平・山崎の専称寺が「梅の寺」として知られるようになったのは、箱崎昇吾翁(平中神谷)が昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて梅の木を植え続けたからだった。
いわき市立図書館がデジタル化した地域新聞を、若い仲間が組み立てた「いわき文献案内」を利用して、キーワード(「専称寺 梅林」)検索をしたらすぐわかった。
昭和36(1961)年2月20日付の常磐毎日新聞が「春を呼ぶ一千本の梅林/箱崎氏の悲願実る/市も観光誘致に本腰」と伝え、同48(1973)年1月26日付のいわき民報に、小川町の中條実さんが「専称寺の梅林と箱崎昇吾翁」と題して寄稿している。
それをブログ(2月4日付「専称寺の梅林」)に書いた。そのときは触れるのを控えたが、箱崎翁は梅林以外にも寺社への寄進を行っている。
中條さんによると、箱崎翁は昭和8年まで国鉄に勤め、田地10アール当たり2百円前後の時代に2千円余の退職金を得た。
これを資金に、翁は①専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの橋を架ける②同寺境内に梅を植樹する③大円寺に石門を建立する④立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を建立する――ことを決めた。
大円寺は専称寺末で箱崎翁の菩提寺でもある。夏井川の堤防まで歩いて行くと、集落のなかに墓と石門があり、奥に本堂が見える。
立鉾鹿島神社と出羽神社は小学校の近くにある。わが家のある旧道から神社に向かって立鉾の参道が延びる。神社の前を常磐線が横切っている。その線路の手前に石の鳥居が建つ。
まずは寺の石門を見に行く。向かって右側の裏に箱崎翁と奥さんの名前が彫られていたが、風化しているために判読が難しい。
立鉾の石の鳥居=写真=は、やはり向かって右の柱の裏側に箱崎翁夫妻の名があった。鳥居は形式が「明神鳥居」で、6カ所に補強具が取り付けてあった。
その足で近くの出羽神社へ向かう。神社のある丘のふもと、小川江筋の手前に石の鳥居らしいものがあった。
「らしい」としたのは、石柱が途中までしかないからだ。柱が斜めにスパッと切られ、表面に「平成二十三年三月十一日/東日本大震災誌之」とあった。震災遺構というべきか。
上部も残っているなら、石柱の裏側に同じように夫妻の名前などが彫られていたはずだが、これでは確かめようがない。
なにか印は?とみると、向かって左側の柱の裏、基礎部分にプレートがあった。夫妻の名前のほかに「奉納 村内安全 昭和八年十二月」と記されている。
翁の願いは「村内安全」。そして、昭和8年12月を期して、石門と鳥居を寄進した。
日ごろ見慣れている風景の一つだが、それには地元の人間の願いがこもっていた。「きっつぁし」(挿し木=よそから来て住み着いた人間)にも、石の門柱と鳥居のいわれがわかった。
箱崎翁はわが家の近くで暮らしていた。身近なところに、高い志を持って行動した人がいた。あらためてそのことを胸に刻む。
0 件のコメント:
コメントを投稿