平六小の裏山に旧神谷(かべや)村の忠魂碑が立つ。3・11に被害を受け、倒壊の恐れが生じたことから、神谷地区区長協議会が旧遺族会などから寄付を募り、業者に頼んで修復工事を進めた。工事が完了し、日曜日(5月26日)に新旧区長が参加して慰霊祭と開眼供養が行われた=写真。
神谷地区は8つの行政区からなる。区長協議会はつまり8人構成で、この4月に5地区の区長が交代した。忠魂碑修復事業については旧区長の手で最後まで――ということらしく、新米区長は仕上げの慰霊祭に列席するだけですんだ。
昭和26(1951)年に発行された『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年に建立された。138柱の殉国の霊眠る、とある。138柱のなかには昭和の戦没者も含まれているのかどうか。土地っ子ではない新米区長には、詳細はわからない。
本来、この種の事業は遺族会が中心になって行うものなのだろうが、神谷の場合は遺族会に「旧」がついている。遺族にとっては大事なよりどころの一つである。コミュニティの中核をなす区長協議会としては、ほかに受け皿がない以上、窮状を座視するわけにはいかない、となったのだろう。
4月、区長になって初めて、山中にひっそりと立つ忠魂碑が地震被害に遭ったのを知った。同時に、みえないところで汗水を流してきた人たちがいることも知った。コミュニティはこうしたボランティア精神の発露と積み重ねによって維持されているのに違いない。そんな感慨がわく慰霊祭でもあった。
1 件のコメント:
コミュニティ再建には3年が限度と聞きました。
インフラが再生しない、商店が再生しない、雇用が再生しない、子供が戻らない。高齢社会になり超過疎の終末期を迎える。
地域密着のコミュニティ維持は、社会の再構築を継続しているのではないでしょうか?
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