2014年9月12日金曜日

だるまの目

 小さな公園で一休みしていたときのこと。一画がなにか同じ人の手で飾られているような印象をもった。松の木の根元に壁掛け用のだるまが置いてある=写真。別の木には手づくりのブランコ。そばの池の囲いには、これまたペットボトルを利用した手製の風車(かざぐるま)。風車は風が吹くたびにくるくる回った。
 
 風車などの製作者は私と同年代と思われる男性だった。自転車でやってきたので、だるまについて尋ねると、「友達が持ってきたの。子どもたちには人気がないねぇ」。それはそうだろう。黒い眉、大きな目。目は左上を凝視している。子どもたちは「にらまれている」と思ってしまうのかもしれない。
 
 だるまは慧眼(けいがん)の象徴だ。本心ばかりか、物事の本質も射抜く。なんでもお見通しだ。吉田姓なので、メディアで「吉田証言」がどう、「吉田調書」がどう、となるたびに、複雑な思いを抱く。何となく落ち着かない。「だるまの目」がほしいと思う。
 
 朝日新聞の社長が昨夜(9月11日)、記者会見をした。「吉田調書」に絞っていえば、独自に調書を入手しながら、「思い込みや記事のチェック不足などが重なっ」て、「所長命令に違反 原発撤退/「福島第一 所員の9割」などと誤った記事を書いてしまった(今年5月20日付1面ほか)。その記事を取り消し、おわびし、謝罪する会見だった。
 
 朝日の“スクープ記事”を最初に目にしたときの違和感が、今も忘れられない。門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』を読んで、原発の暴走を止めたのはそこに踏みとどまった人間たち、それも県内出身・在住者だったと知っていたから、その現実を否定する“特ダネ”がにわかには信じられなかった。
 
 なぜこんなことが起きたのか。「だるまの目」を通せば、誤報に至る記者の心情が透けて見えるようだ。ひとことでいえば、虚心坦懐、ニュートラルでなかった。他紙の報道のように、「テキスト」(吉田調書)をどう読んでも「命令に違反し撤退した」とは読めない。
 
 若いころ、地域紙の記者として全国紙、県紙の記者諸氏と取材を通して交流した。記者諸氏の信念や取材の作法・流儀に対して、共感したり、違和感を覚えたりした。そのときの体験も参考にして、両「吉田」問題の根っこを掘りおこしてみよう――けさの新聞を読みながら、そう思った。

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