8月に入ると決まって故義父の句集『柿若葉』を開く。三回忌に合わせて1999(平成11)年4月に出版した。
なかに「八時十五分車中で合掌原爆忌」がある=写真。その前後には「原爆忌老兵いまだ消えざりし」と「敗戦の記事の破れし古新聞」が載る。
8月。6日広島。9日長崎。そして、15日敗戦。今年(2025年)は「戦後80年」、つまりは「被爆80年」に当たる。
6日の広島平和記念式典はいつものようにテレビの生中継で見た。こども代表の「平和への誓い」、広島市長の「平和宣言」、首相と県知事の「あいさつ」を聞いた。
なかでも知事のあいさつには共感した。(翌日すべての文章が新聞に載ったので、切り抜いて保存し、時々読み返すことにする)
「国守りて山河なし」。原詩は中国の詩人・杜甫の「春望」で、五言律詩の最初の1行に「国破れて山河あり」が出てくる。ネット上の解説を借りる。
国は滅びてしまったが、山や川は昔と変わらずにある。戦乱や災害などで国が破壊されても、自然はちゃんと残っている――。
知事はこれを逆転して用いた。「もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます」
続けて「概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう」。
地球温暖化が言われて久しい。自然環境が悪化し、先々懸念される事態になってきた。「山河なし」は、まずそのことを象徴する言葉としてとらえることができる。
そして、核抑止力を声高に叫ぶ人たちが増えていることへの懸念。「歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです」
ずっとあった頭の中のモヤモヤが一気に晴れた。そうだ、これなんだ!という、発見にも似た思い。
「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力」。この三つ目の民衆と呼応しあうのは、私もメシを食ってきたマスコミだ。
半藤一利『新版 戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)から、先の戦争の「愛国報道」を拾う。
「当時の日本人が新聞と放送の“愛国競争”にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない」
メディアはお先棒をかつぎ、国民もまたそれに呼応して愛国を叫ぶ。権力にとっては好都合の状態だった。それを忘れてはいけないということだろう。
「戦後」が「戦後」としてずっとあるためには何が必要か。国民的熱狂には染まらない。まずはその覚悟を持つことだと自分に言い聞かせる。
0 件のコメント:
コメントを投稿