2014年10月17日金曜日

『長い竹藪」再び

 震災直前の平成23(2011)年3月2日に小欄で次のようなことを書いた。
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 草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)に着いたあと、「ガソリンカー」に乗り換え、ふるさとの小川へ向かう。赤井、小川郷と駅は二つ。途中、左手に三野混沌・せいのいる好間・菊竹山の一本松が見える。

 心平は回想にふける。「北海道釧路弟子屈の開墾地での苦闘の果ての失敗から。女房の骨壺をリユツクに背負い。帰つてきた猪狩満直とこの道をとほり登つていつた。/その時三野の小舎のなかには。蜜柑箱の上に死んだばかりの子供の位牌があり。香爐代りの茶箱の中の灰には線香が二三本ささつてゐた。」

 ガソリンカーは赤井駅に止まって発車する。赤井と小川の境の切り通しが近づく。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」。下小川の「長い竹藪」は今も夏井川の両岸を小川郷駅の方へと伸びている。真竹のようだ。自然繁殖をしたのだろう。竹林内はうっそうとして暗い。(以下略)
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 いわき市立草野心平記念文学館の「山村暮鳥展―磐城平と暮鳥」図録(2005年)に、暮鳥だけでなく盟友の混沌・せい、満直らの略年譜が載る。満直が北海道から戻り、混沌・せいの次女梨花が急性肺炎で1歳に満たないいのちを閉じたのは昭和5(1930)年の暮れ。

 細かくみると、心平は11月、前橋での生活を切り上げて小川へ帰郷する。満直一家の帰郷は12月29日。梨花が亡くなるのは翌30日だ。そのとき、混沌は36歳、せい31歳、満直32歳。心平は27歳だった。

 心平は、昭和45(1970)年8月号の「歴程」三野混沌追悼号にこう書いた。「猪狩の川中子と三野混沌の好間と自分の上小川と、ひょろ長い三角形になる」。暮鳥のまいた詩の種に由来する“文学地理”だ。その延長で、作品だけでなく、作品が生まれた風土、風土が作品に与えた影響について関心を抱いてきた。

「いつもと同じ」小川の「長い竹藪」は、今も変わらない「故郷の入口」の風景と言ってよい。その長さを写真でどう表現するか。プロではないから、なかなかアイデアが浮かばない。先日はたまたま車で下小川を走っているときに、跨線橋の上から線路と竹藪を撮ることを思い立った=写真。

前よりは立体的になったが、夏井川が蛇行していて竹藪に奥行きがない。知人のカメラマンの文章に「習作」という言葉があった。これも、もっといい写真のための習作、「へたな写真も数撮りゃ当たる」精神でいくしかない。

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