2026年8月19日水曜日

高木敏子さんが亡くなった

                                                     
   ベストセラーになった児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者高木敏子さんが8月8日、亡くなった。94歳だった。

『ガラスのうさぎ』は少女の過酷な戦争体験記である。高木さんは東京大空襲で母と2人の妹を、疎開先の神奈川県で米軍の機銃掃射によって父を失った。

終戦直後の昭和21(1946)年2月末、13歳の高木さんは寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、常磐線で焼け野原の東京へ戻る。

しかし、列車は平止まりだった。たまたま列車で同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」がいる。

「おばさん、ありがとう。わたしはきっと、このご縁を一生忘れないでしょう。いつかまた、かならずお礼に参ります」

少女は33年後、誓いを実行する。昭和53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。

私は当時30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。

 当時の記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。(略)残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

幸い「おばさん」が判明し、高木さんは翌年1月4日、再会を果たす。広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。

勿来のおばさんは77歳になっていた。「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」と答えている。

高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした(以上、いわき民報の記事=写真=を参照・引用)

訃報に接して、勿来のおばさんを捜す記事を書いた記者(再会の記事は別の記者)として、当時のやりとりがよみがえった。

 令和元(2019)年8月1日の拙ブログでも高木さんに触れていた。若い人と『ガラスのうさぎ』の話になったこと、新たに高木さんの『ラストメッセージ――ガラスのうさぎとともに生きて』を読んだことを書いている。

――『ラストメッセージ』は、『ガラスのうさぎ』と合わせ鏡の半生記でもある。どちらにも平和への祈りがこもる。

「命の終わりのときには、『ペール・ギュント』の中の『オーゼの死』か『夜明けの歌』、そのどちらかを流してもらいたいとわたしは思っています」――

理由は、青春の思い出がからんでいるからだった。戦後、男子校の第九中学校(現都立北園高校)でイプセンの劇詩「ペール・ギュント」をやったとき、先生からの依頼で第七高女(現都立小松川高校)の生徒だった高木さんが「純情な女」ソルベーグ役でゲスト出演し、グリーグ作曲の歌もうたった――。

訃報を知って、一度だけ聴いたことのある、グリーグのこの曲が思い浮かんだ。

2026年8月18日火曜日

タバコ畑・下

                               
 郡山市立美術館へは南の国道49号、北の同288号の中間、阿武隈高地の丘陵地帯を縫ってのびる県道小野郡山線(県道65号)を利用した。

 いわき市三和町中三坂で国道49号に別れ、国道349号に出てからは、道路沿いの田畑が確認できるスピードで移動した。

 水田がほとんどだった。が、とこどころ草地が出現した。草地はほとんど遊休地と化した元・畑だろう。

 若いころ、月遅れ盆と正月にこの道(国道349号)を利用して、田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家へ帰省した。

 そのころの記憶では、水田のほかにタバコ畑(ところどころトウモロコシ畑)が広がっていた。それが、今はまったく見当たらない。

 田村郡はかつて、全国有数の葉タバコ産地だった。「タバコ畑・上」にも書いたが、私自身、小学生のころは、隣家の農家の「タバコはさみ」(夏)と「タバコのし」(冬)を手伝って、小遣い銭を稼いだ。

 「タバコはさみ」は、タバコ畑から摘んできた葉を縄にはさんで小屋で乾燥させることを言う。

隣家の畑は集落の南を流れる大滝根川の崖の上にあった。丘陵地で周りは全部タバコ畑だった。

「タバコのし」は乾燥させた葉タバコを1枚、1枚広げて束ねることを言う。冬場、隣家の居間で行われた。

「タバコはさみ」のときもそうだったが、手に付いたヤニは、せっけんで洗っても簡単には落ちなかった。

タバコは夏、薄桃色のきれいな花をつける。これには引かれた。拙ブログで写真とともに、その花を紹介したことがある。一部を抜粋する。

――タバコの学名はニコチアタバクム。阿武隈高地では6月下旬~7月上旬が開花期で、2~3輪咲くと芯止めのために摘花される。

細長いラッパ状の、筒は白色、先端はピンク色の星型の花だが、摘花されるために農家以外でちゃんと見ている人は少ないのではないか。

2009年7月上旬、現田村市船引町のJR磐越東線磐城常葉駅付近の畑に咲いていたのを、いわきへの帰路、車を止めて写真に収めた。ニコチンとヤニを含んでいる植物とは思えない清楚さだった――。

そのころはまだ、タバコ畑が普通にあった。阿武隈の山里に張り巡らされた道路は、水田を除けば「タバコロード」だった。

喫煙による健康問題が指摘されるようになってからはたばこの売れ行きが落ち、それを反映して栽培面積が減った。東日本大震災に伴う原発事故がこれに輪をかけた。

田村郡の葉タバコは専売公社が買い取った。民営化されて日本たばこ産業(JT)になったあとの2015年3月、郡山工場が閉鎖された。

 今度のドライブでは郡山からの帰路、磐東線沿いの田村市滝根町広瀬地内でようやくタバコ畑に遭遇した=写真。

道路をはさんで畑が右と左に各1枚。そのあと夏井川沿いにいわきへ下ったが、タバコ畑は結局、これだけだった。阿武隈の「タバコロード」はもう記憶の中にしかないようだ。

2026年8月17日月曜日

タバコ畑・上

                                 
 民俗研究家結城登美雄さんの訃報に接して、図書館から『山に暮らす海に生きる――東北むら紀行』を借りて読んだ話を前に書いた。

 本は「東北点描」「山に暮らす海に生きる」「都市の忘れ物――分校のある風景」「市(いち)から始まる」の4章立てだ。

 福島県内の分を拾うと――。「カラムシ」(昭和村)「宿場町」(下郷町)「ひな流し」(三島町)「ソバの町」(山都町)「椎茸栽培」(熱塩加納村)「コウナゴ干し」(新地町)のほかに、「タバコ畑」(船引町)が紹介されている。

 秋田市の無明舎出版から本が出たのは1998年。その後、山都町と熱塩加納村が喜多方市と合併して、新・喜多方市になった。

船引町も、田村郡の三春、小野両町を除く常葉・滝根・大越3町、都路村と合併して、田村市船引町になった。

結城さんは船引町の美山(みやま)地区を訪ねて、タバコ生産農家を取材する=写真。

「美しい山の畑を見つけた。標高七〇〇メートルに近いタバコ畑」で、耕作者は集落で一番若い農業者である。

両親が切り開いた六反歩の畑を受け継ぎ『なんとか八ケタ(一千万円)の収入を得たい』と傾斜地を開墾して二町歩に広げ、五年前にその目標を達成した」

結城さんは美しい山の畑に感じ入る。「農民はすばらしい自然のデザイナーだ。日当たりを考え、水の流れ、風の通り道を計算し、秋から冬には山の落ち葉を集めて腐葉土を作る」

そして、何代にもわたって築かれた農の基盤、労働の積み上げと知恵の厚みに圧倒される。

それだけではない。仕事の合間に近くの川でイワナやヤマメを捕り、庭先で自給野菜、小麦を育てて自家製のウドンを楽しむ。

私はこの美山地区と同じような風景が広がる隣町の常葉で生まれ育った。家は床屋だが、周りは農家が多かった。

一筋町を出ると、川筋には水田が、山麓には畑が広がっていた。畑はほとんどが葉タバコで占められていた。

町の子どもとはいえ、タバコ畑を見ながら育った。小学校の高学年になると、夏は農家の畑の小屋でタバコはさみ、冬はその家でタバコのしを手伝い、小銭をもらった。アルバイトである。

堆肥枠の腐葉土にはカブトムシが卵を産んだ。夏になるとカブトムシが孵った。常葉にムシムシランドができたのは、こうした環境・背景があったからだ。

「タバコ畑」の紀行文を読みながら、少年時代の夏と冬のあれこれを懐かしく思い出した。

結城さんの「取材をおえて」や「あとがき」を読んで強く心に残ったのは、「都市の基準や市場原理だけで中山間地をとらえてはいけない。それは、東北を個々の現場からとらえ直せ、ということでもある」。

そして、次の言葉を反芻する。「都市で暮らす私たちの食糧は、これらの人々の自然との闘いに支えられて成り立っているのである」

私が中山間地にこだわるのもここにある。出身地でもある。ただただ中山間地を知ってほしい。それだけのことなのだが。

2026年8月15日土曜日

腕カバーはタオル

                                 
 これまでの台風は、南方海上で生まれてから西へ向かい、さらに東へと向きを変えて西日本に上陸し、東日本へと本州を横断するのが一般的だった。

 ところが、台風15号は高気圧が北に後退したからか、生まれは同じ南方海上でもそのまま北上し、東の太平洋から本州にやって来た。

8月11日午後8時ごろ、茨城県南部に上陸し、本州を西へ駆け抜けた。「逆走台風」である。これも「地球沸騰化」の時代の一現象なのだろう。

近年は低気圧自体が狂暴化しつつある。冬でも台風並みに発達して、あちこちに被害をもたらす。それだけではない。日本でも「竜巻」がたびたび発生するようになった。

何年か前に爆弾低気圧が通過したとき、わが家の南隣にある故義弟の家の庭木が傾いた。根が浮いたので始末したが、こんな被害は今までなかったことだ。

気温も高めに推移している。気象庁は今年(2026年)、最高気温が40度を超える日を「酷暑日」と定めた。

 東北最南端の太平洋側(いわき市)では、まだ酷暑日を経験したことはない。が、部分的な酷暑なら毎日経験している。車の窓を開けずに止めておくと、車内が超高温になっている。

そのうえ、南向きだとハンドルが直射日光を浴びて「アチチチッ」となる。庭だけでなく、スーパーなどの野外の駐車場でも同じだ。

家の庭では車の窓を開けておく。「やけど」対策として、ハンドルにはタオルをかぶせる。夏場はそれでタオルが欠かせない。

エアコンは出だしにかけるだけ。走行中は窓を開けて風を入れる。それで十分暑さがしのげる。

問題は太陽が運転席の右側にあるときだ。直射日光を浴びて、むき出しの右腕が熱く、痛くなる。

 ハンドカバーが家にある。それを持ち込んではめるほどではない。腕が熱くなってきたなと思ったら、ハンドル用のタオルを巻きつける=写真。

直射日光にさらされているのは同じでも、熱が布で遮られる。痛みも消える。ハンドルに、右腕にタオルはなかなか効果的だ。

とはいえ、大腿部まで日光が差し込むと、いくらズボンをはいているからといっても、次第に熱を帯びてくる。こちらは我慢するしかない。

これは地球沸騰化だけが原因ではあるまい。子どものころは、日焼けなどは平気だった。川にも、森にもランニングシャツと半ズボンで出かけた。

それが、どうだ。外出には、男だろうが日傘を持って出かけたい、そんなことを考えるようになった。

これも加齢の一現象には違いない。ま、カンカン照りの中を歩き回ること自体、年寄りには危険このうえないのだが。

地球はこれからどうなるのだろう。もういなくなるからいいや、ではない。年寄りだからこそ孫たちの行く末が心配になる。

2026年8月14日金曜日

ターシャ・チューダーの愛読書

                                          
   ターシャ・チューダー(1915~2008年)は絵本画家である。米国のバーモント州でガーデニングを中心とした田舎暮らしを楽しみながら絵筆をとった。

その思想と暮らしを紹介する「ターシャ・チューダー 人生の軌跡展」が、郡山市立美術館で開かれている(8月23日まで)。冠に「夢は叶えるもの」とある。

絵本原画や下絵、ターシャが日々の暮らしの中で愛用した道具の数々、収集したアンティークドレスなど約250点が展示されている(PRチラシ)。

 カミサンはターシャのファンでもある。ターシャのスローライフを紹介する本や評伝を何冊も持っている。

 8月9日の日曜日、開館時間の9時半には着くよう、7時40分に家を出た。アッシー君である。

 いわきのわが家から美術館まではざっと85キロ。予定通り、1時間40分後には美術館に着いた。65歳以上の特典で入館料は900円と、一般より300円安かった。

 ターシャは、カミサンを介して昔から知ってはいたが、ちゃんと向き合ったことはない。糸車や木製シャベル、アンティークの天秤棒、熊手などから、田舎暮らしの楽しさと厳しさを感じた。

 花を中心としたガーデニングにいそしみ、木の実も暮らしに利用する。キノコはどうか? 絵本の下絵、原画をよく見たが、なかった。なんだ、キノコには興味がなかったのか。

 今から16年前の2010年8月、同じ郡山市立美術館で「ビアトリクス・ポター展」を見た。

絵本の「ピーターラビット」の生みの親としてだけではなく、ナショナルトラスト運動の理解・賛同者としての彼女に引かれて出かけた。

彼女はキノコ研究者でもあった。同じ絵本作家でも、ビアトリクスとターシャでは自然に対する興味・関心が異なる。

 唯一、「おっ」となったのは愛読書のコーナーだった=写真。ターシャの蔵書が10冊展示されていた。

 壁にはターシャの言葉が2行に分けて記されている。「本は、どんな船よりもさまざまな異国へ私たちを運んでくれる、すばらしい乗り物です。」。いい言葉である。

 彼女が愛読したのは『ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー詩集』、ウィリアム・ブレイク詩集『無垢と経験の歌』、ウォルター・ドゥ・ラ・メア詩集『トム・ティドラ―の大地』のほか、『シェークスピア物語』『イソップ物語』などだ。

ウォルター・ドゥ・ラ・メアは初めて知った。英国の作家・詩人・児童文学者で、一般にはウォルター・デ・ラ・メアと表記されるようだ。ターシャよりは一世代年長だ。

ターシャはこうした詩人や作家たちの作品を読むことで自分の感性を養ってきたのだろう。

家に帰ると、カミサンがターシャの本を引っ張り出してきた。キノコの有無を探していると、ハリー・デイヴィスの『ターシャ・チューダーの人生』に収録された「飾り罫」のなかにあった。

結局、それだけだったが、全くキノコに興味がなかったわけではないことを知って、ホッとした。

2026年8月13日木曜日

阿武隈高地へ

                                           
   いわきから車で郡山市立美術館へ行くには国道49号を利用し、阿武隈川の手前で右折する。これが一番だが、どういうわけか右折してから道に迷う。

夏井川沿いに小野町へ行き、田村市船引町から国道288号に出るルートがある。このルートでも阿武隈川を渡らずに左折するのだが、やはりそのあと道に迷う。

 カーナビは付いていても使ったことがない。利用法が分からないといった方が早い。それに遠出するといっても、ふだんは夏井川渓谷の隠居止まりだ。使う必要もない。

 分水嶺の阿武隈高地をはさんで、郡山市は西の盆地に、いわき市は東の沿岸部にある。

郡山は標高が郡山駅周辺で230メートルほど、いわきの中心はいわき駅周辺で8メートルほどだ。間を遮る高地では標高500メートル超の山里をピークに、カーブとアップダウンが続く。

 郡山市立美術館で「ターシャ・チューダー 人生の軌跡展」が開かれている。新聞で知ったカミサンが「日曜日(8月9日)に行かなくちゃ」という。いやも応もない。行くからには道に迷わないようにしないと。

同美術館へはこれまでに6回出かけている。拙ブログによると、2009年に1回、2010年と2016年に各2回、2022年に1回の計6回で、2016年の2回目以降は49号と288号の中間、阿武隈の丘陵地帯を縫う県道小野郡山線(県道65号)を利用している。

ちなみに、見に行った企画展は「布ものがたり」「「ビアトリクス・ポター」「ノーマン・ロックウェル」「古民藝もりたの眼」「西洋更紗トワル・ド・ジュイ」「ソール・ライター」で、写真家のソール・ライター展を除けば、カミサンのアッシー君だった。

今回も小野町から県道65号を利用することにした。渓谷の隠居へは帰りに寄ることにして、行きは国道49号から同349号(中三坂から)を経由し、小野インターの先で県道65号に折れた。

郡山市に入ってしばらく行くと大滝根川と並走し、さらに進むとT字路になる。「ニュータウン」へ行く道だ。

そちらへ右折すれば、美術館まではまっすぐなのだが、一度そこを通りすぎて、途中でカミサンから指摘されてUターンしたことがある。

そのため、カーナビ代わりのメモには「ニュータウンの標識を右折」と書き込み、それだけを注意した。で、今回はすんなりたどり着くことができた。

ドライブ中、驚いたことが2つある。いわきの平地と小野町の山里では、道沿いの花とセミの鳴き声が違っていた。

わが家ではミンミンゼミが鳴いていた=写真。ミンミンの声に送られて国道6号(旧バイパス)に入ると、道端には白いシンテッポウユリが咲いていた。これが山里に入ると、ヤマユリの花とアブラゼミに変わった。

ヤマユリは、夏井川渓谷ではすでに花期を過ぎて、どこにも見当たらない。それが阿武隈の山里(田村市はわが故郷でもある)では満開だった。高地へ来たことを実感した。

2026年8月12日水曜日

都市型水害

                                          
   2カ月ほど前になるだろうか。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」地下駐車場に車を止め、エレベーターホールに入ると、押しボタンのわきに「注意/水没被害」のシールが張られてあった=写真。

 地下街や地下駐車場が台風や集中豪雨によって冠水被害に遭う時代、ラトブでも警戒を、ということなのだろう。河川のはんらんだけでなく、新たに都市型水害を意識しないといけなくなったようだ。

シールの内容は、冠水被害が心配されるとき、地下駐車場などに止まっている車の移動・入庫の規制を行う場合がある。そのときは館内放送・誘導員の指示に従ってほしい――というものだった。

 いわき駅前を中心とした平市街では南を新川(旧古川)が細々と流れ、城山をはさんだ北をマチはずれの東へと夏井川が伸びている。夏井川は鎌田地内で急に曲がったあと、蛇行しながら太平洋へ向かう。

 平市街の東方、夏井川の先の旧神谷村に住んでいる。水害常襲地帯だったようで、白土と山崎の境にある新川合流部から下流で夏井川の堤防が決壊すると、集落が冠水する恐れがある。

 大雨のたびに不安がよぎるが、いわき駅前についてはまったく考えたことがなかった。

しかし、ゼロではない。下水路のような旧新川が平市街を流れていたころ、一帯は水害の常襲地帯だった。

ラトブでは地下2階、それも同1階へと通じるスロープの真ん前に車を止める。そこがふさがっているときには近くの空きスペースを利用する。

ラトブがオープンしたのは2007年10月25日。6階に創業者支援室(インキュベートルーム)が設けられ、若い仲間が「ネット古書店」を立ち上げるというので、開業と同時に同居人になった。

私は会社を辞めたばかりだったが、すぐ記念誌などの製作の仕事が舞い込んだため、若い仲間に手伝ってもらった。それで2年ほど、インキュベートルームに通った。

オープン当初はそれこそ、毎日3~4回、地下駐車場から車を出し入れした。止めた階を忘れて、「何階に止めたんだっけ」と慌てたこともある。

1階から地下1階、同2階、そして地下2階から同1階へは「左回り」で進むが、地下1階から1階へは、道路に出るので「右回り」になる。

地下1階に車を止めて地上に出るとき、地下2階と勘違いして、1階で左に回ったことがある。すぐ「逆走」に気づいた。

以来、地下1階が空いていても、必ず地下2階の「マイスペース」を利用するようにしている。

そこが冠水する? にわかには信じがたいが、地球沸騰化時代、今までの常識は通用しなくなった。そのことだけは確かなようだ。

ラトブの地下駐車場が冠水するときには、駅前の道路も冠水して湖になっている――。

そんなことを考えているときに、台風15号が東からやって来て、茨城県南部に上陸した。「逆走台風」と呼ぶメディアもあった。

いわき市は、雨は少なかったが、一日中、暴風が吹き荒れた。暴風警報は、夜8時には強風注意報に切り替わった。やれやれ、である。

2026年8月10日月曜日

地域学と地元学

                                            
 土曜日はBSテレ東で映画「男はつらいよ」を見る。主人公の「寅さん」が全国各地を旅して回る。先日、映画を見ながらふと思った。「男はつらいよ」は「地元学」と結びついた物語ではないか。

地元学を提唱した結城登美雄さんが熱中症で亡くなった。80歳だった。訃報のあとに見たからかもしれない。

結城さんの名前を知ったのは東日本大震災前の2009年8月だった。『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 1地域個性と地域力の探求』『同 4暮らしと景観/三澤「風土学」私はこう読む』(農文協)の2冊が、いわき総合図書館の新着図書コーナーにあった。

「いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう」

この三澤の文章を民俗研究家の結城さんが紹介していた。夏井川の河川改修を見てきた人間には、傾聴に値する言葉だと思った。

私はいわき地域学會に所属している。いわきを総合的に調査・研究することを目的にした個人参加の集団で、「地域学」や「地元学」といわれる分野では老舗的な存在だろう。

それもあって、「地元学」の結城さんには親近感を抱いた。その結城さんが大震災後の2012年11月、いわきで講演した。

市主催のまちづくり・未来づくり講演会で、「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」と題して話した。そのときの拙ブログを要約・再掲する。

――結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、各地で地域おこし活動を行っている。宮城県の旧鳴子町(現大崎市)での「鳴子の米プロジェクト」では総合プロデューサーを務めた。

プロジェクトの過程で多彩なおむすびができる、おむすびを入れる漆塗りの器ができる、くず米を使ったパンができる、といったように、新しい仕事が生まれ、おカネが地域を循環する可能性がみえてきたという。

自然とともに生きる村にこそ可能性がある、未来がある。結城さんは鳴子のほかに、岩手県・旧山形村(現久慈市)の「バッタリー村」、沖縄や宮城県丸森町の「共同店」などの事例を紹介した――。

結城さんの訃報を知って、図書館の本をチェックしたら、『山に暮らす海に生きる――東北むら紀行』(無明舎出版、1998年)があった=写真。

すぐ借りて読み始めると、いわきでの講演でも紹介した「バッタリー村」が載っていた。「バッタリー村」の憲章がおもしろい。

「この村は与えられた自然立地を生かし この地に住むことに誇りを持ち ひとり一芸何かをつくり 都会の後を追い求めず 独自の生活文化を伝統の中から創出し 集落が共同と和の精神で 生活を高めようとする村である」

地元学の要諦は「ないものねだり」ではなく「あるもの探し」、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直そう、というところに共感した。合掌。

2026年8月8日土曜日

緑の塔

                                           
 「日本の夏」から何を連想するか――。若いときはヤマユリと青空にわく入道雲だった。

 40代で夏井川渓谷にある隠居の庭を「開墾」し、家庭菜園を始めてからは「暴力的な緑の繁殖」が真っ先に思い浮かぶ。

 わが生活圏のはずれ、住宅密集地から離れた一角にケータイの無線塔が立つ。塔の下半分はクズの葉で覆われている=写真。

 夏井川渓谷にある隠居までの道筋でも、クズがからまり、葉をまとった電柱や標識柱が何本もある。

 自分の暮らしと直接かかわりがないから、「すごいなー」で通り過ぎるだけだが、わが家の庭や隠居の庭、そして菜園となると、そんなゆとりはない。

 日曜日のたびに隠居の菜園で草むしりをする。草をむしって土が見えるようになったと思っても、すぐ緑に覆われる。

 小さな面積だが、「三春ネギ」のうねが畳3枚分くらいある。そこはがんばって草をむしり、ネギの根元に日光が当たるようにしている。

夏場は朝の1時間が限度だ。曇ってはいても気温は高い。すぐ汗みどろになる。2時間も、3時間も外にいると、熱中症になりかねない。

 そんなあんばいだから、草たちはまた競うように生えてくる。刈り残した風呂場の前のギボウシと、ミソハギが花をつけ始めた。酷暑のなかの一服の涼である。

 そうしたなかでも「収穫」はある。「ふっつぇ」のジャガイモの葉が、ほかの草にまぎれて枯れかかっている。草にまぎれて茎をむしると、小イモが転がり出る。7月には2回、それぞれ5~7個を「収穫」した。

 「こんなちっちゃなイモ、どうすんの?」。カミサンになじられながらも、私には決まった食べ方がある。

 「みそかんぷら」は同じ小イモでも、もうちょっと大きいものを使う。そこまではいかない、まさに豆イモだ。

 三春ネギの苗と豆イモの味噌汁。「ネギジャガの味噌汁」は秋以降が本番だが、夏も間引いた三春ネギと、この豆イモで「ネギジャガの味噌汁」にしてもらう。

三春ネギは、冬場には糖分をためて甘くなる。今は夏。甘くはないが、ネギジャガの味噌汁にすると、やわらかくて香りが立った。三春ネギの個性は夏でも健在だ。

東北地方は8月4日、ようやく梅雨が明けた。近年では2013年と2017年、東北南部の梅雨明けが8月にずれ込んだ。

2013年は8月3日、これがあとで8月7日に修正された。2017年もあとで修正が入った。8月2日に梅雨が明けたが、あとで「特定できなかった」に変わった

7日は立秋。暦の上では「残暑」に入る。新聞の「暑中見舞い」広告は「残暑見舞い」に変わった。

秋になったといっても暴力的な緑の繁殖は変わらない。日曜日の草むしりはしばらく続く。

2026年8月7日金曜日

七夕と機織り伝説

                                
   カミサンのアッシー君をして、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。開催中の企画展「いわきの民俗芸能」は前に見ている。カミサンの用がすむまで館内で待つことにした。

ロビーに七夕飾りがあった。そばの壁面には何枚かに分けて七夕の起源やいわきの七夕祭り、七夕がらみの人と水の関係、なかでも機織り伝説などを解説する文章が張られていた=写真。

それに関連して、いわきの伝説を3つ紹介している。鮫川の「御前淵(ごぜんぶち)」(勿来地区)、夏井川渓谷の「籠場の滝」、そして沼ノ内の「弁天沼」である。

「籠場の滝」の伝説と七夕の風習がどうつながるのか? ここはじっくり読んでみなければ、という気になった。

「籠場の滝」は渓谷の隠居の手前にある。毎日曜日、そばの県道を通る。車から必ず滝の水量と勢いを確かめる。

地元の古老によると、「籠場の滝」の「籠」は、「磐城平藩の殿様の籠」ではなく、「魚止めの滝の籠漁」からきている。その話を聞いたとき、頭の霧がサッと晴れたような気がした。

そのことに触れているかどうか。まずは解説文をチェックする。「殿様が籠から降りて滝に見とれた」という説のほかに、「滝つぼに大きな籠をしかけて魚をとっていたことに由来する説」もあることを付け加えていた。

調べがアップデート(知識の最新化)されているのに安心した。以下は、解説文を下敷きにしている。

日本では、機織りは女性の重要な仕事だった。機織りの技術は信仰とも結びつき、日本に中国由来の七夕文化が定着するきっかけにもなった。

昔は、年中行事は旧暦で行われていた。新暦では季節感などとずれることから、七夕は旧暦に近い8月の6~8日、お盆は13~15日に行われている。

水の中から機織りの音が聞こえる、水底(みなそこ)に機織りをする女性がいる――この「機織り伝説」は、養蚕との関連が指摘されている。

福島県から宮城県を中心とした阿武隈川沿いの地域と、長野県を中心とした地域に機織り伝説が集中している。これらの地域には養蚕が盛んなところが含まれている。

養蚕にはきれいな水が必要だった。養蚕が盛んな地域では沼や淵が神聖な場所として重要視され、七夕伝説と結びついた可能性があるという。そうしたことを踏まえて、水に絡んだいわきの伝説が紹介される。

 「御前淵」では、青年が淵に鉈(なた)を落とす。「籠場の滝」では、長者・江田の伴四郎が脇差を滝つぼに落とす。「弁天沼」では、木こりが沼にマサカリを落とす。

 それを取りに潜った青年(御前淵)、若者(籠場の滝)、木こり(弁天沼)が見たものは――。

 淵の底で機織りをするお姫様(御前淵)であり、水中の御殿(籠場の滝)であり、御殿で三味線や琴を引く弁天様(弁天沼)だった。

七夕にまつわる昔話をひも解くことは、人と水との関係を追求する手がかりとなりうる、という。(折から「いわき七夕まつり」が開かれている。なにかの参考になれば)

2026年8月6日木曜日

夏ネギも軟らかい

                                             
   7月前半のこと。家庭菜園でキュウリの収穫がピークを迎えたらしく、あちこちからお福分けが届いた。

生(な)るときには一斉に生る。作る方も、もらって食べる方も、核家族だから食べきれない。

5本、7本とまとまって届く。まずは晩酌時に生で味噌をつけて食べる。採りたてなのでみずみずしい。

残りは1日2本をめどに糠床に入れる。といっても、キュウリは日を追うごとに水分が飛んで、中身が白っぽくなる。こうなると、漬けてもうまくないので、3~4本まとめて漬けることもある。

漬けている時間は糠床の塩分によって異なる。温度でも変わる。なにかでいちいち測って決めるわけではない。キュウリや大根の漬かり具合、味、そして色を見て判断する。

暑くて乳酸菌の活動が活発なら、12時間にとどめる。これだと、朝入れて夕方には取り出すことになる。今はだいたい24時間漬けておく。

私が手本にしているのは、先日、101歳で亡くなったネギの師匠、塩脩一さん(平北白土)宅でいただいたキュウリの糠漬けだ。

採りたての緑色、シャキシャキとした食感、絶妙な塩味――。キュウリの糠漬けとしては絶品だった。

塩さんにはネギのことをいろいろ教えてもらった。それで、夏井川水系だけでも、下流域の平地は千住系、渓谷あたりから上流では加賀系が栽培されていることを知った。

私が夏井川渓谷の隠居で栽培している「三春ネギ」は加賀系らしい。田村郡からいわきの川前を経由して、小川の渓谷の小集落へと種が伝わった。

現在、スーパーなどで売られている太くて白いネギは、塩さんのいう「いわき一本太ネギ」かどうか、私にはわからない。見た目はきれいで、白くて太い。が、どうにも硬くて味噌汁には不向きだ。

それはともかく、千住も、加賀も秋冬ネギである。夏に買って来て食べるのは根深でも細く小さいものが多い。

先日、高久に住む知人から電話があった。「夏ネギを持って行く」という。翌朝、夏ネギとキュウリ、インゲンが届いた=写真。

キュウリはイボイボが目立つ。すぐ3本を糠床に入れた。夏ネギはその晩、焼いて食べた。軟らかい。葉の部分には蜜があった。地ネギだろうか。

味があっさりしているのは、夏で、寒くて凍らないように糖分をためる必要がないからだろう。

いずれにしても、私はネギとジャガイモの味噌汁を、ネギの味を測る目安にしている。

翌朝、カミサンがこの味噌汁を出してくれた。焼いたときと同じ食感だった。夏ネギもジャガイモとの味噌汁にいいことがわかった。またひとつ、ネギ栽培の根深さを知った。

2026年8月5日水曜日

2人がかりの特殊詐欺電話

               
 予兆は前の晩にあった。カミサンが電話を受けると、「息子」が「同窓会のハガキが届いていないか」という。

 「息子」にしてはガラガラ声である。「風邪で38度の熱を出した」という。その日はそれで終わった。

 翌朝また「息子」から電話がかかってきた。同窓会のハガキの話になったので、「まだ届いてない」。すると、「ところでさぁ、お願いがあるんだけど」と切り出して別の話を始めたという。

 「内緒で株をやっていた。株の配当金が野村証券から振り込まれるから、何時に振り込まれるか、聞いてくれ」

「息子」の症状を心配し、話をすっかり信じたカミサンが、直後にかかってきた「野村証券の担当者」から200万円を振り込むという話を聞いて、「むむむ」となった。

怪しい。こちらの住所、名前を聞いている。すると、次は口座番号か! パソコンですぐ検索すると、似たような手口の特殊詐欺例がヒットした。埼玉県警のホームページにあった=写真。

「特殊詐欺予兆電話情報(7月21日分)オレオレ詐欺に注意!」というタイトルで、「息子や証券会社を名乗るものからの電話」を紹介していた。2日がかりの犯行である。

最初の電話はカミサンが受けた第一報とまったく同じだ。「もしもし俺だけど、実家に同窓会のハガキが来てないか」

翌日、また「息子」から電話が入って、ハガキの話をする。そのあと詐欺の本題に入る。

「お金を預かってほしいんだ。野村証券から300万円が振り込まれるから、口座番号を教えてほしい。野村証券の担当者から家に電話があるから、その人の指示に従ってね」

で、直後に「証券会社の担当者」から電話が入って、うんぬん――という流れになる。

だましのシナリオは何パターンかあるらしく、金額が300万円ではなく、200万円だった。「俺」の状態も風邪だ、なんだと変わるのだろう。

子どものこととなると理性より母性が前に出てしまうのか、ふだんは何かにつけてクールなカミサンも、すっかり思い込んでしまったようだ。

私がネットで検索し、すぐ息子に電話すると、ガラガラ声ではない、風邪もひいていない。電話中のカミサンにすぐメモを渡して詐欺であることを伝える。

それでようやく「警察には連絡したから」とカミサンが相手に言って電話を切った。危なかった。

 ホンモノの息子の忠告に従って、カミサンがいわき中央署に電話を入れて顛末を伝えた。

すると、管内ですでに数十件の電話例があるという。いい対応だった、みんなに声をかけてほしい――そう言われたとか。

埼玉県警が広報したのは7月21日の出来事だった。このところ一斉に電話をかけまくっているらしい。それを信じて口座番号を教え、被害に遭った例もあるにちがいない。

わが家は未遂に終わったが、住所とカミサンの名前はアンダー世界に広がった。今後は、そう覚悟して対処するしかない。

8月4日は特殊詐欺電話にひっかかりそうになった日。このことをしっかり胸に刻むことにしよう。

2026年8月4日火曜日

災害とライフライン

                                 
 最大震度7の「令和8年熊本地震」以来、報道と連動して15年前の東日本大震災・原発事故、そして令和元年東日本台風の被災状況を思い出している。

 被災―避難―再建という流れはたぶん熊本でも同じだろう。統計的な数値は災害の全体像を知る上で大切だが、被害の度合いは1軒1軒、1人1人違う。

鳥の目(全体)から虫の目(個別・具体)へ、虫の目から鳥の目へと視点を絶えず切り替えながら、現在の熊本の状況を想像する。

15年前の大地震では、グラッときた直後は自分の命を守るのに精いっぱいだった。茶の間の本棚とテレビが倒れ、台所の食器棚から皿などが落下した。

庭に飛び出すと大地が波打ち、車の屋根につかまっていないと立っていられなかった。

揺れが収まってから、家の内外を見て回る。2階は惨憺たる状態だった。ブログに掲載した当時の記録を抜粋すると――。

【3月12日】電気は大丈夫だが、水は出ない。11日の夕方、水が細くなったなと思ったら、宵には止まった。

カミサンがコンビニに駆けつけ、氷を買ってきた。融かせば水になる。トイレも水洗ではないので問題はない。

夜10時24分ごろ、震度5弱の横揺れがきた。最初で最大の一撃に比べたら、時間も短く、揺れ方も弱かった。とはいえ、絶えず余震が続いている。

ケータイがかからない。固定電話は「込み合っています」。外からはかかってくる。息子とはそれで連絡が取れた。カミサンの実家からも電話がかかってきた。

【3月13日】知人から「井戸水ならあります」という連絡が入ったので、あるかぎりの容器を持って夫婦で出かけた。

飲むためには一度煮沸しなくてはならない。息子の家の水洗トイレには十分。二度往復して、ひとまず洗い水、飲み水にはめどをつけた――。

12日にはブログの最後にこう記した。「ただただ原発が怖い」。その通りになった。電源喪失をして、建屋が水素爆発を起こし、私らも含めて十数万人が原発避難を余儀なくされた。

沿岸部は大津波に襲われ、多数の死者が出た。いわき市災害対策本部のまとめ(同年7月1日付)では、県の定めた統一基準に合わせて死者が424人になった。

内訳は①直接死293人②関連死94人③死亡認定を受けた行方不明者37人――だった。

 それから8年後、いわき地方は夏井川水系を中心に、「令和元年東日本台風」による水害に見舞われる。

 平窪にある平浄水場が冠水したために、約4万5400戸が断水した。これはこたえた。

 他自治体からすぐ応援の給水車が来た=写真(2019年10月20日撮影)。マチですれ違ったのは草加市の車だった。ありがたかった。

 災害時に最も困るのは水、そしてトイレ。これが、被災者としての実感だ。地震や台風で避難所が開設されたというニュースに触れると、反射的に2つのことが思い浮かぶ。ネットにはいまだ改善されていないという声が多い。政治は何をしているのだろう。

2026年8月3日月曜日

ムカデに咬まれる

                                 
 夏井川渓谷の隠居に着くと、すぐ菜園に生ごみを埋める。そのためにハンドカバーと手袋をはめ、長靴をはく。首にはタオルを巻く。

 暑くても体の露出部をできるだけ少なくする。理由はすり傷・切り傷の予防。もう一つは、ブユと蚊から手足を守るためだ。

 手袋とハンドカバーは玄関の上がりかまちに置いてある。長靴は必ずひっくり返して、中にカメムシが入っていないことを確かめる。

 ある日曜日、いつものようにハンドカバーをはめようとしたら、右手のひらに激痛が走った。なんだ、これは!

 すぐハンドカバーを外すと、上がりかまちにムカデが落ちた。これが中に潜んでいて、急に現れた肉のかたまりにびっくりして、身を守るためにチクッとやったのだろう。

 何年か前、同じ隠居の茶の間で昼寝をしていたとき、手の甲に痛みを感じて目を覚ました。やはりムカデだった。

 そのときの比ではない。痛みが引かないどころか増すようだ。痛みの原因はムカデの毒、とネットにあった。

 台所で水を流しながら、咬まれた周りを指で押し続けた。それで毒成分がしみ出て流れ落ちたかどうかはわからない。キンカンを塗って湿布を張ったあと、急いで生ごみを埋めた。

 痛みはしかし、時間がたっても収まらない。ちょっと不安になって、早々に隠居を離れ、マチで虫刺され用のクリームを買って塗ることにした。

 渓谷からだと平窪が近い。いや、小川町にもドラッグストアがある。渓谷を下っているうちに、カミサンが「小川のコンビニでも薬を売っているよ」という。

 この日朝、そこで飲み物を買った。コンビニの薬のコーナーをのぞくと、虫刺され用のクリームがあった。

毛虫やムカデにも効く、とある=写真。すぐ買って、車の中で患部に塗り込んだら、気持ちが落ち着いた。

そういえば……。隠居で出合った、害虫を含む生き物たちが思い浮かぶ。筆頭はキイロスズメバチだ。

カミサンが草むしりをしていて刺され、時間を追うごとに痛みが増したので、磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救急外来へ駆け込んだ。「今度刺されたら、ためらわずに救急車を呼ぶように」と言われた。

 咬まれたら危ないマムシも、隠居の庭に何度か現れた。マムシはその後、姿を見なくなったが、スズメバチは今も時折、庭を飛び回っている。

 なによりうっとうしいのはカメムシだ。秋も更けると外の寒さを避けて屋内に入り込み、雨戸の溝、衣服、靴、手袋、押し入れのふとんと、場所もモノも選ばずにもぐりこむ。

 それを知らずに手を入れると、強烈な臭いを噴射される。で、カメムシとスズメバチには注意がいくが、ムカデは想定外だった。

 同じ日、隠居の玄関前にアオダイショウの抜け殻があった。カミサンはそれだけで5メートルも離れて、「始末して!」と叫ぶ。

小さな生き物だが、現れればいつもこちらの神経をとがらせる。人間は自然の中で間借りをしているにすぎない。虫の一撃を受けるたびにそんな思いがわく。

2026年8月1日土曜日

大事な罹災証明書

                                    
 「罹災証明書」の申請受付が始まったというニュースに触れて、思い出した。15年前、わが家も申請したんだっけ――。

令和8年熊本地震の続報から目が離せない。どうしても東日本大震災と原発事故の記憶がよみがえる。その経験から被災地の今とこれからに思いがめぐる。

罹災証明書は被災者の生活再建支援に欠かせない。これがあると支援金をはじめ、家の応急修理、税金・公共料金の減免など、各種の公的支援が受けられる。

罹災証明は、申請を受けると行政が現場を見て発行する。しかし、その判定に納得できないときがある。その場合は再申請ができる。わが家もそうした。その記録が2011年の秋のブログに残っている。参考のために要約・再掲する。

――屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っている話を書いたら、匿名さんから「被災申請を出して判定を受けてください」というコメントが入った。

それにしたがって「罹災証明」の申請をしたら、いわき市から人が調査に来た。家は「一部損壊」の判定だった。

その後、知り合いの建築士に話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てである。

それをしたら、東京から応援に来ている公務員氏と判定員の建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数を書きこんだ。「半壊」の判定だった。

判定した建築士さんの話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。

それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた。

道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。推測していたとおりの結果になった。

台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもある。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。

ここはありがたく制度を利用することにした。夜、知り合いの建築士に電話で点数を告げたら、「大規模半壊に近い半壊ですよ」といわれた。思っていた以上に家は傷んでいた――。

最初は見た目だけの判断だったといってもいい。屋根の瓦は、秋に施工業者が見回りに来て、残しておいた未使用の瓦と取り換えてくれた。

しかし、どうもトイレの雨漏りが止まらない。支援金制度を利用して、すぐ2階のテラスを改修したら、雨漏りが止まった。

縁側のコンクリートのたたきも手つかずのままだ。15年たった今は、その亀裂が少し広がったような気がする=写真。

この15年の間にも何度か大きな地震を経験している。それで亀裂が少しずつ広がったのかもしれない。

メディアの震災報道がなくなれば終わりではない。むしろ、そのあたりから個別・具体の問題がのしかかってくる。しかも、それがずっと尾を引く。

2026年7月31日金曜日

津波警報時は通行止め

                               
   7月30日のいわき民報に、カムチャツカ半島沖の地震からちょうど1年を伝える記事が載った=写真。

1年前のこの日朝、カムチャツカの沖合でⅯ8.7の巨大地震が発生し、いわき市の沿岸部にも津波警報が出された。拙ブログによると、わが家では当日、こんな具合だった。

――故義伯父の家の庭でオニユリが咲いた。カミサンは植えた記憶がない。自然に根付いたらしい。

では新舞子海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波特番に切り替えた。15年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた。その記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。やがて鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになったことを伝える。

新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである――。

30日付のいわき民報は、当時の国道6号の渋滞と、その後、平・草野地区に「津波警報時通行止め」の看板が設置されたことを、写真付きで伝える。

このごろは日曜日の夕方、四倉までカツオの刺し身を買いに行く。行きはロッコク(国道6号)、帰りは旧道(浜街道)を利用する。

実は先日、ロッコクと山麓線(主要地方道いわき浪江線)の交差点に、「ここから先津波警報時通行止」の看板が設置されたのに気づいた。

で、7月26日、交差点を通過する際にカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。残念ながらピンボケだった。

「走ってる車から、急に『撮れ』っていわれたって」。確かにその通りだろう。信号待ちで止まったときならともかく、移動中にピントの合った写真を撮れということ自体、無理な注文だ。次回また撮影をと考えていたところに、記事が出た。

交差点の先、クリナップ井上記念体育館前の脇に津波標識がある。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」

さらに行くと、四倉の市街地だ。JR四ツ倉駅に向かう交差点と歩道橋の反対側、海側に右折すると、右手に四倉図書館がある。図書館は公民館に併設されている。近くには鉄筋コンクリート造りの中学校と病院。

海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 歩道橋をくぐった先には、「東日本大震災/津波浸水区域/ここから」と書かれた標識が立つ。ロッコクも津波に沈んだということだろう。

 海岸道路の電柱や標識柱にも、すぐそばの海水面からの高さ(海抜4mとか5m)を知らせる表示がある。

いずれも津波への注意喚起を目的にしたものにはちがいない。そういう標識を日常的に見ながら、いわき市民は暮らしている。

2026年7月30日木曜日

令和8年熊本地震

                                  
 7月28日の夕方、熊本地方で大きな地震があった。第一報をテレビで知ったあと、「いいのみんなの食堂」へ出かけた。帰ってテレビをつけると、NHKは地震特番に切り替わっていた。

 発生から1時間半後、イオンモール熊本で爆発――といった衝撃的なニュースが流れた。

 「東日本大震災」での体験、「阪神・淡路大震災」の映像を思い出して、脳内が震えたのか、真夜中に目が覚めたあとは眠れなくなった。

 未明の3時前には新聞が届く。1面のトップはベタ黒白抜きで「熊本で震度7」とあった=写真。それを見てまた胸が苦しくなった。

「阪神・淡路大震災」、そして「東日本大震災」がそうだったように、時間がたつごとに被害が拡大する。原発は? 「異常なし」の見出しに、ひとまずホッとする。

気象庁が地震名を「令和8年熊本地震」と命名した。熊本では10年前にも同じような場所で大きな地震が起きている。「平成28年熊本地震」である。

何気なく「阪神・淡路大震災」と書き、「令和8年熊本地震」と書いたが、厳密にいうと、前者は「災害名」、後者は「地震名」である。

いわき明星大学(現・医療創生大学)で、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)の非常勤講師をした最初の年に、東日本大震災が起きた。

大震災の影響で開講が1カ月遅れた。原発事故も起きた。それに合わせて講義の内容を替えた。

そのとき、地震名と災害名があることを知った。私が調べて知ったことを伝える講座でもあった。

このブログも、「令和8年熊本地震」の犠牲者を悼み、被災者に思いを寄せるための情報の一つとして受けとめてもらえるとありがたい。自分自身のおさらいの意味もある。

「阪神・淡路大震災」は政府が閣議決定をした災害名。気象庁が命名した地震名は「兵庫県南部地震」だった。

気象庁は自然現象のひとつとして地震をとらえる。その結果、圧死・負傷・家屋倒壊などの災害が甚大だったことから、政府が災害名を決めた。

それと同じく、「東日本大震災」は津波による溺死が多く発生したための災害名で、地震名は「東北地方太平洋沖地震」である。

気象庁の前身は東京気象台。それが中央気象台になり、戦後の昭和31年、気象庁に昇格する。

大正時代には、まだ中央気象台だった。そのなかで「関東大震災」が発生する。これは災害名で、世間一般の通称が定着したようだ。地震名は「大正関東地震」である。

あのとき(東北地方太平洋沖地震のとき)、宮城県栗原市では震度7、いわきでは6弱だった。

震度階級は7止まりだという。理由は、防災上の対応が8でも、9でも変わらないため、だとか。どれほど揺れが強くてもすべて「震度7」となるのだという。

いわきで震度7の地震が起きたら、「大規模半壊に近い半壊」だったわが家はまちがいなく倒壊する。

そのことを思いながら、熊本地震のニュースを追う。そのつど、「あああ」となる。時間が経過するたびに、ライフラインの寸断が明らかになってきた。