2025年9月3日水曜日

なぜ今『青い壺』

                                           
   作者は有吉佐和子。没後40年を過ぎて、なぜ今? 文春文庫の『青い壺』新装版=写真=が大変な売れ行きだという。

一度絶版されたが若い編集者によって「再発見」され、2011年に復刊されると発行部数を伸ばし続けている。

本の帯には発行部数が累計60万部超、1カ月前の新聞広告には80万部、さらに9月1日の広告では累計85万部突破とあった。それだけではない。この本がわが家にある。なぜウチに?

カミサンの知り合いが「読んだから」と置いていったのだそうだ。かなりのおトシだが読書好きで、娘さんが話題の本を選んでは届けるらしい。

本の帯や解説、ネットの情報を加えて、新装版が出るまでの経緯を頭に入れる。これはもう奇跡に近い。

中身は――。12世紀初頭の中国は南宋浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁の経管(きょうかん)――と、美術評論家が太鼓判を押す。

国宝級の「名品」だが、実際は日本の無名の陶芸家がつくった「青い壺」にすぎなかった。

それがいろんな人間の間を巡り、海外にも渡り、日本に戻って来る。最後は作者本人が、「名作」と絶賛する評論家に「私がつくった」と告げて終わる。が、信じてはもらえない。

青い壺の数奇な運命に、さまざまな人間模様が重なる。物語そのものは13話の短編連作だが、青い壺を主役と考えると長編小説ともとれる。

確かに面白い。小説を読む楽しさをたっぷり味わった。同時に、「永仁の壺」事件を思い出した。

松本清張『任務――松本清張未刊行短編集』(中央公論新社、2022年)にこの事件を取り上げた「秘壺」がある。拙ブログから抜粋・引用する。

――国の重要文化財に指定され、やがて人間国宝の陶芸家加藤唐九郎が「自分がつくった」と告白し、指定が解除された「永仁の壺」事件をモデルにしている。

指定を推薦した文部技官や、疑惑を追いかける新聞社の学芸部員、偽物をつくったとされる陶芸家などが登場する。

解説によると、「秘壺」が発表されたのは、贋作の疑いが濃厚だったものの、まだ決定的とはいえない段階のころだった。

唐九郎が、自分が作った贋作だと告白するのはそのあとで、やがて事件は国の重文指定解除、文部技官の引責辞任という形で決着する――。

有吉佐和子は知っていたのかどうか。事件が発覚するのは1960(昭和35)年。『青い壺』が文藝春秋に連載されるのは1977(昭和52)年だから、当然知ってはいた。としても、それを感じさせない筆力、構成力はさすがというほかない。

 いつの世も変わらない人間模様。物語自体も、終わりが始まりへと接続する。つまりは円環。繰り返し。

長い年月を経て、再びこれほどまでに受け入れられる過去の作品(本)はあっただろうか。やはり、売れ行きからしても奇跡というほかない。

2025年9月2日火曜日

雨より暑さが心配だった

                                 
 天気が問題といえば雨のこと。雨の場合は次の日曜日に順延する――。これが9月最初の日曜日に開かれる地区市民体育祭の慣例だった。

 4年に一度はいわき市長選と重なる。これもルーティンのようなものだ。前例に従って開催日が8月最後の日曜日に前倒しされた。さらに、雨天の場合は中止、が決まった。

というのは、会場が地元の小学校の校庭だからだ。1週間後の9月7日は体育館が投票所に充てられる。雨天順延になると投票を妨げることになる。

8月31日の前日まで毎日朝晩、ネットでいわきの気象情報をチェックした。テレビの予報だけではよくわからない。

 直前の予報は、「晴れ」で「気温32度」の気象会社が2社。NHKは「7時台曇り、8時台晴れ、9~10時台曇り、11~12時台晴れ」で「気温31度」だった。

 「『残酷暑』になるか」。いやな予感を抱いて寝たが、起きると曇っている。このまま曇天が続けば、最高の体育祭日和になる。

心配したのは、雨ではなく暑さだった。熱中症警戒アラートが発表されてもやるのか。強行して救急車を呼ぶ騒ぎにならないか。関係者の一人として、当日の気温だけが気がかりだった。

早朝6時、花火が2発打ち上げられる。体育祭開催の知らせだ。空模様は? 雲が出ている。これはいい兆候だ。

開会式の時点では曇天で、関係者のだれもがホッとした。とはいえ、時がたつごとに上空の雲が消え、来賓や長寿会対象の玉入れ(「童心にかえって」)が行われた午前10時前には、すっかり青空になった=写真。

地区対抗の団体競技は綱引きと安全運転、それに玉入れの3種目だ。リレーはコロナ禍を経て、選手が集まらなくなったために廃止された。

 わが区は、「サポーター」に団体戦の出場選手の確保をお願いしたが、欠員が出た。それを区の役員が加わることでなんとかしのいだ。

予定されたプログラムはお昼前には終了した。わが区は、綱引きは完敗(いつものことで、これは予想通り)、安全運転と玉入れは1位で、なんと総合優勝を果たした。去年は準優勝、今年は優勝と、若い家族連れの活躍で最高の結果が出た。

 晴天、しかし少々風あり。この風がプラスになったか。救急車を呼ぶようなこともなく大会を終えることができた。

 実は前日、地元体育協会のスタッフや各行政区の役員などが出て、会場のライン引きやテントの組み立てが行われた。

 カンカン照りの作業で、むしろこちらの方で体調を崩す人間が出てくるのではないかと心配したほどだ。

 私自身たいした仕事をしたわけではない。が、汗だくになり、家に帰ってぬるま湯につかっても、しばらくは体がほてったままだった。

 秋は名ばかりの高温が続く。一日たった月曜日は、福島県にも熱中症警戒アラートが発表された。日曜日はたまたまほんの一瞬、天が少し熱を抑えてくれたのだ。

2025年9月1日月曜日

66年前の少女雑誌

                                               
 紙の黄ばんだ雑誌がめくられた状態で、ポンと座卓のわきの資料の上に置かれてあった=写真。

 「長嶋をめぐる友情」と、縦に大きく見出しが付いている。上には矢印の黒地に白抜きで「孤独の黄金児」。その右わきには前文が載る。

 「グランドの英雄・長嶋の悩みはなにか? 人気のまと、ゴールデン・ボーイ長嶋をめぐる友情と、ねたみ……‼」

 ゴールデン・ボーイ? 友情とねたみ? 巨人軍に入団して2年目の長嶋茂雄を俎上(そじょう)にのせて、なにやら「友情」の観点から筆を進めている。

 まずは雑誌の正体から。表紙には「女学生の友」夏の増刊号、奥付には昭和34年8月15日発行、小学館とある。

 西暦でいえば1959年。66年前の雑誌だ。カミサンは高校1年生。「女学生の友」を毎月購読していたという。

 どこかにしまっていたのが出てきたのだろう。「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さんが今年(2025年)6月3日、89歳で亡くなった。あこがれの人だった。そのことをブログに書いたのを覚えていたようだ。

――私が子どものころ、相撲では栃錦と若乃花、野球では巨人の長嶋茂雄・王貞治に夢中になった。

 ミスターが巨人に入り、最初の試合で国鉄(現ヤクルト)スワローズの金田正一投手に4打数4三振を喫したときは、家(床屋)のラジオで実況放送を聞いた。

 翌59年の6月5日にはわが家のテレビで天覧試合を見た。4対4の同点で迎えた9回裏、ミスターが劇的なサヨナラホームランを打った。そのとき、小学5年生だった――。

さて、中・高生ともなると、悩みの中心は今も「男女の交際のしかたについて」だろうか。「女学生の友」は夏の増刊号でこの「友情」問題を特集した。

巻頭は哲学者堀秀彦の「友情幸福論」。続いて、読者からの18本の相談(投書)に参議院議員で婦人運動家の奥むめおが回答している。

女優の浅丘ルリ子が「私のボーイ・フレンド」と題して、同じ日活の俳優仲間、裕ちゃん(石原裕次郎)、旭くん(小林旭)、ター坊(川地民夫)の3人について語っている。

ミスターや裕ちゃんが雑誌の表紙を飾る時代だった。「女学生の友」も時代の人気者をほうっておかなかった。

 まだプロ2年の長嶋評である。世間に流布している「うわさ」を紹介しながら、ほんとうはどうなのだろうと取材を進める。

 で、結論は月並みというか、「人気者であるという意識をすてて、もっと自由にふるまってほしい」程度で終わる。どうにも食い足りない。

 ミスターの記事より強く印象に残ったのは表紙画だ。とがった細いあごと大きな瞳の女性が描かれている。

作者は藤田ミラノ。最近何かの本で名前を知ったばかりだ。しかし、この画家については、検索を続けてもほとんど情報が得られない。

日本からフランスへ移住し、そちらで仕事をしているというところで終わっている。それからどうなったのか、気になる画家のひとりではある。

2025年8月30日土曜日

胃袋の役目

                                
   晩酌は焼酎。まずはグイッと口に含み、すぐ冷たい水をチェイサーとして流し込む。最初から水割りにはしない。胃袋の中で水割りにする。

この夏は、冷えた水のほかに、「冷製味噌スープ」がチェイサーに加わった。水とスープを交互に流し込む。

冷製味噌スープの正体は、朝、カミサンがつくった味噌汁だ。いつもは鍋をそのままガス台に置き、宵にカミサンが温めて飲む。余れば捨てる。

ところがこの暑さだ。饐(す)えないよう、朝の残りを小さなどんぶりに移して冷蔵庫で冷やしておく。

それをたまたま晩酌のときに飲んだら冷たくておいしかった。特にナメコのキョロッとしたのど越しがたまらない。今は毎晩、冷製味噌スープを飲んでいる。

その延長で夜、残った焼き肉とかハンバーグも冷蔵庫で冷やしておく。翌晩、またこれらを冷たいまま晩酌のおかずにする。

熱いと汗をかきながらの食事になる。が、冷たいので、かえって食が進む。カミサンも晩の料理を作らないですむ。

そのまま残しておいたら廃棄されたかもしれない。生ごみを減らす一石二鳥のアイデアでもある。

若いときと違って、後期高齢者になった今は食べる量が減った。典型が日曜日のカツオの刺し身だろう。

今は過去形で語るしかないのだが……。行きつけの魚屋さんが閉店するまでの約40年間、日曜日の晩はカツ刺しで晩酌をした。

30切れはあった。それをさかなにチビリチビリやる。たまに3分の1ほど残ることもあったが、たいていは胃袋に収まった。

近年は、いつも半分近くが残る。翌朝、海鮮丼にしても余る。残りはにんにく醤油に漬けて、晩に揚げてもらう=写真。

ハマには生カツオの切り身を焼き、醤油を煮て冷ましたところに漬けて食べる「焼きびたし」がある。わが家ではその逆の「ひたし揚げ」だ。どちらにしても、カツ刺しを食べきる生活の知恵といってよい。

そうやって食べ終わると、必ず脳内に浮かぶ言葉がある。胃袋はエネルギーの生産工場であり、残り物の分解・処理工場でもある――。

要は、食べ物は残さずに食べきる。残ったものも食べ方を工夫すれば舌が喜ぶ。それで生ごみとして廃棄する量が減る。食器洗いも楽になる。

「モノを粗末にするな」。たぶん小さいころに母親や祖母から口うるさくいわれたことが影響している。

その「原点」とでもいうべきものが、ポツンと一軒あった山中の「バッパの家」である。今は杉林に変わった。

家の東側には、上の沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。水も汲んだ。

食事はめいめい自分の箱膳を出し、終わるとごはん茶わんにお湯を注ぎ、たくあんのあるときはたくあんで茶わんの内側をこすってきれいにする。お湯とたくあんは胃袋へ――これが当時の「茶わん洗い」だった。

それに比べたら今は、水がふんだんに使える。流水で茶わんを洗っているときだけ、多少罪悪感がわく。やはり「スズメ百まで……」のようだ。

2025年8月29日金曜日

朝ドラ、ファクションの妙味

                                         
 月に1回、移動図書館が隣(コインランドリー)の駐車場にやって来る。カミサンが、地域図書館として家の一角を開放しているので、平均30冊ほどを更新する。つまり、前に借りたのを返して別の本を借りる。

 今回借りた本の中に越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ――やなせ夫妻のとっておき話』(小学館、2025年)があった=写真。図書館スタッフに勧められたのだという。

 越尾さんは1992(平成4)年春、それまで勤めていた協同組合を辞める。そのことを、茶道の先生(漫画家やなせたかしの奥さん)に報告すると、「あら、うちで働かない?」即座に誘われた。

その年の秋にはやなせさんの会社に入り、以後、奥さん、次いでやなせさんが亡くなるまで、秘書として夫妻に寄り添ってきた。

その後は「やなせスタジオ」の代表取締役を務めている。秘書として20年余、折に触れて聞いた夫妻の話をまとめたのが本書である。

やなせさんに関しては、ノンフィクション作家梯久美子さんが書いた評伝「やなせたかしの生涯――アンパンマンとぼく」(文春文庫、2025年)に詳しい。

しかし、アンパンマンが最初はひらがなで書かれ、あとでカタカナになった理由は、越尾さんの本で初めて知った。

「アンパンマンは、弾むような響きでなくてはダメだ。ひらがなでは、そのリズム感がない。だからカタカナでなくてはと思ったから」その旨を出版社に伝えたという。

東日本大震災の前、常磐にある野口雨情記念湯本温泉童謡館で月に1回、童謡詩人についておしゃべりをした。金子みすゞや野口雨情などのほかに、やなせたかしについても調べて話した。

それもあって、朝ドラの「あんぱん」が始まると、これはやなせたかしと妻をモデルにしたドラマだと、すぐにわかった。

 その後、ブログの読者から梯さんの評伝が文庫で出たことを教えられ、さっそく買って読んだ。

 やなせ夫妻の実人生はそれであらかた頭に入った。『やなせたかし先生――』では、その人生を補強する「肉声」に触れた。

 モデルがいるとはいえ、テレビドラマである。ノンフィクションではない。いうならばファクション=実在の人物や出来事をフィクション化して描いた作品だ。

 特に今回は著名人が次々に登場する。役名は省略するが、手塚治虫、いずみたく、永六輔、立川談志、小島功などの漫画家連……。そして、耳になじんだ曲と歌詞。

8月27日には小4の女の子からのファンレターが紹介され、翌28日にはその女の子が祖父と「やない家」を訪問する。

子どもなのにかなり厳しい言葉を吐く。しかし、父親を亡くしたばかりで、「やないたかし」が書いた詩に救われたというあたりから、こちらの見方が変わっていく。

ファクションからいうと、「あんぱん」の脚本家中園ミホさんがモデルだそうだ。なるほど、大ファンだったのだ。

これからいよいよ佳境に入る。今回の朝ドラは史実とフィクションの交錯が不思議な魅力をかもし出している。

2025年8月28日木曜日

ミョウガの子がわんさと

                                
  8月に入ってすぐの日曜日、うっすら明るくなった庭に出ると、ミョウガの小群落に白っぽいものが落ちている。

 なんだろう? 近づいてよく見たらミョウガの子(花穂)だった。株元から生え出て、先端で薄黄色い花を咲かせていた=写真上1。

いつもは月遅れ盆が過ぎたころ、思い出してミョウガの小群落に分け入る。すると一つや二つ、黄色がかった白い花が咲いているのを見かける。それに比べたら今年(2025年)はずいぶん早い。

夏井川渓谷の隠居の庭にもミョウガの小群落がある。わが家の庭で初収穫をした同じ日、隠居のミョウガをチェックすると、やはりミョウガの子が生えて花を咲かせていた。

このときから3週間。8月24日に隠居へ行くと、すぐカミサンがミョウガの子を収穫した。

それがザルに入って坪庭の水場にあった。私も手伝わないといけない。ホースで水をかけながらごみやしおれ花を取り除き、いつでも調理できるような状態にした=写真上2。数えると64個もあった。これまでで一番の収穫量ではないか。

 わが家では、ミョウガを年2回楽しむ。春、ミョウガタケ(茎)が芽生えて15センチほどになったとき。そして初秋、ミョウガの子が茎の根元に現れ、花を咲かせ始めたとき。どちらも汁の実や薬味にする。

咲き始めなら花も食べられる。「エディブルフラワー」(食用花)である。一日花なのですぐしおれる。しおれ花は土やごみと一緒に取り除く。

今一番気に入っている食べ方は甘梅酢漬けだ。花も咲き始めなら一緒に漬けられる。

甘酢に彩りとして、シソで赤く染まった梅酢を加える。梅酢とミョウガの香味が口の中でからみあい、溶けあって広がる。採りたてなので、シャキシャキしてやわらかい。初秋、晩酌のおかずになくてはならない逸品だ。

糠漬けもいいのだが、肝心の糠味噌が猛暑とコバエのためにおしゃかになった。こちらは、今季はあきらめるしかない。

刻んだカブやキュウリに、みじんにしたミョウガの子をまぶす一夜漬けもいいが、急には食材がそろわない。

 これはいつも書き加えておくのだが、香味の正体は「α―ピネン」と呼ばれるもので、物忘れどころか集中力を高める効果があるそうだ。加熱すると香りは大きく減じるというから、やはり甘梅酢漬けが一番だろう。

 とはいえ、ほかに料理法はないものか。カミサンが後日、あるところから聞きつけてきた。

ミョウガの子に大葉とキュウリを加えて刻み、そのまま「ごまだれ」をかけて食べる。さっそく晩酌のおかずになって出てきた。これもまたさわやかな土の味だった。

2025年8月27日水曜日

コウノトリの足環情報

                                
   先日、若い仲間が来て、「コウノトリが3羽、平・馬目(まのめ)に現れた。野鳥の会いわき支部のホームページに写真が載っている」という。

さっそくホームページの「最近の出来事」欄を開く。8月5日の項に、稲穂の間に立つ3羽の写真がアップされていた=写真。

会員から情報が寄せられ、朝9時ごろ現地に着いて探したら、田んぼにいた。暑い中、3羽がそろうのを待って撮影した、とある。

 馬目といえば、わが家からも、仲間の家からも近い。それこそ、灯台下暗し、である。「最近の出来事」欄をスクロールし、6月以降のコウノトリの情報を探った。

3羽だけではない。別の個体の写真もアップされていた。小川・三島の夏井川に現れたコウノトリについても紹介している。

それぞれの足環の番号を記しているところが野鳥の会らしい。番号を手がかりに、いわきへ飛来したコウノトリの生まれた場所を追った。

 参考例として、震災前の2010(平成22)年2月、夏井川の堤防を散歩中に見たコハクチョウの首輪の話を少し――。

「緑色の首環と足環を付けたのがいる。重くはなさそうだ。首環には細いアンテナが付いてんだ」

新川合流部で越冬するコハクチョウがピークの250羽前後に達したころ、まだ健在だった「白鳥おじさん」から教えられた。

番号は「169Y」。2009年10月、北海道・網走のクッチャロ湖で首環と足環が装着されたコハクチョウだった。

無線送信機は衛星で移動経路を追跡するためだろう。足環は右が緑色、左がアルミニウムらしい銀色だった。

さて、いわきで目撃されたコウノトリの場合は、たとえば三島に現れた個体は「J0771」というふうに、「J」から始まる。

ネットのコウノトリの足環装着一覧表によると、「J0771」は去年(2024年)4月に京都府綾部市で生まれた雄だった。

 馬目の3羽は前々日には近くの四倉・長友にあるトマトランド付近で目撃されている。足環の番号はそれぞれ「J0843」「J0844」「J0845」である。

新潟県上越市で今年生まれたばかりのきょうだいらしい。それで頭に浮かんだのが、いわき市原子力災害広域避難計画だ。

平地区の場合、「避難・一時移転」市町村として、茨城方面のほかに新潟県魚沼・南魚沼・見附・長岡・小千谷・十日町・柏崎各市と出雲崎・湯沢・津南各町が明記されている。

上越市は十日町市や南魚沼市の西の方に位置する。避難とは逆コースを飛んで来たことになる。

ほかに富岡町で目撃された個体は足環が「J0728」で、こちらは去年、石川県津幡町で生まれた若鳥である。

いずれにしても、コウノトリは長距離をものともせずに(転々とだろうが)移動する。ひんぱんにいわきに現れるようになれば、なかには……と期待を抱かせるが、そうは問屋が卸してくれない?