2013年3月28日木曜日

土蔵改修


いわきの農産物に詳しい篤農家、平北白土の塩脩一さんの家を知人と訪ねた。大震災後は初めてだ。塩さんの義弟でもある知人から電話がかかってきた。「土蔵からみそをつくるときに使った大きな釜がでてきた。夏井川渓谷の家(無量庵)の庭にどうだろう、と言っている」という。

釜は土蔵の前にあった。大きい。五右衛門風呂級だ。みそのもとになる大豆を煮た。それはそれでおもしろい。が、興味をそそられたのは白壁の土蔵=写真=だ。大震災でかなり傷んだ。今はきれいによみがえった。「直すのに900万弱かかった」と事もなげにいう。

塩家は土蔵も、母屋も、納屋もどっしりとしている。母屋は明治6年に建てられた。今度の大震災では梁の上の壁にすき間ができた。それらをコーティングしたあとがくっきりと残っている。土蔵は、大正10年に改築された記録がある。こちらも造られたのは明治初期ということになろうか。まさに旧家の風情が漂う。

塩家の土蔵は田畑よりはだいぶ高い。母屋よりも少し高くなっている。家の裏を夏井川がカーブしながら流れている。昔は大水にも見舞われた。そのため、土蔵に川船を常置していたという。

夏井川の上流、小川町にカミサンの親戚の家がある。塩さんの家と同じような、白壁の土蔵があった。扉の両側には米俵やネズミ、高窓には巾着のこて絵が描かれていた。土蔵全体が大震災でゆるんだ。直せばやはり結構なカネがかかる。それで、こて絵は残したものの、修繕をあきらめて解体した。

塩さんは80代後半。農人としての意地と誇りが土蔵を再生させたのだろう。

2013年3月23日土曜日

三和なごみハウス


先日、オープン間もない「三和なごみハウス」=写真=を訪ねて、てんぷらざるそばを食べた。NPO法人シニア人財倶楽部が運営する「素人手打ちそば」の店だ。いわき市の中心市街地(平)から車で30分、国道49号沿いの比較的大きな集落(三和町渡戸字宿)の一角にある。

空き家(旧呉服店)を活用した。福島県緊急雇用創出事業(6次産業化による三和地域コミュニティ活性化モデル事業)で、近所のお母さんたちが働いている。首都圏の学生たちも改装に協力した。

店とそば道場のほか、別棟に惣菜工場がある。惣菜は都市部にある住宅団地や、被災者が住む応急仮設住宅での移動販売に供される。この移動販売は、いわゆる「買い物難民」のために震災前から実施している。

こうした活動が認められて、同倶楽部は平成24年度「オーライ!ニッポン大賞」(都市と農山漁村の共生・対流推進会議、農水省が主催)の審査委員会長賞を受賞した。

そばは文字通りの「素人手打ち」だ。それを承知でマチから足を延ばす。ついでに、ちょっと先の直売所「ふれあい市場」まで行って、三和の野菜や漬物を買う。そうした時折のドライブが、過疎化・高齢化が進む中山間地の応援になる。

2013年3月21日木曜日

墓参り


春分の日(3月20日)にカミサンの実家の墓参りをした。いわき市の内陸部にある。3・11に墓石が倒れたり、ずれたりした。周囲の墓石もあらかた倒れた。2年がたつ間に少しずつ復旧していった。小さな墓地である。見渡したら、3・11のままなのは一つか二つだった=写真。ウグイスの初音を聞いた。

春と秋の彼岸に墓参りをする。それはしかし、日々の営みが無事に続くからこそ。3・11直後は原発事故のために避難し、墓参りが春分の日のあとになった。今年はまた、原発事故を強く意識する墓参りになった。

福島第一原発で18日夜に停電事故が起き、燃料プールなどの冷却ができなくなった。墓参りを終えて実家に戻ると、きょうだいでその話になった。2年前の建屋爆発のテレビ映像がよみがえる。「今度は(すぐには)避難しない、孫たちは避難させるけど」「私も(避難)しない」

「事故は収束した」とか「状態は安定している」とかいわれても、だれも額面通りには受け取っていないのだ。

トラブルは29時間後に解消されたが、原因は仮設の配電盤にネズミがしのびこんだためらしいとわかった。ネズミ一匹で世界が凍りつく。開高健ではないが、野原がたちまち断崖に変わる。それが「収束作業」の実態なのだと、あらためて知る。線香をあげて祈るしかない。

2013年3月19日火曜日

イノシシ、畑を耕す


久しぶりに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。庭の片隅にある畑を見て唖然とした。梅の木の下、4畳半くらいのスペースがほじくり返されていた=写真。イノシシが現れたのだ。

大震災以後、三春ネギ以外は栽培を休み、生ごみを埋めるだけにしていた。毎年2カ所から芽を出すヤマイモも、大きくなるのを楽しみに残してある。このヤマイモとミミズを狙ったか。

畑の一角にスイセンを植えたとき、プラスチックの半円の柵をかけた。その柵がふっとんでひっくり返っていた。スイセンは一部掘り起こされていたものの、あらかた整然としている。有毒だということを体が知っていて回避したのだろう。

夏井川渓谷には小集落が点在している。そのすべてにイノシシが出没する。田畑をトタンやネットで自衛している農家もある。土手や空き地がほじくりかえされているのを時々見かけるが、最近はその規模、程度が半端でない感じを受ける。わが畑も執拗にほじくりかえされていた。

そろそろ耕さないと、と思っていた矢先だった。クワを打ち下ろすだけでハーハーいう身には、猫の額ほどの面積でも一日がかりになる。実害もない。ここは、イノシシが代わって畑を耕してくれたのだと、感謝することにしよう。

2013年3月17日日曜日

煙霧と南風


この時期、風と視界の悪さがセットになることがある。見通しの悪い原因は黄砂かと思ったら、煙霧だった。1週間前の日曜日(3月10日)がそうだった。朝から南風が吹いて気温が上がり、遠くの山並みがかすんで見えた=写真。小名浜の気象データによれば、早朝はもやがかかっていたのが、10時半近くには煙霧に変わった。

2年前の3月14日、福島第一原発・3号機の建屋が爆発したときも、いわきでは南風が吹いていた。11日に発生した大地震の余震が続くなか、12日に最初の爆発事故が起きる。福島中央テレビが白い煙をとらえた。14日も同テレビが爆発の瞬間をとらえた。黒い煙だった。

わが家は、津波被害に遭った沿岸部からは5キロほど内陸部にある。家はあとで「半壊」の判定を受けたが、住むには支障がない。いわきのハマ(沿岸部)とマチ(内陸の平野部)では、明暗が分かれた。さらに、福島第一原発からは南に40キロほど離れている。放射能に対する無知があった。

3号機の建屋が爆発したとき、あずかった2人の孫と庭で遊んでいた。南風に誘われてのことだった。父親が事故の直後、走って家に来るなり「中に入れて!」と叫んだ。それもあって、「南風が吹いた日に3号機が爆発した」という記憶が胸に深く刻まれた。

煙霧という気象用語を初めて知った。2011年3月14日も南風とセットで煙霧が発生していたのではないか。小名浜の気象データをチェックしたら、図星だった。小名浜では、北寄りの風が朝8時ごろから南風に変わり、気温が上昇するとともに見通し(視程)が悪くなった。煙霧が朝から断続的に記録されていた。

その日の煙霧には、最初の事故でまき散らされた放射性物質が含まれていなかったかどうか――。春になって南風が吹くたびに、2011年3月14日のわが家の庭を思い出す。

2013年3月13日水曜日

「3年目」の始まり


今年の3月11日は、イトーヨーカドー平店にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ足を運び、午後2時46分に利用者やスタッフ・ボランティアとともに黙祷した。このあといったん帰宅し、豊間海岸で行われるキャンドルナイトに出かけた。

キャンドルナイトは二本立てだ。脚本家倉本聰さんが率いる「富良野グループ」によるロウソクの明かりと、地元の「とよま龍灯会」が準備したロウソク絵文字「ふるさと とよま」の明かりと。豊間地区の東日本大震災3回忌法要セレモニーの一環だ。絵文字は今年、「ふるさと」の4文字が加わり、ロウソクの数も増えた。

先日、旧知の龍灯会の代表から電話があった。去年と同じく、かたちばかりだがロウソクを燭台にのせる手伝いをした。「ま」に割り振られた。やや風が強く、消えるロウソクもあって、スタッフはロウソクの再着火に苦労した=写真

去年同様、マスメディアが大挙、取材にやって来た。“倉本効果”だろう。旧知の地元記者諸氏はもちろん、著名なテレビのキャスターもいた。手伝いのついでに、彼らの動きをウオッチングした。

きのうの続きのきょうが過ぎ、きょうの続きのあしたがくる。とはいえ、3・11はやはり特別の日だった。3月に入ると気持ちが落ち着かなくなり、11日が近づくにつれて追い詰められたようになった。

去年もそうだった、「3・11が終わるまでは」。区切りのキャンドルナイトが終わって、「3年目」が始まった。まずは先送りしていた用事を片づけないと――。

2013年3月11日月曜日

被災地訪問ツアー


NGOのシャプラニールによる被災地訪問ツアー「みんなでいわき!VOL.2」が3月9~10日に行われた。首都圏を中心に、遠くは山口、兵庫県、大阪府などから19人が参加した。

一行は初日、シャプラニールが運営している被災者のための交流スペース「ぶらっと」を訪れ、利用者と対話・交流した=写真。翌日は「なこその希望ウォーク」に受け付けボランティアを兼ねて参加した。

東日本大震災から2年の節目に、犠牲者を悼むとともに、いわきを肌で感じてもらおう、という企画だ。

いわき市は沿岸部が津波で甚大な被害を受けた。加えて、原発避難者が多く住み、原発事故の収束作業のトリデにもなっている。そうしたいわきの複雑な現状に少しでも触れてほしい――そんな思いが、一行を迎える側にはある。

初日、「ぶらっと」での交流会をのぞき、夜の懇親会に参加した。昨年2月の「フィール!いわき」、平七夕まつりに合わせた「みんなでいわき!VOL.1」に続き、今回もいわき訪問ツアーに参加した人がいる。東京などでのイベントで顔なじみになった人もいる。まるでいわきに親戚がいるかのように通ってきてくれる。

大震災への意識の風化が言われる。「被災地のことを忘れている」と神奈川へ避難してきた人が怒っていた、どう思うかと聞かれたので、「忘れるほど被災地のことを考えていてくれたのかな」と応じた。最初から考えていないのだから忘れることもない――というのは暴論だが、被災地からの距離や時間の経過が意識の風化をもたらしているのは事実だろう。

それは仕方ない。私が首都圏に住んでいるとしたら、ふだんは「被災地のことを忘れている」に違いない。あるいは「忘れているようにみえる」に違いない。だから、こうしていわきに思いを寄せて訪問してくれる人たちがいることをありがたく思う、とも付け加えた。

大震災以後、「震災縁」とでもいうべき新しいつながりができた。そういう人たちが一人でもいる限り被災地は忘れられていない、と私は思っている。今度のツアー参加者との交流でも、それを実感した。

2013年3月9日土曜日

車の屋根の粉塵


車の屋根やフロントガラス=写真=が粉塵でうっすら白くなっていた。春になるとたまに起こる現象だ。スギ花粉か、黄砂か。加えて、微小粒子状物質「PM2.5」が西の方からしのび寄っている。

暖かい南風が吹いたきのう(3月8日)、カミサンが縁側に出て本の片づけを始めた。すると、すぐくしゃみを連発した。粉塵が浮遊しているのだろう。玄関と縁側のガラス戸を開けておいたせいか、私も茶の間にいながら鼻腔がぬれてくるのを感じた。

今朝は西風が吹き荒れている。粉塵はどうか。わが鼻腔は少し湿っている。カミサンは、台所でくしゃみを連発した。大地震で「半壊」になり、ただでさえ「低気密・低断熱」の家が、さらに低気密になった。家の中にも粉塵が入り込んでいるようだ。鼻腔の湿りやくしゃみが花粉症の前兆でなければいいのだが。

花粉症のためにマスクをしている人が目立つようになった。今春はさらに、黄砂とPM2.5を警戒してマスクをする人が増えるだろう。

2年前の3月後半は、多くの人が放射性物質を恐れてマスクをして歩いていた。われらも再びマスクをしないといけない事態になるのだろうか。

2013年3月7日木曜日

郷土資料のページ


いわき市立図書館が1カ月の臨時休館を経て、3月1日に再開された。早速、いわき駅前の総合図書館へ出かける。待ちに待った人たちでにぎわっていた。同時に、隣組の回覧を通じて配布された「広報いわき」3月号の特集記事で、電子化された郷土資料があることを知る。

図書館のホームページを開き、<郷土資料のページ>をのぞく。新聞・地図・絵はがき・企画展示・その他――の5つのジャンルがあった=写真。「新聞」に引かれた。大正~昭和時代に発行された郷土紙がある。いわきで最初に発行された民間新聞「いわき」(明治40年)もある。必要な記事は拡大して読める。

いわきの詩風土に種をまいた詩人山村暮鳥は、大正元年9月から同7年1月までの5年3カ月間、磐城平で過ごした。暮鳥を軸に、いわきの「大正ロマン・昭和モダン」を調べている人間にとっては、この「電子新聞」の公開はありがたい。いちいち図書館へ出かけて閲覧の手続きを取らなくて済む。疑問や不明な点をその場で確かめることができる。

実は、個人的にずっと宿題にしていたのが、この閲覧だった。先行する郷土の文学研究、新聞研究に引用されている新聞記事について、必ずこの目で確かめること――学恩を受けながらも、「現物」に触れないことには引用が正確かどうかわからない、という思いがあった。

休館中に図書館情報システムの更新作業が進められた。まだ蔵書検索ができないなど、完全に新システムに移行したわけではない。が、電子化された郷土資料についていえば、市民どころか万民共有の「情報」になった。いわきの図書館独自のサービスといってもいいのではないか。

2013年3月4日月曜日

いわきの秘湯


土曜日(3月2日)、旧友6人プラス奥方2人と、いわき湯本温泉の奥座敷、白鳥山温泉喜楽苑=写真=に泊まった。師走に私が体調を崩したのを心配し、見舞いを兼ねて一献の集まりになった。顔を出せる人間は、旅館へ行く前にわが家へ立ち寄った。

平のわが家から常磐白鳥町の喜楽苑までは車でざっと30分。街なかの湯本温泉がそうであるように、平の人間がたびたび行くには遠く、泊まるには近すぎる。すぐそばに「馬の温泉」がある。福島県内で最も早く梅が開花する温泉宿としてメディアが取り上げる春木屋旅館とも接している。

仲間の一人が騒いでいたので分かったのだが、喜楽苑は「日本秘湯を守る会」の会員旅館だそうだ。田園地帯の小丘に位置する。鉱泉宿、つまりは湯治場だ。

今は近くに「フラガール」の殿堂、スパリゾートハワイアンズが立つ。常磐道のいわき常磐ICに直結するバイパス道路が田園を貫通している。車社会が到来して以後、「秘湯」というイメージからは遠くなった。

駐車場(40台収容)にずらりと車が止まっていた。市外のナンバーが多い。「秘湯を守る会」の会員か、はたまたハワイアンズが目的の一般の客か。「週末はいつもこうですか」。フロントで尋ねると、そうだという。「でも、平日はガラガラ……」。翌朝は30人ほどが一緒に食事をした。小さい子を連れた若い家族もいた。

いわき市の内陸部は3・11より、1カ月後に起きた直下型の余震で大きく痛めつけられた。ハワイアンズがそうだった。旅館の下手に“旧館群”がある。今は使用していないという。屋根がやや歪んで見えたのは余震の影響だろうか。

山の傾斜を利用してもうけられた宿泊棟や露天風呂を渡り廊下がつなぐ。「大浴場」「露天風呂」「鉱泉」に入った。「鉱泉」はやや濁っていて、重い。この濁りと重さに仲間が感動した。濾過したほかの湯とははっきり違う。いわきの人間にとっても、灯台下暗し、「いわき再発見」と言ってもいいような「鉱泉」だった。