2026年8月31日月曜日

手ぬぐい地の夏掛け

                                               
 8月25日のBSプレミアム「美の壺」は、テーマが「手ぬぐい」だった。江戸時代に始まる手ぬぐいの歴史や文化などを紹介した。

 「なるほど」と思ったのは裁断方法である。幅は1尺、長さは3尺。1:3の決まった比率で手ぬぐいがつくられる。

 日曜日には夏井川渓谷の隠居の庭で、首に手ぬぐいを巻いて土いじりをする。汗をぬぐうのが第一だが、ブユやアブ、蚊に刺されるのを防ぐ虫よけの意味もある。

 手ぬぐいは、その点では実用品である。しかし、図柄には作者の個性や美意識が現れる。

「美の壺」では新たなデザインや、落語家の真打昇進記念のオリジナル手ぬぐい制作に密着していた。

 見終わると、カミサンが手ぬぐいを何枚か縫い合わせてつくった「夏掛け」を出してきた=写真。

 茶の間の座卓のそばにカウチがある。カミサンがときどきそこで横になる。扇風機が効きすぎるときには、この夏掛けを使う。

 二十四節気が立秋から処暑へと移ったとたん、なぜか暑さが戻ってきた。25日には茶の間の室温が35度を超えた。

そんな日は夜も暑い。いや、猛暑日に限らない。夏場は寝室に扇風機を持ち込み、掛け布団は夏用の薄いものに切り替える。

それでも暑いときにはタオルケットか手ぬぐい地の夏掛け1枚にする(そう、タオルケットにならって、「手ぬぐいケット」と言ってみるか)。

蒸し暑い晩は実際、「手ぬぐいケット」だけで十分だ。扇風機は足元にある。足先が冷えないようにケットで覆う。注意するのはそれだけ。

カウチ用のケットには覚えがあった。一番上から、福島高専創立15周年記念、飯野八幡宮潮垢離神事、猪狩満直詩碑建立記念、魚の絵、そして最後が平六小校舎増改築落成記念の手ぬぐいである。

魚の絵には「RIE」の署名。近所に住む陶芸家箱崎理恵さんの作品だった。魚なのに英語をしゃべる。AIに翻訳させると、「私は新しい朝がきた場所について考えていた」。そんなことをつぶやいている図柄だ。

 どの手ぬぐいにもなにか思い当たるフシがある。式典に出席したわけではない。が、どこかでつながっていて、その縁でもらったり、届いたりしたようだ。

表か裏かはともかく、反対側にはカミサンの実家の元米屋の手ぬぐいなどがパッチワークされている。二重の手ぬぐいのケットだ。

「手ぬぐいケット」は、一つには再利用、一つには思い出の定着、という意味があるのだろう。

さらには、針仕事自体が自己表現であり、オリジナル作品をつくる喜びが実は一番大きいのかもしれない。

図書館には手ぬぐいに関する本がいっぱいある。興味のありそうなのを2~3冊借りてきた。

それで知ったのだが、今は、幅は変わらないものの、長さが90センチと3尺未満になり、比率は1尺×2尺4寸くらいが一般的なのだとか。

8月29日は急に気温が下がって、「手ぬぐいケット」1枚では体から熱が逃げてゆく。ケットの上に夏布団をかけた。秋を感じる最初の日になった。

2026年8月29日土曜日

清張デビュー前の作品

                                            
   松本清張(1909~92年)の名前の読みは、「せいちょう」ではなく「きよはる」だった。

「松本清張」はペンネーム、「清張」の読みは「せいちょう」と思っていたが、そうではなかった。本名である。「まつもときよはる」である。

 清張デビュー作「西郷札」の前に、「志和隆晴」名で「ある盗賊の話」が、「松本寛隆」名で「百八煩悩」が、いずれも朝日新聞西部本社発行の「朝日ウィクリー」に掲載されたことを、8月2日付の朝日新聞が伝えている=写真。

 清張はデビュー前、朝日西部本社の工務局関係社員だった。たまたま賞金目当てで懸賞小説に応募し、入選したことから作家の道に入った。

 私が本を読む楽しさを知ったのは15歳のとき。高専に入って最初の夏休み、帰省して読みふけったのが清張の『点と線』だった。

 新幹線が導入される前の鉄道を題材にした長編推理小説で、東京駅ホームの4分間の空白をついた時刻表のトリックに強烈な印象を受けた。

当時、すでに売れっ子の作家、ベストセラーの小説だったが、ほかの作品はそんなに読んだ記憶はない。

清張原作のテレビドラマはよく見た。ドラマの一覧をチェックしていたら、「ゼロの焦点」「黒革の手帖」「けものみち」「鬼畜」などを思い出した。

拙ブログには2021年2月23日夜、BS日テレで「松本清張スペシャル・鬼畜」を見た、とある。

「火曜サスペンス劇場1000回突破記念作品」で、主演は若いときのビートたけしだった。これと同じように再放送、再々放送がいくつもあるようだ。

今はBS11で毎週金曜日午後6時45分から放送されている「サスペンス『松本清張シリーズ』」を見ている。28日は「黒の回廊」だった。

テレビで「鬼畜」を見た年の正月、イタリアに住むカミサンの友達からメールが届いた。イタリア中道左派の日刊紙「ラ・レプッブリカ」の切り抜きが添付されていた。

松本清張を紹介する記事で、見出しに「シムノンに似た日本のサスペンス作家」とあった(知人の翻訳による)。

シムノンは「メグレ警視」で知られるフランスの作家ジョルジュ・シムノン(1903~89年)で、清張とは同時代の人間だ。

イタリアの友達は、シムノン同様、清張を「サスペンス作家」と書いてきた。「推理作家」とは違うのか。ネットに当たると、ウィキペディアはサスペンスとミステリ・推理小説を区別していた。

サスペンスは現実に基づいた人間の起こす物語、ミステリや推理小説は推理を楽しむ物語、だそうだ。

さて、朝日の記事にあるペンネームだが、「志和」は清張の母親の生まれた村の地名で、「隆晴」は清張の三男の名前と一致するという。「松本寛隆」の「寛隆」には言及がなかった。

 「隆晴」はなんと読むのか。「せいちょう」にならって「りゅうせい」? それはないだろう。としたら、「たかはる」である。そうか、そうだ。きっと、そうに違いない。一気に親近感がわいた。

2026年8月28日金曜日

新聞の書籍広告

                                         
 オールドメディアの指標といえば、新聞は発行部数(新聞社が公表)、テレビは視聴率だろう。どのくらいの世帯・人間が新聞を読み、テレビ番組を見たか、というときの目安になる。

テレビの視聴者はC(チャイルド=4~12歳)、T(ティーン=13~19歳)、それ以上は男女のM(メール)・F(フィメール)を冠したM1・F1(20~34歳)、M2・F2(35~49歳)、M3・F3(50歳以上)に区分される。

3・F3層は、中高年でも後期高齢者の「団塊世代」が大きな塊をなしているとみてよい。実際、この世代は新聞もよく読む。

元ブンヤの習性で、わが家では週刊を含む新聞4紙、月刊の『常陽藝文』を購読している。

テレビ番組はむろんそうなのだが、M3・F3層が好んで読む新聞の広告にも苦笑させられることが多い。前に書いたブログの一部を要約・再掲する。

――このごろはカミサンに引っ張られて、宵のうちからBSで時代劇を見ることがある。

すると、筋肉痛や神経痛、手足のしびれなどに効くなんとか薬品、といったCMがやたらと目に付く。

こちらにも心当たりがあるので、つい身を乗り出して見る。番組が終わってから30分以内に電話をかけてください、あるいは初回限定でいくらいくらまで安くなります……

ほかにも医療保険、介護サービス、カツラ(ウイッグ)など、シニア向け商品のCMが目に飛び込んでくる。

BSの時代劇をCMから逆にたどると、ターゲットとなる視聴者はM3・F3のシニア世代ということになる。

新聞も、県紙・全国紙問わず、シニア向けの広告が目に付く。先に紹介したような医薬品のほかに、さまざまな通販広告が載る。

テレビか新聞かは関係がない。新聞もすっかり高齢者が「コア読者」になってしまったようだ――。

このごろはどういうわけか、新聞を広げるとすぐ、記事下の書籍広告に目がいく。いちおう記事の見出しには目をやる。そのあと本の広告をじっくりチェックする。

 気になる本は、すぐ図書館にあるかどうかを確かめる。あって「貸出可」なら借りに行く。「貸出中」なら戻ってくるのを待つ。

 先日もそうやって広告をチェックしていると、『高専――戦後日本のエンジニア養成』という文字が目に飛び込んできた=写真。

 おっ、高専の歴史に関する初めての本ではないか! 中公新書である。著者は龍谷大学の手嶋泰伸准教授(日本近現代史)で、福井高専で教鞭をとった経験がある。

 高専は青春と人生の出発点ともいうべき場所だった。ここでのさまざまな出会いから、エンジニアとは真逆のブンヤの道を歩むことになった。

 本は出版されたばかりだから、図書館にはない。そんなことより、これは買って手元に置いておくべき書物である。

というわけで、ラトブへ行ったついでに、3階のヤマニ書房で購入した。2日で読み終えた。実体験を客観化するとこの本の骨子になる。踏み込んだ感想はまたいつか。

2026年8月27日木曜日

わが家は猛暑日

                                
 8月25日は早朝、雲一つない青空だった。6時半に接骨院へ行くと、ラジオから天気予報が流れてきた。小名浜の最高気温は31度の予想だという。

 沿岸部でそうなら、内陸の平では35度を超えるのではないか。きょうは「猛暑日」覚悟か――。実際、わが家の茶の間ではそうなった。

 朝から風に熱がこもっていた。いつもとは違う。8月7日は立秋、23日は暑さが収まることを意味する処暑だったが、それはしかし暦の上の話だ。

 今年(2026年)の夏は、暑いことは暑くてもゲンナリするほどではなかった。南向きの茶の間で、ガラス戸を開け、扇風機を回して仕事をしているのでわかる。

8月第2週後半から第4週後半まで、連日、かなりの量の「文字読み」をした。酷暑が続くと、体がボーッとしてきて「やってられない」状態になるのだが、今年はそれがなかった。

庭の「蝉時雨」も8月に入ると日増しに大きく、うるさくなった。処暑を過ぎても、それは変わらない。ただただ仕事に集中するだけ、である。

25日は、接骨院から帰ると「朝活」をすませ、10時過ぎには銀行と図書館へ出かけた。

カミサンも同行した。「暑いから台所には立ちたくない」というので、昼食用のサンドイッチなどを買って戻った。

とにかく暑い。暑くて「茶の間にはいられない」と思った。そう感じたのは今季初めてだ。

テレビのわきにあるデジタル時計を見ると、気温はとっくに30度を超えている。午後1時44分には、ついに「35.0度」になった=写真。暑さはその後も続き、夕方4時半にはピークの35.3度に達した。

福島地方気象台のデータでは、この日の小名浜は最高気温が30.8度、山田が33.8度だった。

「猛暑日」には蚊の活動が鈍くなるのか、蚊取り線香がなくても大丈夫だった。セミたちも同様、酷暑にゲンナリしたらしく、蝉時雨の音量はいつもの半分くらいだった。

この暑さの中、南相馬市に住む高専の後輩がやって来た。震災後、私たちも関係するシャプラニールが被災地支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を運営した。そのとき、スタッフの1人として雇用され、知り合った。

店の一角に「かべや文庫」がある。そこで主にカミサンと近況を報告しあった。茶の間よりはしのぎやすい。そこでしばらく冷たい飲み物を口にしながら過ごした。

彼女が帰って茶の間に戻ると、また熱気に包まれた。晩酌を早めに始める。ポットには氷を入れた水。冷蔵庫から取り出したチーズはたちまち軟らかくなって、今にもとろけるのではないかと思われた。

それからほどなく、カミサンから声がかかる。「夕焼けがきれい!」。家の前に出ると、西空に幾重にも雲がたなびき、夕日を受けて赤く染まっていた。

酷暑の締めくくりは赤い夕焼け雲――。これだけで少し焼酎の量が増えた。翌日もまた「猛暑日」に迫る暑さだった。

2026年8月26日水曜日

隠居の危険な生き物

                              
   8月23日の日曜日は朝早く、夫婦で夏井川渓谷の隠居へ出かけた。土いじり(夏場は草引きが中心)をするのは3週間ぶりだ。

その1週間前の16日は、早朝、月遅れ盆の「精霊(しょうりょう)送り」が行われた。終わって隠居へ出かけ、台風被害がないのを確かめてとんぼ帰りをした。カミサンは「片付けがあるから」と家に残った。

下の庭も、上の庭もきれいになっていた。お盆を前に、集落のKさんが見かねて草を刈ってくれたのだった。

そのまた1週間前の9日は夫婦で郡山市立美術館を訪ね、帰りにほんのちょっと、隠居に立ち寄った。

それから3週間。たまった生ごみを畑に埋めたあと、ネギのうねに土寄せをした=写真。カミサンは? ネギのうねと旧苗床のそば、県道との境の土手際に植えてあるアジサイの手入れを始めた。

土寄せが終わり、旧苗床から大きくなったネギを収穫した。まだまだ夏の暑さは続く。土いじりは朝のうちの1時間。そう決めたとおりに切り上げて隠居へ戻ると、カミサンが台所でなにやらやっていた。

「手袋の上からハチに刺されたの」。それですぐ隠居に戻り、刺されたところを指で押して毒を出し、水に流していたのだという。

2度目ではないか! 20年ほど前、やはり隠居の坪庭で草むしり中に、キイロスズメバチに手を刺された。

やけどをしたような痛み収まらないので、磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救命救急センターへ連れて行った。

「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」。ドクターにいわれていた。怖いのはアナフィラキシーショックである。

刺されてからすでに30分はたっている。前回よりは刺され方が浅かったという。それもあるのか、体調の急変はなさそうだ。

まずは平地の小川に戻り、コンビニで軟膏を買って塗ることにした。すぐ雨戸を閉め、風呂場の水を止めて坪庭に伸ばしていたホースを引っ込め、隠居をあとにする。

日曜日である。行くとすれば救命救急センターだ。保険証(資格確認書)を取りに家に戻ったが、体調に変化はない。

どうやらアナフィラキシーショックは回避できたようだ。一晩様子を見て、翌日、念のためにマチの皮膚科医院で診てもらう。

「大丈夫でしょう」ということで、とりあえずかゆみ止めの薬と、炎症を抑える軟膏を処方された。

隠居では、私がムカデに刺されたばかりだった。ムカデに刺されたとき、台所で水を流しながら、ムカデの毒を押して流した。それを見ていたから、カミサンもハチに刺されるとすぐ台所に駆けつけた。

マチなかのわが家の庭でさえ、キイロスズメバチやアシナガバチが飛び交っている。大自然から間借りをしているような隠居の庭は推して知るべしだが、つい「造園好き」の一面が出てしまったのだろう。

ハチ類が活発に動き回る時期でもある。隠居の中にはムカデが、庭には蛇がいる。土いじりは楽しいが、危険な生き物もひそんでいる。そのことをまた「痛感」した。

2026年8月25日火曜日

医師作家夏川草介

                               
   ざっと1カ月前になる。「あさイチ」に作家の夏川草介が出演した。本業は医師で、しかも若い。老人医療を主題にした小説も書いているとかで、がぜん興味がわいた。

1978年に大阪で生まれた。信州大学医学部を卒業後、長野県内の病院で地域医療に従事しているという。

 2009年、『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し、作家としてデビューした。

この作品は本屋大賞の2位にもなり、150万部を超える大ベストセラーになったそうだ。

 夏川草介というペンネーム自体、作家がらみだ。夏目漱石の「夏」、川端康成の「川」、「草」は漱石の「草枕」から、そして芥川龍之介の「介」。しゃれたネーミングから「くたばってしめえ」の「二葉亭四迷」を思い出した。

年寄りの了見の狭さというか、若いころに愛読した作家は年がいってもそのまま受け入れるが、大人になったあとに出てきた作家には、なかなか興味がわかない。

近年登場した作家は、名前は知っていても作品は読んだことがない、というケースがほとんどだ。

年下の元同僚が井坂幸太郎(1971年~)や星野智幸(1965年~)を読んでいると聞いて、作家と作品は時代と世代によって違うことを痛感した。

先日亡くなった東野圭吾もその一人。『クスノキの番人』を読んで、人間と人間の間に巨樹を媒介させたところに新しさを感じたが、彼の作品が広く若い人に読まれているのを知ったのは死を伝えるニュースで、だった。夏川草介も若い人には人気がある。

医師で作家といえば、久坂部羊がいる。こちらは71歳。認知症をテーマにした小説『老乱』を読んだのは6年前。久坂部は年齢も近い。

認知症や老人医療などは、もはや自分自身の問題でもある。これからやってくる、あるいはもう始まっている世界を知る上でも興味・関心がある。

その興味から夏川作品を読んでみることにした。いわき市立図書館のホームページを開くと、16冊の本があった。翻訳を除く14冊の大半が「貸出中」か「予約中」になっていた。これだけでも人気作家であることがわかる。

「あさイチ」に出演した日の朝、図書館にはたまたま「貸出可」が2冊あった。3日後の月曜日に借りに行くと、書架にはない。すでに「貸出中」になっていた。一歩遅れた。

かろうじてティーンズコーナーに『本を守ろうとする猫の話』と「君を守ろうとする猫の話』があったので、これを借りた=写真。猫が人間の言葉を話す。そこから物語が展開する。

超人気の『神様のカルテ』シリーズは出納書庫にあるが、デビュー作はやはり「貸出中」になっていた。これも「あさイチ」効果か。

毎年8月は「文字読み」の仕事が入る。今年は軽いタッチの夏川作品を頭において、連日、文字読みをした。

夏川草介は息子たちよりはずっと若い。彼のほかの作品はおいおいと。そう、老いては子に、いや若い人に従え、である。

2026年8月24日月曜日

誤嚥が怖い

                                 
 日ごろキャンバスと「対話」している親友の画家が「声を出して本を読んでいる」という。

 理由を聞いて納得した。医師から誤嚥(ごえん)を予防するために、のどの筋肉を鍛えるようアドバイスされた。

 実は私も同じ理由で、そばにある本でも、ブログの原稿でも、声を出して読んでみないとなぁ――と考えていたところだ。

食事をしていると、ときどき食べ物が気管に詰まりそうになる。味噌汁=写真=でもそうなる。

あるときは激しくせき込んだ。いつものせき込みならすぐやむが、このときはちょっとてこずった。やっぱりのどの筋肉が衰えているのだろう。

 いくら脳活=ブログの文章を書いているといっても、無言の行に変わりはない。親友の画家は独り身に戻ったから、しゃべる相手がいない。私もカミサンを相手に、「あれ」「それ」で用をすませている。「おしゃべり」には縁遠い。

 テレビを見ながら、「ああだ、こうだ」いうのはカミサンで、私はスポーツ番組を見ていて「よしっ」とか「うわー」とわめく程度だ。

 年寄りほど誤嚥しやすいと知ったのは、75歳と80歳を対象にした無料の歯科口腔健康診査を受けたときだった。

怖いのは誤嚥性肺炎で、歯周病菌が肺の中に入り込むと炎症を起こす、とあった。飲食物が食道ではなく、誤って気管に入り込むとそうなる。

 原因は老化や脳血管障害などによる飲み込み機能の低下、咳(せき)をする力の低下など、だという。

そういえば、若いときはコップの水をガブガブ飲んだものだが、今は……。

2024年の夏に水の飲み方の変化を実感した。暑いのでコップに氷を浮かべて冷えた水を一日に何回も飲んだ。それを繰り返しているうちに、少しずつ飲み方が変わっていった。

 最初はゴクゴク連続して飲み干すようにしていたのが、いつからかゴクンとひとくちやって、水が食道を下っていくのを確かめるような飲み方に変わった。

 すると、なぜだか知らないが、いつもの水道水なのに「冷たくてうまい!」と感じられた。

 はじめは、のどを潤すだけでなく、内部体温を下げる目的があった。が、「うまさ」を知ってからは、味覚を優先してゴクンとやるようにしている。

 今は、その飲み方が「うまい」からだけではなく、のどの筋肉が衰えたための「自衛」でもあったか、という思いがある。

姿勢も違っていたのではないか。ゴクゴクのときは顔を上げるようにして。しかし、ゴクンはあごを引くようにして。庭で歯を磨くときも、同じ理由で空を見上げないようにしている。

そうなったのはたぶん誤嚥を意識してのことだ、と考えると、納得がいく。その後は、水であれ何であれ、飲み方・食べ方が慎重になった。

 ご飯とおかずはよく噛む。ヤクルトは3口半、つまりゴクンを3回やって、残りをなめるようにして飲む。

 飲み方はそれでいいとして、まずは声出し、音読だ。覚悟はわかった、実行だよ、実行あるのみ――もう一人の自分が冷ややかに言う。

2026年8月22日土曜日

暴風倒木

                                
   日曜日は午後3時を過ぎると、ドライブを兼ねて四倉へ刺し身を買いに行く。月遅れ盆が明けた8月16日は、町の魚屋さんが遅い盆休みに入ったので、ほかの買い物と併せてスーパーへ出かけた。

行きも帰りも旧道(浜街道)を利用した。草野を過ぎて四倉の狐塚に入ると、水田の先に桐の木が立っている。

一面の緑色と桐の木の組み合わせがおもしろくて、車を止めて眺めたり、写真を撮ったりする。

今度も後続車両と対向車両がないのを確かめてチラッと目をやったら、「あれっ! なんだ!」。

桐の木が幹の途中から折れている=写真上1。あの台風15号(8月11~12日)の暴風にやられたか。

平では11日、雨はほとんど降らなかったが、北からの風が吹き荒れた。この日午後5時過ぎには、小名浜で瞬間最大風速25.8メートルを記録した。一時、3千戸が停電したが、これは順次解消された。

この日の雨量は山間地の川前で65.5ミリ、三和で52.5ミリ、平地の平では6.0ミリ、好間は4.0ミリだった。

台風15号そのものが異例のコースをたどった。東の太平洋からやって来て、夜8時ごろ、茨城県に上陸した。

この暴風の影響で、いわき市役所近くの童子町公園(平)では大木が折れた。波立海水浴場では監視塔の屋根と壁が壊れ、結局、解体・撤去された。

以上はメディアで知ったいわきの暴風被害だが、狐塚の桐の木も折損状況からみるとそうだったのだろう。

その2日後の18日、いわき駅前へ行く途中、祢宜町広場のそばを通ったら、いわきPIT側にある公園木が1本、根元から折れているのに気づいた=写真上2。これも、11日の暴風で倒れたのかもしれない。

台風15号のあと、今度は千葉を線状降水帯が襲った。内水はんらんで都市部の道路が冠水し、車両が2千7百台もエンスト・放置された。

こんなことは想定外だった。想像もしなかった。これからはしかし、過去の被害を越えた被害が起きる、それが何度も起きる、と覚悟しないといけないようだ。

2026年8月21日金曜日

終わって始まる盆休み

                               
   終わってやっと始まる盆休み――。いわき市では月遅れ盆の「精霊(しょうりょう)送り」が区内会単位で8月16日朝に行われる。

わが行政区では区の役員が前日に祭壇(集積所)を設け、当日早朝6時から8時過ぎまで、当番制で各家庭からの供え物を引き受ける。

9時前には供え物を回収するために市の収集車がやって来る。これがあるので、お盆がきてもどこかへ泊りがけで出かけるようなことはなくなった。

祭壇を設けるのは区内の県営住宅集会所の前庭と決めている。そのため、14日には集会所前の路上に「駐車自粛」の立て看を置く。

15日は夕方5時、前庭をきれいにして供え物を受け取る祭壇をつくり、表面に竹を2本立てて縄を張り、間に杉の葉とホオズキを差す。

前は四方に竹を立て、縄も張り巡らしたが、役員の年齢と体力を考えて江戸時代の「結界」を示す文献を参考に、前面だけにした。

結界用の竹は故義伯父の家の庭にある細竹を利用する。4本だと切ってそろえるだけで息が上がる。年々、運ぶのがきつくなった。2本に省略したのもこのためだ。

そして、当日。早朝6時前には集会所へ出かけ、お布施の箱や焼香台などをそろえる。今回は幾分早めの5時半ごろ出かけたが、すでに供え物を置いていった人がいる=写真。

今年(2026年)のお盆は、これだけではなかった。スペインの旧知の青年がカップルでやって来た。

向こうへ渡って画家活動を続けた親友と交流があり、その縁でわが家(実際は故義伯父の家)にホームステイをするようになった。今度で3回目である。

スペインを引き揚げてきた画家といわき駅で合流し、3人を乗せて帰宅したあと、故義伯父の家で歓迎の小宴を開いた。

前日の盆の入りにはカミサンの実家へ行って仏壇に焼香した。家に戻ると、今春、東京の大学に入った孫が親と一緒にやって来た。翌日はスペイン青年との小宴に合流した。

それとは別に、8月には膨大な量の「文字読み」が入る。お盆には、その時間はない。が、今年は量が多い。お盆中も時間をつくって読むようにした。

お盆の締めくくりは前述の「精霊送り」である。休みと仕事の区別がつかない身だから、いつもの日常が戻ってきただけ。とはいえ、お盆には毎日何かがあったために、いつもの年よりは開放感も大きかった。

いわき市の行政嘱託員としては、8月15日の回覧配布がある。前は10日おきに月3回だったのが、1日と15日の月2回に替わった。回数は減っても回覧する種類・量は変わらない。

盆の終わりの15日も配る資料があった。しかし、お盆には配れない。17日にずらした。18日朝にはスペインの青年のホームステイが終わった。

20日には平鎌田で夏井川流灯花火大会が開かれた。わが家の2階からも花火の先っちょが見えた。夕方には雷雨が来るかと思ったが、雷様(らいさま)の汗のような雨で終わった。この花火とともに平の夏は終わり、秋が始まる。

2026年8月20日木曜日

ミョウガの花が咲いた

                                         
  先日、ダンシャリをしていたカミサンが和風ハーブの本を引っ張り出してきた。木村幸子著『ふるさとハーブ物語』(いしずえ、1998年)=写真上1=で、著者の木村さんはいわき市出身である。

 著者略歴によると、木村さんは磐城女子高校(現磐城桜ケ丘高校)から法政大学へ進んだ児童文学作家である。

 カミサンとつながりのある先輩と同学年で、その先輩から本の恵贈にあずかったようだ。

 『ふるさとハーブ物語』では、シソの実に始まってカヤの実で終わるまで、ネギ・ウド・ユズ・ニンニクなど15種類の和風ハーブを取り上げている。

たとえば、ネギ。子どものころはネギの味噌汁が嫌いだったという。やがて大人になり、PTAで親しくなった母親たちと浅草の「駒形どぜう」へ行ったとき――。

小鍋に並べられたドジョウの上に山盛りにのせられた、小口切りのネギの煮えたのを、ドジョウよりもおいしいと感じながら、ネギが好きになったのは会津の曲がりネギを食べたときだったことを思い出す。

子どもの味覚と大人の味覚はやはり違うようだ。私自身、フキノトウは子どものときは苦くて嫌いだった。

それが新聞記者になり、取材先の草野美術ホールでフキノトウを焼いて一献となったとき、苦さが酒に合うことを知った。以来、フキノトウが手に入ると必ず酒の肴にする。

フキノトウだけでなく、ミョウガも出てくる。ある日、PTAで知り合った女性2人、店で飲み始めると握りずしが出てきた。その1つのネタがミョウガの甘酢漬けだった。

著者は甘酢漬けを口にしながら、子どものころを思い出す。好きだったのはナスとミョウガの油炒め、キュウリとミョウガの酢のものだった。

糠漬けのキュウリやナスに細かく輪切りにして水にさらしたミョウガを、細かく刻んだショウガとともに和えたものも好きだったという。

後日、店をやめた女主人と地下鉄の車内で偶然、一緒になる。自分が降車する駅に着いて別れるとき、女主人がいう。「ミョウガは、ほぐしてサッと蒸したものに薄く塩を振って、甘酢に漬けるだけ」

そのミョウガがわが家の庭でも姿を見せるようになった。薄く黄色い花をつけている=写真上2。春に芽生えたものはミョウガタケ、月遅れ盆のころに根元から現れて花を付けるのはミョウガの子という。

糠漬けにする。甘酢(わが家では甘梅酢)漬け同様、縦に2つに割って糠床に入れる。じかに入れると取り出すとき、小さくてどこにあるかわからなくなる。

前は小さなプラ容器に糠味噌を入れてそれに寝かせたが、今はガーゼに包んで糠床に入れる。

わが家の庭、隣の故義弟の家の庭、夏井川渓谷の隠居の庭と、ここしばらくはミョウガの子から目が離せない。

2026年8月19日水曜日

高木敏子さんが亡くなった

                                                     
   ベストセラーになった児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者高木敏子さんが8月8日、亡くなった。94歳だった。

『ガラスのうさぎ』は少女の過酷な戦争体験記である。高木さんは東京大空襲で母と2人の妹を、疎開先の神奈川県で米軍の機銃掃射によって父を失った。

終戦直後の昭和21(1946)年2月末、13歳の高木さんは寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、常磐線で焼け野原の東京へ戻る。

しかし、列車は平止まりだった。たまたま列車で同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」がいる。

「おばさん、ありがとう。わたしはきっと、このご縁を一生忘れないでしょう。いつかまた、かならずお礼に参ります」

少女は33年後、誓いを実行する。昭和53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。

私は当時30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。

 当時の記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。(略)残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

幸い「おばさん」が判明し、高木さんは翌年1月4日、再会を果たす。広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。

勿来のおばさんは77歳になっていた。「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」と答えている。

高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした(以上、いわき民報の記事=写真=を参照・引用)

訃報に接して、勿来のおばさんを捜す記事を書いた記者(再会の記事は別の記者)として、当時のやりとりがよみがえった。

 令和元(2019)年8月1日の拙ブログでも高木さんに触れていた。若い人と『ガラスのうさぎ』の話になったこと、新たに高木さんの『ラストメッセージ――ガラスのうさぎとともに生きて』を読んだことを書いている。

――『ラストメッセージ』は、『ガラスのうさぎ』と合わせ鏡の半生記でもある。どちらにも平和への祈りがこもる。

「命の終わりのときには、『ペール・ギュント』の中の『オーゼの死』か『夜明けの歌』、そのどちらかを流してもらいたいとわたしは思っています」――

理由は、青春の思い出がからんでいるからだった。戦後、男子校の第九中学校(現都立北園高校)でイプセンの劇詩「ペール・ギュント」をやったとき、先生からの依頼で第七高女(現都立小松川高校)の生徒だった高木さんが「純情な女」ソルベーグ役でゲスト出演し、グリーグ作曲の歌もうたった――。

訃報を知って、一度だけ聴いたことのある、グリーグのこの曲が思い浮かんだ。

2026年8月18日火曜日

タバコ畑・下

                               
 郡山市立美術館へは南の国道49号、北の同288号の中間、阿武隈高地の丘陵地帯を縫ってのびる県道小野郡山線(県道65号)を利用した。

 いわき市三和町中三坂で国道49号に別れ、国道349号に出てからは、道路沿いの田畑が確認できるスピードで移動した。

 水田がほとんどだった。が、とこどころ草地が出現した。草地はほとんど遊休地と化した元・畑だろう。

 若いころ、月遅れ盆と正月にこの道(国道349号)を利用して、田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家へ帰省した。

 そのころの記憶では、水田のほかにタバコ畑(ところどころトウモロコシ畑)が広がっていた。それが、今はまったく見当たらない。

 田村郡はかつて、全国有数の葉タバコ産地だった。「タバコ畑・上」にも書いたが、私自身、小学生のころは、隣家の農家の「タバコはさみ」(夏)と「タバコのし」(冬)を手伝って、小遣い銭を稼いだ。

 「タバコはさみ」は、タバコ畑から摘んできた葉を縄にはさんで小屋で乾燥させることを言う。

隣家の畑は集落の南を流れる大滝根川の崖の上にあった。丘陵地で周りは全部タバコ畑だった。

「タバコのし」は乾燥させた葉タバコを1枚、1枚広げて束ねることを言う。冬場、隣家の居間で行われた。

「タバコはさみ」のときもそうだったが、手に付いたヤニは、せっけんで洗っても簡単には落ちなかった。

タバコは夏、薄桃色のきれいな花をつける。これには引かれた。拙ブログで写真とともに、その花を紹介したことがある。一部を抜粋する。

――タバコの学名はニコチアタバクム。阿武隈高地では6月下旬~7月上旬が開花期で、2~3輪咲くと芯止めのために摘花される。

細長いラッパ状の、筒は白色、先端はピンク色の星型の花だが、摘花されるために農家以外でちゃんと見ている人は少ないのではないか。

2009年7月上旬、現田村市船引町のJR磐越東線磐城常葉駅付近の畑に咲いていたのを、いわきへの帰路、車を止めて写真に収めた。ニコチンとヤニを含んでいる植物とは思えない清楚さだった――。

そのころはまだ、タバコ畑が普通にあった。阿武隈の山里に張り巡らされた道路は、水田を除けば「タバコロード」だった。

喫煙による健康問題が指摘されるようになってからはたばこの売れ行きが落ち、それを反映して栽培面積が減った。東日本大震災に伴う原発事故がこれに輪をかけた。

田村郡の葉タバコは専売公社が買い取った。民営化されて日本たばこ産業(JT)になったあとの2015年3月、郡山工場が閉鎖された。

 今度のドライブでは郡山からの帰路、磐東線沿いの田村市滝根町広瀬地内でようやくタバコ畑に遭遇した=写真。

道路をはさんで畑が右と左に各1枚。そのあと夏井川沿いにいわきへ下ったが、タバコ畑は結局、これだけだった。阿武隈の「タバコロード」はもう記憶の中にしかないようだ。

2026年8月17日月曜日

タバコ畑・上

                                 
 民俗研究家結城登美雄さんの訃報に接して、図書館から『山に暮らす海に生きる――東北むら紀行』を借りて読んだ話を前に書いた。

 本は「東北点描」「山に暮らす海に生きる」「都市の忘れ物――分校のある風景」「市(いち)から始まる」の4章立てだ。

 福島県内の分を拾うと――。「カラムシ」(昭和村)「宿場町」(下郷町)「ひな流し」(三島町)「ソバの町」(山都町)「椎茸栽培」(熱塩加納村)「コウナゴ干し」(新地町)のほかに、「タバコ畑」(船引町)が紹介されている。

 秋田市の無明舎出版から本が出たのは1998年。その後、山都町と熱塩加納村が喜多方市と合併して、新・喜多方市になった。

船引町も、田村郡の三春、小野両町を除く常葉・滝根・大越3町、都路村と合併して、田村市船引町になった。

結城さんは船引町の美山(みやま)地区を訪ねて、タバコ生産農家を取材する=写真。

「美しい山の畑を見つけた。標高七〇〇メートルに近いタバコ畑」で、耕作者は集落で一番若い農業者である。

両親が切り開いた六反歩の畑を受け継ぎ『なんとか八ケタ(一千万円)の収入を得たい』と傾斜地を開墾して二町歩に広げ、五年前にその目標を達成した」

結城さんは美しい山の畑に感じ入る。「農民はすばらしい自然のデザイナーだ。日当たりを考え、水の流れ、風の通り道を計算し、秋から冬には山の落ち葉を集めて腐葉土を作る」

そして、何代にもわたって築かれた農の基盤、労働の積み上げと知恵の厚みに圧倒される。

それだけではない。仕事の合間に近くの川でイワナやヤマメを捕り、庭先で自給野菜、小麦を育てて自家製のウドンを楽しむ。

私はこの美山地区と同じような風景が広がる隣町の常葉で生まれ育った。家は床屋だが、周りは農家が多かった。

一筋町を出ると、川筋には水田が、山麓には畑が広がっていた。畑はほとんどが葉タバコで占められていた。

町の子どもとはいえ、タバコ畑を見ながら育った。小学校の高学年になると、夏は農家の畑の小屋でタバコはさみ、冬はその家でタバコのしを手伝い、小銭をもらった。アルバイトである。

堆肥枠の腐葉土にはカブトムシが卵を産んだ。夏になるとカブトムシが孵った。常葉にムシムシランドができたのは、こうした環境・背景があったからだ。

「タバコ畑」の紀行文を読みながら、少年時代の夏と冬のあれこれを懐かしく思い出した。

結城さんの「取材をおえて」や「あとがき」を読んで強く心に残ったのは、「都市の基準や市場原理だけで中山間地をとらえてはいけない。それは、東北を個々の現場からとらえ直せ、ということでもある」。

そして、次の言葉を反芻する。「都市で暮らす私たちの食糧は、これらの人々の自然との闘いに支えられて成り立っているのである」

私が中山間地にこだわるのもここにある。出身地でもある。ただただ中山間地を知ってほしい。それだけのことなのだが。

2026年8月15日土曜日

腕カバーはタオル

                                 
 これまでの台風は、南方海上で生まれてから西へ向かい、さらに東へと向きを変えて西日本に上陸し、東日本へと本州を横断するのが一般的だった。

 ところが、台風15号は高気圧が北に後退したからか、生まれは同じ南方海上でもそのまま北上し、東の太平洋から本州にやって来た。

8月11日午後8時ごろ、茨城県南部に上陸し、本州を西へ駆け抜けた。「逆走台風」である。これも「地球沸騰化」の時代の一現象なのだろう。

近年は低気圧自体が狂暴化しつつある。冬でも台風並みに発達して、あちこちに被害をもたらす。それだけではない。日本でも「竜巻」がたびたび発生するようになった。

何年か前に爆弾低気圧が通過したとき、わが家の南隣にある故義弟の家の庭木が傾いた。根が浮いたので始末したが、こんな被害は今までなかったことだ。

気温も高めに推移している。気象庁は今年(2026年)、最高気温が40度を超える日を「酷暑日」と定めた。

 東北最南端の太平洋側(いわき市)では、まだ酷暑日を経験したことはない。が、部分的な酷暑なら毎日経験している。車の窓を開けずに止めておくと、車内が超高温になっている。

そのうえ、南向きだとハンドルが直射日光を浴びて「アチチチッ」となる。庭だけでなく、スーパーなどの野外の駐車場でも同じだ。

家の庭では車の窓を開けておく。「やけど」対策として、ハンドルにはタオルをかぶせる。夏場はそれでタオルが欠かせない。

エアコンは出だしにかけるだけ。走行中は窓を開けて風を入れる。それで十分暑さがしのげる。

問題は太陽が運転席の右側にあるときだ。直射日光を浴びて、むき出しの右腕が熱く、痛くなる。

 ハンドカバーが家にある。それを持ち込んではめるほどではない。腕が熱くなってきたなと思ったら、ハンドル用のタオルを巻きつける=写真。

直射日光にさらされているのは同じでも、熱が布で遮られる。痛みも消える。ハンドルに、右腕にタオルはなかなか効果的だ。

とはいえ、大腿部まで日光が差し込むと、いくらズボンをはいているからといっても、次第に熱を帯びてくる。こちらは我慢するしかない。

これは地球沸騰化だけが原因ではあるまい。子どものころは、日焼けなどは平気だった。川にも、森にもランニングシャツと半ズボンで出かけた。

それが、どうだ。外出には、男だろうが日傘を持って出かけたい、そんなことを考えるようになった。

これも加齢の一現象には違いない。ま、カンカン照りの中を歩き回ること自体、年寄りには危険このうえないのだが。

地球はこれからどうなるのだろう。もういなくなるからいいや、ではない。年寄りだからこそ孫たちの行く末が心配になる。

2026年8月14日金曜日

ターシャ・チューダーの愛読書

                                          
   ターシャ・チューダー(1915~2008年)は絵本画家である。米国のバーモント州でガーデニングを中心とした田舎暮らしを楽しみながら絵筆をとった。

その思想と暮らしを紹介する「ターシャ・チューダー 人生の軌跡展」が、郡山市立美術館で開かれている(8月23日まで)。冠に「夢は叶えるもの」とある。

絵本原画や下絵、ターシャが日々の暮らしの中で愛用した道具の数々、収集したアンティークドレスなど約250点が展示されている(PRチラシ)。

 カミサンはターシャのファンでもある。ターシャのスローライフを紹介する本や評伝を何冊も持っている。

 8月9日の日曜日、開館時間の9時半には着くよう、7時40分に家を出た。アッシー君である。

 いわきのわが家から美術館まではざっと85キロ。予定通り、1時間40分後には美術館に着いた。65歳以上の特典で入館料は900円と、一般より300円安かった。

 ターシャは、カミサンを介して昔から知ってはいたが、ちゃんと向き合ったことはない。糸車や木製シャベル、アンティークの天秤棒、熊手などから、田舎暮らしの楽しさと厳しさを感じた。

 花を中心としたガーデニングにいそしみ、木の実も暮らしに利用する。キノコはどうか? 絵本の下絵、原画をよく見たが、なかった。なんだ、キノコには興味がなかったのか。

 今から16年前の2010年8月、同じ郡山市立美術館で「ビアトリクス・ポター展」を見た。

絵本の「ピーターラビット」の生みの親としてだけではなく、ナショナルトラスト運動の理解・賛同者としての彼女に引かれて出かけた。

彼女はキノコ研究者でもあった。同じ絵本作家でも、ビアトリクスとターシャでは自然に対する興味・関心が異なる。

 唯一、「おっ」となったのは愛読書のコーナーだった=写真。ターシャの蔵書が10冊展示されていた。

 壁にはターシャの言葉が2行に分けて記されている。「本は、どんな船よりもさまざまな異国へ私たちを運んでくれる、すばらしい乗り物です。」。いい言葉である。

 彼女が愛読したのは『ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー詩集』、ウィリアム・ブレイク詩集『無垢と経験の歌』、ウォルター・ドゥ・ラ・メア詩集『トム・ティドラ―の大地』のほか、『シェークスピア物語』『イソップ物語』などだ。

ウォルター・ドゥ・ラ・メアは初めて知った。英国の作家・詩人・児童文学者で、一般にはウォルター・デ・ラ・メアと表記されるようだ。ターシャよりは一世代年長だ。

ターシャはこうした詩人や作家たちの作品を読むことで自分の感性を養ってきたのだろう。

家に帰ると、カミサンがターシャの本を引っ張り出してきた。キノコの有無を探していると、ハリー・デイヴィスの『ターシャ・チューダーの人生』に収録された「飾り罫」のなかにあった。

結局、それだけだったが、全くキノコに興味がなかったわけではないことを知って、ホッとした。

2026年8月13日木曜日

阿武隈高地へ

                                           
   いわきから車で郡山市立美術館へ行くには国道49号を利用し、阿武隈川の手前で右折する。これが一番だが、どういうわけか右折してから道に迷う。

夏井川沿いに小野町へ行き、田村市船引町から国道288号に出るルートがある。このルートでも阿武隈川を渡らずに左折するのだが、やはりそのあと道に迷う。

 カーナビは付いていても使ったことがない。利用法が分からないといった方が早い。それに遠出するといっても、ふだんは夏井川渓谷の隠居止まりだ。使う必要もない。

 分水嶺の阿武隈高地をはさんで、郡山市は西の盆地に、いわき市は東の沿岸部にある。

郡山は標高が郡山駅周辺で230メートルほど、いわきの中心はいわき駅周辺で8メートルほどだ。間を遮る高地では標高500メートル超の山里をピークに、カーブとアップダウンが続く。

 郡山市立美術館で「ターシャ・チューダー 人生の軌跡展」が開かれている。新聞で知ったカミサンが「日曜日(8月9日)に行かなくちゃ」という。いやも応もない。行くからには道に迷わないようにしないと。

同美術館へはこれまでに6回出かけている。拙ブログによると、2009年に1回、2010年と2016年に各2回、2022年に1回の計6回で、2016年の2回目以降は49号と288号の中間、阿武隈の丘陵地帯を縫う県道小野郡山線(県道65号)を利用している。

ちなみに、見に行った企画展は「布ものがたり」「「ビアトリクス・ポター」「ノーマン・ロックウェル」「古民藝もりたの眼」「西洋更紗トワル・ド・ジュイ」「ソール・ライター」で、写真家のソール・ライター展を除けば、カミサンのアッシー君だった。

今回も小野町から県道65号を利用することにした。渓谷の隠居へは帰りに寄ることにして、行きは国道49号から同349号(中三坂から)を経由し、小野インターの先で県道65号に折れた。

郡山市に入ってしばらく行くと大滝根川と並走し、さらに進むとT字路になる。「ニュータウン」へ行く道だ。

そちらへ右折すれば、美術館まではまっすぐなのだが、一度そこを通りすぎて、途中でカミサンから指摘されてUターンしたことがある。

そのため、カーナビ代わりのメモには「ニュータウンの標識を右折」と書き込み、それだけを注意した。で、今回はすんなりたどり着くことができた。

ドライブ中、驚いたことが2つある。いわきの平地と小野町の山里では、道沿いの花とセミの鳴き声が違っていた。

わが家ではミンミンゼミが鳴いていた=写真。ミンミンの声に送られて国道6号(旧バイパス)に入ると、道端には白いシンテッポウユリが咲いていた。これが山里に入ると、ヤマユリの花とアブラゼミに変わった。

ヤマユリは、夏井川渓谷ではすでに花期を過ぎて、どこにも見当たらない。それが阿武隈の山里(田村市はわが故郷でもある)では満開だった。高地へ来たことを実感した。

2026年8月12日水曜日

都市型水害

                                          
   2カ月ほど前になるだろうか。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」地下駐車場に車を止め、エレベーターホールに入ると、押しボタンのわきに「注意/水没被害」のシールが張られてあった=写真。

 地下街や地下駐車場が台風や集中豪雨によって冠水被害に遭う時代、ラトブでも警戒を、ということなのだろう。河川のはんらんだけでなく、新たに都市型水害を意識しないといけなくなったようだ。

シールの内容は、冠水被害が心配されるとき、地下駐車場などに止まっている車の移動・入庫の規制を行う場合がある。そのときは館内放送・誘導員の指示に従ってほしい――というものだった。

 いわき駅前を中心とした平市街では南を新川(旧古川)が細々と流れ、城山をはさんだ北をマチはずれの東へと夏井川が伸びている。夏井川は鎌田地内で急に曲がったあと、蛇行しながら太平洋へ向かう。

 平市街の東方、夏井川の先の旧神谷村に住んでいる。水害常襲地帯だったようで、白土と山崎の境にある新川合流部から下流で夏井川の堤防が決壊すると、集落が冠水する恐れがある。

 大雨のたびに不安がよぎるが、いわき駅前についてはまったく考えたことがなかった。

しかし、ゼロではない。下水路のような旧新川が平市街を流れていたころ、一帯は水害の常襲地帯だった。

ラトブでは地下2階、それも同1階へと通じるスロープの真ん前に車を止める。そこがふさがっているときには近くの空きスペースを利用する。

ラトブがオープンしたのは2007年10月25日。6階に創業者支援室(インキュベートルーム)が設けられ、若い仲間が「ネット古書店」を立ち上げるというので、開業と同時に同居人になった。

私は会社を辞めたばかりだったが、すぐ記念誌などの製作の仕事が舞い込んだため、若い仲間に手伝ってもらった。それで2年ほど、インキュベートルームに通った。

オープン当初はそれこそ、毎日3~4回、地下駐車場から車を出し入れした。止めた階を忘れて、「何階に止めたんだっけ」と慌てたこともある。

1階から地下1階、同2階、そして地下2階から同1階へは「左回り」で進むが、地下1階から1階へは、道路に出るので「右回り」になる。

地下1階に車を止めて地上に出るとき、地下2階と勘違いして、1階で左に回ったことがある。すぐ「逆走」に気づいた。

以来、地下1階が空いていても、必ず地下2階の「マイスペース」を利用するようにしている。

そこが冠水する? にわかには信じがたいが、地球沸騰化時代、今までの常識は通用しなくなった。そのことだけは確かなようだ。

ラトブの地下駐車場が冠水するときには、駅前の道路も冠水して湖になっている――。

そんなことを考えているときに、台風15号が東からやって来て、茨城県南部に上陸した。「逆走台風」と呼ぶメディアもあった。

いわき市は、雨は少なかったが、一日中、暴風が吹き荒れた。暴風警報は、夜8時には強風注意報に切り替わった。やれやれ、である。

2026年8月10日月曜日

地域学と地元学

                                            
 土曜日はBSテレ東で映画「男はつらいよ」を見る。主人公の「寅さん」が全国各地を旅して回る。先日、映画を見ながらふと思った。「男はつらいよ」は「地元学」と結びついた物語ではないか。

地元学を提唱した結城登美雄さんが熱中症で亡くなった。80歳だった。訃報のあとに見たからかもしれない。

結城さんの名前を知ったのは東日本大震災前の2009年8月だった。『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 1地域個性と地域力の探求』『同 4暮らしと景観/三澤「風土学」私はこう読む』(農文協)の2冊が、いわき総合図書館の新着図書コーナーにあった。

「いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう」

この三澤の文章を民俗研究家の結城さんが紹介していた。夏井川の河川改修を見てきた人間には、傾聴に値する言葉だと思った。

私はいわき地域学會に所属している。いわきを総合的に調査・研究することを目的にした個人参加の集団で、「地域学」や「地元学」といわれる分野では老舗的な存在だろう。

それもあって、「地元学」の結城さんには親近感を抱いた。その結城さんが大震災後の2012年11月、いわきで講演した。

市主催のまちづくり・未来づくり講演会で、「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」と題して話した。そのときの拙ブログを要約・再掲する。

――結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、各地で地域おこし活動を行っている。宮城県の旧鳴子町(現大崎市)での「鳴子の米プロジェクト」では総合プロデューサーを務めた。

プロジェクトの過程で多彩なおむすびができる、おむすびを入れる漆塗りの器ができる、くず米を使ったパンができる、といったように、新しい仕事が生まれ、おカネが地域を循環する可能性がみえてきたという。

自然とともに生きる村にこそ可能性がある、未来がある。結城さんは鳴子のほかに、岩手県・旧山形村(現久慈市)の「バッタリー村」、沖縄や宮城県丸森町の「共同店」などの事例を紹介した――。

結城さんの訃報を知って、図書館の本をチェックしたら、『山に暮らす海に生きる――東北むら紀行』(無明舎出版、1998年)があった=写真。

すぐ借りて読み始めると、いわきでの講演でも紹介した「バッタリー村」が載っていた。「バッタリー村」の憲章がおもしろい。

「この村は与えられた自然立地を生かし この地に住むことに誇りを持ち ひとり一芸何かをつくり 都会の後を追い求めず 独自の生活文化を伝統の中から創出し 集落が共同と和の精神で 生活を高めようとする村である」

地元学の要諦は「ないものねだり」ではなく「あるもの探し」、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直そう、というところに共感した。合掌。