2026年3月3日火曜日

青春のカケラ

                               
   茶の間の縁側から波形スレートの屋根が張り出している。下には物干し竿(ざお)。その奥には同じスレートで囲ったスペースがある。どこからか手に入れたスチールボックスがデンと据えられている。わきにはほうきやスコップなど。つまりはドアのない物置。

 カミサンがある日、急に思い立ってスチールボックスの中身を取り出し、ダンシャリを始めた。

 すると――。私が10代後半から20代前半にかけて読んだ商業詩誌や、手書きの原稿などが出てきた。

 現代詩に興味を持ち、読んだり書いたりし始めたころに購読した詩誌が多かった=写真。いわき市内で発行された同人詩誌などもあった。

結婚・引っ越し後も手元に置き続け、スチールボックスが手に入るとそこにしまって忘れていたのだった。いわば、青春のカケラ。

 一番古い詩の雑誌は、昭森社が昭和41(1966)年5月に創刊したばかりの「詩と批評」8月号だ。高専3年、数え18歳のときに買った。

 当時、詩の雑誌といえば「詩学」か「現代詩手帖」だったが、私はまず「詩と批評」を読み始め、現代詩の深みにはまるにつれて「現代詩手帖」に移っていった。

 高専は言うまでもなく工業系の学校である。機械工学、電気工学、工業化学の3学科で開校した。

 福島県内はもとより、関東・東北から学生がやって来た。先輩は1期生(3年生)と2期生(2年生)だけで、校風も伝統もない、いや自分たちでつくっていくんだという気概の学生が多かった。

 理系の学校なのに、先輩の多くが文系の資質を備えていた。やがて学校を卒業し、あるいは中途退学をして、別の理系を含む大学へと進む先輩も少なからずいた。

医師・弁護士・弁理士・声楽家・大学教授・高校教師と、先輩たちはさまざまな道に進んだ。私も地域紙の記者になり、1年下の後輩は週刊誌記者、そしてローカルテレビ局の記者になった。

 そういう先輩たちと校内で同人雑誌をつくったり、社会に出てからも同好の士と雑誌を発行したりした。スチールボックスにしまっておいたのは、そんな若いときのつたない「自分」だった。

 ノートと原稿、同人誌類。これはやはり捨てられない。自分の投稿作品が載った4冊の「現代詩手帖」は若いときの形見だから、茶の間の本棚に差し込んでおく。とりあえず、それ以外の商業詩誌をダンシャリに回すことにした。

 そうそう、詩の雑誌に「詩人会議」がある。若いころは縁がなかった。今も縁がないが、去年(2025年)、震災後知り合った木村孝夫さん(平)が同誌主催の「壷井繁治賞」を受賞した。

それが載った2025年6月号の恵贈にあずかった。授賞対象になった詩集は『持ち物』。これも発刊するとすぐちょうだいした。

私は詩から雑文に移ったが、木村さんはずっと詩を書き続けている。ただただ敬服するばかりだ。

2026年3月2日月曜日

小さな春

                               
   3月に入った。最初の日が月の最初の日曜日と重なった。朝9時前、夏井川渓谷の隠居へ行く途中、平商業高校の前を通ると、生徒が登校していた。車も続々とやって来て生徒を下ろした。

そうだった、今も昔も変わらない。3月1日は県立高校の卒業式だ。「春の巣立ち」である。月並みながら、そんな言葉を思い出した。

小川町に入って三島のハクチョウを見ると、いるにはいるが、ピーク時の半分以下だった。夏井川に長く散らばって羽を休めている。

前日、2月最後の日。マチからの帰りに夏井川の堤防を通ると、塩のハクチョウは1羽しかいなかった。

ハクチョウの冬は終わった――。そう思っていたから、三島のハクチョウの少なさには驚かなかった。

隠居に着くとすぐネギ苗を見た。この冬は雨らしい雨がなかった。追肥はしたが、雨なしでは肥料を吸収できない。

それで1週間前の2月22日、水をやった。するとその3日後、朝から夜まで雨が降った。長時間の雨は今年(2026年)初めてだ。

肥料と雨が効いたのだろう。枯れてチリチリになっていたネギ苗が、あおくすっきりした姿で立っていた=写真上1。ネギ苗にも春がきたのだ。

すると、フキノトウも。1週間前まではどこにあるか、目を凝らさないとわからなかった。が、パッと見ただけで点々と早緑色になっているのがわかる。大きくなったものは苞(ほう)の中に花束をつくっていた=写真上2。

4月に入るとシダレザクラの樹下にアミガサタケが現れる。3月になったばかりだから、ないのは承知しながらも地面を見る。ない。ないことを記録しておけば、現れたときの喜びが倍加するはずだ。

隠居の入り口にあるアセビは? ほんの少し咲いていた。いつもだと1月下旬には開花する。今年(2026年)はずいぶん遅い。やはり土が乾いていたからか。

帰りは道筋にあるヤブツバキの花の有無をチェックした。渓谷の手前、高崎のヤブツバキはすでに開花していた。渓谷はどうか。確かめると江田の集落で咲き始めていた=写真上3。

「ヤブツバキ前線」は江田まで駆け上がってきたのだ。渓谷のそこかしこに生まれつつある「小さな春」。あと何度か雨が降れば、アカヤシオにも春がくる。

2026年2月28日土曜日

マグロの柵

                                
   海に近い農村部に住む後輩からいろんなものをもらう。自産のパパイア、落花生、ユズ、サツマイモその他、大物ではスイカ、トウガン、メロンなど。

 先日はマグロの柵(さく)が届いた。沿岸漁業に従事している知り合いがいる。網にかかったのだという。海のお福分けである。

なんという名前のマグロかはわからない。冬に行きつけの魚屋で買ったメジマグロの刺し身はピンク色だった。目の前の柵はカツオ並みに赤い。メジでも背側の部位は赤いそうだから、それか。いや、決めつけるのはよそう。

 前日の日曜日は夜、スーパーの刺し身を食べた。貝の盛り合わせのほかに、今年(2026年)初めて生のカツオの柵を買い、家で包丁を入れた。

 マグロも、行きつけだった魚屋の店主の包丁さばきを思い浮かべながら、皮をそぎ、赤身を短冊形に切ってから刺し身にした=写真。

切り屑状になったものがあるのは、シロウトだから仕方がない。見た目は悪くても味に変わりはないだろう。そのとおりで、鮮度は抜群だった。やわらかい。脂ののったカツオとそう変わらない。

けっこうなボリュームだったので、3分の1以上が残った。去年初夏までのカツ刺しを思い出した。余るといつもそうしていたように、マグロも翌日、「ひたし揚げ」にしてもらった。それからまた刺し身に思いがめぐった。

生のカツオが普通に出回るにはちょっと早い。スーパーで生のカツオを見つけた日曜日の1週間後、また生があるのでは、あるとしたら四倉か――勝手に決めて車を走らせた。

いろんな刺し身の盛り合わせはあったが、生のカツオはなかった。しかたない、同じスーパーの草野店へ寄ろう――刺し身を買うのにハシゴするとは思わなかった。

 当然である。行きつけだった魚屋でも、早春は入荷したりしなかったり、だ。生のカツオが常時入るまでには、まだ時間がかかる。

 前にも書いたが、この半年、日曜日は「刺し身ドライブ」が続く。カツオ・非カツオ関係なく、刺し身を買う店が定まらない。

個人営業の魚屋と違って、スーパーではホウボウやイワシの刺し身は見たことがない。

 イワシは鮮度がいのちだ。「銚子で捕れたサバに混じっていました」。行きつけだった魚屋でそう言われたことがある。その時のイワシのさばき方がブログに載っていた。

――頭を切り、腹を裂いて内臓を取る。水で洗ったあと、指で骨をはがし、2枚に分ける。

次に、同じように指で皮をはがし、6枚を重ねるように並べて包丁を入れ、包丁の腹を使ってマイ皿にきれいに盛り付ける――。

イワシの刺し身は何年ぶりかに1回くらいのペースだった。甘い。それが強い印象として残っている。

イワシは漢字で「鰯」と書く。「弱い魚」とあるように、小さくてすぐ鮮度が落ちる。生臭くなる。刺し身のつくり置きは難しいのだろう。

行きつけの魚屋の閉店はやはり痛い。刺し身ドライブはまだまだ続く。そう覚悟している。

2026年2月27日金曜日

2026年の「初雨」

                      
   イメージとしては、縦軸に「気温」、横軸に「月日」を配した折れ線グラフだろうか。寒暖の波が大きいこの時期の最高気温を毎日記録し、「見える化」してみる。と、上がり下がりを繰り返しながら、全体としては春に向かってグラフが上向いていく。

実際にグラフ化したしたわけではない。想像するだけだが、経験的にそれが裏付けられるはずだ。文字通りの「三寒四温」。

 3連休最後の2月23日は曇天だが、暖かかった。日中は、茶の間の石油ヒーターも、ストーブも止めた。

 翌24日朝は、庭に出るとジンチョウゲの赤いつぼみが1つはじけて白くなっていた=写真上1。

 ジンチョウゲの花は小花の集合体だ。つぼみが次々にはじけると、白い花のかたまりになる。

前日の暖かさが開花を促したのだろう。しかし、例年より開花が早いかというと、そうでもない。見ごろはやはり3月半ばだろう。

それよりなにより、今年(2026年)はまったく雨が降らない。庭が乾燥している。暖冬とはいえ、乾燥もまたジンチョウゲの開花の遅速と関係しているのではないか。

気象台のデータでは、小名浜では今年1月2、5日の2回しか雨が降っていない。それも計1.5ミリだ。

 土が乾いているので、2月22日の日曜日には、夏井川渓谷の隠居の庭にあるネギの苗床に水をやった。

 それから3日後の25日は、早朝から細かい雨になった。夜になっても降り続いた。昼前、用事があってカミサンの実家へ行った。家の前に車を止めると、そばの交通標識がフロントガラス越しにぼやけて見えた。

 アメリカの写真家、ソール・ライター(1923~2013年)に、雨で濡れた窓越しの人影を撮影した作品がある。

彼はニューヨークの街角で、誰に見せるわけでもなく「日常にひそむ美」を撮り続けた。久しぶりの雨に、ライターの写真を思い出してパチリとやった=写真。

朝から夜まで雨が降り続くというのは、今年初めてだ。その意味では、初雪ならぬ「初雨」である。

 その雨を見ながら、衆院選投票日の2月8日には雪が降ったことを思い出した。雪は午前中には消えたが、一時、投票所の校庭がうっすら白くなった。この雪は降水量には反映されないのかどうか。

 ま、それはさておき、25日の降水量は小名浜で24.5ミリ、山田で23.0ミリ、平では28.5ミリだった。

車の汚れは落ちたが、大地が潤うほどではなかった。林野火災注意報は解除されたのかどうか。

翌26日は曇天、東からの風が冷たかった。それで折れ線グラフも急降下した。やはり天気はジグザグ。

2026年2月26日木曜日

浄土橋

                                             
 のっけから驚いた。不思議な五七五である。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」=写真上1。石の欄干に彫られている。句のわきには小さく「昇吾」とあった。

 平山崎の専称寺は「梅の寺」として知られる。そのために尽力したのは夏井川の対岸、平中神谷の箱崎昇吾翁だ。

 国鉄を退職した昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて、専称寺の境内に梅の苗木を植え続けた。その数、一千本という。

 寺のふもとにある総門の前、愛谷江筋にコンクリートと石の橋が架かる。それも箱崎翁が寄進した。

 箱崎翁は同時に、地元の立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を、専称寺の末寺で菩提寺の大円寺に石の門柱を寄進している。いずれも昭和8年12月のことである。

 古い新聞でそれを知り、わが家の近くにある寺と神社へ足を運んで、寄進者である箱崎翁と奥さんの名前を確かめた。

 まだ見ていないのが専称寺のふもとの橋だった。同寺の梅林は何度も訪れている。そのつど橋を渡ったが、箱崎翁の事績は知るよしもなかった。

 橋の長さは3・5メートル前後だろうか。やや丸みを帯びたアーチ形で、左右に擬宝珠の付いた石の欄干が各3本。そこに手すりが2本と、それを支える柱が各2本ある。

 まず、橋――そう自分に言い聞かせて、渡る前に目をやる。と、向かって左側の欄干に、冒頭の五七五が彫られていた。右側の欄干には「奥州總本山専称寺」の文字。

 なんということだ。すでに橋のたもとで箱崎翁が待っていたではないか。全く気づかなかった。

橋の向こう側、総門からも欄干を見る。左側に寄進者である箱崎翁の名前があった。

五七五は無季俳句である。専称寺は浄土宗名越派の総本山。俗界から浄土の世界へ――。「浄土橋」という言葉にはそんな翁の祈りが込められている。

同寺は、江戸時代には「大学」だった。奥州各地から学僧が修行にやって来た。

江戸時代後期から幕末にかけて、江戸で俳僧として鳴らした一具庵一具は、若いころ、出羽国から専称寺に留学し、名越派の教えを学んだ。

この俳僧を調べたことがある。しばらくぶりで急な石段を登り、南側のスロープを利用して本堂の前に立った。

東日本大震災では総門も本堂も大きな被害を受けた。どちらも修復されたが、かやぶきの庫裏はそのときのままだった。

寮舎跡には、梅の古木と若木がある=写真上2。何カ所かこずえに白い花が咲いていた。見ごろが3月中旬なのは地形と日照時間が影響しているのだろう。

古木を見ると、箱崎翁の事績が思い浮かぶ。ふもとの橋と同じく、もうただの梅の木ではなかった。「物語」がしっかり根付いていた。

2026年2月25日水曜日

土手に上がったカモ

  街へ行った帰りに夏井川の堤防を利用する。新川との合流部にハクチョウとカモ類が休んでいる。

ハクチョウの飛来地は「身近な鳥獣保護区」だ。カモたちはハクチョウと一緒なら安全と知っているのだろう。

この水鳥をウオッチングするのと、堤防そばのネギ畑の収穫の様子を見るのが、冬の楽しみだ。

 カワウもいる。2月に入ると、変な色のカワウがいた。写真に撮ったが、なにしろ被写体が遠くて小さい。ブレブレなので、お見せするほどのものではない。

が、どこがどう変かはわかる。ふだんは頭が黒いのに、目の周りをのぞいて首から上が白い。たたんだ翼の下の脚の付け根の羽にも白い斑点がある。

じいさんカワウ? ネットで確かめたら、そうではなかった。カワウは、春が近づくと頭などが婚姻色(白色)に変わる。雄だけでなく雌にも現れることがある。

 四季の巡りを二十四節気から考える人間と違って、野鳥を含む生物は自然の動きに「体内時計」が反応する。カワウにはもう春がきた、というわけだ。

すると、ハクチョウも、冬鳥のマガモたちも、そろそろ北へ帰る準備を始めることだろう。いや、もう北帰行が始まったかもしれない。

そのためかどうかはわからないが、このごろよく、カモたちが水辺から土手に上がって草を食べている=写真。ハクチョウも上がっている。

極寒期にこそ春が宿る。いよいよえさがなくなってきたか。いや、北へ帰るために体力を蓄えているのではないか。両方の思いが交錯する。

カモの仲間には留鳥のカルガモも混ざっている。北へ帰るマガモにしろ、カルガモにしろ、間もなく繁殖行動が始まる。そのためにもしっかり体力をつけておかないといけないのだろう。

 北国と違って「サンシャインいわき」の平地の川は、枯れ草色の土手にも緑色が広がっている。

堤防に植えられたスイセンは黄色い花を咲かせている。近くの民家では、庭の白梅が満開だ。地べたから春は立ち昇っているのだ。

冬鳥たちの北帰行を待っていたかのように、左岸(新川合流部の反対側、つまりは私らが車で行き来しているこちら側)では、土砂除去工事が始まった。

先日、工事を告げる看板が堤防天端の道路わきに立った。ハクチョウは、日中は数えるほどしかいない。影響はまずないだろう。

土砂が厚く広く積み上がった河川敷に重機が入り、土砂の山を築いていく。やがてダンプカーが土砂を運び出すようになる。

   定点観測をしているネギ畑は東西に長い。そこに南北につくられた畝が30列ほどある。今は残りが13列ほどだ。ここでも収穫が終わると春になる。 

2026年2月24日火曜日

阿武隈の郷土料理

                                                 
   私が子どものころに食べた郷土料理で、今も懐かしく思い出すものが三つある。「いのはなごはん」と「まめだんごごはん」、そして「みそかんぷら」だ。

 阿武隈高地を含む浜・中通りでは、原発事故後、野生のキノコの摂取と出荷ができなくなった。

イノハナ(猪の鼻)は和名がコウタケ。阿武隈の山里ではマツタケより珍重される。震災後、知人からよその地区で採れたコウタケをちょうだいした。

それを裂いて干したのがある。先日、カミサンが一部を水で戻して「いのはなごはん」にした=写真。久しぶりに強い香りを楽しんだ。

マメダンゴ(ツチグリ幼菌)は夏井川渓谷の隠居の庭で採れる。庭は震災後、全面除染されて表土が新しくなった。

ツチグリの菌糸が残っていたのだろう。秋には子実体が地上に現れる。それを見て梅雨期に土中から掘り取り、「まめだんごごはん」とみそ汁の具にした。ここ2年はしかし、子実体が現れなくなった。マメダンゴも採れない

私は「みそかんぷら」を含むこの三つを勝手に「阿武隈の三大珍味」と称している。そのワケは、よそにはあまり知られていないからでもある。

マメダンゴについてはこんなことがあった。もう10年近く前だ。日本きのこセンターが発行している月刊誌「菌蕈(きんじん)」に、同センター菌蕈研究所特別研究員・長澤栄史さんが、毎回、表紙のキノコの写真を解説した。

2016年7月号でツチグリを紹介する際、古巣のいわき民報に書いた拙文を取り上げた。

「『梅雨期が旬、阿武隈高地では味噌汁が定番、焚き込みご飯も良い。内部が白あんが良く、黒あん、白黒あんは駄目』とある。白あん、黒あんとはうまい表現である」

「白あん・黒あん」は胞子の有無を表現したもので、少しでも黒ずんでいれば食べない。

2月8日に開かれたいわき昔野菜フェスティバルで、山形大学の江頭宏昌教授が講演した。「みそかんぷら」を紹介した。江頭教授からSNSを通じて報告があった。

拙ブログでは、「みそかんぷら」と山梨県の「せいだのたまじ」、飛騨の「ころ芋の煮ころがし」が似ていることを書いた。いずれも代官中井清太夫が赴任してジャガイモの栽培を奨励した地だ。

2年前にやはりSNSを通じて、江頭教授とジャガイモ料理の情報交換をした。「みそかんぷら」の話が主だった。

8日は衆院選の投開票が行われ、最寄りの投票所で立会人を務めたため、フェスティバルには参加できなかった。

それで江頭教授が当日の講演内容を教えてくれたのだった。うれしいことに拙ブログが大いに参考になった、とあった。

教授が光を当ててくれたことに感謝しつつ、「阿武隈の三大珍味」はこれからどうなるのか、原発事故で汚染された森はいつ回復するのか――それをまた思った。