2026年9月12日土曜日

『種をまく人』

                                              
  いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に総合図書館が入居している。先日、本を返しに行ったら、「子どものフロア」にリサイクル図書のコーナーが設けられていた。

 リサイクルに回された児童図書が何十冊(いや、それ以上だろうか)も箱に入って並んでいた。

 本の背表紙をながめているうちに、『種をまく人』の文字が目に留まった。手に取って表紙の絵を見ると、既視感がある=写真。

 ところはアメリカ・オハイオ州のクリーヴランド。貧民街の一角にごみ溜めがある。その空きスペースにベトナム難民の女の子・キムが豆の種をまく。それが物語の始まりだ。

 表紙のイラストだけではなく、最初のキムの話にも記憶があった。間違いなく前に読んでいる。

リサイクルに回ったのであれば、ぜひ手元に置きたい。「これっ」。カミサンに見せると、カミサンが用紙に書き込んで受付に本を持って行った。

 廃棄する代わりに市民に提供された図書館のリサイクル図書を何冊か持っている。

 1つは伊藤始・杉田秀子・望月武人著『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』(くもん出版、2014年)で、著者はいずれも教員経験者だ。児童向けの本で、漢字にはすべてルビが振ってある。

昭和43(1968)年、色川大吉東京経済大学教授とゼミの学生らによって、東京都のほぼ西端、あきる野市五日市の旧家の土蔵から「五日市憲法草案」が発見された。その経緯と草案起草者千葉卓三郎(1852~82年)の足跡を記した本である。

もう1つ。絵本の「やめて!」は表紙で男の子が叫んでいる。絵本には爆撃機・戦車・兵士・犬を引き連れた警官・不良少年が登場する。空爆・市街での発砲・弾圧・いじめに「やめて!」だった。

『種をまく人』はしっかりしている。ハードカバーなのだが、とても薄い。約95ページ。普通の本の3分の1くらいしかない。

キムが豆の種をまいたのは、農民だった亡父をしのんでのことだ。アパートの住人のアナはルーマニア出身で、そのキムを見るために望遠鏡を買う。

アナから電話をもらったウェンデルは学校の用務員で、アナの頼みでキムに会う。そして、畑をつくるために土を耕し始める。

グァテマラ移民の子のゴンサーロは、英語を話せない伯父さんの世話をする。伯父さんは国で農業を営んでいた。その伯父さんがウェンデルと一緒に土を耕すようになって生気を取り戻す。

リオーナは空き地で土を掘り返している人たちを見て、花を植えたくなり、市当局に掛け合ってごみを一掃させる。

以下、サム、ヴァージル、セヨン、カーティス、ノーラ、マリセーラ、アミール、フローレンスの話が続く。

アメリカの都市の、貧しい移民が流れ着いた街の一角の、どうしようもないごみ溜めが、少女のささやかな行為をきっかけに、人種・民族・言葉を越えてつながり、美しい菜園に生まれ変わる。土地の再生とコミュニティ創造の物語である。

2026年9月11日金曜日

オモダカとクサネム

                                       
   この夏、住宅地にある水田で珍しい形をした草の葉を見た=写真上1。葉には覚えがあった。オモダカである。前に見たのはいつだったか。何年、いや何十年前?

オモダカは、漢字では「沢瀉」と書く。別名サンカクグサ、ハナグワイ、イモグサなど。家紋の一つに「沢瀉」紋がある。戦国武将たちに好まれたという。このへんのエピソードが頭にあったのかもしれない。

高校生の孫から、夏休みに入ると何度かアッシー君を頼まれた。家はわが家から車で5分ほどのところにある。もとは水田で、戸建て住宅が何棟か建つなかの1棟に息子一家が住む。

家の裏には田んぼが1枚、三方を新興住宅に囲まれて残っている。孫が外出の準備を終えるまで、玄関前の駐車スペースに車を止めて待つ。

盛り土をしたために、宅地は水田よりは1.5メートルほど高い。フェンス越しに直下の稲穂とあぜを見るともなく見ていると……。

前述のオモダカが目に入った。葉がとがった矢尻のような三角形をしている。輪のないベンツのマークに似る。白い花を咲かせたものもある。

それに触発されて、直下の畔の草をながめると、田んぼの黒土の縁でセリが葉を伸ばしていた。

それから少し離れたところにはオジギソウによく似た草も=写真上2。とりあえず写真を撮って、ネットで名前を調べたら、クサネムがあらわれた。

クサネムのネムはネムノキのネムだとか。葉が似ていることからその名が付いたようだ。

7~10月に薄黄色の蝶形花を付ける。黄色いチョウの一種、キタキチョウは、幼虫がネムノキやハギ類、ジャケツイバラなどとともに、このクサネムを食草にするそうだ。

なんとも厄介なのは種子の大きさや形状が籾(もみ)に似ることだとか。稲にまぎれて残っていると、機械による収穫の際に混入してコメの品質を低下させる。

オモダカも、クサネムも水田の雑草だが、クサネムはとりわけ「雑草害」を引き起こす草として嫌われているらしい。

もう一つ、フェンスに絡みついたつる植物にも触れておこう。わが家の庭では、ヤブガラシが次々に芽を出し、つるを伸ばして庭木に絡みつく。それを防ぐために、今も朝、歯を磨きながら「芽むしり」をしている。

このヤブガラシが、駐車場のコンクリートの端から芽を出し、フェンスに絡まって伸びていた。

絡みついても日光を遮る庭木はない。むしろ、フェンスと組み合って、ちょっとしたオブジェになっていた。しかし、1週間後にはこれが根元から切られて姿を消した。

 草に対する感覚は場所にもよるし、人にもよる。風景として見る分にはどれもかわいいものだった。

2026年9月10日木曜日

キュウリがウナギに化けた

                               
   若いころ読んで、確かにそういうところがあるな、と思った。贈与の経済とまではいかなくとも、贈与の文化が普通にあった。

貨幣経済とは別に、人々が暮らしを営むうえで欠かせない無償の物々交換のことである。

東西に長い阿武隈高地の一筋町で生まれた。「生(な)ったから」「もらったから」と、隣近所で野菜を分け合い、融通し合う習慣があった。高度経済成長期の前、昭和30年代前半の記憶である。

食卓にのぼる野菜は、農家でなくても自産自消が一般的だった。むろん、自産だけでは足りない。それを補うように各家の余剰物が隣近所を行き交った。

主食の米は、ふだんは買って食べた。初夏には親類の田植えを、秋には稲刈りを手伝ったから、なにがしかをお礼としてもらうこともあったのではないか。

その意味では、贈与の習慣は家計の一助になっていた。経済的には貧しい時代、コミュニケーションと贈与の文化があったからこそ、人々は貧しさをオブラートに包んで前を向いて暮らしてきた。

 10代の後半になって家を離れ、文学に魅かれて本を乱読した。政治や経済には縁がなかったが、周りに影響されたかして、栗本慎一郎やカール・ポランニーに触れ、経済人類学や贈与の経済があることを知った。それが冒頭の感慨を呼んだ。

 年を取った今、当時のことをよく思い出す。懐かしさというよりは、今こそ必要な価値、習慣ではないか、という思いが強い。

現在のわが家の例でいうと、主婦のお茶飲み友達による贈与のネットワークが思い浮かぶ。

 カミサンが生協(パルシステム)や川内村の卵の「ハブ」になって、毎週、何軒かの分をあずかる。

 そのなかで自家菜園のキュウリやナス、ネギが届く。こちらからも直売所で多めに買った野菜その他を回す。

楢葉町で農家レストランを営む知人は、いわきへ来るたびにちょっとしたおかずを置いていく。

年金生活者にとっては、この贈与の習慣はありがたい。糠床の材料になり、家計の足しになり、晩酌のおかずになる。

 先日はこんなことがあった。卵を取りに来る近所の独り暮らしの女性(90代)に、カミサンがキュウリを2本持って行ったら、ウナギのかば焼きをもらって来た。

 土用丑(うし)の日には生協から鹿児島・大隅半島産のウナギのかば焼きを取り寄せて食べた。

 知人は親類がかば焼きを食べるのを見て、「おいしそうだから」と、生協からウナギのかば焼きを取り寄せた。

 ただし、本人はウナギを食べない。冷凍庫に入れたままだった。で、「海老(えび)で鯛(たい)を釣る」ではないが、キュウリ2本が立派なかば焼きに化けた。

 わが家では身の半分にも満たなかったが、知人からもらったのは1匹の姿がよくわかる大きさだ=写真。晩酌のおかずとして、ありがたくいただいた。むろん、主婦のネットワークと贈与の習慣にも感謝しながら。

2026年9月9日水曜日

アンダーパス

                     
 9月7日。いわき地方にレベル4土砂災害危険警報と同大雨危険警報が発表された。未明から強い雨に見舞われた。

 月曜日である。燃えるごみを出す日である。朝一番でごみネットとごみ袋を出さないといけない。

 ごみ袋の中身は剪定枝6袋。別の日に出してもいいのだが、ごみネットは出さないわけにはいかない。

 前夜に続いて、午前3時過ぎに起きてからも思案し、結局、明るくなりかけた5時過ぎには、右手に傘、左手にごみネットを抱えて、横殴りの雨にズボンを濡らしながら、そばの電柱にネットのひもをくくりつけた。

1時間後に見ると、ネットが風に翻弄されている。ごみ袋を出す人はまだいない。「重し」を兼ねてごみ袋をネットの端に載せることにした。

再び右手に傘、左手にごみ袋2袋を持って、これを3回繰り返した。ズボンは前より激しく濡れた。

 その後は時々、集積所と歩道の様子をチェックした。7時過ぎには早くも歩道が冠水し、さらに水かさが増しそうな勢いだった。

 8時前にチェックし、朝ドラが終わったあとにまた見ると、歩道の冠水は減り始め、側溝のふたが水をかぶる程度になった=写真。

防災ラジオはしかし、北の大久川流域の避難情報を伝え、8時45分にはいわき市全域に避難指示が出たことを知らせる。

8時前後がピークだったようだ。9時過ぎにはカミサンが向かいの郵便局へ行ったが、窓口が臨時休業になっていた。隣のコインランドリーもそうだった。

 小・中学校は早々と7日の臨時休校を決めていた。私自身、7日早朝に接骨院へ行くのを中止した。ほかの人もそうだった。家でじっとしている人が多かったのだろう。

 10時過ぎにはレベル4からレベル3に切り替わり、正午前には市内の避難指示も解除された。この時点でやっと線状降水帯の不安から解放された。

 その後に鹿島町のエブリアそばのアンダーパスで車が冠水し、60代の女性が亡くなったことを知る。

 鹿島でなぜ? そこからいわき市内のアンダーパスが気になり、いったい市内にはいくつあるのか、チェックしてみた。

 すぐ思い浮かぶのは平の赤井ガード、祢宜町ガード、大工町ガード、住まい近くの鑓水(やりみず)ガード、内郷の八反田アンダー、泉の玉露アンダーボックス、そして昔よく利用した錦の大島アンダーボックスだ。

公開されている県の冠水危険個所一覧によると、市内には全部で21カ所ある。鹿島は米田(こもだ)アンダーボックスで、エブリアへ行ったとき、1~2回利用した記憶がある。ニュース映像では、脇の駐車場から雨水が滝のように流れ落ちていた。

雨がほぼやんだ午後1時過ぎにはラトブの総合図書館へ出かけた。いつものように地下2階に車を止めようとしたら、シャッターが下りて、「地下2階は封鎖中」の看板が立っていた。商業フロアも臨時休館をした。

豪雨、道路の冠水、アンダーパスの事故……。これらはいつでも、どこでも起こりうる、という覚悟が必要になった。

2026年9月8日火曜日

体育祭は終盤、小雨に

                 
   9月6日午前9時。神谷地区市民体育祭が曇天下で始まった。プログラムもあと少しで終了というところで、西方の山並が雨のカーテンに隠れた。すると、会場の校庭にも弱い雨が降り出した。

同日午前6時。公民館の園庭から2発、花火が打ち上げられた。時を同じくして、隣の草野地区からも花火が上がった。

神谷と草野が同時に体育祭を実施するのは珍しい。というか、よその地区はすでに体育祭をやめている。よく続いているというべきだろう。

 神谷地区には8つの行政区がある。団体競技は8地区対抗戦で、去年(2025年)はわが区が優勝した。

開会式には優勝杯返還がある。前日の会場設営時点で防災倉庫から優勝杯を持ち出し、当日に備えた。忘れるとえらいことになる。

大会が近づくと、前日の準備、そして当日の役割分担を含めて、事前に詰めておくことがいろいろ出てくる。今年はこれに優勝杯返還が加わった。

花火が上がったあとの午前7時半、会場の平六小へ出向き、テーブルといすの設営、テント張りなどをすませた=写真上1。

ここまでは曇天で涼しいくらいだった。「雨も午後だね」。体育祭は終了後の大抽選会を含めて、正午前には終わる。雨には見舞われないだろうと踏んでいたのだが……。

終盤になって空模様がおかしくなった。風が吹いて小糠のような雨が降り出し、記録係としてテントの下で団体競技の順位をつけていたテーブルも、雨粒で濡れ始めた。

消防団のポンプ車が子どもたちを乗せてトラックを回る「さあ出動!」は急きょ中止になり、残るプログラムを繰り上げて実施した。

団体競技は3つ。安全運転と玉入れ、綱引きで、わが区は残念ながら3位に終わった。

閉会式は校庭から体育館に場所を移して行われ、引き続き参加者が楽しみにしている大抽選会が開かれた。

校庭と違って、体育館では同じ参加者数なのに、ぎゅうぎゅう詰めの印象だ。かえって、それだけに和気あいあいの景品引き換えになった。

最初、反省会の予定はなかったが、選手たちの意向で開くことになり、前日、急いで会場の手配をした。私ら区の役員は後片付けなどがあるので、選手たちだけで楽しんでもらった。

それから一夜明けた月曜日は、未明から強い雨になった。秋雨前線が北上する過程で線状降水帯が発生する心配もあった。

午前5時過ぎにはごみネットを、1時間後にはごみ袋を出した。いずれも傘をさしての作業だが、横なぐりの雨でズボンはすぐびしょびしょになった=写真上2。

さいわいわが地区は歩道が冠水した程度ですんだ。が……、鹿島町ではアンダーパスで痛ましい事故が起きた。

2026年9月7日月曜日

震災後生まれの防災士

                                 
   いわき市青少年育成市民会議の支部組織に属している。年に1回、大きな集まりがある。

市青少年育成大会で、今年(2026年)は8月30日午後2時から、市文化センター大ホールで開かれた=写真(大会資料など)。

日曜日である。朝のうちは夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、マチに下りて昼食をとったあと、早めに会場の文化センターへ出かけた。すんなり駐車できた。

小・中学生の意見発表と記念講演が行われた。意見発表は子どもたちの生の声に触れるいい機会でもある。

専門家による講演も、自分の考えを整理するうえでは参考になる。今回はNPO法人ビーンズふくしま福島部門長兼こころの相談室事業長七海圭子さんが「不登校・ひきこもり支援から考える地域力向上と青少年育成」と題して話した。

意見発表には5人が登壇した。1人は令和7年度いじめ根絶作文最優秀賞を受賞した小名浜二小6年・小松佐和さん。「いじめをなくすには」と題する受賞作文を朗読した。会場で見かけた保護者は知り合いだった。

 残る4人は少年の主張福島県大会出場候補者となった北と南地区の代表各2人で、いずれも中学3年生だ。

 北地区は、中央台南中の猪狩早恵さんが「震災を知らない私が伝えたいこと」、藤間中の鈴木和花さんが「皆さんのおじいさんやおばあさんはどんな方ですか?」と題して話した。

 南地区は、植田東中の栗澤恋羽(こはね)さんが「社会を生きるために」、田人中の田村優典君が「日々の善行からつなぐ未来」という題で語った。

 猪狩さんの話には引き込まれた。以下は、9月4日付のいわき民報に掲載された猪狩さんの発表テキストに拠(よ)る。

猪狩さんは東日本大震災と原発事故から5カ月後の2011年8月に生まれた。当然、震災の記憶も経験もない。

しかし、あの日、何があったのかを学び、考え、行動している。大切な人を失う悲しみを繰り返さないために、自分にできることをしたい、という思いからだ。

2024年元日の能登半島地震をきっかけに、防災士の資格を取った。防災について学ぶ中で「震災の記憶の風化」という課題を知る。

そのなかで語り部の募集が目に留まった。防災士として学んだことや経験を伝えることで、震災の記憶の風化を食い止められるのではないかと考えた猪狩さんは、語り部としても活動するようになった。

猪狩さんが語り部として伝えていることは、「自助」の大切さだという。自分の命は自分で守る、という考え方である。

それを踏まえて、1人ひとりが命を守る力を持つ「明るい社会」のためにできることが3つある、という。1つ目は知ろうとすること、2つ目は実践すること、3つ目は伝えることだ。

猪狩さんは「これからも震災の教訓を学び、次の世代へ語り継いでいく」と締めくくった。

またまた若い人に教えられた、という思いがした。残念なのは聴衆が少なかったことだ。

2026年9月5日土曜日

糠仕事

                                
    何度も書いているので、いささか恐縮なのだが……。早朝に起きるとすぐ糠床、つまり糠味噌をかき回す。一日の最初のルーティン作業だ。晩酌を始める前にも糠床に手を入れる。

 夏に朝夕2回(気温が下がれば朝だけ)、糠床をかき回すのは、表面に白い産膜酵母が張らないようにするためだ。

 一時、産膜酵母が張らなくても異臭(シンナー臭)がした。食塩を加え、かき回す回数を2回にしたら、収まった。

ところが、漬かったキュウリや大根をビニール袋に入れて冷蔵庫で保管すると、やはり異臭がする。冷蔵するだけではだめなのか。

では、冷蔵庫内にある「真空チルド」はどうか。カミサンのアイデアで、そこで保管するようにしたら異臭が消えた。

よく行く直売所の駐車場にコイン精米所がある。この無人精米所からは無料で自由に小糠を持ち帰ることができる。

ある日、カミサンが手に入れた小糠を加えると、糠床が元気になった。それで今は普通に糠漬けを楽しんでいる。

キュウリや大根はもちろんだが、ニンジンもあれば漬ける=写真。歯ごたえがあって甘い。歯も今のところは大丈夫だ。

 暮らしのメリハリのためにも、朝夕の「糠仕事」は欠かせない。かき回しをおろそかにすると、すぐ表面に産膜酵母が張る。

かき回すだけだから苦にならない。ならないどころか、これをやると野菜に味がしみて、いいご飯のおかずができる、晩酌のつまみにもなる――それを想像しながら、糠床に手を入れる。

日常の一コマにすぎないとはいえ、この糠仕事には実用にとどまらない、別の意味も含まれているのではないか。ある日、ふとそんなことを思った。

年金生活者なので、ふだんはこれといった用事はない。たまに会議が入ったり、人に会ったりする。

ときには予期せぬトラブルが起きる。台所の排水管が詰まって水があふれた、時計の電池が切れた……。

そんなときでも、糠床はかき回さないといけない。ストレスが溜まっていようが、疲れていようが、糠床は生きていて、手を抜けば抜いたなりに反応する。

糠床にはどんなときにも、平静に、冷静に向かい合わないといけないのだ。ストレスや怒りが残っていても、それを一瞬、脇に置いて(あるいは忘れて)、糠床と向き合う。でないと、糠床をダメにしてしまう。

 そう、糠仕事のもう一つの効用がこれである。朝夕2回、とにかく気持ちを静めて糠床と「対話」する。

言い換えれば糠床は、かき回す人間を瞬時にニュートラルな状態に切り替える精神安定装置だろうか。

家庭の中のちょっとしたヤボ用やトラブルから始まって、地震・津波・豪雨(あるいは戦争)と、糠床を、人間の平穏を乱す出来事には事欠かない。

朝晩、糠床をかきまわして発酵の安定を保つ。日常の小さな平穏こそが大きな平和の基礎ではないのか。このごろは、そんなところまで思いが飛ぶようになった。