2014年1月24日金曜日

にほん風景物語

 昨年(2013年)暮れ、BS朝日「にほん風景物語」の<ふるさと福島 川内村・いわき小川郷~詩人・草野心平が詠んだ原風景>を見た。つい3日前の1月21日には再放送があった。
 
 番組のなかで、いわきが誇る景勝・背戸峨廊(せどがろ)を紹介した。それはいいのだが、字幕でわざわざ「背戸峨廊」に「せとがろう」と間違ったルビを振っていた=写真。前段で「せと(ほんとうは、せど)=山の裏側」「がろう=加路(かろ)川から山の裏側の川」とほぼ正確に説明していただけに、詰めが甘かった。
 
 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。

江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は記す。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃(ぶ)ちや、釣り人以外には知られていなかった」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せどのがろ)=裏の加路川」だった――。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――これが真相である。

 にしても、いつから間違って「せとがろう」と呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は辞書でも「せど」だ。古い言葉だが、方言ではない。テレビ・ラジオで「せとがろう」と誤称され、雑誌や書籍でもそう誤記されるようになった、後先はわからないが、市民も「せとがろう」と口にするようになった。誤称・誤記の“共鳴”が今も続いている。
 
 誤称・誤記を正すのもまたメディアであり、市民である。いわき市立草野心平記念文学館の役目も大きい。その点では、詰めが甘かったとはいえ、今まで見たテレビ番組のなかでは一番事実に迫っていた。そういう評価もできる。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

紅葉色に染まった小川郷の遠い山並みはテレビ越しとはいえ心に響いた。昔みた風景に懐かしさもあったのだろう。

あの平伏沼も天山文庫も新鮮に見えた。

川内村は避難区域が解除されたとはいえ以前の感覚とは違う。遠くなった気がしてならない。

草野心平の名は知っている。だが詳しくは知らない。知れば知るほど驚くことばかりだ。

違っていたのは、小川でお金を借りまくり川内村へ逃げたと子供のころから聞いていた。しかし、当時、慶應大学から中国の大学へ進学する子息はまれだ。なぜお金がないのか?裕福な家庭だったのだろうか?

それにしても、草野心平を語る良い番組だった。記念文学館に訪れた観光客にこのDVDを買ってもらえば、川内村のいわきの草野心平の良さが草の根で全国に広がって行くのにと思ってやまない。