2026年9月30日水曜日

熱帯原産の毒キノコが定着?

                                               
   秋の長雨は、キノコにとっては目覚まし時計のようなものだろう。食べられるキノコ、毒ではないが食べてもまずいキノコ(不食菌)、そして毒キノコも同時に発生する。

9月25日付のいわき民報に、いわき市内の公園で毒キノコが多発している、市が食べないよう注意を喚起している、という記事が載った=写真。

毒キノコは熱帯原産のオオシロカラカサタケである。このキノコの存在を知ったのは6年前。やはり、いわき民報を介してだった。

それを取り上げたブログ(2020年9月24日付「毒キノコが南からやって来た」)がある。注意を呼びかけたのは、いわきキノコ同好会の会長だった故冨田武子さんだ。

冨田さんはいわき市内の中学校美術教諭を定年で退職したあと、画家として制作活動に励み、ボタニカルアートなどを手がけた。

菌類にも造詣が深く、いわきキノコ同好会発足時から会長を務めた。私も当初からの会員で、冨田さんから多くのことを学んだ。

オオシロカラカサタケについても、冨田さんから教えられた。いわき市内ではこれまで、ハウス内での発生は確認されていたが、野外では未確認だった。

それが、泉町の住宅の庭やナス畑でも発生が確認された。中毒例が非常に多いキノコだという。

地球温暖化の影響で、今まで姿を見せなかった南方系のいきものが、いわきの海で、山野で確認されるようになった。オオシロカラカサタケもそのひとつだ。

それからざっと2カ月後のブログでも触れている。冨田さんは画家として月に1回、いわき民報に「いのちを描く――ボタニカルアートの世界」と題して、絵と文章を寄稿していた。

いわき市泉町のアートスペース泉で開かれた冨田さんの「ボタニカルアート展」を見た。その観覧記である。

いわき民報に載った植物やキノコは印刷の制約もあってモノクロだが、原画は鮮やかなカラーである。

植物の花やキノコが精密なタッチで描かれていた。同時期に咲く野の花とキノコを組み合わせた作品には、冨田さんの自然環境への思いがこもっていた。

なかに、オオシロカラカサタケの作品があった。「キノコでは、それが一番新しい作品」ということだった。

いわきキノコ同好会は会員の高齢化と退会が続いていたことから、2024年師走の総会で、1年後の総会を最後に解散する、会報も第30号を発行して終わりにすることを決めた。

解散を決めた総会から季節がひとつ巡った2025年4月、冨田さんが亡くなった。第30号は会長追悼号に替わった。

いわきキノコ同好会は、菌類の調査・研究だけでなく、毒キノコによる食中毒の予防にも力を入れた。

今度の市の発表を知って、市民団体が解散したことによる空白、いや穴の大きさを感じている。

冨田さんがいたら、もっと詳しく、もっと具体的に注意を喚起したのではないだろうか。

2026年9月29日火曜日

テレビ桟敷

                                
 大相撲秋場所は大の里の優勝で終わった。横綱・大関は圧倒的に強い――。子どものころに刷り込まれた印象は、しかし近年薄れつつあるようだ。

 賜杯は横綱の手に渡ったものの、大の里と優勝を争った安青錦を除く大関陣は9勝6敗、8勝7敗と、かろうじて勝ち越した、という危うさ。

 そのなかで藤ノ川や兄弟の朝紅龍・朝翠龍ら小兵力士が観客をわかせた。藤ノ川は一時、優勝争いに食い込んだ。美(ちゅら)ノ海との一番=写真=は星を落としたが、終わってみれば2人とも敢闘賞に選ばれた。

 大相撲はNHKが生中継をする。晩酌は、前は5時半ごろに始めたが、最近は5時前には準備を終える。「早くすませて早く寝る」と、へ理屈をこねて始めるのには、大相撲はもってこいなのだ。

 4時半にはテレビ桟敷に陣取り、力士のぶつかり合いに一喜一憂し、合間にグイッとやる。

私が地域紙の新米記者だったころ、週に1回、中面1ページを担当する大先輩がいた。

以前は炭鉱会社の広報担当だったとかで、定年後、好きな文章を書き続けるために再就職した。

「おチャ」ならぬ「おチャケ」の人で、社と同じ通りにある飲み屋で報道部長とよく飲んでいた。

そこへたびたび呼び出された。酔った勢いで大先輩の自宅へ同行し、二次会をやって泊まったこともある。

 大相撲が始まると、決まって大先輩の顔が思い浮かぶ。平日は仕事があるから、大相撲はニュースで見るくらいだが、休みの日には夕方4時になるとテレビを見ながらおチャケを飲む。「これが楽しみなんだ」とよく言っていた。

 「年寄り」と「大相撲」と「晩酌」の組み合わせは、このとき脳裏に刻まれた。それからすでに半世紀。大先輩の年齢を超え、後期高齢者と言われるところまできた。今、大先輩と同じことをしている。

 若いころは、プロ野球はもちろん、陸上競技、水泳、プロレスその他のスポーツをテレビでよく見た。

 今は大リーグもめったに見ない。なぜだろうと自問する。野球だと9回をやってようやく結果が出る。ほかの団体競技も勝ち負けが決まるまでに時間がかかる。

 それに比べると、個人競技の大相撲はせいぜい4~5分で勝負がつく。しかも、これを何番も繰り返す。

この時間の短さと分かりやすさが、「見る」忍耐力が落ちた年寄りには向いているのかもしれない。

番付上位となれば、懸賞旗が何本も土俵を巡る。これを数えようとすると、土俵の屋根の天井からの映像に切り替わる。

 上限は1回当たり60本とかで、今場所は大の里がトップの698本を獲得した。懸賞金は1本あたり7万円(手取り6万円)というから、金額にすると億の半分近い(某スポーツ紙)。

 それに、と思う。カミサンが加わると、「まげが美しいね」などと、勝負とは違ったファッションの話になる。

そういえば、無精ひげはもちろん、ひげを生やした力士はいない。なにか厳しいおきてがあるのか――。

連想ついでにそんな珍問までわいた(あとでAIに聞くと、2019年に「ゲンかつぎ」のひげが禁止されていた)。

2026年9月28日月曜日

同級生が仏画展を開催

                                                
    阿武隈の山里で生まれ育った。中学校へは3つの小学校から生徒が集まった。いわゆる団塊の世代で、1学年は5クラスに膨らんだ。

今思うと、町の小学校3クラスに在の小学校各1クラスが加わって、同級生の数が一気に増えたのだ。

集団就職から高校進学が普通になりつつある時代、私は開校して3年目の平高専(現福島高専)に入った。

 それを機に、いわきに根を生やした。同じようにいわきに住む中学校の同級生が何人かいる。

年に1回は田町(平)に繰り出し、ミニ同級会を楽しんだが、震災後は集まりが途絶えた。

近所に住む同級生は中学校で一緒になった。有限会社を営んでいる。建築業、つまりは大工さんである。

彼に頼んで夏井川渓谷にある隠居の台所を改造し、少し外に張り出した縁側を幅1.5メートルほどの濡れ縁に作り替えた。

 職業柄、寺を巡り、仏像を見る機会が多かった。それだけではない。若いころ、自分の生き方に悩んで仏教に傾倒した。

 家をつくっても寿命は50~60年ぐらい。自分の手がけた作品(建物)は結局、この世には残らない。

それに比べたら、仏像は何世紀も生き伸びる。仏像に魅かれて仏画に取り組むようになった。

結婚すると趣味の写仏を封印して仕事に励んだ。時は過ぎ、いつの間にか後期高齢者になった。

2年ほど前、脊椎を傷めて会社を休眠させた。一線から退くと時間が余った。若いときの趣味だった仏画への情熱がよみがえり、写仏を再開した。

先日、彼から封書が届いた。突然の連絡である。最初は廃業のあいさつかと思ったが、違った。

チラシが同封されていた。「松本守雄仏画展――千年の祈り・その色彩」とあった=写真。なんと個展の案内ではないか。

いつ、どこで? これにも驚いた。いわき市暮らしの伝承郷で、10月8日から12日までの5日間開催する。

伝承郷のスタッフには顔なじみが多い。カミサンが同施設の事業懇談会の委員をしている。

アッシー君を務めるついでに企画展をのぞいたり、園内の古民家を巡ったりする。それで学芸員氏とも知り合いになった。

チラシを見たあと、すぐ同級生に電話を入れた。すると翌朝、軸装された仏画その他を持って来て、個展を開くまでの経緯と仏画の手法を説明してくれた。

写仏は写経と同じで、印刷された仏様の上に紙ないし絵絹を重ね、筆でなぞって彩色する(同級生は絵絹を使う)。

展示する作品は①仏画22幅②色紙24点③四国八十八カ所御朱印掛軸のほか、愛蔵する郷土作家3人(大平華泉・若松光一郎・坂本勇)の作品で、仏画などにはフロアから自作の照明器具で光を当てるという。

写仏を始めたきっかけは前述の通りだが、仕事と写仏を介して軸装を頼んだ画材店や寺、遠野和紙芸術文化研究会などとつながり、協力を得た。

 いわば、人生第二のステージである。写仏を通して心を落ち着かせるいい時間の過ごし方を手に入れたものだ。ぜひご高覧を。

2026年9月26日土曜日

自然は強くて脆い

                                             
    この1カ月余、星野道夫の本を読んでいる。図書館から最初に借りたのは大活字本『旅をする木』だった=写真。

返却日の1日前、2週間の貸し出し延長を申し込んだら「予約が入っている」と言われた。

故東野圭吾や夏川草介同様、星野も写真家ながら作家として高く評価されているのだろう。

星野の本を読み始めるとすぐ、ネパールで氷河と岩壁が崩落し、巨大な土石流が発生して多くの犠牲者が出た。きょう(9月26日)で事故から丸1カ月になる。

地球は、自然はどうなっていくのか? それを考えるために星野の本を読んでみようという人が増えているのかもしれない。

『旅をする木』にこんなくだりがある。「カリブーの仔どもが寒風の吹きすさぶ雪原に生み落とされるのも、一羽のベニヒワがマイナス五〇度の寒気の中でさえずるのも、そこに生命のもつ強さを感じます」

文章はさらに続く。「けれども、自然はいつも強さの裏に脆(もろ)さを秘めています。そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です」

自然の持つ「脆さ」とは? 傷つきやすい生態系とか温暖化による変化だけではない。もっと直截的なものに違いない。

自然という現場に潜む危険、つまりは死を孕んだ世界に全身・全神経で立ち向かう、そんな極限状況のことではないのか。

アラスカやネパールと比較すること自体無理があるが、私が毎週日曜日、身を置く夏井川渓谷でも、ときどき自然の脆さを感じる。崖の落石だけではない。

隠居の庭の菜園にカブの種をまいたら芽を出した。やがて若葉が広がると思う間もなく、虫に食いつくされた。

一度種をまいて育てた辛み大根は、翌年からは「ふっつぇ」(こぼれ種)が芽を出し、冬にはずんぐりと肥大した根になる。しかし、耕すとかえって根は細く伸びるだけで肥大しない。

庭のモミの木の根元に生えるアカモミタケは、枝と幹が強剪定で立ち枯れると発生が止まった。自然と自然は危ういバランスでつながり、保たれているのだ。

星野はアラスカの先住民たちと暮らすうちに、自然と人間の関係についても考察を深める。

 未踏の大自然だと思われた原野は「太古の昔から、足跡を残さぬ人々の物語に満ちている」。なるほど。そう考えると納得がいく。

星野の文章のエキスを集約したエッセー集に『約束の川』(平凡社、2021年)がある。このエピソードはその中に出てくる。

 極北の人々は「生きのびてゆくために、いつも動物たちを見つめて暮らしてきた。どの動物を狩ってきたかによって、人間も違ってきた」。

 たとえば、ある村のインディアンの動きはカリブーのように、ユーコン河のインディアンは急流をさかのぼるサーモンのように。

 自然と人間の関係はその土地の風土と結びついて形成される。いわきでもウミとヤマとでは暮らし方(文化)が違う。その違いを踏まえて地域と地球の変化を見ていく必要があるということだろう。

2026年9月25日金曜日

墓参り

          
 シルバーウィークの締めくくりは秋分の日。この日昼前、カミサンの実家の墓参りをした。

 月遅れ盆は、甲子園に出場した東日大昌平(いわき)の試合をテレビで見ているうちに、墓参りをする機会を逃した。その不義理をカバーする意味もあって、実家を訪ねる前に墓へ直行した。

 20~23日の4日間の天気は、いわきの平では雨・やや強い雨・晴れ・ときどき晴れだった。

 前にも書いたが、この4日間に出羽神社の例大祭式典に出席し(20日)、運転免許証更新のための高齢者講習を受けた(22日)。

 高齢者講習は21日の予定だったが、大雨予報のために順延になった。21日は、時間的にはフリーになったものの、外は雨。本を読んだり、講習の準備をしたりして過ごした。

 連休最終日の23日は、実家で昼食を用意するというので、その時間に合わせて墓参りをした。

墓地は平の城山の西端から下好間にまたがる「寺町」の一角にある。いつもは寺の山門内側のスペースに駐車するのだが、先行車が2台あった。

境内からちょっと離れたところに寺の駐車場がある。そこに初めて止めた。一帯は丘陵地で、坂を上って山門に入り、また石段を上って墓に行く。これだけで息が切れる。

面白いことに、どこへ行ってもヒガンバナが満開だった=写真上1。8月後半からの天候不順で例年より開花が遅れ、秋の彼岸に合わせるように、墓地の土手を、寺の庭を赤く彩っている。

墓の花立てに水をやったり、先祖の戒名を読んだりしては、ヒガンバナの赤をながめた。

そのなかで目に留まったのが墓の前、小道のそばに無造作に集められた江戸時代の墓石だ=写真上2。

高さはおよそ70センチ、厚さは15センチくらいだろうか。正面は風化していて、戒名あるいは仏様のレリーフ、どちらがあったかはわからない。むろん、それとはまったく違ったものだったかもしれない。

側面には没年月日(だろう)が彫られていた。ひとつは「明和九 壬辰 七月初七日」、もうひとつは「文化六 己巳 四月二十九日」と読める。

明和9年は西暦1772年、文化6年は同1809年である。間に37年の隔たりがある。同族の墓石とは言い切れないし、墓がどこにあったかも不明だ。

それはともかく、江戸時代にはすでに多くの墓があったことがわかる。当時の墓制、墓石の形態はどうだったのか。寺の歴史は?

わからないことがあると調べてみたくなる元ブンヤの習性が作用したらしい。2つの年月日が脳内を漂い出した。

2026年9月24日木曜日

雨のみこし渡御

                       
   月替わりのカレンダーは9月の20~23日の4日間が赤くなっている。4~5月のゴールデンウィークに次ぐ、シルバーウィークである。

年金生活者はむろん、毎日が日曜日で月曜日。とはいえ、区内会の役員と行政嘱託員をしているので、定期的な回覧配布と行事がある。

9月20日の日曜日は、地元の出羽神社の例大祭が行われた。拝殿で開かれた式典に出席した。

田んぼにはさまれた参道には小旗が並び、祭りを盛り上げていた=写真。神社はその先、小高い丘の上にある。

以前はふもとに車を止め、正面の急な石段を上ったが、年々きつくなる一方だ。車で頂上の社務所脇まで行ける女坂があるのを知り、今は上まで車で行くようにしている。

早朝は小雨の予報だったが、さいわい式典が終わるまでは曇天のままだった。

それでも時間を追うごとに天気が悪くなるという予報である。子どもみこし渡御とおはやしは中止になり、軽トラのみこしにはシートがかぶせてあった。

案の定、10時ごろから夕方まで雨が降り続いた。雨の中の静かな渡御になった。

例大祭は、以前は10月10日前後に行われていたが、何年か前から9月の敬老の日の前日、日曜日に前倒しされた。

昔から続く伝統行事とはいえ、毎年同じかたちを維持するのは難しい。時代に合わせて変えられるものは変えていく、という流れがどこでも普通になった。

式典開始時間も午前8時と早かった。10時前には小雨が降り出したことを考えると、時間を早めたのは正解だった。

もうだいぶ前になる。夕方、マチの帰りに夏井川の堤防を利用すると、朝、神社で送り出したみこしが河原に下り、若い衆が川でみそぎをするところだった。

堤防の安全、つまりは水防の祈りも兼ねているらしく、川と人間の、カミを介した原初的なふれあいが強く印象に残った。

毎年、式典後には夏井川渓谷の隠居へ行くのだが、雨ではやることもない。それに、翌21日には運転免許証の更新に必要な「高齢者講習」の予定が入っている。

天気はしかし、20日より21日の方が台風の影響で悪くなりそうだ。式典が終わって家に戻ると教習所から連絡が入り、講習が22日に1日順延となった。大雨の予報ではしかたがない。

雨で隠居行きを中止し、翌日の講習も順延になって、のんびり骨休めをすることにした。

昼は車で5分くらいのところにある「チャイコタ」(旧マユール)でランチのカレーを食べる。カミサンとママさんがおしゃべりするのにつきあったが、ここも11月には閉店するという。

なんとも複雑な思いになりながら、昼食後はそのままカツオの刺し身を買いに行く。

春以来なじみとなった魚屋のご主人が顔を見るなり、「なんだい、きょうは早いこと」。「雨が強くなりそうなので」

さいわいこの日は小雨で終わった。教習所もそうだが、個人としても早めに動いた分、余裕ができた。何をするわけでもない。ただただダランと過ごした。

2026年9月22日火曜日

クロニンニク

                               
 年に1回、会津に住む高専の後輩と会う。高速バスでやって来る。彼をピックアップして、一緒に会議に出たあと、夕方のバスで帰るまでわが家で一休みする。

 私が漬物好きなのを知っている。毎回、会津の味噌漬けを土産に持って来る。今回は「満田(みつた)屋のみそ漬」だった。

 浜通りの人間、つまりは観光客にも喜ばれるさっぱりした味で、ご飯のおかずにはぴったりだ。

 この漬物のほかに、奥さんがつくったという「クロニンニク」をちょうだいした=写真(左が味噌漬け、右がクロニンニク)。

 さっそく、その日の晩酌にクロニンニクが出てきた。バラになった鱗茎(りんけい)で、とても大きい。

やはり黒くなった皮をはがして一口かじると、やわらかい。しかも、ほのかに甘い。かじった断面が蛍光灯のあかりを受けて輝いている。みずみずしい証拠だ。

 初めての、しかもほっこりした食感。「確かにマロングラッセみたい」とカミサンがいう。後輩がそう言っていたのだとか。なるほど、そうかもしれない。

 前に2回ほどクロニンニクを食べた記憶がある。鱗茎の1つひとつが小指くらいの小ささだった。味もイマイチだった。なんで黒いのか、黒くするのか、わからないまま忘れていた。

それに比べたら、このクロニンニクはとにかくうまい。小粒の味とは大違いである。すぐネットでクロニンニクの情報を仕入れる。以下は、その一部。

白い生ニンニクを一定の温度と湿度の環境下で数週間じっくりと加熱・熟成させる。そうすることで驚くほど変化する、とあった。

別の情報はより具体的だ。ほぐしたニンニクを薄皮が付いたまま(むいてもかまわない)、ひたひたのオリーブオイルに入れて、極弱火でコトコト15~20分煮る。

温度を上げ過ぎない。それでニンニクの糖分がキャラメル化する。シロップでマロングラッセを煮詰めたような、しっとりとしたやわらかさと甘みが引き立つ。これを数週間かけて熟成させるとクロニンニクになる。

見た目も、食感もドライフルーツやマロングラッセに近くなり、酸味と風味の効いた濃厚な味わいになる――。

つくり方はともかく、えらく時間がかかることだけはわかった。それを踏まえて、お礼を兼ねてメールでクロニンニクのレシピを後輩に聞いた。

すると、奥さんの話として、畑からとれたニンニクのうち、大きく立派に育ったものを選び出し、電気ジャーに入れて朝晩24時間、それを2週間燻り続けたという。やはり、じっくり、ゆっくり、である。

そこまでやって、ようやくマロングラッセのような味と食感のクロニンニクになるわけだ。

辛抱強く、熟成するのを待つ。これは、簡単にはつくれない。つくってくれ、ともいえない。1片ずつ、希少な高級品をいただくように濃厚な味を楽しんだ。

2026年9月21日月曜日

雨庭

                               
   雨が降れば車の轍(わだち)に水がたまる。晴れれば少しずつ地面が乾き、轍の水たまりも減っていく。乾いた庭に戻るにはしかし時間がかかる。

なにしろこの長雨である。乾く暇がない。ちょっと降っただけで庭全体が水に浸かったようになり、黄色くなりかけて落ちた柿の実が半分沈んでいる=写真。

大雨で冠水するのは歩道だけではない。家の庭も冠水するのだ。その証拠写真を撮っておこう――。

そんな思いで庭の水たまりを撮影した雨の日(9月16日)の朝、朝ドラの延長で見ていた「あさイチ」で、「雨庭(あめにわ=レインガーデン)」という言葉を知った。

 雨庭? 雨でできた庭の水たまりのことか。最初はそう思ったが、もちろん違う。身近な治水対策のことだった。

雨水は下水道や河川に「すぐ流す」が基本だが、それでは都市型水害や内水はんらんを防ぎきれない。

そこで、地域全体で「いったん受け止める」対策も施されるようになった。その具体策が雨庭である。

家の庭や公園、学校、道路わきの花壇などに雨庭を導入し、一気に下水道や河川に流れ込むのを分散する。京都市では2017年度から雨庭の整備が進められているという。

家庭でできる雨庭づくりが紹介されていた。約1坪でも効果がある。土を掘り起こして、ホームセンターなどで売っている砕石や砂利を敷き、土をかぶせて植物を植える。

雨が降ればこの小さなくぼ地に水がたまり、やがて地中に浸透していく。こうした雨庭を地域のあちこちに設ければ、地域に降った雨は地域で「いったん受け止める」ことができる。

コンクリートに覆われた庭は、雑草が生えるのを防ぎ、雨水をすぐ側溝に流すが、「いったん受け止める」機能はない。

雨庭を、わざわざ「レインガーデン」と片仮名入りで紹介しているからには理由があるのだろう。

この考えは先進国にならったものではないか。AIに尋ねると、アメリカやイギリス、ドイツ、オランダ、シンガポールなどの例を教えてくれた。

イギリスでは自然の仕組みを生かした都市排水と緑化が進められている。ドイツは古くから雨水管理やエコロジカルな都市計画に力を入れている。

オランダは、海抜が低い土地柄から洪水を防ぐスポンジのような都市づくりが活発に行われている。

雨庭の比喩としてはこのスポンジが一番しっくりくるかもしれない。スポンジとは食器を洗う時などに使う、多孔質のやわらかい材料のことである。

地域全体が多孔質のスポンジ(雨庭)になれば、それこそかなりの雨水をいったん受け止めることができる。

雨庭づくりまではいかなくとも、庭には花壇を設け、木を植える。わが家ではそのレベルだが、これまで家の床下に浸水したことはない。これからはむろんわからない。

20日の少雨に続いて、21日は台風の影響で大雨が懸念される。どこまで庭が冠水するか、ときどき茶の間から様子を見ることにする。

2026年9月19日土曜日

天気のことわざ

                                            

 新聞の読書欄に天気に関する本が複数紹介されていた。図書館にあるかどうか、ホームページを開いてチェックした。

 猪熊隆之『天気のことわざは本当に当たるのか考えてみた』(ベレ出版、2023年)があった=写真。

 著者は気象専門会社を経営する山岳気象予報士だとか。パラパラやると、子どものころから耳にしてきた天気のことわざが取り上げられていた。

 「猫が顔を洗うと雨」とか、「カマキリが高いところに卵を産みつけるとその冬は大雪」などのことわざに対する評価が5つの「★」で表示される。2つとも★1つ、つまり根拠はない、という評価だった。

 大人が口にするのを聞いて、すっかり刷り込まれたことわざがある。それを3つほど、評価と合わせて紹介する。

 「ツバメが低く飛ぶと雨」。根拠として2説があるようだ。A説。ツバメが食べる蛾やハエなどは、空気が湿ると翅に水分が付いて重くなり、高く飛べない。結果としてそれを追うツバメも低く飛ぶ。

もっともらしい説だが、と著者は言う。虫の翅には非常に多くの細毛があり、雨粒すら弾く。それより小さな水蒸気が、虫が飛べなくなるほどくっつくのだろうか――。

日本の夏は晴れていても湿度が高い。夏のツバメはいつも低いところを飛んでいるかというと、そうでもない。

B説。虫は気圧や湿度の変化などから「雨が近づいたな」と感じたら、葉っぱの裏側にすぐ隠れられるよう地面近くを飛び、それを追いかけるツバメも低く飛ぶ。これも断言できない。★はともに3つだが、B説はそれなりに信ぴょう性がありそうだとか。

「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」。日本の上空は夏を除いて偏西風が吹いている。高気圧や低気圧はそれで西から東へと進む。

朝焼けは東の空に雲が少なく、水蒸気が多いときに起きる。しかし、雲が多いときにも起きる。

羊雲や鱗(うろこ)雲が多いと朝焼け・夕焼けになるが、天気が崩れることも多くなる。西の空の場合はその後も好天が続く。夏や冬は、このことわざは通用しない。

★は3つ。当たることもあるが、はずれることもある。美しい朝焼けはその後の空の変化に注意が必要だそうだ。

「暑さ寒さも彼岸まで」。東日本から西日本までは秋分の日を過ぎると、真夏日はほぼ出現しない。その意味では当たっていた。

が、温暖化や都市のヒートアイランド現象が進んだ現在、仙台市など東北地方では当てはまるものの、関東以西では、10月上旬でも真夏日になることが珍しくなくなった。関東から西日本では★3つ、北日本・北陸・長野県は★4つだとか。

さらに温暖化が進むと、このことわざの該当地域は北へ、標高の高いところへと移動するかもしれないという。

このところ曇雨天が続いて、一日に何度も天気予報をチェックする。間もなく秋分の日。早くも寒さを感じるようになって、晩酌(焼酎)は水ではなくお湯割りが増えた。

2026年9月18日金曜日

異常な長雨

                   
 8月下旬から曇雨天が続いている。きのう(9月17日)のように晴れる日もあるが、朝起きて空を見上げると、鉛色の雲が全天を覆っている。やがて降ったり、やんだりを繰り返す。まるでカンボジアの9月のようだ。

14年前のシルバーウイークに、同級生と一緒にベトナムとカンボジアを旅行した。雨季の終わりに近かった。傘をさしてアンコールワットやバンテアイスレイなどの遺跡を見学した=写真。

雨季の終わりだからこそ雨が激しく降る。曇っては雨、やんでは青空がのぞくものの、すぐまた雨になる。

傘をさしていても衣服がたちまち雨にぬれ、汗と混じってびしょびしょになった。カンボジアは「雨の国」だった。そして、暑かった。

日本も夏は高温多湿になる。が、カンボジアは別格だ。とにかく雨が多い。日本の秋の長雨に、つい「カンボジア並みではないか」と気が滅入る。

それだけではない。いわきの平地では春・夏・秋のあと、ちょっと寒い秋になり、そしてまた春がくる。

浜通り南部のマチは冬がないに等しい。あっても短い。阿武隈高地生まれの人間は若いころ、そんなふうに思ったものだ。

それに加えて温暖化が進み、このごろは四季から二季、いわば乾季と雨季に向かいつつあるのではないか、という懸念をぬぐえない。いよいよカンボジアの9月を思い出す。

秋の長雨が農作物に影響を与えている。田んぼに機械を入れられるかどうか、いつ稲を刈ったらいいか、農家では苦慮していることだろう。

県紙によれば、農作物の一部に生育不良がおきている。畑の土が乾かないため、冬野菜の苗の植え付けが大幅に遅れている。根腐れも例年の2倍に及ぶそうだ。

夏野菜のキュウリは収量が大幅に減り、トマトも日照不足と低温のために色づきが遅れ、株の衰弱が懸念されるという。

夏井川渓谷の隠居の菜園で地ネギの「三春ネギ」を栽培している。きのうのブログにも書いたが、何年か前からネギ苗は浅く植えて高く土を寄せる方式に替えた。

深く植えると長梅雨のときに地下水位が上がって根腐れを起こす。現に起きたことがある。その予防のためでもある。今のところ、ネギは元気に育っている。

ついでながら、というか、これはアンコールワットにまつわるおまけ――。同遺跡は真西を向いて建てられている。春と秋の彼岸の中日、尖塔の真後ろから朝日が昇り、真ん前の密林のかなたに夕日が沈む。

秋分の日にはちょっと早い9月18日、専用バスでアンコールワットの夜明けを見に行った。雲が垂れ込めていた。尖塔の朝日は見られなかった。

同じ日の午後、雨に降られながらアンコールワットの内部を見学した。やがて夕刻になり、雨はやんだものの、雲にさえぎられて夕日は拝めなかった。

晴れればアンコールワットの朝日は観光客を喜ばせ、夕日は遺跡の神仏たちを慰めるはずだったが……。

シルバーウイークを前に、そんなことを思い出した。カンボジアはこの時期、やはり雨が多いことだろう。

2026年9月17日木曜日

間引きネギ

         
 夏井川渓谷の隠居の庭で地ネギの「三春ネギ」を栽培している。三春ネギは初夏に種を取って秋にまき、翌春に苗を定植して秋・冬に収穫する。2年サイクルである。

何年か前、天候不順で不作になり、種を切らした。そのことをブログに書くと、田村市の実家の兄から電話がかかってきた。春になってネギ苗が店頭に並ぶころ、確保しておく――。

春、実家へ行って苗をもらい、その足で隠居の庭に定植した。翌年、何本か残したものからネギ坊主を収穫し、乾燥させて種を採った。

 その後は普通に定植・収穫・採種・播種のサイクルを重ねていたが、去年(2025年)は手を抜いたために苗の生育が思わしくなかった。

結局、苗が未熟なままで終わり、食べることもなかった。種も採れなかった。このため、冷蔵庫に保管していた前年の残り種を秋にまいた。ネギの種は冷蔵庫で保管すれば2年は持つ。

 失敗の理由ははっきりしている。苗床に雑草が生えても、ほったらかしにしておいた。追肥もおろそかにした。

その反省から追肥、もみ殻敷き、草引きをちゃんとやったら、苗が大きく元気に育った。

鉛筆より太くなった苗を100本ほど定植した。苗床にも同じくらいの数が残った。定植苗よりは育ちがイマイチだが、その後も追肥と草引きをしたら、それなりに育った。

畝の方は秋・冬用、苗床の方は「夏ネギ」にして食べよう――そう決めて、ときどき苗床の間引きをしている。

ネギは寒さが増すにつれて糖分を蓄えるから、加熱すると甘くなる。加えて、三春ネギはやわらかい。

まだ気温が高めに推移しているので甘みはない。が、ほのかな香りとやわらかさがある。

ジャガイモと三春ネギの味噌汁は、昔からのふるさとの味で、私には一番のごちそうだ。

田村地方では月遅れ盆のころ、一度掘り起こして畝を斜めに切って植え直す。雨が降るとすぐ地下水位が高くなる。浅く斜めに植えて根腐れを防ぐ。この作業を「やとい」という。

それだけではない。地上部は葉が天に向かって真っすぐ伸びるので、「曲がりネギ」になる。ネギにとってはストレスだが、これがさらに甘みを増す。

若いころは隠居の庭でもこの「やとい」をやった。しかし、地元のおばさんの話では、まっすぐのネギにするだけ、という。体力が落ちたことを理由に、今では浅く植えて高く土を寄せるやり方に替えた。

この土寄せを怠ると、少し強い風が吹いただけで根元から倒れるものが出てくる。8月、9月と、草引きと追肥を兼ねて土を寄せると、あらかたは元に戻った。

苗床も事情は同じ。こちらは密集しているので、この秋の種まき前には間引きを終わらせる。

9月13日には苗床の三春ネギを20本近く収穫した=写真。スーパーなどで売っているネギと遜色はない。しばらくは買わなくて済む。

翌日夕方、近くに住む「孫」夫婦が顔を出したので、カミサンが何本かお福分けをした。余分にあれば、こういうこともできる。

2026年9月16日水曜日

「エリー」はどこに

                                 
 日曜日には夏井川渓谷の隠居へ行く。途中、平地(小川町三島)の夏井川で残留コハクチョウの「エリー」=写真(7月26日撮影)=に、胸の中であいさつをする。「おっ、いたな。がんばれよ」

 9月6日は地区の市民体育祭があって隠居行きを断念した。13日は水量が多かったものの、大水というほどではなかった。

 エリーは? 県道小野四倉線(兼国道399号)沿いの岸辺にも、竹林が伐採された上流にも姿がない。

 8月30日はどうだったか。隠居までの様子、隠居での作業などをメモした「週記」を見ると、エリーについての記述はなかった。いたかどうか、どうも記憶がはっきりしない。

 そこへ9月14日、「白鳥おばさん」からハガキが届いた。白鳥おばさんは毎日、県道からガードレール越しに、直下の浅瀬に寄ってきたエリーにえさをやる。ハガキには「残念なお知らせです」とあった。エリーの姿が見えなくなったという。

 8月29日の夕方、えさをやりに行ったときには、羽をバタバタやったりして元気だった。

 が、翌30日の夕方には姿がなかった。おなかがすいていないのかなと思って、その日はそのまま帰った。

 前にも2~3日してヒョッコリ出てきたときがある。しかし、もう10日も姿を見せないという。ハガキの消印は「8.9.10」。9月10日から4日たっていた。

 今では5年前になる。1羽のコハクチョウがやはり羽をけがして残留した。白鳥おばさんは「エレン」と名付けて毎日えさをやった。これが始まりだった。

 エレンは翌年も残留した。ある日、大水になって下流の梨選果場あたりまで流される。真夏にはしかし、姿が見えなくなったと、白鳥おばさんから連絡が入った。

 エレンはどうやらけがが癒えて飛ぶことができるようになったらしい。そのへんの顛末を拙ブログで振り返る。2023年秋のことである。

――ハクチョウがわが生活圏に現れた。それを告げるブログに「エレンは、今はどこにいるのだろう」と書いた。

そのブログがいわき民報に転載された。すると、年末に白鳥おばさんから電話がかかってきた。「エレンが戻ってきた。ずっと見てきたので間違いない」

それから正月になり、1月も終わりに近い28日、県道で久しぶりに白鳥おばさんと会った。エレンがどこにいるか教えてもらう。

コハクチョウのくちばしは根元が黄色くて先の方が黒い。黒い部分に比べたら、黄色い部分は半分以下だ。

上のくちばしが付け根まで黒いタイプもいる。エレンがそうだ。しかも、その付け根の黒い部分に黄色い斑点がある。

あとでエレンが単独でいたときの写真を見ると、同じところに黄斑があった。この黄斑が、私のなかではエレンである決め手になった。なんという奇跡だろう――。

今年(2026年)も間もなく北から仲間がやって来る。エレンがそうだったように、エリーも飛べるようになって仲間と合流できたらいいのだが……。姿が見えなくなった今、再びの奇跡を待つしかない。

2026年9月15日火曜日

目指すは循環型ライフスタイル

                                               
   いわき市の「広報いわき」9月号などで知った、新しいかたちのリユース(再利用)拠点である。

「ジモティースポットいわき」という。9月10日午前11時、内郷高坂町大町地内にオープンした。

 広報いわきによると、市とジモティー(本社・東京)がリユース協定を結び、それに基づいて同スポットいわきが設けられた。

 拠点の運営は、音楽やイベントの分野で活動しているソニックプロジェクトの関野豊代表取締役が担う。

ジモティーは都道府県や市区町村といった地域ごとの情報をやりとりできるウェブサイト「地元の掲示板ジモティー」を運営している会社だという。

同時に、ネットのジモティーをリアルに体験できる店舗型のリユース拠点を、フランチャイズ方式で全国各地に展開している。

たまたま10日朝、カミサンが「ジモティースポットいわきへ行こう」というので、いつものようにアッシー君を務めた。

それまでまったく頭になかったので、急いで場所を確かめ、新聞やネットから情報を集めた。

リユース拠点、つまりは店である。店は既存の建物をリユースしたものだった。オープンしたばかりとあって、店内の商品棚はガラ空きだった。

スタッフからチラシをもらった=写真。市のホームページやチラシに従ってリユースの流れを簡単に記す。

いわき市民なら、家庭で不要になった家電、楽器、ゴルフ用品、子ども用品、スポーツ・レジャー用品、食器、衣類、本、CD、ペット用品などを、予約なしで持ち込める(ただし、身分証明書が必要)。

扱わない品物もある。リサイクル家電の4品目(冷蔵庫・冷凍庫、洗濯機・衣類乾燥機、エアコン、テレビ)のほか、マットレス、マッサージ器具などで、なんでもいいわけではない。

無料で引き取った不要品は、再利用品として販売、あるいは無料で譲渡される。まだ使える不要品を捨てずに地域内でリユースする流れを構築するのが狙いという。

オープン直後、旧知の関野さんとおしゃべりをしている間にも、ベビーカーその他の不要品が次々に持ち込まれた。主婦にとっては待望のリユース拠点がオープンした――そんな印象を受けた。

リユースされる品物の値段はどうか。古い額縁があった。値札はまだ付いていなかった。

カミサンは古着回収のザ・ピープルとも関係しているので衣類はピープル、古本類は国際NGOのシャプラニール(本部・東京)、それ以外はジモティーへ、という考えのようだ。

9月13日には市役所駐車場の回収ボックスへ、知り合いから家に届いた古着類8袋を運んだ。

リユースの機会の拡大、拠点の誕生――これもアッシー君をして、あとから知ったことではある。

2026年9月14日月曜日

アレチウリに覆われる

                                
   連日の曇雨天である。日照時間が少ない。稲や野菜は大丈夫か。そんな心配をしながら、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。9月13日、日曜日朝のことである。

前の週は市民体育祭があって行けなかった。2週間ぶりということもあるのだろう。県道小野四倉線のガードレールが、ところどころ「緑のマット」に覆われていた=写真。これには驚いた。

アレチウリだ。この時期、侵略的帰化植物であるアレチウリがつるを伸ばし、葉を広げて、そこにあるものを覆い尽くす。同じ日本のつる植物であるクズさえ覆われて日光を遮られる。

ガードレールにとどまらない。今にも地面をはい出して道路をなめようか、という勢いだ。

7年前の2019年9月中旬、アレチウリについて書いたブログがある。年数はプラス7年にして要約・再掲する。

――この時期、全国至るところで見られる現象かもしれない。夏井川の堤防を行くと、アレチウリに覆われたところがある。

アレチウリは北米原産の1年生のつる性植物だ。日本では1952年、静岡で発見されたのが最初だという。

夏井川のアレチウリに気づいたのは2008年秋だった。覆われた植物は日光を遮断され、やがて枯れる。アレチウリが侵略的な植物、といわれるゆえんだ。

 この17年、秋になって遠出したときにアレチウリの有無をチェックしてきた。夏井川流域では渓谷、川前、小野町(夏井の千本桜)……。至るところに繁茂している。上流も下流もない。

草刈りが行われる土手はさすがに目立たない。放置された土手では、在来の植物があっという間に「緑のマット」で覆われる。

個人としては、せめて自分の家の周りだけは生やさない、生えたら引っこ抜く、と決めている。

でないと、家まで覆いつくされる。日よけになっていい、なんて悠長にかまえていられるほどつつましい植物ではないのだ――。

渓谷のアレチウリについてもブログで書いていた。それによると、2009年秋、牛小川で初めてアレチウリに気づいた。

隠居の対岸のやぶをアレチウリの葉が覆い、つるがそばの2本の高木まで伸びていた。

長い柄のついた小鎌で根元からつるを刈り払った。そのあと、気になって集落を巡ったら、廃屋と公衆トイレ跡の間にアレチウリが葉を広げていた。地元の人間が草刈りをしているから、まだその程度ですんでいるのかもしれない。

 そして今、2026年――。隠居からマチへ下りたあと、夏井川の堤防を利用して帰宅した。

実は朝も堤防を通った。堤防は今のところ、休日以外は通行止めだ。自転車通行のための路面標示と防草シートの張り付け工事が行われている。その進行状況を確かめたかったのだ。

一部では工事が済んでいた。通行止めの区間に限っていえば、アレチウリには気づかなかった。

ちゃんと見れば、間違いなくある。すぐ消えるような、そんなやわな植物ではないのだ。それをあらためて思った。

2026年9月12日土曜日

『種をまく人』

                                              
  いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に総合図書館が入居している。先日、本を返しに行ったら、「子どものフロア」にリサイクル図書のコーナーが設けられていた。

 リサイクルに回された児童図書が何十冊(いや、それ以上だろうか)も箱に入って並んでいた。

 本の背表紙をながめているうちに、『種をまく人』の文字が目に留まった。手に取って表紙の絵を見ると、既視感がある=写真。

 ところはアメリカ・オハイオ州のクリーヴランド。貧民街の一角にごみ溜めがある。その空きスペースにベトナム難民の女の子・キムが豆の種をまく。それが物語の始まりだ。

 表紙のイラストだけではなく、最初のキムの話にも記憶があった。間違いなく前に読んでいる。

リサイクルに回ったのであれば、ぜひ手元に置きたい。「これっ」。カミサンに見せると、カミサンが用紙に書き込んで受付に本を持って行った。

 廃棄する代わりに市民に提供された図書館のリサイクル図書を何冊か持っている。

 1つは伊藤始・杉田秀子・望月武人著『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』(くもん出版、2014年)で、著者はいずれも教員経験者だ。児童向けの本で、漢字にはすべてルビが振ってある。

昭和43(1968)年、色川大吉東京経済大学教授とゼミの学生らによって、東京都のほぼ西端、あきる野市五日市の旧家の土蔵から「五日市憲法草案」が発見された。その経緯と草案起草者千葉卓三郎(1852~82年)の足跡を記した本である。

もう1つ。絵本の「やめて!」は表紙で男の子が叫んでいる。絵本には爆撃機・戦車・兵士・犬を引き連れた警官・不良少年が登場する。空爆・市街での発砲・弾圧・いじめに「やめて!」だった。

『種をまく人』はしっかりしている。ハードカバーなのだが、とても薄い。約95ページ。普通の本の3分の1くらいしかない。

キムが豆の種をまいたのは、農民だった亡父をしのんでのことだ。アパートの住人のアナはルーマニア出身で、そのキムを見るために望遠鏡を買う。

アナから電話をもらったウェンデルは学校の用務員で、アナの頼みでキムに会う。そして、畑をつくるために土を耕し始める。

グァテマラ移民の子のゴンサーロは、英語を話せない伯父さんの世話をする。伯父さんは国で農業を営んでいた。その伯父さんがウェンデルと一緒に土を耕すようになって生気を取り戻す。

リオーナは空き地で土を掘り返している人たちを見て、花を植えたくなり、市当局に掛け合ってごみを一掃させる。

以下、サム、ヴァージル、セヨン、カーティス、ノーラ、マリセーラ、アミール、フローレンスの話が続く。

アメリカの都市の、貧しい移民が流れ着いた街の一角の、どうしようもないごみ溜めが、少女のささやかな行為をきっかけに、人種・民族・言葉を越えてつながり、美しい菜園に生まれ変わる。土地の再生とコミュニティ創造の物語である。

2026年9月11日金曜日

オモダカとクサネム

                                       
   この夏、住宅地にある水田で珍しい形をした草の葉を見た=写真上1。葉には覚えがあった。オモダカである。前に見たのはいつだったか。何年、いや何十年前?

オモダカは、漢字では「沢瀉」と書く。別名サンカクグサ、ハナグワイ、イモグサなど。家紋の一つに「沢瀉」紋がある。戦国武将たちに好まれたという。このへんのエピソードが頭にあったのかもしれない。

高校生の孫から、夏休みに入ると何度かアッシー君を頼まれた。家はわが家から車で5分ほどのところにある。もとは水田で、戸建て住宅が何棟か建つなかの1棟に息子一家が住む。

家の裏には田んぼが1枚、三方を新興住宅に囲まれて残っている。孫が外出の準備を終えるまで、玄関前の駐車スペースに車を止めて待つ。

盛り土をしたために、宅地は水田よりは1.5メートルほど高い。フェンス越しに直下の稲穂とあぜを見るともなく見ていると……。

前述のオモダカが目に入った。葉がとがった矢尻のような三角形をしている。輪のないベンツのマークに似る。白い花を咲かせたものもある。

それに触発されて、直下の畔の草をながめると、田んぼの黒土の縁でセリが葉を伸ばしていた。

それから少し離れたところにはオジギソウによく似た草も=写真上2。とりあえず写真を撮って、ネットで名前を調べたら、クサネムがあらわれた。

クサネムのネムはネムノキのネムだとか。葉が似ていることからその名が付いたようだ。

7~10月に薄黄色の蝶形花を付ける。黄色いチョウの一種、キタキチョウは、幼虫がネムノキやハギ類、ジャケツイバラなどとともに、このクサネムを食草にするそうだ。

なんとも厄介なのは種子の大きさや形状が籾(もみ)に似ることだとか。稲にまぎれて残っていると、機械による収穫の際に混入してコメの品質を低下させる。

オモダカも、クサネムも水田の雑草だが、クサネムはとりわけ「雑草害」を引き起こす草として嫌われているらしい。

もう一つ、フェンスに絡みついたつる植物にも触れておこう。わが家の庭では、ヤブガラシが次々に芽を出し、つるを伸ばして庭木に絡みつく。それを防ぐために、今も朝、歯を磨きながら「芽むしり」をしている。

このヤブガラシが、駐車場のコンクリートの端から芽を出し、フェンスに絡まって伸びていた。

絡みついても日光を遮る庭木はない。むしろ、フェンスと組み合って、ちょっとしたオブジェになっていた。しかし、1週間後にはこれが根元から切られて姿を消した。

 草に対する感覚は場所にもよるし、人にもよる。風景として見る分にはどれもかわいいものだった。

2026年9月10日木曜日

キュウリがウナギに化けた

                               
   若いころ読んで、確かにそういうところがあるな、と思った。贈与の経済とまではいかなくとも、贈与の文化が普通にあった。

貨幣経済とは別に、人々が暮らしを営むうえで欠かせない無償の物々交換のことである。

東西に長い阿武隈高地の一筋町で生まれた。「生(な)ったから」「もらったから」と、隣近所で野菜を分け合い、融通し合う習慣があった。高度経済成長期の前、昭和30年代前半の記憶である。

食卓にのぼる野菜は、農家でなくても自産自消が一般的だった。むろん、自産だけでは足りない。それを補うように各家の余剰物が隣近所を行き交った。

主食の米は、ふだんは買って食べた。初夏には親類の田植えを、秋には稲刈りを手伝ったから、なにがしかをお礼としてもらうこともあったのではないか。

その意味では、贈与の習慣は家計の一助になっていた。経済的には貧しい時代、コミュニケーションと贈与の文化があったからこそ、人々は貧しさをオブラートに包んで前を向いて暮らしてきた。

 10代の後半になって家を離れ、文学に魅かれて本を乱読した。政治や経済には縁がなかったが、周りに影響されたかして、栗本慎一郎やカール・ポランニーに触れ、経済人類学や贈与の経済があることを知った。それが冒頭の感慨を呼んだ。

 年を取った今、当時のことをよく思い出す。懐かしさというよりは、今こそ必要な価値、習慣ではないか、という思いが強い。

現在のわが家の例でいうと、主婦のお茶飲み友達による贈与のネットワークが思い浮かぶ。

 カミサンが生協(パルシステム)や川内村の卵の「ハブ」になって、毎週、何軒かの分をあずかる。

 そのなかで自家菜園のキュウリやナス、ネギが届く。こちらからも直売所で多めに買った野菜その他を回す。

楢葉町で農家レストランを営む知人は、いわきへ来るたびにちょっとしたおかずを置いていく。

年金生活者にとっては、この贈与の習慣はありがたい。糠床の材料になり、家計の足しになり、晩酌のおかずになる。

 先日はこんなことがあった。卵を取りに来る近所の独り暮らしの女性(90代)に、カミサンがキュウリを2本持って行ったら、ウナギのかば焼きをもらって来た。

 土用丑(うし)の日には生協から鹿児島・大隅半島産のウナギのかば焼きを取り寄せて食べた。

 知人は親類がかば焼きを食べるのを見て、「おいしそうだから」と、生協からウナギのかば焼きを取り寄せた。

 ただし、本人はウナギを食べない。冷凍庫に入れたままだった。で、「海老(えび)で鯛(たい)を釣る」ではないが、キュウリ2本が立派なかば焼きに化けた。

 わが家では身の半分にも満たなかったが、知人からもらったのは1匹の姿がよくわかる大きさだ=写真。晩酌のおかずとして、ありがたくいただいた。むろん、主婦のネットワークと贈与の習慣にも感謝しながら。

2026年9月9日水曜日

アンダーパス

                     
 9月7日。いわき地方にレベル4土砂災害危険警報と同大雨危険警報が発表された。未明から強い雨に見舞われた。

 月曜日である。燃えるごみを出す日である。朝一番でごみネットとごみ袋を出さないといけない。

 ごみ袋の中身は剪定枝6袋。別の日に出してもいいのだが、ごみネットは出さないわけにはいかない。

 前夜に続いて、午前3時過ぎに起きてからも思案し、結局、明るくなりかけた5時過ぎには、右手に傘、左手にごみネットを抱えて、横殴りの雨にズボンを濡らしながら、そばの電柱にネットのひもをくくりつけた。

1時間後に見ると、ネットが風に翻弄されている。ごみ袋を出す人はまだいない。「重し」を兼ねてごみ袋をネットの端に載せることにした。

再び右手に傘、左手にごみ袋2袋を持って、これを3回繰り返した。ズボンは前より激しく濡れた。

 その後は時々、集積所と歩道の様子をチェックした。7時過ぎには早くも歩道が冠水し、さらに水かさが増しそうな勢いだった。

 8時前にチェックし、朝ドラが終わったあとにまた見ると、歩道の冠水は減り始め、側溝のふたが水をかぶる程度になった=写真。

防災ラジオはしかし、北の大久川流域の避難情報を伝え、8時45分にはいわき市全域に避難指示が出たことを知らせる。

8時前後がピークだったようだ。9時過ぎにはカミサンが向かいの郵便局へ行ったが、窓口が臨時休業になっていた。隣のコインランドリーもそうだった。

 小・中学校は早々と7日の臨時休校を決めていた。私自身、7日早朝に接骨院へ行くのを中止した。ほかの人もそうだった。家でじっとしている人が多かったのだろう。

 10時過ぎにはレベル4からレベル3に切り替わり、正午前には市内の避難指示も解除された。この時点でやっと線状降水帯の不安から解放された。

 その後に鹿島町のエブリアそばのアンダーパスで車が冠水し、60代の女性が亡くなったことを知る。

 鹿島でなぜ? そこからいわき市内のアンダーパスが気になり、いったい市内にはいくつあるのか、チェックしてみた。

 すぐ思い浮かぶのは平の赤井ガード、祢宜町ガード、大工町ガード、住まい近くの鑓水(やりみず)ガード、内郷の八反田アンダー、泉の玉露アンダーボックス、そして昔よく利用した錦の大島アンダーボックスだ。

公開されている県の冠水危険個所一覧によると、市内には全部で21カ所ある。鹿島は米田(こもだ)アンダーボックスで、エブリアへ行ったとき、1~2回利用した記憶がある。ニュース映像では、脇の駐車場から雨水が滝のように流れ落ちていた。

雨がほぼやんだ午後1時過ぎにはラトブの総合図書館へ出かけた。いつものように地下2階に車を止めようとしたら、シャッターが下りて、「地下2階は封鎖中」の看板が立っていた。商業フロアも臨時休館をした。

豪雨、道路の冠水、アンダーパスの事故……。これらはいつでも、どこでも起こりうる、という覚悟が必要になった。

2026年9月8日火曜日

体育祭は終盤、小雨に

                 
   9月6日午前9時。神谷地区市民体育祭が曇天下で始まった。プログラムもあと少しで終了というところで、西方の山並が雨のカーテンに隠れた。すると、会場の校庭にも弱い雨が降り出した。

同日午前6時。公民館の園庭から2発、花火が打ち上げられた。時を同じくして、隣の草野地区からも花火が上がった。

神谷と草野が同時に体育祭を実施するのは珍しい。というか、よその地区はすでに体育祭をやめている。よく続いているというべきだろう。

 神谷地区には8つの行政区がある。団体競技は8地区対抗戦で、去年(2025年)はわが区が優勝した。

開会式には優勝杯返還がある。前日の会場設営時点で防災倉庫から優勝杯を持ち出し、当日に備えた。忘れるとえらいことになる。

大会が近づくと、前日の準備、そして当日の役割分担を含めて、事前に詰めておくことがいろいろ出てくる。今年はこれに優勝杯返還が加わった。

花火が上がったあとの午前7時半、会場の平六小へ出向き、テーブルといすの設営、テント張りなどをすませた=写真上1。

ここまでは曇天で涼しいくらいだった。「雨も午後だね」。体育祭は終了後の大抽選会を含めて、正午前には終わる。雨には見舞われないだろうと踏んでいたのだが……。

終盤になって空模様がおかしくなった。風が吹いて小糠のような雨が降り出し、記録係としてテントの下で団体競技の順位をつけていたテーブルも、雨粒で濡れ始めた。

消防団のポンプ車が子どもたちを乗せてトラックを回る「さあ出動!」は急きょ中止になり、残るプログラムを繰り上げて実施した。

団体競技は3つ。安全運転と玉入れ、綱引きで、わが区は残念ながら3位に終わった。

閉会式は校庭から体育館に場所を移して行われ、引き続き参加者が楽しみにしている大抽選会が開かれた。

校庭と違って、体育館では同じ参加者数なのに、ぎゅうぎゅう詰めの印象だ。かえって、それだけに和気あいあいの景品引き換えになった。

最初、反省会の予定はなかったが、選手たちの意向で開くことになり、前日、急いで会場の手配をした。私ら区の役員は後片付けなどがあるので、選手たちだけで楽しんでもらった。

それから一夜明けた月曜日は、未明から強い雨になった。秋雨前線が北上する過程で線状降水帯が発生する心配もあった。

午前5時過ぎにはごみネットを、1時間後にはごみ袋を出した。いずれも傘をさしての作業だが、横なぐりの雨でズボンはすぐびしょびしょになった=写真上2。

さいわいわが地区は歩道が冠水した程度ですんだ。が……、鹿島町ではアンダーパスで痛ましい事故が起きた。