ベストセラーになった児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者高木敏子さんが8月8日、亡くなった。94歳だった。
『ガラスのうさぎ』は少女の過酷な戦争体験記である。高木さんは東京大空襲で母と2人の妹を、疎開先の神奈川県で米軍の機銃掃射によって父を失った。
終戦直後の昭和21(1946)年2月末、13歳の高木さんは寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、常磐線で焼け野原の東京へ戻る。
しかし、列車は平止まりだった。たまたま列車で同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」がいる。
「おばさん、ありがとう。わたしはきっと、このご縁を一生忘れないでしょう。いつかまた、かならずお礼に参ります」
少女は33年後、誓いを実行する。昭和53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。
私は当時30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。
当時の記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。(略)残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」
幸い「おばさん」が判明し、高木さんは翌年1月4日、再会を果たす。広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。
勿来のおばさんは77歳になっていた。「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」と答えている。
高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした(以上、いわき民報の記事=写真=を参照・引用)
訃報に接して、勿来のおばさんを捜す記事を書いた記者(再会の記事は別の記者)として、当時のやりとりがよみがえった。
令和元(2019)年8月1日の拙ブログでも高木さんに触れていた。若い人と『ガラスのうさぎ』の話になったこと、新たに高木さんの『ラストメッセージ――ガラスのうさぎとともに生きて』を読んだことを書いている。
――『ラストメッセージ』は、『ガラスのうさぎ』と合わせ鏡の半生記でもある。どちらにも平和への祈りがこもる。
「命の終わりのときには、『ペール・ギュント』の中の『オーゼの死』か『夜明けの歌』、そのどちらかを流してもらいたいとわたしは思っています」――
理由は、青春の思い出がからんでいるからだった。戦後、男子校の第九中学校(現都立北園高校)でイプセンの劇詩「ペール・ギュント」をやったとき、先生からの依頼で第七高女(現都立小松川高校)の生徒だった高木さんが「純情な女」ソルベーグ役でゲスト出演し、グリーグ作曲の歌もうたった――。
訃報を知って、一度だけ聴いたことのある、グリーグのこの曲が思い浮かんだ。