2026年4月30日木曜日

牛乳瓶とドレッシング

                                 
   牛乳は昔ながらの瓶詰めを宅配で取っていた。金と月の週2回、各2本が届いた。

牛乳箱は勝手口にある=写真。そこにある日、配達する人間が入院したので宅配を休止するという「お知らせ」が入っていた。宅配はそのまま復活することなく終わった。

 牛乳瓶にこだわるわけではない。が、宅配牛乳は瓶詰めという子ども時代からの記憶がある。飲んだら空き瓶を箱に戻す。それで牛乳宅配は回っていくものだと思っていた。

 コンビニで買う「コーヒー牛乳」は紙パック入りだが、宅配はやはり瓶詰めが安心できる。その瓶詰め宅配がなくなったことはやはり寂しい。

 調味料の一種、タマネギをベースにしたドレッシングもそうだ。いわきに住む元シェフが製造し、月に1回、本人が持って来た。

 やはり入院するのでしばらく製造は休むという連絡があったが、いまだに宅配は再開されない。

 このドレッシングがあると、生野菜のサラダがおいしく食べられる。ドレッシングの甘みとほのかな酸味、風味がからんで舌が喜ぶ。そのことを前にブログに書いた。一部を引用する。

――元シェフとカミサンが話しているのを耳にしたことがある。「新玉ネギを使っているのでサラッとしています。お客さんのなかには『とろみ』が少ないという人もいます」

手づくりのオリジナルドレッシングだから、同じ原材料でも季節によって微妙に味が変わるのだろう。

 東京から来た人が、このドレッシングサラダを食べてうなったことがある。東京までドレッシングを送る量はないが、客人が東京から来たときにおみやげ代わりに持たせてやるくらいのことはできる。これも、いわきの味にはちがいない。

ドレッシングの商品名は「分離液状ドレッシング」、原材料は「食用植物性油脂、穀物酢、玉ネギ、ニンジン、砂糖、食塩、ニンニク、胡椒(こしょう)」と、ボトルのラベルにある。

使うときにはボトルを逆さにして、シャカシャカやる。それで油分と水分がほどよく混じり合う――。

わが家では、カミサンが知り合いの分もまとめて引き受けていた。知り合いがドレッシングを引き取りに来ながら、お茶を飲む。

宅配の卵もそうだ。ドレッシングは中断したままだが、卵があるので「女子会」(お茶飲み)は今も続く。

 瓶詰め牛乳とドレッシング。この2つの代用品は紙パック入りの牛乳と、市販の各種ドレッシングだが、スーパーではどれを買うか、いつも迷う。

牛乳はともかく、ドレッシングはタマネギをベースにしたものを選ぶようにしている。しかし、これぞというものがまだない。

 個人営業だと、融通が利く。1人ひとりの注文にこたえられる。そういった柔軟性、ふところの深さがある。そんな小さな事業所がひとつ、またひとつといった感じで消えていく。これも高齢社会の一断面なのだろう。

2026年4月29日水曜日

トレインド・ナース

                                              
 新しい朝ドラ「風、薫る」は、明治の世になって「看護婦」として生きる2人の女性が主人公だ。

 早くも「トレインド・ナース」という言葉が出てきて、視聴者は「何、それ?」となったのではないか。私がそうだった。

 主役のひとり、一ノ瀬(奥田)りんは嫁ぎ先を飛び出し、幼い娘を連れて上京する。そこで大山捨松に再会し、「トレインド・ナースにならないか」と勧められる。

りんが母親にその話をする。母親は元家老の妻だ。それなりに教養がある。「トレインくらいは私だって知っている、汽車でしょ」には思わず笑った。

小泉八雲夫妻を描いた前の朝ドラ「ばけばけ」でも似たようなシーンがあった。英語という新しい文化の波が地方にも及び、英語を知らない人間は発音が近い日本語を思い浮かべて首をひねる。このトンチンカンはドラマの潤滑油でもある。

「風、薫る」が第4週に入ったころ、図書館の新着図書コーナーに、山下麻衣『「看護婦」の近代社会史――誇りが啓いた自立への道』(朝日新聞出版、2026年)があった=写真。

第1章に「トレインド・ナース」の話が出てくる。りんの母親と同様、「トレインド」を「トレイン」、「ナース」を「茄子」か「那須」と勘違いしてしまうようなレベルだから、ここはちゃんと読んでみるか――という思いがわいた。

まずは「トレインド・ナース」の意味から。専門教育を受け、病院での体系的な実習を経て資格を与えられた看護婦をいうそうだ。

現在は一般に「看護師」を使うが、著者は歴史的用語としての「看護婦」を用い、本のタイトルにも使った。私も著者の考えに従う。

英語の綴りでは「Trained Nurse」。この綴りを知って、「トレインド」と「トレーニング」の親和性に気づく。

日本でトレインド・ナースの先駆けとなったのは、朝ドラのモデルでもある大関和(ちか)と鈴木雅(まさ)たちだ。

それぞれの経歴を読んでわかったのだが、ドラマの主役2人は、大関和、鈴木雅とはっきり分けられるものではなく、彼女たちの個性を再構成して、新しい人物像を描いている。ドラマづくりとしては当然だろう。

史実としては、桜井ちかという人が明治9(1876)年、桜井女学校を創設する。その学校に同19年11月、付属の看護婦養成所が誕生する。

修業年限は2年で、2年次には帝国大学付属第一病院で臨床実習が行われた。同21年10月、大関和、鈴木雅ら6人が病院から修業証書を授与された。

ドラマは第5週に入って、主人公たちが看護婦養成所に入学するシーンにかわった。「梅岡女学校付属看護婦養成所」と看板にあった。

史実では「桜井」、ドラマでは「梅岡」。そのことは本を読んでいたのでわかった。

ついでながら、ネット検索でトレインドとトレーニングは原義が同じであり、トレインもまたその派生語であることを知った。

最初はりんの母親の勘違いを笑ったが、今はあながち間違いともいえないと思っている。

2026年4月28日火曜日

宮沢賢治は大食漢?

                                       
   先日紹介した「猫好き詩人・思想家」吉本隆明の続編。むしろこちらを先にアップすべきだったか。

書物の上での詩人・思想家ではなく、現実の「老人吉本隆明」はどんな晩年を送ったのか。

 「共同幻想論」や「言語にとって美とは何か」などの一連の仕事のあと、文学はもちろん、テレビ・漫画なども批評の対象にした。

 大衆文化にまで視野を広げて論じるのかと、その関心の広さに舌を巻いた記憶がある。

 トシを取るにつれて「戦後思想界の巨人」から離れ、いつの間にか忘れていたら、海水浴場での事故を知り、やがて老衰で亡くなったというニュースに触れた。しかし、「知の巨人」の老いを具体的に知ったのはつい最近だ。

長女で漫画家のハルノ宵子の『隆明だもの』を読んで衝撃を受けた。以来、晩年の吉本隆明の著書、インタビュー・対談本を集中して読んでいる。

まずは『生涯現役』『日々を味わう贅沢』『吉本隆明「食」を語る』『老いの流儀』『子供はぜーんぶわかってる』『なぜ、猫とつきあうのか』を図書館から借りて読んだ=写真。

先日はまた、『開店休業』『震災後のことば』『日本語のゆくえ』『「すべてを引き受ける」という思想』を借りた。

インタビューや対談の相手を務めたのは、「知の巨人」の影響を受けた若い編集者や作家、学者などだ。

ここではその中の1冊、作家宇田川悟(1947~2024年)が聞き手を務めた『吉本隆明「食」を語る』を取り上げる。

なかで宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に出てくる「一日ニ玄米四合」を食べる話が印象に残った。

聞き手が言う。「賢治はベジタリアンというイメージが強い」が、「『雨ニモ負ケズ』の詩にある一日に玄米四合を食べていたというのは、考えてみれば大食漢ですね」。

これに対する答えは肯定的な推量だ。「大食漢」なのは「畑仕事に慣れていないのに」それをやった。「だからお腹が空く生活をしていたんでしょう」

さらに聞き手がたたみかける。賢治は「意外に西洋かぶれですね。白麻の背広を着てソフト帽をかぶったり、自作のネクタイをしめたり、ワインも自分で造っていたそうですから」。

いやあ、賢治像が一変する指摘だ。が、賢治はほんとうに大食感だったのか。「玄米4合」はご飯にしてどのくらいの量なのか。

鵜(う)呑みにはできないので、今、わが家で食べている「白米」から「玄米4合」を推測してみた。

わが家では1回に白米2合をたく。夫婦で朝に食べ、昼は麺かサンドイッチ、夜はカミサンだけご飯、次の日の朝も残りのご飯を食べる。1回1杯の軽い老人食として計算すると5杯、「白米4合」だと10杯にはなる。

働き盛りの20~30代なら大盛りでもいけるから、「一日ニ玄米四合」というのは「普通ではないかな」とカミサン。

おかずの少ない時代、賢治だけでなく、みんなそのくらいは口にした? 「でも玄米だし」。味はちょっと、ということらしい。

2026年4月27日月曜日

旬と瞬間

                                        
 今の時期、毎朝、庭で歯磨きをする。もう何度も書いているが、理由は2つ。地面に目を凝らしてミョウガタケとヤブガラシの新芽を確かめる。

 ミョウガタケは15センチほどに生長するのを待つ。ヤブガラシは生えたばかりの赤芽と、それより少し育って緑の葉を広げ始めた新芽を摘む。

 ヤブガラシはつる性植物で、そばの生け垣(マサキ)に絡み付いて本体の光合成を妨げる。マサキを守るために毎朝、芽をむしる。

 ミョウガタケは春を告げる食材のひとつだ。山野へ行かずとも自宅の庭で、いながらにして野の味を楽しめる。

 先日(4月21日)、がまんできずに10センチを超えたミョウガタケを3本カットし、刻んで味噌汁に散らした。

 うーん、である。ミョウガの香りはするのだが、まだ淡い。そして、やわらかい。歯ごたえもほとんどない。

 カミサンは「もうちょっと大きくなってからでないと」という。やはり、採るのが早すぎたか。

 そこから「旬」、あるいは「瞬間」という言葉が気になり始め、ネットでAIに聞いたり、漢和辞典で語源を探ったりした。

 まずは辞典から。旬は「勹(ほう)」と「日」の合字で、「10日」をいう、とある。勹は「包」で「ひとまわり」のことだそうだ。

 古代中国では一から十までをひとまわり、これに日を加えて10日の意味とした。音は「じゅん」だが、日本では濁らずに「しゅん」と読む。

 AIはこれを踏まえてさらにいう。10日間をひとつの単位として、上旬・中旬・下旬がある。1カ月30日の分け方で、こちらの読み方は「じゅん」である。

 それから転じて旬は「もっともよい味の時期」を意味するものになった。その時期は字からして10日ほどと見るべきなのだろう。そして、これにも「走り・盛り・名残」がある。

 この意味からいうと、味噌汁に散らしたミョウガタケはまだ走りにもならなかっようだ。わが家の庭の走りば4月25日あたり、そして盛りはそのあとか。

 というわけで、日曜日の朝(26日)にカット=写真=したのを、すぐ味噌汁に散らした。今度はそれなりに香りと歯ごたえがあった。

瞬間もまた「しゅん」で、同じ読みの旬と関係があるのかどうか。関係を裏付けるものはなかった。単に読み方が同じというだけらしい。意味としては、「瞬」は「またたき」。瞬間は「またたくひま」だ。

AI回答がおもしろい。「旬は食における瞬間の美学」だとか。食の現場では「旬の食材を最も輝く瞬間に食べる」という表現で、両者(旬と瞬間)の意味が融合して使われる――。無理やりくっつけて、ポエジーっぽく伝えていないでもないが、なるほど、である。

辛み大根のつぼみを摘んで食べた話を前に書いた。味がはっきりしなかった。あらかた開花後だったので、旬でも盛りを過ぎていたのかもしれない。

花の前につぼみを収穫すべきだったのだ。という意味では、食べごろの瞬間を見逃した。

2026年4月25日土曜日

春の猫の夢

                                
   変な夢を見た。動物園ならぬ「猫園」があって、私とどこかの子どもがほぼ同時に入場する。そのわきを「ジェジェ」という名の猫が追い越していく。

 子どもが「ジェジェ」と叫ぶ。私はそれを「ジジ」と聞き間違えて、「なにを!」といった顔つきになって子どもをにらみつける。

 それから場面は園内のカフェに変わり、子どもが休んでいるのを見て、私がマスターに頼んで子どもにアイスクリームか何か、甘いものをふるまう。それで子どもも打ち解け、先ほどまで続いていたわだかまりが消える。

 なぜ猫の動物園か、なぜ猫の名前が「ジェジェ」で、私と子どもの2人だけなのか――むろん夢の中の話だからわからない。ただ最近、猫がらみの出来事が2つあった。

 1つは夏井川渓谷にある隠居からの帰り、あるところで停車したら、ちょうどそばの家の猫がガラス戸のカーテンのすき間から顔を出した。タイミングのよさに表情が緩んだ。

 もう1つは詩人・思想家吉本隆明が猫好きだったこと。猫に関する本も出している。難解な思想と普通のペット愛が同居していることに驚いた。

私が最近読んだ吉本隆明の猫の本は『フランシス子へ』と「なぜ、猫とつきあうのか」だ。

フランシス子は次女(吉本ばなな)がつけた猫の名前である。詩人は亡くなる直前、最愛の猫だったこのフランシス子を主題に、インタビューに応じた。

「猫さんと仲良しになるのにいちばんいい方法っていうのは自分も猫になればいいんです。『猫を飼っている』という感じじゃなくて、自分も猫化して、猫さんとおんなじになっちゃえばいい」

「僕の猫とのつきあいかた、かわいがりかたっていうのは、もとをたどれば、親父の直伝なんです」

それで、「子どものころから数えきれないほどの猫とつきあってきました」。が、始終一緒にいるのはフランシス子が初めてだった。

『なぜ、猫とつきあうのか』もインタビュー集である。猫は死ぬときは姿を隠す――と思い込んでいたが、猫も進化するのか、「ちゃんと箱のなかでおとなしく死ぬっていうの初めて体験した」というくだりには蒙が啓(ひら)かれた。

ここまで徹底するのが「知の巨人」と言われるゆえんでもあるのだろうと、いささかあきれていたら、詩人の最後の食エッセー『開店休業』にも猫の話が出てくる。

「猫の缶詰」と「猫との日々」で、前者では猫の「フランちゃん」(フランシス子)の長寿の理由を語り、後者では「絶えず入れ替わりで家に入り込んでくる野良猫も、最近は猫用の缶詰などを食べ、私などよりも栄養価が上昇して、結構でっぷりとした体格になって愉しそうだ」とつづる。

ここで初めて、猫の話が身近になった。わが家の縁側を寝床にしている地域猫のゴンも、最近、ぶくぶく太ってきた=写真。

キャットフードの量を少し控えめにしないといけないのではないか。猫かわいがりは肥満症を招いて、かえって猫を苦しめる。そんなことに思いが至った。

2026年4月24日金曜日

室温18度

                                 
 家の中にいて「寒い」と感じる温度は決まっている。温度計を見ると18度以下、15度とか14度になっている。

 1日の気温は未明に最も低くなり、その後、上昇に転じて正午~午後2時ごろにピークを迎え、日没とともにまた下がる。

 真夜中にいったん起きてブログをアップする。室温18~17度だと寒さは感じない。

それからまた寝て、早朝の4~5時ごろにふとんを抜け出す。この時期(4月下旬)、室温は15度を割っていることがある。これだとストーブなしではちょっと寒い。

夕方や夜も同じで、18度を割り込むと首筋がスース―する。ストーブをつけないと体が冷える。室温18度が目安といっていい。

それと、この温度を意識するようになったワケがもうひとつある。米屋をやっていたとき、茶の間にいても来客がわかるように、店の入り口にセンサーを設置した。

店の一角に地域図書館とフェアトレード商品のコーナーがある。カミサンの友達などが訪れるので、毎朝、店の戸を開けるときにセンサーのスイッチを入れる。

 すると、冬場は客もいないのに、しばらく「ピンポーン、ピンポーン」と鳴り続ける。それが春になって、日によってはスイッチを入れても音なしのときがある。「おや、今朝はあったかいのかな」。温度計を見ると18度前後だ。

 センサー自体が18度以下だと、スイッチが入って熱を持つまで「ピンポーン、ピンポーン」を繰り返すらしい。

詳しい仕組みはわからない。が、ピンポーンの鳴る・鳴らないから、そんなことを考えた

 WHO(世界保健機構)が2018年、住まいと健康に関するガイドラインを出した。寒い時期の室温は18度以上を基準に、という。理想は21度以上だとか。

 この推奨温度は体感温度からも納得できる。後期高齢者が寒さを感じない室温は18度だし、ストーブ使用の目安にするのもこの室温以下のときだからだ。

 17度はともかく、16度あるいは15度以下だと石油ストーブをつける。つけないと寒くていられない。

WHOの冬の推奨温度を知ったのは、実は最近だ。灯油は節約したいが、寒いのも困る。ホルムズ海峡が封鎖されて以来、早く初夏がこないものかと案じていたところに、室温18度がわが家のスト―ブ使用のラインとして体感的にわかった。そのなかでWHOの勧告にたどりついたという次第。

きのう(4月23日)は朝5時過ぎに起きた。室温は16.8度=写真。空は曇っていた。放射冷却がなかった分、冷え込みが弱かったのだろう。

7時過ぎには17度を超えた。ストーブはつけなかった。毛糸の帽子と上っ張り、ハンドウォーマーで十分だった。8時になると18度に達した。もう大丈夫。ストーブなしで過ごした。

灯油缶はあと1缶(18リットル)。これを節約しながら使い切ったころ、初夏になるといいのだが……。

2026年4月23日木曜日

渓谷まで35分

                              
 平のわが家から夏井川渓谷の隠居までは車で30~40分だ。ルートは田んぼ道と、交通量の少ない県道小野四倉線(途中までは国道399号とかぶる)なので、自然と「ゆっくり運転」になる。

 急げば30分くらいだろうか。渓谷に入るとカーブが連続する。ゆっくり運転でも、カーブの向こうからひょいと車が現れることがある。いつでもブレーキを踏めるように、抑え気味にして進む。

 おもしろいことに、今の時期は日曜日ごとに春の装いが濃くなる。自然の変化を図る目安がある。日曜日だけの渓谷行なので、年・月・週の3つが主な目安だ。

渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)の花は「1年前」との比較であれこれ思いが巡る。

平地の三島(小川)の夏井川に残留したコハクチョウも、「白鳥おばさん」がいう「エリー」に違いない。

これも1年前の様子を思い浮かべながら、孤独なハクチョウになったつもりで気持ちを推し測る。

「1カ月前」では、まだ畑の土が凍っていたとか、ウグイスが初めてさえずったとかの話が思い浮かぶ。

目に見えて変化がわかるのは「1週間前」だ。要は日曜日ごとに渓谷の表情が変わる。

アカヤシオの花が満開になった1週間後、渓谷の県道はうっすら緑のトンネルに変わっていた=写真上1。

アカヤシオの花の感動のあとに、夏緑樹の芽吹きの色が広がる。この春の芽吹きを見ると心が安らぐ。

渓谷のふもと、小川の平地のどん詰まりに加路川がある。「裏二ツ箭」の方から流れて来て、そこで本流の夏井川に合流する。

合流部のそばの県道に橋が架かる。橋のすぐ上流にはJRの磐越東線の鉄橋がある。その間ざっと30メートルだろうか。

県道の橋の上流側に、なぜかはわからないがバナナより大きな葉を広げる巨大な草本が生えている。バショウらしい。

ワジュロは、ヒヨドリなどの野鳥が媒介者になって種を散布する。そんな野鳥由来と思われるワジュロが、あちこちの民家の庭に生えている。

しかし、バショウは野鳥由来とは思えない。だれかが植えたのだろうか。とにかくでかい。

その葉が晩秋には枯れ、冬の間、ボロボロの枯れ草色になっていた。これが、春を迎えて枯れ葉の間に新しい緑の葉をのぞかせ始めた=写真上2。

こちらは冬から春の1季節前、そして3月との比較でいえば1カ月前、あるいは急に緑が現れたという点では1週間前との比較で違いがわかった。

自然は絶えず生成・変移を続けている。その変化があるからこそ、35分のドライブもあきることがない。次は渓谷のシロヤシオだ。

2026年4月22日水曜日

辛み大根のつぼみ

                              
 4月も後半。下旬を残すばかりとなった19日、日曜日。夏井川渓谷の隠居に着くと、すぐ庭を巡った。

 対岸の山からアカヤシオ(岩ツツジ)の花が消え、庭のシダレザクラも花は残っているがピークを過ぎた。

 まずはシダレザクラの樹下、次いで周囲の地面に目を凝らす。垂れた枝から1メートル以上離れたところに、柄を含めて8センチ強に生長したアミガサタケが1個生えていた。

 アミガサタケは、5年前には20個も採れたが、最近はほんの数個、それも樹下ではなく、垂れた枝から先の地面に出るだけだ。

 今年(2026年)は2回の日曜日と1回の水曜日の3回で計5個を見つけただけだった。

 昼食をとって一休みしたあとは、首からカメラを提げてまた庭を巡った。虫でも、花でもいい。ヤマの庭には、マチでは見かけない小さな動植物がいる。それらを記録しておく。

 小菜園の一角に辛み大根がある。一斉に花茎を伸ばしたと思ったら、もう花盛りだ=写真。

 花を見ているうちに思い出した。花を食べた。いや、正確にはつぼみを食べた。開花後にできるさやも食べた。要は「見る」だけでなく、「食べる」記憶もよみがえってきたのだ。

すぐ隠居からレジ袋と剪定ばさみを持ち出し、まだつぼみの残る花茎を切って袋に詰める。

 あとで自分のブログに当たると、初めてつぼみを収穫して食べたのは令和2(2020)年だった。

そのとき。湯通ししたあと、たまたまつくっておいたさんしょう味噌をからめて食べた。舌先がほのかにヒリヒリした。さわやかな辛みだった。

以来、4月になるとこのつぼみを回収して晩酌のつまみにする。今年(2026年)もさっそく湯通しをして、この日手に入れたばかりのゆず味噌をまぶして食べた。

辛いというよりは、ほのかな苦味があった。いわゆるデトックス。これはこれで春の土の味にはちがいない。

デトックスとは体内の老廃物、あるいは毒素を排出することで、苦みにはこの効果がある。さらに、フキノトウなどの香りにはストレスを解消する働きがある。

 開花後にできるさやは「さや大根」という。辛み大根ではイメージしにくいが、キヌサヤエンドウは花が咲いたあとの若いさやを食べる。食べ方はそれと同じである。

たまたま落下したさやをそのままにしておいたら、月遅れ盆のあとにちゃんと発芽した。それで、辛み大根は不耕起のままにして、ほとんど手をかけない。

 とにかく自然に増える。真冬、肥大した根を合計15本ほど収穫して、おろしにして食べた。さすがに辛かった。が、このために辛み大根をつくっているようなものだ。

そのうえで最近は、春はつぼみ、初夏はさや大根を楽しむ。摘んでも摘んでも秋には生えてくる。

「つくる」というのはおこがましい。辛み大根はもはや山菜といってもいいくらいに貴重な食材だ。

2026年4月21日火曜日

容器プラだらけ

                                            
   ホルムズ海峡の「封鎖」だ、「逆封鎖」だなどとだれかが言ってニュースになる。そのつど庶民の暮らしが翻弄される。

アメリカとイスラエルが仕掛けたイラン戦争で原油が高騰し、ガソリンや灯油のみならず、石油由来の製品の高騰・不足を招いている。少なくとも、そうなるのではないかという不安が広がっている。

その一つが「容プラ」(容器包装プラスチック)だ。わが家では台所にごみ袋を2つ用意し、家から出る燃やすごみと容プラを分けている。

燃やすごみは週に2回、容プラは1回、収集車が来て回収する。容プラはさまざまなものに使われている。それもあってごみ袋はすぐいっぱいになる=写真。市の細かい定めを読むだけでも、家庭にはいかに容プラがあふれているかがわかる。

各種トレイ、コンビニ弁当の容器、ゼリーやプリンのカップ、薬のシート、外装フィルム、レジ袋、ペットボトルのラベル、菓子袋、シャンプーやチューブ、食用油・調味料などの容器のほか、発泡スチロール梱包材、ネット、緩衝材も該当する。

さらに近年は「製プラ」(製品プラスチック)のボールとバケツも併せて回収するようになった。

 現在のごみ出しルールの原形ができたのはざっと45年前。「ごみ戦争」宣言に始まり、有識者らによる協議会の提言、モデル地区の選定、事前の住民説明会を経て、新ルールに切り替わった。

容プラの回収は平成14(2002)年に始まった。当初は2週間に1回だったが、あまりの量の多さに、5年後には週1回に切り替わった。想定を超える容プラが家庭に浸透していたのである。

 3月18日付の拙ブログにこんなことを書いた。アメリカとイスラエルのイラン空爆がホルムズ海峡封鎖を招き、原油が急騰した。するとたちまち、ガソリンと灯油が高騰した。

いやでも思い出すのは昭和48(1973)年の「オイルショック」である。オイルショックを機に、いわきがどうなったか。市民の生活、企業の活動に大きな影響が出た。今回もまた混乱が続くのではないか。

 庶民としては、海を漂流するマイクロプラスチックを少しでも減らすために、容プラ・製プラを野外に放置しない、空き袋などを見つけたら回収する、といったことを心がけてはいるが、今回はさらにもう一つ、これらの高騰・不足が懸念される事態になった。

 消費生活の現場だけではない。建材をはじめ、さまざまな業種に海峡封鎖の影響が及ぶ。

 刺し身でいえば、行きつけの店があったときにはマイ皿を持って行った。容プラのトレイがそれで1つは減る。閉店した今はマイ皿を持って行く魚屋が決まらない。

刺し身のトレイはほんの一例だが、戦争は当事国だけでなく、地球上すべての庶民の暮らしを直撃する。

戦争の悪影響をどこかの指導者はわかっているのだろうか。そこに思いが至らないとすれば、そのこと自体が心配になる。

2026年4月20日月曜日

月曜日のカツ刺し

                               
   日曜日の晩は刺し身で一杯と決めている。4月12日はこれを控えた。翌日の朝、病院で定期検査があったからだ。

晩酌も生カツオの刺し身もない。となれば、ご飯と少量のおかずをつついて終わり、である。簡単なものだ。記者時代の早飯食いが癖になっていて、なんとも味気ない。

検査の結果は現状維持ということで、夕方、北の方へカツオの刺し身を買いに行った。

いわきにも鹿児島産の生カツオが入り、ちょっと前から魚屋を巡って、トレイの刺し身、あるいは柵を買って食べるようになった。

月曜日にカツ刺しを買うのは、最近では初めてだ。目指す魚屋は休みだった。日曜日には店を開けているから、翌月曜日が定休日なのだろう。しかたない、別のところから生カツオの刺し身を買って来た。

日曜日に刺し身をつつくようになって、もう何十年にもなる。この日の晩は、カミサンが台所仕事から解放される。それも含めて、いわきらしいといえば、いわきらしい晩酌の楽しみ方ではある。

毎晩、焼酎をなめながらブログの原稿の下書きをつくる。特に日曜日は刺し身があるので、ゆったりした気分になってあれこれ考える。

このごろはどういうわけか、朝にアップする原稿を2~3本は用意できるようになった。

チビリチビリやっているうちに下書きが2本できることがある。これを、朝食をはさんで10時前には原稿に仕上げる。

日中、急に用事が入って原稿をつくれないことがある。ストックがあるから慌てることはない。

早寝早起きになって、未明の4時にはもう目が覚める。それからが長いので、起きたらすぐブログの原稿づくりに精を出す、ということが増えた。それも関係している。

日中の会議や集まりなどを除いて、自分の予定はこの「朝活」であらかたすませることが習いになった。

おっと脱線した。カツ刺しの話である。行きつけの店があったころは、4月でもマイ皿に25切れくらいは盛ってもらった。

それが、売っているのは細長いトレイに10切ればかり、というのがほとんどだ。月曜日に買いに行ったところには、たまたま柵もなかった。

10切れのトレイを買った。まさか月曜日だから、というわけではないだろうが、味がイマイチだった。半分が生臭かった。

その半月前、最近ではめったにないことだが、家で酒盛りをした。若い仲間が地元小名浜の魚屋から刺し身の盛り合わせを買って来た=写真。こちらは「金曜日の刺し身」である。

生のカツオも少し入っていた。小名浜の魚屋のカツオを、ほんとうに久しぶりに食べた。小名浜というだけで舌が喜んだ。

刺し身は魚の鮮度がいのち。味が落ちると、晩酌の量も減る。金曜日は逆に少し飲み過ぎた。金曜日と月曜日では刺し身の鮮度が違うのだろうか。

2026年4月18日土曜日

春の朝のルーティン

                              
   4月に入ると、日によっては朝、ストーブなしでも寒さを感じなくなった。気温が上がれば春の朝のルーティンが始まる。

朝食後、庭で歯を磨きながら、地面に目を凝らす。ヤブガラシがあちこちから赤い芽を出す。

このつる性植物を放置すると、そばの生け垣に絡みつき、葉を茂らせて本体の光合成を阻害する。

今年(2026年)はこのルーティンを5日に始めた。赤芽は毎日10本以上引っこ抜く。それでも次々に現れる。

面白いことに、車を止めるスペースには出てこない。つるを巻きつけるには木が必要だ。駐車スペースにはそれがない。

ヤブガラシは地下茎で増える。それで絶えず樹木の有無を探りながら、地下茎をのばしているのだろうか。

根本的な解決策は地下茎の除去しかないという。しかし、そこまでやるには体力が要る

とりあえずは芽生えを摘み取り、生け垣に絡みついたものはそのつど除去する。見落としていて、花まで咲かせたものはもうあきらめるしかない。

ヤブガラシと同じように、地下茎で増えるものがある。ミョウガだ。ミョウガは、春に現れるのをミョウガタケ、初秋にできる花穂をミョウガの子という。どちらも汁の実や薬味にする。

このミョウガタケを、4月11日に今年(2026年)初めて確認した=写真。ヤブガラシのようにあちこちに現れるというわけではない。

毎年決まったエリアから茎をのばす。日ごとに数を増やし、5日後には7本を確認した。

丈はまだ2センチ、あるいは5センチくらい。最初に見つけたものは8センチほどになった。これが10センチ超になったら根元からカットして、刻んで汁の実にする。

もう一つ、生け垣のマサキの新芽を食害するミノウスバの幼虫もチェックする。そろそろ発生しているかも――。思い立って15日夕方、家の東側の生け垣を見ると、3カ所で葉が食害されていた。

柄の長い鎌で葉をこすると幼虫がバラバラ糸を引いて垂れさがった。まだ4月中旬だというのに、すでに散開している。

私は春の朝のルーティンと、ときどきのミノウスバ除去を合わせて、大江健三郎の小説名を借りて「「芽むしり仔撃ち」と称している。

作品の中身とは関係なく、春がくると「芽」をむしり、「仔」を撃つ(虫を退治する)。これをやらないと落ち着かない。

 毎年春に同じことをやって感じるのは、これらの出現が早まっている、ということだ。なかでもミノウスバの幼虫は、前は4月末から5月初めの大型連休が発生のピークだった。

 ついでながら、春の到来を告げるほかの生物はというと、ツバメの初認は6日だった。平の街のなかで見た。私が遅れただけで、いわきへの飛来はもっと早かったはずだ。

食卓に今年初めてハエが現れたのは4月9日。「うるさい」は漢字で「五月蠅い」と書く。もうこれは「四月蠅い」に替えるしかないか。カも現れた。これも早い。

2026年4月17日金曜日

忘れ物

                                                  
 黒い布バッグがある=写真。図書館に返す本を入れる。銀行へ行くのに通帳とハンコを入れる。書類を入れて会議に出席する。撮影不可のところではカメラをしまっておく。

要するに、モノを持って出かけるときには、決まってこの黒い布バッグを利用する。

このバッグを、同じ場所で、同じ理由で2回忘れた。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」の総合図書館に本を返し、新たに借りて、1階のスーパーで買い物をしたときのことである。

 いつものように私がカートを押し、カミサンが買い物かごに品物を入れる。カートにはフックが付いている。本が入った布バッグを提げながらのカート押しはきついので、これをフックに掛ける。

 会計をすませてカミサン携帯の布バッグに品物を入れたあと、カートを所定の場所に戻すのだが、このとき2回続けて黒い布バッグをフックにかけたままにしてしまった。

スーパーのマルトへは買い物かごと変わらない大きさのマイバッグを持って行く。車に常備している。

ラトブではそこまでの量にはならない。で、いつもカミサンがバッグに入れておく小さな布バッグを広げて品物を移す。

 このバッグに入りきらないときは、私の黒い布バッグも利用する。その場合は黒い布バッグを忘れるようなことはない。

 カミサンの小さなバッグに入り切ったとき、錯覚が起きる。そのバッグを持つと、マイバッグを持ったような気になる。黒い布バッグの存在が頭からスポッと抜ける。

 カートを所定の場所に置く。地下の駐車場に戻って車の運転席に座る。「あれつ!」となる。ここでやっとバッグをカートのフックに置き忘れてきたことに気づく。

 1回目はカートのフックに掛かったままだった。2回目は、カートのフックにはない。レジ係に聞くと、エスカレーターの向かいにサービスカウンターがある、そちらに聞いてくれという。

 マルトにサービスカウンターがあるのは承知している。ラトブの1階にもサービスカウンターがあったのだ。

 急いでカウンターに行くと、奥の方に見慣れた黒い布バッグがあった。だれかがレジに届け、そこからサービスカウンターに移されたのだろう。「本が入っている」「カートに置き忘れた」と告げると、係の女性がにっこりしながら返してくれた。

 忘れるパターンがまったく同じでは、もうフックに掛けるわけにはいかない。何事三度で、フックに掛けて買い物をすればまた忘れてしまう可能性がある。

 このへんのことに注意がゆるくなるのは、やはり老化が関係しているのだろう。そのことを頭に入れておく。といっても、いざその段になると忘れるのが老化というものだ。

しかたがない、今はバッグのひもを握って、カートにバッグを載せるようにして売り場を巡っている。

2026年4月16日木曜日

岸辺のヤナギ

                                
 冬場は里山も河川敷も枯れ草色に覆われている。そうしたなかで、年が明けるころにはハクチョウの飛来がピークを迎える。

 マチからの帰り、夏井川の堤防をゆっくり進みながら、ハクチョウその他の水鳥を観察する。寒いので、車からは出ない。

これを繰り返しているうちに、枯れ草色の河川敷にもうっすらと緑色が加わってくる。それが日を追って濃くなる。淡い緑色の点々が線になり、線がやがて面になる。4月に入ると、緑がはっきりわかるようになった=写真。ネコヤナギだろうか。

岸辺のヤナギといえば、石川啄木の短歌である。「やはらかに柳あをめる/北上(きたかみ)の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」

ヤナギの緑が目の前にあるので、思い出して泣きたくなるような気持ちにはならない。が、やわらかに緑が色づいた様子は、北上川も、夏井川も変わらないはずである。

ただし、啄木のヤナギは大木がふさわしい。こちらは土砂を除去して裸地になった岸辺の幼木たちだ。

ふだんから夏井川の堤防を利用している。長い散歩にドクターストップがかかるまでは朝晩、堤防を散歩した。マチへ行けば、堤防経由で帰ってくる。

河川敷に重機が入って岸辺の立木を伐採し、土砂を除去するのを何回か見た。そのつどコラムやブログに書いてきた。それを参考にして振り返る。

昭和63(1988)年6月、夏井川が建設省(現・国交省)の「ふるさとの川」モデル河川に指定された。

河川を拡幅し、親水公園づくりを進めるのが主だったように記憶する。サイクリングロードもそのときできた。

私が40代に入る前後で、夏井川は会社の行き帰り、灯籠流しが行われる鎌田の平神橋からチラッと見るだけだった。その後、堤防の散歩を始めた。

いったんは川幅が広がり、大河のような風情を見せた川だったが、年を経るごとに中洲が大きくなる。河川敷には草と木が生える。自然の遷移に休みはない。

 モデル事業から20年余りたったころ(東日本大震災の前だった)、右岸・山崎地内で氾濫を防ぐための土砂除去工事が行われた。

鎌田の中洲も肥大し、草が生えてヤナギが生長したため、それを伐採して土砂が除去された。

20年に一度はこうした土砂除去工事が必要なのだろう。これが「エコな工事」なのだろうと、当時思ったものだ。

それからわずか9年後の2019年秋、「令和元年東日本台風」に襲われる。その被害復旧と国土強じん化のために、また河川敷の立木伐採と土砂除去が行われた。

川の自然は時々刻々、変化する。河川の防災工事はだから、恒久的というよりは応急的なものとみた方がいい。

いずれまた川には土砂が堆積し、裸地には草木が生い茂る。ヤナギはその先行植物だ。

ヤナギの繁殖力はすごい。緑が流れに近い湿地(裸地)を帯状に占領している。5年もたてばかつてない「大ヤナギ林」が出現するに違いない。

2026年4月15日水曜日

老人・吉本隆明

                                             
   詩人にして思想家・評論家、吉本隆明(1924~2012年)は、団塊の世代にとっては「知の巨人」だった。

詩集では「固有時との対話」「転移のための十篇」など。論考では「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」など。20歳前の若者には、難解ながらなんとかくらいついて読み解こうとする重要なテキストだった。

長い髪を切り、背広にネクタイ姿で社会に出るといつしか遠ざかり、時折、メディアに載る文章を読む程度になった。

ついには訃報に接して驚いたが、その前に海でおぼれて死にかけたという新聞記事を読んだ記憶がある。

娘が2人いて、長女は漫画家(ハルノ宵子)、次女は小説家(吉本ばなな)になった。

難解な思想に挑んだときからすでに半世紀以上。なにかの拍子に87歳で亡くなった「知の巨人」の晩年に触れて、ハルノ宵子の『隆明だもの』=写真=を図書館から借りて読んだ。

雲の上の詩人は、娘からみると「ただの老人」でしかなかった。体が衰えていくさまを時系列的に並べると、こんな感じだった。

「父は前年に西伊豆の海で溺れて死にかけ、それをきっかけに眼も脚も急激に悪くなっていった」(注=「前年」とは1996年のこと)

「2000年代前半、父の眼はいよいよ悪くなってきていた。『糖尿性網膜症』だ。(略)糖尿はそもそも毛細血管がボロボロなのだから、はるかに進行が早い」

詩人の「その兆候」も同じころに始まる。「ある深夜、父が書斎の机の前にゴロンと寝転がっていたので、真冬だったし『カゼひくよ、ちゃんと寝た方がいいよ』と声をかけると、『ああ……キミか、オレ今どこにいるのか分からないんだよ』と言う」

それが最初だった。海で溺れたのが72歳。「その兆候」があらわれたのは80歳になったあたりらしい。

老いれば体のあちこちに不具合が生じる。不具合は1人ひとり違う。「知の巨人」が糖尿病からくる不具合に苦しんでいたとは。

病気は病気を呼ぶのか、「足は糖尿病の血行障害で冷えるので、5本指ソックスに部屋履きの2枚重ねで過ごしていた」というあたりになると、だんだんこちらの防寒対策と重なってくるところがある。

老いを、本人は独特の言い回しで表現している。「老人はなにかというと、人間じゃない、『超人間』だと理解するんです。動物と比べると人間は反省する。動物は反射的に動く。人間はそうではない」(『老いの超え方』朝日新聞、2006年)

「超人間」という物言いは、いかにも「知の巨人」らしい。が、どう解釈すべきか迷う。「超人間」と言われても、老いてよれよれになった生身の人間の姿しか思い浮かばない。

ただ一つ、うなずいたのは「修練」についての言葉だ。「本当にいつでも机の前に座っている人は、別に特別な才能やひらめきがなくても、持続的にやっていると衰えないと思います」。老いはだれもがたどる道だが、この修練=持続には元気が出た。

2026年4月14日火曜日

令和7年度ガン・カモ調査

今年(2026年)1月11日現在でいわきにはハクチョウなどの水鳥が何羽いたか――。

令和7年度のガン・カモ調査結果がまとまり、日本野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」第170号(4月1日発行)に掲載された。

それによると、支部分担15地域合計で2896羽が観測された。前年よりは544羽増、前々年に比べても574羽増だった。

 一斉調査日には支部から延べ27人が参加した。ちょうど寒波が南下したタイミングだったという。

 寒波襲来の直後には珍しい鳥が見られることがあるらしい。沼部(鮫川)と平・塩(新川合流部の夏井川)では、アメリカコハクチョウ(コハクチョウの亜種)、四倉漁港ではコクガンの若鳥が確認された。

特筆すべきこととして紹介されている事例にうめいた。今回「ついに」コサギが確認できなかったというのだ。

コサギはいわきでも水田や川で普通に見られるサギだ。「近年減少傾向」にあったそうだ。

日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~中塩~平窪と小川の水田地帯を通る。

サギ類がよく水田を歩いているが、それはくちばしの黄色いダイサギかチュウサギがほとんどだ。くちばしの黒いコサギは、言われてみれば確かに1、2回しか見ていない。

調査の目玉ともいうべきハクチョウはどうか。コハクチョウは平・塩122羽、三島(小川)85羽、鮫川の沼部30羽で、夏井川で一番歴史のある平窪~愛谷堰は13羽だった。

日曜日のたびに三島を通り、マチからの帰りにたびたび塩のハクチョウ=写真=を見てきた人間には、コハクチョウの数字は越冬前半の状況を示したものと映る。このあとかなり渡ってきた印象があるからだ。

オオハクチョウは沼部で30羽、塩で2羽が観測された。鮫川河口のコブハクチョウ3羽は、「留鳥」化したものではないだろうか。

三島では、コハクチョウに寄り添うようにしてよく目立つオナガガモが、今年は観測されなかった。

代わりにというわけではないが、塩には75羽、平窪~愛谷堰には計59羽が飛来していた。

数としては冬鳥のマガモが最多の975羽で、前年の倍を超えた。塩ではなんと628羽も観測された。留鳥のカルガモも664羽と多かった。こちらもマガモ同様、各地に散らばっていた。

平成23年度から15年間のコハクチョウなど4種類の観測数がグラフ化されて載っている。

マガモとカルガモはともかく、コハクチョウと夕筋海岸のクロガモは減少傾向にある。気象変動が人間の生活にもたらす影響は、ガン・カモ類の観測調査からも類推できる。そんな思いで毎年、観測結果を見ている。

※4月12日の追記=三島にハクチョウが1羽残留していた。今年も帰れなかった「エリー」だろう。夏もいるとなれば、なんとか日本の暑さを乗り切ってくれ。そう念じるしかない。


2026年4月13日月曜日

シダレザクラとアミガサタケ

4月12日の日曜日は朝、やぼ用をすませてから夏井川渓谷の隠居へ出かけた。快晴だが「花散らし」の風が吹き荒れていた。

 1週間前はマチのソメイヨシノと渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)が満開だった。アカヤシオは近年になく鮮やかだった。

 次は隠居の庭に2本あるシダレザクラだ。もう満開のはず。満開の花を見ないとシダレザクラに悪いな、というわけで、シダレザクラを目的に渓谷へ車を走らせた。

1週間前はつぼみが赤く膨らみ、5~6輪咲いていたので「開花」を確認した。思った通りに満開だった=写真上1。見事なボリュームに圧倒された。

強風で花びらが空を舞っていた。庭が白とピンクで染まるというほどではない。が、至る所に花びらが落ちている。

花見のあとは畑に生ごみを埋め、ネギの苗床の草をむしって、シダレザクラの樹下を、地面に目を凝らして歩いた。

4月も中旬になると、樹下にはアミガサタケが現れる。春を代表する食菌である。以前は、ここにも、あそこにもといった状態だったが、この2、3年はさっぱり姿を見せない。

出現しても1個か2個だ。今年(2026年)も期待せずに、しかし春のルーティンとして樹下を全部見た。

シダレザクラとアミガサタケが菌根共生をしているとはいえ、いつも樹下で子実体(キノコ)が発生するわけではない。

地下の菌糸網はシダレザクラの枝より先まで拡張したらしい。樹下の外側で発生することが多くなった。

今回も念のために樹下を見たあと、樹下の外側を丹念にチェックした。すると、畑の近くに1個、そこからちょっと離れたところに2個が頭を出していた=写真上2。計3個。これだけでもう舞い上がりそうになった。

それから対岸の森をながめた。アカヤシオはすっかりピークを過ぎたが、木々が芽吹いて早緑色が広がっていた。

これにアカヤシオのピンク、ヤマザクラの薄桃色が混じって、この時期はいつも安野光雅の風景画を思い出す。

畑のはずれでは辛み大根が花茎を伸ばし、花を咲かせていた。このエリアはこぼれ種で芽を出し、ずんぐりむっくりの大根ができるよう、不耕起のままだ。

森を見ても、シダレザクラを見ても、畑を見ても、花、花、花である。自然のサイクルと週1回の人間の休息日が、今年は見事に重なった。

   4月5日に続いて12日も、隠居にいながら花見を楽しんだ(12日はさらに春の恵みも)。 

2026年4月11日土曜日

遺産5億を寄付

              
   4月10日付の福島民報に、田村市の元開業医が遺産5億円余を5団体に寄付したという記事が載った。

 元開業医は大久保悟子さん。令和4(2022)年12月、73歳で亡くなった。生きていれば77歳。私と同年齢だ。

 田村市は平成17(2005)年3月1日、田村郡7町村のうち、三春町と小野町を除く5町村が合併して誕生した。医院はこの田村市の船引町にあった。

私は船引の隣、常葉町で生まれ育った。子どものころ、船引に田村郡選出の県議がいた。大久保俊夫さんといった。悟子さんの父親である。

選挙があると、大人たちの間で大久保県議の名前が取りざたされた。それで早くから県議の名前を知ってはいた。

福島県議の歴代名簿によると、大久保俊夫さんは戦後の昭和22年4月から県議を務め、返り咲いてから11年後の昭和57年7月25日に亡くなっている。

交通事故死だったという。このとき、悟子さんは34歳。すでに医療の道に就いていたはずである。

なぜ彼女のことを知っているかというと、15歳の春、平高専(現福島高専)を受験して合格した中に彼女の名前があったからだ。

1次試験は平市の本校と郡山市の2会場で、2次試験の面接は本校で行われた。面接が終わり、磐東線のSLで帰路に就いた。

船引駅のホームに降り立つと、前を女子中学生が歩いて行く。後日、合格発表を見て、彼女の名前が大久保悟子ということを知った。

今回あらためて当時のいわき民報を読んでみた=写真。石城郡内の合格者には中学校名まで付いている。

私ら郡外の人間は名前だけだったが、合格者の中には入学を辞退した人間が何人かいた。

悟子さんもその一人で、進学校を受験するための「腕試し」の意味もあったのだろう。

ここからは県紙と全国紙の記事を参考にする。彼女は岩手医大を出たあと、郡山市の病院で勤務医になり、のちに独立して船引に医院を開業した。

母親は歯科医。一人っ子で生涯独身だったという。4年前、がんが見つかると、その年の夏には医院を閉じ、法律事務所と相談しながら遺言状をつくり終えて間もなく、自宅で息を引き取った。

15歳の春のとき、ちらりと見た横顔が、60年以上たった今も忘れられない。平高専を受けて合格し、もしかしたら同じ校門をくぐったかもしれない、ただそれだけの一方的な記憶なのに、折々に思い出す。

実家へ帰って船引まで足を伸ばしたとき。郡山の帰りに船引を通ったとき。船引で医院を開業したという風の便りが届いたとき。なんとなく「今、何をして、何を考えているのか」が気にかかる存在ではあった。

寄付団体のなかに日本ユニセフ協会、国境なき医師団があった。はからずも彼女の思想が垣間見えるような遺贈先だ。

親はすでになく、子もいない。それで「墓じまい」もしたという。阿武隈の山里で医療一筋に生きた生涯。その軌跡さえきれいに上書きして旅立ったという印象が強い。

見事な生き方、いやこの世の去り方である。同じ「団塊の世代」の一人として、強くそう思う。

2026年4月10日金曜日

桜とメディア

                              
   いわきの「桜開花」を伝えるメディアの報道が変わってきた。一番の理由は早咲きの河津桜が生長し、濃いピンクの花が視聴者を引き付けるようになったことだろう。

気象庁の「桜開花」発表はソメイヨシノが基本だ。日本列島は南北に長いため、沖縄県や奄美大島はヒカンザクラ(緋寒桜)、北海道は札幌や室蘭・函館を除いてエゾヤマザクラが観察木になる。

本州に住む人間には、「桜開花」といえばソメイヨシノのことだった。いわきの場合は、小名浜測候所(現小名浜特別地域気象観測所)の職員が敷地内にあるソメイヨシノの花を観測して開花を発表した。

無人化されてからは、小名浜のまちづくり団体が元測候所の職員の協力を得て、独自に開花宣言をしている。

毎年、同じ木を観察して、開花日・満開日などを記録する。それによって列島の生物季節的な動きがわかる。旧小名浜測候所の場合は、今の標本木での観測は平成7(1995)年に始まった。

近年は、オオシマヤマザクラとヒカンザクラの自然交雑から生まれた早咲きの「河津桜」に注目が集まるようになった。

常磐共同火力発電所の敷地内に平成17(2005)年、創立50周年を記念して50本の河津桜が植えられた。その桜が例年、3月中旬には見ごろを迎える。

メディアがソメイヨシノを待ちきれずに、この河津桜に飛びついた。21世紀の森公園にも約50本の河津桜がある。こちらもSNSなどを通じて市民が早い開花を知ることになった。

「シン・桜」である。メディアが河津桜の開花を取り上げて以来、ソメイヨシノの開花は、ニュース価値としては二番煎じでしかなくなった。

私もマチ場だけで暮らしていたころには、ソメイヨシノの開花が春到来を告げる桜と思い込んでいた。

夏井川渓谷の隠居へ通い続けて30年余り。マチのソメイヨシノと時を同じくして咲くアカヤシオ(岩ツツジ)を見ているうちに、少し遅れて山を彩るヤマザクラにも引かれるようになった。

ソメイヨシノは花が先行する。が、ヤマザクラは葉と花が同時だ=写真(4月6日、いわき市暮らしの伝承郷)。花が咲くと、それを支えるように赤い若葉が開く。

草野心平記念文学館の奥、小玉ダムの周囲の山々を、私はひそかに「いわきの奥吉野」と呼んでいる。「山笑う」とはこれをいうのだと。

ソメイヨシノは交配によってつくられた園芸種である。花は見事でも、てんぐ巣病にかかりやすい。それもあってか寿命は短い。

「寿命60年」説が言われている。それを裏付けるように、ソメイヨシノの並木が伐採されたところがある。倒木事故もある。

「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」というが、桜を見る人間の気持ちも同じではない。

ソメイヨシノは老いて、もう春の主役ではなくなったのかもしれない。このごろはそんな感慨がよぎる。

2026年4月9日木曜日

門柱の裏側

                              
   篤志家箱崎昇吾翁の親戚だという。後輩のいとこで、埼玉県草加市に住んでいる。わが家の近所に実家がある。翁のことを書いた拙ブログを読み、あいさつと情報提供を兼ねてやって来た。

 専称寺(平)の末寺の大円寺(翁の菩提寺)と、江戸時代、専称寺で修行し、のちに江戸へ出て俳僧として鳴らした一具庵一具(1781~1853年)の話になった。

 まずは翁の善行のおさらい。翁は昭和8(1933)年国鉄を退職すると、退職金をはたいて専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの太鼓橋を架け、大円寺に石門、立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を寄進した。

 さらに同8年から専称寺の境内に梅の苗木を植え続け、足かけ27年をかけて同34年、悲願の1千本を達成した。

 太鼓橋の欄干には俳句が彫られてある。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」。句のわきには小さく「昇吾」とあって、翁は俳句をたしなんだことがうかがえた。

 後輩のいとこからは、さらにびっくりする情報を得た。大円寺の門柱の裏に短歌が彫られているのだという。

 スマホに保存されている写真を見せられた。確かに短歌らしい文字が写っている。なんと書いてあるかはわからない。「字はよく見えないんですよ」。それでも、影をうまく入れて字が見えるように撮ってある。

前に見たとき、向かって左側にある門柱の裏側に、寄進者の名前(翁夫妻)が彫られてあるのがかろうじてわかった。

しかし、反対側の門柱の裏側にある短歌には気づかなかった。字がわかるのは、朝日か夕日が当たって凹面に影ができたときだろう。

専称寺の太鼓橋がそうだった。2月下旬、9時ごろに行くと朝日が斜めに当たり、凹面に影ができていた。それで字がはっきり見えた。

春分の日の前日、墓参りの人が散見される中、大円寺の門柱を見に行った=写真。向かって左側の門柱の裏側には、なるほど何やら文字が彫られている。これが短歌だろう。しかし、字はさっぱりわからない。材質は白御影石(花崗岩)らしい。

太陽がもっと北に移る夏場、朝か夕方、凹面に影ができるかどうか。むろん、それで字が見えるという保証はない。拓本にとるという手もあるが、その技術は持ち合わせていない。

とりあえず門柱の裏側を撮影し、データをパソコンに取り込んで「明るさ・シャドー・ブラックポイント・彩度・色温度」などで修正を加えてみたが、字が浮き出ることはなかった。今のところ、お手上げである。

そこに短歌が彫られていたとしたら、いよいよ翁の内面の一端が見えてくる。市井(しせい)の一生活者がそこまで執念を燃やしたわけがわかるかもしれない。つくづく人間はすごいと思う。

※追記=4月8日の夕方、門柱を見に行った。向かって左側の門柱の裏を見ると、凹面の文字に影ができていた。すべて読み取れるわけではないが、短歌らしい配置になっていることはわかった。短歌の読み解きができたらまた報告したい。