2025年12月26日金曜日

南端の夕日

                                  
   冬至(12月22日)の翌日午後4時過ぎ。国道6号の夏井川橋を渡って、対岸の県道甲塚古墳線へ出る。

行き先は平南白土の「みんなの食堂」だ。が、その前に夕日がどこに沈むか確かめたい。そのための写真撮影をカミサンに頼む。

夕方のラッシュアワーを控えた時間帯で、路上に車を止めるわけにはいかない。車で移動しながら、助手席からカミサンが赤く燃える西空をパシャパシャやった。

平市街の西方には、南から湯ノ岳~三大明神山、好間川をはさんで閼伽井嶽~水石山のスカイラインが伸びる。

冬至の翌日である。西の山に沈む夕日は1年で最も南端にある。その場所は? 湯ノ岳からかなり南にずれた平市街南方の小丘(もしかしたら「21世紀の森公園あたり?)が赤々と燃えていた=写真上1。

 撮影時間は4時18分。夕日が小丘に没したばかりなのは、紅蓮の中心が一部、金色に輝いているのでわかった。

夏井川に合流する新川を渡るとほどなく「みんなの食堂」(旧「レストラン シェ 栗崎」)に着く。

月に2回、午後2時にオープンし、2時間ほどは子どもの宿題と交流タイムに充てる。4時から7時までは大人もOKの食事タイムになる。

12月2回目のこの日はクリスマスを兼ねて開かれた。2学期の終業式が終わり、翌日からは冬休みという開放感もあってか、いつもより子どもたちの数が多い。

冬至、そしてクリスマス。そういえば、前日には知り合いが冬至だからと、ユズをいっぱい持って来てくれた。

ユズは高専の後輩からも届いた。こちらは2回目の白菜漬けに風味用として皮をみじんにして加えた。冬至の日に届いたユズはさっそく風呂に浮かべて香りを楽しんだ。

みんなの食堂に行くと、スタッフでもある知人が店の前の路上に立っていた。ユズを持って来てくれた知人とは共通の友達だ。

そのユズの知人が初めて「みんなの食堂」に顔を出すという。道に迷うにちがいない。だから、立っているという。実際、迷い迷い、やっとたどり着いた。

知人も、私らも全員、80歳前後のシルバーだ。みんなの食堂は、若いころ頻繁に行き来し、あるいは飲んだり食ったりしたかつての仲間の「再会」の場にもなっている。

「子ども食堂」は同時に、「シルバー食堂」、つまりは「コミュニティ食堂」なのだと、あらためて実感した。

まさに「一陽来復」。人生もまた同じ。クリスマスイブには「孫」の親と久しぶりに「ほうれんそう鍋」を楽しんだ=写真上2。

2025年12月25日木曜日

絶滅寸前季語

                               
   このごろは図書館へ行くと必ず「大活字本」のコーナーをチェックする。

眠りに就くときは眼鏡をはずす。寝床では、小さな活字だとぼやけて読めない。裸眼で読める本といったら、大活字本しかない。

 寝床で大活字本を読む――。最近の就眠儀式である。前よりすんなり本を読み、それでいて睡魔にもスーッと誘われる。

 最近は夏井いつき『絶滅寸前季語辞典・下』を読んだ。「上」ではなく、「下」にしたのは、「秋・冬・新年」の絶滅寸前季語が収められているからだ。

 寒さが身にしみる今、どんな季語が絶滅しそうなのか、寝床で読み進めると、「皸(あかぎれ)」や「湯婆(ゆたんぽ)」「練炭(れんたん)」といったものが現れた。

 「皸」(晩冬)の説明。「寒さで血液の循環が悪くなることによって起こる、皮膚の亀裂。『皸』と『胼(ひび)』はどう違うかというと、その亀裂の深さによる区別。亀裂の浅いものが『胼』で、出血するほどの亀裂が『皸』だと思えばいい」

 そうか、私も冬になると足のかかとに「胼」ができる。寒くなる。血行が悪くなる。それを意識して、毎朝、かかとに軟膏を塗るようにしている。

 「湯婆」(三冬)は「中に湯を入れて、冷たい布団のなかの身体を暖めるために使う ブリキ製や陶器の亀の子形容器」だ。

 ブリキの湯たんぽは、子どものころ使った記憶がある。が、それこそ製品としては「絶滅」したのではないだろうか。

 陶器製の湯たんぽは、朝ドラの「ばけばけ」にも使われたようだが、現物を見たことはない。

 今、わが家にあるのはポリエチレン製=写真=で、この冬は1回使ったあと、「あったかソックス」をはいて寝ているため、常用までは至っていない。

 「練炭」(三冬)。「縦長の空気穴がいくつも空いている円筒形の炭。その穴が煙突の役目をするので、火がつきやすく、しかも一定温度を長時間保てるので重宝がられた」

 電気ごたつが普及する前、こたつの熱源と言えば練炭だった。木炭を使っていた記憶もあるが、はっきり思い浮かぶのは「練炭七輪」だ。七輪に火のついた練炭を入れ、下部の送風口を開閉して温度を調整した。

 冬といえば、私の中ではこの3つがすぐ思い浮かぶ季語だが、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781~1853年)を調べていて覚えた正月の季語もある。

「御降(おさがり)」。『絶滅寸前季語辞典』によると、「元日、あるいは正月三が日に降る雨のこと。雪を指す場合もある」。

一具は出羽の国で生まれ、磐城平の專称寺で修行し、幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

『一具全集』から3句。「御降りや西丸下のしめるまで」「御降や小袖をしまぬ歩行(あるき)ぶり」「城山や御降ながら暮(れ)かゝる
 句意としては、雨が降っても、雪が降っても、要は晴れていても、そうでなくても正月はめでたいのだ。そういうことだろう。

確かに、現代では「御降」といっても、ピンとくる人はまずいない。私がそうだ。

2025年12月24日水曜日

岸辺のヤナギ

                                 
 この冬2回目の白菜漬けをつくった。白菜を買ったのは日曜日(12月14日)。翌日は晴れたが風があった。翌々日も晴れ。風は? 弱い。

 よーし! 朝食後、すぐ白菜2玉を割って縁側に並べた。干したら待ったなしだ。夕方にはなにがなんでも漬け込む。

それまでにほかの用事を済ませる。図書館の開館時間に合わせて本を借りに行き、その足で銀行に寄った。

帰りは午前11時ごろ、いつものように夏井川の堤防を利用する。ハクチョウは、この時間帯には郊外の田んぼに移動していていない。

なんということもない川の光景ではある。が……。水鳥のいない浅瀬から対岸の河川敷に目を転じたとき、驚いた。

 こんなに生えていたのか! 岸辺のヤナギの若木である。河川敷は全面、枯れ草色だが、岸辺に沿ってうっすら緑色の帯ができていた=写真上1。ポツン、ポツンではない。ビッシリだ。

「令和元年東日本台風」を機に、河川敷の土砂除去と立木伐採が行われた。今も工事の続いているところがある。

わが生活圏では右岸の工事のあと、11月末まで左岸堤防の改修工事が行われた。それで平日は堤防の通行ができなかった。

ヤナギの若木が生えているところは右岸・山崎。ブルドーザーが入ったあとは、サッカー場が2つできるくらいの「空き地」になった。

そこを緑の草が覆い、一段低い岸辺には、大水になると上流から種が流れ着いたのか、あっという間にヤナギの幼木が現れた。

それが1年前だったか、2年前だったか、記憶が定かではないが、もう人間の背丈を超えるくらいには生長している。

周りの枯れ草同様、ヤナギもやがて葉を枯らして裸になるが、淡い緑色は今もよく目立つ。

夏井川の「リバーウォッチング」を始めてから何十年がたつだろう。対岸では、これまでに2回は土砂除去と立木伐採が行われている。

岸辺にヤナギが現れ、林になるまでそう時間はかからない。20年もたてば、大木になる。

今回もいったん見晴らしはよくなったが、岸辺はすでに草とヤナギで土が見えなくなった。工事のたびに繰り返される光景ではある。

それともう一つ。「銀橋」(下水道橋)の上流左岸高水敷に、伐採されずに残った雑木=写真上2=が何本かある。竹林はともかく、なんでその木が残ったのか、よくわらない。

ま、そんなことより、帰宅したら「白菜仕事」だ。岸辺の木の不思議はそのくらいにして、夕方には甕(かめ)に漬け込まねば――。ということで、今は16日に漬け込んだ白菜を食べている。

2025年12月23日火曜日

辛み大根をおろしに

   夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。正確には、辛み大根は自生に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

初夏に種の入ったさやを回収する。が、あまりにも数が多いので、いつも途中でさや摘みをやめる。あとは枯れるがまま。枯れた茎だけになった夏、引っこ抜いて片付ける。

さやは、近年は袋に入れたままだ。まけば芽が出るのはわかっている。しかし、取り残したさやも、初秋になると土に帰って発芽する。

ある年、月遅れ盆が終わって種をまこうとしたら、すでに10株ばかり双葉が出ていた。それで、辛み大根は「ふっつぇ」で増えることを知った。

「ふっつぇ」は「自然に生まれた」を意味するいわき語。シソやミツバもこぼれ種から生える「ふっつえ」だ。

以来、辛み大根は種をまかずに、「ふっつぇ」で出てきたものを育てる。といっても、周りの草を1~2回引き、気が向けばパラッと肥料をまく。その程度のことはする。

今年(2025年)は「ふっつぇ」の発芽が旺盛で、菜園の3分の1を埋めるほどになった。

三春ネギの苗づくりに失敗したので、例年だとネギのうねをつくるあたりでも発芽した。それもそのままにしておいた。

なかには広く大きく葉を広げ、周りの葉を覆い隠すものも現れた。11月末に根元の土をほぐし、根がどのくらい肥大しているかチェックした。

11月最後の日曜日、根元が4センチ、長さ15センチほどの「むっくり」形を初収穫した。大根おろしにすると辛かった。師走に入ると、辛み大根はさらに肥大する。

2年前、普通の大根のように太くて長い辛み大根が採れた(ずんぐりむっくりも、もちろんあったが)。

それぞれおろしにして味を比べた。ずんぐりむっくりはとても辛い。なのに、立派な大根は辛みに強弱がある。どちらかというと、辛みが弱い。

大根はアブラナ科だ。アブラナ科の植物は交雑しやすいという。いつの間にか普通の大根と交配して、形質が変わってしまったのかもしれない。

で、根元に指を突っ込んで土をかき分け、大根の首をつかんでねじるようにして引っこ抜くと、すぐ形状を確かめる。

この冬はまだずんぐりむっくり形が多い=写真(細いのは未熟なまま終わった「ふっつぇ」)。そのための不耕起栽培だからそれでいいのだが、やはり太くて長いタイプだと喜んではいられない。

もともとはもらいものである。震災翌年の2012年夏、豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で暮らしながら、家庭菜園に精を出している知人(女性)から、種の入ったさやが届いた。種はもともと会津産だという。

原発事故が起きて、三春ネギ以外は家庭菜園を続ける気持ちが萎(な)えていたころだった。よし、辛み大根で再出発だ、となったのだった。

2025年12月22日月曜日

木守の柿

                                
   5年前の秋に庭の柿の実について、こんなことを書いた(数字は5年分プラスしてある)。

――柿の木の下に、用済みになって25年もたつ犬小屋がある。そのトタン屋根に柿の実が当たる。車の屋根にも落ちる。「コツン」。こちらは乾いた音だ。車の屋根がでこぼこになっても困るので、止める場所を替えた。今度は「グシャッ」、もろに地面に落ちて低い音を出す――。

柿の実は、今年(2025年)は生(な)り年だった。いつものことながら、青柿のうちから落下が始まった。赤く熟してからは拾って皮をむき、浅いざるに並べて「置き干し柿」にした。

そして、いよいよ師走も後半。葉はすでに散ってない。12月15日は、見ると枝に付いている熟柿は3個だけ。翌16日には1個が落ち、1個が朝日を浴びていた=写真。

「木守の柿」ではないか! 義父の俳句を通じて知った季語である。それについても、同じく5年前に書いている。

――(私ら夫婦が住んでいる家は、平・久保町で営業していた米屋の支店)。昭和43(1968)年、義父が土地を買い、家を建てた。庭には柿の苗木を植えた(のだろう)。

舌頭で「あ・お・が・き」と音を転がせば、義父が所属していた句会「青柿会」が思い浮かぶ。

俳号は素子(そし)。三回忌に合わせて発刊した素子の句集が『柿若葉』。編集は友人に頼み、「あとがき」に代わって、「素子の句作」について小文を書いた――。

『柿若葉』を引っ張り出して拙文を読み返す。そのなかに義父の若いときの作品を紹介したくだりがある。

「木守(きのもり)の柿残照に燦(さん)として」。NHKのラジオ文芸に投稿し、入選した作品である。賞品としてもらったアルバムにこの句が記されてあった。

こんな句もあった。「うれかきにからすの来たるこくたしか」。漢字にすると、「熟れ柿に烏の来たる刻確か」。

まさにこの時期、柿の実が孤愁をまといながらも毅然として宙に浮いている。

16日に落ちていた熟柿は、皮が一部破けて中身がえぐられていた。カラスが枝に止まってつついているうちに落下したのだろうか。

秋の収穫後も、柿の木に1個ないし数個の実を残しておくのが日本の伝統的な風習と、ネットにあった。それを「木守の柿」と呼ぶ。

来年の豊作を祈りつつ、冬の鳥たちへの食料として残す意味もあったという。「きのもり」のほかに、「きまもり」「きもり」とも読むようだ。

義父の句は「残照」、冬になっても残っている柿の実にふさわしい光景だが、私が見たのは日が出て間もない早朝の柿。「木守の柿朝の日に燦として」である。

夕日・朝日の違いはあっても、葉を落とした枝先に1個、熟れ柿が残っている光景は、やはり情感を誘う。義父は、柿には特別な思いを抱いていたようである。

ついでながら、19日には朝日に照らされた1個が落ちてなくなっていた。20日には最後の1個が消えた。車も樹下に戻した。そして、きょう22日は冬至。

2025年12月20日土曜日

「うつろ舟」が時代劇に

                                         
   大河ドラマ「べらぼう」最終回の余韻がどっかへ吹き飛んだ。

NHKBSで早めに「べらぼう」を見たあと、そのままテレビをつけていたら、時代劇「大富豪同心スペシャル・前編」が始まった。

冒頭、常陸の国に漂着した円盤形の小型船の絵が登場する。「うつろ舟」だ! 「うつろ舟」を題材にドラマが展開されるのか!

ドラマを見終わって、急いで情報を集める。それで時代劇(再放送)の輪郭が少し見えてきた。

原作は作家幡(ばん)大介の人気シリーズ『大富豪同心』で、原作者も作品も寡聞にして知らなかった。

時代小説である。図書館に『大富豪同心 漂着 うつろ舟』があったので、さっそく借りて読んだ=写真上1。

「常陽藝文」(2023年2月号)の特集に刺激されて、ブログで「うつろ舟」を取り上げたことがある。まずそれを要約・再掲する。

 ――「常陽藝文」が、UFOのような円盤状の舟について特集した=写真上2。題して、藝文風土記「常陸国うつろ舟奇談」の謎。

 江戸時代後期の享和3(1803)年、常陸国の海岸に円盤に似た舟が漂着する(正確には、沖に漂っているのを浜の人間が見つけ、船を出して引き揚げた)。

船内には奇妙な文字が書かれ、箱を持った異国人のような美しい女性がひとり乗っていた。そんな前文から特集が始まる。

 江戸時代のミステリー「常陸国うつろ舟奇談」は、舟の漂着から20年ほどたった文政8(1825)年、滝沢馬琴が編纂(へんさん)した奇談集『兎園(とえん)小説』に収められたことで広く知られるようになった――。

 そのときにも驚いた。図書館で「うつろ舟」関連の本を探すと、風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うつろ舟』(文春文庫、2014年)があった。澁澤龍彦も小説に仕立てていた。これも借りて読んだ。

 「うつろ舟」は作家の想像力と創造力をいたく刺激するらしい。舟に乗って漂着した青い目の若い女性の名は、風野真知雄の本では「まりあ」(ただし、異国風だが日本女性)、幡大介の本では「アレイサ」となっている。

 ドラマでは、同心仲間が名前を聞いて「アラエッサッサー」などとおどける。いや、英語とは無縁の日本語圏で生きている人間には、そうとしかとれかったのだろう。

しかし、原作も、ドラマも話はそこまで。その後の展開が見えないと思っていたら、続きがあった。

原作の方は、『大富豪同心 大統領の密書』でその後を描いている。図書館の本はしかし、「貸出中」になっていた。私と同じでBSの時代劇を見て、原作を読みたくなった人がいたのかもしれない。

なら、しかたない。まずは12月21日の「大富豪同心スペシャル・後編」を見る。それから、図書館の本が「貸出可」になるのを待つ。

2025年12月19日金曜日

もちと馬の置物

                                
 12月15日は今年(2025年)最後の回覧資料配布の日。実際は年内にもう1回、元日付の回覧資料(「広報いわき」など)が残っている。

元日に仕事をするのは野暮というもの。役所も年末年始休に入るから、年内最終週の29日か30日に元日付の回覧資料を配って、ゆっくりした気分で新年を迎える。

15日の早朝、カミサンを接骨院へ送った足で回覧資料を配った。帰って店を開け、ごみネットとごみ袋を出してから、ブログの原稿を入力した。

朝食はカミサンが戻ってから取り、一休みすると、今度はもちを切った。もちは前日の日曜日、カミサンの実家でついたものだ。

何年か前までは私ら夫婦も、もちつきを手伝った。私は蒸籠(せいろ)の火の番。「釜(かま)じい」だ。今は夕方、できたてのもちをもらいに行くだけ。

もちは電気もちつき器でつくる。1キロごとにポリ袋に入れ、ほぼ20センチ四方のかまぼこ形にする。

もらってくる数は事前に連絡してある。歳暮としてすぐ届ける家もある。わが家で食べるもの、あとでひとり世帯に届けるものは、私が食べやすい大きさに切る。

切り方は簡単だ。真ん中から2つに割り、さらに2センチ幅で包丁を入れる。もちは一夜寝かせると、少し硬くなる。日をおくともっと固くなって、包丁で切るのに難儀する。切ったもちはすぐ、カミサンが新聞紙にくるむ。

大根を切るようなわけにはいかない。それこそ滑りをよくするために、ときどき大根に包丁を当てて表面をぬらす。

前は革手袋をはめてやったが、今年はハーフフィンガーをはめている。そのまま左手で包丁の峰をグッと押し込む。

今年はできたてに近かったせいか、手のひらが痛くなることも、赤く峰の跡が残ることもなかった。

それが終わって茶の間でくつろいでいると、玄関の方から聞き覚えのある声がした。ハマの近くに住む知人が手製の「馬」の置物=写真=と日本酒を持ってきた。

このところ、毎年暮れになると、糸ノコを操作してつくった干支(えと)の置物が届く。令和4(2022)年の虎(寅)が最初だったろうか。以来、兎(卯)、龍の落とし子(辰)、蛇(巳)と続き、今回は馬(午)がやって来た。

 一目見ただけでも躍動感がある。力強く前進するように、という思いが込められているのだろう。さっそくテレビのわきの本棚の上に飾った。

早朝、回覧資料を配ると弾みがついたように、もちを切り終えた。そこへ来年の干支の馬がやって来た、一気に正月の準備を終えた気分になった(ただし、年賀はがきはまだだが)。