2021年2月25日木曜日

松本清張とジョルジュ・シムノン

           
 おととい(2月23日)の夜、BS日テレで「松本清張スペシャル・鬼畜」を見た。<火曜サスペンス劇場1000回突破記念作品>と銘打ってある。主演は若いときのビートたけし。ずいぶん前に放送されたものだろう。

 ふだんサスペンスドラマは見ない。しかし、正月にイタリア在住の知人(カミサンの高校の同級生)から、メールで現地の新聞切り抜きが届いた=写真。松本清張(1909~92年)を紹介する記事で、見出しに「シムノンに似た日本のサスペンス作家」とあった(知人の翻訳に従う)。

シムノンは、ごぞんじ「メグレ警視」のジョルジュ・シムノン(1903~89年)。清張とは同時代のフランスのサスペンス作家だ。

「清張は日本のシムノン」。頭の中で組み立て直し、なぜそうなのかを探ってみた。「巣ごもり」が基本のうえに、コロナ禍で関係する団体の催しなどがあらかた中止になった。自由に使える時間が増えた。それを調べものに充てている。

シムノンは読んだことがない。図書館から彼の『家の中の見知らぬ者たち』『片道切符』『小犬を連れた男』を借りてきた。『片道切符』はアンドレ・ジッドがカミュの『異邦人』より優れていると評価した作品だ。人を殺(あや)める犯罪小説には違いないが、登場人物の心理描写が複雑で読みごたえがある。

一方の清張は、15歳の夏休み、高専から阿武隈の山里へ帰省して読んだ『点と線』が最初だった。東京駅ホームの4分間の空白をついた時刻表のトリックに強烈な印象を受けた。当時から超売れっ子の作家だったが、あとはそんなに読んだ記憶はない。

今年(2021年)になって、イタリアからのメールで清張がよみがえり、シムノンが“降臨”した。そこへ、タイミングよくテレビで「鬼畜」が放送された。

ドラマを見ながら、読んだばかりのシムノンの『片道切符』を思い出していた。どちらもとことん人間の“鬼畜”性を描いている、という点では、2人の作風は似ている。そう、「清張は日本のシムノン」「シムノンはフランスの清張」と納得がいった。

最初、サスペンスもミステリも推理小説も同じだと思っていたが、ウィキペディアではちゃんと区別している。「ミステリや推理小説と混同されがちだが、これらは推理を楽しむ物語」「サスペンスは現実に基づいた人間の起こす」物語。清張もシムノンも「推理作家」でくくろうと思ったが、それではあまりにも雑過ぎる。少々わかりにくいかもしれないが、イタリアの知人の言葉に従って「サスペンス作家」で通した。

繰り返しになるが、人間の心の奥底には“鬼畜”性が眠っている、という恐れは抱いていた方がいいのかもしれない。

ついでながら、清張を取り上げた新聞を欄外の文字から探ってみた。「ラ・レプッブリカ」の<文化>欄だった。中道左派の日刊紙で、イタリアではトップクラスの発行部数を誇る、とか。ほんとうは、それよりも記事の中身を知りたいのだが。

2021年2月24日水曜日

『松の文化誌』

                     
 ローラ・メイソン/田口未和訳『松の文化誌』(原書房、2021年)を読む。著者はイギリスの食物史家・フードライターだ。欧米にもマツタケの仲間が分布するが、香りが強すぎるために人気がない。マツタケの記述はないだろうと思っていたら、その通りだった。

 世界に生息する松と人間のかかわりを論じている。キノコに関しては「松の木の根系は、しばしば菌根とともに発達する。根の表面に付着して白っぽい膜で覆う菌類だ。見かけは悪いが、この菌根は松と共生関係にあり、松から栄養分を摂取すると同時に、松にとっても地中のミネラルが吸収しやすくなるという利点があり、やせた土壌での成長を助けてくれる」。

 マツタケはそうして生えてくる――と、日本人ならなるのだが、そこへは目が行かない。あとになって中国の不老不死の話が出てくる。

「中国では古くから、医師たちは松脂(まつやに)と松の根元に育つ菌類(茯苓=ぶくりょう=「サルノコシカケ科のマツホドの菌核をそのまま乾燥させたもの」)との関係に、複雑な考えを抱いてきた。この菌は、地面に流れ落ちた松脂がそのまま残って千年が経過した状態と考えられ、不老不死の薬とみなされていた」

なるほど、「白髪三千丈」の中国らしい壮大な時間の物語だが、サルノコシカケ科(今は「多孔菌科」というらしい)なら木材腐朽菌ではないか。マツタケは松の根と共生するが、マツホドは一般に伐採後3~5年経過したマツの根に寄生する。

あるいはまた、「松林はさまざまな種のキノコの宝庫として知られる。なかでもタマチョレイタケ(学名polyporus)に属するキノコは、中国では長寿を望む人たちのための優れた薬になるとされている」というくだり。

タマチョレイタケの仲間も多孔菌科。しかし、多くは松ではなく広葉樹に発生する。夏井川渓谷の隠居の庭にある広葉樹の枯れ木には、仲間の一種のアミヒラタケが出る。要するに、『松の文化誌』が取り上げたキノコは中国止まり、食用よりは薬用に重点が置かれている。

本文中に作者不詳の中国の掛け軸が紹介されている。そこに描かれている松の根元のキノコは、中国では不老不死の妙薬とされている霊芝(マンネンタケ)のようだ。

以上は『松の文化誌』のほんの一部。主題は「松脂」といってもよい。「古代の地中海世界では、松に関しては木材よりも松脂やピッチが重要だった」という。

松の生木から採取した松脂を蒸留するとテレビン油やロジンができる。枯れた松材からはピッチやタールが抽出される。船や道具を長持ちさせる防水・防腐剤であり、接着剤でもあったという。ワイン製造にもしばしば使われた。つまりは、生活のさまざまな場面に松脂が利用されていたのだ。

 本文に松の木から松脂を採った「傷口」の写真が載る=写真。太平洋戦争中、夏井川渓谷の小集落でも同じようなやり方で松脂採りが行われた。渓谷ではその傷跡が「ハート形」あるいは「キツネ顔」となって赤松の根元近くに残る。本のキャプションにはⅤ字形の「猫の顔」とあったが、どう見てもネコの顔には見えない。

 12年前に北欧を旅行し、ノルウェーのフィヨルドを楽しんだあと、ヴォスの教会を訪ねた。石造りだが、塔だけは板張りだった。全体が板張りの教会もある。その写真が紹介されていた。材は松、松タールで全体がコーティングされている。塔がなぜ黒すんでいるのか、がよくわかった。

この本のポイントは「松の木から作る製品は、鉱油や石油化学製品が開発される以前の世界では、防腐剤や溶媒として必需品だった」(序章)。そして、「将来には再びその利用価値に注目が集まる日がくるだろう」。これに尽きる。

2021年2月23日火曜日

庭に春がきたと思ったら

        
 土曜日(2月20日)の夕方から体調を崩し、日曜日は午後を除いてあらかた床に就いていた。風邪の原因物質が腸にきたらしい。この間、といっても2日間だが、飲むのを控えた。月曜日のきのう(2月22日)、目覚めると汗をかいていた。それで頭も体もすっきりした。

きょうは一日遅れの日曜日――。そう自分に言い聞かせたとたん、週明け最初の「燃やすごみの日」なのに、ごみネット出すのを忘れた。カミサンが代わって出した。そのことを言われて初めて気がついた。

 普通に朝ご飯を食べ、普通に“在宅ワーク”を始める。先日、明治28(1895)年に、江名・豊間・薄磯・沼之内まで虎列刺(コレラ)が蔓延したため、沼ノ内に隣接する平・下高久で大字の有志が発起人になり、鎮火祭式と大般若経転読会(え)を執り行って大字内の安全を祈った、という史料を紹介した。

その流れで『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」を読み返していたら、幕末から明治にかけて活動した医師の一人に、同じ高久の「青島貞」がいた。

それに気づいて間もなく、下高久に住む同じ名字の後輩がやって来た。聞けば「本家の先祖」だという。そこからいろいろ“取材”を進める。漢方医だった。本家は後輩の家の隣にあった。ルーツは武田信玄~徳川家康とつながり、笠間藩にも関係するらしい。

後輩の家には「薬箱」だけが残っている。それはそれで貴重な遺品だ。家系図があるようだから精読して教えてほしい、ついでに薬箱の写真を撮らせてほしい、と頼む。ちょうど後輩の畑からもらってきた白菜が漬かったので、二切れを進呈した。

彼が帰ったあと、あらためて『いわき市史』を読んだ。青島貞がもう2カ所に出てくる。明治の初期、磐前県病院が平にできる。この病院で、コレラ鎮めに関係した下高久の松井玄卓(謹)らとともに、青島貞が医員として勉学した、とある。さらに、「医術をもって官庁および官公立病院に奉職したものは、無試験開業を許された」とあって、そのなかの一人として青島貞が紹介されている。

きょうはここまでだが、いい宿題ができた――。私の調べものはいつも、なにかの途中に即興で始まる。宿題がエンドレスなので、なにもやることがない、ということがない。

夕方は「一日遅れの日曜日」という理屈で、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行った。若だんなが目を丸くして、「きのう(日曜日)だったら、カツオはなかったんです。吉田さんがきたら、どうしようかと思っていました」という。いやあ、一日遅れでよかった、今回は。

家に帰ると、庭のジンチョウゲが開花しているのが目に留まった=写真。スイセンも何輪か咲いた。確かにきのうは山田町で最高気温が22.5度に達し、早いうちからヒーターと石油ストーブを止めた。この陽気に誘われて、一気に庭にも春がきたのだ。

ジンチョウゲの花に近づくといい香りがした。色と香りが戻ってきた。2週間ぶりのカツオの刺し身が、3日ぶりの焼酎がうまかった。

きょう、2月23日は天皇誕生日。実は去年(2020年)からそうなっていることを忘れていた。祝日が増えたわけではない。その分、得をしたような気分で、家で静かにしていようと思う。きのうの春から一転、気温が急降下し、日中は10度前後で推移するらしいから。あす(2月24日)はさらに気温が下がるという。風邪がぶり返さないようにしないと。

2021年2月22日月曜日

ブリとイワシの刺し身

        
 東北地方の大地はまだ安定していない。東日本大震災から10年もたつのに、余震が続いている。ここ10日ほどは、暮らしに変化はないものの、2月13日深夜に発生した震度6強(いわきでは5強)の大地震に気持ちが引っ張られて落ち着かなかった。その10日ほどの間におきたことを四つ、五つ――

 地震の翌日、日曜日(2月14日)、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。顔を合わせるなり、「カツオはダメ。開いたら白かった。ブリとイワシとタコがあります」という。「では、ブリとイワシで」

 ほぼ1年ぶりにブリとイワシの刺し身=写真上1=を口にした。自宅と故義伯父の家、夏井川渓谷の隠居の被害を確かめ、片付けをすませたあとの晩酌だけに、カツオとは違った刺し身の味が舌を喜ばせる。ブリは安定したうまさ。イワシは脂がのっていて甘い。カツオがブリとイワシに化けたようなものだが、こうした“誤算”もまた楽しい。

 この日、渓谷の隠居にいると、平上神谷の後輩から連絡が入った。「野生ザルが中神谷に現れた」という。

 いわき市防災メールでは、2月3、4日・平中平窪新町、同6日・平下平窪字曲田、同7日・好間町川中子(かわなご)字古川、同8日・平字九品寺町、同9日・平鎌田字寿金沢、同10日・同字石名坂(その後、平二中付近で人がかまれた)、同11日朝・平幕ノ内字高田、同午後・石森一丁目、同12日・石森二丁目で目撃されている。

 2日後の2月14日、石森山の南端をかすめて中神谷に現れたあとは情報が途絶え、同19日になって若い仲間が「北神谷、水品にサル出現」とフエィスブックに情報を寄せた。と、その二日後のきのう(2月21日)になって、再び防災メールが注意を呼びかけた。北神谷・水品の東隣、四倉町上仁井田字家ノ前で野生ザルが目撃されたという。

今回はたまたま石森山のすそ野あたりをうろちょろしていたので、興味を持ってルートを追い、中神谷に現れるのではないかと推測していた。それをブログに書いたものだから、「上神谷を通り越して中神谷に行った」と連絡がきた。やがては人間の生活圏外へ去って行くにしても、ときどき現れる“はぐれザル”には哀れなものを感じてならない。

 新しい白菜漬けも食べ始めた。茎はしんなりして甘い。まあまあ漬かっている。葉先は? しょっぱかった。霜に焼けて枯れた部分はカットしたものの、それでも死んだ葉が残っていたのだろう。死んだ葉は浸透圧ができない? 一切れを取り出して水分をしぼると、灰色っぽい汁が垂れた。枯れた葉先がとろけてそうなったにちがいない。

 ハクチョウたちも北帰行の準備に入ったのではないか。10年前の3月11日、平・塩~中神谷のハクチョウたちは夏井川を逆流してきた津波に驚いて飛び立ち、そのまま北へ帰った。今度の地震ではどうだったか。むろん関連性はわからないが、このところ急に数が減った。夕方、夏井川の堤防を通ると、20羽くらいしか残っていない。半分がちょうどいいタイミングで離水し=写真上2、四倉方面へ飛んで行くところだった

 きのう(2月21日)の日曜日は、刺し身を買いに行くのをあきらめた。風邪で腸炎になったらしく、トイレが近い。食べるのは控えた方がよさそうだ。一時はコロナを心配したが、熱は平熱、咳はない、味もわかる。頭痛も倦怠感もない。風邪薬を飲んで、土曜日夜から日曜日昼まで寝ていたら、汗をかいた。発汗したら、頭も体もしゃっきりしたので、このブログを書いた。けさは平常。一日遅れで刺し身を買いに行く。

2021年2月21日日曜日

内山節に宮沢賢治、の本

                     
 ネットとリアルの両方で古書店を営む若い仲間が、毎日新聞のコピーを持ってきた=写真。「特集ワイド」とある。タイトルは「還暦記者鈴木琢磨の『ああコロナブルー』」。同ワイドにはいろんなメニューがある。そのひとつが「ああコロナブルー」で、ベテラン記者による記事スタイルの連載コラムのようだ。

後日、いわき総合図書館で毎日新聞の綴りを見たが、いわきに届く統合版には「特集ワイド」はなかった。夕刊だけの読み物らしい。

 コロナ禍で在宅勤務になった。神田神保町の古書店巡りができなくなった。散歩がてら、地元の西武池袋線大泉学園駅そばにある古書店「ポラン書房」に通いだした。ここもコロナ禍で2月7日に店を閉じ、ネット通販だけになった、というところから本題に入る。

 若い仲間は記事に登場する古書店主に薫陶を受けた。「ポラン書房」店主は山形県出身の73歳。私と同じ団塊の世代だ。宮城県で育ち、茨城県の大学で学び、いわき市で商売をしている若い仲間は、水戸市でこの店主と出会い、彼の家に泊まりながら、古書業界の裏方の仕事を学んだ。商売の上では師匠のような存在だという。

 古書店主は若いとき、作家小田実らの市民運動(ベ平連)に共感した。大学を中退して、学習塾を開いたが、大手の進学塾に押されて古書業界に転じた。

そのころまでの「古本屋のおやじ」は独特の存在だった。身近なところでは「平読書クラブ」のおやじさんがいる。私自身、10代後半から通い始め、おやじさんが亡くなるまで、付き合いは半世紀に及んだ。

「ポラン書房」には、アニメ映画監督の故高畑勲さんが通った。宮沢賢治関係の本をドサッと買い込んだ。記者は高畑さんの奥さんに、そのへんの話を聴きに行く。さらに記者は、古書店主がコロナ休業中に読んだ、哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店)を読むように勧められる。

 私が記者になって何年かたったころ、公害問題に替わって環境問題が取りざたされるようになった。「人間が自然に立ち入るのを制限すべきだ」と主張する研究者がいた。

 阿武隈の山里で育った人間には、この論調が理解できなかった。自然は自然、人間は人間。人間は自然に立ち入るな――では、林業は成り立たない。木炭を焼いて食ってきた山の民はどうすればいいのか。広く農業は、漁業は? その疑問に明確な答えを出してくれたのが、2歳年下の内山さんの『山里の釣りから』であり、『自然と人間の哲学』だった。

自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の3つの交通から論じている。阿武隈の山里で生まれ育ち、雑木林を遊び場にしてきた人間には、そして結婚後、キノコや山菜を採るようになった人間には、内山さんの自然哲学が大いに納得できた。かつての日本人は自然を利用しながら、自然を守ってきたのだ。

若い仲間はひょんなことからわが家に出入りするようになり、酒が入ると宮沢賢治や内山節の話を聞かされるようになる。東京でも師匠が同じような話をする。団塊の世代に共通するなにかを感じ取って、新聞コピーを持ってきたのだろう。私も、若い仲間と東京の古書店主の関係が具体的にわかってよかった。

2021年2月20日土曜日

震度5強から1週間

                     
 2月13日深夜の大地震(最大震度6強、いわきでは5強)から、きょう(2月20日)で1週間。被災直後は、いわきは棚からモノが落下し、店によっては大きな被害が出たものの、おおかたは軽微ですんだ――そんな程度に思っていたのだが……いわき駅を中心とした市街地は、想像以上にダメージが大きかったようだ。

 いわき市立美術館は、敷地内のガス管が破損したため、きのう(2月19日)、休館した=写真上1。問題個所を特定し、安全を確認したということで、きょうは再開された。同美術館のツイートで知った。実質的には、きょうがいわき市美展(絵画・彫塑の部)の開幕初日ということになる。

 いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」の4・5階に入居しているいわき総合図書館も、ほかの図書館と同様、地震の翌日(日曜日=2月14日)、点検のために臨時休館をした。翌月曜日には再開したが、自動出納書庫内にある図書が取り出せなくなったため、貸し出しは開架図書だけになった。これは木曜日(2月18日)、図書館のホームページで知った。

 私は、ほぼ3日にいっぺんは図書館のホームページを開いて、読みたい本を検索する。あればすぐ借りに行く。その半分は自動出納書庫にある。そこにある図書を借りるには、検索機で呼び出し、カードを窓口に持って行く。すると、5分(冊数が多いときは10分)ほどで本が借りられる。地震でこれができなくなった。

 いわきの中心市街地からは離れるが、内郷・白水町の「みろく沢炭鉱資料館」も、裏山から大きな岩が落下し、資料館裏の鶏舎が一部損壊した。このため、調査をして今後の対応を決めるまで休館することを、ツイッターで知った。

 きのう(2月19日)午後、カミサンが歯医者へ行くのでアッシー君を務めた。図書館を待ち合わせ場所にした。検索機には自動出納書庫の検索はできないという張り紙があった。外部から見学できる自動出納書庫は真っ暗だった=写真上2。

 いつもだと、図書館に入ってすぐ本を返す。それから駐車券にパンチを入れる。それで2時間は無料になる。ルーチンとして体が覚えているはずだが、きのうは返す本がなかった。ただの待ち合わせ場所にした。そのまま入館し、雑誌を読んでいるうちに読みたい本を思い出して、2冊を借りた。

ルーチンが途切れたせいかもしれない。ラトブの駐車場を出るとき、精算機にカードを入れたら、上がるはずのバーが上がらない。しかも、300円の料金が表示されている。なぜだ。図書館で駐車券にパンチを入れるのを忘れていたのだと気づく。オープン時から13年間利用しているが、こんなことは初めてだ。

 たまたま後続車はなかった。が、小銭は午前中、コピーのために使い果たしていた。あわててカミサンから100円玉を3枚借りて“脱出”した。どうやら私も5強の地震で頭にひびが入ったらしい。

 そんな頭でも、10年前に事故を起こした東電福島第一原子力発電所の1号機、3号機の原子炉格納容器内の水位が低下傾向にあるというニュースにはギョッとした。あれ以来、注水して「冷温停止状態」にあるデブリだが、今度の地震で10年前の破損が拡大し、漏水量が増えているのではないか――そんな不安と疑念を抱かせる発表だ。どんな状況なのか、もっと詳しく知りたい。

2021年2月19日金曜日

明治28年のコレラ鎮め

        
   明治28(1895)年6月、小名浜に入港した汽船にコレラが発生し、磐城衛生会はコレラ予防心得を1万枚印刷して配布した(『いわき市史 第6巻 文化』編)。衛生会は、大多数が医師、それに地方有識者が加わった組織で、行政に提言したり、小学校や芝居小屋を利用して衛生講話をしたりしたという。予防心得を配ったのもその一環だろう。

これがコレラ流行の始まりだったのかどうか。「江名・豊間・薄磯・沼之内まで虎列刺(コレラ)病が蔓延した」ため、沼ノ内に隣接する平・下高久地区で大字の有志が発起人になり、「鎮火祭式と大般若経を執り行い、大字内の安全を祈った」。同地区に住む知人からちょうだいした史料の解読コピー=写真=に、そんな意味のことが書いてある。「旧7月5日」(新暦では8月24日=土曜日・大安)と史料にあるが、その日に祈祷が行われたのだろうか。

 コロナ禍に苦しむ現代人と同様、ざっと125年前の郷土の人々もコレラの感染におびえ、予防策を講じる一方で「疫病退散」を祈願した。

予防策を指導したのは、知人の先祖で医師の松井玄卓(謹)らだ。玄卓は磐城平藩安藤家の医師だった。知人が解読した玄卓の肖像画の「履歴」から明治以後の部分を抜粋する

――私(玄卓)は明治4(1871)年、命令によって下高久村に帰農し、平町病院設立の際、西洋医術を修業した。同10(1877)年、西南戦争の際に応召して宇和島を守った。同15(1882)年9月、江名村でコレラが流行したときには、治療と衛生委員兼務を命じられた。本年(明治39年)65歳、今なお下高久で医術を開業している――

玄卓、そして明治のコレラ流行に関する記述を、『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」から紹介する。

松井家11代玄卓についてはこうある。「元治元年、江戸の漢法医渡辺吉郎(米沢藩医)に学び、江戸から帰り慶応3年6月藩医を命ぜられた。明治元年6月輪王寺宮(北白川宮能久親王)が会津へ下向の時は、警衛医として出張した。五人扶持、独礼次席番医で、明治2年11月15日家督を相続した」。本文に掲載の系図によると、大正3(1914)年7月18日に亡くなっている。

明治6(1873)年4月、平・一町目に「磐前県病院」ができたときには、玄卓もここで医員として勉学した(玄卓の「履歴」に「平町病院」とあるのがこれか)。

 コレラは、いわき地方では①明治12(1879)年9月、四倉で流行し、死者多数が出た②同15年、江名村にコレラが流行し玄卓が、山田村では小宮山精順が検疫に活動した③同19年には小浜で流行した――。

そのあと、冒頭に記した明治28年のコレラの流行が始まる。日清戦争に従軍した兵士や軍役夫がコレラに感染して帰還し、最初は広島で、やがて主に船と港を介して全国に広がった。

「大般若経」は「大般若経転読会(え)」の略だろう。コロナ禍の現代も災害絶滅・疫病退散・無病息災などを願って、大般若経転読会が行われている。

「安全」は予防や治療といった科学(医学)が担保するが、「安心」はそれだけではカバーできない。原発事故のときがそうだった。医学も医療技術も今ほどでなかった時代、必死に神仏に祈った先祖たちの心根を愛(いと)おしくさえ思う。