2026年7月4日土曜日

ブックポスト

                                  
   いわき市には公立図書館が6館ある。毎年5~6月、順繰りに特別整理期間に入る。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に入居している総合図書館は、それで6月15日から29日までの15日間、休館になった。

 毎年のことながら、休館中に読みたい本が出てくると、図書館のホームページで蔵書の有無を確認し、なければ再開後に予約する。

総合の次に近い内郷か四倉にあれば、すぐそちらへ借りに行く。どちらも車で15分前後だ。

 今年(2026年)は臨時休館の前に11冊を借りた。個人が借りられるのは15冊(期間は14日間)。いつもより3倍の数だ。

 ちゃんと読もうとすれば、半月では足りない。後期高齢者になった今は、たとえばエッセーだと見出しを手がかりに拾い読みをする。

最初から最後まで――というのは、馬力のあった若いときの読み方で、今はポイントだけを読むことが多い。

幸い今年は特別整理期間中、内郷にも、四倉にも行かずにすんだ。代わりにというわけではないが、総合図書館が再開した6月30日午前10時前には、ラトブの地下駐車場にすべりこんだ。

総合図書館は4~5階に入居している。4階に行くと、窓口付近が混雑していた。同じように再開を待ちわびていて、10時の開館と同時に返却・貸出、予約をと考えていた市民がいっぱいいたのだろう。

実際、窓口のスタッフが問わず語りにもらしていた。「込んでます」。長い休館のあとの再開である。一刻も早く本を借りたい、という思いはよくわかる。私もそうだ。

実は休館中の6月26日朝、歯医者へ行ったついでにラトブへ寄って、4階の図書館入り口そばの壁面にあるブックポストを利用した=写真。

本はカミサンが借りたもので、休館前に返却すべきだったのが、特別整理期間に入ったため、再開後の返却を予定していたそうだ。

1カ月近く返却がないため、「ブックポストに」と、私あてに図書館からメールが届いた。カミサンも連絡先を私のメルアドにしていた。しかたない、代わって本を返すことにした。

ブックポストを利用するのは初めてだった。郵便ポストと同じように、中が空洞になっているものと思っていたが、そうではない。

本を差し込むとローラーのようなものが回って奥に取り込んでいく。「手を中に入れないでください」という表示があった。確かに、指がはさまれそうになった。要注意である。

総合図書館はまだ特別整理期間中。午前10時前だから、ラトブ自体もエレベーター以外は開いていない。

駐車料金は何か買い物をすればタダになる。10時になってエスカレーターが動き出すと、3階のヤマニ書房へ行って、新聞の書籍広告にあった新書を買った。

それで駐車券にパンチを入れてもらった。新書は「アメリカの戦争」を主題にしている。これは最初から最後まで、じっくり読むつもりだ。

2026年7月3日金曜日

チュウダイサギ?

                                     

   日本野鳥の会いわき支部から、支部報「かもめ」が届く。今は県外に住む元事務局長氏のはからいで恵贈にあずかるようになった。

いわきの野鳥の情報源である。特に注意して読むのが、毎年1月、全国一斉に行われるガン・カモ調査だ。いわきに飛来した冬鳥のハクチョウやカモ類の数、前年・前々年との比較がわかる。

報告に併せて、珍しい鳥の飛来などにも触れる。今年(2026年)は沼部(鮫川)と平・塩(新川合流部の夏井川)で、アメリカコハクチョウ(コハクチョウの亜種)、四倉漁港でコクガンの若鳥が確認された。

さらに、特筆すべきこととして、今回ついにコサギが確認できなかった、とあった。コサギはいわきでも水田や川で普通に見られるシラサギと思っていたが、これには驚いた。しかも、近年減少傾向にあったという。

シラサギはダイサギ・チュウサギ・コサギに分類できる。体の大きさの違いが基本になっているのだろう。

この3種類はくちばしの色、あるいは足指の色で識別される。ダイサギ・チュウサギはくちばしが黄色いが、コサギは黒い。逆にコサギの足指は黄色い。くちばしと足指の色を見てダイ・チュウ・コの区別をしてきた。

日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~中塩~平窪、そして小川の水田地帯を通る。

サギ類がよく水田にいる。くちばしの黄色いシラサギがほとんどだ。くちばしの黒いコサギは、言われてみれば確かに1~2回しか見ていない。

コサギが姿を消したと知って以来、田んぼ道や堤防を通るときには意識してシラサギのくちばしを見るようになった。

ところが、である。最近は体が大きいのにくちばしが黒いシラサギをよく見かける。

コサギが大きくなったのか。最初はとまどったが、ダイサギは繁殖期になると、くちばしが黄色から黒色に変わる、婚姻色というそうだ。その変化を知ってようやく合点がいった。

くちばしが黒いからコサギ、ではなかった。コサギでなくても、繁殖期になれば色が変わる。それだけではない。ダイサギかチュウサギかは単独でいる限り判断が難しい。

しかも、「チュウダイサギ」という呼び方がある。最近知った。そのうえ、「亜種ダイサギ」「亜種チュウダイサギ」という分け方も。

シラサギは1年中いるような印象だが、実際はどうなのか。ダイサギは南の鳥で、夏鳥として飛来し、本州以南で繁殖する。一部越冬もするのが亜種のチュウダイサギだという。

冬鳥のシラサギもいる。ダイダイサギあるいはオオダイサギと呼ばれるもので、大陸から冬鳥として渡って来る。これは亜種のダイサギだそうだ。

シラサギに関する知識は昔の野鳥図鑑のままだった。最新の情報に更新しないといけないのだろうが、どうもついていけない。

ちなみに、掲載のシラサギ=写真(カミサンが撮影)=は婚姻色のダイサギらしい。口角は目の後ろまで切り込んでいる。それでいちおうダイサギと判断した。

2026年7月2日木曜日

電話の主は90歳

                                
   先日、施設に入っているカミサンの親せき(女性)から電話がかかってきた。カミサンが出た。ン10年ぶりの声の「再会」だった。

施設で毎日、いわき民報に載る私のコラムを読んでいるという。懐かしくなって、スタッフに頼んで、いわき民報社に電話をした。

すると「辞めた」といわれた。毎日コラムが載るからまだ勤めていると思ったのだろう。親せきであることを伝えて、わが家の電話番号を教えてもらったという。

私は令和2(2020)年5月中旬から、古巣のいわき民報でコラム「夕刊発・磐城蘭土紀行」を連載している。

夕刊から朝刊に切り替わった今は「朝刊発――」に改題した=写真(新聞の切り抜きを月ごとにまとめている)。

そもそもは新型コロナウイルス感染症が世界的に流行し、日本でも緊急事態宣言が出されたのがきっかけだった。

いわきでも感染防止一斉行動がとられ、公共施設の休館や行事の中止・延期が繰り返された。すると、古巣の後輩からSOSが入った。紙面を埋める記事が欲しいという。

そのころ(今もだが)、私はネットに毎日、ブログをアップしていた。新しくコラムを書くようなことはできないが、ブログの転載ならOKと伝えた。

ネットにブログをアップしているのも、始まりは「モノを書かないでいるとなにか落ち着かない」という動機からだった。

話は平成20(2008)年2月にさかのぼる。若い仲間から、ネットを利用したブログ(日記)があることを教えられた。

私の解釈では「新聞コラム」のネット版である。字数も500字前後にとどめ、気持ちの安定のために、とにかく毎日1本は書く、と決めた。

前年秋にいわき民報社を辞めて3カ月がたっていた。「締め切り」から解放されたと思っていたら、逆にだんだん落ち着かなくなった。以来18年余、外泊したとき以外は毎朝、ブログをアップしている。

ただし、新聞に転載するようになってからは、意識の逆転が起きた。ブログではなく、まずは新聞コラムの原稿を書く。それをブログとしてネットにも発表する。字数もいつの間にか当初の倍、1000~1200字になっていた。

後日、夫婦で施設を訪ね、面会室でアクリル板越しに親せきと対面した。親せきは90歳だ。車いすに乗っていたが、耳も目も口もしっかりしている。

主にカミサンと近況を報告し合い、時折、私と新聞コラムの話になった。「毎日楽しく読んでいる」という。ありがたいことだ。

いわき民報はニュースペーパーであると同時に、コミュニティペーパー(地域紙)でもある。

暮らしに根付いたブログ=コラムは、男性より女性に読まれる割合が高いのかもしれない。

はがきや手紙、電話をくれた人たち(ほとんどが女性)のほかに、これからは新たに親せきの顔を思い浮かべながら、ブログ=コラムを書くことにしよう。90歳に届け、と念じながら。

2026年7月1日水曜日

糠床がやっと健康に

                      
   5月の連休明けに糠床を新しくした。その1カ月後。食塩の量と、かき回しが足りなかったのか、漬けたものに少し異臭(シンナー臭)が感じられた。糠床をかき回したときにも異臭が立ち昇る。

 これは一大事だ。すぐ食塩を加え、朝だけでなく夕方も糠床をかき回すようにしたら、次第に異臭が薄れ、6月中旬にはようやく糠床らしい香りが戻ってきた。

 キュウリは漬かりが早い。それだけに異臭が染みるのも、消えるのも早い。糠床の状態をストレートに映し出す。

 この時期、キュウリは藤間(平)の直売所から買って来る。去年(2025年)までは普通にスーパーから購入したが、直売所にはもぎたてが並ぶ。

 1袋5本前後。これを数袋買う。といって、私はアッシー君、そして買い物バッグ担当だ。

わが家で食べきれない量を買うのは、カミサンがお茶を飲みに来た友達にお福分けをするためだ。

朝、買ってきたキュウリをすぐ2~3本、糠床に入れる。それとは別に、晩酌時に味噌で生のキュウリを食べる。

新鮮なキュウリは先端をカットすればわかる。断面がみずみずしい。そのうえ、色が緑っぽい。水分がたっぷり含まれている証拠だ。

糠漬けにする材料は私が選ぶ。直売所にカブがあったときにはカブを、今はキュウリとニンジンを棚から取る。

異臭の付いたキュウリと大根を食べきったあと、冷蔵庫で保管するために利用していたパックを洗ってまた使っている。

 そうすれば、パックに残った糠味噌の異臭が新しい糠漬けに移る心配はない。健康になった糠床からキュウリを取り出して食卓に出す=写真。それだけで楽しい。

 あとは好みの味をつくるだけだ。カミサンは少し時間がたって塩味が強くなった古漬けタイプを好む。私はその逆で、あっさりした糠漬けが好きだ。

ドクターからは塩分を取り過ぎないように言われている。が、どうもこの時期はキュウリの糠漬けがやめられない。ご飯のおかずだけでなく、晩酌のつまみにもする。

夏井川渓谷の隠居の菜園で栽培している昔野菜の「三春ネギ」は、お福分けをするほどの量はない。

代わりに、キュウリの糠漬けならお福分けができる。漬ければ漬けるだけ数が増える。

先日、若い友達が来て、わが家の糠漬けの話になった。何年前だったか、キュウリの糠漬けをあげたら「うまかった」という。

そのおだてに乗って、人にあげてもいい糠漬けをつくろう――それが健康な糠床を取り戻す原動力になった。

糠床自身が味をつくってくれる。私は朝晩、糠床をかき回すだけだ。毎日のルーティンのひとつでしかない。難しいことではない。

今度飲み会があるときは、胸を張ってキュウリの糠漬けを出せる。朝晩、糠床に向き合うのは、そんなもくろみもあるからだ。

2026年6月30日火曜日

「文学地理」の視点

 いわき市の草野心平記念文学館と勿来文学歴史館は、考古資料館などとともに、市教育文化事業団が指定管理者になっている。

 令和7(2025)年度は事業団が担当した磐城平城発掘調査の成果を発表する意味もあってか、文学館では「吉村昭と磐城平城」、文歴では「磐城平藩と勿来関」と題する企画展が開かれた。

考古資料館では文字通り磐城平城の発掘成果を披露する企画展が連続2回開かれた。

文学館と文歴の場合は文学×考古(歴史)の学際展示である。私は最初、「文学館でなぜ発掘の展示を?」といぶかったが、磐城平城の落城などが描かれた吉村昭の小説『彰義隊』と融合させた展示内容と知って納得した。

ならば、である。詩人山村暮鳥を軸に、いわき地方に新たな近代詩の潮流が生まれた大正期こそ、学際展示にふさわしい。

いわきの「暮鳥圏」には三野混沌(吉野義也)、猪狩満直、草野心平、そして散文の吉野(旧姓若松)せいがいた。暮鳥圏を考えるとき、いつも「文学地理」という言葉が思い浮かぶ。

心平自身、昭和45(1970)年8月号の詩誌「歴程」三野混沌追悼号に、混沌らとの関係について述べている。「猪狩の川中子と三野混沌の好間と自分の上小川と、ひょろ長い三角形になる」

「川中子」は「かわなご」と読む。平市街の北を流れる好間川が夏井川に合流するあたり、地区としては好間の東端で、満直はそこで生まれた。

「好間」はせいの『洟をたらした神』で知られる、混沌とせい夫妻の開墾地・菊竹山を指す。

そして「上小川」は、平、好間からは夏井川の上流に位置する現小川町の旧村名だ。

このひょろ長い詩の三角形の底辺は平市街と接続している。日本聖公会平講義所に大正元(1912)年秋、牧師として暮鳥が着任する。そこから心平のいう詩の三角形が生まれた。

いわきの近代文学は暮鳥から始まる。いわきの暮鳥を知るには、いわきの風土を、歴史を、地理を知らないといけない。というわけで、「場所の文学」として作品をチェックしたことがある。

『洟をたらした神』は「菊竹山の文学」、満直の『秋の通信』は「内郷村小島の文学」。心平の詩「故郷の入口」はそれこそ「暮鳥圏の文学」そのものだ。文学地理的な視点が作品の理解を深めてくれる。

 心平記念文学館では師走に企画展「小川町の歴史と文化~心平のふるさと~」が開かれる=写真(リーフレットから)。

心平の詩に出てくる「長い竹藪」は令和元年の台風のあと、復旧・復興工事であらかた消えた。「上小川村」に出てくる「ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……」の町並みも実証したらおもしろい。

心平の弟、天平の絶筆にある「新川という沼」や「夏井川に繋がる小川」も知りたい。天平の長男の杏平氏は沼(大小二つあった)で泳ぎを覚えた。小さい沼は釣り専門だったという。

  単なる小川町の「歴史と文化」ではなく、それをベースにした心平・天平の文学地理であってほしい。 

2026年6月29日月曜日

アリの引っ越し、今年も

 しょっちゅう、というわけではない。たまにアリの引っ越しを目撃する。見慣れたアリよりはかなり小さい。

 ぞろぞろと途切れることなく行列が続く。かたまりになって移動する習性があるのだろう=写真。

引っ越しをするアリを検索すると、アミメアリにたどり着いた。3年前の6月中旬、やはりアミメアリと思われる集団移動を目撃して、ブログに書いた。

――在宅ワークにあきて庭に出ると、何か変なものが目に入った。わが家と隣家の間には車1台分の砂利道がある。奥に家がある。

その小道をアリの行列が斜めに横断していた。始まりはどうやらわが家の庭の電柱の根元あたりだ。

行列は隣家のコンクリート塀の根元に沿ってのび、隣家の玄関前の駐車場あたりで見えなくなった。

隣家は、ふだんは空き家だ。住人が亡くなってしばらくたつと、車も処分されて、空きスペースになった。屋根が付いているので、直接、雨が地面にしみることはない。

そんな環境を見つけたわけではないだろうが、電柱の根元からはざっと10メートルは離れている。

アリはかなり小さい。ときどき移動するというアミメアリだろうか。電柱の根元には甕(陶器)のかけらが積み重ねてある。かけらをはがすと、アリたちがわんさといた。

どうも6月になると、アリの引っ越しが見られるようだ。自分のブログを確かめると、震災の翌年(2012年)、やはり今ごろ、アリの行列を目撃している――。

 今年(2026年)はこのアリの引っ越しを、同じところで2回目撃した。それだけではない。砂利道の境にあるススキのそばに車を止めている。

 車を運転すると、ダッシュボードの両サイドにある空気吹き出し口からアミメアリが何匹も出てきた。これが数日続いた。

 アミメアリの引っ越し先は同じ地面とばかり思っていたが、そばに止まっていた車も雨風をしのぐにはぴったりと見て、引っ越してきたのがいたのだろう。

さすがに運転中はアリに気を取られるわけにはいかない。信号待ちのたびにアリを外へ振り払い、振り払いしているうちに姿を見なくなった。これは引っ越し先を間違えたと悟って、また引っ越したに違いない。

と、ここまで書いてきて、図書館から借りたアリの図鑑(ハンドブック)でアミメアリの生態をおさらいした。

このアリは定住巣をつくらず、石下や倒木に野営の巣をつくり、ひんぱんに移動する、とあった。

ならば、である。カミサンがそばのススキを刈り払ったら、根元にアリの巣穴がいくつも現れた。やはり小さなアリが出入りしている。これはアミメアリとは別の種類のアリということなのか。

巣穴の周りが砂で盛り上がっている。そんな習性を持つのは同じ小さなアリのトビイロシワアリということだが、むろん小さくて識別は難しい。

 アリにもいろんな種類がある。庭のアリも1種類ではない。図鑑をながめてはただただアリ界の奥深さに感じ入るばかりだ。 

2026年6月27日土曜日

ほぼ1年ぶりの再会

                       
 週半ばの午後、マチで会議があった。帰宅すると後輩が来ていた。カミサンが「カツオを1匹もらったの」という。

 カツオとはありがたい。でも、だれがさばくの? カミサンは私がやるものと思っている。

 カツオにはアニサキスがいる。さばくだけならともかく、そこまで注意をしないといけないから、シロウトの手には余る。

 ほぼ1年前の7月25日、店のシャッターを下ろすまで毎週日曜日、40年にわたって刺し身を買いに行った魚屋が隣の地区にある。

 店を閉めたとはいっても廃業したわけではない。親父さんのあとを継いだ2代目である。腰を痛めて病院通いをしながら、無理のない範囲で注文をこなしていると聞いた。

 店内にいるかどうかは駐車場を見ればわかる。そこは店舗兼住宅の実家で、自宅は別にある。車があれば来ている、というサインだ。

 とにかくカツオを車に積んで行ってみることにした。車が止まっていた。しかし、見慣れた車ではない。車高が高く、しかも新しい。

 シャッターは下りたままだ。住まいの玄関の呼び鈴を押すと、しばらくしてから本人が現れた。ほぼ1年ぶりの再会だ。

事情を説明すると、「いいですよ」。前と同じように、マイ皿と紙にくるんだカツオを差し出す。

駐車場で待つこと20分余り。1年前と同じように、マイ皿に盛りつけたカツ刺しを持って出て来た。

 生きのいい小型のカツオだったので、半身をさばいて盛り付けたという。「あしたも食べられます。残りの半身はあした、刺し身にして届けますか」

 いくらなんでもそこまでやってもらうわけにはいかない。しかも、さばき代は「いりません」という。であればなおさら、半身は「お礼」として食べてもらうことにした。

 小型であっても半身ともなれば、マイ皿からあふれるような量だ=写真。4列のうち、手前の2列は翌日食べることにして、初日は20切れ余を晩酌の「さかな」にした。

週半ばにカツ刺しで一杯、というのはめったにないことだ。店が終わる最後の日(去年の7月25日)。たまたま若い仲間が家に飲みに来た。前もって予約していたので、マイ皿2つで刺し身のラストパーティーを開いた。

その後は日曜日の「刺し身放浪」が始まり、つい最近ようやくマイ皿を持って行く店が決まったところだ。

 カミサンは2代目とこの1年間の話をし、私は新しくなった車について質問した。「きのう、取り替えたばかりです」「えっ、そうなの?」

そのワケは――。前の車では、腰痛を抱えた人間には車の乗り降りがきつかった。で、車高の高い車に替えたという。

 わかる。私も腰痛持ちになった。接骨院の院長がいうには、「腰痛があると、車の乗り降りがきつい」。実際、姿勢が「く」の字になるので腰の負担が大きい。

 「(魚をもらったら)いつでも連絡してください」。40年に及ぶつきあいは、ダテではなかった。縁とはありがたいものである。

2026年6月26日金曜日

倒木が増えた

                                
   急斜面の倒木が増えた――。週1(日曜日)の夏井川渓谷通いで、ここ何年か実感していることである。

谷間を縫う県道小野四倉線の山側、それも道路から20メートルぐらいの高さまでに生えている「中木(ちゅうぼく)」(大木ではないが小木でもない)が、根から倒れて宙づりになり、あるいは落下して道路をふさぐことがある。

渓谷の県道は唯一の基幹道路だから、通行が遮断されるとたちまち生活に支障が出る。

このため、倒木が道路にかかったり、路上をふさいだりするとすぐ、地元の住民(あるいは道路管理者)が切断して車が通れるようにする。通行が再開されるまでにそう時間はかからない。

東日本大震災のとき以外は、日曜日に倒木や落石で引き返す羽目になった、という事態はまだない。

もともと「落石注意」の標識が立っているV字谷だ。急斜面にはコンクリート吹き付けがなされ、ワイヤネットが張られているところもある。

 この県道を30年間通い続け、見続けている経験からいうと、急斜面の土石が風化して崩れ、それに連動して中木の根が不安定になり、落下ないし宙づりになる――そんな印象なのだが、むろん原因は素人にはわからない。

ワイヤネットに落石が詰まっている。ときにネットからはみ出して路上に転がっている。折れた木の幹や枝が道端に寄せられている。こんなことが近年、渓谷の常態になってきた。

さて――。夏至と重なった日曜日(6月21日)は、朝から雨だった。磐越東線江田駅前の小集落を過ぎ、次の小集落(椚平)を通ったところで、異変が目に入った。

道路わきの中木が倒れて道をふさいだ跡がある=写真。1週間前はなんともなかったところだ。

 ここはわりと緩やかな斜面で、道路からすぐ上を線路が走っている。そこまでののり面はコンクリート吹き付けがなされており、周りに生えた中木が土石ごとずり落ち、倒れて道路をふさいだ。

倒木は路上の部分がすぐ切断されて谷側にどかされたらしく、通行に支障はなかった。

 道の両側にはカラーコーンが置かれていた。ここにもまた、である。渓谷に入ってすぐ、落石を防ぐためのロックシェッドがある。そこを過ぎるとほどなくカラーコーンで通行の注意を促す狭い個所に出くわす。

いっとき護岸工事が始まったと思ったら、いつの間にか中断し、カラーコーンが置かれたままになった。

ほかにも倒木が崖の中腹に残っているところなど、数カ所に注意を促すカラーコーンが並んでいる

急カーブの先ではワイヤネットが道にせり出すように落石で膨らみ、その上に崩れ落ちた土砂がたまっているところもある。これは前にも書いたことだが、渓谷に入るとおのずと「そこにある危険」に敏感になる。

倒木・落石には近年の気候変動が影響しているのだろうか。やがて倒木につながる松枯れとナラ枯れも目に付くようになった。異変が顕在化してきた。山の「茶髪」を見るたびにそう思う。

2026年6月25日木曜日

吉村昭文学館ニュース

                
 いわき市立草野心平記念文学館に行くと、アトリウムロビーにあるスタンドラックから、ほかの文学館のパンフを何点か持ち帰る。

 6月23日も会議があったついでに森鴎外、松本清張、吉村昭などの文学館の「ニュース」を手に入れた。

 家に帰ってパラパラやっていたら、「吉村昭記念文学館ニュース『万年筆の旅』」第26報に、草野心平記念文学館のスタッフが文章を寄せていた。

 今は別の施設に異動した旧知の学芸員で、タイトルには「吉村昭ゆかりの地より資料紹介~いわき市立草野心平記念文学館~『彰義隊』執筆における郷土史家との交流」とあった=写真。

 去年(2025年)の夏、草野心平記念文学館で企画展「吉村昭と磐城平城」が開かれた。

 吉村昭(1927~2006年)は平成16(2004)年10月16日から翌年8月15日まで、朝日新聞に戊辰戦争を題材にした小説『彰義隊』を連載した。

『彰義隊』の主人公は幕府側の彰義隊が担いだ輪王寺宮で、江戸を離れて奥羽列藩同盟の磐城平藩領に入り、さらに北上した様子が描かれる。

企画展はこの小説と、最近の磐城平城の発掘調査を組み合わせたものだった。『万年筆の旅』では、吉村昭を案内し、資料を提供した歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)を主に紹介している。

 それによると、作家は取材のために2回いわきを訪れている。初回は平成14(2002)年9月で、地元の古書店や磐城平城跡を訪ねた(古書店は平読書クラブだろう。当時、店主はまだ健在だった)。2回目は翌年の7月。磐城平城下での輪王寺宮一行の道筋をたどった。

 小野さん提供の資料には、輪王寺宮が通過した村々や護衛の様子、磐城平城の前々藩主安藤信正の拝謁や献上品などの記録があり、これらは小説に反映されているそうだ。

新聞連載中も吉村昭から小野さんに照会があった。小野さんが連載中に指摘した個所は、単行本刊行時には修正されていたという。

このエピソードには「ほほー」となり、「さすが」とうなった。史実を極める作家の本分を見た思いがする。

そういえば――。平成31年(2019年)の地域学會の総会で、相談役の小野さんに記念講演(演題は「『古文書が語る磐城の戊辰史』を語る」)をお願いした。

小野さんはいわき歴史文化研究会の代表でもある。戊辰戦争150年の節目の同30年、同会と磐城平藩の藩士の子孫の集まりである平安会と協働で、『古文書が語る磐城の戊辰史』を刊行した。

この本には「安藤信正書状 上坂助太夫宛」や、江戸から船で北上、平潟に上陸した輪王寺宮に会津まで随行した泉藩御用医師滝川濟の「戊辰日乗」など17点の史料が載っている。

きのう(6月24日)、ある会議で小野さんと一緒になった。『万年筆の旅』の話をしたら、掲載前、吉村昭記念文学館から連絡があったそうだ。とりあえず『彰義隊』を再読しよう。

2026年6月24日水曜日

庭の「主役」が交代

                                
 ミョウガタケからプラムへ――わが家の庭の「主役」が交代した。といっても庭の季節の食材のことだが。

 まずは春のミョウガタケ。同じころ、生け垣にからまるヤブガラシも地面から芽を出す。この2つを毎朝チェックする。一方は食べるために、一方は芽をむしるために。

 ヤブガラシはむしっても、むしっても現れる。ミョウガタケは20センチ前後になると根元からカットして、刻んで味噌汁に散らす。

 以来、2カ月余り。生長の早いミョウガタケは、今ではあらかた70センチを超える。こうなると食べても硬くて筋っぽい。もう眺めるだけにして、8月、根元にミョウガの子ができるのを待つ。

 旬とはよく言ったものである。20センチくらいに生長したミョウガタケは、食べられるのは10日くらいだろうか。

 ヤブガラシの芽むしりは今も続く。毎朝、歯を磨きながら地面に目を凝らす。むしったはずの地面に、次の日にはもう新しい芽が出ている。

そうやって地面を見ていると、新たな若葉が現れ、見る間に地面が緑で覆われる。ドクダミである。白い十字の花が咲いたのでわかった。

花のように見える白十字は、実は総苞片で、ほんとうの花は中央の黄色い粒々らしい。

白い十字のほかに八重咲きのドクダミがある。5年前に気づいた。以来、わが家の庭に限らず、ドクダミの花が咲いていれば八重咲きの有無を確かめるクセが付いた。今年(2026年)も庭で八重咲きを見つけた。

その周囲に小さなプラムの実が落ちている。仰ぎ見ると、プラムの木の枝があおい実をいっぱい付けていた。

夏至と重なった日曜日(6月21日)午後、外出から帰宅すると、駐車スペースにプラムの枝が折れて落ちていた。あおい実をいっぱい付けている。

枝を持ち上げるとかなり重い。これだけの重さを細い枝で支えていたのだ。雨が降っていたこともあって、枝が重さに耐えられなかったのだろう。実をもいでカゴに入れると、枝はずいぶん軽くなった。

プラムの木にはもうひとつ、あおい実をいっぱい付けてしなっている枝がある。これも収穫しないと枝が折れそうだ。

脚立を出し、ロープの付いた腰カゴを首からぶら下げ、あおい実を収穫すると=写真、しなっていた枝が元に戻った。やはり必死になって重さに耐えていたのだろう。

あおい実はカゴの中で少しずつ赤みを増す。あおくても酸味は弱い。黄色くなりかけただけでなく、一部赤みを帯びたものは、ほどよく硬くて甘みが増しつつある。

私は、この状態が食べごろだと思っている。カミサンはもっと熟して、赤くやわらかくなった甘いプラムを好む。

プラムは梅雨の食べ物である。老夫婦2人だけでは食べきれない。ありがた迷惑を承知で、来客にお福分けをする。

プラムの木にはしごをかければ、まだまだ採れる。が、どうもそれができない。足腰のバランスが……。そんな自覚があるので、宙に浮くなんてとても、とても、である。

2026年6月23日火曜日

死んだらどうなる

                                   
 新聞の読書欄か書籍広告かは忘れたが、父親の死をきっかけに、自分の内面の変化をつづった哲学者のエッセー本が紹介されていた。

 岩内章太郎『星になっても』(講談社、2025年)=写真=で、図書館にあったので借りて読んだ。

 本のなかに、著者が初めて死について考えた子どものときのことが出てくる。「死んだらどうなる」という見出しが付いていた。

 「小学校の高学年の頃、人はどうして死んでしまうのか、人は死んだらどうなるのかがどうしても気になってしまい、手当たり次第、先生や両親や友達に訊いてみたことがある」

 ああ、おんなじだ――。小学校の高学年(確か5年生)のときだった。暗闇の寝床で少年週刊誌の死の特集を思い出して、急に死が怖くて眠れなくなった。

昭和34(1959)年春に『週刊少年マガジン』と「週刊少年サンデー」が前後して創刊される。

あるとき、死んで埋められた人間が生き返ることがある、といった特集が載っていた(どちらの雑誌だったかは忘れた)。

死んで埋められたら(そのころはまだ土葬が一般的だった)、生き返ってもそれを伝える方法がない。

木棺と地上をつなぐパイプがないと空気が吸えないし、地上への連絡もできない――11歳なりに思い悩んだ。

そんな折、祖母の住む山の家に泊まった。電気が来ていないので、夜はランプの下で食事をし、行燈(あんどん)の明かりを頼りに寝床に入った。それを消して真っ暗闇になったとき、突然、少年雑誌の特集を思い出した。

人は死ねば土の中に閉じ込められる。生き返ってもひとりそこに取り残される。地上の人間は誰もよみがえりに気づかない。死とは永遠の孤独。孤独には耐えられないと思った。

 『星になっても』の著者は引用した文章のあとにこうつづる。「自分が死ぬのも怖ろしかったが、両親が死んでしまうのはもっと恐ろしかった」

 親が死んだら自分の面倒を誰がみてくれるのだろう。そんな現実の心配も根っこにはあったにちがいない。

 私もそれとなく周りの人間に聞いて回った。最後は3歳上の兄に尋ねて、やっと気持ちが落ち着いた。「みんないつかは死ぬんだ」。これが兄の答えだった。

 それから大人になり、結婚して子どもが生まれ、時が過ぎてまた夫婦2人だけになった。

両親はだいぶ前に彼岸へ渡った。きょうだいも、友人や知人も、ひとりまたひとりと、向こうへ渡り始めた。これからさらに彼岸行きが増えることはわかりきっている。いつ見送られてもおかしくはない。

 生きている人間は誰も死を経験したことがない。その意味では未知の世界だが、死はすでに11歳の時のような孤独の代名詞ではなくなった。

死んだら灰と骨になる。それが現実だとしても、死は生の終着点にすぎない。「死んだら死んだで生きていくのだ」。草野心平流の考えも頭の中をめぐるようになった。

2026年6月22日月曜日

モミの木の年輪

                                 
 夏井川渓谷の隠居の前の電柱に防犯灯が取り付けられてある。この明かりを確保するために、地元の住民が隠居の木の枝葉を剪定し、電柱のすぐそばの立ち枯れモミを1本伐採してくれた。

 カミサンの父親に代わって私ら夫婦が隠居の管理人になったのはざっと30年前。そのころはどの木も細く小さかった。

 この間2回、電力会社が電線保護のために剪定をしてくれた。そのあと、また枝葉が茂ってきた。

2本あるモミの木は2回目の剪定後、立ち枯れた。地元の住民が伐採してくれたのはそのうちの1本である。

根切りされたモミの木の断面=写真=を見ながら、川内村での草野心平の逸話を思い出した。5年前の拙ブログを要約・再掲する。

――いわき地域学會が阿武隈の山里、川内村の村史編纂事業を請け負った。そのときの調査の一コマだ。

私は、山里にまで浸透した幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。

上川内の禅寺、長福寺の矢内俊晃和尚の招きに応じて、心平が川内村を訪ね、村民との交流が始まった。

心平は名誉村民に推戴され、やがて天山文庫が生まれる。心平と交流のあった和尚はガリ版刷りの個人誌「蕭々無縫」を出して、心平との交遊をつづった。そのエピソードのひとつ。

あるとき、心平はまな板用に栗の木の切れ端を村の棟梁に削ってもらう。和尚と一緒の帰り道、木の年輪を見て「君、こっちは北なんだね。こっちは南側だったんだね」という。

「君、同じ南側でも育ち具合が違うんだね。育たなかった年は気候が悪かったんだね。この時は、この木も随分と苦労したろうね。木ばかりでなく、みんな苦労したんだね。凶作だったりして」――

根切りされたモミの木の話に戻る。年輪は、はっきりわかるのは30本。それにプラス5~6年といったところか。私らが通い始めたころはまだ幼木だったことが、これからもわかる。

 根元の東西南北でいうと、東(写真の右側)からは30本ほどだが、反対側の西からは30年プラス5~6年のように見える。

 最後の5年間は強剪定がたたって生長が止まり、年輪の間の間隔が詰まったために東側から見るとプラス5~6年の判断がつかなかったのかもしれない。

 たったそれだけの年数ながら、幹は根元では50センチほどになっていた。根切りをして倒れた瞬間、地響きがした。それだけ木質が重く、稠密にできていたことになる。

 40センチほどの長さに切断して、庭の隅に片付けたが、もしかしたら丸太の椅子になるかもしれない。カミサンはさっそくそんなことを考えているようだった。

2026年6月20日土曜日

亜脱臼から1年

                                           
 毎朝、近くの接骨院で腰をもんでもらう。急に腰痛がきて歩けなくなった。突発性の側弯症だった。

 5月前半の日曜日、夏井川渓谷にある隠居の菜園で1時間ほど草むしりをした。そのときの姿勢と、前々からの腰の張りとが重なって、翌日午後、突然、腰に痛みが走った。

カミサンの肩に手をおきながら車に乗り(運転は大丈夫)、カミサンの通院している接骨院へ行った。

すぐ手当てをしてもらったあと、腰にコルセットをはめると、痛みが消えてひとりで歩けるようになった。

初診ではない。診察券は去年(2025年)6月に出してもらった。ちょうど1年前である。

寝床で本を読んでいるうちに昼寝をし、目が覚めると右肩が異常に盛り上がっていた。腕を上げると痛い。

 カミサンのサポートで接骨院へ出かけた。このときも車の運転は大丈夫だった。肩の亜脱臼だという。

 当時のメモが残っている。「右肩がぽっこり膨らんでいる」。すぐ施術してもらうと元に戻り、湿布薬を出してもらった。

あとは「痛いときだけ来ればいい」。ねんざと違って、正常な位置に骨が戻ったら、それで終わりということなのだろう。

 実際、その後は異常な膨らみも、痛みもない。とはいえ、再発を避けるために寝床と寝方を変えた。

 本を読むための電気スタンドが寝室の右と左の壁際にある。右側の寝床に入り、右肩を下にして本を読むのを何十年も続けてきた。その結果の亜脱臼である。

 接骨院へ行ったその日から、今度は左側の寝床に移り、左肩を下にして本を読みながら眠るようにした。それがこの1年の習慣だ。

 腰の痛みが消え、少し余裕が出たころ、院長に聞いてみた。「肩の亜脱臼からちょうど1年。あのポッコリは何だったんですかね」

 1年前、私は「ぽっこり」はガングリオン(脂肪のかたまり)だと思っていた。そうではなく、「上腕骨頭(こっとう)」がはずれかかった状態だった。はずれると、つまり脱臼すると肩を固定する必要があるという。

 脱臼でも、亜脱臼でもクセになることがあるらしい。それを恐れて寝方を変えたのだが、左肩を下にしていたら、今度は左肩が亜脱臼にならないか心配だ。

自分でもできる手当の仕方がないものか、図書館から本を借りて読んでみた。『とっさの時の応急手当』(徳間書店、1992年)=写真=で、脱臼はあっても、亜脱臼には言及がなかった。

ま、機械に例えれば、亜脱臼は部品がはずれかかっている状態で、ちゃんとはめてやればまた普通に動かすことができる。これが脱臼となると、機械の場合は部品交換というレベルなのだろう。体を長く使うためには、やはりメンテナンスが必要のようだ。

2026年6月19日金曜日

夜明けの動物たち

                                         
 間もなく夏至。夜明けの4時ともなると、もう空は明るい。青空が戻った水曜日(6月17日)の夜明け、起きぬけに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 隠居の屋根にかかる庭木の剪定・伐採を地元の住人(造園業)に頼んだ。2~3日かかるというので、2日目が始まる前に様子を見ることにした。

 既に剪定・伐採された木は庭のヘリに寄せられていた。まるで生け垣のように整然としている。美しい。美しいと感じる仕事を久しぶりに見た。職人としての美意識だろうか。

 それについてはいずれ触れるとして、きょうは隠居までの道行きで出合った「夜明けの動物たち」を紹介したい。

 いつもは日曜日の朝9時前後、神谷~平窪~小川の耕土を過ぎて渓谷に入る。今回は、4時半ごろに家を出た。隠居へは5時過ぎに着いた。

同じルートなのに、車窓に広がる景色が違って見えた。鳥たちは夜明けとともに眠りからさめるのだろう。水を張った青田にシラサギやアオサギがいる。これは日中と変わらない。

 平窪の田んぼのあぜ道に「工事」と「通行止め」の看板が立っている。それぞれの上のはしっこにカラスが止まって、体を激しく上下させながら鳴いていた。

 カラスの体操? 合唱? 朝のあいさつ? なんだ、シンクロしたこの動きは! カミサンと2人、びっくりして大笑いした。

 小川の三島を過ぎ(夏井川に残留コハクチョウの「エリー」がいる)、磐越東線をまたぐ跨線橋にさしかかると、前方の対向車線にカラスが止まっている。

 と見たのは錯覚で、すぐキジの雄だとわかる。雄は車が近づくと右側の土手に消えた。

 そのあとをもう1羽がゆっくり追っていく。キジの雌だ=写真。夜明けの5時前、行き交う車はない。車を止めてパチリとやった。

 キジのつがいはどうやら、左側の河川敷の方から跨線橋に現れ、右側の田んぼの方へえさを探しに向かったらしい。右奥には二ツ箭山が鎮座している。

 平地から渓谷へ――。磐東線の上小川トンネルと磐城高崎踏切が接続する先に渓谷へ入る坂が待っている。「地獄坂」という。

 左にカーブしながら傾斜がきつくなる辺りで、いきなり前方に小動物が現れた。2匹いる。しっぽが長い。車から逃げるように坂を駆け上がりながら、やがて左の杉林に消えた。リスだった。

リスを久しぶりに見た――。そんな感慨にひたりながら江田駅を過ぎて椚平に入ると、またリスが車の前を横切った。

危ない! 私は、スピードは出さない。エンジンをふかして渓谷を駆け抜ける車だと、このリスは避けきれなかったろう。

リスに限らない。タヌキもまたこんな時間帯に、不運にもスピードの出ている車と遭遇して輪禍に合う確率が高いのではないか。夜間だけでなく、夜明けもまた要注意。5時前のドライブでそれを実感した。

路上の「死物」にはできるだけ出合いたくない。同時に、大きな生きた動物にも。さいわいクマらしい生き物は見なかった。

2026年6月18日木曜日

地元の葬祭場

                               
   「多死」という言葉を初めて知った。「日本は多死時代を迎えている」という。新聞に載っていた。

ネットで検索したら、ピークは団塊ジュニア(1971~74年生まれ)が高齢期を迎える2040年ごろで、火葬待ちの長期化、墓の維持の困難といった問題が指摘されている。

多死の始まりはジュニアの親たちだろう。私ら団塊の世代(1947~49年生まれ)のことである。

間もなく80代。他人ではなく、自分のための葬祭場利用を考えないといけない年代になった。一種の「終活」にはちがいない。

葬祭場は身近にあった方がいい。近所の人のためにも、家族のためにも、住み暮らしていた地域で葬儀が営めればそれに越したことはない。

 去年(2025年)の師走、近くにJAの葬祭場ができた。地権者や隣接する行政区の区長らとともに、落成式に招かれた=写真(落成式の資料表紙)。

 近年は核家族化と少子高齢化を背景に、大がかりな葬儀が少なくなったような印象を受ける。一般葬より家族葬を選ぶ家も増えた。

 近所の葬祭場も、一般葬と家族葬の2つに対応できるよう、同じ敷地内に大小2つのホールがある。

やはり「多死社会」に対応してのことだろう。式典のあと、両施設を見学した。そのときの日記から――。

旧神谷村単位でいうと、神谷には葬祭場はなかった。地続きの隣の地区(下神谷)の葬祭場や、夏井川の支流・新川の先にある葬祭場を利用することが多かった。

その意味では、やっと地元の葬祭場ができた。「予約するわけにはいかないが、いずれ世話になるところ」。落成式の出席者の間にはそんな空気が漂っていた。

旧ロッコク(現国道399号)沿いにある。歩いても行けるが、車でならほんの少し大回りをして、旧ロッコクの交差点に出てから左折する方が安心だ。

わが家からすぐ旧ロッコクに出ると、四倉方面から来る対向車両とすれ違う。合間をみて右折するので、ちょっと怖い。

もうひとつ、交差点からそばの夏井川の堤防に出るルートがある。堤防を100メートルほど行って下りればすぐ葬祭場の広い駐車場に着く。

帰りはこのルートを利用すると安心して旧ロッコクを横断できる。マチからの帰路、夏井川の堤防を利用する。その最後の区間でもある。

先日、近所のおじいさんの通夜がそこで行われた。わが家の向かいに故義伯父の家がある。カミサンが庭木の剪定をしていると、ときどき手伝ってくれた。

満95歳。告別式は近親者だけで営むということなので、通夜の席が最後の別れの場になった。半分は一般葬、半分は家族葬ということだろうか。

 故人の孫たちも、すっかり大人になった。カミサンは一気にン十年前の「米屋のおばちゃん」に戻って、孫たちと思い出話に花を咲かせた。これも故人の人徳ゆえだろう。

2026年6月17日水曜日

初キンカン

                              
    家にいて蚊に刺された最初の日を記録している。それをならすと、「初刺され日」は5月20日ごろになる。

 ところが、ここ数年は蚊の出現が早まっている。5月の連休が明けると、そろそろ防虫の準備をしなくては、となる。

 蚊取り線香の有無を確認し、なければ買っておく。刺されたときにすぐ対応できるよう、キンカンも用意しておく。

 今年(2026年)は5月18日に初めてチクッとやられた。すぐキンカンを患部に塗った。「初キンカン」である=写真上1。

蚊取り線香は去年の残りがあった。香りが強い。ふだんは無香の「菊花せんこう」を使っている。それを調達できなかったので別の品を買ったのだった。

煙と一緒に香料が漂ってくると、頭がクラクラする。一種の「香害」である。それが嫌で「菊花せんこう」にしていたのだが……。

蚊取り線香も、チクッとやられた日に初めて使用した=写真上2。香りが茶の間に充満しないよう、玄関の戸を開けたまま、上がり口に置いて蚊を遠ざけた。

6月に入るとぐずついた天気もあって、キンカンも蚊取り線香も使わずにきた。12日に気温が上がると、午後遅くになって蚊が現れた。16日もそうだった。

庭を含めたわが家の蚊の生態を過去のメモから整理したことがある。蚊が現れて人間を指し始めるのは前述のとおり、5月20日前後だ。

ほかには①蚊が姿を消すのはほぼ10月下旬②午後から夕方にかけてはヤブカ、夜はアカイエカに変わる③最近は蚊取り線香をたいてもブンブンやっている――。

蚊が姿を消すのは、このごろは11月に入ってから。つまり、現れるのが早まり、消えるのが遅くなっている。蚊に悩まされる期間が長くなった。

庭にある不要な鉢を逆さにしたり、古タイヤの内側の水を捨てたりして、庭から水たまりをなくさないといけない。草木が密生し、葉が茂りすぎているのも、蚊のすみかになるようだ。

夏場、家の中では24時間、蚊取り線香を絶やせない。そして、困ったことがひとつ増えた。眼鏡である。遠近両用なので、寝床に入るとき以外はかけっぱなしだ。

眼鏡をはずして本を読んでいた一昔前の癖で、額やこめかみ辺りに止まったものをパシッとやる。と、眼鏡のつるをたたいている。

眼鏡にはできれば触りたくない。ゆるんだり、壊れたりする原因になる。我慢すると蚊に刺されっぱなし、ということになる。わざわざはずしてパチッとやっていたのでは遅い。

というわけで、キンカンはパソコンのそばに、蚊取り線香は玄関の上がり口に置いたままだ。そうやってもう1カ月になる。

2026年6月16日火曜日

防犯灯を遮る緑

                                 
    夏井川渓谷の隠居には、県道小野四倉線に沿って敷地の境界に木が植えられてある。

故義父が半世紀前、元は畑だった土地を借りて山側の半分を盛り土し、平のマチにあった家を譲り受けて解体・再建した。

道路との境には、塀の代わりにケヤキその他の若木を植えた。クワの木は畑の名残だろう。これらの木々が50年を過ぎて太く高くなった。

拙ブログで確かめると、原発震災から間もなく1年というときに、電線が引っかかるので電力会社が剪定をしてくれた。

道路に沿って電柱が立ち、伸びてきた架空線が隠居のところでいきなり木の茂みに隠れる。

私ら夫婦が通い始めて最初の剪定が行われてから9年後の令和3(2021)年。今度はこちらから電力会社に連絡して、師走に剪定をしてもらった。

 作業は2日がかりで行われた。初日朝の作業開始時間に合わせて出かけ、あいさつをした。そこで現場のリーダーと再確認したのが、切る高さだった。

こちらの希望は「家の軒下あたり」まで。それだと「木が枯れて突然倒れ、そばを通る車にぶつかる心配がある。屋根の上あたりまで残しておいた方がいい」という。

実生で育ったと思われるモミの木が2本ある。「モミは枯れるかもしれない。そのときは根切りをする」ということだった。

 2回目の剪定から5年。ケヤキやカエデ、クワの木はまた電線を隠すまでに枝葉を広げている。

モミの木は案の定、立ち枯れた。それこそいつ倒れるかわからない。電力会社に電話して事情を説明すると、担当社員が確かめに来た。ついでにほかの木の剪定もお願いした。

 それとは別に、旧知の地元の区長から連絡がきた。隠居のそばの電柱に防犯灯がある。隠居の木の枝葉に隠れているので、夜、明かりが道路に届かない。

 「明かりが届くように区で剪定作業をするが、いいか」という。これも「どうぞ、どうぞ」である。

 6月中旬の日曜日、隠居に着く時間に合わせて作業が始まった。やって来たのは3人。3人は先日、隠居の向かいにある私有地で雑木を伐採した。同じ3人で剪定・伐採作業が行われた。

今度も造園業を営む1人がレッカー車を出し、別の1人が木の枝葉を切り、もう1人が木の切断に加わって、あっという間に作業が終了した=写真(上がアフター、下がビフォー)。

自然景観だけでなく人間の住むエリアでも美しい花の景観を楽しんでほしい、同時に、地域の安全のために防犯灯をちゃんとともしたい――。

そんな郷土愛の延長で電柱のすぐそばのモミの木も1本、伐採してくれた。これでお互いの心配がひとつ消えた。

2026年6月15日月曜日

6月の白雲

    土曜日(6月13日)は「梅雨の晴れ間」のような好天になった。未明の3時半前には、福島地方気象台から雷注意報が発表された。

午前10時過ぎには早くも西の湯ノ岳~三大明神山の上に白雲が現れた。雷注意報が出るわけだ。

しかし、雷鳴は響くが、雨を伴うかどうかはわからない。いつものことながら「雷鳴だけで終わってほしい」。勝手な願望が広がる。

朝、神谷公民館、次いで近くの忠魂碑と戊辰戦争の追福碑の清掃作業が行われた。公民館清掃は、毎年この時期に行われる。神谷地区の8人の区長が老体を鞭打って草刈りをし、ごみ袋に詰める(今回は袋詰めが主)。

それが終わると忠魂碑と追福碑を清掃する。忠魂碑は平六小の裏山公園にある。そばには「殉国碑」も建つ。

神谷市郎著『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年10月に建立された。忠魂碑には、アジア・太平洋戦争の犠牲者は含まれない。『神谷郷土史』にある戦争犠牲者138柱は殉国碑を含めての数だろう。

いかにも神谷らしいのはふもとの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」だ。

神谷村は笠間藩の分領だった。江戸後期、今の平六小に陣屋があった。本藩が新政府軍に加わったため、戊辰戦争では隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。

戊辰戦争の記念碑は2つ。1つは、平六小の校庭にある「奉公碑」だ。『神谷郷土史』によると、大正6(1917)年に建立された。戊辰戦争で幕府軍と戦って斃れた人々の霊をまつる。つまりは自藩の慰霊碑だろう。

もう1つが追福碑で、昭和7(1932)年に建立された。やはり戊辰戦争の犠牲者をまつるが、こちらには「各藩」が入っている。

戊辰戦争の結果、周りは「負け組」になったが、神谷は「勝ち組」に入った。「各藩」が入っているのは、勝ち負けなく弔おうという、一種の政治的判断だったのだろう。

 さて、毎年清掃奉仕をしていると、自分の年齢を考えてしまう。小学校の裏山公園へは何段もの石段を登っていく。年々、たどりつくまでに時間がかかるようになった。

よその区は2年で交代が慣例のようだが、わが区は新しい区でもあるので、なかなか次の人が見つからない。私自身が高齢化の先陣を切っている。その矛盾を考える日でもある。

もう1つ、午後には雷雨が来た。午後1時から夕方5時過ぎまで、いわき地域学會の事務局(故義伯父の家)で仲間と2人、会費納入のための振込用紙をつくり、総会資料などとともに封入作業をした。

3時ごろには雷鳴がとどろき、すぐ北側を雷雨が通過した。すると、暗雲はこちら側にも押し寄せ、南の空が灰色になったと思う間もなく、雷雨がやって来た。

    雷雨はやがて去り、また夏のような青空が戻った。午前・午後と久しぶりにフル回転した。終わって、さあ飲むぞ――と意気込んだのはいいが、すでに体力が尽きていて、すぐ眠くなった 。やはりトシである。 

2026年6月13日土曜日

きょうは何の日

                                
 朝に限らない。その日初めて車のエンジンをかけると、女性の音声で「きょうは○月○日です/○○の日です」と車がささやく。

 耳が遠くなったせいもあって、エンジン音にまぎれてほとんど聞き取れない。6月10日もそうだった。

 あとで新聞を読みながら思い出した。6月10日は「時の記念日」ではないか。私がいわき民報の記者をしていたころは、前日の9日に時計店の広告が載ったり、当日に記事が掲載されたりした。

 今はそんなことはないらしい。10日はどのメディアにも時の記念日を伝えるものはなかった。

ネットで6月10日をチェックすると、あれれ、となった。時の記念日のほかにいろんな記念日が出てきた。

「歩行者天国の日」「商工会の日」「路面電車の日」「ミルクキャラメルの日」でもあるという。

語呂合わせももちろんある。「無糖茶飲料の日」は「6=む」「10=とう」で「無糖」。お茶の伊藤園が制定した。

緑豆(りょくとう)再発見委員会がつくった「緑豆の日」も、「6≒りょく」「10=とう」で「緑豆」だという。

忌日としては文人大町桂月、建築家アントニ・ガウディ、作曲家吉田正など。誕生日では絵本作家モーリス・センダック、プロ野球の日本シリーズで巨人を相手に大逆転劇を演じた西鉄の「鉄腕」稲生和久などがいる。

大町桂月は、いわきでは夏井川渓谷の「籠場の滝」そばに立つ歌碑(「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」)で知られる。

ガウディは今も建設中のサグラダ・ファミリア教会(スペイン)が有名だ。10日に主塔の「イエスの塔」が完成し、ローマ教皇が出席して完成記念式典が開かれた。

たまたま「時の記念日」から発して「きょうは何の日」を検索し、ガウディの仕事に触れた日の夕方、サグラダ・ファミリアのニュースに接した。没後100年に合わせた行事だったという。こんな偶然もあるのだ。

さて、私は、腕時計は持っていない。壊れたのをきっかけに、腕にはめるのをやめた。携帯電話(今はスマホ)を見れば、時間がわかる。それがひとつ。

もうひとつはこの30年余、日曜日に夏井川渓谷の隠居で過ごしていることが大きい。

人間の決めた時間ではなく、自然の移り行きに身をまかせたい。そんな思いが強くなった。時間はひとつではないのだ。

自然の世界はそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。

動物の時間、植物の時間……。冬に眠る木々もあれば、冬に姿を見せるキノコもある。昼間、動き回るもの、夜間に動き回るもの……。種によって時間は異なる。

家にこもっている分には、茶の間にある電波時計=写真=で事足りる。それに、と思う。現役のころは締め切りに追われたが、今は締め切りを追うくらいに自分の時間がある。

朝活でブログの原稿を仕上げる。会議や行事がなければ、あとは自分の時間だ。腕時計から解放された分、気持ちがおおらかになったような感じがする。