ遅くなる。周期が約29.5日の月は同じように1日1時間を目安にするといい。

 現役のころは、季節のニュースやコラムを書くのに「俳句歳時記」が欠かせなかった。夏井川渓谷の隠居で土いじりを始めると、太陽や月などの天体の動きを反映した農事暦も参考にするようになった。そこから「太陽は1分、月は1時間」という目安が生まれた。

11月16日の日曜日は朝8時ごろ、隠居に着いた。空は晴れているのに太陽はまだ尾根の陰にある。V字谷である。日が差さないので、庭に立っていると肌寒い。

隠居は、集落では一番下の道路端にある。山側の家はすでに朝日に照らされている。標高が高い分、早く太陽が拝めるのだ。

家々の裏山から始まって、田畑、線路、道路と尾根の影が消えるころ、入り組んだ対岸の尾根に日が差し始める=写真上1。

この日の小名浜の日の出は6時15分。渓谷の隠居に最初の朝日が差し込んだのは、それからざっと2時間後だった。

 風はない。庭にはまだ山の影が広がっている。その影が時間を追って川岸へと後退していく。

 時には朝日に背を向けて立つ。焚き火で背中を温めるのと同じで、風がない分、背中がゆっくりぬくもってくる。生きものたちもそうして体を温めているのかもしれない。

やがて不耕起栽培の辛み大根の畑も明るい光に包まれる=写真上2。まだ地面が凍り付くほどではない。

普通の大根を栽培していたときのことである。霜をかぶってペタッとなった葉が朝日に照らされ、霜が溶けるにしたがってピクン、ピクンと立ち上がる。うねのあちこちでピクン、ピクン。この葉っぱのダンスを見るのが冬の楽しみだった。

辛み大根の葉も霜をかぶるとペタッとなる。しかし、葉が小さいからか、はっきりわかるようなピクン、ピクンはまだ見ていない。

隠居では日の入りが早い。ほかの家ではまだ太陽が見られるのに、土地が低い分すぐ日が陰る。冬至のころは午後3時になると太陽が尾根に隠れる。

その時間に尾根に隠れる太陽を「夕日」というのははばかられる。太陽の姿が消えても、空は明るい。

同じ太陽でもマチ(平地)とヤマ(渓谷)では見方が異なる。その違いを知る。楽しむ。渓谷の自然には学ぶことがいっぱいある。

2025年11月20日木曜日

あれもこれもセルフ

                                              
 朝晩どころか、日中もあまり気温が上がらない。秋の深まりとともに、暖房が欠かせなくなって、10月下旬に石油ストーブを引っ張り出した=写真。灯油は車のトランクにポリ容器を積んでガソリンスタンドから買って来る。

車のガソリンを補給しに行ったとき、スタッフからセルフになったことを教えられた。「えっ!」。前に工事をしていたのはそのためだったか。とりあえず最初なので、スタッフが代わって給油をしてくれた。

 ガソリンがそうなら灯油も――。後日、案じながら行くと、そうだった。ガソリンのときと同じスタッフがそばにいて、イチから教えてくれた。

まず給油機の画面を見ながら、支払い方法と給油量を指定(72ℓ=4缶は表示にないので、数字を入力)して紙幣を入れる。

次に、車のトランクに積んだポリ容器のふたを開け、給油機からノズルをはずしてポリ容器に差し込み、トリガーを引いて給油する。

 ノズルが灯油面に触れると自動で給油が止まる。数字がほぼ18ℓを指すあたりでノズルを少し上げ、カチャカチャとトリガーを引き続ける。それを36ℓ、54ℓと繰り返し、最後は72ℓになるのを待つ。

 それからだいぶ日がたち、また灯油が必要になった。今度はガソリンも補給することにした。

まずは灯油である。前回とは別のスタッフが立ち会ってくれた。おさらいを兼ねていわれたとおりにタッチパネルを押す。給油を開始する。そこまではなんとかできた。

最後の精算方法を忘れていた。給油機からレシートが出てくる。その末尾にバーコードが記されている。それを別の場所にある精算機に差し込む。教えられたとおりにして、やっとおつりが出てきた。

ガソリンも原理は同じ。満タンにしてレシートを精算機に差し込み、おつりを回収した。「セルフの時代だな」。思わず口の中でつぶやく。

「慣れるまで何度でも立ち会いますから」。そりゃそうだ。そうしてもらわないと年寄りは困る。

マルトへ行く。ここも精算機に商品のバーコードを読み取らせて支払うセルフレジに変わった。

規模の大きなところは2本立て、完全セルフと、会計だけセルフとがあって、いつも人間が対応するレジを選ぶ。

身近なところではコンビニ。ここも最後は本人がタッチパネルを操作して会計をすませる。

少子高齢化時代になって働き手が減った。人手不足をカバーし、人件費も削減するには、レジのセルフ化が有効ということなのだろう。

しかし、それは日本に限らない。むしろ海外の方が先行しているようだ。セルフレジの先にあるのは、現金ではなくカードのキャッシュレス社会なのかもしれない。

もう16年前になる。同級生で還暦記念の北欧修学旅行をした。コンビニのレジはカード決済だった。

買い物はカードを持つ同級生に頼み、あとで精算した。そのとき思ったのが、やがて日本でも、である。少しずつだがそちらの方向に向かっている。とにかく慣れるしかない。

2025年11月19日水曜日

「空飛ぶ微生物」

                                          
   昔、見えないキノコの胞子を想像して、こんな文章を書いた。

――キノコは子孫を残すために胞子を飛ばす。その胞子が目の前の空中に漂っている。キノコの胞子は空を行き交う旅人。南からの台風が、西からの季節風が、東風が、北風が、海を、森を越えて胞子を運ぶ――。

 台風はシイタケ胞子の運搬人。それをイメージしてのことで、「胞子は空を行き交う旅人」という思いは今も変わらない。

胞子を飛ばす前のキノコも、比喩を用いるとわかりやすい。キノコは森の清掃人。枯れ木や落ち葉を分解し、栄養を土に返して森を清浄に保つ。

同時に、菌根菌として森の植物と共生し、木々の生長を助ける。食用としても重宝される。もちろん、毒キノコもある。それを含めて、知れば知るほどまた興味がわく。

 先日、またまた「ええっ」となった。「空を行き交う旅人」には別の役割もある。キノコの胞子を含む「大気微生物」が雲をつくり、雨を降らせるというのだ。

 牧輝弥『空飛ぶ微生物――気候を変え、進化をみちびく驚きの生命体」(ブルーバックス、2025年)=写真=で知った。

 本は「です・ます」調で書かれている。これを「である」調に替えて、印象に残った比喩的な表現を紹介する。

・人は大量の微生物を肺で吸い込んで吐く「人間ポンプ」である。呼気を通じて体内を通過する微生物は一日に約125万個。

・生物に由来する大気粒子は総じて「バイオエアロゾル」と呼ばれる。「人間ポンプ」は微生物だけでなく、バイオエアロゾルの発生装置でもある。

 ・春には黄砂が日本に届く。黄砂は、もともとは砂の鉱物粒子だが、中国都市部で汚染大気にまみれ、日本海で海塩を巻き込むので、鉱物やスス、海塩の混合粒子になる。その意味では、黄砂は「微生物の空飛ぶ箱舟」である。

 ・シイタケは広葉樹であれば種にかかわらず宿主として繁殖できる。動物の死骸や植物の枯死体にも生息できる腐生菌なので、胞子をまき散らし、長距離輸送で生息域を拡大できる。

 なるほど。南方生まれのシイタケが日本列島のみならず、北海道の先のサハリン(樺太)でも採れるワケがこれか。

ちょうどこの本を読み進めているとき、「あさイチ」(11月17日)がキノコ特集を組んだ。冒頭で『空飛ぶ微生物』を書いた牧輝弥・近畿大学教授の研究が紹介された。キノコが雨を降らせる。そこから番組が始まった。なんという偶然。

もう一つ。魚介類に関しては「さかなクン」がいる。そのさかなクンも出演していた。本筋はしかし、「坂井きのこ」というキノコ愛がいっぱいのタレントだ。

長野県在住の35歳で、キノコのすばらしさを伝えるためだけに芸人活動をしているという。

50歳のさかなクンを尊敬しているらしく、感激の対面となった。魚介類はさかなクン、キノコは坂井きのこクン。キノコの分野でも特異な才能を発揮するタレントがいることに驚いた。

2025年11月18日火曜日

置き干し柿

                                 

   「西高東低」の冬型の気圧配置になって冷たい西風が吹き荒れたあとは、庭に渋柿の葉が散乱し、見事に色づいた柿も2~3個は落ちている。

 柿の実はあおく未熟なうちからよく落ちる。今年(2025年)は「生(な)り年」らしく、いっぱい実をつけた。落柿が直撃するのを避けるため、夏には柿の樹下から車を離しておいた。

 秋の深まりとともに、柿の実の表面が鮮やかな朱赤色になってきた。色に引かれて実を回収し、整理ダンスの上に飾った。

 1個が2個になり、3個が6個になって、風が吹き荒れた翌朝には5個を加えて11個に増えた。

このまま飾っておくわけにはいかない。1カ月ほど前、落っこちた1個の皮をむいて4つ割りにし、小皿に並べて台所の窓辺に置いた。それを思い出して試食すると、渋みが抜けて甘い。それなりに干し柿になっていた。

若いころ、この渋柿を長い棒のはさみでもぎり、皮をむいて2つずつテープで結んで軒下につるしたことがある。

見事に失敗した。ヒヨドリにやられ、カビも生えた。以来、干し柿はお福分けを食べるだけになった。

つるさなくても、ざるに並べて室内干しをする。それもあり、ではないか。小皿の干し柿からひらめいた。

11個の柿の皮をむき、大きく平たいざるに並べて、日が当たる2階の窓際に置いてみた=写真。

裸になった柿の実は、傷ついたところはやわやわになっている。ざるに接するとくっついてしまって、実が崩れる。

そうならないように毎朝、様子を見に行く。ちょっとした振動、たとえば地震、あるいは家の前の道路を大型車が通ると、すぐコロリとなる。で、毎日、置き場所を探りながら並べ直す。

揺れを感じなかった日でも、なにかが影響するのか、1個か2個はコロリとなっている。

小さな泡を吹いている傷口もあった。果肉がとろけそうになっている。これがざるにくっつくと厄介だ。

ざるも時々、半回転させる。曇りガラス越しとはいえ、光がまんべんなく当たるようにする。

この「柿の実」のお守(も)りは、水分が抜けて表面が焦げ茶色になるまで続く。焦げ茶色になれば、もうざるにくっつくこともないだろう。

そうなるのは師走の半ばかもしれない。それでいい。目標は正月だから。正月三が日の食べ物の一つにする。

むいた皮は捨てずに干して白菜漬けの風味用に使う。これはヒヨドリもつつかないので、軒下の台の上に新聞紙を広げて、そこに並べた。こちらはすぐ水分が抜けるので、使うまでそのままにしておく。

2025年11月17日月曜日

小春日

11月16日の日曜日は、朝からいい天気になった。小春日である。

きょうは紅葉目当てのマイカー客が押し寄せるはず――そう踏んで、夏井川渓谷の隠居へは早めに出かけた。

8時には着いた。外気温は5度。菜園の土はまだやわらかい。スコップを入れても問題はない。が、冷気が体を包む。マスクをして鼻水が垂れるのを隠した。

菜園に生ごみを埋め、庭を一巡りして隠居に戻る。と、茶の間が冬座敷に変わっていた。すぐこたつに足を突っ込む。しばらくは手も入れたままにしておく。

谷間のカエデは紅葉のピークを迎えた。しかし、対岸は全山紅葉の時期を過ぎて、白骨のような幹と枝が目立つ。

 渓谷のど真ん中、錦展望台には朝から人が訪れていた。時間がたつごとに道路から人語が響き、マイカーが駐車場を埋めるようになった=写真。この秋一番のにぎわいだ。

 ほとんどがスマホをかざしてカエデの紅葉を撮っている。展望台から地続きの、岸辺に沿った東北電力の開放スペースにも行楽客が行き来している。

 午前10時ごろになると、錦展望台には野菜の直売所が二つ並んだ。売るのは小野町のNさんと、今年新たに加わった川前のHさんだ。

Nさんの直売所で買い物をするようになってからだいぶたつ。紅葉シーズンになると、週末だけ江田駅前に直売所を設ける。とろろ芋やゴボウが並ぶ。私は「曲がりネギ」を買う。何年か前から、錦展望台でも直売するようになった。

Hさんとはこの秋に知り合った。最初は、わが隠居の庭を直売所として借りられないか、ということでやって来た。

OKしたものの、その後、錦展望台を借りられるようになって、そちらで直売所を開くことにした。

 直売所が二つあることで相乗効果が出たのか、行楽客は錦展望台に来ると対岸を仰ぎ、次いで直売所をのぞく。隠居から見ていても応対に忙しそうだった。

 Hさんとは、対岸の木々があらかた葉を落とした話になった。カエデは紅葉の真っ盛りだが、それ以外、ツツジやヤマザクラなどで全山が錦繡(きんしゅう)に彩られるときにこそ来てほしいのに、という。

その通り。紅葉には非カエデの紅葉もある。その錦繡から始まって、やがてカエデの紅葉を迎えて冬になる。

テレビの「紅葉情報」がカエデだけになっているのは現実を反映していない、と私も思う。

「放送するならカエデの葉のマークではなく、ヤマザクラの葉のマークで始まり、やがてカエデの葉のマークに切り替える。そのくらいのきめ細かさがないと」という話になった。

 Hさんの直売所からは白菜と大根、トマトを買い、Nさんの直売所からは「むかご」を買った。

    曲がりネギは? 大量に全部買っていった人がいて、売り切れたとNさん。私もそうだが、常連さんが何人かいるようだ。 

2025年11月15日土曜日

ジュナイダの賢治童話

                                
 先日、SNSのフェイスブックでロシアの画家ビリービンを知った。ベニテングタケその他のキノコが描かれた作品がある。そのことを11月12日付のブログで紹介した。

 それと同じ流れでフェイスブックに、柄の付け根に目のあるキノコのイラストがアップされていた。

作者は画家のジュナイダ(junaida)。本名「アイダ ジュン」で、英語式にローマ字で名前と名字をつなぐとジュナイダになる。1978年、大阪生まれというから、今年(2025年)47歳だ。

 総合図書館に彼の画集が2冊あった。『EDNE(エドネ)』と『IMAGINARIUM(イマジナリウム)』=写真=で「EDNE」は後ろから読むと「エンデ」。ミヒャエル・エンデにささげられた絵本だ。

もう1冊の画集に、フェイスブックで見た作品とは異なるが、キノコの絵があった。「HOME(ホーム)」の章に、植物に囲まれた家が描かれる。その植物にまぎれるように「アオテングタケ」があった。

アオテングタケはベニテングタケの青色版だろう。便宜的に私がそう呼んでいるだけで、実際にアオテングタケというキノコがあるわけではない。

薄磯海岸のカフェ「サーフィン」の入り口花壇に、ベニテングタケはもちろん、それの青色バージョン、アオテングタケの置物がある。先日それに気づいて、既成概念にとらわれないママさんの感性に感心したばかりだった。

 アオテングだけではない。宮沢賢治の童話を表現した「IHATOVO(イーハトーボ)1・2・3」には、猫が、周りにいっぱいのキノコとともに、白く大きなキノコの馬車に乗った絵が収められている。「どんぐりと山猫」の一場面である。

 巻末の作品一覧によると、賢治童話作品の絵は17点。そのなかで強く印象に残ったのは、見開き2ページいっぱいに描かれた白い山の頂上近く、夜空に風の又三郎がフワッと浮いている作品だ。又三郎の孤独を思って少し胸がざわついた。

 「どんぐりと山猫」では、やはり見開き2ページの上部5分の3を、擬人化したどんぐりで埋め尽くした作品がある。

 どんぐりが何人(何個)いるか数え始めたが、すぐわからなくなる。で、右から5センチ内に何人いるか、定規を当てて数えると、ざっと100人はいた。

 見開き全長35センチだからその7倍、およそ700人はいる勘定になる。なかにはひねくれたどんぐりもいるに違いない。あるいは別の木の実なんかも……。

作者がそのくらいの仕掛け(いたずら)をしていても不思議ではない。というわけで丹念にどんぐり人間を見ていったら、1人いた。くしゃみをして鼻からちょうちんをふくらませている。

あるいはそうではなくて、立ったまま眠っていびきと一緒に鼻からちょうちんを膨らませているのかもしれない――などと、作者の仕掛けに乗って遊ぶのも悪くはない。見ていて楽しい画集ではある。

2025年11月14日金曜日

カントリー・ロード

                                
 晩酌をやりながらテレビを見る。ふだんは地デジのニュース番組だが、たまにBSテレ東の「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」にチャンネルを合わせる。

 月曜日から金曜日までの宵の6時台、懐かしい歌謡曲が流れる。11月6日の木曜日はアメリカ特集だった。

 「ルイジアナ・ママ」の飯田久彦、「テネシー・ワルツ」のペギー葉山は子どものころから知っている。

「桑港(サンフランシスコ)のチャイナ街(タウン)」の渡辺はま子は、歌はラジオで聞いてはいたが、どんな人かはわからなかった。

大人になって、昔はやった歌を本人がテレビで歌っているのを見て、「若いころはさぞかし……」と思った記憶がある。

「おかあさんといっしょ」の「うたのおにいさん」田中星児は、ジョン・デンバーの大ヒット曲「カントリー・ロード」を歌った。といっても、歌詞は日本バージョンだ。

作詞家岡田冨美子が意訳した。いや、創作したといってもいいだろう。歌いだしの「カントリー・ロード テイク・ミー・ホーム」は同じでも、続く言葉が歌謡曲調だ。

歌詞を三つのパートに分けると、最初は「ふるさとへ帰ろうよ 生まれた土地がいいよ キャッチボールをした野原 赤とんぼが飛んでいた」。

次が「畑でもたがやそうか あしたの天気 気にする仕事がいいよ」。最後が「おやじは早死にしたけれど おふくろ長生きしてほしい ふるさとのやさしさは 真っ赤な夕焼け 夕焼け」。

それぞれの歌詞のあとに繰り返される言葉がある。「早いものだね 月日の流れにゃだれも勝てない」

二番目の「あしたの天気 気にする仕事がいいよ」には思わず苦笑した。地域の行事の予定日や夏井川渓谷の隠居へ行く日曜日は、前々日あたりから天気が気になる。隠居には菜園がある。土いじりができるかどうかは天気次第だ。

その延長で「定年になったので故郷へ帰って農業をやろう」という歌かと思ったが、そうでもないようだ。

歌詞に「都会のゆめ ネオンサイン 愛した人には見切りつけられた」とあって、都会で挫折した若者の歌だと納得。

とはいえ、繰り返される「月日の流れ」の早さを自覚するのは中年という思いも捨てきれない。

それはともかく、原曲にある「母なる山」は私の場合、田村市常葉町の鎌倉岳(967メートル)=写真。鷲(わし)が今にも羽ばたかんとするような形をした、三つの頂きをもつ岩山だ。

そして、わが「カントリー・ロード」はその南側を通る国号288号。浜通りの双葉町と阿武隈の山を越えて中通りの郡山市を結ぶ。実家はその中間、国道沿いにある。

それともう一つ、大滝根山(1193メートル)。これは「父なる山」といっていい。阿武隈高地の主峰である。

南東斜面からしみ出した水は、夏井川となって浜通り南部、いわき市の新舞子海岸で太平洋へ注ぐ。

 その川をほぼ毎日眺めながら暮らしている。「カントリー・ロード」を聞くと、夏井川と、その先にあるふるさとの山と道路が思い浮かぶ。

2025年11月13日木曜日

展望スペース拡大

                               

  夏井川渓谷は、春はアカヤシオ(岩ツツジ)、秋は紅葉の名所として知られる。ビューポイントは渓谷の中間にある牛小川。戸数10戸ほどの小集落だ。

震災前、土地の所有者が県道沿いの空き家を解体して更地にし、谷側の杉林も伐採した。

更地は「錦展望台」と名づけられ、行楽客に開放された。所有者が亡くなったあとは、地元に住む親戚のAさんが維持・管理をしている。

わが隠居はその隣にある。隠居の隣は東北電力の社宅跡で、錦展望台ができるまではそこが行楽客の駐車場とビューポイントだった。

電力の土地は二段低い岸辺まで続いている。対岸に夏井川第二発電所がある。対岸へはつり橋を渡って行く。タヌキたちもここを利用して集落に現れる。

つり橋の手前に作業車が止まっていることがある。その通路が錦展望台と隠居の間にあって、ふだんはゲートが閉まっている。

一帯は「夏井川渓谷県立自然公園」に位置付けられている。自然公園のエリアは夏井川本流、背戸峨廊(せどがろ=江田川)、二ツ箭山を含む地域水石山、閼伽井嶽を含む地域――の二つからなる。

ある日、通路から谷側のヨシ原(東北電力の土地)が刈り払われてきれいになった=写真(9月21日撮影)。

錦展望台から下りていけるビューポイントとして開放してほしい――。かつて発電所で働く住民もいて、地元とのつながりは深い。それもあって地元の要望に会社がこたえた。

県立自然公園なので木々の伐採などには県の許可が要る。県の指導に沿って草刈りと伐採をするまでに半年ほどかかったという。

展望スペースの拡大をはたらきかけた知人らは、電力の土地につながる私有地の草刈りをし、展望台から歩いて行けるスペースを確保した。広い空間で自然の景観を楽しんでほしい。郷土愛の発露ではある。

親しくしているKさんの話だと、ヨシ原は昔、社宅に住む従業員が畑として利用していた。広く平坦なわけがそれでわかった。Kさんは、「それに」といった表情で付け加えた。「茂みをなくせばクマ対策にもなる」

そうだった。今年(2025年)7月31日、川前町下桶売地内の県道小野富岡線でツキノワグマが目撃された。

現場は牛小川の北西方向、山が幾重にも連なる山間地だが、直線距離ではわずか15キロしか離れていない。

去年までは、クマの出没は遠い地域の出来事だった。が、東北・北海道を中心に、連日、人間の生活圏にクマが出没して危害を加えるというニュースが流れて、いわきの山間部でも現実問題として認識されるようになった。

先日、後輩が隠居の上と下の庭の草刈りをしてくれた。生い茂った草がきれいになくなった。草刈り中にクマが現われないかと、気が気でなかったという。

まずはクマが身を隠す茂みをなくすこと。いつもの草刈りであっても、今は新たな目的が加わった。

そして、ときどきは市が作成した「クマ目撃マップ」をチェックする。この秋以降の新しい習慣ではある。

2025年11月12日水曜日

画家ビリービン

                                              
  ネットの特性なのか、ユーザー(私)が「いいね」をしたり、何かを検索したりすると、ブログの下段広告やSNS(フェイスブックなど)のタイムラインに、それに似た情報・広告がすぐ表示される。

ネットには「アルゴリズム」といって、ユーザーの興味を引きそうなコンテンツ(情報)を優先的に表示する仕組みがあるらしい。

そんなアルゴリズムの作用のひとつなのか、先日からフェイスブックのタイムラインに西洋の絵画作品が並ぶようになった。

特に19~20世紀の美術作品が、これでもか、これでもかと表示される。こちらも興味があるのでたびたびクリックする。それの繰り返しで、今も表示が続いている。

たまたま絵の周囲にキノコらしいものが描かれている作品があった。クリックすると構図がよりはっきりした。案外、不気味な絵である。

たいまつ? いや、たいまつではない。足元を照らすのはどくろの目から発した光だ。そのどくろをたいまつ代わりに掲げた若い女性が、建物をバックに夜の林を歩いている。

足元には、赤や茶色っぽいキノコが生え、絵の周りの「額縁」(縁飾り、あるいは飾り枠というらしい)にもキノコが描かれている。

画家はロシアのイワン・ビリービン(1876~1942年)。ビリービンを検索すると、面白い情報が次々に表示された。

図書館には1冊、田中友子『ビリービンとロシア絵本の黄金時代』(東京美術、2014年)がある。すぐ借りてきた。

どくろのたいまつとキノコの絵はロシア民話「うるわしのワシリーサ」の一場面を描いたものだった=写真。挿し絵である。

ビリービンはイラストレーターで、アールヌーボーやジャポニスムの影響も受けた。図書館の本には葛飾北斎の富士山と砕ける波頭を描いた「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を模した「サルタン王物語」の挿絵も収められている。

「ビリービン様式」という言葉も知った。手塚治虫はこの様式を利用して筒井康隆の「イリヤ・ムウロメツ」の挿絵を手がけたという。ロシアの物語だから、ビリービンの挿絵にならったのだろう。

「ビリービン様式」が何を指すのか、最初はさっぱりわからなかったが、手塚作品に出合って、絵とそれを囲む枠にも絵を施す技法をいうらしいことがわかった。

ビリービンは、ベニテングタケはもちろんだが、それ以外のキノコも描いている。そこがいい。

その「弟子」にゲオルギー・ナールプトがいる。ロシア昔話の「きのこ戦争」の挿絵を描いている。今度はこの画家を探ってみるか。

2025年11月11日火曜日

続・じゃんがら人形

                                
 いわき駅前の総合図書館で常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人ぞ知るいわき人」が始まって半月余り。

 11月8日に展示コーナーをのぞくと配布資料が積んであった。これが欲しくて、図書館へ行くたびにコーナーに足を運んだ。

これまで何度か拙ブログで鈴木百世について触れてきた。そのたびにこのグラフィックデザイナーと、彼の創案した「じゃんがら人形」のその後を知りたい、という思いが強まった。

常設展には「じゃんがら人形」の写真が展示されている。その解説に、昭和36(1961)年、現在の上皇上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、郷土工芸品の「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上された、とある。

 拙ブログではそれには触れず、去年(2024年)11月7日に亡くなったカミサンの弟の遺品の中に5人組の「じゃんがら人形」があったことを紹介した。

 資料を読みながらひらめいたことがある。当時のいわき民報に「じゃんがら人形」献上の記事があるかもしれない。

 図書館のホームページから「郷土資料のページ」に入り、昭和36(1961)年5月下旬から6月上旬のいわき民報をチェックすると、5月29日付の3面にあった。

「皇太子ご夫妻へ“じゃんがら人形” 鈴木恭代さんの力作を平市が献上」という見出しで経緯が紹介されている。

 恭代さんは百世の妻で、昭和27(1952)年、亡き夫が考案した「じゃんがら人形」の制作を再開した。

平市が、皇太子と美智子さまの来市の折、この「じゃんがら人形」の献上を決め、恭代さんに発注した。

 資料の末尾には参考資料の一つとして、昭和62(1987)年7月7日付のいわき民報(縮刷版)も紹介されている。

 電子化されたいわき民報は昭和57(1982)年までしかない。図書館で縮刷版に当たると、「『じゃんがら人形』秘聞」と題する猪狩勝巳さん(炭田研究家)の寄稿文が載っていた。

猪狩さんは「常磐炭田鳥瞰図」を入手して、初めて作者の鈴木百世を知った。百世の長男は当時、内郷公民館長をしていた。

地元に優れた工芸家がいたことを記録にとどめなくてはと考え、長男から聞いた話を交えて百世の経歴を紹介した。

 猪狩さんはこのなかで、「じゃんがら人形」の原材料などに触れている。百世は赤井・好間から出る良質の粘土で素焼きの人形をつくり、泥絵の具で着色した。

戦後、恭代さんが制作を引き継ぐ経緯も伝えている。いわき民報と平市商工課から復活の要請を受け、悩んだ末に制作再開を決めたという。

まずは既存の「じゃんがら人形」を借りて、石膏でかたどりをし、1年をかけて再生に成功する。この民芸品制作は、恭代さんが老齢で制作を打ち切るまで続けられた。

義弟が購入したのは、制作最終期の昭和50年代の終わりごろだろう。義弟の遺品をきっかけに生まれた「知りたい」あれこれが、命日からほどなく解けたことにホッとしている。

2025年11月10日月曜日

お福分けがドサッと

        
 11月に入るとさすがに石油ストーブをつける日が増えた。晩酌は、茶わんの焼酎とは別に、ポットのお湯を盃に注いで、のどの奥でお湯割りにする。

 ある晩のつまみは、ゆでた落花生にサツマイモのてんぷら、それに「仙台名産 鐘崎の笹かまぼこ 大漁旗」だった。

 笹かまぼこは楢葉町の知人の仙台みやげだ。顔を出すたびに手づくりのおかずや酒のつまみを持ってくる。ありがたいことである。それでカミサンの台所仕事が一つ減る。

 落花生は海に近い農村部に住む後輩が、自分の家の畑で栽培した。サツマイモも届いたが、それは別の日に焼きいもになって出てきた。

 後輩の家は前と後ろに長い畑がある。一角を借りて家庭菜園として野菜を栽培している人もいる。

 今でも記憶にあるのは4年前(2021年)の秋のお福分けだ。軽トラで庭まで乗り入れ、荷台からスイカ、トウガン、メロンといったウリ科の大物を玄関の上がりかまちに置いた。どれも大きくて重い。全部、後輩が栽培したものだった。

 たぶんそのころか翌年あたり、パパイアの栽培を始めた。最初はビニールハウスで、今は裏の畑で。

海外生活を経験し、向こうでパパイア料理に親しんだのが大きいようだ。今年(2025年)もお福分けが届いた。落花生とサツマイモのほかに、パパイアとトウガンがあった=写真。

4年前の大物のときは「ドカン」という感じだったが、今回は「ドサッ」という感じだ。こちらもまとめて持つと重い。

食べきれないので、いつものようにお福分けのお福分けをする。おもしろいことに、古着や不要になった食器だけでなく、野菜も届いては出ていく。そして別のものが来る。

衣食住でいえば、住=建物はハブ空港、そこを起点に人が、モノが行き来する。野菜や果物は金銭を伴わない移動だから、こちらも、そして向こうも少しは家計の足しになっているはずだ。

後輩のトウガンは薄く刻んで吸い物になった。びっくりするほどやわらかい。味が染みている。

悩ましいのはパパイアだ。初めて青パパイアをもらったとき、「皮をむく、切る、水にさらす。それからサラダにして食べる」。そう教えられた。

しかし、それでも硬い。どうしたらこの硬さがほぐれるのか。ネットで探ると、炒め物、煮物、せん切りのてんぷらやきんぴらもいい、とあった。つまりは、もっと薄く切る。細くする、ということだろう。

その延長で浅漬けにすると、少しはしんなりしたが大根のようにはならない。ずいぶん稠密(ちゅうみつ)な食材だ。

 で、パパイアは今回、楢葉町の知人の家に飛んで行った。知人は農家レストランを開いている。パパイアを見て、「これ、何?」と驚く客がいたという。そういうカルチャーショックもたまにはいいものだ。

2025年11月8日土曜日

「チャイの部屋」

                                           
     ある日、インド料理店「マユール」を経営していた奥さんがやって来た。米屋をやっていたころ、「お得意さん」だった。お母さんもよく知っている。

「マユール」と同じところで6月18日、「チャイコタ」というカフェを始めたという。「チャイコタ」の「コタ」はネパール語で「部屋」という意味だそうだ。

ドリンク1杯のサービス券が付いたミニメニュー表を持参した=写真。それによると、チャイを主体にしながらも、ポークキーマカレーのランチも出す。

ドリンクに「マンゴーラッシー」、フロートに「ラッシーフロート」があった。「ラッシー」とは? ネットには、インドや南アジアで親しまれている、ヨーグルトをベースにした飲み物、とあった。

「マユール」が「チャイコタ(チャイの部屋)」に生まれ変わったことは、つい先日、フェイスブックの友達からの情報で知った。「チャイでも飲みに行くか」。そう思っていた矢先のサービス券持参だった。

もともとは新舞子海岸にあった。東日本大震災で大津波の直撃を受け、人的被害はなかったものの、「全壊」の判定を受けた。

その10カ月後、奥さんの実家の一角を利用して、規模を縮小しながら再オープンした。夫はネパール人。以前のように向こうのシェフを雇う余裕はない。夫と2人だけの再出発だった。

 「マユール」はわが家から車で5分ほどのところにある。今年(2025年)5月中旬、惜しまれながら閉店した。

 わが家はカミサンの実家(米屋)の支店を兼ねていた。本店が去年の秋、米穀の新年度(11月にスタート)を前に米屋を廃業した。米の配達をやめて半年後の閉店だった。

マチの商店などでは高齢による体調不安、後継者不足などから営業の継続が難しくなっているところが少なくない。個人営業のところはいつかその問題に直面する。

「チャイコタ」の営業時間は午前11時半から午後4時まで。無理のない範囲で店を開いているということだった。

定休日は月・火曜日で、家事の都合で随時休業もあるようだ。その点はわが家も同じだ。

米屋をやめてカミサンの趣味の店と地域文庫だけになってからは、マチに用事があるときは一時店を閉めて出かける。年をとっているのだから、もうゆるやかでいい。

で、10月の末に「チャイコタ」を訪ね、「10食限定」という「お得なランチセット」で腹を満たした。

ドリンクにはチャイを頼んだ。サービス券は、食事ではなくチャイだけを飲みに来たときに使ってくださいというので、そうすることにした。

なにはともあれ、チャイの部屋として再出発した。ゆっくりと、休み休みでもいいから、長く、長く続けてほしい。

2025年11月7日金曜日

戦争の危機

                                             
 チケットの販売を頼まれたので、何人かにお願いし、私ら夫婦も買って聴きに行った。いわき九条の会・秋の講演会である。

 講師は布施祐仁(ゆうじん)さん、49歳。演題は「戦後80年・日本を再び戦場にしないために~戦争の危機と平和憲法を活かす道~」で、歴史的経過とデータに基づいて米国従属の日本の軍拡を批判し、戦争回避の外交努力こそが必要と説いた。

 布施さんの名は東日本大震災と原発事故を機に知った。事故1年半後の2012年秋、『ルポ イチエフ――福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)が出版される=写真上1。

 いわきを中心に、命がけで事故収束のために奮闘した原発作業員を取材し、劣悪な労働環境と搾取の構造などを明らかにした。

同じころ、門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所刊)も読んだ。それを紹介する拙ブログから一部を抜粋する。

――郡山市に陸上自衛隊が駐屯している。駐屯地には消防車が配備されている。3・11の夕刻、原発側からの要請で福島市の駐屯地にある消防車と合わせて2台に出動命令が下った。

翌3月12日朝にはもう、東電の消防車と連結して1号機への注水・冷却活動を始めている。建屋爆発にも遭遇した。

郡山に駐屯している特科連隊は「浜通りはもちろん、福島全体から隊員が集まった“郷土部隊”」だ。

「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」――。

警察や自衛隊だけではない。事故現場の最前線にいた労働者の存在も忘れるわけにはいかない。

布施さんは『ルポ イチエフ』の「あとがき」で、命がけで守ろうと思うほどの郷土愛をうらやましく思ったとつづる。

そして、「『郷土愛』とは、同じ時間を共有しながら育って来た幼なじみや同級生の存在があるからこそ、強く深いものとなる。これも、浜通りの地元出身の原発作業員たちから学んだことだ」。

 だからこそというべきか。「故郷とそこにつながるすべてのものを根こそぎ壊された彼らの喪失感と悲しみの深さに、言葉を失った」のだった。

布施さんが外交・安全保障を専門にするジャーナリストだと知ったのはずっとあとだ。

彼の目には、日本はアメリカに従属し、言いなりになって「戦争ができる国づくり」を進めていると映る。核の危機でもある。

 講演した内容は『従属の代償――日米軍事一体化の真実』(講談社現代新書)=写真上2=に詳しい。

 この本は、チケットを買ってくれたが、講演には行けなかった知人が次に読む。知人は大熊町に自宅がある。しかし、帰還困難区域なので帰れない。原発も、戦争も核の危機をはらんでいるという点では同じなのかもしれない。