2026年1月30日金曜日

「大統領の密書」

                                         
   BSNHKの時代劇に刺激されて原作の小説を読んだ。時代劇は「「大富豪同心スペシャル」前・後編である。

 暮れに地デジより早く大河ドラマ「べらぼう」の最終回を見て、そのままテレビをつけていると、「大富豪同心」の前編「うつろ舟」になった。

「うつろ舟」? 江戸時代、常陸に漂着した異国の小型船のことではないか。「常陽藝文」が、3年前の2023年2月号で取り上げていた。がぜん、興味がわいて見続けた。

去年(2025年)12月20日付のブログに、そのへんの話を書いた。一部を要約・再掲する。

――ドラマを見終わって情報を集めた。時代劇(再放送)の輪郭が少し見えてきた。原作は作家幡(ばん)大介の人気シリーズ『大富豪同心』。原作者も作品も知らなかった。

時代小説である。図書館に『大富豪同心 漂着 うつろ舟』があったので、さっそく借りて読んだ――。

1週間後に放送された後編も見た。こちらはタイトルが「大統領の密使」で、原作は「大統領の密書」=写真=となっている。これも図書館から借りて読んだ。

 ペリー提督の黒船が来日する前、アメリカの軍艦が来航し、島津藩に武器を売買して代金の25万両を手に入れようとする。

ところが、なかなからちが明かない。さらに、本国がメキシコと戦争になる。大統領は軍艦のトップ、トマス提督に密書を出した。日本にかまっている暇はなくなった、アメリカへ戻れ――。

提督あての密書を携えて太平洋を渡ってやって来た別の船が漂流し、父に会いに便乗していた提督の娘アレイサが救命艇に乗って脱出する。

この円盤形の救命艇を日本側は「うつろ舟」と呼び、中にいたアレイサが日本人の前に現れて事件が展開する、という筋立てだ(主役はもちろん大富豪同心だが)。

 読者は、幕末にはペリー提督率いる黒船が江戸湾に現れ、日本が開国して、幕末の動乱から明治の世になることを知っている。

その「前史」ともいうべきドラマで、ハチャメチャ、痛快アクション、コメディーといった要素が濃い。

その中の一節(トマス提督の言葉)。「日本には物がない。軍艦もない。鉄砲も大砲もない。アメリカは日本に軍艦を売る用意もある。日本はもっと豊かな国になる」

原作を読みながら、江戸時代のメリケンも、現代のアメリカも、本質的に変わっていないのではないか、そんな感想を抱いた。

外国に武器を売って富を増やす。それだけではない。原油埋蔵量が豊富な国を空爆して大統領を拉致する。北極圏にある他国の島をよこせという。「国益」を言いながら「私益」が見え隠れする。

もしかしたら「大富豪同心」の作者は、「うつろ舟」と「大統領の密書」を通じて大国の覇権主義に言及したかったのではないか。小説に現実が重なって寒気が走った。

2026年1月29日木曜日

白い梅前線

                         
    紅梅は白梅より早く咲くようだ。前にも書いたが、常磐水野谷町の梅林寺には、この紅梅が多く植えられている。

1月も後半に入ると、テレビが梅林寺の紅梅の開花を伝える。今年(2026年)は暖冬で例年より2週間も早く開花したという。

カミサンのアッシー君を務めて、初めて寺を訪ねた。花は咲き始めたばかりで、見ごろは2月に入ってからだという。

私は、紅梅ではなく白梅を見て育った。昔は梅干しをつくるために、あちこちに白梅が植えられていた。

念のために花札の「梅に鶯(うぐいす)」をネットで確かめる。ウグイスと一緒に描かれているのは紅梅だった。

花札は子どものころからなじみがある。現実の紅梅にはあまり出合わなかったが、図柄では早くから紅梅を見ていたのに、ずっと白梅と思い込んでいた。

梅林寺には白梅も植えられていて、こちらも咲き出していた。白梅も開花が早まっているようだ。

気象庁が各地の測候所を介して「生物季節観測」を行っている。いわきの場合は、小名浜に測候所があったとき、職員が目視で記録していた。

平成20(2008)年9月30日で有人観測が終了し、翌10月1日からは無人の「小名浜特別地域気象観測所」として再スタートした。今は人がいないから、生物季節観測も途絶えたままになっている。

ただし、桜(ソメイヨシノ)の開花については、小名浜まちづくり市民会議が気象庁OBの協力を得て観測・発表をしている(前は梅も観測していたようだが……、続いているのだろうか)。

当時、測候所が行っていた生物季節観測は、植物が延べ18種目、動物が15種目だった。初霜・初氷・初雪などの観測も手がけた。

その時点での梅の開花は平年値で2月18日、温暖化が進んだ今はもっと早くなっていることだろう。

梅林寺の観梅から1週間後の1月25日、夏井川渓谷の隠居までのルートで白梅の花をチェックした。春先にはいつもそうする。

平地は標高6メートルほどのわが家(平)から同48メートルほどの片石田(小川町)まで、さらにその先、標高60メートルほどの河岸段丘(小川町高崎)にある集落まで、6~8分咲きだった=写真(平・大室地内の畑)。

高崎地内の白梅はわりと早く開花する印象があったが、今回はどこの白梅も開花が早いようだ。

高崎から上流の集落は、夏井川渓谷の江田~椚平~牛小川だが、こちらは梅の花はまだだった。白い梅前線は、夏井川流域では今のところ高崎止まりということになる。

そういえば、わが家の南隣、故義弟の家の庭には白梅が植わってある。カミサンが「花が咲いていた」というので、28日の夕方に確かめた。

花は咲き始め、2分咲きくらいだろうか。顔を近づけるとほんのりいい香りがする。横光利一の小説のタイトルを借りれば、春は馬車に乗ってすぐそこまで来ている。

2026年1月28日水曜日

あとは春を待つだけ

                                  
   大寒(だいかん)から6日目の1月25日、日曜日。2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。いつもより少し遅れて、午前9時20分ごろに着いた。室温はこの冬最低の氷点下6度だった。

 まずは畑に生ごみを埋める。が、裸になった土は5センチ以上も凍っている。スコップがはね返される。

 前に生ごみを埋めた穴を探りながら、そのへりにスコップを入れる。コンクリートブロックのかけらのような凍土がゴロッ、ゴロッとひっくり返る。

 埋めた生ごみに凍土を砕いてかぶせ、鋼鉄製の網をかけて大きな石を載せる。埋めただけだとすぐ野生動物にほじくり返される。

 前に埋めたところが掘られて穴ができていた。穴から判断すると、イノシシではない。タヌキかハクビシンだろう。ほじくり方がイノシシと違って慎ましい。

 そのイノシシが現れたのではないか。そう思わせるラッセル痕があった=写真上1。

 坪庭に新谷窯製の大皿(ヘリが欠けて廃棄されたものを窯元からもらってきた)を利用した「洗い場」がある。

 そばの風呂場からホースを伸ばして水を流し、三春ネギその他の泥を洗い落とす。水は上の庭を流れて浅く掘った窪みにたまり、そこから地下にしみこむ。

乾いた水路がラッセルされていた。ドラム缶で剪定枝を燃やし、黒く炭化した燃えカスをまとめて捨てたところもほじくり返されていた。

土のえぐられ方が激しい。イノシシがミミズを狙ったのだろう。「水路が掘られてよかったじゃない?」とカミサン。

そうか、水がちゃんと流れるからよかったか。「ついでに畑も掘り返してくれればよかったのに」。さすがにそこまでは考えなかった。

晴れてはいるが、風は強い。冷たい。鼻水が垂れるどころか、流れて吹きちぎられる。すぐマスクをかける。

隠居へ行くたびに、カミサンは近くの小流れで落ち葉をさらう。今回は落ち葉ごと小流れが凍っていたという。外気温は当然、室温より低い。氷点下10度前後にはなっていただろう。

指先がカットされたハンドウオーマーの上に、いつもの作業手袋を、つまり二重に手袋をしたが、すぐ指先がかじかんで痛くなった。

15分ほどで作業を終え、すぐ隠居へ戻り、石油ヒーターとストーブで暖をとる。もちろん、こたつもオンにして。

指先にぬくもりが戻ったあとは、下の庭に立って地面に目を凝らした。フキノトウが出始めている。

フキノトウは、早いと師走のうちに採れる。この冬は、師走には見つけることができなかった。先の連休にやっと見つけた=写真上2。さっそくみじんにして味噌汁に散らし、春の土の味を楽しんだ。

そう、大寒がくると、あとは春を待つだけ。2月4日の立春まで10日もない。フキノトウも数を増してきた。

2026年1月27日火曜日

常磐ドライブ

                                
   1月18日の日曜日は、夏井川渓谷へ行くのをよした。隠居の畑に埋める生ごみは少ししかない。大寒(だいかん)を前にした厳寒期、土が露出したところは凍っているだろう。

代わりに別の用を足すことにした。1つは、考古資料館(常磐)の企画展「発掘磐城平城―冬の陣 近代磐城平の夜明け」を見ること。もう1つは、ローカルテレビが取り上げた梅の梅林寺(同)を訪ねること。

いつもの日曜日だと、平~小川の夏井川流域を行って戻るだけ。今回はそこから離れ、一つ山を越えた藤原川流域(主に支流の湯本川流域)へと車を走らせた。常磐ドライブである。

考古資料館へは里山ルートで行った。内郷の白水阿弥陀堂を過ぎ、山を越えて小野田(常磐)へ抜ける。

さらに山へと分け入って下ると、常磐ハワイアンセンター、いやスパリゾートハワイアンズのある藤原町(常磐)に出る。御斉所街道とバイパスとの交差点を左折すれば、すぐ考古資料館だ。

企画展では明治になってからの常磐線開通と平(現いわき)駅のコーナーをチェックした=写真上1。

蒸気機関車には大量の水が要る。いわき民報に教育文化事業団の調査係長が書いていたのだが、今の常磐線開通に合わせて平駅構内に地下貯水槽ができた。

水はどこから引いたのか。『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)には、日本鉄道株式会社が好間江筋と愛谷江筋の合流点から水を買った、とある。その関連を知りたかったのだが、鉄道への取水口と導水路の記述はなかった。

同館の次は水野谷町(同)の梅林寺へ。御斉所街道に出て湯本駅前を通過し、踏切を渡って旧国道6号に抜け、左折して丘陵地のすそ野を進むと、ほどなく寺に着いた。

テレビの影響力はなかなかのものだ。駐車場にはマイカーが続々とやって来る。仙台ナンバーもあった。

墓地は平地と斜面にある。本堂も中腹に建つ。寺の名前にちなんで、ご住職が梅の苗木を植え続けた。今も植えている。本堂の裏山の方が見ごたえがあるそうだ。

私は中腹の紅梅=写真上2=を見てよしとした。カミサンに誘われても、先には足が進まない。息が切れる。

梅は2月が見ごろという。梅だけではない。秋にはヒガンバナが咲き誇る。いつも何かの花が咲いている。「花の寺」でもある。そのための手入れを怠らない。この時期、やっと一息ついたところだとか。

常磐ドライブのしめくくりは湯本駅前の「久つみ」へ。「温泉まんじゅう」を販売している。

店番をしているのは昔からの知り合いで、年賀のあいさつをしていると、和菓子職を継いだ娘さんが工場からまんじゅうを運んで来た。十何年ぶりかの再会だ。カミサンは何個もまんじゅうを買った。それだけで私も正月らしい気分になった。

2026年1月26日月曜日

南イタリアの塩

        
 1月21日に白菜を漬け込んだ。この冬3回目である。正月の松の内に、カミサンのいとこが年始のあいさつを兼ねて2玉を持って来てくれた。

 去年(2025年)ももらった。いわきの平地の白菜だが、大きくて締まっている。甘みもある。「また欲しい」。身内を介して催促したのをおぼえていたのだろう。

 2回目の白菜漬けが甕(かめ)に残っている。ほんの少しならタッパーに移して甕をきれいにできるが、それにはまだ時間がかかる。

朝、1玉を8つ割りにして干すと、その日の夕方には漬け込む。そう決めているので、晴れて風の弱い日を選ぶ。

いわきの冬は晴れが多い。風も強い。目に見えないほこりが白菜に付くのは避けたい。

毎日が「自由時間」とはいえ、野暮用もある。買い物、自治会の仕事、役所主催の研修会……。

天気と野暮用をにらんでいたら、21日に「すき間時間」ができた。白菜が届いてから2週間後だった。

 よし、やるぞ! 朝食後、2玉をそれぞれ8つ割りにして軒下に干す。午後には甕を台所に移してきれいに洗う。

甕に残っていた白菜が3切れあった。産膜酵母にどっぷり浸かっている。これをいったん流水に当ててから水を切り、タッパーに入れて冷蔵庫にしまった。

食べる際には小さめに刻み、キムチの素をまぶして酸味をやわらげる。新しい白菜漬けができるまでのつなぎにはなる。

まずはユズを1個、皮をむいて微塵にした。干しておいたミカンや柿の皮、昆布を用意し、鷹の爪も細かく刻んでおく。

 塩は、「伯方(はかた)の塩」がある。それを使おうとしたら、カミサンが「地中海の塩がある」という。

 「伯方の塩」は、原産がメキシコかオーストラリアで、日本の海水で溶かして再結晶化させたものだ。

「地中海の天日塩」=写真=はイタリア産で、ベトナムの工場で夾雑物を除去し、さらに日本でもチェックして袋詰めされたものが売られている、とネットにあった。

 南フランス・カマルグの天日塩は使ったことがある。同じ地中海でも、こちらは南イタリアのプーリア州でつくられた。

 イタリアは国土の形状が長靴にたとえられる。長靴のかかとに当たるところがプーリア州だ。東はアドリア海、南はイオニア海に面している。

 海水を塩田に引き込み、太陽と風の力で数カ月かけて乾燥させ、塩の結晶を生成する。それをさらに数カ月天日に干し、洗浄・粉砕・乾燥させて製品化する――。

中粒タイプトとさらさらタイプがあり、わが家の塩は中粒タイプだった。もらいものだという。

舌に1粒のせると、うまみと甘みが感じられた。それがどう白菜に浸透するか。夕方に漬けた白菜は、40時間後の23日朝、上まで水が上がってきたので、重しを1つはずした。

それから2日後の25日朝、1切れを取り出して試食する。白菜は硬い根元も漬かっていて、食べると甘みが広がった。まずまずである。地中海の塩は評判通り漬物に向いていた。

2026年1月24日土曜日

刺し身放浪

                                
 日曜日の晩は刺し身――。これは30代後半に始まり、70代後半になった今も続く食習慣だ。

 1年の流れでいうと、早春~晩秋はカツオ、冬場はそれ以外の盛り合わせだが、冬も生のカツ刺しがあれば食べる。

 いわきに根を生やした理由は、結婚後、カミサンの実家の近くにあった魚屋さんのカツ刺しがうまかったことが大きい。

 こんなうまい刺し身があるなら、よその土地へ行く必要がない。その後、今の家に引っ越し、車で5分ほどのところに、やはりうまいカツ刺しを提供する魚屋さんがあるのを知った。

以来、約40年。息子さんに代替わりしたあとも、毎日曜日、通い続けた。その魚屋さんが去年(2025年)7月下旬、店を閉じた。

すぐ、日曜日の「刺し身放浪」が始まった。夏場、生のカツ刺しが売り場に並んでいるうちは、どこのスーパーでもかまわなかった。

なじみの魚屋さんのカツ刺しが一番であることに変わりはない。わが生活圏内にあるスーパーのカツ刺しも新鮮だった。さすがはいわきのスーパーである。

 ところが秋も終わりのころ、カツ刺しを口にするとずいぶん冷えている。ん、なんだ、これは! 切り身の芯に舌が触れると、さらに冷たい。あわててトレーのラップに張られたシールを見ると、「解凍」とあった。

なじみの魚屋さんだったら「きょうは解凍カツオです」、顔を見るなり言ってくれたので、「じゃ、違うもので」と返すことができた。

が、スーパーではこの対面でのやりとりがない。つい前週の続きでシールも見ずにカツ刺しを買った。解凍カツ刺しを口にしてからは、しっかりシールを確かめるようになった。

それも含めて、刺し身放浪が始まって半年がたつ今も、「次の店」が定まらない。カツ刺し以外の盛り合わせ=写真、つまりは冬の刺し身の量、盛り合わせの種類(3~5種類)、1切れの厚さ・薄さなど、どうしてもなじみだった店と比較してしまう。

似たりよったりならどこでもいい、近場のスーパーへ――と思っても、カミサンは違った。

「うまい店の方がいい」というので、草野の先、四倉にあるスーパーまで車を走らせることもある。

1年前までは盛り合わせもいろんな種類を楽しめた。ヒラメ、ホウボウ、皮をあぶったサワラ、タコ、イカ、タイ、メバチマグロ、天然ブリ……。

イワシの刺し身も忘れられない。カツオと同じ量(普通の大きさで一筋=4分の1)をさばくとなると、大変な手間がかかる。

「イワシの刺し身は常連さん用」と言われたのを覚えている。採算を考えたらやっていられない。このへんは長年のつきあいのありがたさだった。

時にはヒラメやホウボウの粗(あら)をもらった。こちらの粗汁は濃厚なカツオと違って、さっぱりして上品な味だった。

そんな店はもうないのか、あったとしても遠すぎたりして……。日曜日の夕方はいつも悩ましい思いになる。

2026年1月23日金曜日

誤記もあるようだ

                                      
   明治35年の記念碑「好間渠誌」の拓本(掛軸)を毎日ながめている。これまでに3回、ブログに書いた。

 いずれも漢文本体ではなく、碑の形状、篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)を担当した人物の名前など、本文の周辺情報にとどまっている。

 本文の解読に挑戦するのはまだ先のこと。そのための予備知識・情報を蓄積中だが、高い山であっても、頂上へ向かってすそ野を歩いていると、少しは標高が上がってきたかな、という手ごたえはある。

「直登」は無理だから、ふだんの「調べもの」と同じように、ジグザグに頂上を目指す。このジグザグがまた「発見」に満ちている。

すそ野にはすそ野の風景が広がる。全く知らなかったことがわかる、あいまいだったことがはっきりする、という点では、すそ野も山頂も同じだろう。

拓本と好間川そばの道路沿いに建つ実際の碑は、同じではない。現地の碑を見てすぐわかった。

すると、同一人物の撰文なら拓本も実際の碑も本文は同じはず、でもほんとうはどうなのか――という疑問がわいてきた。

念のためにそれぞれの文字を1字1字、マス目を入れた紙に書き写す。実際の碑の方は、写真画像をパソコンに取り込み、本文データを拡大して書き起こす。読めない字は「?」のままにしておく。この両方が碑の内容を考える「テキスト」になる。

拓本は本文が16行、実際の碑は15行だ。これだけでも拓本と違うことがわかる。拓本の方は初代、実際の碑は2代目ということになる。

拓本の本文は、1行39字が15行、それに最終16行目の26字を加えて計611字ある。

実際の碑の方は字数がまちまちだ。43字、40字が各1行、42字が2行、最も多い41字が計10行、それに最終行35字を加えると計612字になる。

なぜ1字多いのか。その理由を突き止めるために、書き写した文字群を1字1字比較していく。と、拓本では10行目の中ごろ、実際の碑では9行目の終わりごろに違いが見つかった。

拓本では「中好間各一」=写真上1=が、実際の碑では「中好間間各一」=写真上2=になっている。

「間」が2つある。これが1字多い理由だった。なぜそうなったのか。地域新聞でたびたび誤記・誤植のミスプリを経験してきた人間には、容易に想像がつく。

考えられるのは2つ。①碑を再建する際、石材業者に発注する側が原稿を誤記した②字を刻む側が同じ字をダブって彫ってしまった――のいずれかだろう。

紙の場合は「書き直し」がきくが、石の場合はそうはいかない。「誤刻」に目をつむったか、あるいは見落としたままだったか。「石に刻む」ことの覚悟と怖さに、しばし声もなかった。