2014年1月26日日曜日

豊間の俯瞰図

 ときどき農文協の『福島の食事』(1987年刊)を開く。ふるさと(田村市常葉町)の「阿武隈山地の食」と、いわき市の「石城海岸の食」が載っているからだ。「石城海岸の食」は平豊間で聞き書きしたものがベースになっている。豊間は塩屋埼灯台の南側に位置する。その俯瞰図=写真=が目に留まった。
 
 右下、灯台の近くに話者の「鈴木さん」の家がある。その奥には船主の家。海に面して家があるが、あらかたは防潮林と畑が占める。一角に番屋があり、内陸の道路に沿ってかやぶき屋根の家が並ぶ。防潮林と畑が宅地になる前の、豊間の浜のイメージ図だ。実景ではない。ここが大津波に襲われた。
 
 それはさておき、「フードは風土」だと私は思っている。語呂合わせにすぎない、といわれればそれまでだが、在来作物と伝統食に思いをめぐらすとき、いつもこの言葉が頭に浮かぶ。

 なぜ在来作物がつくられてきたかを、山形大の江頭宏昌さんは四つに分けて解説する。すなわち、①食料確保(特に冬季)のため=江戸時代だけでも寛永・享保・宝暦・天明・天保期に大きな飢饉が起きている②地域を元気にするため③楽しみの共有のため=例えば、月遅れ盆に帰って来る孫のためにつくる④家宝・地域の宝として――。

 フード(在来作物・魚介類・鳥獣)は風土(地域)によってつくられた。風土はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ。すまいも、すまい方も、すまう場所も同じだろう――。豊間の昔の俯瞰図、おそらく昭和30年代まで変わらずにあった浜の暮らしに、住宅地として激変した大津波の前の浜の姿を重ねあわせながら、そんなことを思った。

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