2021年9月21日火曜日

梨のコイン自販機

        
 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、国道399号と県道小野四倉線を利用する。

 上平窪(平)の坂を越えて下小川(小川町)に下ると、道路沿いに農家の庭先直売所がある。近年はその先、同じ道路沿いの関場に梨のコイン販売機がお目見えした。

 おととい(9月19日)朝、販売機のロッカーに袋詰めの梨があるのを確認した=写真。あとで検索したら、販売機には名前が付いていた。「朝市くん」。山形県天童市のメーカーが製作している。

 一帯には梨畑が多かった。今も道路沿いに何カ所かある。この道路を行き来していると、梨農家の1年がわかる。芽かきや摘蕾・摘花・摘果作業があり、収穫がすめば晩秋~冬の剪定作業が待っている。

 庭先直売所はたまに利用する。コイン販売機はまだだ。隠居で土いじりをした帰り、初めて販売機から梨を買うことにした。

 ちょうど午後3時ごろだった。いつもその時間に補充するのかどうか、奥の家から若い女性が袋詰めの梨を運んできた。カミサンが販売機からではなく、直接、女性から梨を買った。今は「豊水」が出回っている。4個で300円だった。名前の通り、水分がたっぷり含まれていた。

 いわきの梨が出回るようになると、決まって思い出す人間がいる。「百姓バッパ」を自称した作家の吉野せい(1899~1977年)と、夫の詩人三野混沌(吉野義也=1894~1970年)だ。好間の菊竹山で、主に梨を栽培して生計を立て、子どもを育てた。

 混沌は、中国から導入された最晩生の「来陽慈梨(ライヤンツーリー)」に魅せられ、かつて静岡にあった興津園芸試験場に何度も懇望して分けてもらった穂木(ほぎ)を、梨の成木を倒して割り継ぎし、1反歩余りの中国梨畑に切り替えた――。そんなエピソードが、せいの作品集『洟をたらした神』の「公定価格」に載る。

「公定価格」そのものは、戦時下、梨を公定値から少し高く売ったら、警察が来て呼び出しをくらい、始末書を書かせられたという、せいの反骨を描いたものだ。

平成11(1999)年にいわき市立草野心平記念文学館で開かれた「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」の図録に、四男の吉野誠之さんが書いている。

「母の生涯の仕事の中で、その全てが梨と共に――五十年近く梨作りに情熱を燃やしつゞけたと云っても過言ではないでしょう。せん定や、玉すぐり、理にかなった栽培法で父親以上の腕前でした」

1歳にも満たずに亡くなった次女に「梨花(りか)」と名づけた。それほど梨の花が好きだった。誠之さんは、母親は「どうしたら梨花に対して償いを、又昇華させることが出来るだろうかと晩年迄思いつゞけ、創作となって梨花と共に生きつゞけたのかも知れない」としめくくる。

来陽慈梨は戦前の話で、戦後は「二十世紀」や「新高」を栽培した、と図録にある。いわきの梨を口にするたびに、「いつかは来陽慈梨を」という思いがわく。

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