2026年5月21日木曜日

カギ交換

                                          
   建物のカギを交換した。今度調べてわかったのだが、木製戸用のシリンダー錠というものらしい。

かぎが古くなったこともあるのだろう。かかりにくくなった。らせん状の溝が摩耗しているのが原因らしい。

ダメになる前に新しいカギに替えなくては――。最寄りのダイユー8に出かけたが、同じ型のカギはなかった。

業者用の系列店(ダイユー8プロ)ではどうか。マチからの帰り、新しくできた店に寄ると、スタッフがカギのコーナーに案内してくれた。いろんなカギがある。さすがは業者向けの店である。

 似たカギを買おうとしたら、アドバイスされた。「商品を開封すると返却はききません。カギ穴の寸法を測ってからにしたらどうですか」。値段が値段だけに、そうすることにした。

商品の説明文をコピーしてもらい、それを参考に実測すると、目当ての商品で大丈夫らしいことがわかった。

後日、また訪ねてカギを購入する。すると、レジで「バナナをどうぞ、コーヒーもあります」と勧められた。

買い物をして飲食物のサービスを受けるのは、たぶん初めてだ。夫婦でバナナを各1本、アイスコーヒーを1杯、セルフでちょうだいした。これだけでまた来なくちゃ、という気になる。

 さて――。めったにやったことはないが、DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)でカギの交換をしないといけない。

折から真夏日のような暑さになった。外にいるだけで汗がにじむ。熱中症予防のために日影ができるのを待ってイスを持ち出し、座って古いカギを取り外した。

といっても止めネジは、簡単にははずれなかった。なにしろ60年以上使ってきたカギである。3つある取り付金具のうち、1つがすっかりさびついている=写真。

計9個あるネジのうち1個は溝がゆるくなって、ドライバーを何度回してもびくともしない。30分もあれば交換できるだろうと踏んでいたが、予想以上に苦戦した。

最後は少し大きなドライバーをバールのように差し込み、グイッとやって、ようやく取り付け金具をはずした。木製戸だからできた「荒業」だ。

それが終われば、今度は新しいカギの取り付けである。前のカギ穴とネジ穴を利用し、取り付け金具を仮止めしたうえで、内側の戸と外側の戸をつなぐカギの開け閉めがスムーズにいくよう調整する。これはわりと簡単にできた。

DIYにもその人間の技量があらわれる。取り付け部が少し曲がって見た目は悪い。が、カギはちゃんとかかるようになった。それでよしとするしかない。

DIYで家を建てた――という話をたまに聞く。カギの交換だけでヘロヘロになった人間からみると、それはもう「神業」に近い。あらためてDIYを日常にしている人に敬意を表したい。そんな思いになった。

2026年5月20日水曜日

「アイディアのレッスン」

                                           
 大活字本の外山滋比古著『アイディアのレッスン』=写真=を図書館から借りて読んだ。

 アイディアはどんなときに生まれるのか。巷間、言われていることを著者も紹介する。たとえば、入浴中。

 「入浴中がよいのは、アルキメデスの例でも明らかである。血のめぐりが普段と変わり頭に快い刺激があって、活発なはたらきをする。その勢いで思いもかけない考えがとび出してくる」

 アルキメデスの例? すぐネットで検索する。 湯船であふれるお湯を見て、アルキメデスは「浮力の法則」を発見した。そのことを指しているようだ。

 私も、アイディアとまではいかないが、入浴中によくブログの文章の直しを思いつく。ここはこうした書き方に、あそこは別の言葉に――。

 確かにアイディア、あるいはそれに近い思いつき、新しい考えなどが生まれる場所を振り返ると、風呂やトイレ、寝床であることが多い。

 やはり「一つの考えにこりかたまってはいけない。別のことをしているときにアイディアは訪れやすい」。

次から次に古今東西のアイディア例が紹介される。博覧強記である。旧知のものも、未知のものもある。

これは旧知のひとつ。昼にときどき、コンビニからサンドイッチを買って来る。サンドイッチの起源は若いころ、本で知った。

イギリスにサンドイッチという名の伯爵がいた。伯爵はゲーム好き(確かトランプ)で、食事中もゲームを続けたい、という思いが昂じて、片手で食事ができる食べ物を考案した。それが今、私たちが普通に食べているサンドイッチである。

思考の枠を拡大したり、視点を変えたりすることも大切になる。パロディやユーモアも元気のもとになる。

「ローマは一日にしてならず」。この成句をもじって、評論家の樋口恵子さんは「老婆は一日にしてならず」と言った。

 後期高齢者になった今、老婆も老爺も一日ではならないことを実感している。その通りだと納得しながら、つい笑みがこぼれる。

ノーベル文学賞を受賞したイギリスの詩人TS・エリオットの代表作「荒地」の冒頭部分もそうだった。

 戦後、鮎川信夫・田村隆一・黒田三郎らが同人誌「荒地」を出して、日本の現代詩をリードする。それにちなんで鮎川らは「荒地派」と呼ばれる。

 同人誌の名前はエリオットの「荒地」に由来する。荒地派の影響を受けて現代詩を読み始めた少年には、「四月は残酷極まる月だ」で始まるエリオットの詩句(西脇順三郎訳)はもはや「現代詩の古典」といってよい。

これがなんと、チョーサーの「カンタベリ物語」序歌の冒頭にある詩句(「四月がやわらかい驟雨をもたらし」で始まる)をふまえたものだったとは、驚きである。

「穏やかな四月」と「二十世紀の荒地」を結合させて「残酷な四月」という新しい言葉を発見した、と著者は言う。

この化合法はもじりとかパロディでもあるが、私には「本歌取り」にも映る。表現は無限。言葉は汲んでも枯れない井戸の水である。

2026年5月19日火曜日

シン糠床

                     
 4月が過ぎ、5月も間もなく下旬。待ったなし、である。3~6日とカレンダーに赤い数字が並び、いつもの黒い数字に戻った7日朝、「よし」と気合を入れて糠床を作った。

 小糠は先日、カミサンの実家(元米屋)へ行って手に入れた。2キロちょっとある。

この量に見合った食塩(地中海産の天日塩)とかつお節や唐辛子、捨て漬け用の野菜を用意する。芽吹いて間もないサンショウの若葉を庭から摘む。これは風味用。

 まずは小糠の乾煎(からい)りである。虫の卵が混入していれば加熱して始末し、水分を飛ばしてから、深さ25センチほどの甕に入れる。

ほかの材料も加え、水を2リットルほどまぶしてよくかき混ぜる。これでわが家4代目の糠床が出来上がった。といっても、まだ「半糠床」である。

水分を含んだ小糠は粘りついていて固い。毎朝、糠床をかき混ぜるのに合わせてカブやキュウリを入れ、一昼夜あとに取り出す(もちろん食べる)。これを繰り返しているうちに、糠床に手がすんなり入るようになる。

いずれ昆布も入れ、サンショウの実も摘んでまぜる。そうして少しずつ旨みと風味が溶け込んだ糠床になっていく。

 3代目の糠床は平成26(2014)年から使っていた。去年(2025年)の夏、コバエらしいものが糠床に卵を産み付けたらしい。わいた虫をそのつど取り除いたが、その数が半端ではない。わずか11年で泣く泣く廃棄した。

 その前、2代目の糠床は東日本大震災と原発事故をくぐり抜けた。これは虫ではなく、手入れ不足でダメにした。シンナー臭が消えなかった。

 糠漬け歴はざっと30年。その間に3回、糠床をダメにしたことになる。甕は台所に置いてある。夏場は室温が高くなる。それも影響しているのだろう。

冬は白菜漬けに切り替える。糠床はその間、冬眠させる。ところが震災前年の冬、白菜漬けだけでなく、糠漬けも続けてみることにした。

すると春がきて「原発震災」が起きた。9日ほど避難して帰宅すると、糠床にはアオカビが発生していた。何日も人の手が加わらなかったために酸欠状態になったのだ。

糠味噌ごと表面のアオカビをかき取り、布を濡らして甕の内側をきれいにしたあと、よくかきまぜた。このときはぎりぎりで糠床が生き延びた。

糠床がダメになる原因は、手入れがちゃんとしていないのが大きい。それができなくなるのが、自然災害や原発事故、そして戦争だ。

 そもそもは夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたのがきっかけだ。キュウリを栽培すると、生(な)るときにはどっと生る。生で食べる、お福分けをする。それでも余る。で、糠漬けにすることを思い立ち、糠床を作ったのだった。

糠漬けは夏場、キュウリなら朝、糠床に入れて、夕方には取り出す。典型的な浅漬けである。

シン糠床を作って10日目。カブを4つに割って一昼夜漬けておくとしんなりした。それなりの味だった。初夏を迎えて朝の習慣が復活した。

2026年5月18日月曜日

最後の会報

                      
   大型連休が終わるとすぐいわきキノコ同好会の「最後の会報」が届いた=写真。前に書いたブログを下敷きにして経緯を振り返る。

  一昨年(2024年)の師走にいわきキノコ同好会の定期総会が開かれた。会の今後が議論された。

結論からいうと、令和7(2025)年度は従来通り活動し、12月の定期総会を最後に解散する。会報第30号は総会時に発行し、最終号とすることが決まった。

それから季節がひとつ巡ったばかりの4月15日に冨田武子会長が亡くなった。享年86。総会で顔を合わせたのが最後になった。

同好会が発足してざっと30年。会員の高齢化と、それに伴う退会が続いた。令和7年は日本菌学会東北支部の観察会・総会がいわき市の石森山周辺で開かれる。受け入れ団体が地元にないのは寂しい、ということも1年間の会存続につながった。

冨田さんはいわき市内の中学校美術教諭を定年で退職したあと、画家として制作活動に励み、ボタニカルアートも手がけた。

それとは別に、菌類にも造詣が深く、いわきキノコ同好会創設時から会長を務めた。私も最初からの会員で、冨田さんから多くのことを学んだ。

年1回発行の会報にはキノコを取り上げた拙ブログを選んで寄稿した。今回も同じ流れで、冨田さんの思い出を中心に文章を組み立てた。

最後の会報が冨田さんの追悼号になるとは、だれも想像できなかったろう。

第30号の発行は冨田さんの遺志でもある。孫の冨田剛さんが祖母の追悼の意味も込めて、原稿の依頼・編集その他を代行した。

コウタケをツルリンドウが囲む冨田さんの絵が表紙を飾る。目次の裏や本文にも計11点の作品が「さし絵」として載る。表紙画と同様、キノコに季節の花を組み合わせたボタニカルアートである。

図鑑のように精緻で、しかも絵画作品としても観賞できる。あらためて冨田さんの画力、そしてキノコに対する愛と知識の深さに感銘を受けた。

会員のほかに、生前、冨田さんと交流のあった福島きのこの会の会長、日本菌学会東北支部の元支部会長、南相馬市博物館のスタッフも追悼文を寄せた。調査・研究を介したネットワークの広さはさすがである。

後半10年間を会員としてかかわった阿部武さん(石川町)が、会報を基にいわきキノコ同好会の30年を振り返っている。

本会の特徴として、①いわき市内で採集された菌類の記録が充実している②会発足に尽力した故斎藤孝さんによる石森山の菌類調査と解説が充実している③全国的なきのこ中毒者数や原因などが会報で報告されている――などを挙げた。

原発事故後は、野生食用キノコの放射線量測定結果も継続して会報に掲載された。これは非常に貴重な記録と、阿部さんは評価する。手元にずっと置いておきたい。そんな気持ちになる最後の会報である。

2026年5月16日土曜日

はんてんの角文字

                                  
 祭りのはんてんに角張ったデザインが施されていた。ラーメン屋のどんぶりのふちに、似たようなデザイが並ぶ。四角い渦巻き模様で「雷文」というそうだ。それを連想した。

 ゴーデンウイーク中の5月4日(みどりの日)、近くにある立鉾鹿島神社の例大祭が開かれた。

 みこし渡御に先立ち、午前10時から拝殿で祭典が執り行われた。夜の大雨は、朝には霧雨に変わり、はっきりしない天気ながら傘は差さずにすんだ。

 祭典が進む中、そばの森からウグイスのさえずりが飛び込んでくる。神社の南には石の鳥居がある。神社との間、つまり境内を常磐線の線路が横切っている。そこを電車が通過する。

 祭典に集中しながらも、耳はウグイスや電車の音を拾い、目は前方、横向きに座っている神社総代のはんてんに注がれる。

はんてんの腰のあたりに雷文のような角張った線の模様が描かれている。そのデザインに引きつけられた。

よく見かけるのは2色(たとえば白と黒)の格子状の「市松模様」とか、菱形を連結したような「吉原つなぎ」だが、それらとは違って、直線を迷路のように組み立てた四角いデザインだ。

前に線路を渡ってみこしが出発するところをカメラに収めたことがある=写真(平成28年5月撮影)。

拡大した画像をあらためてチェックすると、はんてんの背中には赤い文字で「立鉾」と入っている。腰柄は一部、帯に隠れて見えないが、なにか漢字をデザインしたような印象だ。

祭典が終わって、知人でもある神社総代に尋ねると、「さあ」。知人がすぐ宮司さんに聞いた。もちろん意味がある、という答えだった。

すぐ記念撮影に入るというあわただしいときだったので、話はそれで終わった。ただのデザインではない。いよいよ興味がわいてきた。

家に帰って、ネットで画像を検索しているうちに、似たような腰柄に出合った。「角文字」あるいは「角字」というものらしい。

毎年、ゴールデンウイークには祭りが集中する。その画像がSNSにアップされる。今年(2026年)ははんてんのデザインに集中して、いわき市内の祭りの画像をチェックした。似たような角文字は見当たらなかった。

 ほかの神社の例から4文字、あるいは6文字で構成されているようだ。「立鉾鹿島」の4文字は入っていると思うのだが、自信はない。いつか宮司さんに確かめてみよう。

 これは蛇足。角文字は白抜き(白文字)なら「日向(ひなた)」、はんてんの地色と同じ色で、字の周りが白く縁取りされているのは「影」と呼ぶそうだ。

 ついでにもう一つ。線路の前に立つ石の鳥居は、昭和8(1933)年12月、地元の篤志家が寄贈した。その物語をブログに書き、いわき民報にも転載した。

宮司さんに請われて新聞コピーを進呈すると、さっそくコピーして出席者に配布した。私にとってはハプニングながら、望外のPRになった。

2026年5月15日金曜日

6次化商品

                                          
 楢葉町で農家レストランを営んでいる知人が、平へ来たついでにわが家へ寄っていく。カミサンと茶飲み話をして息抜きをするのだろう。

 ありがたいことに、いつも晩酌兼晩ごはんのおかずを持参する。新鮮な野菜にひと手間加えたやさしい味が年寄りにはぴったりだ。

 先日は食べ物ではなく、「楢葉の風」という箱入りの特別純米酒(4合瓶)をちょうだいした。楢葉の新しい地酒である。

今年(2026年)の販売が始まり、テレビや新聞が取り上げた。記事を含めて、あらためてネットで確かめた。

それによると、楢葉町で栽培された酒米「夢の香(かおり)」を使い、楢葉町の姉妹都市である会津美里町の酒蔵「白井酒造店」で醸造した。

東日本大震災と原発事故がおきたとき、楢葉町民の多くが会津美里町に避難した。その縁による。

酒造店の社長が、農業が受けた甚大な被害を知り、一刻も早い復興を願っていた。やがて楢葉の酒プロジェクト委員会が発足すると共感し、酒造りに協力することになったという。

 書は書家金澤翔子さんが担当した。いわき市遠野町に「金澤翔子美術館」がある。遠野に開設されたのは東日本の復興を願ってのことだ。やはり、その延長で揮毫(きごう)したのだろう。

ついでながら、5月10日のNHKローカルニュースで、いわきのハタチ酒プロジェクトの田植えが取り上げられた。酒米は福島県が開発した「夢の香」。「楢葉の風」と同じ酒米だった。

 3・11以後、福島県内の浜通りを中心に、日本酒だけではなくワインやクラフトビール、クラフトジンといった新しい醸造文化の動きがみられる。

 いわきでも川前にクラフトビール「カワマエール」が誕生した。「楢葉の風」も同じ文脈で商品化されたとみてよい。

 それと前後して、平・平窪の「やさい館」で新タマネギを使ったドレッシングを見つけた。

いわき市の隣郡・双葉地区のタマネギを使用したドレッシングで、JAのふたば地区本部が販売元になっている

最初は野菜サラダにかけすぎたが、適量だとさっぱりしていい味だった。前に宅配で取っていた元シェフ特製のドレッシングに近い地産ドレッシングでもある。

「楢葉の風」と「玉ねぎドレッシング」=写真=は、いわば同じ双葉郡内発の6次化商品だろう。

これはもう被災地支援とか、復興応援とかの話ではなく、一般の商品と同じように好みと値段の問題である。口に合って安いから買う、でなければ買わない。それだけの話だ。

そうそう、最近よく行く直売所から新タマネギを2個、おまけにもらった。スライスして生で食べるといい、と教わった。

一度絞ったものにかつお節を振りかけ、醤油をかけると、いいつまみになった。ほんのり辛みがあって焼酎が進む。四里四方というか、同じ生活文化圏内の食材はやはり気持ちをやさしくする。

2026年5月14日木曜日

傘・羽・毛布

                                            
 「うわー、虫がいっぱい落ちてきたー」。カミサンが大声で助けを求める。すぐピンときた。

 家の東側にある生け垣のマサキを剪定していたら、ミノウスバの幼虫が糸を引いて垂れさがったのだろう。

 見るとそうだった。ミノウスバの幼虫がいっぱい、マサキの葉から糸を引いて宙に浮かんでいた。

 糸を切って幼虫を1匹1匹地面に落としていたのでは間に合わない。また幹に取り付いて這いあがる。

 前にこうもり傘を開いて宙に浮かんだ幼虫をまとめてそこに落とし、あとで始末したことがある。その手を使うしかない。

 開いてひっくり返した傘の柄を左手に持ち、右手に庭ボウキを持ってマサキの枝葉をたたくと、幼虫が糸を引いてバラバラ落ちてきた。

 これを繰り返しているうちに、やっと落ちる幼虫がいなくなった。この間ざっと20分。傘の内側にはちぎれた枝葉とともに、ミノウスバの幼虫がうようよしていた=写真。

冷たいようだが、マサキの葉を守るためにはミノウスバの幼虫を退治するしかない。この「捕物」にはとにかく傘が有効だ。

捕虫網も殺虫剤もない。が、虫を退治しないとあとあと大変なことになる。とっさに思い浮かんだのがこうもり傘を「受け皿」にすることだった。

 ある年、初夏なのに葉が食害されて丸裸になった。それに懲りて傘の利用を思い立った。

 それと同じで、日常のほかの場面でもモノがなければ別のモノで代用する。たとえば、電気ひげそり。ときどき小さな専用ブラシで刃を掃除する。

 そのブラシがどこかに消えた。夏になってこたつのカバーを取り外したときにでも出てくるのだろう。

 それを待っているわけにはいかない。何で代用するか。目の前の筆入れにカラスの羽があった。

ふだんはパソコンの画面や眼鏡、キーボードの小さなほこりを払うのに使っている。これをブラシ代わりにしたらどうか。

正解だった。羽毛はしなやかなうえに強い。専用の小さなブラシよりかえっていいかもしれない。刃がきれいになった。

「なにがなんでもブラシが必要」ではなく、「なければないなりに」である。代用できるものがあればいい。身近なモノで用をすませる。

日常のほころびはそうして、いくらでも取り繕うことができる。夜、寝ていて足が冷えたときもそうだ。

たいていは毛布と掛け布団がずり上がって、足が夜気に触れているときにそう感じる。

冷えるのを防ぐために敷き布団の下に毛布を差し込んだら、夜気が遮られた。それで足の冷えもおさまった。

ひげそりだってそうだ。ひげが白くなって目立たたないのをいいことに、2日に1回から3~4日に1回のサイクルに変えた。

まずは電気ひげそりを当てたあと、入浴しながら安全カミソリで深剃りをする。これだと安全カミソリの刃が古くても痛くない。長持ちさせるための「合わせ技」でもある。

傘・羽・毛布プラス合わせ技。本来の用途のほかに応用を効かせる。それで暮らしがうまく転がっていけばいい。

2026年5月13日水曜日

文庫本2冊

                                
 カミサンの茶飲み友達が「読んだから」と文庫本を置いていった。沢野ひとし『ジジイの片づけ』(集英社文庫、2025年)。

 それを晩酌が始まったときに、カミサンが差し出して言う。「『あなたに』って言ってたわけではないけど」

 本のタイトルを見た瞬間、「ジジイを片づける?」。そう早とちりした。カミサンが私の表情を見て、急いで抑えにかかる。「ジジイを片づけるんじゃなくて、ジイサンがやれる片づけの本」

 『ジイジの片づけ』ならほんわかした気分にもなるが、「ジジイ」ではいくら著者の自虐語とはいえ、ムッとくる人もいるだろう。

沢野ひとしは「ヘタウマ」と評される線画が特徴のイラストレーター、という程度の印象しかない。

作家椎名誠とは高校時代からの友達で、椎名誠の本にもイラストを寄せている。それで椎名誠とセットで名前は知っていた。

 それからすぐの日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、マチへ戻っていわき市立美術館の「堀内誠一展」を見た。

 名前の知られた絵本作家・アートディレクターである。さぞや来館者でいっぱいだろう。美術館の駐車場が満パイだったらどこに止めようか。そんなことを案じながら駐車場に入るとガラ空きだった。なんで?

堀内誠一は女性雑誌「anan」(1970年創刊)のロゴマークをデザインしたことで知られる。

 カミサンにとっては青春の象徴のような雑誌だが、「平凡パンチ」派の私は全く縁がなかった。

表紙のロゴマークは強く印象に残っている。むろん、その作者が堀内誠一だったとは当時、知るよしもない。

絵本作家としても活躍した。とはいえ、作品はほとんど見ていなかった。展示物で唯一、懐かしさを感じたのは宮沢賢治の童話「雪わたり」の表紙絵だ。この童話絵本を手に取った覚えがある。

名前だけは超有名だが、作品が思い浮かばないのはアートディレクターとかデザイナーとか、シロウトにはよくわからない業態の仕事をしていたからだろうか。

あまりにも消化不良なので、美術館1階のギャラリー広場で開かれている堀内誠一関連グッズ販売コーナーから、『父の時代私の時代――わがエディトリアル・デザイン史』(ちくま文庫、2023年)を買って読むことにした。たまたまアート系の文庫本が短い間に2冊そろった=写真。

『ジジイの片づけ』は、目次からするとジジイにとどまらず、一般の家庭の片づけにも通じるノウハウ本のような印象だ。すぐできるようなことがあれば、それを参考にしよう。

堀内誠一の自伝の方は、日本の商業デザイン史の一断面とみることができるかもしれない。

いずれにせよ、未知の分野の読み物ではある。これからじっくり読むことにする。

2026年5月12日火曜日

ヤブガラシの芽と土の「ふた」

                                  
 毎朝、庭で歯を磨きながら地面を見ている。そのことを前に書いた。これもその一コマ。

 放っておくと新芽が延びてそばの木に絡みつく。ヤブガラシはそれで繁殖するが、本体の生け垣(マサキ)は光合成を阻害される。

 ヤブガラシの赤い新芽はボールペンの先端くらいの太さしかない。それが地面を突き破って地上に現れる。

 毎朝、赤芽を摘んでいてわかったのだが、先端には光合成をするための葉の赤ちゃんが眠っている。芽が伸びるとすぐ葉が開いて緑色になる。

 摘んでもつんでも、次の日にはまた芽が出る。ほんとうによく現れる。ヤブガラシに限らない。植物の発芽と再生能力はみごとというほかない。

しかも、土よりやわらかい植物体が土のすき間から針のような芽を出す。なかには土の塊を持ち上げる芽もある=写真上1。まるでモグラがマンホールのふたを頭でぐいとやったような感じだ。

そんな小さなドラマを見ているうちに、足元に広がる地面にも興味がわいてきた。土とは何?

ちょっとしか離れていないのに、なぜ発芽の仕方が違うのか。地面の土の構造が影響しているのか。

 実はもう1年以上前になるが、『土と生命の46億年史――土と進化の謎に迫る』(ブルーバック)=写真上2=を買って読んでいた。今も時折、読み返す。

著者は土の研究の第一人者、藤井一至さん。原発事故で汚染された農地の再生を報じる新聞記事で知ったのだが、藤井さんは今、大熊町の農地で土壌分析の協力をしている。

土の専門家が福島県の土壌を調べている。それだけで心強く思うのは、土と植物、キノコの関係がいつも頭にあって、その流れで藤井さんを知っていたからだ。

「土とは岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐植の混合物」と藤井さんはいう。

この定義に従えば、板状に結びついていた土は、ほかの土よりは粘土分が多かったのだろう。

土だけでなく、キノコもまた進化の過程でさまざまに変化した。マツタケのように松の根と共生する菌根菌もあれば、シイタケのように樹木を分解する腐朽菌もある。

「樹木の巨大化が引き起こした土壌酸性化はキノコの進化を促し、今日の森の物質循環が成立するようになった」ともある。

わからないなりにキノコや植物と土の関係にも興味を持っていたことが伏線になって、ヤブガラシが板のように固まった土を持ち上げている姿に「オヤッ」となった。そこから藤井さんの本を思い出した。

ごく普通の家の庭でも、足元に目を凝らすと地球史にも通じる自然の不思議が見えてくる。

2026年5月11日月曜日

「思い出すこと」

                                
   好間町榊小屋の好間川沿いに「ギャラリー木もれび」がある。オーナーの菊田清二さんは、平・祢宜町のセブンイレブンの経営者でもある(今は息子さんに代替わりしたようだ)。

ギャラリーオーナーとして知り合い、コンビニも経営していると知ったとき、店に初めて買い物に行った話をした。

当時、私らは平・下平窪に住んでいた。深夜まで営業する? 興味がわいて、子連れでコンビニをのぞいた。

その後、私たちは平・中神谷へ引っ越した。菊田さんも同じ小学校の学区内に住んでいて、奥さんの英子さんとカミサンがPTAつながりで知り合った。

私もやがて英子さんと「木もれび」や自宅近くの夏井川の堤防であいさつを交わすようになった。

5年前の令和3(2021)年師走、菊田さんが経営するコンビニのチラシが新聞に折り込まれた。

チラシには夫婦連名の「あいさつ文」が載った。「新しい小売業態としてのコンビニエンスの経営に飛び込んで45年になりました。(略)すぐそばにある便利なお店として、これからもお役に立っていきたいと思っています」

出会いの妙というか、偶然の「コンビニ探検」がやがてPTAとギャラリーを介してつながった。

それを踏まえて折り込みチラシの話をブログに書いた。以下の一部も同じブログに書き留めた。

――ギャラリーは、平成17(2005)年に菊田さん夫妻が開廊した。菊田さんの会社のホームページによると、社業はコンビニ部門自然エネルギー部門不動産管理事業――とあって、4番目にギャラリー木もれびが紹介されている。

内容は「いわき市の芸術家の活動の場の無償提供、宣伝、広告とボランティア活動」、つまりは企業メセナ(見返りを求めない芸術文化支援)だ。

「木もれび」は、経済と文化(美術)を往還する菊田さんの思いをエンジンにして、ボランティアが運営を担っている。知人らがそのメンバーに加わっている――。

折り込みチラシは「夫婦連名」。このことが今思い返せば、いかにも菊田さんらしい。

菊田さんの人生の伴走者だった英子さんが令和5(2023)年師走に亡くなる。翌年、菊田さん英子さんの追悼集『思い出すこと』を出した。さらに、それをベースに画文集を出版した=写真。

追悼集は英子さんの死後、英子さんを思い出してつづった文章を、菊田さんの知人が冊子にまとめた。

画文集は「木もれび」の運営にも携わっている元ギャラリー界隈オーナーの佐藤界さんが書と絵を担当した。

先日、菊田さんからこの冊子の恵贈にあずかった。不思議なことだが、菊田さんと顔を合わせると、いつもそばに英子さんがいるような気がしてならない。

菊田さんの脳裏に生き続けているのはもちろん、その思いがあふれてくるからだろう。

2冊の本を読んで、それが間違いではなかったことを確認した。これほど率直な「亡妻記」を読んだことがない。

2026年5月9日土曜日

室温が「夏日」に

                                 
   ゴールデンウイークど真ん中の5月2日に「立夏」を迎えた。天気はしかし、日替わりで雨が降ったり、晴れたりとあわただしい。

 連休明けの7日には晴れて気温が上昇し、わが家では正午に室温が「夏日」を越えて26・5度に達した。

「夏日」には、厚着ではいられない。毛糸のチョッキを脱ぎ、長そでの裾をまくる。今年(2026年)初めて、茶の間のガラス戸と2階の窓を開けた。

日が沈んでも熱気はこもったままだった。晩酌(焼酎)も今年初めて水を用意した。「初水割り」である。

 4月以来、朝食後に庭で歯磨きをしている。ヤブガラシの新芽を摘み、ミョウガタケの生長を確かめる。

ヤブガラシは再生能力がすごい。摘んでも、摘んでも出てくる。ミョウガタケは、3日に1回はカットし、みじんにして味噌汁に散らす。

しかし、4月中はまったく気にしていなかったものが2つある。庭のクモの巣とヤブカだ。

5月に入るとさっそくクモの子が現れた=写真上1。体長は5ミリくらいだろうか。クモの巣にはガガンボがかかっていた。

いよいよか。クモの子を見て覚悟を決める。7日には今年初めて、顔にベタッとクモの巣が張りついた。

これは払うしかない。せめて身長を超えるところに網を張ってくれよ――。そう心の中で叫ぶ。

クモの巣が嫌で庭に花を植えない家があるらしい。そこまで敏感ではないが、庭の食物連鎖を考えると、なるほど、である。

花が咲けば、蜜を吸いに虫が来る。虫がいれば、それをえさにするクモが現れる。そのクモや虫を狩るハチもやって来る。

 アシナガバチも、キイロスズメバチも、間もなくわが家の庭の常連になる。ときには軒下に巣をつくる。

エビネの花が終わり、シランが咲き出した。ヒヨドリが種を運んだと思われるマルバシャリンバイの花も咲いている=写真上2。

となれば、小さな虫たちがやって来る。7日は急に虫が飛び交い出した。クモも網を張るわけだ。

イエカも、ヤブカも現れる。4月末には茶の間でカミサンがパチンとやった。「蚊取り線香は?」。聞くと「去年買っておいたものがあるはず」という。

7日にはやはり茶の間で虫がまとわりついた。チクリとやられたわけではない。が、額をピシャリとやったら黒い虫だった。

庭と茶の間は直結している。戸を開けていれば、昼も夜も虫が迷い込む。いや、迷い込むのではなく、庭の延長と思って現れるのだろう。

とにかく次はひとつ。蚊取り線香をすぐ使えるようにしておく。以上、エアコンのない「昭和の家」の、令和8年初夏の記録。

2026年5月8日金曜日

「清光堂書店物語」

                                                 
 いわき市勿来文学歴史館で、企画展「清光堂書店物語~教科書から繪はがきまで~」が開かれている(6月30日まで)=写真(リーフレット)。

「こどもの日」に夫婦で出かけた。企画展示スペースは狭いのだが、その狭さが気にならないほど中身が濃かった。初めて目にする資料が多かったためだろう。

清光堂書店は明治から昭和初期まで、浜通り有数の書籍文房具商だった。平・二町目の本町通りに本店、才槌小路に分店、今の銀座通りに支店があった。地元の景勝地を扱った「繪はがき」を発売し、郷土出版にも力を入れた。

いわきゆかりの大須賀筠軒の漢詩集や山村暮鳥の詩誌「風景」なども出している。筠軒の漢詩集は息子の大須賀乙字(俳人・俳論家)がまとめた。

暮鳥は大正元(1912)年秋、日本聖公会の牧師として常陸太田講義所から平講義所に着任する。

やがて才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。その斜め向かいの角に清光堂の分店があった。ここで暮鳥は生涯の友となる吉野義也(三野混沌)に出会う。

 磐城平時代の暮鳥と仲間を追っているうちに、およそ100年前のいわきのことが気になりだした。

同時に、いわきの今の文芸の根っこには暮鳥がいる、今のいわきを知るには100年前のいわきを知る必要がある、ということも意識するようになった。

文芸史的にはずっと脇役だった「清光堂書店」に光が当てられた。それぞれ断片としてしか見てこなかった筠軒の漢詩集や「平町市街全図」(地図)、古い繪はがきなどがつながり、書店を経営した人物像(関内米三郎・彦太郎父子)にもピントが合い始めた。

一例が、才槌小路の分店をまかされていた乾康治である。乾は彦太郎の妻の弟であることを初めて知った。

暮鳥の関連資料を読んでいたとき、暮鳥後援者の1人に乾の名前があった。しかし、具体的な関係はわからなかった。

乙字の最初の妻・宮内千代の出身地、旧那珂湊町の縁戚宅に筠軒・乙字関係資料が残っている。いわき地域学會の仲間とそれを見に行ったことがある。

「乙字のトランク」に貴重な資料がいっぱい入っていた。その中にも乾の名前があったように記憶する。

千代は彦太郎の妻とは親戚で、乙字と結婚した際には米三郎が仲人を務めたという。それだけではない。彦太郎の母親は、暮鳥がよく通った平・三町目の「十一屋」の娘だった。

なんと、なんと、である。清光堂を介して二重、三重にも人間がつながっていくではないか。

企画展を監修したのは、いわき歴史文化研究会員の磯上知代子さん。年下の元同僚だ。

企画展を見て駐車場に戻ると、彼女が車でやって来た。企画展が充実している話をしたら、調査をすればするほど課題がみえてくるという。それはこちらも同じ。

話を聞いているうちに、私のなかで1つだったあるところの家系図が、実は2つの家のもの、それを混同していたことを知った。調べが足りないことがよくわかった。

2026年5月7日木曜日

マイ皿復活

                                 
   ゴールデンウイーク中のわが家の出来事を振り返ると、刺し身のマイ皿復活が真っ先に挙げられる。

日曜日の晩は刺し身で一杯と決めている。3月に初めてその魚屋を訪ね、生カツオの刺し身があるかどうかを聞いたら、「カツオは4月になってから」という。竹を割ったような受け答えが好ましかった。

それではと、店頭にあったメヒカリの干物を買って、から揚げにして食べた。ほくほくしてうまかった。

 干物がうまいなら――と、また4月半ばの月曜日、刺身を買いに行くと店が閉まっていた。

なぜ月曜日かといえば、この日、病院で定期検査があったからだ。前夜の日曜日は、それで刺し身と晩酌を控えた。

「一日遅れの日曜日」のつもりだったが、世間はそう簡単には問屋を下ろしてくれない。定休日だったのだろう。

 別のところから買った生カツ刺しの味がイマイチだった。今度こそ食べたい。そんな気持ちがふくらんで、4月の終わりにまた店を訪ねた。

生カツ刺しを15切れほど頼んだ。トレイに盛り付けられたのを、家で印判の皿に移し替え、「笑点」を見ながら「試食」する。悪くはない。

「今度は皿を持ってくるから」。店主に告げていたので、連休ど真ん中の日曜日(憲法記念日)、久しぶりにマイ皿を持って出かけた。

たまたま奥さんも店にいて、ちょっとした会話になる。店主がいう。「ダンナさんは平から?」「そう、神谷から。草野の『魚新』が店をやめてから、ずっと刺し身の店を探してたの」

日曜日の「刺し身ドライブ」の話をすると、マイ皿に盛り付けられたカツ刺しを思い出した。魚新ではいつもマイ皿いっぱい、25切れくらいは盛ってくれた。

量は40代のころから変わらない。それが後期高齢者になって余るようになった。冷蔵庫に入れて、翌朝、海鮮丼のようにして食べる。それでも余れば、にんにく醤油に漬けて揚げたものを晩酌のつまみにする。

その「にんにく揚げ」さえ余ることがある。すると、これを醤油で煮てほぐしたフレーク状のものが出る。これも酒のつまみになる。再利用の再利用だが、それぞれに味が違うのであきることがない。

その店は南と西が開放されている。南側には網をかぶった棚があって、天日干しのメヒカリなどが並んでいる。そのうち雨が降り出し、夫婦でこの棚を西側の軒下に移動した。

軒下にピタッと収まるように棚をつくったのだろう。そのはまり具合に感心していたら、どうもカツオだけでは足りないと判断したのか、タコの足を切ってマイ皿に加えた。値段は? 思ったより安い。

魚新が店を閉じて9カ月。やっとマイ皿に盛りつけられた刺し身=写真=を目で楽しみ、舌で味わいながらグイッとやった。

「町中華」ならぬ「町魚屋」に、やっとたどり着いた感じだ。ここしばらくは「試食」を続けてその味を体にしみこませることにしよう。

2026年5月3日日曜日

歩道が川に

                                           
   朝も夜も天気予報を確かめる。朝はその日の予定のために。夜は翌日の行動を決めるために。

毎日が日曜日の身ながら、カミサンが店を開けているので、朝晩の店の開け閉めなど客人が出入りする家としてのルーティンがある。それをときどき手伝う。

日曜日には夏井川渓谷の隠居へ行き、月曜日にはごみネットとごみ袋を出す。ほかに、アッシー君や会議、買い物や図書館通いなど。私用・共用とりまぜて毎日なにかある。

雨の予報だと、外出の予定があっても変更がきくものは延期する。晴れても風が強ければ、ディスプレイのマネキン(板人形)などは店頭に出さない。

気温もチェックする。寒くなるのか、暖かいのか。寒ければ防寒グッズが必要になる。石油ストーブもつけないといけない。

というわけで、日々、テレビの気象情報を欠かさずに見る。1時間単位で気象の変化を伝えるネットの情報もチェックする。

5月1日もそうだった。雨の予報だったので、前日の4月30日に回覧資料を配った。配り始めるとすぐ車のバッテリーが上がったことは、きのう(5月2日)書いた。

当日はお昼過ぎに大雨になった。風も強まった。この雨風の中、「獏原人村」(川内)の「村長」が宅配の卵を持って来た。

家の前の歩道は冠水し、濁流となっていた。そこを「村長」が平靴で水に浸かりながら店に入ってきた。

濁流の水位はわが家の基礎であるコンクリートの「たたき」近くまで上がっていた=写真。歩道は、年に何回かは冠水する。しかし、そこまで水が迫るのはめったにない。

さいわい雨はすぐ弱まり、歩道の冠水もほどなく消えた。豪雨がそのまま続けば、やがて車道も冠水し、床下浸水がおきたかもしれない――そんな不安が頭をよぎった。

気象台のホームページもよく見る。「最新の気象データ」で現在の雨量と気温を、「過去の気象データ」で前日の雨量を確かめる。

5月1日は、午後2時10分現在で平の雨量が76.5ミリ、さらにざっと2時間後の同4時30分には89.0ミリになっていた。結局、平の5月1日の雨量は89.5ミリだった。

2日付のいわき民報によれば、好間町今新田(いまにいだ)にある「平観測所」では、午後0時43分までの1時間に27.5ミリの降水量を記録した。

この時間帯に家の前の歩道が冠水し、獏原人村の村長が靴を水没させながら卵を届けに来た。タイミングとしては最悪だった。

2日は晴れて、小名浜では夏日になった。風も強かった。4日には地元の神社の祭礼がある。朝10時からの祭典に招待されている。

この日は、朝のうちは雨の予報だ。今年(2026年)はどうも、ゴールデンウイークの天候が芳しくない。

みこし渡御は、車を利用するにしても青空の下でないとなぁ、晴れてほしい――。切にそう思う。

2026年5月2日土曜日

車が来るまで

                              
 「クルマガクルマデ」。あれっ、駄じゃれになっちゃったかな。自分で言って笑ってしまった。「車が来るまで『仕事』は休み」。そう言いたかったのだ。

 「仕事」とは毎月1日と15日の2回、行政嘱託員として区内会の役員さんと、担当する隣組の班長さんに回覧資料を届ける作業のことだ。

わが行政区には隣組が30あって、およそ290世帯が加入している。5月1日は朝から雨の予報だった(その通りになった)。

雨の中を配りたくはない。で、前日の4月30日朝、一日早く回覧資料を紙袋に振り分け、役員さんが担当する分をポリ袋に詰めて、いつものように車で出かけた。

 行政区内には3~4階建ての集合住宅が8棟ある。前はそこに2~3人、区の役員がいたが、今はゼロ。周囲の戸建て住宅の役員さんが分担してカバーしている。

 配達はまず、私が担当している集合住宅の3カ所から始まる。住宅に設けられているごみ集積所のそばに車を止め、1階の郵便受けに紙袋を差し込んだあと、戻って車のエンジンをかけようとしたら……。

表示盤は点灯したが、車はまったく動かない。バックに切り替えても同じだ。燃料は満タンにしたばかりだから、バッテリーか?

その場からすぐ個人事業主でもあるディーラーに電話をかけた。運よく会社にいて、事情を説明するとすぐ駆けつけてくれた。

車の症状を見て「やはりバッテリーらしい」という。ディーラーは、乗ってきた車を代車として残し、携帯した機器を使って私の車のエンジンをかけ、バッテリー交換のために会社へ運転していった。

代車での配達は心もとない。いったん家に戻り、自分の車が戻って来るまで、家で待機することにした。そのとき、カミサンに言ったのが「クルマガクルマデ(車が来るまで)」だった。

結果はやはりバッテリーだった。故障からざっと5時間後、車がきれいになって戻ってきた=写真。

それまで配達は中断したままだ。休んでいるところへ、当日の4月30日付でコピーされた回覧資料が届いた。

建前は5月1日配布とはいえ、朝から雨の予報だから一日早く動いたのだが、いくらなんでも30日の持ち込みはギリギリすぎないか。

しかたない、配達できずに持ち帰った回覧袋にこれを追加し、すでに配布した3カ所には別袋でまた届けることにした。

配達を始めるとすぐのトラブルで、未配達の隣組がほとんどだったので対応できたが、配達が終わったあとだったら、資料は15日回しにするしかなかった。

ギリギリになって届いた資料を見ると、5月初旬の行事予定が入っていた。やはり今回配らないと「あとの祭り」になる。

回覧を頼む側は、せめて配達日の2日前(5月1日なら4月29日)までに資料を届けてくれないと困る。下準備が1回で終わらずに、二重になる。

車のトラブルといい、ギリギリの資料持ち込みといい、今回はおつりがくるほど心がざわついた。

2026年5月1日金曜日

笑点とピタゴラスイッチ

                               
 日曜日の夕方は茶の間の座卓に皿(生カツオの刺し身)と茶わん(焼酎)、ポット(お湯)が並ぶ。

 刺し身をつついては焼酎、次いでお湯を口に含む。一瞬、焼酎の生(き)を楽しんでから、のどの奥でお湯割りにする。

 座卓の先にはテレビがある。5時半になると「笑点」を見る。大相撲のときは、「笑点」の後半の「大喜利(おおぎり)」の時間にNHKから4チャンに切り替える。

 「笑点」は昭和41(1966)年5月にスタートした。今年(2026年)で放送開始60年である。

 いわき市もまた同じ年の10月1日に14市町村が合併して誕生した。今年、市制施行60年である。

同じ60年ということで、なにかつながれば面白い――。これはしかし、単なる外野の思い付きにすぎないが。

ついでにいえば、いわき市立草野心平記念文学館で開かれている企画展「草野心平と川内村」は、心平ゆかりの天山文庫設立60周年を記念したものである。

大喜利の話に戻る。番組開始から60年というのは長寿も長寿、大長寿番組だ。人気のひけつは「大いなるマンネリズム」だそうだ。

司会者(落語家)が「お題」を出し、常連メンバーの6人(やはり落語家)がトンチを利かした答えを披露する。

やりとりはパターン化されているが、実にさまざまなお題があるから、毎回新鮮であきがこない。

 「よい答え」も「悪い答え」も、それなりに凝り固まった頭をほぐしてくれる。脳みそのマッサージ効果が大喜利の最大の魅力といってよい。

マッサージ効果という点では、Eテレのピタゴラスイッチ=写真=もなかなかのものだ。「ピタゴラ装置」にはいつもびっくりする。

文房具やトイレットペーパーの芯、ビー玉……。なんでもいい、家に普通にあるようなものを組み合わせて、球がころころ転がっていく流れをつくる。

こちらは平日の晩酌の時間によく見る。ニュース番組の合間にチャンネルを合わせ、夫婦でいつも感心する。よく考えつくものだ。

 6年前、94歳で亡くなった安野光雅さんも遊び心に満ちていた。自著のタイトル『語前語後』は、「午前午後」をもじったものだろう。

その中にピタゴラスイッチについて書いた文章がある。「ある日、テレビを見ていて、すごくおもしろい番組に出会った。忘れないために書き留めたが、『ピタゴラスイッチ』というもので、以前評判になった『セサミ・ストリート』よりうんといい、とわたしは思う」

森毅編著『キノコの不思議――「大地の贈り物」を100%楽しむ法』でも、安野さんは遊び心を発揮した。

毒キノコのワライタケにひっかけて、「ナキタケ」を創案した。ワライタケがあるならナキタケがあってもいい――そんな対語的発想、遊び心で存在しないキノコを生み出したのだろう。

車のハンドルに必要なのは「遊び」。笑点もピタゴラスイッチもこの「遊び心」を刺激する番組ではある。

2026年4月30日木曜日

牛乳瓶とドレッシング

                                 
   牛乳は昔ながらの瓶詰めを宅配で取っていた。金と月の週2回、各2本が届いた。

牛乳箱は勝手口にある=写真。そこにある日、配達する人間が入院したので宅配を休止するという「お知らせ」が入っていた。宅配はそのまま復活することなく終わった。

 牛乳瓶にこだわるわけではない。が、宅配牛乳は瓶詰めという子ども時代からの記憶がある。飲んだら空き瓶を箱に戻す。それで牛乳宅配は回っていくものだと思っていた。

 コンビニで買う「コーヒー牛乳」は紙パック入りだが、宅配はやはり瓶詰めが安心できる。その瓶詰め宅配がなくなったことはやはり寂しい。

 調味料の一種、タマネギをベースにしたドレッシングもそうだ。いわきに住む元シェフが製造し、月に1回、本人が持って来た。

 やはり入院するのでしばらく製造は休むという連絡があったが、いまだに宅配は再開されない。

 このドレッシングがあると、生野菜のサラダがおいしく食べられる。ドレッシングの甘みとほのかな酸味、風味がからんで舌が喜ぶ。そのことを前にブログに書いた。一部を引用する。

――元シェフとカミサンが話しているのを耳にしたことがある。「新玉ネギを使っているのでサラッとしています。お客さんのなかには『とろみ』が少ないという人もいます」

手づくりのオリジナルドレッシングだから、同じ原材料でも季節によって微妙に味が変わるのだろう。

 東京から来た人が、このドレッシングサラダを食べてうなったことがある。東京までドレッシングを送る量はないが、客人が東京から来たときにおみやげ代わりに持たせてやるくらいのことはできる。これも、いわきの味にはちがいない。

ドレッシングの商品名は「分離液状ドレッシング」、原材料は「食用植物性油脂、穀物酢、玉ネギ、ニンジン、砂糖、食塩、ニンニク、胡椒(こしょう)」と、ボトルのラベルにある。

使うときにはボトルを逆さにして、シャカシャカやる。それで油分と水分がほどよく混じり合う――。

わが家では、カミサンが知り合いの分もまとめて引き受けていた。知り合いがドレッシングを引き取りに来ながら、お茶を飲む。

宅配の卵もそうだ。ドレッシングは中断したままだが、卵があるので「女子会」(お茶飲み)は今も続く。

 瓶詰め牛乳とドレッシング。この2つの代用品は紙パック入りの牛乳と、市販の各種ドレッシングだが、スーパーではどれを買うか、いつも迷う。

牛乳はともかく、ドレッシングはタマネギをベースにしたものを選ぶようにしている。しかし、これぞというものがまだない。

 個人営業だと、融通が利く。1人ひとりの注文にこたえられる。そういった柔軟性、ふところの深さがある。そんな小さな事業所がひとつ、またひとつといった感じで消えていく。これも高齢社会の一断面なのだろう。

2026年4月29日水曜日

トレインド・ナース

                                              
 新しい朝ドラ「風、薫る」は、明治の世になって「看護婦」として生きる2人の女性が主人公だ。

 早くも「トレインド・ナース」という言葉が出てきて、視聴者は「何、それ?」となったのではないか。私がそうだった。

 主役のひとり、一ノ瀬(奥田)りんは嫁ぎ先を飛び出し、幼い娘を連れて上京する。そこで大山捨松に再会し、「トレインド・ナースにならないか」と勧められる。

りんが母親にその話をする。母親は元家老の妻だ。それなりに教養がある。「トレインくらいは私だって知っている、汽車でしょ」には思わず笑った。

小泉八雲夫妻を描いた前の朝ドラ「ばけばけ」でも似たようなシーンがあった。英語という新しい文化の波が地方にも及び、英語を知らない人間は発音が近い日本語を思い浮かべて首をひねる。このトンチンカンはドラマの潤滑油でもある。

「風、薫る」が第4週に入ったころ、図書館の新着図書コーナーに、山下麻衣『「看護婦」の近代社会史――誇りが啓いた自立への道』(朝日新聞出版、2026年)があった=写真。

第1章に「トレインド・ナース」の話が出てくる。りんの母親と同様、「トレインド」を「トレイン」、「ナース」を「茄子」か「那須」と勘違いしてしまうようなレベルだから、ここはちゃんと読んでみるか――という思いがわいた。

まずは「トレインド・ナース」の意味から。専門教育を受け、病院での体系的な実習を経て資格を与えられた看護婦をいうそうだ。

現在は一般に「看護師」を使うが、著者は歴史的用語としての「看護婦」を用い、本のタイトルにも使った。私も著者の考えに従う。

英語の綴りでは「Trained Nurse」。この綴りを知って、「トレインド」と「トレーニング」の親和性に気づく。

日本でトレインド・ナースの先駆けとなったのは、朝ドラのモデルでもある大関和(ちか)と鈴木雅(まさ)たちだ。

それぞれの経歴を読んでわかったのだが、ドラマの主役2人は、大関和、鈴木雅とはっきり分けられるものではなく、彼女たちの個性を再構成して、新しい人物像を描いている。ドラマづくりとしては当然だろう。

史実としては、桜井ちかという人が明治9(1876)年、桜井女学校を創設する。その学校に同19年11月、付属の看護婦養成所が誕生する。

修業年限は2年で、2年次には帝国大学付属第一病院で臨床実習が行われた。同21年10月、大関和、鈴木雅ら6人が病院から修業証書を授与された。

ドラマは第5週に入って、主人公たちが看護婦養成所に入学するシーンにかわった。「梅岡女学校付属看護婦養成所」と看板にあった。

史実では「桜井」、ドラマでは「梅岡」。そのことは本を読んでいたのでわかった。

ついでながら、ネット検索でトレインドとトレーニングは原義が同じであり、トレインもまたその派生語であることを知った。

最初はりんの母親の勘違いを笑ったが、今はあながち間違いともいえないと思っている。