2026年10月3日土曜日

10月1日の回覧

                                
   10月1日はいわき市が誕生した日。市は同日、平・一町目のワシントンホテル椿山荘で市制施行60周年記念式典を開いた。

こちらは、合併60年に思いをはせる余裕などはない。この日の朝、何度も空を見上げては小雨がやむのを待って回覧配りをした。

月3回( 1、10、20日)の行政資料配布が月2回(1、15日)に変わったのは去年(2025年)の4月。

行政嘱託員の負担を軽減するのが理由だろうが、配る回覧資料はそれに合わせて減るどころか増えた。それまで新聞折り込みだった「アリオスペーパー」が「世帯配布」に加わった。

行政資料には隣組(わが行政区はおよそ30班)の全世帯に配る「世帯配布」と、隣組に1枚だけ配る「回覧」がある。

毎月の「広報いわき」は世帯配布である。これに、偶数月にはやはり世帯配布の福島県の広報「ゆめだより」が加わる。

「アリオスペーパー」は年4回(4、7、10、1月)の発行で、偶数月の4月と10月は世帯配布が3種類となり、それを入れる紙袋をどう確保するか、そのつど悩む。

去年の経験でいうと、最も頭を痛めたのは10月1日付だ。年度の折り返しのため、回覧資料のほかに毎年10月1日現在での世帯数調査が加わる。

隣組によっては年度の上半期・下半期で班長さんが代わる。戸建て住宅はともかく、3~4階建ての県営住宅では交代する隣組が多い。

 老体には、階段の上り下りはきつい。階上の戸口まではとても届けられない。で、1階の郵便受けに資料を差し込む。

そのためにも、新班長の郵便受けの番号=部屋の番号は、9月末までには把握しておきたい。

これは、市の調査が届く前、9月15日の回覧日に締め切りを明示して、自前の調査表を配って対処する。

それで、10月1日付の回覧資料は新班長さんに届けるようにしているのだが、締め切りを過ぎても回答のない場合がある。

そんなモヤモヤしたなかで、今回も行政資料が次々と届いた。世帯配布は3種類のほかに「廃炉を知る」が加わった。つまり、4種類。それに、回覧資料が2種類プラス地元の1種類。

今回はしかし、それで終わらなかった。10月18日の日曜日には秋の市民総ぐるみ運動(清掃デー)が行われる。

前回の春の総ぐるみ運動までは、市から全世帯分より多いごみ袋をもらってきたが、今回は中東情勢の影響から200枚しか手に入らなかった。

全世帯の3分の2である。思案した結果、10世帯未満の隣組は全世帯に、10世帯以上の隣組は世帯数から「おおむね3枚減」で対応した。

結局、回覧資料は大きな紙袋に、総ぐるみ運動関係の資料は別袋にと、袋が2つ必要になった=写真。

幸い今回も県営住宅の郵便受けはすべて開いて、2袋の回覧資料をなんとか差し込むことができた。

終わってみれば、案じた分だけ開放感が倍になり、やっと合併60周年を振り返る余裕もできた。

2026年10月2日金曜日

駐車券が消える

                                
   マチの駐車場はカメラ式のところが増えつつある。それにはまだ慣れない。これに対して、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」は昔ながらのカード式だ。

発券機のボタンを押して駐車券を取り=写真、出るときには精算機に入れて精算する。

 1階の一部と地下1・2階が駐車場になっている。ここが便利なのは、商業フロアで500円以上の買い物と飲食をした場合、あるいは総合図書館や市民サービスセンター、いわき産業創造館、いわき商工会議所を利用した場合、各施設に備えられている機械で駐車券にパンチを入れると2時間無料になることだ。

ラトブは2007年10月25日にオープンした。今年(2026年)で開業19年になる。

たまたま開業日が、会社をやめてフリーになった初日だった。起業した若い仲間に誘われて、ラトブ6階のインキュベートルームの同居人になった。

前職のからみで回ってきた仕事がある。毎日、階下の総合図書館に通い、資料を探し、若い仲間にも手伝ってもらって記念誌を2冊つくった。

その間、日中は2時間おきに地下の駐車場からマイカーを出し入れした。図書館に詰めて資料を探したり、読んだりしていたからこそできたことである。なにより財布を開ける必要がなかったので助かった。

その意味では、50代の終わりから70代後半の今まで、ずっとラトブの駐車場で発券機からカードを取り、図書館でパンチを入れ、精算機にカードを入れて外に出ることを繰り返してきた。

当初は毎日、以後は週1~2回のペースで19年も通っているから、もう2千回近くラトブを出入りしていることになる。

 この慣れが招いた失敗だったかもしれない。いつものようにカードを取り出し、左手の指にはさんだまま、地下2階のいつものスペースに車を止める。と、その瞬間、指からポロリとカードが落ちた。

すぐカードを手で探ったが、緑色の足マットにはそれらしい感触がない。車から降りてマットをひっくり返したものの、車本体のマットは黒いうえに、地下駐車場だから薄暗くてよくわからない。いすを後ろに引いて車の床を手探りしても、やはりわからない。

ここは警備員室から懐中電灯を借りてくるしかないか。それをカミサンに頼んで、私はなおカードを探し続けた。

やがてカミサンが戻って来る。懐中電灯で照らすと……。車本体の黒いマットの上に、カードがひっくり返って黒い磁気面をさらしていた。黒に黒である。老眼にはまったくわからなかった。

一時はどうなることかと慌てたが、懐中電灯ですぐカードが見つかった。カミサンと一緒に警備員室に赴き、ガードマン氏にお礼を述べる。

駐車券が一時的に行方不明になって慌てる人は少なくないらしい。カミサンの茶飲み友達も車内でそれをやり、同乗していた息子さんに見つけてもらったとか。

いい教訓というか、いつもの駐車場に入るにもそれなりに集中力と緊張感が必要なことがよくわかった。

2026年10月1日木曜日

稲刈りがやっと

                               
   秋の長雨と台風で稲刈りが遅れている。台風25号が関東の沖合を通過したと思ったら、26号がほぼ同じコースでやって来た。

幸い途中で勢力が弱まり、予想されたコースが南へそれるらしく、いわき地方は影響を避けられそうだ。

9月27日の日曜日は、2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。その2日前(25日)は晴れ、26日は雨、そして27日は薄曇りときどき薄日の天気だった。

雨がないだけましというか、しのぎよかった。1時間余り菜園の土いじりと草むしりをした。

磐越東線の江田駅を過ぎると、川寄りの田んぼでは稲刈りが終わり、「わらボッチ」がいっぱいできていた=写真。

長雨が続くと田んぼはぬかるんで機械を入れられない。農家では空模様と田んぼの土の湿り具合をみながら、稲を刈るタイミングを計っていたのだろう。

雨の合間を縫って大急ぎで刈り取り、脱穀した(いや、脱穀せずにボッチにして乾燥させる?)――。通りすがりの人間である私も、わらボッチを見てなぜかホッとした。

ほかの田んぼはどうか。マチへの帰り道に田んぼを見ると、まだ黄金色の稲穂が広がっていた。

その中で、コンバインが入っている田んぼが1枚、稲刈りが済んだ田んぼがほんの少しあった。

田んぼによっては一部刈り取りが済んだものの、刈り跡にはコンバインがはまったのか、泥田にへこみができて水がたまっていた。

私が子どものころは、根元から稲を刈って束ね、それを天日に干す「はせ掛け」が行われた。

親せきが田んぼの稲刈りをするというので、祖母とともに手伝いに行ったことがある。

刈り田に設けられたはせに架けるための稲束運びをした。秋も深まるころ、早い夕闇がきて寒かったことを覚えている。

晩秋はわらボッチのある田んぼで遊び回った。その記憶を重ねると、はせ掛け、あるいはボッチにしてから脱穀が行われた――そんな流れが見えてくる。

太った巨人のようなわらボッチではなく、脱穀後の稲わらを三角形にして刈り田に立てるやり方もある。何年か前、三和の差塩(さいそ)で見た。

佐賀平野(九州)では、同じようにして7~10日ほど乾燥させたあと、「むしろ」の原料として出荷するそうだ。

乾燥した脱穀後の稲わらは縄になり、草鞋になり、堆肥や畑の保温材になった。私も、カミサンの親せきから稲わらをもらい受け、秋に種をまいて芽を出したサヤエンドウなどの防寒に利用したことがある。

今は刈り取りから脱穀、乾燥まで一挙にやってしまうので、はせ掛けはめったに見かけなくなった。稲わらはこまかく裁断されて刈り田に散らされることが増えた。

わらボッチは、その意味ではもう珍しい光景になった、といっていいのかもしれない。

2026年9月30日水曜日

熱帯原産の毒キノコが定着?

                                               
   秋の長雨は、キノコにとっては目覚まし時計のようなものだろう。食べられるキノコ、毒ではないが食べてもまずいキノコ(不食菌)、そして毒キノコも同時に発生する。

9月25日付のいわき民報に、いわき市内の公園で毒キノコが多発している、市が食べないよう注意を喚起している、という記事が載った=写真。

毒キノコは熱帯原産のオオシロカラカサタケである。このキノコの存在を知ったのは6年前。やはり、いわき民報を介してだった。

それを取り上げたブログ(2020年9月24日付「毒キノコが南からやって来た」)がある。注意を呼びかけたのは、いわきキノコ同好会の会長だった故冨田武子さんだ。

冨田さんはいわき市内の中学校美術教諭を定年で退職したあと、画家として制作活動に励み、ボタニカルアートなどを手がけた。

菌類にも造詣が深く、いわきキノコ同好会発足時から会長を務めた。私も当初からの会員で、冨田さんから多くのことを学んだ。

オオシロカラカサタケについても、冨田さんから教えられた。いわき市内ではこれまで、ハウス内での発生は確認されていたが、野外では未確認だった。

それが、泉町の住宅の庭やナス畑でも発生が確認された。中毒例が非常に多いキノコだという。

地球温暖化の影響で、今まで姿を見せなかった南方系のいきものが、いわきの海で、山野で確認されるようになった。オオシロカラカサタケもそのひとつだ。

それからざっと2カ月後のブログでも触れている。冨田さんは画家として月に1回、いわき民報に「いのちを描く――ボタニカルアートの世界」と題して、絵と文章を寄稿していた。

いわき市泉町のアートスペース泉で開かれた冨田さんの「ボタニカルアート展」を見た。その観覧記である。

いわき民報に載った植物やキノコは印刷の制約もあってモノクロだが、原画は鮮やかなカラーである。

植物の花やキノコが精密なタッチで描かれていた。同時期に咲く野の花とキノコを組み合わせた作品には、冨田さんの自然環境への思いがこもっていた。

なかに、オオシロカラカサタケの作品があった。「キノコでは、それが一番新しい作品」ということだった。

いわきキノコ同好会は会員の高齢化と退会が続いていたことから、2024年師走の総会で、1年後の総会を最後に解散する、会報も第30号を発行して終わりにすることを決めた。

解散を決めた総会から季節がひとつ巡った2025年4月、冨田さんが亡くなった。第30号は会長追悼号に替わった。

いわきキノコ同好会は、菌類の調査・研究だけでなく、毒キノコによる食中毒の予防にも力を入れた。

今度の市の発表を知って、市民団体が解散したことによる空白、いや穴の大きさを感じている。

冨田さんがいたら、もっと詳しく、もっと具体的に注意を喚起したのではないだろうか。

2026年9月29日火曜日

テレビ桟敷

                                
 大相撲秋場所は大の里の優勝で終わった。横綱・大関は圧倒的に強い――。子どものころに刷り込まれた印象は、しかし近年薄れつつあるようだ。

 賜杯は横綱の手に渡ったものの、大の里と優勝を争った安青錦を除く大関陣は9勝6敗、8勝7敗と、かろうじて勝ち越した、という危うさ。

 そのなかで藤ノ川や兄弟の朝紅龍・朝翠龍ら小兵力士が観客をわかせた。藤ノ川は一時、優勝争いに食い込んだ。美(ちゅら)ノ海との一番=写真=は星を落としたが、終わってみれば2人とも敢闘賞に選ばれた。

 大相撲はNHKが生中継をする。晩酌は、前は5時半ごろに始めたが、最近は5時前には準備を終える。「早くすませて早く寝る」と、へ理屈をこねて始めるのには、大相撲はもってこいなのだ。

 4時半にはテレビ桟敷に陣取り、力士のぶつかり合いに一喜一憂し、合間にグイッとやる。

私が地域紙の新米記者だったころ、週に1回、中面1ページを担当する大先輩がいた。

以前は炭鉱会社の広報担当だったとかで、定年後、好きな文章を書き続けるために再就職した。

「おチャ」ならぬ「おチャケ」の人で、社と同じ通りにある飲み屋で報道部長とよく飲んでいた。

そこへたびたび呼び出された。酔った勢いで大先輩の自宅へ同行し、二次会をやって泊まったこともある。

 大相撲が始まると、決まって大先輩の顔が思い浮かぶ。平日は仕事があるから、大相撲はニュースで見るくらいだが、休みの日には夕方4時になるとテレビを見ながらおチャケを飲む。「これが楽しみなんだ」とよく言っていた。

 「年寄り」と「大相撲」と「晩酌」の組み合わせは、このとき脳裏に刻まれた。それからすでに半世紀。大先輩の年齢を超え、後期高齢者と言われるところまできた。今、大先輩と同じことをしている。

 若いころは、プロ野球はもちろん、陸上競技、水泳、プロレスその他のスポーツをテレビでよく見た。

 今は大リーグもめったに見ない。なぜだろうと自問する。野球だと9回をやってようやく結果が出る。ほかの団体競技も勝ち負けが決まるまでに時間がかかる。

 それに比べると、個人競技の大相撲はせいぜい4~5分で勝負がつく。しかも、これを何番も繰り返す。

この時間の短さと分かりやすさが、「見る」忍耐力が落ちた年寄りには向いているのかもしれない。

番付上位となれば、懸賞旗が何本も土俵を巡る。これを数えようとすると、土俵の屋根の天井からの映像に切り替わる。

 上限は1回当たり60本とかで、今場所は大の里がトップの698本を獲得した。懸賞金は1本あたり7万円(手取り6万円)というから、金額にすると億の半分近い(某スポーツ紙)。

 それに、と思う。カミサンが加わると、「まげが美しいね」などと、勝負とは違ったファッションの話になる。

そういえば、無精ひげはもちろん、ひげを生やした力士はいない。なにか厳しいおきてがあるのか――。

連想ついでにそんな珍問までわいた(あとでAIに聞くと、2019年に「ゲンかつぎ」のひげが禁止されていた)。

2026年9月28日月曜日

同級生が仏画展を開催

                                                
    阿武隈の山里で生まれ育った。中学校へは3つの小学校から生徒が集まった。いわゆる団塊の世代で、1学年は5クラスに膨らんだ。

今思うと、町の小学校3クラスに在の小学校各1クラスが加わって、同級生の数が一気に増えたのだ。

集団就職から高校進学が普通になりつつある時代、私は開校して3年目の平高専(現福島高専)に入った。

 それを機に、いわきに根を生やした。同じようにいわきに住む中学校の同級生が何人かいる。

年に1回は田町(平)に繰り出し、ミニ同級会を楽しんだが、震災後は集まりが途絶えた。

近所に住む同級生は中学校で一緒になった。有限会社を営んでいる。建築業、つまりは大工さんである。

彼に頼んで夏井川渓谷にある隠居の台所を改造し、少し外に張り出した縁側を幅1.5メートルほどの濡れ縁に作り替えた。

 職業柄、寺を巡り、仏像を見る機会が多かった。それだけではない。若いころ、自分の生き方に悩んで仏教に傾倒した。

 家をつくっても寿命は50~60年ぐらい。自分の手がけた作品(建物)は結局、この世には残らない。

それに比べたら、仏像は何世紀も生き伸びる。仏像に魅かれて仏画に取り組むようになった。

結婚すると趣味の写仏を封印して仕事に励んだ。時は過ぎ、いつの間にか後期高齢者になった。

2年ほど前、脊椎を傷めて会社を休眠させた。一線から退くと時間が余った。若いときの趣味だった仏画への情熱がよみがえり、写仏を再開した。

先日、彼から封書が届いた。突然の連絡である。最初は廃業のあいさつかと思ったが、違った。

チラシが同封されていた。「松本守雄仏画展――千年の祈り・その色彩」とあった=写真。なんと個展の案内ではないか。

いつ、どこで? これにも驚いた。いわき市暮らしの伝承郷で、10月8日から12日までの5日間開催する。

伝承郷のスタッフには顔なじみが多い。カミサンが同施設の事業懇談会の委員をしている。

アッシー君を務めるついでに企画展をのぞいたり、園内の古民家を巡ったりする。それで学芸員氏とも知り合いになった。

チラシを見たあと、すぐ同級生に電話を入れた。すると翌朝、軸装された仏画その他を持って来て、個展を開くまでの経緯と仏画の手法を説明してくれた。

写仏は写経と同じで、印刷された仏様の上に紙ないし絵絹を重ね、筆でなぞって彩色する(同級生は絵絹を使う)。

展示する作品は①仏画22幅②色紙24点③四国八十八カ所御朱印掛軸のほか、愛蔵する郷土作家3人(大平華泉・若松光一郎・坂本勇)の作品で、仏画などにはフロアから自作の照明器具で光を当てるという。

写仏を始めたきっかけは前述の通りだが、仕事と写仏を介して軸装を頼んだ画材店や寺、遠野和紙芸術文化研究会などとつながり、協力を得た。

 いわば、人生第二のステージである。写仏を通して心を落ち着かせるいい時間の過ごし方を手に入れたものだ。ぜひご高覧を。

2026年9月26日土曜日

自然は強くて脆い

                                             
    この1カ月余、星野道夫の本を読んでいる。図書館から最初に借りたのは大活字本『旅をする木』だった=写真。

返却日の1日前、2週間の貸し出し延長を申し込んだら「予約が入っている」と言われた。

故東野圭吾や夏川草介同様、星野も写真家ながら作家として高く評価されているのだろう。

星野の本を読み始めるとすぐ、ネパールで氷河と岩壁が崩落し、巨大な土石流が発生して多くの犠牲者が出た。きょう(9月26日)で事故から丸1カ月になる。

地球は、自然はどうなっていくのか? それを考えるために星野の本を読んでみようという人が増えているのかもしれない。

『旅をする木』にこんなくだりがある。「カリブーの仔どもが寒風の吹きすさぶ雪原に生み落とされるのも、一羽のベニヒワがマイナス五〇度の寒気の中でさえずるのも、そこに生命のもつ強さを感じます」

文章はさらに続く。「けれども、自然はいつも強さの裏に脆(もろ)さを秘めています。そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です」

自然の持つ「脆さ」とは? 傷つきやすい生態系とか温暖化による変化だけではない。もっと直截的なものに違いない。

自然という現場に潜む危険、つまりは死を孕んだ世界に全身・全神経で立ち向かう、そんな極限状況のことではないのか。

アラスカやネパールと比較すること自体無理があるが、私が毎週日曜日、身を置く夏井川渓谷でも、ときどき自然の脆さを感じる。崖の落石だけではない。

隠居の庭の菜園にカブの種をまいたら芽を出した。やがて若葉が広がると思う間もなく、虫に食いつくされた。

一度種をまいて育てた辛み大根は、翌年からは「ふっつぇ」(こぼれ種)が芽を出し、冬にはずんぐりと肥大した根になる。しかし、耕すとかえって根は細く伸びるだけで肥大しない。

庭のモミの木の根元に生えるアカモミタケは、枝と幹が強剪定で立ち枯れると発生が止まった。自然と自然は危ういバランスでつながり、保たれているのだ。

星野はアラスカの先住民たちと暮らすうちに、自然と人間の関係についても考察を深める。

 未踏の大自然だと思われた原野は「太古の昔から、足跡を残さぬ人々の物語に満ちている」。なるほど。そう考えると納得がいく。

星野の文章のエキスを集約したエッセー集に『約束の川』(平凡社、2021年)がある。このエピソードはその中に出てくる。

 極北の人々は「生きのびてゆくために、いつも動物たちを見つめて暮らしてきた。どの動物を狩ってきたかによって、人間も違ってきた」。

 たとえば、ある村のインディアンの動きはカリブーのように、ユーコン河のインディアンは急流をさかのぼるサーモンのように。

 自然と人間の関係はその土地の風土と結びついて形成される。いわきでもウミとヤマとでは暮らし方(文化)が違う。その違いを踏まえて地域と地球の変化を見ていく必要があるということだろう。