2013年12月31日火曜日

1年が終わる

1年が終わろうとしている。きのう(12月30日)午前、行政区内約340世帯に配る「広報いわき」1月号と回覧資料を振り分け、役員宅に届けた。その間にカミサンはわが仕事場(茶の間)の掃除をし、正月の飾りつけをした。床の間にかがみもちと花が飾られ、掛け軸が大黒さまの縁起物に代わった。午後は年賀はがきの文面を考え、プリンターで印刷した。

今年はいつになく忙しく過ごした。去年の師走に体調を崩して、3カ月ほど自宅に“入院”した。4月には2年先延ばしにしてもらった区長兼行政嘱託員の仕事が始まった。それと並行して、4~7月まで週一回、待ったなしの仕事に追われた。ペースをつかめるようになったのは、6月後半になってからだろうか。

それとなく見守ってくれる人たちがいる。15歳で出会った朋友たちもそうだ。3月、いわき市常磐の白鳥山温泉で快気の宴を開いてくれた。5月、夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)に集結した。7月には京都・奈良の“修学旅行”を楽しんだ。お茶屋で舞妓さんとじかに話し、奈良では東大寺の大仏様=写真=に手を合わせた。それだけではなかった。11月にも会津・芦ノ牧温泉につどった。いい息抜きになった。

体調を崩してから6月までの間、ブログはとどこおりがちだった。朋友の一人から、朝・昼・晩、アップしているかどうかチェックしていたといわれて、7月からは以前のように毎日書くことにした。朋友たちには「生きているよ」というメッセージになる。晩酌のあとに文章を打ち、朝に整理して投稿するという一日のリズムが戻った。

さて、日々の暮らしの中でときどきかみしめる言葉がある。一つは、宮沢賢治の「農民芸術概論・序論」にある<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>だ。3・11を経験して世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実の目標になった。

もう一つは、ウージェーヌ・ギュヴィックというフランスの詩人の短詩。10代のときにノートに書き写しておいたものだ。「生命は増大すると/ひとがぼくらにいうとき、それは/女たちの肉体がもっと大きく/なることではない、木々が/雲の上に/そびえはじめることではない、/ひとが花々の最も小さなものの中へ/旅行できることではない、/恋人たちが愛の床に幾日も/とどまっておれるということではない。/それはただ単に/単純に生きることが/むつかしくなるということだ。」

それから半世紀。介護保険料を払わないといけない年齢になってみると、意識せずとも暮らしは単純なものになっていた。やることが絞られてきた。それは時間が矢のように過ぎるからだ。比喩ではない。開き直って、シンプル・イズ・ビューティフルと言ってみる。そうだったらいいかな、という気になってくる。では、よいお年を!

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