2026年5月30日土曜日

米袋を保存

                                       
 どんな意図か、名分かはわからない。しかし、それがなんであれ、結果として世界中に混乱を巻き起こしている。これはまちがいない。

 アメリカとイスラエルのイラン空爆に端を発したホルムズ海峡封鎖で、ガソリンや灯油が急騰した。それだけではない、生活のあらゆる場面に浸透しているプラスチック製品なども値上がりが続く。

 5月後半のわが家での話。「納豆が値上がりするんだって」。わが家では生協の納豆を食べている。一般に売られている納豆は6月から、パッケージの値上がりなどが小売値に転嫁される。

 カミサンの実家は元米屋。配達はやめたが精米は続けている。わが家もカミサンの実家から米を調達する。

 「米の袋を捨てずに取っておいて」。先日、米を取りに行ったら、義弟に言われた。米の袋はナフサ由来の透明なポリ袋だ=写真。ここにも品薄と値上げの影響が出ている。

 神谷地区では毎年6月最初の日曜日、地区対抗の球技大会が開かれる。選手には行政区から弁当が出る。

いつもの業者に発注しながら値段を聞く。「去年は1個700円プラス消費税だったけど……」「今年は消費税込みで864円になります」

弁当は容器がプラスチック製である。ほかの容器プラスチック同様、値段が据え置きのはずはない。それは覚悟していたが、1個100円の値上げとは。

おおよそ1カ月前(4月21日)のブログに、家庭内には「容器包装プラスチック」があふれている、ガソリン・灯油だけでなく、これら原油由来の製品も高騰・不足を招いている、少なくともその不安が広がっている、と書いた。一部を抜粋・再掲する。

――「容プラ」(容器包装プラスチック)は週に1回、収集車が来て回収する。市の細かい定めを読むだけでも、家庭にはいかに容プラがあふれているかがわかる。

各種トレイ、コンビニ弁当の容器、ゼリーやプリンのカップ、薬のシート、外装フィルム、レジ袋、ペットボトルのラベル、菓子袋、シャンプーやチューブ、食用油・調味料などの容器のほか、発泡スチロール梱包材、ネット、緩衝材も該当する。

いやでも思い出すのは昭和48(1973)年の「オイルショック」である。オイルショックを機に、いわきがどうなったか。市民の生活、企業の活動に大きな影響が出た。今回もまた混乱が続くのではないか。

 刺し身でいえば、行きつけの店があったときにはマイ皿を持って行った。容プラのトレイがそれで1つは減る。閉店した今はマイ皿を持って行く魚屋が決まらない――。

この1カ月の間にマイ皿を持って行く魚屋が決まった。台所のクレラップも捨てずに再利用している。

寒さが戻った5月22~23日には石油ストーブをつけた。それまでは少し寒くても我慢していた。もう6月。梅雨になっても我慢できるはず。しばらくは倹約第一でいくしかない。

2026年5月29日金曜日

チェックシート

                                           
 「チェックシート」といっても、決まった書式があって、紙に印刷されている、といったものではない。私の頭の中にあるだけだ。

 たとえば、マチへ行った帰りに夏井川の堤防を通って、川と河川敷をチェックする。なにか変わったことがあれば、家に帰って「日記」に書き留めておく。

 現役のころは取材用の「メモ帳」をいつも携帯していた。会社をやめたあとは、メモ帳ではなく、自分の日常をA4判の「カード」にメモしている。つまりは日記。それを参考にしてキーワードを選び、毎日ブログ用の原稿を書く。

 カードといっても、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面にすぎない。たいていは片面コピーなので、裏面をメモ用紙として利用できる。

 チェックする項目は季節によって異なる。時系列でいうと、冬は新川合流部に飛来するハクチョウの概数、春は岸辺のヤナギの芽吹きやツバメの飛来日、夏はオオヨシキリの初飛来、田んぼに水を取られてできた「川中島」の様子、秋はサケのヤナ場の設置など。

 ほかに、住宅地と堤防の間にある畑、たとえば真冬に収穫するネギの定植時期や土寄せの様子などをチェックする。

 日曜日に夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。夏井川の源流部・田村地方から渓谷へ伝播した「三春ネギ」を栽培している。その作業の参考にする。

 隠居までの行き帰り、隠居に着いたあともチェックを欠かさない。平地の三島には残留コハクチョウの「エリー」がいる。二ツ箭山のスカイラインも必ず眺める。

谷間に響くガビチョウやウグイスのさえずりはもちろん、春のアカヤシオ、初夏のコバノトネリコの花、秋の紅葉、冬の落葉なども書き留める。

絶えず流動し変化してやまない自然を、自分の目と耳で感じとる。その経験と記録が積み重なって、頭にしかないチェックシートができあがる。

 といっても、ふだんは忘れている。堤防に出たとき、渓谷への道行きなどに、季節に応じて記憶がよみがえる。

「ハクチョウは来たかな」「ネギの収穫は始まったかな」「おや、今年最初のツバメだぞ」などと、頭の中で絶えず生物季節情報と現実が交差する。

今のところ現実の「カード」(日記)は雑記にすぎない。が、これを整理し、動植物、気象その他、テーマや季節ごとに再構成すると、何か見えてくるものがあるかもしれない。

それにぴったりの用紙があった。専称寺(平)で修行した江戸時代の俳僧一具庵一具を調べるために、若いころ、調査カードを特注した=写真。死蔵したままになっている。これを活用しよう。

俳句の「歳時記」と同じで、メモはこれまで通りだが、「自然」の情報をそこから抽出すれば現実のチェックシートになり、「マイ歳時記」として再構成できる。

とにかく試してみる価値はありそうだ。なにか不備があればそのときまた考えればいい。

せっかくつくったのに何十年も使わずにいた用紙の救済にもなる。モノは使い切る、これが一番だから。

2026年5月28日木曜日

風の通る家

                                                 
   夏井川渓谷の隠居は集落を貫く県道の谷側にある。夏場は川筋を涼風が吹き渡る。

5月中旬の日曜日は朝からいい天気になった。ちょっと土いじりをしただけで汗がにじんだ。このまま外にいたら熱中症になりかねない。キリのいいところで隠居に引き揚げた。

茶の間のガラス戸を全開し、玄関も開けたままにしておく=写真。玄関の上がり口の近くで休んでいると、時折、谷風が吹き抜ける。汗ばんだ体にはこれが心地よい。天然のエアコンだ。

5月の昼前の風は川下から吹いてきてさわやかだった。でも、と反射的に冬の寒風が思い浮かぶ。

冬は北風がV字谷に集中し、わが隠居を直撃する。それを思い知らされる出来事があった。

庭の西側に生い茂っていたササを掘り起こし、開墾して、小さな菜園を作ったのはざっと30年前。近所の家から「三春ネギ」の苗をもらって栽培を始めた。

同時に、「実のなる木」にも興味がわいた。高田梅、プラム、そして温州ミカンの苗木を植えた。

その木は今どうなっているか。ミカンは苗木のうちに枯れ、プラムはやがて菌にやられて伐採した。雪国会津の高田梅だけがかろうじて命脈を保っている。

ミカンに色気を出したのは、県道と線路をはさんだ山側の家でユズを栽培したら実がなった、という話を聞いたからだ。

ユズは福島市の信夫山が北限と聞いて、それなら夏井川渓谷でも、と挑戦したのだという。

ならば、こちらはミカンだ。実がなれば、地球温暖化が進んだ「あかし」になる。渓谷のミカンの木は地域温暖化のセンサーになるだろう。

冬は白菜を漬ける。風味用にユズを調達して皮をみじんにして加える。ミカンの皮も干して入れる。隠居でミカンがなれば、中身は食べて、皮はユズの代わりに使える。

そんなもくろみもあって、いわき市の「産業祭」で2~3個、実のなっている温州ミカンの苗木を買い、隠居の風呂場の前に植えたのだが……。

常緑の葉が真冬に「風邪」を引いたのか、だんだん色が悪くなり、結局は枯れてしまった。

 それから20年以上たった今年(2026年)の3月。集落の寄り合いで、昵懇(じっこん)にしている住民から、家の裏山にミカンの苗木を植えた、と教えられた。

地球温暖化は地域温暖化。それを逆手にとって、渓谷でも栽培してみる気になったそうだ。

 わが失敗談を語ると、別の住民が理由を教えてくれた。彼の家も県道から谷側にある。

冬の寒風がもろに庭を吹き抜ける。それにミカンの苗木が耐えられなかったのだという。

 新しくミカンの栽培に挑む住民の家は山側にある。西と北側には杉林が控える。これが冬の北風を抑えてくれる。それもあって、挑戦する気になったのだそうだ。

谷側と山側では家の周りの環境が異なる。谷側は風の通り道だが、山側は防風を兼ねた林がある。

そうか、谷間の家もまた北風の直撃を避けられるところから建ち始めたにちがいない、なんて集落の成り立ちまで勝手に想像した。

2026年5月27日水曜日

「あたしって、何、」

                                            
   カミサンが「おもしろいよ」と勧めるので、なんの予備知識もなく読んだ。有賀未来(ありが・みく)の小説『あなたが走ったことないような坂道』(新潮社、2026年)=写真。

本の帯には「18歳」「新潮新人賞受賞作」とある。へぇー、若いんだ。本は、新書よりは一回り大きいものの、冊子風で薄い。短編である。

読み進めるうちに、アイデンティティ(自我同一性)がテーマになっていることを知る。

主人公の黄星瑤(ウォン・シンユ)は香港で生まれ、中国籍を持つが、香港から日本に移住した養父母(香港、中国人)のもとで、日本語で育てられた。女子高校生である。

同性の親友に「なお」(日本人)がいる。彼女との間にはなにやら恋愛感情のようなものが見え隠れする。

それは一種の伏線で、本筋としては香港・中国・日本、言い換えれば人種・民族と国家に翻弄される主人公の葛藤が描かれる。

香港はこれからどうなるかわからない。両親は日本に帰化することを考えてシンユに告げる。シンユはそれに反発する。

「あたしは、あたしは、このパスポートがなくなったら、誰があたしの、本当の故郷のことを、この名前だって失ったら、あたしは、空っぽだよ、あたしはただの、日本人になって、香港人で、中国人だったこと、全部、なかったことに、なるのかもしれないから、だから、どうして、どうしてそんな風に簡単に言うの」

シンユは家を飛び出してなおの家に駆け込み、なおに本音を語る。「あたしって、何、」「あたしは、何人なの、ガイジンなの、日本人なの、あたしは、あたしはどこに住めばいいの」

ああ、おんなじだ。記者時代の話である。大学の先生だったかが留学生について書いていた。

日系ブラジル人、あるいは日系アメリカ人だったかもしれない。ブラジルで、アメリカで生まれ育った日系2世は、アイデンティティをどこに求めるのか、自分はどこに帰属するのか、といった問題を抱えていることを知って読み飛ばせなくなった。

アメリカで生まれ育った日系2世は太平洋戦争のとき、この問題に直面した。自分は日本人なのか、それとも日本と戦うアメリカ人なのか。

1世は捕虜収容所に入れられ、2世はアメリカ兵として参戦し、親の祖国の兵士と戦った。

在日韓国人や中国人だけではない。残留孤児となった日本人も、日本で生まれ育った外国人の子どもも、やはりこの問題に直面する。

昔も今も変わらずにあるアイデンティティをテーマに、当時18歳の高校生が物語を創作した。

ネットで作者の情報を集めたが、写真を見る限り、作者は男性のようである。名前はどうか。ペンネームかもしれない。そう推測するのだが、むろん断定はできない。

引用文章からもわかるように、一文が長い。今どきの高校生の話し言葉を軸に、「読点」を多用する文章がむしろ評価されたようだ。確かに新しい才能ではある。

2026年5月26日火曜日

家庭内ケア

                                               
   月曜日は早朝、家の前にあるごみ集積所にカラス除けのネットとごみ袋を出す。この仕事から私の1週間が始まる。

 5月中旬の月曜日はそうやって週が明け、朝食後に歯科医院へ出かけた。軽い痛みが出たので電話を入れると、月曜日朝に予約が取れた。

去年(2025年)3月の時点で虫歯の治療が終わり、「あとは様子を見ましょう、3カ月後にまた来てください」と言われていた。

痛みがなかったこともあって、ほったらかしにしていたのがいけなかったのだろう。1年以上たって、食事中にときどき痛みを感じるようになった。

案の定、虫歯になっていた。治療再開である。終わって銀行へ寄り、夏井川の堤防経由で帰宅した。

 歯科医院に行った以外はいつもの月曜日である。午後も座卓(こたつ)でノートパソコンを開き、ブログの文章の打ち込みをした。

水が飲みたくなったので、「よし、一休み」。立ち上がると急に腰痛がおきた。そばの柱に手をかけてなんとか立ち上がったが、激痛で前に進めない。

カミサンに助けを求め、肩に手をかけてやっと一歩を踏み出した。といっても、すべるようにしか歩けない。

腰痛はカミサンが先輩だ。3日にいっぺんは近所の接骨院へ通っている。翌日早朝、その接骨院へ出かけた。

車の乗り降りはきついが運転はできる。今回は私も患者だ。カミサンが院長に説明すると、すぐ対応してくれた。

突発性の側弯症ということだった。前の日になにかしなかったかと聞くので、夏井川渓谷の隠居でかがんだまま1時間、草むしりをした、と答えた。

前から症状はあった。軽かったのでそのままにしておいた。それらが少しずつ蓄積されて、突然、激痛を発した。

駐車場からはカミサンの肩に手をかけて入室し、手当てをしてもらい、腰痛コルセットを巻くと、普通に歩けるようになった。

朝ドラ「風、薫る」で看護婦見習の一ノ瀬りんが、入院患者の奥様の背中に手をやるシーンがあった。こちらは現実の手当てを経験したばかりだ。

患部に手を当てるというのは、つまりは心に手を当てることなのだと勝手に解釈した。

発症直後、このまま歩けなくなるのでは、これはもしかしたら介護の始まりか、そんな不安がよぎった。

今は歯痛・腰痛だけだが、そのうちひざが痛い、足がふらつく……といったように、体のあちこちが悲鳴を上げるようになるのかもしれない。

家の2階を増築したとき、階段に手すりを付けた。店と茶の間の境の柱には縦手すりがある=写真。

故義弟がデイケアから戻って来たとき、茶の間にスムーズに上がれるようにと、取り付けてもらったのだった。それが今、役に立っている。

折から,「あさイチ」で腰痛を特集した。簡単な予防体操を知った。すぐ取り入れることにした。

ま、これから夫婦で互いに介助したり、されたりするケースが増えるのだろう。家庭内ケアである。実際にはもう始まっているのかもしれないが。

2026年5月25日月曜日

ウルトラマン60年

                             
   5月17日の「笑点」には驚いた。大喜利にウルトラマンが登場した。座布団運びは、なんとカネゴンではないか。

 なぜウルトラマンとカネゴンが? 笑点は放送開始から今年(2026年)で60年を迎えた。

ウルトラマンも誕生60年だという。同じ60年でコラボが実現したのをネットで知り、めでたい気分になった。

60年前といえば昭和41(1966)年。平高専の3年生だった。いわき地方の高校生はまだ坊主頭の時代で、高専生は3年になると長髪が認められた。それで、同年代の高校生よりも一足早く大人になった気分だった。

 この年の10月1日、常磐地方14市町村が合併して「いわき市」が誕生する。それに合わせて校名が「平高専」から「福島高専」に替わった。

ウルトラマンだけではない。ビートルズが来日・公演したのもこの年だ。坊主頭の後輩は東京までビートルズを聞きに行き、寮に帰って仲間に熱く感動を語った。

ウルトラマンは須賀川市出身の特撮監督円谷英二が中心になってつくり上げたヒーローである。

学校の敷地内にある寮からマチの下宿に移ったり、また寮に戻ったりしていたころ、テレビにウルトラマンが現れ、子どもたちをとりこにした。

当時、テレビを見る時間はなかったが、ウルトラマンの人気が子どもたちの間で沸騰していることは知っていた。

 同じ勧善懲悪モノでも時代劇と違って、宇宙とつながった未来ドラマであるところが、子どもたちには新鮮だったのだろう。

 東京へ飛び出したあと、Jターンしていわき民報の記者になり、お城山のアパートに住んだ。

 庭をはさんで大家さんの家があった。大家さんの孫(女の子で4~5歳だった)がよく庭でウルトラマンの歌を歌っていた。

「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトラマン」。ウルトラマンの新しいシリーズが始まって間もないころではなかったか。

日曜日の夕方には、アパートのふもとを走る常磐線の電車を見るために、よく散歩をした。ときどき女の子も付いてきた。

一緒に「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトラマン」と口ずさみながら、夕焼けの街をながめたこともある。

 そのころ、高校の先生や後輩らと同人誌を出した。それに「わがウルトラマン」という詩を載せた=写真。

「この夕陽 目の高さで地平を焼くまで/純粋微笑のおまえをみちづれに/しばし 未風化の記憶を鞭打ちながら/ワイワイいって歩くとしよう」。出だしは実景そのものだ。

 実は先日、カミサンが縁側にあるスチールボックスの中身を取り出し、ダンシャリを始めた。

 そこに私が10代後半から20代前半にかけて関係した同人誌や手書きの原稿などが眠っていた。それは捨てられない――となって、今、手元にある。

ついでながら、「〇×60年」をネットで検索した。「おはなはん」もそうだった。主役は、やがていわきゆかりの俳優と結婚する樫村文枝さん。この朝ドラはなぜかよく覚えている。

2026年5月23日土曜日

朝活5時間

                                
   5月半ばの19日なのに、県北では猛暑日を記録した。と思えば、3日後の22日には初冬のような寒さに戻った。

四季から夏と冬の二季になりつつあるのではないか。このごろの天気にはそんな懸念が募る。

それに加えて突然、腰痛が襲い、10日ほど前から近所の接骨院に通っている。随時対応してくれるので、朝6時半にはマッサージをしてもらう。おかげで痛みが軽減し、歩くのに支障はなくなった。

腰の手当てはともかくとして、朝に絞っていえば5月は1年で最もしのぎやすい時期である。

4時にはすでに窓の外が明るくなっている。それに合わせて、早朝のうちに「仕事」をすませることが多くなった。

年寄りの習慣にはちがいない。寝起きの時間が早くなった。熟睡するにも体力がいる。早寝早起きも体力低下と関係があるのだろう。

今は遅くても9時には寝る。真夜中に1回目が覚めて、日付が替わったのを確かめてから、ブログをアップし、また寝る。二度寝から覚めるのは4時。遅くても5時には起きる。

 冬場は、未明の起床には覚悟がいった。とにかく暗い。寒い。茶の間のこたつをオンにし、石油ストーブに火をつける。毛糸の帽子をかぶり、首にマフラーを巻く。22日もマフラーを探したが、もう初夏である、片付けられてどこにあるかわからない。

その前々日、20日は19日に続いて好天に恵まれた。予定が立て込んで早朝から忙しかった。

起きるとすぐ糠床をかき回し、カブとニンジン、キュウリを取り出した。終わって庭に出たら、空気は乾いて澄んでいる。なにやらイボタノキ(と思う)の花の香りが漂ってくるようだった=写真。

6月7日に春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動(清掃デー)を実施する。

そのために、前もって市役所からごみ袋と土のう袋をもらってきた。これを隣組ごとに振り分け、臨時回覧として配らないといけない。準備は前日にすませた。

6時前、新聞配達よろしく、車を走らせて隣組の班長さんと区内会の役員さん宅に回覧資料とごみ袋を届ける。終わって接骨院に直行し、7時半前には帰宅して朝食をとった。

早朝の爽快感、仕事とマッサージをすませた開放感も手伝って、「早起きは三文の徳」ということわざが思い浮かんだ。

「三文の徳」とはこの場合、「得した気分」に近い。4時の起床から9時までの5時間。朝のルーティンの合間に、翌日以降のブログも1本仕上げた。

市役所某課とメールのやりとりが、どういうわけかできなくなった。そのため、この日早朝、試しのメールを送ったところ、ほどなく折り返しのメールが届いた。懸案が一つ解決したことも気分を軽くした。

世の中が動き出す前に、その日の予定を全部消化した。年寄りもそれなりに縛られている。朝活のおかげで日中、自由な時間が持てるのはやはりうれしい。

2026年5月22日金曜日

蕾からさやへ

                     
   夏井川渓谷にある隠居の小さな菜園で、こぼれ種で発芽した辛み大根を育てている。といっても、ほとんど手をかけない。

冬場に肥大した根を引き抜いておろしにする。辛い。この辛さがいい。

越冬して春を迎えると、つぼみがいっぱいできて、やがて花を咲かせる。これも「菜の花」として食べられる。

開花したあとにできる若いさやも食用になると知ったのは去年(2025年)の5月。

いわき昔野菜保存会の総会が終わって交流会に入り、「さや大根」の食べ方を教わった。キヌサヤエンドウは花が咲いたあとの若いさやを食べる。それと同じである。

ちょうど辛み大根の花がピークを過ぎ、未熟果ができつつあるときだった。日曜日に隠居へ出かけて、初めて収穫して食べた。あっさりした味だった。

山菜と違って、いつもそこにある。しかも、根・蕾・さやと年に3回は食卓を彩ってくれる。今ではわが家に欠かせない貴重な季節の食材だ。

若いころはいろんな野菜を栽培した。白菜・大根・ニンジン・二十日大根・カブ・サニーレタス……。

家庭菜園は少量多品種の栽培ができるのが魅力だろう。隠居に遊びに来たオーストラリア人夫妻から、向こうでは家庭菜園を「ベジパッチ」と呼ぶ、と教えられた。少量多品種栽培はまさに野菜のパッチワークだ。

そのころはまだ現役で、2畳半を二十日大根とカブに充て、次の2畳半はサニーレタスに、また次の2畳半はニンジンに……と、小さなスペースをつくってはゆっくり野菜と向き合った。

青物はおおむね未熟果を食べる。花を咲かせてはならない。そんな思い込みがあった。

ただし、白菜の花を食べる話は知っていた。私らも春になると、白菜の菜の花をもらって食べる。そのためだけに種まきをずらす友人もいる。

しかし、大根はやはり思い込みに支配されていたようだ。花を咲かせるまで畑に置いておくものではない。蕾とさやを食べることは考えもしなかった。

 白菜も大根も同じアブラナ科の野菜である。花が咲けば実がなる。その実がさやの中で形成される。考えれば当然のことだ。

 震災と原発事故が起きて、谷間の家庭菜園にも影響が出た。庭が全面除染の対象になって土を入れ替えた。

 栽培する野菜も「三春ネギ」と二十日大根程度になった。そのなかで知人から辛み大根の種が届いた。

辛み大根はこぼれ種から勝手に生えてくる。今はこのこぼれ種の生命力にまかせて、不耕起で育てている。

 手をかけずにすむ分、ありがたい食材だ。しかも、蕾も、さやもとなれば、こちらは辛み大根だらけにならないようスペースの管理をするだけでいい。

 そうして花盛りの春が過ぎ、さや大根の初夏を迎えた。毎週日曜日、さや大根=写真=を摘んではお福分けをする。それがまだしばらく続きそうだ。

キヌサヤと食べ方は同じ――。こういわないと、理解してもらえないときもある。さや大根は食材としてもっと認知されていい。

2026年5月21日木曜日

カギ交換

                                          
   建物のカギを交換した。今度調べてわかったのだが、木製戸用のシリンダー錠というものらしい。

かぎが古くなったこともあるのだろう。かかりにくくなった。らせん状の溝が摩耗しているのが原因らしい。

ダメになる前に新しいカギに替えなくては――。最寄りのダイユー8に出かけたが、同じ型のカギはなかった。

業者用の系列店(ダイユー8プロ)ではどうか。マチからの帰り、新しくできた店に寄ると、スタッフがカギのコーナーに案内してくれた。いろんなカギがある。さすがは業者向けの店である。

 似たカギを買おうとしたら、アドバイスされた。「商品を開封すると返却はききません。カギ穴の寸法を測ってからにしたらどうですか」。値段が値段だけに、そうすることにした。

商品の説明文をコピーしてもらい、それを参考に実測すると、目当ての商品で大丈夫らしいことがわかった。

後日、また訪ねてカギを購入する。すると、レジで「バナナをどうぞ、コーヒーもあります」と勧められた。

買い物をして飲食物のサービスを受けるのは、たぶん初めてだ。夫婦でバナナを各1本、アイスコーヒーを1杯、セルフでちょうだいした。これだけでまた来なくちゃ、という気になる。

 さて――。めったにやったことはないが、DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)でカギの交換をしないといけない。

折から真夏日のような暑さになった。外にいるだけで汗がにじむ。熱中症予防のために日影ができるのを待ってイスを持ち出し、座って古いカギを取り外した。

といっても止めネジは、簡単にははずれなかった。なにしろ60年以上使ってきたカギである。3つある取り付金具のうち、1つがすっかりさびついている=写真。

計9個あるネジのうち1個は溝がゆるくなって、ドライバーを何度回してもびくともしない。30分もあれば交換できるだろうと踏んでいたが、予想以上に苦戦した。

最後は少し大きなドライバーをバールのように差し込み、グイッとやって、ようやく取り付け金具をはずした。木製戸だからできた「荒業」だ。

それが終われば、今度は新しいカギの取り付けである。前のカギ穴とネジ穴を利用し、取り付け金具を仮止めしたうえで、内側の戸と外側の戸をつなぐカギの開け閉めがスムーズにいくよう調整する。これはわりと簡単にできた。

DIYにもその人間の技量があらわれる。取り付け部が少し曲がって見た目は悪い。が、カギはちゃんとかかるようになった。それでよしとするしかない。

DIYで家を建てた――という話をたまに聞く。カギの交換だけでヘロヘロになった人間からみると、それはもう「神業」に近い。あらためてDIYを日常にしている人に敬意を表したい。そんな思いになった。

2026年5月20日水曜日

「アイディアのレッスン」

                                           
 大活字本の外山滋比古著『アイディアのレッスン』=写真=を図書館から借りて読んだ。

 アイディアはどんなときに生まれるのか。巷間、言われていることを著者も紹介する。たとえば、入浴中。

 「入浴中がよいのは、アルキメデスの例でも明らかである。血のめぐりが普段と変わり頭に快い刺激があって、活発なはたらきをする。その勢いで思いもかけない考えがとび出してくる」

 アルキメデスの例? すぐネットで検索する。 湯船であふれるお湯を見て、アルキメデスは「浮力の法則」を発見した。そのことを指しているようだ。

 私も、アイディアとまではいかないが、入浴中によくブログの文章の直しを思いつく。ここはこうした書き方に、あそこは別の言葉に――。

 確かにアイディア、あるいはそれに近い思いつき、新しい考えなどが生まれる場所を振り返ると、風呂やトイレ、寝床であることが多い。

 やはり「一つの考えにこりかたまってはいけない。別のことをしているときにアイディアは訪れやすい」。

次から次に古今東西のアイディア例が紹介される。博覧強記である。旧知のものも、未知のものもある。

これは旧知のひとつ。昼にときどき、コンビニからサンドイッチを買って来る。サンドイッチの起源は若いころ、本で知った。

イギリスにサンドイッチという名の伯爵がいた。伯爵はゲーム好き(確かトランプ)で、食事中もゲームを続けたい、という思いが昂じて、片手で食事ができる食べ物を考案した。それが今、私たちが普通に食べているサンドイッチである。

思考の枠を拡大したり、視点を変えたりすることも大切になる。パロディやユーモアも元気のもとになる。

「ローマは一日にしてならず」。この成句をもじって、評論家の樋口恵子さんは「老婆は一日にしてならず」と言った。

 後期高齢者になった今、老婆も老爺も一日ではならないことを実感している。その通りだと納得しながら、つい笑みがこぼれる。

ノーベル文学賞を受賞したイギリスの詩人TS・エリオットの代表作「荒地」の冒頭部分もそうだった。

 戦後、鮎川信夫・田村隆一・黒田三郎らが同人誌「荒地」を出して、日本の現代詩をリードする。それにちなんで鮎川らは「荒地派」と呼ばれる。

 同人誌の名前はエリオットの「荒地」に由来する。荒地派の影響を受けて現代詩を読み始めた少年には、「四月は残酷極まる月だ」で始まるエリオットの詩句(西脇順三郎訳)はもはや「現代詩の古典」といってよい。

これがなんと、チョーサーの「カンタベリ物語」序歌の冒頭にある詩句(「四月がやわらかい驟雨をもたらし」で始まる)をふまえたものだったとは、驚きである。

「穏やかな四月」と「二十世紀の荒地」を結合させて「残酷な四月」という新しい言葉を発見した、と著者は言う。

この化合法はもじりとかパロディでもあるが、私には「本歌取り」にも映る。表現は無限。言葉は汲んでも枯れない井戸の水である。

2026年5月19日火曜日

シン糠床

                     
 4月が過ぎ、5月も間もなく下旬。待ったなし、である。3~6日とカレンダーに赤い数字が並び、いつもの黒い数字に戻った7日朝、「よし」と気合を入れて糠床を作った。

 小糠は先日、カミサンの実家(元米屋)へ行って手に入れた。2キロちょっとある。

この量に見合った食塩(地中海産の天日塩)とかつお節や唐辛子、捨て漬け用の野菜を用意する。芽吹いて間もないサンショウの若葉を庭から摘む。これは風味用。

 まずは小糠の乾煎(からい)りである。虫の卵が混入していれば加熱して始末し、水分を飛ばしてから、深さ25センチほどの甕に入れる。

ほかの材料も加え、水を2リットルほどまぶしてよくかき混ぜる。これでわが家4代目の糠床が出来上がった。といっても、まだ「半糠床」である。

水分を含んだ小糠は粘りついていて固い。毎朝、糠床をかき混ぜるのに合わせてカブやキュウリを入れ、一昼夜あとに取り出す(もちろん食べる)。これを繰り返しているうちに、糠床に手がすんなり入るようになる。

いずれ昆布も入れ、サンショウの実も摘んでまぜる。そうして少しずつ旨みと風味が溶け込んだ糠床になっていく。

 3代目の糠床は平成26(2014)年から使っていた。去年(2025年)の夏、コバエらしいものが糠床に卵を産み付けたらしい。わいた虫をそのつど取り除いたが、その数が半端ではない。わずか11年で泣く泣く廃棄した。

 その前、2代目の糠床は東日本大震災と原発事故をくぐり抜けた。これは虫ではなく、手入れ不足でダメにした。シンナー臭が消えなかった。

 糠漬け歴はざっと30年。その間に3回、糠床をダメにしたことになる。甕は台所に置いてある。夏場は室温が高くなる。それも影響しているのだろう。

冬は白菜漬けに切り替える。糠床はその間、冬眠させる。ところが震災前年の冬、白菜漬けだけでなく、糠漬けも続けてみることにした。

すると春がきて「原発震災」が起きた。9日ほど避難して帰宅すると、糠床にはアオカビが発生していた。何日も人の手が加わらなかったために酸欠状態になったのだ。

糠味噌ごと表面のアオカビをかき取り、布を濡らして甕の内側をきれいにしたあと、よくかきまぜた。このときはぎりぎりで糠床が生き延びた。

糠床がダメになる原因は、手入れがちゃんとしていないのが大きい。それができなくなるのが、自然災害や原発事故、そして戦争だ。

 そもそもは夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたのがきっかけだ。キュウリを栽培すると、生(な)るときにはどっと生る。生で食べる、お福分けをする。それでも余る。で、糠漬けにすることを思い立ち、糠床を作ったのだった。

糠漬けは夏場、キュウリなら朝、糠床に入れて、夕方には取り出す。典型的な浅漬けである。

シン糠床を作って10日目。カブを4つに割って一昼夜漬けておくとしんなりした。それなりの味だった。初夏を迎えて朝の習慣が復活した。

2026年5月18日月曜日

最後の会報

                      
   大型連休が終わるとすぐいわきキノコ同好会の「最後の会報」が届いた=写真。前に書いたブログを下敷きにして経緯を振り返る。

  一昨年(2024年)の師走にいわきキノコ同好会の定期総会が開かれた。会の今後が議論された。

結論からいうと、令和7(2025)年度は従来通り活動し、12月の定期総会を最後に解散する。会報第30号は総会時に発行し、最終号とすることが決まった。

それから季節がひとつ巡ったばかりの4月15日に冨田武子会長が亡くなった。享年86。総会で顔を合わせたのが最後になった。

同好会が発足してざっと30年。会員の高齢化と、それに伴う退会が続いた。令和7年は日本菌学会東北支部の観察会・総会がいわき市の石森山周辺で開かれる。受け入れ団体が地元にないのは寂しい、ということも1年間の会存続につながった。

冨田さんはいわき市内の中学校美術教諭を定年で退職したあと、画家として制作活動に励み、ボタニカルアートも手がけた。

それとは別に、菌類にも造詣が深く、いわきキノコ同好会創設時から会長を務めた。私も最初からの会員で、冨田さんから多くのことを学んだ。

年1回発行の会報にはキノコを取り上げた拙ブログを選んで寄稿した。今回も同じ流れで、冨田さんの思い出を中心に文章を組み立てた。

最後の会報が冨田さんの追悼号になるとは、だれも想像できなかったろう。

第30号の発行は冨田さんの遺志でもある。孫の冨田剛さんが祖母の追悼の意味も込めて、原稿の依頼・編集その他を代行した。

コウタケをツルリンドウが囲む冨田さんの絵が表紙を飾る。目次の裏や本文にも計11点の作品が「さし絵」として載る。表紙画と同様、キノコに季節の花を組み合わせたボタニカルアートである。

図鑑のように精緻で、しかも絵画作品としても観賞できる。あらためて冨田さんの画力、そしてキノコに対する愛と知識の深さに感銘を受けた。

会員のほかに、生前、冨田さんと交流のあった福島きのこの会の会長、日本菌学会東北支部の元支部会長、南相馬市博物館のスタッフも追悼文を寄せた。調査・研究を介したネットワークの広さはさすがである。

後半10年間を会員としてかかわった阿部武さん(石川町)が、会報を基にいわきキノコ同好会の30年を振り返っている。

本会の特徴として、①いわき市内で採集された菌類の記録が充実している②会発足に尽力した故斎藤孝さんによる石森山の菌類調査と解説が充実している③全国的なきのこ中毒者数や原因などが会報で報告されている――などを挙げた。

原発事故後は、野生食用キノコの放射線量測定結果も継続して会報に掲載された。これは非常に貴重な記録と、阿部さんは評価する。手元にずっと置いておきたい。そんな気持ちになる最後の会報である。

2026年5月16日土曜日

はんてんの角文字

                                  
 祭りのはんてんに角張ったデザインが施されていた。ラーメン屋のどんぶりのふちに、似たようなデザイが並ぶ。四角い渦巻き模様で「雷文」というそうだ。それを連想した。

 ゴーデンウイーク中の5月4日(みどりの日)、近くにある立鉾鹿島神社の例大祭が開かれた。

 みこし渡御に先立ち、午前10時から拝殿で祭典が執り行われた。夜の大雨は、朝には霧雨に変わり、はっきりしない天気ながら傘は差さずにすんだ。

 祭典が進む中、そばの森からウグイスのさえずりが飛び込んでくる。神社の南には石の鳥居がある。神社との間、つまり境内を常磐線の線路が横切っている。そこを電車が通過する。

 祭典に集中しながらも、耳はウグイスや電車の音を拾い、目は前方、横向きに座っている神社総代のはんてんに注がれる。

はんてんの腰のあたりに雷文のような角張った線の模様が描かれている。そのデザインに引きつけられた。

よく見かけるのは2色(たとえば白と黒)の格子状の「市松模様」とか、菱形を連結したような「吉原つなぎ」だが、それらとは違って、直線を迷路のように組み立てた四角いデザインだ。

前に線路を渡ってみこしが出発するところをカメラに収めたことがある=写真(平成28年5月撮影)。

拡大した画像をあらためてチェックすると、はんてんの背中には赤い文字で「立鉾」と入っている。腰柄は一部、帯に隠れて見えないが、なにか漢字をデザインしたような印象だ。

祭典が終わって、知人でもある神社総代に尋ねると、「さあ」。知人がすぐ宮司さんに聞いた。もちろん意味がある、という答えだった。

すぐ記念撮影に入るというあわただしいときだったので、話はそれで終わった。ただのデザインではない。いよいよ興味がわいてきた。

家に帰って、ネットで画像を検索しているうちに、似たような腰柄に出合った。「角文字」あるいは「角字」というものらしい。

毎年、ゴールデンウイークには祭りが集中する。その画像がSNSにアップされる。今年(2026年)ははんてんのデザインに集中して、いわき市内の祭りの画像をチェックした。似たような角文字は見当たらなかった。

 ほかの神社の例から4文字、あるいは6文字で構成されているようだ。「立鉾鹿島」の4文字は入っていると思うのだが、自信はない。いつか宮司さんに確かめてみよう。

 これは蛇足。角文字は白抜き(白文字)なら「日向(ひなた)」、はんてんの地色と同じ色で、字の周りが白く縁取りされているのは「影」と呼ぶそうだ。

 ついでにもう一つ。線路の前に立つ石の鳥居は、昭和8(1933)年12月、地元の篤志家が寄贈した。その物語をブログに書き、いわき民報にも転載した。

宮司さんに請われて新聞コピーを進呈すると、さっそくコピーして出席者に配布した。私にとってはハプニングながら、望外のPRになった。

2026年5月15日金曜日

6次化商品

                                          
 楢葉町で農家レストランを営んでいる知人が、平へ来たついでにわが家へ寄っていく。カミサンと茶飲み話をして息抜きをするのだろう。

 ありがたいことに、いつも晩酌兼晩ごはんのおかずを持参する。新鮮な野菜にひと手間加えたやさしい味が年寄りにはぴったりだ。

 先日は食べ物ではなく、「楢葉の風」という箱入りの特別純米酒(4合瓶)をちょうだいした。楢葉の新しい地酒である。

今年(2026年)の販売が始まり、テレビや新聞が取り上げた。記事を含めて、あらためてネットで確かめた。

それによると、楢葉町で栽培された酒米「夢の香(かおり)」を使い、楢葉町の姉妹都市である会津美里町の酒蔵「白井酒造店」で醸造した。

東日本大震災と原発事故がおきたとき、楢葉町民の多くが会津美里町に避難した。その縁による。

酒造店の社長が、農業が受けた甚大な被害を知り、一刻も早い復興を願っていた。やがて楢葉の酒プロジェクト委員会が発足すると共感し、酒造りに協力することになったという。

 書は書家金澤翔子さんが担当した。いわき市遠野町に「金澤翔子美術館」がある。遠野に開設されたのは東日本の復興を願ってのことだ。やはり、その延長で揮毫(きごう)したのだろう。

ついでながら、5月10日のNHKローカルニュースで、いわきのハタチ酒プロジェクトの田植えが取り上げられた。酒米は福島県が開発した「夢の香」。「楢葉の風」と同じ酒米だった。

 3・11以後、福島県内の浜通りを中心に、日本酒だけではなくワインやクラフトビール、クラフトジンといった新しい醸造文化の動きがみられる。

 いわきでも川前にクラフトビール「カワマエール」が誕生した。「楢葉の風」も同じ文脈で商品化されたとみてよい。

 それと前後して、平・平窪の「やさい館」で新タマネギを使ったドレッシングを見つけた。

いわき市の隣郡・双葉地区のタマネギを使用したドレッシングで、JAのふたば地区本部が販売元になっている

最初は野菜サラダにかけすぎたが、適量だとさっぱりしていい味だった。前に宅配で取っていた元シェフ特製のドレッシングに近い地産ドレッシングでもある。

「楢葉の風」と「玉ねぎドレッシング」=写真=は、いわば同じ双葉郡内発の6次化商品だろう。

これはもう被災地支援とか、復興応援とかの話ではなく、一般の商品と同じように好みと値段の問題である。口に合って安いから買う、でなければ買わない。それだけの話だ。

そうそう、最近よく行く直売所から新タマネギを2個、おまけにもらった。スライスして生で食べるといい、と教わった。

一度絞ったものにかつお節を振りかけ、醤油をかけると、いいつまみになった。ほんのり辛みがあって焼酎が進む。四里四方というか、同じ生活文化圏内の食材はやはり気持ちをやさしくする。

2026年5月14日木曜日

傘・羽・毛布

                                            
 「うわー、虫がいっぱい落ちてきたー」。カミサンが大声で助けを求める。すぐピンときた。

 家の東側にある生け垣のマサキを剪定していたら、ミノウスバの幼虫が糸を引いて垂れさがったのだろう。

 見るとそうだった。ミノウスバの幼虫がいっぱい、マサキの葉から糸を引いて宙に浮かんでいた。

 糸を切って幼虫を1匹1匹地面に落としていたのでは間に合わない。また幹に取り付いて這いあがる。

 前にこうもり傘を開いて宙に浮かんだ幼虫をまとめてそこに落とし、あとで始末したことがある。その手を使うしかない。

 開いてひっくり返した傘の柄を左手に持ち、右手に庭ボウキを持ってマサキの枝葉をたたくと、幼虫が糸を引いてバラバラ落ちてきた。

 これを繰り返しているうちに、やっと落ちる幼虫がいなくなった。この間ざっと20分。傘の内側にはちぎれた枝葉とともに、ミノウスバの幼虫がうようよしていた=写真。

冷たいようだが、マサキの葉を守るためにはミノウスバの幼虫を退治するしかない。この「捕物」にはとにかく傘が有効だ。

捕虫網も殺虫剤もない。が、虫を退治しないとあとあと大変なことになる。とっさに思い浮かんだのがこうもり傘を「受け皿」にすることだった。

 ある年、初夏なのに葉が食害されて丸裸になった。それに懲りて傘の利用を思い立った。

 それと同じで、日常のほかの場面でもモノがなければ別のモノで代用する。たとえば、電気ひげそり。ときどき小さな専用ブラシで刃を掃除する。

 そのブラシがどこかに消えた。夏になってこたつのカバーを取り外したときにでも出てくるのだろう。

 それを待っているわけにはいかない。何で代用するか。目の前の筆入れにカラスの羽があった。

ふだんはパソコンの画面や眼鏡、キーボードの小さなほこりを払うのに使っている。これをブラシ代わりにしたらどうか。

正解だった。羽毛はしなやかなうえに強い。専用の小さなブラシよりかえっていいかもしれない。刃がきれいになった。

「なにがなんでもブラシが必要」ではなく、「なければないなりに」である。代用できるものがあればいい。身近なモノで用をすませる。

日常のほころびはそうして、いくらでも取り繕うことができる。夜、寝ていて足が冷えたときもそうだ。

たいていは毛布と掛け布団がずり上がって、足が夜気に触れているときにそう感じる。

冷えるのを防ぐために敷き布団の下に毛布を差し込んだら、夜気が遮られた。それで足の冷えもおさまった。

ひげそりだってそうだ。ひげが白くなって目立たたないのをいいことに、2日に1回から3~4日に1回のサイクルに変えた。

まずは電気ひげそりを当てたあと、入浴しながら安全カミソリで深剃りをする。これだと安全カミソリの刃が古くても痛くない。長持ちさせるための「合わせ技」でもある。

傘・羽・毛布プラス合わせ技。本来の用途のほかに応用を効かせる。それで暮らしがうまく転がっていけばいい。

2026年5月13日水曜日

文庫本2冊

                                
 カミサンの茶飲み友達が「読んだから」と文庫本を置いていった。沢野ひとし『ジジイの片づけ』(集英社文庫、2025年)。

 それを晩酌が始まったときに、カミサンが差し出して言う。「『あなたに』って言ってたわけではないけど」

 本のタイトルを見た瞬間、「ジジイを片づける?」。そう早とちりした。カミサンが私の表情を見て、急いで抑えにかかる。「ジジイを片づけるんじゃなくて、ジイサンがやれる片づけの本」

 『ジイジの片づけ』ならほんわかした気分にもなるが、「ジジイ」ではいくら著者の自虐語とはいえ、ムッとくる人もいるだろう。

沢野ひとしは「ヘタウマ」と評される線画が特徴のイラストレーター、という程度の印象しかない。

作家椎名誠とは高校時代からの友達で、椎名誠の本にもイラストを寄せている。それで椎名誠とセットで名前は知っていた。

 それからすぐの日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、マチへ戻っていわき市立美術館の「堀内誠一展」を見た。

 名前の知られた絵本作家・アートディレクターである。さぞや来館者でいっぱいだろう。美術館の駐車場が満パイだったらどこに止めようか。そんなことを案じながら駐車場に入るとガラ空きだった。なんで?

堀内誠一は女性雑誌「anan」(1970年創刊)のロゴマークをデザインしたことで知られる。

 カミサンにとっては青春の象徴のような雑誌だが、「平凡パンチ」派の私は全く縁がなかった。

表紙のロゴマークは強く印象に残っている。むろん、その作者が堀内誠一だったとは当時、知るよしもない。

絵本作家としても活躍した。とはいえ、作品はほとんど見ていなかった。展示物で唯一、懐かしさを感じたのは宮沢賢治の童話「雪わたり」の表紙絵だ。この童話絵本を手に取った覚えがある。

名前だけは超有名だが、作品が思い浮かばないのはアートディレクターとかデザイナーとか、シロウトにはよくわからない業態の仕事をしていたからだろうか。

あまりにも消化不良なので、美術館1階のギャラリー広場で開かれている堀内誠一関連グッズ販売コーナーから、『父の時代私の時代――わがエディトリアル・デザイン史』(ちくま文庫、2023年)を買って読むことにした。たまたまアート系の文庫本が短い間に2冊そろった=写真。

『ジジイの片づけ』は、目次からするとジジイにとどまらず、一般の家庭の片づけにも通じるノウハウ本のような印象だ。すぐできるようなことがあれば、それを参考にしよう。

堀内誠一の自伝の方は、日本の商業デザイン史の一断面とみることができるかもしれない。

いずれにせよ、未知の分野の読み物ではある。これからじっくり読むことにする。

2026年5月12日火曜日

ヤブガラシの芽と土の「ふた」

                                  
 毎朝、庭で歯を磨きながら地面を見ている。そのことを前に書いた。これもその一コマ。

 放っておくと新芽が延びてそばの木に絡みつく。ヤブガラシはそれで繁殖するが、本体の生け垣(マサキ)は光合成を阻害される。

 ヤブガラシの赤い新芽はボールペンの先端くらいの太さしかない。それが地面を突き破って地上に現れる。

 毎朝、赤芽を摘んでいてわかったのだが、先端には光合成をするための葉の赤ちゃんが眠っている。芽が伸びるとすぐ葉が開いて緑色になる。

 摘んでもつんでも、次の日にはまた芽が出る。ほんとうによく現れる。ヤブガラシに限らない。植物の発芽と再生能力はみごとというほかない。

しかも、土よりやわらかい植物体が土のすき間から針のような芽を出す。なかには土の塊を持ち上げる芽もある=写真上1。まるでモグラがマンホールのふたを頭でぐいとやったような感じだ。

そんな小さなドラマを見ているうちに、足元に広がる地面にも興味がわいてきた。土とは何?

ちょっとしか離れていないのに、なぜ発芽の仕方が違うのか。地面の土の構造が影響しているのか。

 実はもう1年以上前になるが、『土と生命の46億年史――土と進化の謎に迫る』(ブルーバック)=写真上2=を買って読んでいた。今も時折、読み返す。

著者は土の研究の第一人者、藤井一至さん。原発事故で汚染された農地の再生を報じる新聞記事で知ったのだが、藤井さんは今、大熊町の農地で土壌分析の協力をしている。

土の専門家が福島県の土壌を調べている。それだけで心強く思うのは、土と植物、キノコの関係がいつも頭にあって、その流れで藤井さんを知っていたからだ。

「土とは岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐植の混合物」と藤井さんはいう。

この定義に従えば、板状に結びついていた土は、ほかの土よりは粘土分が多かったのだろう。

土だけでなく、キノコもまた進化の過程でさまざまに変化した。マツタケのように松の根と共生する菌根菌もあれば、シイタケのように樹木を分解する腐朽菌もある。

「樹木の巨大化が引き起こした土壌酸性化はキノコの進化を促し、今日の森の物質循環が成立するようになった」ともある。

わからないなりにキノコや植物と土の関係にも興味を持っていたことが伏線になって、ヤブガラシが板のように固まった土を持ち上げている姿に「オヤッ」となった。そこから藤井さんの本を思い出した。

ごく普通の家の庭でも、足元に目を凝らすと地球史にも通じる自然の不思議が見えてくる。

2026年5月11日月曜日

「思い出すこと」

                                
   好間町榊小屋の好間川沿いに「ギャラリー木もれび」がある。オーナーの菊田清二さんは、平・祢宜町のセブンイレブンの経営者でもある(今は息子さんに代替わりしたようだ)。

ギャラリーオーナーとして知り合い、コンビニも経営していると知ったとき、店に初めて買い物に行った話をした。

当時、私らは平・下平窪に住んでいた。深夜まで営業する? 興味がわいて、子連れでコンビニをのぞいた。

その後、私たちは平・中神谷へ引っ越した。菊田さんも同じ小学校の学区内に住んでいて、奥さんの英子さんとカミサンがPTAつながりで知り合った。

私もやがて英子さんと「木もれび」や自宅近くの夏井川の堤防であいさつを交わすようになった。

5年前の令和3(2021)年師走、菊田さんが経営するコンビニのチラシが新聞に折り込まれた。

チラシには夫婦連名の「あいさつ文」が載った。「新しい小売業態としてのコンビニエンスの経営に飛び込んで45年になりました。(略)すぐそばにある便利なお店として、これからもお役に立っていきたいと思っています」

出会いの妙というか、偶然の「コンビニ探検」がやがてPTAとギャラリーを介してつながった。

それを踏まえて折り込みチラシの話をブログに書いた。以下の一部も同じブログに書き留めた。

――ギャラリーは、平成17(2005)年に菊田さん夫妻が開廊した。菊田さんの会社のホームページによると、社業はコンビニ部門自然エネルギー部門不動産管理事業――とあって、4番目にギャラリー木もれびが紹介されている。

内容は「いわき市の芸術家の活動の場の無償提供、宣伝、広告とボランティア活動」、つまりは企業メセナ(見返りを求めない芸術文化支援)だ。

「木もれび」は、経済と文化(美術)を往還する菊田さんの思いをエンジンにして、ボランティアが運営を担っている。知人らがそのメンバーに加わっている――。

折り込みチラシは「夫婦連名」。このことが今思い返せば、いかにも菊田さんらしい。

菊田さんの人生の伴走者だった英子さんが令和5(2023)年師走に亡くなる。翌年、菊田さん英子さんの追悼集『思い出すこと』を出した。さらに、それをベースに画文集を出版した=写真。

追悼集は英子さんの死後、英子さんを思い出してつづった文章を、菊田さんの知人が冊子にまとめた。

画文集は「木もれび」の運営にも携わっている元ギャラリー界隈オーナーの佐藤界さんが書と絵を担当した。

先日、菊田さんからこの冊子の恵贈にあずかった。不思議なことだが、菊田さんと顔を合わせると、いつもそばに英子さんがいるような気がしてならない。

菊田さんの脳裏に生き続けているのはもちろん、その思いがあふれてくるからだろう。

2冊の本を読んで、それが間違いではなかったことを確認した。これほど率直な「亡妻記」を読んだことがない。