2025年10月3日金曜日

内水ハザードマップ

                                            
 「内水はんらん」という言葉を聞いたのは、令和元年東日本台風のときだった。

 雨水は側溝を伝って川に排水される。これが間に合わなくなるほどの大雨になると、下水道のマンホールのふたも浮き上がり、雨水が噴き出して道路が冠水し、やがて家屋にも浸水する。

 2019(令和元)年10月、台風19号がいわき市を直撃し、支流の好間川・新川を含む夏井川水系に大きな被害をもたらした。

 わが行政区はさいわいこれといった被害はなかった。側溝から水があふれ、道路も一部冠水したものの、通りが川のようになることはなかった。

 ところが夏井川沿いにある、少し上流の行政区では一部、建物に浸水被害が出た。川が増水して側溝の水を吐き出せなくなって、内水はんらんが起きたのだ。

 イメージとしてはこういうことだろうか。内水の「内」は堤防の内側、つまり堤防で守られている住宅や田畑があるところ。

 堤防から水があふれたり、堤防が壊れたりして川の水が流れ込む洪水とは異なる。堤防は大丈夫だったのに、川に吐き出せずに浸水した、ということだろう。

 いわきの中心市街地(いわき駅前周辺)に行った帰り、夏井川の堤防をよく利用する。内水はんらんの話を聞いた直後、どこで、どの排水路で水があふれたのか、注意しながら戻った。

 1カ月前の9月1日。回覧資料として「内水ハザードマップ」を区内会に加入する全世帯に配布した。

わが行政区は平地区版②(中神谷、塩、鎌田と隣接の草野・泉崎、下神谷)に該当する。

おおざっぱにいえば平市街の東方、北は常磐線、南は夏井川にはさまれた平野部(大昔は氾濫原)の内水ハザードマップで、想定される浸水の深さを、水色(5~20センチ)、黄色(20~50センチ)、桃色(50センチ~1メートル)など、6段階の色で表示している=写真。

わが行政区は旧道沿いと、それと交差する細道が水色、住宅地の一部が黄色、桃色がスポット的に2~3カ所あるほかは、おおむね白地図のままだ。

前に古本屋から地形分類図が載った『土地分類基本調査 平』(福島県、1994年)を購入した。

夏井川流域のうち、北は渓谷の江田、東は新舞子浜、南は常磐・水野谷、西は三和町渡戸を範囲にした地形分類、傾斜区分、表層地質、土壌、土地利用現況の五つの地図が添付されている。

わが家のあるあたりは目の前の道路を含めて夏井川の旧河道、向かい側は谷底平野だ。大雨が降ると歩道がたちまち冠水するのはそのことと関係しているのかもしれない。

1時間に120ミリの降雨を想定しているが、これは絵空事ではない。9月11日には東京都目黒区で1時間に134ミリという猛烈な雨が降った。

いわきでも一昨年(2023年)9月、台風13号に伴う線状降水帯が大雨をもたらし、主に新川流域の内郷地区で床上・床下浸水が相次いだ。

今までの経験則は通用しない。内水を含めた浸水の危機意識をアップデートしなくては……。

2025年10月2日木曜日

梨木香歩の本

                                             
 新聞かなにかで作家梨木香歩の名前が目に止まり、久しぶりに彼女の本を読みたくなった。

 図書館の収蔵本をチェックすると何冊かあった。そのなかから小説『冬虫夏草』=写真=と、エッセー集『歌わないキビタキ――山庭の自然誌」』を借りて読んだ。

 彼女の小説はどこか怪奇のにおいがする。『冬虫夏草』のタイトルからして怪しい。が、収録短編には同題の作品はない。それらしいものは「サナギタケ」だ。

 主人公は新進作家の綿貫征四郎。湖にボートで繰り出し、そのまま帰らぬ人となった学友の生家の守を頼まれ、その家と周囲の自然が織りなす「椿事(ちんじ)」の数々をつづっている。

 いずれも物語としては短い。「サナギタケ」では、菌類研究者として大学に残った学友が綿貫を訪ねて、山で「サナギタケ採り」に出会った話をする。

 サナギタケは冬虫夏草。とはいえ、漢方で使われる本物の冬虫夏草はコウモリガのサナギに寄生したものだ。

 「幼虫のうちに糸状菌の一種に感染し、菌糸が内部で増殖、ちょうどサナギになったときに体表を突き破って子実体が外へ現れる」。ゆえに冬虫夏草の名が付いた。

日本で発生するのはしかし、本場中国のものとは別種で、それを知っていて集めて売るとしたら大した山師だ――。

という話を受けて、綿貫が家の周囲の松籟(しょうらい)に触発されて書き上げたばかりの文章を菌類研究者に見せる。

「わたし」と「おっかさん」と、体二つに別れてからずっと孤独だった。が、天啓なのか、「お相手」を授かった。孤独地獄とは決別した――。

冬虫夏草の話を聞いて、自分が書いている物語は昆虫界から植物界へ身を転じようとする「幼虫のことば」だったと得心する。

さらに研究者のことばを勝手に受け取って、「異類婚」へと想像を膨らませ、学友が去ったあと、「私は、糸状菌の悲劇的な恋愛について書き進めている」というところで終わる。

 『歌わないキビタキ』の方はノンフィクションである。持病のこと、認知症を患った親戚の女性のことなどにも触れているが、主に信州・八ヶ岳にある山小屋での自然との交感がつづられる。いわゆるネイチャーライティングである。

 ある山小屋の庭は希少な高山植物で「秘密の花園」のようだ。ところが、シカが現れてこれらを食害する。それで、庭には電気柵が設けられた。

 この場違いな電気柵から、シカさえ食べなければ多様な植物たちが仲良く残っているはずだが、シカが増えすぎた、いやこの地球に人間さえいなかったら、というところまで思いが転がっていく。

著者の山小屋の庭もまた高山植物が咲き乱れる。キノコも出る。エストニアではキノコ用のナイフがあって、根元で切る。地中にある菌糸を壊さずに残しておけば、次にまた子実体が現れるから、という話には思わずうなった。

鳥類や植物だけでなく、菌類にも関心が深いところが好きで、梨木香歩の本を読んでいるのだと、あらためて知る。

2025年10月1日水曜日

未明のオリオン座

                                 
   星空の写真を撮るウデがないので、星座のイラストを参考にスケッチしてみた=写真。

朝は、4時半には起きる。6月21日の夏至のころは日の出が4時17分で、外はすでに明るかった。

それから3カ月が過ぎた秋分の日、朝日が昇るのは5時23分と、夏至よりはざっと1時間遅くなった。

秋分の日から間もない9月24日未明、新聞を取り込みながら星空を見上げると、ほぼ南天にオリオン座があった。

スケッチでいうと点線で結ばれた星座で、これをこの秋初めて見た。以来、オリオンの確認が未明のルーティンになった。

真ん中の三つ星を延長した左下にシリウスが輝いている。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星だという。

 オリオンの左上にあるペテルギウスと、その左先にあるプロキオン、そしてシリウスを結ぶ三角形(スケッチの実線)は「冬の大三角」と呼ばれる。

 北の星空で知っているのは北極星と北斗七星、南の星空ではこのオリオンと大三角ぐらいだ。

 床の間に画家松田松雄と書家田辺碩声が合作した色紙が飾ってある。書家の筆になる文章は私が書いた。

「金木犀の匂いと/駄菓子屋と/青白いシリウス/人は気圏の底に/うごめいて/中秋/立待ちの月」

 30代のころは、画家や陶芸家、書家、新聞記者、市職員などが個人の家に集まってよく酒盛りをした。

わが家でも「カツオパーティー」と称してカミサンのPTA仲間が加わり、大人たちが談論しているそばで子どもたちが遊び続けた。

新しく建てられた友人の家で飲み会が開かれたときには、無地の襖に画家が墨で絵を描き、私も即興で1行詩をつくり、書家がそれを絵に書き添えた。

合作した作品2点を額装した。そのうちの1点が床の間に飾ってある。灰色の空と、葉を落とした雑木の雪山、そのふもとを人間が一人歩いている――

秋の文章とはそぐわないが、シンプルで深遠な感じのする絵だ。シリウスは若いころから好きな星である。

去年(2024年)の吉野せい賞(正賞)に沢葦樹さんの「カノープスを見ていた少年」が選ばれた。カノープスは、いわきでは真冬、水平線のすぐ上に現れてすぐ沈む南の星だという。

いわきがカノープスの見える北限というので、カノープスもまたいつか観察してみたい星の一つに加わった。

ついでながら、若いころ取材を兼ねて平の草野美術ホールに入り浸っていた。そこで松田、田辺だけでなく、多くの画家と出会った。

額装された色紙は、今思えば30代前半までくっついていた青春の抜け殻のようなものだ。

先日たまたま駅前大通りから南町の通りに入って、草野美術ホールがあった3階建てのビルをながめた。事務所でよく酒を飲んだことを思い出した。

これは、いわば追記――。9月最後の日、目覚めが4時50分になった。急いで庭に出ると、空はうっすら青みがかっていた。シリウスだけがかすかに光っていた。夜明け前20分、わずかの時間で星は消える。

2025年9月30日火曜日

新聞で脳活を

                                              
   カミサンが移動図書館から借りた本の中に、石川久『70歳からの脳が老けない新聞の読み方』(アスコム、2025年)があった=写真。

著者は脳神経外科医で、1万人以上の脳を診てきた経験から、新聞には脳活効果があるという。そのノウハウを紹介している。

新聞記者をしていた経験からいうのだが、認知症予防の視点から新聞を考えたことはなかった。

しかし、原稿用紙に記事を書く「新聞記者」が、キーボードを打つ「新聞打者」になってから、書くことをやめたら脳は退化する、という思いが消えない。

で、ブログは晩酌をやりながら下書きをして、翌朝、キーボードをたたいて仕上げる。下書きの素材はやはり、備忘録を兼ねた手書きのメモ(日記)である。前に、「スマホ脳」に絡めて次のようなことを書いた。

――私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。

人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。それを避けるために、意識して実践しているのがメモの手書きだ。

在宅ワークが基本なので、パソコンのわきにA4判のメモ用紙(新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面)を常備している。朝から夜寝るまで、見たこと・聞いたこと・感じたこと・考えたことをメモし続ける。

日常を記録することで、日常に埋もれているニュースを掘り起こすこともできる。一種の自己鍛錬として、これを10年以上続けている。

 書くことは肉体的な行為だ。書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってもよい――。

 とにかく、書くことが脳活になる。経験的にそう認識していたのだが、さらに新聞を読んで考えるだけでも脳活になる、という指摘にはおおいに勇気づけられた。

 たとえば、①記事に登場する人物の名前を探してどんな顔だったか思い浮かべる②興味のあるキーワードを探して読み込んでみる③声に出して読む④見出しを手がかりにイメージを膨らませる⑤一つの記事の中で一番画数の多い漢字を探す――。

 さらに、掲載写真を細かいところまで観察して模写してみる、広告を隅々まで読んで引かれたコピーを探す、もある。

 これらを実践することで脳活になる。具体的には、短期記憶力、集中力、基礎思考力、意欲、注意力がアップするという。

 パズルの脳活効果もバカにできないとか。パズルが解けると、脳からドーパミン(快楽ホルモン)が出る。ドーパミンはやる気を引き出す。

 なるほど、新聞に数独が載り、それをやり始めるとネットのナンプレにまで手が伸びるのは、快楽ホルモンのおかげだったか。

要は、好奇心。これを持続することで老化のスピードは抑えられるということなのだろう。

2025年9月29日月曜日

秋の衣食住に

                                
 秋の彼岸に合わせるように、夏から続いていた酷暑がひとまず去った。日が沈むと涼しくなり、夜が明けるとひんやりしている。

 若いときはそのくらいの寒暖の差は平気だったが、後期高齢者になった今は、鈍感ではいられない。風邪は万病のもと。用心、用心――となる。

タオルケット1枚だった寝具に、薄い夏用ふとんを掛けて、背中が冷えないようにする。上は下着の丸首シャツだけだったが、今は長そでのパジャマが加わった。

晴れた日中も室内にいると、半そでシャツでは腕が寒く感じるときがある。で、秋の彼岸の墓参りを機に、上着も長そでに替えた。

晩酌のおかずも変わった。冷製味噌スープが熱々の味噌汁に戻り、前夜の残り物(焼き肉など)も、冷製ではなくチンして食べる。チェイサー用のポットの水も氷なしになった。

つい先日まで、暑いときには一日に2本は食べていた「ガリガリ君」も、この何日かはごぶさただ。

暑さがちょっとぶり返した土曜日(9月27日)に小さいガリガリ君を食べたものの、あらためてまとめ買いすることは、今季はもうないだろう。

茶の間のガラス戸も、玄関の戸も、いや窓という窓は全開していたのが、庭が暗くなる時間に合わせて、早めに閉めるようになった。扇風機も止めている時間が長くなった。

昼間から家に入り込んでいた虫たちは、(戸閉めが早くなったためかどうかはわからないが)朝になると棚や畳の上で横たわっていることがある。

なんという蛾、なんという蝶なのか。翅の色や模様がおもしろくて、動かなくなった虫をながめてはネットで検索する。

それが彼岸のあと、蛾、トンボ、蝶と続いた。夏井川渓谷の隠居で回収した虫(たぶんゲジゲジ)のぬけ殻(小瓶に入っている)と合わせて、手元にある「標本」をパチリとやった=写真。

虫たちも短いいのち必死に生きて、たまたま庭の延長のような茶の間に飛び込んで来て、そこで息絶えた。

身元(種)が分かれば庭の草むらに返す。が、それがなかなか判明しない。二つの目玉のような「巴(ともえ)」紋のある蛾は、前にも現れたハグルマトモエかと思ったが、翅の形が違う。標本だから分かったのだが、裏面は鮮やかな赤橙色をしている。

蝶はいまのところお手上げ。トンボはナツアカネか、アキアカネかわからない。識別ポイントは胴体横の黒い帯らしいが、しろうとには同じに見える。

そして、酷暑から普通の暑さに戻った今、これからも要注意なのが蚊だ。庭ではヤブカが大敵だが、夕方になるとイエカが飛び回る。茶の間では朝起きたときから寝るときまで、いや24時間、蚊取り線香が欠かせない。

蚊のチクリがやむのは、近年では11月に入ってからだ。少なくともあと1カ月半は蚊取り線香の世話になる。そう覚悟していた方がよさそうだ。

2025年9月27日土曜日

海岸林がまた茶髪に

                               
 秋分の日は墓参りを兼ねてカミサンの実家を訪ねた。親せきの人が何人か焼香に来る。その応対をしているなかで新舞子海岸(平藤間)の松枯れが話題になった。

海からは遠い二ツ箭山(小川)のふもとに住むカミサンのいとこの話である。最近、海岸道路を通って驚いた。「なんだい、あれは。また松くい虫にやられたんでねぇべか」

私もびっくりしたばかりだった。秋分の日の2日前、日曜日に夏井川渓谷の隠居から泉ヶ丘、薄磯と巡って、四倉までカツオの刺し身を買いに海岸道路を利用した。

「なんだ、この『茶髪』は」。やはり異常な松枯れの連続に驚いた=写真(助手席からカミサンが撮影)。

 もう何十年も前になる。松くい虫にやられて海岸のクロマツが「茶髪」になった。被害の拡大を防ぐため、何年かヘリコプターで薬剤散布が行われた。やがて市民の間から反対運動が起き、ヘリによる防除は中止になる。

これが、記憶にある最初の松枯れだ。次は14年前、2011年3月11日に発生した東日本大震災による「塩害」でクロマツが枯れた。

巨大地震に伴い、東北の沿岸を中心に大津波が襲った。いわきでも豊間・薄磯を中心に甚大な被害が出た。薄磯の北方、沼ノ内~四倉のクロマツ林も波をかぶった。

 すると次第にマツが枯れ始め、あちこちで「茶髪」になった。植物の先生によると、津波の塩分を根から過剰に摂取したために、浸透圧によって脱水症状をおこしたのが原因らしい。

 枯れた松は伐採・切断され、見晴らしのよくなった跡地には松の苗木が植えられた。津波被害が甚大だった久之浜や薄磯、豊間などでは防災緑地が築かれ、やはり苗木が植えられた。

 地元では新舞子のクロマツ林は「道山林」と呼ばれている。由来は江戸時代初期、上総から磐城平に移った内藤の殿様(法名「道山」)が、海岸近くの田畑を守るために松を植えたことによる。

以後、歴代の領主・幕府代官が保護し、明治2年の版籍奉還後は国有林に編入された。

 震災から14年。クロマツの苗木も順調に生育し、一面若い緑に覆われるようになった矢先の「茶髪」である。

この海岸道路は2~3カ月にいっぺん、薄磯のカフェ「サーフィン」の行き帰りに利用している。

前回はそんなに違和感を持たなかったから、最近、急激に松枯れが進んだのではないか。

SNSにはやはり、海岸の松枯れを伝える写真が投稿されていた。それだけ衝撃的な変化だったに違いない。

夏井川渓谷でも松枯れ被害は後を絶たない。30年ほど前、アカマツの大木がやられ、いったん収まったと思ったら、東日本大震災の前後からまた若いアカマツに茶髪が見られるようになった。

新舞子の茶髪も若いクロマツが多い。原因は松くい虫だろうか。それとも、別の何か、だろうか。気になるところではある。

2025年9月26日金曜日

夫婦ユニット

                                  
   前にこんなことを書いた。仕事とは別に、アフターファイブは自分の好きな表現活動に使う。そういう市民が多いまちは楽しい。

文化とは本来、「暮らし方」のことだ。暮らしのなかに演劇があり、音楽がある。市民芸術のすそ野が広いまちに住んでいると心地良い――。

その延長での市民ミュージシャンの活動だ。フェイスブックで「孫」の母親が秋まつりのライブを告知していた。

いつもは女性3人組の「明星」として歌手活動をしているが、今回は夫婦ユニット「平星(へいじょう)」として出演するという。

「孫」の父親も男性2人組の「平凡ズ」としてライブ活動を続け、歌とギターの演奏を披露している。

ふだんはそれぞれ別個に活動しているわけだが、「夫婦共演」は私が知る限りでは初めてだ。野次馬的な興味がわいて、カミサンと聴きに行った。

いわき市平薄磯の海岸に駐車場とつながる形で多目的広場がある。ここで9月21日、「行ってみっぺよUSUISO3地区秋まつり2025」が開かれた。

 ライブではいわきの伝統芸能・じゃんがら念仏踊り、カラオケのど自慢が披露されたほか、市内で活動をしている市民ミュージシャンが歌と演奏を披露した。

「平星」の持ち時間は午後1時半からの30分。この日は日曜日で、夏井川渓谷の隠居で土いじりをする日でもある。泉ケ丘のギャラリーいわきで開かれている吉田重信展も見たい。

というわけで、隠居へは早朝に出かけ、ギャラリーには11時着、そのあとどこかで昼食、午後1時過ぎには薄磯へ。そんな段取りでヤマ(渓谷)~マチ(泉)~ハマ(海岸)を巡った。

薄磯に着いたら北から南へ、海岸に沿って強風が吹いている。楽譜が飛ばされる。テントがグラグラ揺れる。野外のステージは、天気には恵まれたがなかなかスリリングだ。

 夫婦ユニットは、妻が歌い、夫がエレキギターで伴奏するというスタイルで昭和の歌謡曲を披露した。

 なかでも圧巻だったのは、今は「伝説」となった女性歌手の代表曲を歌ったときだ。歌手をまねて顔にほくろ(黒くて丸いシート)を張り、さらに聴衆の間を巡って同じようにほくろを張っていくと、客席に笑いが起き、その笑いが波のように何度も高まり、広がった。

 聴き手も喜んで頬を出す。この一体感を生み出したのは、人を引き付ける話術と率直さだろう。

「孫」の母親は演奏グループの一員として「ダンサー」をやり、「俳優」としても舞台に立つ。それは見て承知していた。

「歌手」としては今回が初めてだった。いやあ、思っていた以上の声量と声質に感動した。本人いわく、夫婦ユニットは「夫婦(めおと)漫才ユニット」。確かにそういう面もあったな。