大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。
惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。
規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。
佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。
6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。
この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。
新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」
あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。
小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。
そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。
――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。
火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。
黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。
パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――。
常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。
あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。