2014年9月26日金曜日

墓のヒガンバナ

 秋分の日(9月23日)の午後、カミサンの実家の墓参りをした。日曜日に予定していたのがずれこんだ。墓地のへりにヒガンバナが咲いていた=写真。津波で亡くなった息子のためにと、頼まれてヒガンバナの造花をつくった――そんな話を聞いたあとだったので、少し厳粛な気持ちでカメラを向けた。

 その日の朝、旧知の“きょうだい”がやって来た。“姉さん”と“兄さん”夫婦の3人だ。長姉の墓参りをした帰り、私がいるかどうかわからないが、わが家へ寄ってみることにしたのだという。

 “姉さん”はたまにやって来る。“兄さん”はそれこそ、わが家を2階建てに増改築したとき以来だから、30年ぶりだろうか。左官業だったので、壁塗りを頼んだ。

 独身のころ、“きょうだい”の家の近くのアパートに住んでいた。毎晩のように風呂をもらいに行った。ときにはビールと晩ごはんをごちそうになった。両親とは親子のような、子どもたちとは“きょうだい”のような関係になった。

 それから40年近くたって、東日本大震災が起きた。私ら夫婦が関係する国際NGOのシャプラニールがいわきで震災支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設した。「ぶらっと」は間もなく開設3年になる。最初はいわき駅前のラトブに、次いでイトーヨーカドー平店に移転し、今は本町通りの西端、スカイストアに入居している。

 3・11後、“兄さん”の奥さんがうつ状態になった。たまたまヨーカドーへ行ったとき、「ぶらっと」を知り、教室のひとつに通いはじめた。今ではうつ状態も改善され、「ぶらっと」の仲間が自宅を訪ねるまでになったという。

 その1人に原発避難をしている人がいる。津波で息子を失った。その人も精神的に厳しいものがあったが、「ぶらっと」へ通っているうちに仲間ができて前向きになった。ある日、息子のためにと、その人から“兄さん”がヒガンバナの造花を頼まれた。竹で人形を、楊枝で杵(きね)をつくる器用な人だ。ヒガンバナをつくるのも造作(ぞうさ)はなかった。
 
 “兄さん”はつい最近まで、私たちが「ぶらっと」に関係していることを知らなかった。私たちも奥さんが「ぶらっと」へ通っていることを知らなかった。私ら夫婦を知る別の仲間を介して、双方が「ぶらっと」に関係していることを知り、ともに驚いたのだった。巡りめぐってまた“きょうだい”がつながった。

「ぶらっと」のおかげでよくなった。「ぶらっと」に行かなければ、今もひどい状態が続いていたと思う――“兄さん”の述懐が「ぶらっと」の役目をよく表している。孤立を防ぎ、つながり、やがて被災者が少しずつ日常を取り戻す。「ぶらっと」はその手伝いをする場のひとつにはちがいない。

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