2025年12月17日水曜日

救急車が隣に

                                  
   ヒイラギは漢字で「柊」と書く。文字通り「冬の木」だ。その花=写真=に気づいたのは、会津の山沿いに雪が降り、中通り北部の福島市でも初雪が観測された11月19日。

阿武隈高地の東側(浜通り)は冷たく乾いた空気に見舞われた。さすがに庭で歯を磨く気にはなれなかった。

それから10日もすると寒い師走がきた。西高東低の気圧配置になれば、いわき地方は冷たい西風に見舞われる。寒さに震える日がこれから増える。

先日も朝から晴れて寒風が吹き荒れた。こういう日には、散歩は休むに限る(休む理由を見つけるのは簡単だ)。

いわき駅前の総合図書館に返す本がある。屋外ではなく屋内を散歩しよう。午後、「ラトブ散歩」をすることにして、茶の間でノートパソコンを開き、調べものをしたり、本を読んだりしていた。

 すると、西の方から「ピーポー、ピーポー」の音が近づいてくる。いつものように家の前を通り過ぎるだろうと思っていたら、近くで音がやんだ。

 ん⁉ カミサンと目を合わせる。カミサンが通りに出る。と、隣のコインランドリーの駐車場に救急車が止まっていた。

しかも、救急車に担ぎ込まれたのは近所の知り合いのAさんだった。カミサンとはPTA仲間であり、私とは区内会の役員仲間でもあった。長くひとり暮らしをしている。

救急車が来たのはこんな状況からだったらしい。寒風が吹き荒れる中、Aさんは日課の散歩に出た。わが家の近所まで来たところで道路の縁石につまずき転倒した。

通りがかりのドライバーがこれを見てAさんを助け起こし、コインランドリーの利用者にあとを託した。

利用者が救急車を呼んだが、知った人ではない。カミサンが行ってAさんとわかった。すぐカミサンが戻って来て、「Aさんの住所は?」と聞く。

家にある資料をパラパラやって、該当する個所を救急隊員に示し、さらに本人が持っていたケータイから娘さんにつながり、救急車の行き先が決まった。

老化は足から――。これを防ぐためにAさんは毎日散歩を欠かさないのだろう。

「準散歩」を始めたばかりの私も、先日、路上でばったり顔を合わせた。そのときはいつものAさんよりは、歩き方が遅いようだった。それから半月ほどたってからの転倒事故である。強風が影響したのだろうか。

 救急車の「ピーポー、ピーポー」は、私らを含めて地域に高齢の夫婦、あるいはひとり暮らし世帯が増えた今、身近な音になった。

 わが家の隣家に住んでいた義弟も亡くなる直前、救急車の世話になった。近所の人たちも何人か世話になった。

後日、Aさんの娘さんがやって来た。幸いAさんは顔を打っただけですみ、その日のうちに退院したという。なにはともあれ、大事に至らなくてよかった。

2025年12月16日火曜日

電源プレート

                                            
 わが家に「ティファール電気ケトル」という、魔法瓶に似た「やかん」(湯沸かし器)がある=写真。容器に水を入れ、電源プレートに載せてスイッチを入れると、すぐお湯が沸く。

 店の一角に喫茶室を兼ねた地域文庫がある。ケトルはカミサンが来客に出すコーヒー、紅茶、緑茶用だ。

 そのケトルの電源プレートに関して、ビックカメラグループ(ビックカメラ、コジマ、ソフマップの3社連名)から、リコール(無償交換)を知らせるはがきが届いた。

 2021年10月~2024年7月に製造されたティファール電気ケトルのうち、特定の製造ロットで、電源コードの「不適切な使用方法」(カギかっこは私)によって電源プラグが破損し、場合によってはコンセント付近で発煙・発火の可能性があるという。

 販売元はビックカメラグループだが、対応窓口はグループセブジャパンというところだ。フランスに本社を置くグループセブの日本法人で、ここが輸入元なのだろう。

 実は先日、地元の公民館から隣組に配る臨時の回覧資料が届いた。内容ははがきと同じで、リコールを伝えるものだった。抽選会で電気ケトルが当たった人は公民館まで連絡を、対応資料を渡します――。

 8月31日に地区の市民体育祭が行われ、終わって「大抽選会」が開かれた。抽選会の景品の一つにティファール電気ケトルがあった。

 公民館から回覧資料が届くとすぐ、カミサンがはがきを見せた。それで前から家にある現物を確かめ、はがきの指示に従って、ケトル底面に表記されている「製品品番」と「4ケタ番号」をチェックした。

ついでに生産国を確かめる。フランス製かと思ったが、「メイド・イン・チャイナ」だった。

 対象製品が多いためか、該当製品の一覧はホームページでどうぞという。手元のケトルの製品品番と4ケタ番号をリコール製品の一覧と照合する。どれにも該当しない。

つまり、対象外。電源プレートを交換することなく、今まで通り使用できるということだ。

わが家の場合はそれで一件落着だが、抽選会のケトル当選者は同じように製品品番と4ケタ番号をチェックして、該当製品かどうかを確かめる必要がある。

 もちろん公民館に連絡するのが一番だが、いながらにして確認するには「電気ケトル リコール」で検索しても、ティファール公式サイトにたどり着く。私もそれで確かめた。

 にしても、と思う。電源コードの「不適切な使用方法」って、何を指しているのだろう。使う側(消費者)の扱い方次第のような表現がどうにも引っかかる。

2025年12月15日月曜日

はなのころ作品展

                                 
 心身に障がいを抱えながら表現活動に励んでいる「はなのころ」のメンバーと、それを支援する作家のチャリティー作品展が12月6日から14日まで開かれた。

 会場はいわきニュータウンの一角、住宅を転用した「アートサロンいわき」で、主催者のNPO法人はなのころの西山将弘理事長から、作者(メンバー)と作品の説明を受けた。

 はなのころは今年(2025年)4月、平・三倉に交流ギャラリースペース「はなのころBASE(ベース)」を開設した。

 10月下旬だったか、カミサンのアッシー君を務めながら、通称「はなベー」へ出かけた。

西山理事長とは縁があって前から知っている。いろいろ説明を聞く中で、興味を引くものがあった。

 絵はがきとブローチで、「混乱」というタイトルが付いていた=写真上1。作者は「碧(あおい)」さん。

解説資料に「エネルギッシュなモチーフや和の作品、落ち着いた風景画など、何でも自由に描いて、自分のスタイルを追求している」とあった。

 技法的にはデジタルイラストと呼ぶらしい。太い線を駆使した画面から、アメリカの現代美術家、キース・ヘリングに通じるものを感じた。

 へリングの作品を見たときには驚いた。これも美術なんだ! 軽やかなタッチと解放感。現代美術の表現の多様さを知った。

 碧さんの「混乱」にも同じような自由さを感じた。こりかたまったこちらの感性が解き放たれる。コミュニケーション(わかる・わからない)ではなく、共振・共感のバイブレーションが起きる。絵はがきとブローチを買った。

 それから2カ月近く。新聞でチャリティー作品展の開催を知った。今度もアッシー君を務めた。碧さんの作品は? ちょっと見当たらなかったが、代わりに面白い発見をした。

新聞の折り込みに「お悔み情報」(主にA4判・片面コピー)がある。私はこれを取っておき、真っ白の裏面をメモ用紙として使っている。

震災前からの習慣で、「規格」が同じだから「カード式」の日記になる。現にそうして、15年以上書き続けてきたので、けっこうな分量になっている。

一日の主な出来事や植物・動物・菌類のこと、本を読んだ感想、その他もろもろ、なんでも書き付けておく。それをヒントにキーワードを探し、ブログの構成を考える。

はなのころの小野広美さんは、このお悔やみ情報の真っ白な裏面を画用紙に見立てて作品をつくる=写真上2。

はなのころの会報誌によると、小野さんは「記憶している文字を即興で書く」のが得意だとか。それに季節の果物や生き物、花火などのイラストを添える。文字は漢字が多い。

ここでもバイブレーションが働いた。私と同じ素材を使っている。私はカード式の日記用紙として、小野さんは画用紙として。方法こそ異なるものの、表現に利用しようという思いは同じ。それを知ってうれしくなった。

2025年12月13日土曜日

「菌類世」?

毎日2千歩前後は歩くと決めてからは、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館へ行く、スーパーのマルトへ行くというとき、「ラトブ散歩」「マルト散歩」を意識するようになった。

 それまでは目当ての本や品物には一直線に向かい、手にしたらすぐ貸出機やレジに直行する。ほかは見向きもしなかった。

しかし、一直線だけが時間の使い方ではない。図書館にはおびただしい本がある。マルトにもたくさんの商品がある。

世代や男女、仕事や趣味、その他もろもろの需要にこたえるための本が、商品が用意されている。

頭ではわかっていても余計な時間はかけたくない、いつもそんな意識がはたらいていた。

散歩しているのだと思えばいい。最近はそんなふうに意識を切り替えて書架をながめ、商品棚をチェックする。

一直線のときにはこんなこともあった。マルトでは私がカートを動かす。レジの列に並ぶと、なぜかカミサンがいなくなる。

どこへ行ったのかな――。いぶかっているうちに、レジの順番がくる。こちらは財布を持っていない。どうするんだ。内心焦っているところへカミサンが戻って来る。突然買うものを思い出すのだそうだ。

一直線から散歩感覚に切り替えたのには、これもあった。入館・入店したときから健康を意識してフロアをあちこち移動する。

ラトブでは図書館だけでなく、階下の書店やショップもぶらつくことが増えた。買うかどうかはともかく、なにがあるのかを「ラトブ散歩」で確かめる。

ほかの大型店へ行ったときにも散歩感覚で店内を巡る。それで100円ショップでは「数独」の練習帳を売っているのを「発見」した。

図書館の話に戻る。ラトブの総合図書館は、4階が子どもと生活・文学フロア、5階がいわき資料と歴史・科学フロアだ。

これまでは一直線のほかはカウンター前の新着図書コーナーをのぞくだけだった。最近は5階も4階も巡り歩く。

そうした「ラトブ散歩」で自然科学系の書架から見つけたのが、キース・サイファート/熊谷玲美訳『菌類の隠れた王国――森・家・人体に広がるミクロのネットワーク』(白揚社、2024年)だ=写真。

現代の地質年代を「人新世」と呼ぶ言い方がある。しかし、「私たちの住む世界は菌類の世界である。(略)人類の影響がどれだけ大きくても、菌類の影響にはとてもかなわない」(序文=ロブ・ダン)。

で、現在は「『菌類世』とも呼ぶべき大きな時代の、風変わりな一時期」なのだとか。「菌類世」? ロブ・ダンはそういう視点で本書を読むことを勧めている。

 本書は、菌糸体の特質を応用した新素材・新製品、菌類の代謝産物から生まれる新薬・石油化学製品の代替製品、プラスチック分解……。マイコテクノロジー(菌工学)の可能性にも言及する。

    散歩は夏井川の堤防であれ、図書館であれ、予期せぬ出会いを秘めている。そこがおもしろい。 

2025年12月12日金曜日

終活・朝活・脳活

 パッと思い浮かぶ「○活」がある。終活・朝活・脳活。若い人なら終活よりも就活、そして婚活だろうが、後期高齢者は部屋の片付けさえ即、終活になる。

 先日、座いすのわきに山積みにしておいた資料の整理をした。カミサンが座卓にこたつカバーを掛けるため、資料を移動して掃除機をかけた。それに合わせてダンシャリせざるを得なくなった。

 ブログを書くのに必要だからそこに置くのだが、終わってもそのままにしてしまう。「何年も前の資料まで必要なの?」ということで、春にこたつカバーを外すときも含めて、年に2回は資料の整理を余儀なくされる。

言われたとおりに振り分ける。あらかたはごみ袋行きになる。「これだって終活だから」。確かにそういう年齢になったのだと、妙に感心する。

当たり前の片付けが「終活」を兼ねるとなれば、甘い判断はできない。「もうこれはいい」。わりと厳しくダンシャリをする。

朝活は、カミサンが足の神経痛で横になっていたとき、店の開け閉め、ネコのエサやり、ごみ出しを「代行」したことから意識するようになった。

炊飯、料理はそのままカミサンが担当しているが、それ以外のことは指示されれば従う。

最近の習慣としては、早朝、カミサンを近所の接骨院へ送っていく。前は連絡がきて迎えに行ったが、このごろは送るだけでよくなった。

そもそも、朝は4時半には起きる。早寝だから早起きになるのは当然だ。起きるとノートパソコンを開き、翌日以降にアップするブログの原稿を入力する。

当日のブログは真夜中、一度目が覚めたときに起きて、日付が替わったことを確認してアップする。そして、遅くとも9時ごろまでには朝活(家事手伝い・入力)を終える。

日中は区内会その他、地域の用事があればそれをこなし、週に1~2回はいわき駅前の総合図書館へ行き、帰りは夏井川の堤防経由でハクチョウをウオッチングする。

堤防は工事のために通行止めになっていたが、11月30日で終了し、師走に入ると自由に行き来できるようになった。

朝9時以降はひとまず自由時間だが、ブログの仕上げと調べもの(ネット検索)をし、読書と「数独」(ナンプレ=ナンバープレース)を交互に繰り返す。散歩にも出る。

「数独」は脳活になるというので、今年(2025年)2月に始めた。まずは初級である。ルールを覚えながら、少しずつ慣れていった。

90歳になる近所のおばさんが数独をやっている。「慣れよ、慣れ」。その言葉を信じて続けたら、今では中級を越えて上級に挑戦する気持ちがわいてきた。まだ壁は厚い。が、攻略できたときの達成感は、ハンパではない。

新聞にもよく数独の問題が載る=写真。なにが脳にいいかというと、まず記憶力がアップするらしい。

   10カ月のビフォー・アフターでいえば、モノ・ゴトの記憶の輪郭がはっきりしてきた。やはり脳活にはなっているようだ。 

2025年12月11日木曜日

「きょうは来ないの?」

                                         
 毎月第2・第4火曜日に「いいのみんなの食堂」が開かれる。9月の第4火曜日、スタッフに加わっている知人から連絡があって、初めて出かけた。以来、月2回は「カミサンが夕食をつくらなくてもいい日」にして通っている。

11月の第2火曜日は昼、カミサンが「女子会」に参加するというので、マチへ送って行った。

 終わって迎えに行くと、余った食べ物と、「通りで売っていたので買った」というサラダ白菜を持っていた。

 「みんなの食堂」に行く時間(夕方4時過ぎ)になると、「行くの?」という。持ち帰った食べ物を含めて、おかずが余っている。

 それを食べれば、カミサンは夕食をつくらないですむ。老夫婦2人だけでは、余ったおかずを食べるだけでも大変だ。ここは「みんなの食堂」へ行くのを休んでおかずを始末しなくては――となった。

 するとほどなく、知人から電話が入った。「きょうは来ないの?」。行かない理由を説明する。「おかずが余って、それを食べちゃわないと」

 11月の第4火曜日は、その2日前の日曜日にイベント兼ねて実施する、ともいう。「日曜日は刺し身なんだよ」。というわけで、11月は2回とも「みんなの食堂」へ行くのを休んだ。

 そんな電話があったあとだけに、夜は少し厳粛な気分でおかずを食べた。おかずは女子会で出たてんぷら、ドレッシングをかけたサラダ白菜とキュウリ、前日からのおからの煮物、朝の残りの味噌汁=写真。

 焼酎のつまみとしては余るほどだ。おかげで、いつもよりは少し焼酎の量も増やし、時間をかけて残さずに食べた。

 サラダ白菜は初めてだった。定期的に届く特製のドレッシングがからみあって、いい味になっていた。レタスやキャベツよりサラダ白菜の方が私の口には合っているようだ。

 このごろはどういうわけか晩酌のおかずが多い。先日量ったら、体重が増えていた。食べ過ぎの自覚があったので、「やっぱり」である。

 11月をパスしたあとの、師走第2火曜日。「みんなの食堂」の日が近づいたある日。知人から「9日は『おにぎりと豚汁』くらいになる、それでもよかったらどうぞ」というメッセージが入った。

 実は、食べる方は抑えてもいいかなと思っていたときだけに、喜んで出かけた。豚汁は、今まで口にしたことのない新感覚の味だった。

子どもたちのお母さんといえば、30~40代だろう。私らから見るとわが子よりは若い世代である。その若い世代がつくった豚汁だという。

カミサンが直接その女性においしかったことを伝えると、大喜びしていた。こういう交流も「みんなの食堂」ならでは、なのだろう。

2025年12月10日水曜日

後発地震

                                              
 夜中に一度目が覚める。12月8日は深夜の11時15分、ユラユラ長く揺れる地震と同時に覚醒した。いやな揺れだった。

 トイレから戻ってテレビをつけると、北海道から東北の太平洋沿岸に津波警報・注意報が出されていた。

ほどなく市から貸与されている防災ラジオも、海岸や河口付近にいる人はただちに退避を――と呼びかけた。放送は何回も繰り返された。

 やがて気象庁から「北海道・三陸後発地震注意情報」が発表された。後発地震? そうだった。3・11の東日本大震災がそれだった。

 3・11の2日前、マグニチュード7.3の大きな地震が発生した。今思えば「前震」だ。そのあと、マグニチュード9.0の超巨大な「本震」がきた。「後発地震注意情報」はそれを機に新設され、今回初めて発表された。

 自分のブログでこの注意情報の運用方法について触れていないか検索したらあった。

令和5(2023)年1月に回覧網を通じてチラシを配布していた。忘れていた。後発地震の怖さを再確認するためにも要約・再掲する。

――令和4(2022)年12月16日、「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が始まった。それを知らせるチラシ=写真=が同5年1月、回覧網を通じて隣組に配られた。そこで「前発地震」と「後発地震」を知った。

本震のあとに余震がくる。これは一般の人でも承知していることだ。が、本震の前にも地震があることを、東日本大震災のときに初めて知った。

平成23(2011)年3月9日は水曜日だったが、たまたま夏井川渓谷の隠居にいて、揺れを体験した。

間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたか、と思うくらいに、揺れは外からやってきた。

「地震かな」。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。「やっぱり地震だ」。横揺れだった。長かった。

こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。県道も含めて、しょっちゅう落石がある。

地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

ラジオ(NHK)はすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え、臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた。

これといった被害はなかった。それもあって、ブログをアップした翌11日、千年に一度ともいうべき超巨大地震に見舞われるとは思いもしなかった――。

 後発の巨大地震が必ず起きるというわけではない。が、起きる可能性もあるということである。

少なくともこの1週間は3・11の記憶を反芻しながら、しかしいつものように日課をこなそうと思っている。