2026年1月10日土曜日

正月の食べ物

                                
 わが家の白菜漬けは、塩分控えめと温暖化の影響なのか、甕(かめ)に漬け込むとすぐ水が上がり、表面に白い膜が張る。産膜酵母という。

 まだ新しいのに、この膜が張ると酸味が増す。早々と古漬けのような味になる。カミサンはそれが好みのようだが、私は出来立てでさっぱりした白菜漬けがいい。産膜酵母が張ると、いつも「どうしたものか」と悩む。

 暮れにカミサンの知人から袋入りの「大根キムチ」が届いた。陶器の入れ物に移し、大根を食べているうちにはたと思い浮かんだ。

 キムチのたれがいっぱい残っている。捨てることはない。これに白菜漬けを加えたら、「白菜キムチ」になるのではないか。

さっそく実行する=写真上1。まずまずだった。酸味が抑えられて、晩酌のつまみにも、ごはんのおかずにもなった。

その延長で、ある食品メーカーの「キムチの素」を買って来る。激辛ではない。それでも白菜漬けにまぶすとけっこう辛い。

若いときは、このくらいの辛さは平気だったが……。後期高齢者になると、舌がマイルドなものを求めるようだ。まぶす量を減らす、ほかのたれとブレンドする。次はその両方を試してみよう。

そもそも食べ物はローカルが基本。「大根キムチ」はいわきの地元製品だ。いわきに合った「白菜キムチ」を作るには、「大根キムチ」を買って来て、そのたれを再利用すればいい。道の駅へ行った際、「大根キムチ」を2袋買った。

ほかに「正月だから」と、食卓に並んだものがある。秋に「置き干し柿」をつくった。正月に食べるために、数個を冷凍しておいた。

干し柿を切ってアイスを載せたものが出てきた=写真上2。さっぱりした甘みに、カミサンは「珍味だね」と喜んだ。

ネギ=写真上3=も大みそかに知人からちょうだいした。1年前の師走、用があって訪ねると、すぐわきの畑からネギを掘り取って来た。それに続くお福分けだ。

まずは焼きネギにする。ネギとジャガイモの味噌汁にもする。太ネギは硬いというイメージがあったが、知人のつくるネギは思った以上に軟らかい。

白菜キムチ、アイス干し柿、焼きネギ。正月三が日は、自己流のおかずが並んだ分、「ここだけ、うちだけ」の気分で晩酌を楽しんだ。

2026年1月9日金曜日

「無思想」ということ

                                                
 大活字本の養老孟司『無思想の発見」を読んだ=写真。本の主題とは直接関係ないが、「そうか」「なるほど」という場面が何度かあった。

 「ひとりでにそうなった」。これが日本の思想なのだという。それを最初に述べたのは政治学者の丸山真男東大教授だった。

 「古事記」や「日本書紀」で一番ひんぱんに使われる言葉が「なる」だと知って、理由を考える。

「たぶん日本はものすごい勢いで草木が繁茂するから」。丸山は、これを自説の論拠にした。

その延長で著者は言う。日本のことを「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と表現することがある。「古事記」や「日本書紀」に出てくる。この表現は大陸人でないとできない、と。

 なぜ大陸人か。「大陸は乾燥していて、しばし地面が裸で出ている。日本にそんな場所はない」。あるとしたら足尾銅山跡のようなところだ。

大陸との比較ができて初めて、「豊葦原瑞穂国」という表現が生まれる、というのが著者の見解のようだ。

「人為を尽くしてせっかく更地にしたのに、春から梅雨どきに放置しておいたら、地面は草木だらけに『なってしまった』」

確かにその通りだ。これは古代も、現代も変わらない。それほど日本では緑の繁殖がすさまじい。暴力的でさえある。

 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行く。庭も家庭菜園も、草を刈ったと思ったら、すぐ緑で覆われる。年に3回は後輩が軽トラに草刈り機を積んでやって来る。

「日本の思想」の原点かどうかはともかく、下の庭にはアシが生え、上の庭もすぐ緑で覆われる。トヨアシハラノミズホノタニ(豊葦原瑞穂谷)だ。

そもそも、『無思想の発見』を読む気になったのは、新聞記者になりたてのころ、「無思想」でいくと決めて取材に当たってきたからだ。

そのころ、「有思想」とは記者の先入観、あるいは偏見という理解だった。思想があるから世の中が歪んで見える。思想に基づく批判記事を書くようになる。

思想がなければ、現場で見聞きしたことだけを材料にして書く。思想は要らない。無思想でいい。それで初めて、記者はニュートラルで取材に当たれる。そう思うようになった。

評論家大宅壮一のいう「無思想の思想」に触れたことも大きかった。「――主義」は取材には邪魔。そんなところが若さゆえの理解のレベルだったろうか。

その「無思想」が巡りめぐって、日本の湿潤な気候・風土と結びつき、「日本の思想」の本質として浮かび上がってくるとは……。

同書にはこんな言葉もあった。「見方が変われば、世界が変わる。人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界なんて、私はごめんこうむりたい」

後期高齢者と呼ばれる年齢になったせいか、この言葉がすんなり入ってくる。これが、「無思想」の持つ生命力なのかもしれない。

2026年1月8日木曜日

直売所のホウレンソウ

                                 
   若いころ、尊敬するドクターの家に仲間が集まって、よく飲み会をやった。秋から冬には「ホウレンソウ鍋」を囲んだ。

いわき市は昭和61(1986)年、「非核平和都市宣言」をする。市民有志が中心になって短期間に何万人もの署名を集め、市と市議会を動かした。

政治運動とも市民運動とも無縁だったドクターが事務局長を引き受けた。そのときに出会い、ドクター宅に呼ばれて飲むようになり、初めてホウレンソウ鍋をつついた。

ホウレンソウ鍋は映画監督でグルメだった山本嘉次郎が考案した。ドクターは、山本監督がテレビで紹介していたのを試して病みつきになったという。

レシピは簡単だ。水を張った鍋を卓上コンロにかけ、スライスしたニンニクとショウガを入れて、塩で味を調え、しょうゆを加えてほんのり色をつける。

そこへしゃぶしゃぶ用の豚肉と、葉を一枚一枚ちぎったホウレンソウを入れて、熱が通ったら食べる。それだけ。

 ブログでレシピを紹介すると、反応があった。内郷の知人からは「常夜(じょうや)鍋」と教えられた、とてもおいしかった記憶がある、というコメントがフェイスブック経由で入った。

カミサンの平の同級生も、はがきでコメントを寄せた。「私は友人から『常夜鍋(とこよなべ)』とおそわって食べてました」

50~60代のころ、冬に人が集まると、よくホウレンソウ鍋をした。初めての人間も、1回ですぐ料理法が頭に入る。

シンプルで飽きがこない。枝分かれするように料理が継承・伝播されて、あちこちでその家の冬の定番料理になっている。わが家もそのひとつだ。

 というわけで、年末のある晩、「孫」の親と4人で「ホウレンソウ鍋」を囲んだ。老夫婦だけでは食べる量も限られる。4人だからこそできる鍋だ。考えてみたら、もう6年もやっていなかった。

たまたま、カミサンの友人が「いいホウレンソウがある」という。ハマに近いところにある直売所で売っている。早く行かないとなくなる、というので、友人が当日午前中に買って来てくれた。

確かに「いいホウレンソウ」だ。採りたてなので、水分をたっぷりと含み、青々としている。しかも、きれいに泥が洗い流されていて、あらためて水洗いをする必要がない。

根元からちぎって、どさっと葉を入れ、湯がいたらすぐ取り皿に入れて食べる。歯ごたえがある。新鮮だからシャキッとしている。

後日、ホウレンソウが大好評だった旨を、カミサンが友人に話すと、また直売所からホウレンソウを買ってきた=写真。

見た目からしてみずみずしい。葉が立っている。お浸しにした。やはり「張り」がある。採りたての証拠だ。根っこの赤みもほんのり甘い。

地元で栽培され、すぐ直売に回されて消費者の口に入る。都市部と農村部がほどよい距離で共存しているいわきならではの良さだ、と私は思う。いわきは、魚だけではないのだ。

2026年1月7日水曜日

好間渠誌

                                                
   カミサンの実家(元米屋)から明治時代の掛軸を預かった。義弟が蔵の中を整理していたら出てきたらしい。

カミサンがこれを床の間に飾った=写真。掛軸は「好間渠」(好間江筋)の記念碑を丸ごと写した拓本で、碑の高さは目測で2.5メートル、幅が1メートルほどと大きく細長い。文字はすべて漢字で、本文は611字(1行39字が15行、プラス最終行26字)ある。

毎朝晩、歯を磨きながらながめている。本文の周囲の人名や年月が、まず脳裏に焼き付いた。

本文の前には「正四位子爵安藤信守篆額(てんがく)」、本文の後には「明治三十五年十一月」「室直與撰文(せんぶん) 李堂高山康書隷(しょれい)」とある。

用語をネットで調べる。「篆額」は碑の上部に篆書で書かれた題字=タイトルのこと、「撰文」は文章をつくること、とあった。「書隷」は隷書体で書かれた文字のことだろう。

つまりは、安藤信守が碑のタイトルを書き、室直與が本文を担当し、高山李堂がその文章を書いた、ということになる。

碑には覚えがあった。斎藤伊知郎『近代いわき経済史考――碑文に見る伝承100年』(1976年)に出てくる。

『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)にも、なにか好間江筋に関する記事があるはずだ。

2冊を図書館から借りて、拓本と比較しながら読み進める。篆額は「好間渠誌」、漢文本体も「好間渠」だが、斎藤本では「渠」が別の文字になっている。ここでは原文通り「好間渠誌」として話を進める。

本文の書写は、私には手に負えない。が、内容は斎藤本などと重ね合わせれば、なんとなくわかる。まずは、なぜこの掛軸がカミサンの実家にあったのか、というあたりから。

カミサンの実家は何代か続く米屋だった。幕末にはお城(磐城平城)で食べる米をついていたそうだ。

昔は家のそばを流れる好間江筋を利用して、水車で精米した。そのために、庭に水路が引かれていた。好間江筋の受益者の一人だったのだろう。

電気が通ってからは水車を廃止し、庭の旧水路は防空壕に転用された。太平洋戦争が終わってからは、カミサンたちがかくれんぼをして遊んだり、義父が開放部に水を張って鯉を飼ったりしたという。

 家を建て替えた際、玄関の壁に水車の歯車(4分の1に切ったもの)が埋め込まれた。「水車はとにかく大きかった」という。

『よしま』によると、明治25(1892)年当時、この江筋の水を利用した水車が上好間から北目町の間に11基あった。久保町は1基で、もしかしたらそれがカミサンの実家の水車だったか。

さらに常磐線が開通後、日本鉄道株式会社は好間江筋と愛谷江筋の合流点から水を買った、とある。その合流点は平(現いわき)駅の近くだったに違いない。

好間江筋は愛谷江筋よりは古い。ということは、平城下でも好間江筋の水を生活に利用した? 次から次に疑問と仮説がわいてくる。それらについてはおいおい調べることにしよう。

2026年1月6日火曜日

雪の御降(おさがり)

                                
    年末の30日、夏井川渓谷の隠居へは行けなかった。床の間にもちを供え、玄関に松とヒサカキの枝と「りんぼう」(輪飾り)を飾らないと――。「一夜飾り」はいけないというので、元日午後、夫婦で出かけた。

 その帰り、小川町の平地に下りてコンビニへ寄った。冷凍しておいた干し柿を解凍し、それにアイスを載せて正月の食べ物にする。そのアイスを買うためだった。

 カミサンが車に戻って来るなり、はいていた靴の底を見せる。左足の親指がのぞいていた。

今は高校生になった下の孫が小学3~4年生のころまではいていた靴だ。はけなくなったのでリサイクル用にと、わが家に届いた。カミサンにはちょうどいいサイズだった。「おさがり」ならぬ「おあがり」である。それから6~7年、とうとう親指の底がすり切れた。

ちょうど同じ時刻、南(平方面)の空に、灰色の雲海が水平に広がっていた。その下、小丘のスカイラインと雲海の間は西日に照らされて明るい。

雲海から下の空に、シャワーのように灰色の粒々が降りている。雨か雪が降っているようだった。

「あれっ、雨が降ってんじゃないの?」。私がいうと、カミサンが応じた。「御降(おさがり)!」

「いや、おあがりだろ」。ん、ん、ん? カミサンがけげんな表情をする。そうか、カミサンは遠方の空を見て、「御降」といったのだ。

正月三が日に降る雨か雪を「御降」という。季語にもある。今は「死語」に近い。そのことを、夏井いつき『絶滅寸前季語辞典・下』(大活字本)を引用しながら、ブログに書いた。

ブログを書いた本人は、カミサンの靴底の穴が頭にあった。「御降」にではなく、靴底の残像に引きずられて「おあがり」が口からこぼれた。トンチンカンなのはこちらだった。

翌2日は、カミサンの実家へ年始のあいさつに行った。午後遅くなってまた出かけ、帰りは午後3時ごろ、国道49号経由でマチに出た。最初は雨が、やがて「ぼたん雪」が降ってきた=写真。

ちょっと前までは、平の西方の山並みがすっぽり雨雲に覆われ、「雨が来るな」そう思っていたのが、ほどなく車のフロントガラスを濡らすようになった。

しかも、それがだんだん白くなる。雨から「ぼたん雪」に変わった。これこそいわきの初雪、しかも「御降」だ。

このまま降り続いたら、次の日が思いやられる。道路が白くなったら、どこへも行けない。

案じながら帰宅すると、1時間後には雪もやみ、地面もぬれただけだった。ただの「通り雪」だったか。

山は冠雪するかもしれない。その心配も消えた。3日朝に見ると、西方の山並みはいつもと変わらない冬枯れの景色だった。「おあがり」ならぬ「おしめり」程度の「御降」でよかった。

2026年1月5日月曜日

折り込みチラシ

                               
   正月三が日は、元日の朝に新聞の折り込みチラシを数えることから始まる。12年前の平成26(2014)年から続く「活字メディア調べ」だ。

 ブログには、同30(2018)年以降の記録が残る。去年(2025年)は、義弟が亡くなったために年賀欠礼の意味もあってブログを控えた。

しかし、折り込みチラシの枚数は数えてメモしてある。それも加えて枚数の変遷を振り返る。

県紙は、平成30年には68枚あった。それが5969595646―54―47枚と増減しながら下降線をたどり、今年は46枚だ。

全国紙は40枚だった。それから3641453432―35―28枚とやはり増減して、今年は26枚にとどまった。

 節目はコロナ禍だった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、令和2(2020)年2月以降、新聞折り込みチラシが激減した。で、そのころから元日だけでなく、毎朝、チラシの数もメモするようになった。

パチンコ店のチラシがあれば、必ずその枚数も記す。不思議なもので、パチンコ店は週末ではなく、週半ばにチラシを入れる。

しかも、ほとんどが片面印刷2枚折り。その片面をブログの下書きに利用している。同じ折り込みの「お悔み情報」(A4判)は、真っ白な裏面をカード式の日記用紙として取っておく。

 去年の元日まではチラシの枚数を数えるだけだったが、今年はどこがどんな内容の「初売り」をしているか、少し踏み込んでチェックした。

 ふだんのチラシ=写真=も、去年11月ごろから中身を確かめるようになった。一番の理由は、防寒用のソックスが手に入り、ならば指先のない手袋もあるはず――これである。

義弟は晩年、指先のない手袋を常用していた。ハンドウォーマーという。ハンドウォーマーはほとんどが手首の上まであるタイプだ。義弟のそれは毛糸で編まれたもので、手首までしかない。

それでもこのハンドウォーマーをはめてノートパソコンを使うと、キーボードの冷たさを感じないですむ。

 で、もっと手首の上まであるハンドウォーマーが欲しくて、チラシをチェックしている。元日のチラシも1つひとつめくって、それがあるかどうかを確かめた。

 ついでながら、自分のブログを見ているうちに、2年前の能登半島の地震を思い出した。

――元日夕方、能登半島を巨大地震が襲った。当たり前にあった暮らし=日常がズタズタに破壊された。

水を飲むたびに、トイレへ行くたびに、歯を磨くたびに、能登の被災者の不便を思う。あるいは、ふとんにもぐっていて、足が冷えているのに気づいたとき、などにも――。

東日本大震災から16年目の元日にも、やはり能登半島の今が気になった。能登半島地震の翌日には、羽田空港の滑走路でJAL機と海保の飛行機が衝突した。そのことも思い出した。災害と事故は忘れずにやってくる。

2025年12月30日火曜日

カウントダウン

                                 
   この秋から冬にかけて、何度か日本晴れになった。雲一つない青空。つい吸い込まれるような気持ちがわいてカメラを向けた=写真。

日本晴れの空を仰ぐと、残響する言葉がある。雲のない青空は虚無に等しい。雲があるから青空が輝く――。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』で、登場人物の誰かがそんな意味のことを口にした。若いときに読んでうなった。それが影響しているのだろう。

湿潤な日本の風土では、日本晴れは束の間でも解放感の象徴になる。が、『嵐が丘』は違っていた。

気候的に厳しい環境がそんな考えを生んだのだろう。と、これは後年になってからの解釈。

 以来、雲一つない青空を見ても、複雑な思いを抱く人間がいることを思い浮かべるようになった。

 日本晴れの空はしかし、この年(後期高齢者)になると、どうも違って見える。最後は底が抜けるのか。いや、底が抜けてもいい、と。

去年(2024年)の秋、1歳年上の親友が逝き、1歳年下の義弟が亡くなった。2人が彼岸に渡ったあと、私ら夫婦もカウントダウンが始まっていることを悟った。そのことも影響しているに違いない。

今年(2025年)の春あたりから、メディアが伝える訃報、新聞折り込みの「お悔み情報」を見て、影響を受けた著名人や付き合いのあった身近な人たちを、「カウントダウン」というフォルダの中にメモしてきた。

 年末になると、新聞はその年に亡くなった著名人を振り返る。暮れの「回顧ジャーナリズム」でもある。今年は「墓碑銘2025」だ。

 その回顧ジャーナリズムが私の中にも残っていた。著名なところでは、いしだあゆみ、長嶋茂雄、和泉雅子、コニー・フランシス、上條恒彦、ハルク・ホーガン、橋幸夫、ロバート・レッドフォード、仲代達矢、内館牧子、そしてブリジッド・バルドー。いずれも人生の節目、節目で記憶に残った人たちだ。

 親しく付き合っていた仲間では、いわき地域学會のあの人この人。いわきキノコ同好会の冨田武子会長。それからカミサンの友人のご主人など。佐藤栄佐久元福島県知事とも会って話したことがある。

 記者になる前から受け入れてくれた親友の叔父の奥さん、草野美術ホールで知り合った元中学校美術教諭(最初の赴任校がふるさとの中学校で、兄たちが教わった)も彼岸へ渡った。 

 そして、区内会のつながりで知ったよその行政区の役員、同じく文学館の集まりで出会った人、フェイスブックで友達になった福井県の人も……。

他クラスだったが、同学年で寮が一緒だった仲間も2人、彼岸へ渡ったと聞いたのは8月。

親の世代はとっくに終わり、年上の兄弟の世代、あるいは年下の人間も加わって、カウントダウンが続いている。

いつ終わるかは神のみぞ知る。それまでは、晴れたり曇ったり、雨が降ったりする空の下で生きる。雲一つない青空を迎えるのはそのあとでいい。

※おことわり=12月31日~1月4日までブログを休みます。