2026年7月31日金曜日

津波警報時は通行止め

                               
   7月30日のいわき民報に、カムチャツカ半島沖の地震からちょうど1年を伝える記事が載った=写真。

1年前のこの日朝、カムチャツカの沖合でⅯ8.7の巨大地震が発生し、いわき市の沿岸部にも津波警報が出された。拙ブログによると、わが家では当日、こんな具合だった。

――故義伯父の家の庭でオニユリが咲いた。カミサンは植えた記憶がない。自然に根付いたらしい。

では新舞子海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波特番に切り替えた。15年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた。その記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。やがて鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになったことを伝える。

新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである――。

30日付のいわき民報は、当時の国道6号の渋滞と、その後、平・草野地区に「津波警報時通行止め」の看板が設置されたことを、写真付きで伝える。

このごろは日曜日の夕方、四倉までカツオの刺し身を買いに行く。行きはロッコク(国道6号)、帰りは旧道(浜街道)を利用する。

実は先日、ロッコクと山麓線(主要地方道いわき浪江線)の交差点に、「ここから先津波警報時通行止」の看板が設置されたのに気づいた。

で、7月26日、交差点を通過する際にカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。残念ながらピンボケだった。

「走ってる車から、急に『撮れ』っていわれたって」。確かにその通りだろう。信号待ちで止まったときならともかく、移動中にピントの合った写真を撮れということ自体、無理な注文だ。次回また撮影をと考えていたところに、記事が出た。

交差点の先、クリナップ井上記念体育館前の脇に津波標識がある。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」

さらに行くと、四倉の市街地だ。JR四ツ倉駅に向かう交差点と歩道橋の反対側、海側に右折すると、右手に四倉図書館がある。図書館は公民館に併設されている。近くには鉄筋コンクリート造りの中学校と病院。

海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 歩道橋をくぐった先には、「東日本大震災/津波浸水区域/ここから」と書かれた標識が立つ。ロッコクも津波に沈んだということだろう。

 海岸道路の電柱や標識柱にも、すぐそばの海水面からの高さ(海抜4mとか5m)を知らせる表示がある。

いずれも津波への注意喚起を目的にしたものにはちがいない。そういう標識を日常的に見ながら、いわき市民は暮らしている。

2026年7月30日木曜日

令和8年熊本地震

                                  
 7月28日の夕方、熊本地方で大きな地震があった。第一報をテレビで知ったあと、「いいのみんなの食堂」へ出かけた。帰ってテレビをつけると、NHKは地震特番に切り替わっていた。

 発生から1時間半後、イオンモール熊本で爆発――といった衝撃的なニュースが流れた。

 「東日本大震災」での体験、「阪神・淡路大震災」の映像を思い出して、脳内が震えたのか、真夜中に目が覚めたあとは眠れなくなった。

 未明の3時前には新聞が届く。1面のトップはベタ黒白抜きで「熊本で震度7」とあった=写真。それを見てまた胸が苦しくなった。

「阪神・淡路大震災」、そして「東日本大震災」がそうだったように、時間がたつごとに被害が拡大する。原発は? 「異常なし」の見出しに、ひとまずホッとする。

気象庁が地震名を「令和8年熊本地震」と命名した。熊本では10年前にも同じような場所で大きな地震が起きている。「平成28年熊本地震」である。

何気なく「阪神・淡路大震災」と書き、「令和8年熊本地震」と書いたが、厳密にいうと、前者は「災害名」、後者は「地震名」である。

いわき明星大学(現・医療創生大学)で、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)の非常勤講師をした最初の年に、東日本大震災が起きた。

大震災の影響で開講が1カ月遅れた。原発事故も起きた。それに合わせて講義の内容を替えた。

そのとき、地震名と災害名があることを知った。私が調べて知ったことを伝える講座でもあった。

このブログも、「令和8年熊本地震」の犠牲者を悼み、被災者に思いを寄せるための情報の一つとして受けとめてもらえるとありがたい。自分自身のおさらいの意味もある。

「阪神・淡路大震災」は政府が閣議決定をした災害名。気象庁が命名した地震名は「兵庫県南部地震」だった。

気象庁は自然現象のひとつとして地震をとらえる。その結果、圧死・負傷・家屋倒壊などの災害が甚大だったことから、政府が災害名を決めた。

それと同じく、「東日本大震災」は津波による溺死が多く発生したための災害名で、地震名は「東北地方太平洋沖地震」である。

気象庁の前身は東京気象台。それが中央気象台になり、戦後の昭和31年、気象庁に昇格する。

大正時代には、まだ中央気象台だった。そのなかで「関東大震災」が発生する。これは災害名で、世間一般の通称が定着したようだ。地震名は「大正関東地震」である。

あのとき(東北地方太平洋沖地震のとき)、宮城県栗原市では震度7、いわきでは6弱だった。

震度階級は7止まりだという。理由は、防災上の対応が8でも、9でも変わらないため、だとか。どれほど揺れが強くてもすべて「震度7」となるのだという。

いわきで震度7の地震が起きたら、「大規模半壊に近い半壊」だったわが家はまちがいなく倒壊する。

そのことを思いながら、熊本地震のニュースを追う。そのつど、「あああ」となる。時間が経過するたびに、ライフラインの寸断が明らかになってきた。

2026年7月29日水曜日

真空チルド

                               
   7月も残すところあと2日。東北南部の梅雨明けは秒読み、というより遅すぎではないか、そんな思いもよぎるが……。

関東甲信は7月20日に梅雨が明けた。いわきは北関東と同じ気象環境である。いわき地方も、山田では前日の19日から5日連続、真夏日を記録した。

日曜日の19日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。すぐ汗でシャツがぐしょぐしょになった。

このあと、マチへ戻って総合図書館へ行き、市立美術館の企画展を見る予定でいたが、「年寄り半日仕事」である。図書館で本を探したら、もう家で横になりたくなった。

 美術館で開催中の「20世紀北欧デザインの巨匠 スティグ・リンドベリ展」は、翌日行くことにして帰宅した。

3連休最終日の「海の記念日」)も朝から暑かった。美術館の駐車場に車を止めて1時間もしないで戻ると、運転席の計器盤は外気温37度を示していた。

 猛暑である。アスファルト舗装の駐車場とはいえ、37度とは! 海へ行こう。海風が冷たいはずだ。

 いわきのハマは俗に「いわき七浜」といって、海水浴場が10カ所前後はあった。東日本大震災、そしてコロナ禍の影響を受けて、現在では北から久之浜・波立(はったち)、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場が開いているにすぎない。

美術館から海へ――。目的は「道の駅よつくら港」で売っているソフトクリームだ。

平市街を離れ、海岸道路に出ると、車の外気温は28度に下がった。9度の差である。マチよりは低いが、それでもやはり暑い。

暑いだけでなく、空気が湿って重い。スペイン生活が長い友人の画家の話を思い出す。

向こうは暑くても空気が乾燥している。ところが、日本は暑いうえに湿って重い。なんだか空気をかき分けるようにして歩いている感じだという。加齢のせいか、湿って重い空気に似た感覚を抱くようになった。

人間だけではない。糠床も湿潤と暑さの影響を受ける。表面が短時間で白い膜に覆われる。産膜酵母である。

異臭(シンナー臭)も加わるようになった。それで、朝晩だけでなく、暑い日には昼も糠床をかき回す。さらには食塩を加え、穴の開いた細長いグラス状の容器も入れて水を抜く。

それを続けていると、異臭が収まった。と思ったのも束の間。糠漬けをパックに入れて冷蔵庫で保管していたら、またかすかに異臭がする。冷蔵庫でも異臭のもとの菌は抑えられないのか。

糠味噌を洗い落としても同じだった。じゃあ、どうすればいいんだ――悶々としていたら、カミサンがパックを冷蔵室の「真空チルド」=写真=に入れた。

ここに保管していた糠漬けを食べたら、異臭がしない。偶然かもしれないが、真空チルドで菌の活動が抑えられたようだ。

それからは、糠漬けはチルドで保管し、そのつど出すようにしている。それで今のところ問題はない。これはこれで「黴雨(ばいう)」と高温がもたらした発見、ということもできる。

2026年7月28日火曜日

ウバユリとバショウ

                                              
   日記は手書きと決めている。ノートではなくカード方式で、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」(チラシ=A4判コピー)の裏面を利用する。

先ごろ、県紙の販売店がこのチラシを廃止した。用紙が入らなくなった。が、これまでの分が残っている。ここしばらくは大丈夫だろう。

ふだんの日記のほかに、生物季節的な事象はあとで別の用紙にまとめておく。

特別な用紙ではない。若いときに特注し、未使用のままだった俳諧用の調査カードだ。死蔵するよりはまし、ということで始めた。「マイ歳時記」のようなものができれば御の字だ。

 夏のシンボルはヤマユリ。私はそう思っている。7月12日の日曜日、隠居のある夏井川渓谷の手前、段丘の高崎地内で今年(2026年)初めて、野生のヤマユリの花を見た。その1週間後、渓谷は「ヤマユリ街道」になった。

 ヤマユリはもちろん、チェックシートにも事細かく書き留めておく。併せて鳴き声を聞いたウグイスやガビチョウ(中国産のかごぬけ鳥)もシートに記録する。

 渓谷を縫う県道小野四倉線は、茂った青葉で緑のトンネルになっている。その薄暗い県道のガードパイプに寄り添うように、ウバユリが咲いていた=写真上1。

東日本大震災の前は、隠居へ行くと必ず対岸に渡り、遊歩道を巡った。するとこの時期、緑陰の中で緑がかった白い花が横向きに咲いている。

冬は冬で、立ち枯れた茎の先端に蒴果が丸く膨らんでいる。これもまた凛々しい雰囲気をかもしていた。

ウバユリのことをすっかり忘れていた。県道の花を見て記憶がよみがえった。そのくらい森を巡っていないということだろう。

いやいや、花自体が地味で、あまり興味を引かないのも一因ではないか。日記には書き留めている。が、ブログには一言も出てこない。

 逆に、夏も冬も毎回、気になってしようがない植物がある。平地の集落を流れる川岸で、バナナのような大きな葉を伸ばしている。

高崎に入る直前、「裏二ツ箭」から流れて来た加路川が夏井川に合流する。そばの県道には橋が架かり、その上流側にバショウらしい草本がある。

晩秋には枯れ、冬の間、ボロボロの枯れ草色になっていたのが、春を迎えて枯れ葉の間から新しい緑の葉をのぞかせ始めた。

と思ったら、どんどん緑が増え、今は長い羽のような葉をいっぱい伸ばしている=写真上2。

バショウは、和ジュロと違って野鳥由来とは考えにくい。だれかが植えたのだろうか。このバショウだけでも自然と人間、鳥と植物の交通について考えさせられる。渓谷までの沿道で見かける不思議の一つではある。これもチェックシートには事細かく記録する。

2026年7月27日月曜日

トマト記念日

                                
 首都圏で働いていた「孫」がUターンし、双葉郡内に再就職した。実家ではなく、わが家から車で5分ほどのアパートに住む。山梨県出身のパートナーも一緒だ。

 7月25日に婚姻届を出すというので、父親とともに証人になった。「孫」の両親が婚姻届を出したときにも証人になっている。

 父親から証人になってもらえ、といわれたそうだ。両親とは家族同然の付き合いをしてきた。そのなかで「孫」が生まれ、「孫」の妹が生まれた。

 婚姻届を出す日に、パートナーと一緒にやって来た。2人のなれそめは両親から聞いている。書類に署名・押印したあとは、しばらく雑談をした。

 2人とも本好きである。その点では、私ら夫婦―両親―本人たちと、世代が2回り違っていても、話題には事欠かない。

 私たちは「孫」たちのいう若い作家の名前に「ほー」となり、「孫」たちは老いた作家の名前に「へー」という表情をした。

 推理小説を好むパートナーが江戸川乱歩の名前を口にしたときには、シャーロック・ホームズは読んだ、エルキュール・ポワロはテレビドラマで見た、あの女警部ヴェラのドラマも……と盛り上がった。

 カミサンは自宅で地域図書館(かべや文庫)を運営している。移動図書館が月に1回巡って来て、貸し出す図書を取り替える。

 その中から俵万智の『牧水の恋』を引っ張り出してきて、『孫』に読むことを勧めた。前日の朝、藤間(平)の直売所から買って来たミニトマトその他を持たせることにして、テーブルに添えた。そばには婚姻届がある=写真。

 その組み合わせに脳内のセンサーが反応した。「きょうはトマト記念日だな」。いうまでもない、俵万智の有名な短歌に触発されてのことだ。

 「『この味がいいね』と君が言ったから六月七日はサラダ記念日」。それをもじって、2人が帰ったあと、胸の中でつぶやいてみる。「入籍の日に『食べな』とあげたから七月二十五日はトマト記念日」

 この日に入籍することを決めたのは、2人の間にトマトとは違う何か記念になる出来事があったかららしい。

ひそかな記念日には違いない。が、私にはそのおまけとして「トマト記念日」もいいのではないか、「孫」の婚姻届を記憶するにはぴったりだと思った。

後期高齢者になったとはいえ、ときに50代と意気投合をし、20代とこうして「今」を話し合うこともできる。

 「孫」の両親の婚姻届、『孫』自身の婚姻届と、親子2代にわたって証人になることができたのは――生きていたからこそ、である。

   そして、これはめったに経験できない「栄誉」でもある。そのことを「孫」に教えられた。

2026年7月25日土曜日

いわきの民俗芸能展

                                                  
   民俗写真家芳賀日出男さん(1921~2022年)のネガフィルム46本がいわき市暮らしの伝承郷に寄贈された。いわき民報で知った。

いわきゆかりの写真家である。いわきの民俗・芸能に関する写真もいっぱい撮っている。会ったことはないが、ときどき耳にはしていた。その意味では懐かしい名前だ。

いわきの歴史と民俗に詳しい故佐藤孝徳さんの家は江名の網元だった。確か佐藤家の正月飾りを取材して写真に収めている。その話を孝徳さんから聞いたのは、私が40代のころだ。

 いわき民報の記事によると、芳賀さんの父親は今のいわき市常磐藤原町の出身である。本人は中国・大連で生まれた。

民俗写真家として国内外で活躍し、1970年の大阪万博では世界の祭りのプロデューサーを務めた。

 ネットで情報を探ると、遺族(長男の日向さん)は奄美大島博物館や福島県立博物館にも、今回と同様、亡父の撮影したネガフィルムを寄贈している。

 折から暮らしの伝承郷では企画展「いわきの民俗芸能」が開かれている=写真(解説資料)。寄贈された写真の一部が展示されているという。

 カミサンが事業懇談会の委員をしているので、伝承郷へはアッシー君としてちょくちょく出かける。

 懇談会が終わると、展覧会場で担当学芸員が企画展の内容を解説する。委員に混じってそれを聞くのが習いになった。

 いわきの民俗芸能といえば、じゃんがら念仏踊りである。笠踊りやヤッチキ踊りもある。

それらのほかに、獅子舞、御宝殿の稚児田楽・風流、大和舞(山外舞)、奴振り・長持などを紹介している。

じゃんがら念仏踊りのコーナーには「じゃんがら人形」が展示されていた。1961年、現在の上皇・上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、郷土工芸品の「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上された。

じゃんがら人形は戦前、図案家の鈴木百世(ももよ)が考案した。戦後の1952年、百世の妻恭代さんが人形の制作を再開した。

旧平市が、皇太子と美智子さまの来市の折、「じゃんがら人形」の献上を決め、恭代さんに特注した。伝承郷に寄贈されたのはそのスペアだろう。

いわき総合図書館では去年(2025年)秋から、常設展「デザイナー鈴木百世 知る人ぞ知るいわき人」が開かれている。

当初は今年5月24日までだったが、好評のために8月30日まで延期された。常設展としては異例のことである。

じゃんがら念仏踊りのコーナーは、この人形ケースと解説文があるためにいちだんと中身が濃いものになった。

そして、これは余談。別の学芸員と芳賀日出男さんの話になった。冒頭で紹介した佐藤家の取材例を伝えた。

具体的な話はそれしか知らない。が、市内各地に似たような話が埋もれているはずである。

裏付け調査をするとしたら、長く困難な道が待っている。それだけにやりがいのある大仕事にはちがいない。

2026年7月24日金曜日

これからはふるさとで

                                 
 家の向かいに故義伯父の家がある。そこに画家阿部幸洋の小品だけでなく、個展の案内はがきをまとめた額がある=写真。それはそれで「作品」になっている。カミサンが額装した。

 その画家が自転車でわが家へやって来た。自宅(実家)はいわき市平の夏井川河口右岸域にある。歩けば40分というところだろうか。

 結婚と同時にスペインへ渡って半世紀近く。定期的に帰国してはいわき、東京、その他の都市で個展を開いてきた。

 今回もそうだと思っていたら、違った。スペインを引き揚げてきたという。これからはふるさとで絵描きとしての人生の仕上げをするわけだ。

 スペインはラ・マンチャ地方のトメジョソに住んでいた。妻のすみえちゃんは2009年9月末、向こうで急逝した。

生前、臓器提供の意思を明確にしていたため、心臓と肝臓がそれぞれスペインの市民に提供された。その意味では、彼女の魂はずっとスペインの大地で生きている。

すみえちゃんは妻であると同時に、阿部のマネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。

キャンバスが相手の夫に代わって現地の人たちと交流した。それで、すみえちゃんを母のように慕ってきた子どももいる。ラサロという。

すみえちゃんの死後、阿部が青年のラサロを伴ってわが家へやって来た。ラサロの弟も後年、パートナーとともにわが家を訪れた。今年(2026年)も来る。先日、連絡が入った。

私は50年以上も前、阿部と草野美術ホールで出会った。23歳だった。いわき民報社に入って2年目の駆け出し記者で、阿部は20歳ながら同ホールの広い壁面を使って個展を開いた。すぐ意気投合した。

 スペイン生活46年。今度は自分の絵かき人生の原点でもある実家で、ふるさとの風景の中でキャンバスに向かうことになる。

スペイン生活の集大成ともいうべき「帰国展」を考えているという。問題は、いわきのギャラリーではスペースが限られることだ。

トメジョソにアントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。同美術館で2014年秋、阿部の個展が開かれた。

いわき市立美術館の佐々木吉晴館長(当時)がプライベートで個展を見に行った。彼によると、アントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家・彫刻家がいる。トーレスはその叔父さんだ。

スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたからこその、現地での個展だった。

それに匹敵するくらいの規模を考えているのではないだろうか。規模的には文化センターがいいのだが、借りるにはいろいろ制約がある。となれば、複数の会場で同時開催をする。そんなことを考えているという。

いずれにしても人生の区切りとなる回顧展には違いない。若いときから彼の作品を見続けてきた身としては、ふるさとに戻ってからの作風の変化もまた楽しみではある。

2026年7月23日木曜日

中洲の土砂除去へ

                               
   新年度に入って間もない4月下旬のこと。マチからの帰り、いつものように夏井川の堤防を通っていると、対岸・山崎の広い河川敷で作業員が2人、背の高い枯れ草に埋もれるようにして草刈り機を動かしていた。

 新しい予算がついて、また河川敷の土砂を撤去するのだろう――まずはそんなことを思った。

 場所は新川が夏井川に合流する、すぐ下流の山崎地内。合流部では冬、シベリアからハクチョウが渡って来る。せり出した山の中腹には専称寺がある。

 鎌田から塩に入るあたり、蛇行による流量・流速の違いからか、工事のあとに川中島(中洲)ができた。そこだけ緑に覆われている。

 夏井川は流路が短く、水量が少ない。そのためか、改修を重ねるたびに川中島と浅瀬ができる。この何十年か、夏井川ウォッチングを続けてわかった自然のメカニズムである。

新川との合流部も事情は同じ。ここではたびたび重機が入って川の土砂をかき集め、ダンプカーが運んでいく。川砂採取地でもある。

 そのくらい堆砂が多い。そこから下流にも中洲ができた。草が繁茂すると、やがてヤナギが生える。その緑が氾濫の要因になるかもしれない。

 なんとかならないものかと案じていたら、川を管理している福島県いわき建設事務所が地元の要望を受けて動いた。

 6月になると対岸の県道甲塚古墳線に沿って重機が入り、上流の新川合流部まで立木の伐採が行われた=写真。

 後日、県道を通ったときに道路沿いの立て看板を確かめた。「洪水被害を防ぐため/土砂を撤去しています」。この大文字の下に「いのちとくらしをまもる防災減災/国土強靭化対策工事」とあった。

そのための草刈りだったのだろう(いや、そうではなかったかもしれないが、場所といい、作業の流れといい、ここでは事業の一連の準備だったとみておく)。

 重機が入ると見るみるうちに対岸の景色が変わった。立木だけでなく、枯れ草が刈り払われて堆砂が見えるようになった。

中洲の土砂を撤去するためには、重機とダンプカーが行き来する作業路を確保しないといけない。それが県道に沿って設けられるようだ。

草刈りが行われた山崎の広大な河川敷では、「令和元年東日本台風」のあと、堆積土砂の撤去が行われた。

その前には、専称寺のふもとから同じ浄土宗の古刹・如来寺までの間で、田んぼの中に県道甲塚古墳線を付け替える工事が行われた。

その結果、古い道路は河川敷に組み入れられた。広い河川敷がより広くなった、というわけだ。

そこにまた重機が投入された。某政党のチラシによると、中洲の掘削工事は今年(2026年)5月に着工し、来年3月に竣工する予定という。

ほかの中洲もいずれヤナギが生え、大水のときには流れを阻害する要因になる。このことは頭に入れておかないといけない。

2026年7月22日水曜日

夏こそ朝活

                                 
 夏至から1カ月。冬至の「一陽来復」をもじっていえば、「一陰来福」。「一陰」に「来福」はそぐわないが、冬至に向かって日は短くなる一方だ。そのなかで、暑さはすでにピークを迎えている。

 朝の涼しいうちに――というのは、夏の過ごし方の定番でもある。サラリーマンにも出勤時間の前に「朝活」をする人が増えている。中身は人それぞれだろう。瞑想、ヨガ、読書会、ランニング、散歩、ラジオ体操、写生……。

 年寄りは一日の暮らしのサイクルからいって朝活型だ。夜は早めに寝る。すると、まだ暗いうちに目が覚める。

59歳から77歳へ。出・退勤時間の決まったサラリーマンをやめて18年。早寝早起きがすっかり定着した。

ほかの後期高齢者も同じらしい。半世紀もつきあっている人間が遊びに来て、寝起きする時間が早くなった、と言っていた。

彼は9時に寝て3時に起きる。私は8時に寝るが、日が替わったのを確かめてブログをアップするため、夜中に一度起きる。二度寝を含めると睡眠時間は6時間。その点では友達と同じだ。

毎日が日曜日で月曜日の人間には、朝活が一日の質を決める要素になる。たとえば、ブログの作成。これを毎日の「仕事」としているので、早朝に仕上げれば、以後の時間は行事が入っていなければフリーになる。

ルーティンの家事もある。起きるとすぐ風呂をわかす。朝風呂である。現役のころから、帰宅するとすぐ晩酌を始めた。風呂は寝て起きて、酔いがさめてから――が習慣になった。これは今も変わらない。

それから糠床をかき回す。キュウリなどが漬かっていれば取り出して刻み、器に盛る。

先日はキュウリだけでなく、ニンジンと大根があったので、イタリア国旗をもじって、「糠漬けトリコローレ」)と名付けて食卓に出した=写真。

毎日のルーティンに遊びを取り入れると少し楽しくなる。今度はナスを入れてフランスの三色旗、「糠漬けトリコロール」を出してみようか、なんて考えている。

朝活の順序からいうと、風呂・糠床のあとにブログを作成し、合間に接骨院へ行って腰をもんでもらう、戻ってすぐ朝食をとる、という流れだ。

夜明け前はシーンとしている。鳥も鳴かない。キーボードをたたく音しか聞こえない。頭もすっきりしている。

このごろの楽しみは接骨院での同世代との会話だ。「同病相憐れむ」気持ちがあるのか、配偶者のこと、プロスポーツの結果、時事ネタと話は尽きない。新しいコミュニティができた感じだ。

朝ドラが終わるころには、ザワザワした空気に包まれる。通りを車が、人が行き交う。庭に鳥がやって来る。目の前では蚊が羽音をたてながら飛び回る。そのころにはあらかたブログの作成を終え、自由な時間に入る。

自由過ぎるとタガが緩んで予定の「仕事」まで忘れてしまうことがある。自由にも緊張が必要だと、たまには自分に言い聞かせる。

2026年7月21日火曜日

よかった、いた!

             
   日曜日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。そこまでは車で40分ほど。ドライブ中に必ずチェックする生きものがいる。

小川の平地・三島の夏井川にいる残留コハクチョウの「エリー」だ=写真(7月5日、カミサンが撮影)。

エリーは、早朝はやや上流の中洲かそば(右岸)の砂地で休んでいる。7月19日は少し増水して、中洲が水没していた。姿がなかった。流されたか? そう早とちりする「伏線」が実はあった。

家を出るとすぐ市庁舎の駐車場へ行った。駐車場の西端にリサイクルボックスがある。家に届いた古着をそこへ運んだあと、国道399号(途中で県道小野四倉線と重複)を北上した。

平市街を抜け、平窪へと接続する磐城橋を渡りながら、上流をチラ見すると右岸の浅瀬に白く大きな鳥がいた。

シラサギなら体は縦に長い。脚も、首もそう。ところが、その鳥は横に長く、増水した浅瀬に浮かんでいるような感じだった。首も長い。つまりはハクチョウ体形。まさかエリーではないだろうな?

半信半疑で小川に入り、川と並走する三島でエリーを探したら、いない。それで、10分ほど前に見た平窪の白い鳥がエリーに重なった。

5年前、やはり三島に残留したコハクチョウがいた。白鳥おばさんは「エレン」と名付けてエサをやり続けた。このエレンが大水で下流に流されたことがある。それを思い出した。

エリーの名前も白鳥おばさんが付けた。私ら夫婦も白鳥おばさんにならってエリーと呼んでいる。エレンを思い出して、これから大変だぞ――夫婦でエリーを案じたのだった。

1時間ほど隠居の菜園で草むしりをし、汗でぐしゃぐしゃになったシャツを着替え、一休みしてから隠居を離れた。

 帰りは三島に車を止めて川をチェックし、エリーがいなければ平窪でも探すことにした。

 磐越東線の跨線橋を過ぎると、川の流れに沿って道は大きく右にカーブする。そのカーブが終わって道路と夏井川とが並走するあたり、眼下の右岸に白く大きな鳥がいるのが目に入った。

道路の山側にある100円野菜の無人販売所に車を止めて、ガードレール越しに川を見る。

エリーだ。よかった、いた! 流されたわけではなかった。朝は草にまぎれて姿が見えなかったのだ。

すると、平窪のあの大きな白い鳥はシラサギか? 水中の魚を狙うとき、サギは胴体を水平に保ち、首を曲げて水面に近づける。そんな狩猟中の一瞬を見誤ったのかもしれない。

 なんであれ、エリーは三島にとどまっていた。これからも大水と暑さの試練は続くだろうが、なんとか頑張ってくれよ。

勝手にエリーを案じていたジイサンは、昼前、いつもの浅瀬で一休みするエリーに、勝手に安心してヤレヤレとなった。

2026年7月18日土曜日

減る庭の土

                                
   これは今年(2026年)、急にそうなったということではない。庭の表土が少しずつ、少しずつ流れ、地中の玉砂利が現れてきた――そんな感じだ=写真。

ちょうど頭上から青柿が落ちてくる時期。車の屋根にボコボコ当たるので、そばの離れの跡に車を止めている。で、むき出しの地面に落ちた青柿も集めて写真を撮った。

梅雨に入って、たびたび雨が降る。すると、車の轍(わだち)を中心に水たまりができる。

家の東側には表の車道へと続く砂利の小道、西側には雨水を流すコンクリートの排水路。家の前の歩道には側溝があって、コンクリートの蓋で覆われている。庭の雨水は、雨樋とは別に、地面を伝って蓋のすき間に流れ込む。

土砂降りになった7月17日の朝、傘をさして様子を見る。庭は湖、庭の草地は中島、砂利道は二筋の川になっていた。

浸食・運搬・堆積の「川の3作用」は庭でも起きる。浸食されるのはもちろん「水源」である庭の土だ。

車のタイヤは土をえぐるだけでなく、草が生えるのを抑える。しかし、一方の草には土をとどめておく役割がある。

草が生えているところは少し土が盛り上がっているように見える。草は天然の土留めシートだ。

ある日、板状の土を持ち上げるようにしてヤブガラシが芽を出した。ほかのところでは芽だけが針のように突き出ている。同じ庭でも場所によって土の質が違う?

そこから、たまたま読んでいた本を思い出した。藤井一至著『土と生命の46億年史――土と進化の謎に迫る』(ブルーバック)。

「土とは岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐植の混合物」と土の研究の第一人者はいう。

この定義に従えば、板状に結びついていた庭の土は、ほかの土よりは粘土分が多かったのだろう。

藤井さんは原発事故で汚染された農地の再生のために、大熊町の農地で土壌分析の協力をしている。それを新聞記事で知って、先日、以上のことを含めて、ブログに書いた。

ごく普通の家の庭でも、足元に目を凝らすと地球史にも通じる自然の不思議が見えてくる――。

ブログの文章はそこで終わっている。それからわずか2カ月。また庭の土について考えさせられた。

夏井川渓谷にある隠居の庭(とりわけ下の庭)も何十年という間に、表面の土が雨で流出したためか、埋め立てに使った砕石が露出するようになった。

 土の定義を当てはめれば、生物遺体の腐植量が少ないうえに、粘土や砂の流出が続いたために、埋まっていた砕石が露わになってきた、ということなのだろう。

マチ場のわが家の庭も原理は同じ。表土が減って、地固めに使った砕石が露出するようになった。そういうことらしい。

かといって、庭をコンクリートで覆うようなことはしない。土を買ってくるか、どこからかもらってくるか。いずれにしても「土不足」を補う必要がありそうだ。

2026年7月17日金曜日

路面の矢羽根

                         
 このところ急に目に付くようになった路面標示がある。青い色をしている。先端はとがっていて、やや太い。

 先日は、この標識を路面に塗装する現場を目撃した。後日、そこを通ると青い色の「矢印」があった=写真。

 そこは東日本国際大学がある鎌田山(平)のふもと、夏井川沿いの集落だ。南アジア系の留学生をたびたび見かける。

 留学生の足は徒歩か自転車だ。自転車に関する標示ではないか――。そう直感した。

マチへの行き帰り、車を運転していると、たびたびヒヤリとする。そのほとんどが自転車だ。

大学の近辺だけではない。わが行政区内でも南アジア系の若者たちが徒歩で、自転車で通りを行き交う。

マイルールの自転車もある。一度どころか、二度、三度と衝突事故を起こしそうになった。

それとは別に、国・県・市がサイクリングロードの整備に力を入れている。民間でもJRの駅を起点に、自転車で「まち走り」をする「時空散走」の動きが広がりつつある。

自転車の普及と同時に、自転車の安全通行やマナーの向上などが課題になっているのだろう。

折も折、私が常時利用している夏井川の堤防で、自転車通行のための整備工事が行われることになった。工事の内容は路面標示や一部防草シート設置などだという。

標示のひとつに「矢羽根」があった。もしかしたらこれか、あの太く青い矢印は! ネットで調べると、そうだった。新しい標識が路面に施されたワケがやっとわかった。

青い「矢羽根」は自転車が走る「走路」を意味する。先のとんがっている方が走る方向で、逆走はダメ、の意味でもある。

夏井川は県が管理するが、堤防上の自転車通行整備工事は市が担当するらしい。7月15日付の回覧で各隣組に市のチラシを配った。

それによると、工事範囲は国際大下から河口までで、うち2カ所が車両通行止めになる。

具体的には、①中神谷~下神谷=7月21~30日②塩~中神谷=7月27日~8月10日――で、私は、7月21日から8月10日までは堤防経由でマチから帰ることはできなくなる。

それはともかく、自転車の青い表示はまだ一般には知られていないのではないか。車道には白い自転車のマークと矢印を組み合わせた標示もある。これも周知のマークとは言い難い。

いわきには東日本大震災のあと、復興サイクリングロード「いわき七浜海道」が整備された。

防潮堤と既存の道路を組み合わせたもので、防潮堤には自転車通行空間であることを示す「ブルーライン」(青い線)が引かれている。

今回やっと白い自転車と矢印、青い矢羽根、青い線の意味がわかった。自転車通行位置の明示、ドライバーへの注意喚起が主な目的だが、自転車利用者もまた左側通行を守る必要がある。

青い矢羽根は車道と混在のエリアに引かれる。幅は75センチ以上、長さは150センチ以上だとか。わが生活圏ではなんといっても、留学生によく理解してもらう必要がある。

2026年7月16日木曜日

いらんことして!

                               
 なにか心に残る新聞記事があると、切り抜いて取っておく。アメリカとイスラエルのイラン空爆以来、トランプ大統領に関する切り抜きが増えた=写真。こちらは疑問と不安が深まるばかりだからだ。

 トランプ氏が初めて大統領に当選したとき、「背広を着た悪漢レスラー」の登場をイメージした。

ほんとうのレスラーではないが、背広のままリングに上がる――プロレスファンの間では、トランプ氏のプロレス好きは知られていた。

その実業家が大統領に就き、民主党のバイデン氏のあと、再びホワイトハウスの主になった。

大統領としても、実業家そのままの「ディール(取引)」で外交交渉をすると、メディアは伝える。

一方では奇襲もいとわない。ベネズエラに続いて、イランにも突然、牙をむいた。すると、ホルムズ海峡の封鎖を招いた。

エンタメのプロレスならわかる。少なくとも観客にはリングの荒事の被害は及ばない。ところが、現実の戦争となると、そうはいかない。

アメリカとイスラエルが仕掛けたイラン戦争で原油が高騰し、ガソリンや灯油のみならず、石油由来の製品の高騰・不足が起きた。

消費生活の現場だけではない。建材をはじめ、さまざまな業種に海峡封鎖の影響が出た。

戦争当事国を越えて、地球上すべての庶民の暮らしに影響が及んだことを、大統領はわかっているのだろうか。そこに思いが至らないのであれば、そのこと自体が問題だが。

イランとアメリカが戦争終結に向けて覚書を交わしたと思ったら、すぐまた戦いが再開した。

しかも、どちらも海峡を「再封鎖」するという。そのうえ、今度は米国も「通航料」を取ると言い出した。さすがにこれは、翌日には撤回した。このご都合主義、言葉の軽さも不安を募らせる。

悪漢レスラー並みの「マッチ・ポンプ」のような発言が繰り返される。プロレスと現実の政治をごっちゃにすることはないだろうと思いながらも、危なっかしくてしようがない。

6月7日の「笑点」がそのへんの庶民の不安を代弁していた。「お題」のひとつに「○○に乾杯」があった。

立川晴の輔は「世界平和に乾杯」と題して、その「心」を解いた。イランにひっかけて「トランプ大統領 いらんことすな!」。これには爆笑した。

80歳。私よりは2歳年長だ。アメリカの建国250年記念と自身の誕生日に絡めて、ホワイトハウスで格闘技イベントを開き、サッカーのワールドカップでは、主催者に電話を入れて自国の選手のレッドカードを棚上げにした。これも「いらんことすな!」だ。

「イスラム共和国日本」に至っては、「いらんこというな!」を通り越してあ然となった。

権威主義者は「公職に就くことで権力を固め、利益や富を得ます」(元ニューヨーク大学教授ルース・ベンギアットさん)。そのためには戦争も辞さない? まさかそんなことはないと思うのだが。

2026年7月15日水曜日

目玉だらけの黒いイモムシ

                                
   拙ブログのホームページの右側に「人気のある投稿」が載る。最近は過去記事が並ぶ。

7月9日までは2024年10月1日付の「翅が三角形の蛾」がトップだった(今は2番目)。

秋の夕方、庭で蛾が2匹、交尾していた。翅が三角形で、初めて見る蛾だった。写真データをパソコンに取り込み、自分のスケッチを見ながら検索するとセスジスズメだった。

 さらに調べを続けて、幼虫はサトイモやサツマイモの葉だけでなく、ヤブガラシの葉も食べることがわかった。

ブログでは、春から夏、庭で歯を磨きながらヤブガラシの芽を摘んでいること、さらにはセスジスズメの生態に触れたあと、蝶や蛾の翅の形や模様に引かれる話などを加えている。そのくだりを要約・再掲する

――セスジスズメの成虫を見て、庭に現れても不思議ではないと思ったのは、むろんヤブガラシが生え出て、生け垣につるをからめるからだが、交尾を終えたメスの産卵の仕方を知って、なるほどと感心した。

 メスは飛びながら、幼虫が食べる草、たとえばヤブガラシに卵を1個ずつ産みつける。卵は1週間ほどでかえり、葉を食べて成長し、土にもぐって最後の脱皮をしてさなぎになる。それで越冬し、5~6月に羽化して、夕方から夜にかけて活動する。

その生命のサイクルを、主の知らないうちに庭で繰り返していたのだろう。

成虫の翅の紋様と形が変わっている。ネットには、ハンググライダーのような翅、とあった。しかも翅の紋様は直線的だ。

 前にハグルマトモエが茶の間に現れたときにも、翅の紋様に驚き、興味を引かれた。セスジスズメも第一印象はそうだった。

昼間の蝶は、アオスジアゲハであれ、キアゲハであれ、だいたいは目撃して写真を撮ったり、調べたりしてきた。

蛾は、遭遇する機会が少ない。が、主に夜、飛び込んで来る。紋様がおもしろいものはやはり気になる――。

セスジスズメの幼虫も、もちろん見たことがなかった。ヤブガラシの芽むしりは7月半ばの今も続く。

9日も地面に目を凝らしていると、ヤブガラシの若芽のそばに、なにやら黒く細長い生き物が横たわっていた=写真。

イモムシである(右端が頭)。黒地に目玉模様をいっぱい付けていて、体長は8センチほどと大きい。

セスジスズメの成虫のときと同じように、すぐ写真を取り、体の色、模様を含めて検索を続けると、ほどなくわかった。なんとセスジスズメの幼虫ではないか。

 初夏のヤブガラシの芽、秋のセスジスズメの成虫とくれば、梅雨期に幼虫がヤブガラシを食べるために庭をはい回っていても不思議ではない。

芽むしりを続けても取り残しはある。夏、生け垣に絡まったヤブガラシの花を見ると後悔する。

が、幼虫を知った今はそれくらいでちょうどいい、むしろ「すまなかったなぁ」と声をかけてやりたいくらいだ。

黒地に白い横縞はまだだから最終幼齢ではない。もうちょっとヤブガラシの葉を食べてから土にもぐるのだろう。

2026年7月14日火曜日

やまゆり祭

                               
   先日(7月5日)、いわき駅前の「ほこみち」(歩行者利便増進道路=国道399号沿いの歩道)でプランターのヤマユリが開花しているのを見た。

ヤマユリは例年、夏井川渓谷の県道小野四倉線で開花を確認するのだが、今年(2026年)は偶然、街なかで最初の花に出合った。

プランターを設置したのはNPO法人「R399戸渡(とわだ)やまゆり会」で、ヤマユリを介した旧戸渡分校と皇室の縁を伝えるとともに、ヤマユリの栽培・普及を通して小川地区の国道399号沿いの地域振興を図ることを目的にしている。

それをブログに書き、夏井川渓谷も7月中旬には「ヤマユリ街道」になることを付け加えた。

 街なかでヤマユリの花を見てから1週間後の7月12日、渓谷にある隠居まで開花の有無をチェックしたら――。

 平地を過ぎて段丘の高崎に入ると、谷側のガードレールにかぶさるようにヤマユリの花が咲いていた=写真上1。野生のヤマユリとしては、これが今年初めての花だ。

 その先、上小川トンネルと接続する磐城街道高崎踏切を過ぎ、地獄坂を上って渓谷に入る。

江田駅前を通過し、椚平(くぬぎだいら)、そして牛小川の集落へと至る途中、ガードパイプに沿って、点々とヤマユリの白い花が咲いていた。

合計すると、十数輪。白いつぼみもあったから、今週(7月第3週)は文字通り「ヤマユリ街道」になることだろう。

 12日には戸渡やまゆり会が国道399号沿いの事務所で「戸渡やまゆり祭」を開催した。

降ったりやんだりの曇雨天である。隠居での土いじりを早めに切り上げ、祭り開始時刻の午前10時には会場へ着いた。

一帯は二ツ箭山登山口駐車場の少し手前、いうならば同じ山の中腹(国道399号沿い)にある。つまりは坂の途中だ。

用意された駐車場からやや下手の会場を見ると、少し霧がかかっているようだった=写真上2。

事務所のそば、国道沿いにあるヤマユリ畑はほぼ満開だった。会場はその地続きの空き地といってよい。

ヤマユリは予約販売なので見るだけにして、物販のテントをのぞいていると、主催者の一人が寄って来て、「近くで栽培しているニンジン。葉っぱも刻んでてんぷらにするとうまい。ブルーベリーも安いよ」という。ニンジンとブルーベリーを買った。

 早々と駆けつけ、早々と会場を後にして街に下り、カミサンの用事でハマを巡った。平地の道路にはヤブカンゾウのオレンジ色はあったが、ヤマユリの白い花はなかった。名前の通り、ヤマユリは「山のユリ」。それを実感するドライブになった。

2026年7月13日月曜日

シュレーゲルアオガエル

                                
   シュレーゲルアオガエルというカエルが日本にいることを知ったのは17年前。夏井川渓谷に住む知人から連絡があった。「モリアオガエルが卵を産んだ」

そこから話が始まる(ただし、親のシュレちゃんを見たことはない。シュレちゃんという前提で書く)。

 モリアオガエルは、繁殖地として国の天然記念物に指定されている川内村の平伏(へぶす)沼が有名だ。草野心平と川内村を結びつけたのも、このモリアオガエルである。

 ふるさと小川の隣村・川内村にあるというモリアオガエルの生息地を一度訪ねてみたい――。

昭和24(1949)年2月1日付の読売新聞福島県版に載った心平のエッセーに反応して、村の長福寺の坊さんが心平に誘いの手紙を書いた。これがきっかけで、やがて天山文庫ができる。

今年(2026年)は天山文庫設立60周年の節目の年で、いわき市立草野心平記念文学館では企画展「草野心平と川内村」が開かれた。

いわき地域学會が『川内村史』の編纂事業を引き受け、私も執筆者の一人として、「幕末の川内の文芸」と「川内と草野心平」を担当した。

それもあって、平伏沼へは何度も足を運んだ。繁殖期には沼にせり出した木々の枝に白い卵塊がいっぱい付いていた。

ある年には沼の水が涸れ、水を張った発泡スチロールの箱を卵塊の下に置いているのを見たことがある。お年寄りが「オタマジャクシ番」をしていた。

平伏沼だけでなく、国道399号沿いの小さな沼地で、樹上にモリアオガエルの白い卵塊が産み付けられているのを何度か見た。

その経験からすると、地べたに近い幼木の卵塊は少し奇異に映った。しかも、そばには小さな水田があるだけだ。

モリアオガエルが地べたに産卵するとは聞いたことがない。卵塊の写真を撮り、ネットで検索すると、シュレーゲルアオガエルという別種のアオガエルがいることがわかった。そのときのブログを要約・再掲する。

――モリアオガエルは木の上にソフトボール大の卵塊を産みつける。こちらの卵塊は平板だ。

シュレーゲルアオガエルは水田や森林に棲むという。つまり、モリアオガエルと同じ森のカエルだ。

アオガエルというくらいだから、両者はよく似る。繁殖期になると水田や湿地の地面・草むらなどに卵塊を産みつける。モリアオガエルが樹上派なのに対して、シュレちゃんは地上派だ。そこが違う――。

今度は知人の家の庭の置物の間に産卵した。下には何もない。そこで知人は卵塊を庭の低木に移し替え、下に水を張ったバケツを置いた。私が見たときには、卵塊は古くなったのか、色がかなり濁っていた=写真。

オタマジャクシが生まれ、バケツの中で泳ぎ出したのはいいが、すぐ消えるという。平伏沼ではイモリが天敵だ。沼地のない渓谷では、捕食者は……?

隣の集落でも「モリアオガエルが卵を……」となった。地上派らしいから、モリ君ではなく、シュレちゃんではないか。私はそう思っている。

2026年7月11日土曜日

キノコの発生地研究

                                               
   今年(2026年)の4月に区切りの会報第30号が発行された。それを機に、いわきキノコ同好会は解散した。

解散を決めた総会から季節がひとつ巡った去年4月、冨田武子会長が亡くなった。突然の訃報だった。

第30号は会長追悼号を兼ねることになり、私は冨田会長との思い出を主に、ブログを選んで寄稿した。

「福島きのこの会」の会長でもある阿武武さん(石川町)は、「いわきキノコ同好会のこと」と題して、同会の30年の歴史を振り返った。それとは別に、訃報に接したあと、冨田会長の業績記録を取りまとめて寄稿した。

阿部さんは令和7(2025)年12月、自身20冊目の出版物である『福島のキノコと裏磐梯の森』をまとめ、県内の図書館に寄贈した。

7月1日付の県紙で知り、いわき総合図書館にあるのを確認して、借りて読んでいる=写真。いわきキノコ同好会の会報に発表した論考などが収録されている。

阿部さんとはいわきのキノコの観察会、総会兼勉強会で何度か顔を合わせた。2018年9月、私が小川町の山中で撮影・採取したアカイカタケについては、直接、電話や手紙をもらった。

 それで、アカイカタケは福島県内にも関東にも記録がない、非常に珍しいキノコであることを知った。

そんなことを思い出していたときに目に留まった、ショッキングなニュースである(7月7日付朝日新聞)。

中国は武漢でのキノコ食中毒事故である。両親と山を訪れた9歳の少年が食菌とよく似た野生のキノコを採った。

「AIアプリが『毒はない』と判定した」ために調理して食べたら、「直後に嘔吐などの症状が現れ、急性肝不全などの合併症を引き起こした。病院の集中治療室に運ばれ、一時危篤状態に陥り、8日間入院した」という。

キノコは変異が多い。食用キノコか、毒キノコかは専門家でも難しい場合がある。その判断をAIにゆだねた? そんなことが可能なのか。

 キノコ同好会では観察会のあと、必ず鑑定会を開いた。参加者の採取したキノコがテーブルの上に置かれる。冨田会長らが1つひとつ見て回る。

同定に合わせて「食不適」「毒」「食毒不明」などと用紙に書き込まれる。種類の同定がつかないものもある。

同好会に入ったのは食欲のためだが、観察会・鑑定会と年末の勉強会を重ねるうちに、キノコの世界の奥深さを知った。

キノコは、色が多彩で形も多様。そのうえ、人知れず発生しては姿を消すものが多い。まだまだ未解明な世界だ。AIで食毒が判定できるのは、いわばほんの一部でしかない。

現場での学習、先輩からの助言、それでも危なっかしいものは食べない、そういう経験を重ねた人間からすると、食毒をいとも簡単にAIにゆだねるのは安易、いや危険すぎる。

 AIアプリを使ったのは、親か子どもかは定かではない。が、AI頼りのキノコ狩りは命にかかわるだけにやるべきではないだろう。阿部さんもこのニュースには危惧を抱いたのではないか。

2026年7月10日金曜日

『老いるショック』

                                             
   5月中旬の新聞切り抜きだからもう2カ月前になる。朝日新聞に作家の五木寛之さんのインタビュー記事が載った。

タイトルは「93歳の死生観」。見出しには「死は日常の延長に/個人のものとして/自然に逝きたい」とあった。

90歳を過ぎて咽頭がんの告知を受けたという。その経験から「死ぬことぐらい、個人のものではないか」「自分で生きて自分で死んでいきたい」と思ったそうだ。それが見出しに反映されている。いかにも五木さんらしい死生観ではある。

それよりなにより、前文に出てくる「多死時代」が目に留まった。「多死」とは団塊の世代を意味する言葉だ。

 団塊の世代は戦後すぐの昭和22(1947)~24年に生まれた、第一次ベビーブーム世代を言う。

きょうだいに例えれば、私は次男だ。長男(長女)267万人、次男(次女)が268万人、三男(三女)が269万人と、この世代は飛び抜けて出生数が多かった。

 日本の高度経済成長期を突っ走ってきた世代も、今や80歳目前だ。生まれてから後期高齢者になるまで、受験戦争、学園紛争、核家族化、バブル経済、大量退職と、さまざまなシーンでインパクトを与え続けてきた。そして今、「多死」の時代を迎えているというわけだ。

「多死」については、拙ブログの6月18日付「地元の葬祭場」でも触れている。その一部を要約・再掲する。

――団塊ジュニア(1971~74年生まれ)が高齢期を迎える2040年ごろがピークで、火葬待ちの長期化、墓の維持の困難といった問題が指摘されている。

多死の始まりはジュニアの親たちだろう。私ら団塊の世代のことである。間もなく80代。自分のための葬祭場利用を考えないといけない年代になった。

葬祭場は身近にあった方がいい。近所の人のためにも、家族のためにも、住み暮らしていた地域で葬儀が営めればそれに越したことはない――。

 団塊のひとりとしては、やはり「多死」という言葉に鈍感ではいられない。なにが多死か、だが。

五木さんの言うように、死は個人のものである。「個死」がほかの世代より多いという意味では、確かに「多死」だが、「個死」であることに変わりはない。

 「多死」に至るまでには「多病」がある。「生老病死」でいうと、「生」のピークを過ぎて「死」を迎える間の「老病」である。

 「老病」意識が強まってきたなかで、おもしろい駄じゃれを見つけた。『老いるショック』

『老いるショック大賞』という本の広告が新聞に載った。図書館のホームページをのぞくと、「予約中」になっていた。

先行する本にフジテレビ系長期連載ドキュメント「老後」を書籍化した『老いるショック』があった。

後期高齢者にはどんな多病と老衰が待っているのか。それを知りたくて、図書館から借りて読んでいる=写真。

テレビ局の若いディレクターによる老いの疑似体験が参考になった。介護・介助用具・心構え……。これから未知のゾーンに入っていく。

2026年7月9日木曜日

医療センターを「卒業」

                  
 高血圧と慢性の不整脈で近所の医院に通っている。何年かにいっぺんはいわき市医療センター(旧磐城共立病院)で検査を受ける。

 いわゆる地域医療連携で、以前は胃潰瘍もあったため、旧磐城共立病院時代から胃カメラを飲み、内視鏡で大腸を検査してきた。

 そもそもは震災翌年の暮れ、原因のよくわからない貧血症状が出たことから、医療連携による定期検査が始まった。

消化器科の検査では大腸のポリープが見つかり、あとで2つほど取った。循環器科では2年前、左心耳閉鎖術を受けた。

心臓由来の血栓はおおかた左心耳で形成される。血栓による脳梗塞を予防するのが目的だった。

切開手術ではない。足の付け根の静脈からカテーテルを入れ、心房中隔を突き通して左心耳に、閉鎖に必要な「器具」を留置するというものだ。カミサンと相談して手術を受けることにして、5日間入院した。

故義弟が隣の福島労災病院に通院していた。私が送り迎えをした。帰りにカミサンがオープンしたばかりの医療センターの一般病棟を撮影した=写真。ここの何階かの病室に泊まるとは、そのとき考えもしなかった。

左心耳閉鎖術は新しい技術だという。担当の若いドクターは、今回の治療に関するデータを学会や医学雑誌などで発表したいという。

左心耳閉鎖術に関するデータの収集・解析を進めることで、治療の有効性や安全性が詳細に検証され、より適切な治療が可能になる。これからこの治療法を必要とする人のためにも、というので了承した。

以来、医療センター通いが続いた。術後2年を前に、先日、エコー検査などで経過を確認した。

その結果、医療センターに通ってもいいし、かかりつけ医院に戻ってもいい、というので、かかりつけ医院に戻ることを決めた。

理由ははっきりしている。外来の診察室が何列も並んでいる。待合室は診察室の前だけでなく、一般の通路側にもある。通路側のいすに座っていると、ひっきりなしに外来患者が行き来する。

こちらも同じ外来には違いないが、患者の多さにだんだん気持ちが沈んでいく。かえって心理的に疲れる。それで、かかりつけ医院に戻ることを決めた。

待合室で診察券などを受け取るために待っていると、看護師さんが来て一言、「ご卒業、おめでとうございます」。

そうか! ひとまず、かかりつけ医院に戻っていいところまで症状が落ち着いてきた、ということなのだろう。霊柩車でわが家へ戻るのとはわけが違う。うれしいひとことではあった。

そして1カ月後、処方された薬がなくなるころにドクターの書状を持って、かかりつけ医院へ行く。

旧知の看護師さんと顔を合わせたので、「医療センターは『卒業』」というと、「あら、よかった!」。声のボルテージが急に上がって喜んでくれた。朝ドラ「風、薫る」のりんと直美の顔が思い浮かんだ。