2026年4月15日水曜日

老人・吉本隆明

                                             
   詩人にして思想家・評論家、吉本隆明(1924~2012年)は、団塊の世代にとっては「知の巨人」だった。

詩集では「固有時との対話」「転移のための十篇」など。論考では「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」など。20歳前の若者には、難解ながらなんとかくらいついて読み解こうとする重要なテキストだった。

長い髪を切り、背広にネクタイ姿で社会に出るといつしか遠ざかり、時折、メディアに載る文章を読む程度になった。

ついには訃報に接して驚いたが、その前に海でおぼれて死にかけたという新聞記事を読んだ記憶がある。

娘が2人いて、長女は漫画家(ハルノ宵子)、次女は小説家(吉本ばなな)になった。

難解な思想に挑んだときからすでに半世紀以上。なにかの拍子に87歳で亡くなった「知の巨人」の晩年に触れて、ハルノ宵子の『隆明だもの』=写真=を図書館から借りて読んだ。

雲の上の詩人は、娘からみると「ただの老人」でしかなかった。体が衰えていくさまを時系列的に並べると、こんな感じだった。

「父は前年に西伊豆の海で溺れて死にかけ、それをきっかけに眼も脚も急激に悪くなっていった」(注=「前年」とは1996年のこと)

「2000年代前半、父の眼はいよいよ悪くなってきていた。『糖尿性網膜症』だ。(略)糖尿はそもそも毛細血管がボロボロなのだから、はるかに進行が早い」

詩人の「その兆候」も同じころに始まる。「ある深夜、父が書斎の机の前にゴロンと寝転がっていたので、真冬だったし『カゼひくよ、ちゃんと寝た方がいいよ』と声をかけると、『ああ……キミか、オレ今どこにいるのか分からないんだよ』と言う」

それが最初だった。海で溺れたのが72歳。「その兆候」があらわれたのは80歳になったあたりらしい。

老いれば体のあちこちに不具合が生じる。不具合は1人ひとり違う。「知の巨人」が糖尿病からくる不具合に苦しんでいたとは。

病気は病気を呼ぶのか、「足は糖尿病の血行障害で冷えるので、5本指ソックスに部屋履きの2枚重ねで過ごしていた」というあたりになると、だんだんこちらの防寒対策と重なってくるところがある。

老いを、本人は独特の言い回しで表現している。「老人はなにかというと、人間じゃない、『超人間』だと理解するんです。動物と比べると人間は反省する。動物は反射的に動く。人間はそうではない」(『老いの超え方』朝日新聞、2006年)

「超人間」という物言いは、いかにも「知の巨人」らしい。が、どう解釈すべきか迷う。「超人間」と言われても、老いてよれよれになった生身の人間の姿しか思い浮かばない。

ただ一つ、うなずいたのは「修練」についての言葉だ。「本当にいつでも机の前に座っている人は、別に特別な才能やひらめきがなくても、持続的にやっていると衰えないと思います」。老いはだれもがたどる道だが、この修練=持続には元気が出た。

2026年4月14日火曜日

令和7年度ガン・カモ調査

今年(2026年)1月11日現在でいわきにはハクチョウなどの水鳥が何羽いたか――。

令和7年度のガン・カモ調査結果がまとまり、日本野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」第170号(4月1日発行)に掲載された。

それによると、支部分担15地域合計で2896羽が観測された。前年よりは544羽増、前々年に比べても574羽増だった。

 一斉調査日には支部から延べ27人が参加した。ちょうど寒波が南下したタイミングだったという。

 寒波襲来の直後には珍しい鳥が見られることがあるらしい。沼部(鮫川)と平・塩(新川合流部の夏井川)では、アメリカコハクチョウ(コハクチョウの亜種)、四倉漁港ではコクガンの若鳥が確認された。

特筆すべきこととして紹介されている事例にうめいた。今回「ついに」コサギが確認できなかったというのだ。

コサギはいわきでも水田や川で普通に見られるサギだ。「近年減少傾向」にあったそうだ。

日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~中塩~平窪と小川の水田地帯を通る。

サギ類がよく水田を歩いているが、それはくちばしの黄色いダイサギかチュウサギがほとんどだ。くちばしの黒いコサギは、言われてみれば確かに1、2回しか見ていない。

調査の目玉ともいうべきハクチョウはどうか。コハクチョウは平・塩122羽、三島(小川)85羽、鮫川の沼部30羽で、夏井川で一番歴史のある平窪~愛谷堰は13羽だった。

日曜日のたびに三島を通り、マチからの帰りにたびたび塩のハクチョウ=写真=を見てきた人間には、コハクチョウの数字は越冬前半の状況を示したものと映る。このあとかなり渡ってきた印象があるからだ。

オオハクチョウは沼部で30羽、塩で2羽が観測された。鮫川河口のコブハクチョウ3羽は、「留鳥」化したものではないだろうか。

三島では、コハクチョウに寄り添うようにしてよく目立つオナガガモが、今年は観測されなかった。

代わりにというわけではないが、塩には75羽、平窪~愛谷堰には計59羽が飛来していた。

数としては冬鳥のマガモが最多の975羽で、前年の倍を超えた。塩ではなんと628羽も観測された。留鳥のカルガモも664羽と多かった。こちらもマガモ同様、各地に散らばっていた。

平成23年度から15年間のコハクチョウなど4種類の観測数がグラフ化されて載っている。

マガモとカルガモはともかく、コハクチョウと夕筋海岸のクロガモは減少傾向にある。気象変動が人間の生活にもたらす影響は、ガン・カモ類の観測調査からも類推できる。そんな思いで毎年、観測結果を見ている。

※4月12日の追記=三島にハクチョウが1羽残留していた。今年も帰れなかった「エリー」だろう。夏もいるとなれば、なんとか日本の暑さを乗り切ってくれ。そう念じるしかない。


2026年4月13日月曜日

シダレザクラとアミガサタケ

4月12日の日曜日は朝、やぼ用をすませてから夏井川渓谷の隠居へ出かけた。快晴だが「花散らし」の風が吹き荒れていた。

 1週間前はマチのソメイヨシノと渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)が満開だった。アカヤシオは近年になく鮮やかだった。

 次は隠居の庭に2本あるシダレザクラだ。もう満開のはず。満開の花を見ないとシダレザクラに悪いな、というわけで、シダレザクラを目的に渓谷へ車を走らせた。

1週間前はつぼみが赤く膨らみ、5~6輪咲いていたので「開花」を確認した。思った通りに満開だった=写真上1。見事なボリュームに圧倒された。

強風で花びらが空を舞っていた。庭が白とピンクで染まるというほどではない。が、至る所に花びらが落ちている。

花見のあとは畑に生ごみを埋め、ネギの苗床の草をむしって、シダレザクラの樹下を、地面に目を凝らして歩いた。

4月も中旬になると、樹下にはアミガサタケが現れる。春を代表する食菌である。以前は、ここにも、あそこにもといった状態だったが、この2、3年はさっぱり姿を見せない。

出現しても1個か2個だ。今年(2026年)も期待せずに、しかし春のルーティンとして樹下を全部見た。

シダレザクラとアミガサタケが菌根共生をしているとはいえ、いつも樹下で子実体(キノコ)が発生するわけではない。

地下の菌糸網はシダレザクラの枝より先まで拡張したらしい。樹下の外側で発生することが多くなった。

今回も念のために樹下を見たあと、樹下の外側を丹念にチェックした。すると、畑の近くに1個、そこからちょっと離れたところに2個が頭を出していた=写真上2。計3個。これだけでもう舞い上がりそうになった。

それから対岸の森をながめた。アカヤシオはすっかりピークを過ぎたが、木々が芽吹いて早緑色が広がっていた。

これにアカヤシオのピンク、ヤマザクラの薄桃色が混じって、この時期はいつも安野光雅の風景画を思い出す。

畑のはずれでは辛み大根が花茎を伸ばし、花を咲かせていた。このエリアはこぼれ種で芽を出し、ずんぐりむっくりの大根ができるよう、不耕起のままだ。

森を見ても、シダレザクラを見ても、畑を見ても、花、花、花である。自然のサイクルと週1回の人間の休息日が、今年は見事に重なった。

   4月5日に続いて12日も、隠居にいながら花見を楽しんだ(12日はさらに春の恵みも)。 

2026年4月11日土曜日

遺産5億を寄付

              
   4月10日付の福島民報に、田村市の元開業医が遺産5億円余を5団体に寄付したという記事が載った。

 元開業医は大久保悟子さん。令和4(2022)年12月、73歳で亡くなった。生きていれば77歳。私と同年齢だ。

 田村市は平成17(2005)年3月1日、田村郡7町村のうち、三春町と小野町を除く5町村が合併して誕生した。医院はこの田村市の船引町にあった。

私は船引の隣、常葉町で生まれ育った。子どものころ、船引に田村郡選出の県議がいた。大久保俊夫さんといった。悟子さんの父親である。

選挙があると、大人たちの間で大久保県議の名前が取りざたされた。それで早くから県議の名前を知ってはいた。

福島県議の歴代名簿によると、大久保俊夫さんは戦後の昭和22年4月から県議を務め、返り咲いてから11年後の昭和57年7月25日に亡くなっている。

交通事故死だったという。このとき、悟子さんは34歳。すでに医療の道に就いていたはずである。

なぜ彼女のことを知っているかというと、15歳の春、平高専(現福島高専)を受験して合格した中に彼女の名前があったからだ。

1次試験は平市の本校と郡山市の2会場で、2次試験の面接は本校で行われた。面接が終わり、磐東線のSLで帰路に就いた。

船引駅のホームに降り立つと、前を女子中学生が歩いて行く。後日、合格発表を見て、彼女の名前が大久保悟子ということを知った。

今回あらためて当時のいわき民報を読んでみた=写真。石城郡内の合格者には中学校名まで付いている。

私ら郡外の人間は名前だけだったが、合格者の中には入学を辞退した人間が何人かいた。

悟子さんもその一人で、進学校を受験するための「腕試し」の意味もあったのだろう。

ここからは県紙と全国紙の記事を参考にする。彼女は岩手医大を出たあと、郡山市の病院で勤務医になり、のちに独立して船引に医院を開業した。

母親は歯科医。一人っ子で生涯独身だったという。4年前、がんが見つかると、その年の夏には医院を閉じ、法律事務所と相談しながら遺言状をつくり終えて間もなく、自宅で息を引き取った。

15歳の春のとき、ちらりと見た横顔が、60年以上たった今も忘れられない。平高専を受けて合格し、もしかしたら同じ校門をくぐったかもしれない、ただそれだけの一方的な記憶なのに、折々に思い出す。

実家へ帰って船引まで足を伸ばしたとき。郡山の帰りに船引を通ったとき。船引で医院を開業したという風の便りが届いたとき。なんとなく「今、何をして、何を考えているのか」が気にかかる存在ではあった。

寄付団体のなかに日本ユニセフ協会、国境なき医師団があった。はからずも彼女の思想が垣間見えるような遺贈先だ。

親はすでになく、子もいない。それで「墓じまい」もしたという。阿武隈の山里で医療一筋に生きた生涯。その軌跡さえきれいに上書きして旅立ったという印象が強い。

見事な生き方、いやこの世の去り方である。同じ「団塊の世代」の一人として、強くそう思う。

2026年4月10日金曜日

桜とメディア

                              
   いわきの「桜開花」を伝えるメディアの報道が変わってきた。一番の理由は早咲きの河津桜が生長し、濃いピンクの花が視聴者を引き付けるようになったことだろう。

気象庁の「桜開花」発表はソメイヨシノが基本だ。日本列島は南北に長いため、沖縄県や奄美大島はヒカンザクラ(緋寒桜)、北海道は札幌や室蘭・函館を除いてエゾヤマザクラが観察木になる。

本州に住む人間には、「桜開花」といえばソメイヨシノのことだった。いわきの場合は、小名浜測候所(現小名浜特別地域気象観測所)の職員が敷地内にあるソメイヨシノの花を観測して開花を発表した。

無人化されてからは、小名浜のまちづくり団体が元測候所の職員の協力を得て、独自に開花宣言をしている。

毎年、同じ木を観察して、開花日・満開日などを記録する。それによって列島の生物季節的な動きがわかる。旧小名浜測候所の場合は、今の標本木での観測は平成7(1995)年に始まった。

近年は、オオシマヤマザクラとヒカンザクラの自然交雑から生まれた早咲きの「河津桜」に注目が集まるようになった。

常磐共同火力発電所の敷地内に平成17(2005)年、創立50周年を記念して50本の河津桜が植えられた。その桜が例年、3月中旬には見ごろを迎える。

メディアがソメイヨシノを待ちきれずに、この河津桜に飛びついた。21世紀の森公園にも約50本の河津桜がある。こちらもSNSなどを通じて市民が早い開花を知ることになった。

「シン・桜」である。メディアが河津桜の開花を取り上げて以来、ソメイヨシノの開花は、ニュース価値としては二番煎じでしかなくなった。

私もマチ場だけで暮らしていたころには、ソメイヨシノの開花が春到来を告げる桜と思い込んでいた。

夏井川渓谷の隠居へ通い続けて30年余り。マチのソメイヨシノと時を同じくして咲くアカヤシオ(岩ツツジ)を見ているうちに、少し遅れて山を彩るヤマザクラにも引かれるようになった。

ソメイヨシノは花が先行する。が、ヤマザクラは葉と花が同時だ=写真(4月6日、いわき市暮らしの伝承郷)。花が咲くと、それを支えるように赤い若葉が開く。

草野心平記念文学館の奥、小玉ダムの周囲の山々を、私はひそかに「いわきの奥吉野」と呼んでいる。「山笑う」とはこれをいうのだと。

ソメイヨシノは交配によってつくられた園芸種である。花は見事でも、てんぐ巣病にかかりやすい。それもあってか寿命は短い。

「寿命60年」説が言われている。それを裏付けるように、ソメイヨシノの並木が伐採されたところがある。倒木事故もある。

「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」というが、桜を見る人間の気持ちも同じではない。

ソメイヨシノは老いて、もう春の主役ではなくなったのかもしれない。このごろはそんな感慨がよぎる。

2026年4月9日木曜日

門柱の裏側

                              
   篤志家箱崎昇吾翁の親戚だという。後輩のいとこで、埼玉県草加市に住んでいる。わが家の近所に実家がある。翁のことを書いた拙ブログを読み、あいさつと情報提供を兼ねてやって来た。

 専称寺(平)の末寺の大円寺(翁の菩提寺)と、江戸時代、専称寺で修行し、のちに江戸へ出て俳僧として鳴らした一具庵一具(1781~1853年)の話になった。

 まずは翁の善行のおさらい。翁は昭和8(1933)年国鉄を退職すると、退職金をはたいて専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの太鼓橋を架け、大円寺に石門、立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を寄進した。

 さらに同8年から専称寺の境内に梅の苗木を植え続け、足かけ27年をかけて同34年、悲願の1千本を達成した。

 太鼓橋の欄干には俳句が彫られてある。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」。句のわきには小さく「昇吾」とあって、翁は俳句をたしなんだことがうかがえた。

 後輩のいとこからは、さらにびっくりする情報を得た。大円寺の門柱の裏に短歌が彫られているのだという。

 スマホに保存されている写真を見せられた。確かに短歌らしい文字が写っている。なんと書いてあるかはわからない。「字はよく見えないんですよ」。それでも、影をうまく入れて字が見えるように撮ってある。

前に見たとき、向かって左側にある門柱の裏側に、寄進者の名前(翁夫妻)が彫られてあるのがかろうじてわかった。

しかし、反対側の門柱の裏側にある短歌には気づかなかった。字がわかるのは、朝日か夕日が当たって凹面に影ができたときだろう。

専称寺の太鼓橋がそうだった。2月下旬、9時ごろに行くと朝日が斜めに当たり、凹面に影ができていた。それで字がはっきり見えた。

春分の日の前日、墓参りの人が散見される中、大円寺の門柱を見に行った=写真。向かって左側の門柱の裏側には、なるほど何やら文字が彫られている。これが短歌だろう。しかし、字はさっぱりわからない。材質は白御影石(花崗岩)らしい。

太陽がもっと北に移る夏場、朝か夕方、凹面に影ができるかどうか。むろん、それで字が見えるという保証はない。拓本にとるという手もあるが、その技術は持ち合わせていない。

とりあえず門柱の裏側を撮影し、データをパソコンに取り込んで「明るさ・シャドー・ブラックポイント・彩度・色温度」などで修正を加えてみたが、字が浮き出ることはなかった。今のところ、お手上げである。

そこに短歌が彫られていたとしたら、いよいよ翁の内面の一端が見えてくる。市井(しせい)の一生活者がそこまで執念を燃やしたわけがわかるかもしれない。つくづく人間はすごいと思う。

※追記=4月8日の夕方、門柱を見に行った。向かって左側の門柱の裏を見ると、凹面の文字に影ができていた。すべて読み取れるわけではないが、短歌らしい配置になっていることはわかった。短歌の読み解きができたらまた報告したい。

2026年4月8日水曜日

気温20度が目安

                              
   新年度最初の行事として、4月6日、地元の小学校の入学式に臨席した=写真(入学式のしおり)。来賓の顔ぶれは3月下旬の卒業式と変わらない。

 校庭のソメイヨシノがちょうど満開だった。校長先生も式辞の冒頭で、満開の桜の花がピカピカの1年生を迎えたことに触れた。

 前日の日曜日は、目が覚めると少し体が汗ばんでいた。冬物のパジャマはそれで終わりにした。今年(2026年)初めて、小名浜では最高気温が20度を超えて22.1度になった。内陸の山田では23.0度だった。6日も20度には達しなかったが、ストーブなしで過ごした。

 暖気は(寒気も)皮膚の感覚でわかる。室温20度が目安だ。20度だとストーブは要らない。18度あたりがギリギリで、それだとチョッキの着脱くらいでなんとかなる

 この冬は夜、「あったかソックス」をはいて床に就いたので、湯たんぽなしですんだ。そのソックスも数日前からはいていない。はかなくても足の冷えが気にならなくなった。

 4月に暦が替わると、少しずつタケノコの皮をはぐように、服装を冬物から春物に切り替える。上の下着は長袖から半そでに、ズボン下も熱がこもるので脱いだ

 上着もそうだ。厚手のシャツでは熱がこもる。シャツの一番上のボタンをはずし、体温が外気温に触れやすくすると、こもっている熱が抜けた。

 夜は夜で、お湯割りで焼酎をなめるとすぐ上半身が汗でにじんだ。これも間もなく水割りに切り替える。

車で目撃したマチの光景だが、若い人がデニムのジャンパーを脱ぐとTシャツ1枚だった。翌日も半そでの人が何人かいた。

若い人と違って、高齢者は寒暖の波にはすぐ乗れない。それで気温と服装が微妙にずれる。でも、もう4月だ。寒の戻りはあるにしろ、極端な寒さはないだろう。

ひと冬世話になったハンドウォーマーも、座卓のわきに置いたままにしている。しかしまだ片付けるまでにはいかない。

 パソコンを開いてキーボードに触れても、手のひらがひんやりすることはなくなった。車のハンドルは太陽に熱せられて、素手ではやけどするくらいに熱く感じるようになった。ハンドルにタオルを掛ける日も近い。

庭の緑も日増しに濃くなり、花を付けてきた。この暖気に誘われて、朝、歯を磨きながら地面に目を凝らす。

6日には初めてヤブガラシの芽を摘んだ。ミョウガタケが地面を突き破る気配はしかしまだない。

 4月に入ってホッとしているのは、灯油の使用がぐっと減ったことだろう。このまま石油ストーブをつけずにすむといいのだが、そうはいかない。7日の夕方には寒が戻って、ストーブなしではいられなかった。

今度の原油高騰、それに関連するガソリン・灯油その他の急騰は原因がはっきりしている。理不尽を、横暴を忘れはしない。

春の到来はそうしたなかで、灯油の消費を抑える。これだけは一筋の光のような思いになる。