2025年11月22日土曜日

大火の記憶がよみがえる

                                
  大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。

惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。

規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。

佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。

6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。

この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。

新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」

あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。

小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。

そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。

――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――

常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。

 あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。

2025年11月21日金曜日

渓谷の「日の出」

                               
   日の出は、夏至から冬至まではおおむね1日に1分遅くなる。冬至から夏至までは逆に1分ずつ早くなる。日の入りも同様で、冬場は1分ずつ早くなり、夏場は1分ずつ遅くなる。周期が約29.5日の月は同じように1日1時間を目安にするといい。

 現役のころは、季節のニュースやコラムを書くのに「俳句歳時記」が欠かせなかった。夏井川渓谷の隠居で土いじりを始めると、太陽や月などの天体の動きを反映した農事暦も参考にするようになった。そこから「太陽は1分、月は1時間」という目安が生まれた。

11月16日の日曜日は朝8時ごろ、隠居に着いた。空は晴れているのに太陽はまだ尾根の陰にある。V字谷である。日が差さないので、庭に立っていると肌寒い。

隠居は、集落では一番下の道路端にある。山側の家はすでに朝日に照らされている。標高が高い分、早く太陽が拝めるのだ。

家々の裏山から始まって、田畑、線路、道路と尾根の影が消えるころ、入り組んだ対岸の尾根に日が差し始める=写真上1。

この日の小名浜の日の出は6時15分。渓谷の隠居に最初の朝日が差し込んだのは、それからざっと2時間後だった。

 風はない。庭にはまだ山の影が広がっている。その影が時間を追って川岸へと後退していく。

 時には朝日に背を向けて立つ。焚き火で背中を温めるのと同じで、風がない分、背中がゆっくりぬくもってくる。生きものたちもそうして体を温めているのかもしれない。

やがて不耕起栽培の辛み大根の畑も明るい光に包まれる=写真上2。まだ地面が凍り付くほどではない。

普通の大根を栽培していたときのことである。霜をかぶってペタッとなった葉が朝日に照らされ、霜が溶けるにしたがってピクン、ピクンと立ち上がる。うねのあちこちでピクン、ピクン。この葉っぱのダンスを見るのが冬の楽しみだった。

辛み大根の葉も霜をかぶるとペタッとなる。しかし、葉が小さいからか、はっきりわかるようなピクン、ピクンはまだ見ていない。

隠居では日の入りが早い。ほかの家ではまだ太陽が見られるのに、土地が低い分すぐ日が陰る。冬至のころは午後3時になると太陽が尾根に隠れる。

その時間に尾根に隠れる太陽を「夕日」というのははばかられる。太陽の姿が消えても、空は明るい。

同じ太陽でもマチ(平地)とヤマ(渓谷)では見方が異なる。その違いを知る。楽しむ。渓谷の自然には学ぶことがいっぱいある。

2025年11月20日木曜日

あれもこれもセルフ

                                              
 朝晩どころか、日中もあまり気温が上がらない。秋の深まりとともに、暖房が欠かせなくなって、10月下旬に石油ストーブを引っ張り出した=写真。灯油は車のトランクにポリ容器を積んでガソリンスタンドから買って来る。

車のガソリンを補給しに行ったとき、スタッフからセルフになったことを教えられた。「えっ!」。前に工事をしていたのはそのためだったか。とりあえず最初なので、スタッフが代わって給油をしてくれた。

 ガソリンがそうなら灯油も――。後日、案じながら行くと、そうだった。ガソリンのときと同じスタッフがそばにいて、イチから教えてくれた。

まず給油機の画面を見ながら、支払い方法と給油量を指定(72ℓ=4缶は表示にないので、数字を入力)して紙幣を入れる。

次に、車のトランクに積んだポリ容器のふたを開け、給油機からノズルをはずしてポリ容器に差し込み、トリガーを引いて給油する。

 ノズルが灯油面に触れると自動で給油が止まる。数字がほぼ18ℓを指すあたりでノズルを少し上げ、カチャカチャとトリガーを引き続ける。それを36ℓ、54ℓと繰り返し、最後は72ℓになるのを待つ。

 それからだいぶ日がたち、また灯油が必要になった。今度はガソリンも補給することにした。

まずは灯油である。前回とは別のスタッフが立ち会ってくれた。おさらいを兼ねていわれたとおりにタッチパネルを押す。給油を開始する。そこまではなんとかできた。

最後の精算方法を忘れていた。給油機からレシートが出てくる。その末尾にバーコードが記されている。それを別の場所にある精算機に差し込む。教えられたとおりにして、やっとおつりが出てきた。

ガソリンも原理は同じ。満タンにしてレシートを精算機に差し込み、おつりを回収した。「セルフの時代だな」。思わず口の中でつぶやく。

「慣れるまで何度でも立ち会いますから」。そりゃそうだ。そうしてもらわないと年寄りは困る。

マルトへ行く。ここも精算機に商品のバーコードを読み取らせて支払うセルフレジに変わった。

規模の大きなところは2本立て、完全セルフと、会計だけセルフとがあって、いつも人間が対応するレジを選ぶ。

身近なところではコンビニ。ここも最後は本人がタッチパネルを操作して会計をすませる。

少子高齢化時代になって働き手が減った。人手不足をカバーし、人件費も削減するには、レジのセルフ化が有効ということなのだろう。

しかし、それは日本に限らない。むしろ海外の方が先行しているようだ。セルフレジの先にあるのは、現金ではなくカードのキャッシュレス社会なのかもしれない。

もう16年前になる。同級生で還暦記念の北欧修学旅行をした。コンビニのレジはカード決済だった。

買い物はカードを持つ同級生に頼み、あとで精算した。そのとき思ったのが、やがて日本でも、である。少しずつだがそちらの方向に向かっている。とにかく慣れるしかない。

2025年11月19日水曜日

「空飛ぶ微生物」

                                          
   昔、見えないキノコの胞子を想像して、こんな文章を書いた。

――キノコは子孫を残すために胞子を飛ばす。その胞子が目の前の空中に漂っている。キノコの胞子は空を行き交う旅人。南からの台風が、西からの季節風が、東風が、北風が、海を、森を越えて胞子を運ぶ――。

 台風はシイタケ胞子の運搬人。それをイメージしてのことで、「胞子は空を行き交う旅人」という思いは今も変わらない。

胞子を飛ばす前のキノコも、比喩を用いるとわかりやすい。キノコは森の清掃人。枯れ木や落ち葉を分解し、栄養を土に返して森を清浄に保つ。

同時に、菌根菌として森の植物と共生し、木々の生長を助ける。食用としても重宝される。もちろん、毒キノコもある。それを含めて、知れば知るほどまた興味がわく。

 先日、またまた「ええっ」となった。「空を行き交う旅人」には別の役割もある。キノコの胞子を含む「大気微生物」が雲をつくり、雨を降らせるというのだ。

 牧輝弥『空飛ぶ微生物――気候を変え、進化をみちびく驚きの生命体」(ブルーバックス、2025年)=写真=で知った。

 本は「です・ます」調で書かれている。これを「である」調に替えて、印象に残った比喩的な表現を紹介する。

・人は大量の微生物を肺で吸い込んで吐く「人間ポンプ」である。呼気を通じて体内を通過する微生物は一日に約125万個。

・生物に由来する大気粒子は総じて「バイオエアロゾル」と呼ばれる。「人間ポンプ」は微生物だけでなく、バイオエアロゾルの発生装置でもある。

 ・春には黄砂が日本に届く。黄砂は、もともとは砂の鉱物粒子だが、中国都市部で汚染大気にまみれ、日本海で海塩を巻き込むので、鉱物やスス、海塩の混合粒子になる。その意味では、黄砂は「微生物の空飛ぶ箱舟」である。

 ・シイタケは広葉樹であれば種にかかわらず宿主として繁殖できる。動物の死骸や植物の枯死体にも生息できる腐生菌なので、胞子をまき散らし、長距離輸送で生息域を拡大できる。

 なるほど。南方生まれのシイタケが日本列島のみならず、北海道の先のサハリン(樺太)でも採れるワケがこれか。

ちょうどこの本を読み進めているとき、「あさイチ」(11月17日)がキノコ特集を組んだ。冒頭で『空飛ぶ微生物』を書いた牧輝弥・近畿大学教授の研究が紹介された。キノコが雨を降らせる。そこから番組が始まった。なんという偶然。

もう一つ。魚介類に関しては「さかなクン」がいる。そのさかなクンも出演していた。本筋はしかし、「坂井きのこ」というキノコ愛がいっぱいのタレントだ。

長野県在住の35歳で、キノコのすばらしさを伝えるためだけに芸人活動をしているという。

50歳のさかなクンを尊敬しているらしく、感激の対面となった。魚介類はさかなクン、キノコは坂井きのこクン。キノコの分野でも特異な才能を発揮するタレントがいることに驚いた。

2025年11月18日火曜日

置き干し柿

                                 

   「西高東低」の冬型の気圧配置になって冷たい西風が吹き荒れたあとは、庭に渋柿の葉が散乱し、見事に色づいた柿も2~3個は落ちている。

 柿の実はあおく未熟なうちからよく落ちる。今年(2025年)は「生(な)り年」らしく、いっぱい実をつけた。落柿が直撃するのを避けるため、夏には柿の樹下から車を離しておいた。

 秋の深まりとともに、柿の実の表面が鮮やかな朱赤色になってきた。色に引かれて実を回収し、整理ダンスの上に飾った。

 1個が2個になり、3個が6個になって、風が吹き荒れた翌朝には5個を加えて11個に増えた。

このまま飾っておくわけにはいかない。1カ月ほど前、落っこちた1個の皮をむいて4つ割りにし、小皿に並べて台所の窓辺に置いた。それを思い出して試食すると、渋みが抜けて甘い。それなりに干し柿になっていた。

若いころ、この渋柿を長い棒のはさみでもぎり、皮をむいて2つずつテープで結んで軒下につるしたことがある。

見事に失敗した。ヒヨドリにやられ、カビも生えた。以来、干し柿はお福分けを食べるだけになった。

つるさなくても、ざるに並べて室内干しをする。それもあり、ではないか。小皿の干し柿からひらめいた。

11個の柿の皮をむき、大きく平たいざるに並べて、日が当たる2階の窓際に置いてみた=写真。

裸になった柿の実は、傷ついたところはやわやわになっている。ざるに接するとくっついてしまって、実が崩れる。

そうならいないように毎朝、様子を見に行く。ちょっとした振動、たとえば地震、あるいは家の前の道路を大型車が通ると、すぐコロリとなる。で、毎日、置き場所を探りながら並べ直す。

揺れを感じなかった日でも、なにかが影響するのか、1個か2個はコロリとなっている。

小さな泡を吹いている傷口もあった。果肉がとろけそうになっている。これがざるにくっつくと厄介だ。

ざるも時々、半回転させる。曇りガラス越しとはいえ、光がまんべんなく当たるようにする。

この「柿の実」のお守(も)りは、水分が抜けて表面が焦げ茶色になるまで続く。焦げ茶色になれば、もうざるにくっつくこともないだろう。

そうなるのは師走の半ばかもしれない。それでいい。目標は正月だから。正月三が日の食べ物の一つにする。

むいた皮は捨てずに干して白菜漬けの風味用に使う。これはヒヨドリもつつかないので、軒下の台の上に新聞紙を広げて、そこに並べた。こちらはすぐ水分が抜けるので、使うまでそのままにしておく。

2025年11月17日月曜日

小春日

11月16日の日曜日は、朝からいい天気になった。小春日である。

きょうは紅葉目当てのマイカー客が押し寄せるはず――そう踏んで、夏井川渓谷の隠居へは早めに出かけた。

8時には着いた。外気温は5度。菜園の土はまだやわらかい。スコップを入れても問題はない。が、冷気が体を包む。マスクをして鼻水が垂れるのを隠した。

菜園に生ごみを埋め、庭を一巡りして隠居に戻る。と、茶の間が冬座敷に変わっていた。すぐこたつに足を突っ込む。しばらくは手も入れたままにしておく。

谷間のカエデは紅葉のピークを迎えた。しかし、対岸は全山紅葉の時期を過ぎて、白骨のような幹と枝が目立つ。

 渓谷のど真ん中、錦展望台には朝から人が訪れていた。時間がたつごとに道路から人語が響き、マイカーが駐車場を埋めるようになった=写真。この秋一番のにぎわいだ。

 ほとんどがスマホをかざしてカエデの紅葉を撮っている。展望台から地続きの、岸辺に沿った東北電力の開放スペースにも行楽客が行き来している。

 午前10時ごろになると、錦展望台には野菜の直売所が二つ並んだ。売るのは小野町のNさんと、今年新たに加わった川前のHさんだ。

Nさんの直売所で買い物をするようになってからだいぶたつ。紅葉シーズンになると、週末だけ江田駅前に直売所を設ける。とろろ芋やゴボウが並ぶ。私は「曲がりネギ」を買う。何年か前から、錦展望台でも直売するようになった。

Hさんとはこの秋に知り合った。最初は、わが隠居の庭を直売所として借りられないか、ということでやって来た。

OKしたものの、その後、錦展望台を借りられるようになって、そちらで直売所を開くことにした。

 直売所が二つあることで相乗効果が出たのか、行楽客は錦展望台に来ると対岸を仰ぎ、次いで直売所をのぞく。隠居から見ていても応対に忙しそうだった。

 Hさんとは、対岸の木々があらかた葉を落とした話になった。カエデは紅葉の真っ盛りだが、それ以外、ツツジやヤマザクラなどで全山が錦繡(きんしゅう)に彩られるときにこそ来てほしいのに、という。

その通り。紅葉には非カエデの紅葉もある。その錦繡から始まって、やがてカエデの紅葉を迎えて冬になる。

テレビの「紅葉情報」がカエデだけになっているのは現実を反映していない、と私も思う。

「放送するならカエデの葉のマークではなく、ヤマザクラの葉のマークで始まり、やがてカエデの葉のマークに切り替える。そのくらいのきめ細かさがないと」という話になった。

 Hさんの直売所からは白菜と大根、トマトを買い、Nさんの直売所からは「むかご」を買った。

    曲がりネギは? 大量に全部買っていった人がいて、売り切れたとNさん。私もそうだが、常連さんが何人かいるようだ。 

2025年11月15日土曜日

ジュナイダの賢治童話

                                
 先日、SNSのフェイスブックでロシアの画家ビリービンを知った。ベニテングタケその他のキノコが描かれた作品がある。そのことを11月12日付のブログで紹介した。

 それと同じ流れでフェイスブックに、柄の付け根に目のあるキノコのイラストがアップされていた。

作者は画家のジュナイダ(junaida)。本名「アイダ ジュン」で、英語式にローマ字で名前と名字をつなぐとジュナイダになる。1978年、大阪生まれというから、今年(2025年)47歳だ。

 総合図書館に彼の画集が2冊あった。『EDNE(エドネ)』と『IMAGINARIUM(イマジナリウム)』=写真=で「EDNE」は後ろから読むと「エンデ」。ミヒャエル・エンデにささげられた絵本だ。

もう1冊の画集に、フェイスブックで見た作品とは異なるが、キノコの絵があった。「HOME(ホーム)」の章に、植物に囲まれた家が描かれる。その植物にまぎれるように「アオテングタケ」があった。

アオテングタケはベニテングタケの青色版だろう。便宜的に私がそう呼んでいるだけで、実際にアオテングタケというキノコがあるわけではない。

薄磯海岸のカフェ「サーフィン」の入り口花壇に、ベニテングタケはもちろん、それの青色バージョン、アオテングタケの置物がある。先日それに気づいて、既成概念にとらわれないママさんの感性に感心したばかりだった。

 アオテングだけではない。宮沢賢治の童話を表現した「IHATOVO(イーハトーボ)1・2・3」には、猫が、周りにいっぱいのキノコとともに、白く大きなキノコの馬車に乗った絵が収められている。「どんぐりと山猫」の一場面である。

 巻末の作品一覧によると、賢治童話作品の絵は17点。そのなかで強く印象に残ったのは、見開き2ページいっぱいに描かれた白い山の頂上近く、夜空に風の又三郎がフワッと浮いている作品だ。又三郎の孤独を思って少し胸がざわついた。

 「どんぐりと山猫」では、やはり見開き2ページの上部5分の3を、擬人化したどんぐりで埋め尽くした作品がある。

 どんぐりが何人(何個)いるか数え始めたが、すぐわからなくなる。で、右から5センチ内に何人いるか、定規を当てて数えると、ざっと100人はいた。

 見開き全長35センチだからその7倍、およそ700人はいる勘定になる。なかにはひねくれたどんぐりもいるに違いない。あるいは別の木の実なんかも……。

作者がそのくらいの仕掛け(いたずら)をしていても不思議ではない。というわけで丹念にどんぐり人間を見ていったら、1人いた。くしゃみをして鼻からちょうちんをふくらませている。

あるいはそうではなくて、立ったまま眠っていびきと一緒に鼻からちょうちんを膨らませているのかもしれない――などと、作者の仕掛けに乗って遊ぶのも悪くはない。見ていて楽しい画集ではある。