2009年8月31日月曜日

秋風ひんやり


あすは9月1日、「二百十日」だ。その言われ通りになって、台風11号が関東・東北地方に接近している。総選挙の投・開票が行われた日曜日(8月30日)は、朝から曇り時々雨の肌寒い一日になった。夕方、国道6号沿いにある気温表示板を見ると17度だった。時折、冷たい風がドッと吹いた。

「風の又三郎」の書き出し部分を思い起こした。〈どっどど どどうど どどうど どどう、/青いくるみをふきとばせ/すっぱいくゎりんもふきとばせ/どっどど どどうど どどうど どどう〉。あおいクルミの実も少しずつ熟してきたのか、くろずみ始めたものがある=写真。岸辺の木である。オニグルミは渓谷だけでなく、下流の河川敷にもかなり生えている

「風の又三郎」の9月1日は青空、現実には、その前々日の8月30日がひんやりするくらいの曇雨天。今朝はこれから風雨が強まりそうだ。

秋は月遅れ盆の終わるころから忍び寄ってきた。長い梅雨が終わって青空が戻った。と同時に、盛んにさえずっていたウグイスが沈黙し、ホトトギスも南に去って鳴き声が消えた。キノコも様変わりしつつある。夏キノコが消えて、秋キノコが発生する時期だが、きのう森へ入ったら、“端境期”なのかキノコの姿はなかった。

日本の政治の世界にも大風が吹いた。民主が大勝ちした。勝ちすぎてちょっと怖いくらいだ。自・公民はひとしお秋風が身にしみていることだろう。庶民の一人としては、政権交代という変化への期待と不安、これがないまぜになっている。

2009年8月30日日曜日

ノウサギの死


ざっと10日前のことだったか。早朝、夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせていると、路側帯の外側に横たわっている動物が目に入った。いわき市小川町の国道399号、コハクチョウ越冬地の近く。ちらっと見た印象ではノウサギらしかった。

無量庵でキュウリとインゲン、真っ赤に色づいた激辛トウガラシを収穫した帰り、車を止めて死骸を確かめた。長い耳の先端が黒いほかは茶色い毛で覆われている。まぎれもない、ノウサギだ=写真。車にはねられたのだろう。外傷は見られなかった。にしても、俊敏なはずのノウサギがなぜ輪禍に?

ノウサギは夜行性だから、日中、無量庵の周辺で見かけたことはない。庭から一段下の草地を刈ると、決まってビー玉大の黒いフンが転がっている。それで、家の近くまでやって来ているのが分かる、そんな程度だ。

前にもコジュケイやタヌキ、テン、ツバメなどが輪禍に遭った話を書いた。その後も、動物の死骸はあとを絶たない。集めるつもりはないのだが、データだけは少しずつ増える。無量庵の近くではハクビシンがはねられて横たわっていた。こちらはだいぶ時間が立っていたらしく、カラスはつつくところはつついてとっくに姿を消していた。

ノウサギの死骸のそばに電信柱がある。電線に数羽のカラスが止まっていた。ノウサギの軟らかい部分を狙っているのだが、車が行き来する時間帯になって、なかなか目的を達せられないでいるようだった。人間の暮らしと重なるところで生きる動物は、人間同様、安閑としてはいられない。

2009年8月29日土曜日

新型インフルを警戒


スウェーデンに住む同級生Hからのメールが別の同級生Yから転送されてきた。同級生数人が来月中旬、病み上がりのHを見舞いに行く。ついでにフィヨルドを観光する。四十年余前の修学旅行以来の団体行動だ。

メールにこうあった。「こちらの9月は日本の11月ころの気候になることもあるので、コートを1枚持ってきたほうが良いと思います。インフルエンザはこちらでも問題で全国民がワクチンを打つようになるようです」

9月に晩秋の国へ行く。寒さはコートやセーターで対応できる。問題は「見えない敵」新型インフルエンザだ。インフルエンザでなくても発着時に発熱していると、「出国不可」「隔離・待機」の憂き目に遭う。ともかく自分でしっかり体調を管理するしかない。

言われるように、外出から帰ったら手洗い・うがいを励行する。図書館その他では備え付けの消毒液で手を消毒する。海外旅行のためよりも、まずは孫に移したくない。それが第一。その孫が遊びに来た日にカミサンが発熱した。幸い一夜で回復した。単なる風邪だった。

期日前投票へ行ったら、若い夫婦と抱っこされた子どもがマスクをしていた。それも大事な自衛策だ。私はのどがいがらっぽいかなと感じたら、梅干しを口に含む。梅酢の殺菌作用を期待してのことだ。で、このごろは血圧計だけでなく、体温計も身近なところに置いてある。

新型インフルエンザがらみで「共立病院の小児科には行くな」という無責任なうわさが流れているのを聞いた。その小児科で孫が救われた。ドクターや看護師さんたちの献身を間近に見た。スタッフの対応に安心していられた。

さて、朝晩の散歩も外出には違いない。スルボが群れ咲いている=真=のを見るくらいならともかく、人と会って話すことがある。そういうときにはやはり念を入れてうがいくらいはした方がいいのかもしれない。

2009年8月28日金曜日

カワウの日光浴


週末、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で畑仕事をする。それが一段落すれば、家の中で横になるか、そこらを歩き回るかする。背筋を伸ばしながら気分転換をはかるには、ぶらぶら歩きが一番。でも、頭の中のセンサーは被写体との遭遇に備えてスイッチが入っている。渓谷では、被写体には事欠かないのだ。

対岸の森へ行くには、すぐ近くの水力発電所の吊り橋を渡る。ここで一度足を止め、下流中央に露出している岩盤をこっそりうかがう。カワガラスやカルガモが止まっていることがある。このごろは、よくカワウが止まっている。渓谷だからカワウ、目の周りの黄色い裸出部の形からしてカワウと決めつけているが、どうだろう。カワウで話を進める。

カワウは人間の姿を見ると、すぐ飛び立つ。ところが先日は、吊り橋に人間が現れても羽を休めたまま。3羽が時々、首を傾げたり、振り返ったりして警戒を怠らないものの、飛ぶ気配はない。近くの釣り堀で腹を満たしたあとの日光浴か。これ幸いと、岸に沿う木陰に入り込み、抜き足差し足、時間をかけて接近する。

直射日光がカワウの黒い背中を照らす。1羽が近くの岩盤に飛び移る。くちばしを開き加減にして、盛んにのどを震わせている。デジカメのレンズを最長にしてカシャカシャやり=写真、モニター画面で拡大する。目やあごの黄色い皮膚の裸出部はあごで終わっているもの、のどまでいっているものと個体差がある。色にも濃淡がある。若鳥らしい。

カワウはたまたまの例で、言いたかったのはこういうことだ。畑仕事をする。疲れたからといって無量庵で横になる。それでわが家に帰れば、夏井川渓谷の自然の営みとは切れたままで終わる。畑仕事は確かに自然が相手だ。それだけではしかし、ピンポイントの自然と向き合ったにすぎない。

人間の営みと交差するように自然の営みがある。人間の隣人としての鳥獣虫魚がそこにいる。草木も、菌類もいる。カワウは、たまたまその日のシンボルだった。別の日にはキノコがそのシンボルになる。また別の日には花がシンボルになる。人間と自然の交通が山里の暮らしの原点なのだ。

畑仕事だけをよしとしたのでは、カワウには会えなかった。私のカメラ術ではまずまずの写真も撮れなかった。自然は絵はがきのように見るものではなく、働きかけるとこたえてくれるもの――あらためてそう感じたのだった。

2009年8月27日木曜日

竹の根こそぎ作戦


『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 1地域個性と地域力の探求』『同 4暮らしと景観/三澤「風土学」私はこう読む』(農文協)の2冊が、いわき総合図書館の新着図書コーナーに展示されていた。哲学者の内山節さんが〈私はこう読む〉のトップバッターとして書いている。早速、借りて読んだ。

〈いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう〉。こんな三澤の文章を紹介しているのは、民俗研究家の結城登美雄さん。わが意を得たり、の思いがした。

朝晩散歩する夏井川の対岸2カ所で工事が行われている。河川敷にたまった土砂を撤去して氾濫を防ぐ(下流の方)、洪水等の被害を防止する(上流の側)のが目的だ。洪水防止の方では竹林が伐採され、地下茎をむしり取る「根こそぎ作戦」が始まった=写真

そうこうするうちに、こちら側(左岸)でも改修工事の準備が始まった。蛇行部の護岸がえぐられ、土砂がむき出しになっている。これから半年余をかけて川床を掘削し、護岸を整備する、と案内標識にあった。立ち入り禁止のためのロープも張られた。

先に、流灯花火大会が開かれる平・鎌田で、川にできた“中島”の土砂が半分近く取り除かれた。土砂で閉塞した河口でも繰り返し開削工事が行われている。新たに始まった土砂除去工事と改修工事は、場所でいえばその中間、平・中神谷と対岸の山崎だ。一連の工事に、つい賽の河原の石積みを思い浮かべてしまう。

三澤地理学の「風土」とは、大地の表面と大気の底面(宮沢賢治のことばでいえば、気圏の底)が触れあうところ。その風土はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ。それに見合った産業と生活のあり方を探求するのが「風土学」の目的ということになる。

目の前で行われている河川改修工事は「風土学」の範疇に入るものだろうか。つまり、川に訊いたものだろうかと自問すれば、点数はどのくらいになるだろう。

結城さんはこんな三澤の文章も紹介している。〈雨も、雪も、風も、寒さも、さては、山も河も、なにも自然という自然に悪いものは一つもないはずであります。善悪はただ人間界だけの問題であります〉。混然一体となっている自然の営みと人間の営みとを切り離し、自然を対象化して改変する西洋流の自然科学には限界がある。

2009年8月26日水曜日

電話世論調査


電話がかかってきた。受話器の向こうから抑揚のない声で女性が語りかける。衆院選に関するアンケートだという。コンピューターを使った電話世論調査だ。現役のころ、一度これをやったことがある。録音された声でピンときた。

このところ毎日のように、マスコミ各社の電話世論調査結果が紙面化されている。調査の方法として、こんな断り書きが載る。「全国の有権者を対象に、コンピューターで無作為に電話番号を発生させて電話をかけるRDD(ランダム・デジット・ダイヤリング)法で実施した」

このRDD法で電話がかかってきて、言われたとおりに自分の考えに合った番号を押した。質問は5つだったか。①投票に行くか②福島5区では誰に投票するか③比例区ではどの政党に投票するか④年代は⑤支持政党は――。質問はもっと複雑だったと思うが、記憶にあるのはこんなところだ。

世論調査では勝ち組がはっきりしてきた。期日前投票を済ませた人は別だが、アンケートにこたえた段階と世論調査結果が出たあととでは、実際の投票行動が異なる人も出てこよう。無党派層にその傾向が強いはずだ。

A党が勝ち過ぎても面白くない。かといって、B党には入れたくない。第三のC党に入れるか。あるいは勝ち馬に乗るか、反対に負ける方を応援するか、といったさまざまな心理がはたらいて、違う動きが生まれる。が、このアナウンス効果はコップの中のさざなみのようなもの。

8月30日の夜半には結果が出る。庭のニホンフヨウ=写真=を眺めながら、〈そろそろ期日前投票に行かねば〉と思った。

2009年8月25日火曜日

トトロがいた


父親と一緒に、孫が久しぶりにやって来た。ほぼ1カ月前、急な発熱で重症化し、3週間近く入院した。容体が安定してからは毎日、会いに病院へ通った。月遅れ盆初日に退院してからは、いつものように間遠い対面となった。それも、「来る」ではなく「会いに行く」である。

2歳4カ月。語彙が豊かになった。とはいえ、祖父母は両親のようにはコミュニケーションがとれない。理解できない言葉(というより音声)がある。親に通訳してもらって初めて納得する。

やって来たのは午後2時からまり。久しぶりに祖父母の家に来たものだから、父親が「帰るよ」といっても首を横に振っている。「トトロを見に行こう」と父親が言うが、やはり首を振ったまま。毎日のリズムがある。昼寝の時間だという。「石森山を巡っているうちに眠るから」というので、父親と孫、祖父の三代の男が車に乗り込み、石森山を目指した。

道々、「トトロがいた」を孫が繰り返す。石森山はトトロがいてもおかしくない里山だ。「トトロの森だよ、トトロがいるね」と調子を合わせるが、いまひとつかみあわない。父親が車のスピードを緩めて窓を開ける。「ミーン、ミーン」。孫が耳を澄ます。鳴き声をまねる。それでも孫には「トトロ」しか関心がないようだ。

そうこうしているうちに、上下のまぶたがくっつき始めた。片寄側から石森山に上り、絹谷側へ下りかけるころには、ほぼ夢の中に沈んだ。

実はそこからが本番だった。孫が言う「トトロ」は山を下りた絹谷の田園地帯に、本当にいた。草野小絹谷分校。校庭に一本の針葉樹が立っている。その木の緑が刈り込まれ、目鼻立ちが分かるように飾り付けられて、「トトロ」に変身した=写真。孫の言うとおりに「トトロがいた」のだ。すごい、面白い――私の中の少年が反応した。

絹谷分校は、校舎そのものも小さくてかわいい。それをバックに「トトロ」が絹谷の里を見つめている。今日(8月25日)から2学期。分校の「トトロ」はわくわくしながら子どもたちを迎えたことだろう。

2009年8月24日月曜日

蚊帳をつる


月遅れ盆以後、天気が少し回復してきた。この1週間余りはセミの鳴き声もよく響く。夏井川渓谷(いわき市小川町)ではアブどもが元気に飛び回っていた。無量庵の中でも、畑でも、森の中でもまとわりついて離れない。

開け放たれた室内では蚊取り線香も効き目が薄い。1人に1つ、ハエたたきが必要だ。うっかり昼寝もできないとなると、どうしたらいいものか。カミサンが閃いた。押し入れに蚊帳があったはず。白い蚊帳を取り出した。ここ、そこ、と言われたとおりに鴨居にフックをかけて蚊帳をつる。

“昼行灯”ならぬ“昼蚊帳”ができた。早速、中に入って居心地を確かめる。外は晴れ。風もない。蚊帳の中から見ると、部屋に一枚オブラートがかかった感じ=写真。昼寝にはもってこいだが、本を読んだりするには少々熱がこもって暑そうだ。外からは中をうかがえない。だらしなく寝ているのには都合がいい。

蚊帳はしばらくつったままにしておくことにした。きのう(8月23日)も畑仕事をしたあと、蚊帳の中で昼寝をした。本も読んだ。緑色の蚊帳ではどうだろう。本が読めるだろうか。ときどき顔を上げて外を見ると、目がかすんだ感じになる。目が疲れたのではない。網目のオブラートがそうさせるのだ。

曇って気温が上がらなかったせいか、朝のうちは畑にいてもアブ・蚊の襲撃はなかった。それが昼寝をするころには、蚊帳の外をアブが飛び交うようになった。太陽が顔を出したのだ。アブたちはやがて窓に集まってブンブンやり始める。横へ移動すれば外へ出られるのだが、その知恵はない。ハチも、チョウも同じ。

蚊帳があると部屋を自由に使えない。その点は不便だ。が、残暑はもう少し続くだろう。アブにチクリとやられるよりは不便な方がいい。風が吹けば、蚊帳のすそはめくれあがる。蚊帳の用をなさない。が、アブも蚊も風に邪魔されて攻撃を仕掛けられないからおあいこだ。ともかくも、無量庵には蚊帳が似合っている。それだけ古いということだ。

2009年8月23日日曜日

最後の「やわら会」


月遅れ盆に夫婦で墓参りをした。墓地の入り口にサルスベリの木がある。ピンクの花が咲き誇っていた。「お盆にこの花が咲いてるのは初めてじゃない?」。私もそう思った。長梅雨が影響したに違いない。

わが散歩コースでも、至る所に庭木として植えられている。木全体が鮮やかなピンク色に染まっているものもある=写真。で、夜はいつものように、花より酒。おととい(8月21日)は地域の住民有志9人による懇親会が開かれた。

月一回の定例的な飲み会だ。誘われて5月から参加している。店の名前をとって「やわら会」というのだそうだ。会に名前があるのを初めて知った。店は歩いて数分のところにある。といっても、8月30日で店をたたむのだという。営業を続けて12年。飲み会のメンバーはほとんどが常連だ。店とママさんに感謝する惜別の会となった。

ひととおりママさんを加えて談笑したあと、カラオケタイムに入った。カラオケの大好きな御仁が半数はいる。レパートリーが広い。真っ先にちあきなおみの「紅(あか)とんぼ」がかかった。

♪空(から)にしてって 酒も肴も/今日でおしまい 店仕舞い/五年ありがとう 楽しかったわ/いろいろお世話になりました/しんみりしないでよ ケンさん/新宿駅裏 紅とんぼ/想いだしてね 時々は……

ママさんの心情を代弁するような歌だ。にしても、こういう歌をよく知っているものだと感心する。現役時代の飲み会は、たとえば同業他社氏、たとえば若い連中と、といったケースが多く、カラオケも私の知らないJポップ系のものが大半だった。60歳が一番若い「やわら会」では演歌、演歌、演歌である。

懇親会は、次回から2カ月に1回と決まった。ママさんもメンバーに加わるという。場所は未定だが、「やわら」の近所だろう。「やわら会」はなんと改称するのか。ヤワラカイ名前から、カタイ名前になるのだろうか。

いつだったか、平・田町(いわき市で一番の飲み屋街)のスナックで飲んでいるうちに、「私が行ったところは全部、店じまいしてる」と言ったら、ママさんが嫌な顔をした。貧乏神だとは思わないが、結果的にそうなってしまうのだ。今度もそうだ。とはいえ、頑張って続けている店もあることだから、たまには田町にも繰り出すか。というのは冗談。

2009年8月22日土曜日

ヤブヤンマ飛来


わが家の庭は、狭い割には木が多い。いや、密植状態だ。虫たちにはそれが、ちょっとしたえさ場・休み場・狩り場になるらしい。

草むらにはヤブ蚊がひそんでいる。庭のミョウガの子を採ろうとすれば、長ズボンにはきかえなければならない。車に乗ったらすぐエアコンをかける。蚊は風に弱い。車内に風を起こさないと、たちまちチクリとやられる。家では蚊取り線香が欠かせない。

ときどき茶の間に珍客が現れる。スズメ、クワガタ、カミキリムシ、ジャノメチョウ、セミ、クモ、アシナガバチ……。

茶の間の天井板を四角い竹筒が支えている。十数年前、そこに穴を開けたハチがいた。野外からせっせとえさを狩り、竹筒の中に運び入れている。と、今度はその巣を攻撃するハチがやって来た。攻撃バチが巣からえさをくわえ出しては捨てている。えさは小さなクモだ。ハチの子も天井から降って来た。ジガバチ系のハチらしかった。

先日は、茶の間の電球の笠とひもを利用してオニグモの子が円網を張った。朝にはいったん網を片づけ、宵になると再び網を張る。なかなか几帳面な性格だ。羽虫を減らしてくれるので、網を張っても放置しておく。

で、さきおととい(8月19日)のことである。茶の間で本を読んでいたら、脇腹の方で羽音がする。オニヤンマ?だ。部屋を飛び回り、ホバリングをしたかと思うと、テレビ台や茶ダンスに止まって尾の先端をちょんちょんやっている。産卵行動か。しばらくそんなことを繰り返したあと、天井板に止まって動かなくなった=写真

あとでじっくり写真を見たら、オニヤンマとはちょっと違う。ヤンマ系には違いないが、オニヤンマよりは小ぶりだ。背から尾へかけての黄紋も違うようだ。ネットで調べると、ヤブヤンマの雌と分かった。

このヤンマは夕暮れ時に活発に動き回る。産卵も午後から夕方にかけての時間帯が多い。周囲を木立に囲まれた小規模な水域で、水際から少し離れた湿土や苔に雌が単独で産卵する、とあった。小規模な水域こそわが家の中にはないが、それ以外はヤブヤンマの産卵行動を促す環境と似ている、ということか。

ヤンマがちょんちょんやったあたりを虫眼鏡でのぞいたが、卵らしきものは見つけられなかった。

2009年8月21日金曜日

夏は流灯に乗って去った


夏井川流灯花火大会が昨夜(8月20日)、いわき市平・鎌田の平神(へいしん)橋下で行われた=写真。河原では併せて万霊供養の「じゃんがら念仏踊り」(菅波青年会)「笠踊り」(中神谷青年会)「梅ケ香盆囃子」(梅ケ香盆囃子保存会)が披露された。

前の晩、カミサンの幼友達が電話を寄こした。「じゃんがらフリーク」を自称する人だ。こちらも写真に収めたいものがある。一緒に見ようということになって、夫婦で出かけた。

平神橋は1年に一度、この夜だけ歩行者天国になる。橋の下流でゆらゆら明かりをともしながら流れる灯籠を眺め、夜空を彩る打ち上げ花火に歓声を上げる。左岸堤防の上には露店が軒を並べる。橋が架け替えられたとき、観覧スポットを兼ねて歩道部分に出っ張りが設けられた。その橋の上も、堤防の上も、河原も人で埋め尽くされた。

灯籠を流すのは新盆家庭。家族でやって来て、予約しておいた灯籠を受け取り、次々に夏井川へ流す。私たちもカミサンの父、伯父、母と、これまでに三度灯籠を流した。

仮設のライトが照らす中、女性2人にお付き合いする形で突っ立っていると、野鳥を介して知り合った大学生のA君があいさつにやって来た。中学校の同級生のM君も現れた。誰にとっても、自分のすまいから一番近い場所で行われる“夏まつり“――そんな意識がはたらくのだろう。

7時過ぎ、「じゃんがら念仏踊り」が始まった。吸い寄せられるように人が集まって来る。堤防の上も、中段の高水敷もギャラリーであふれた。これが、2番手の「笠踊り」になると少しずつ人が引け、「盆囃子」はもっと引けて耳で聞くだけの人が増える、そんな印象を持った。「笠踊り」は北関東で歌い踊られる八木節だった。「盆囃子」も盆踊りの唄だ。

「じゃんがら」を見たから帰る、では味気ない。打ち上げ花火が始まるまで、小腹を満たすことにした。女性2人が焼きそば、焼き鳥を露店から調達した。清涼飲料水もどこからか買って来た。川風に吹かれながら食べて、飲む。そういう少年時代もあったなーと、胸の中でつぶやく。女性2人も少女時代に立ち返っていたのではないだろうか。

花火は堤防から橋の上に移動して眺めた。威勢よくドカン、ドカンとはいかないご時勢。尺玉が描く「天の夕顔」を見て会場をあとにした。「まつりの夏」が終わったら、「選挙の秋」だ。われに返って、日常を、これからの暮らしのありようを考えるとしよう。

2009年8月20日木曜日

河川敷の竹林伐採


朝晩散歩する夏井川の対岸(いわき市平山崎地内)が様変わりしつつある。河川拡幅工事のために岸辺の竹林の伐採が始まった。下流でも前年度に引き続き河川敷の土砂除去が始まった。

工事の様子を確かめるために、きのう(8月19日)早朝、自転車で対岸に向かった。いつも歩く堤防の上に出ると、犬を連れて散歩している人が「なんで自転車?」と目を丸くした。「竹林が伐採されているので、写真を撮って来ます」。うなずくのが分かった。

国道6号常磐バイパス終点部の夏井川橋を渡って対岸の堤防上に出る。鳥の目で見れば、夏井川は上流の專称寺付近で大きく右に蛇行し、下流の如来寺の先で左に大きく蛇行する。工事が行われているのは淵をはさむ上下2カ所の瀬の部分、土砂が広く堆積して草木が茂っている河川敷だ。

工事の告知板が2つ。夏井川橋のすぐ近くの現場も、專称寺前の現場も「河川拡幅工事」に変わりはない。が、文言が微妙に違う。

下流の方は、河川に堆積した土砂を除去し、川幅を広げ、河川の氾濫を防ぐ――のが目的。上流の方は、堆積土砂を撤去し、河川幅を拡幅することにより、大雨などの影響による洪水等の被害防止をする――のが目的。

二つの文言の違いがよく分からない。が、要は大水のときに水がスムーズに流れるようにする、ということらしい。どちらにも1台、重機が入っていた。おとといはこの重機が伐採した竹を片づけているところを見た=写真

竹林に遮られてよく分からなかったが、対岸はかなりの面積が菜園になっている。いすやテーブルを置いた本格的なものもある。河川管理者は扱いに苦慮しているだろう。

それより気になったのが、両方の広い河原に挟まれた淵の堤防だ。アレチウリが急斜面を覆っていた。そこだけではない。草刈りが行われない土手は、左岸であれ右岸であれ、アレチウリに覆われつつある。草刈りが行われたところでも少し目立つようになってきた。

去年も書いたが、場所によっては木がすっかりアレチウリに覆われた。こうなると葉は光合成ができない。弱って、やがて枯れる。そんな末路が待っている。早く何とかしなくては――と堤防を歩くたびに思う。

2009年8月19日水曜日

初秋の夜の夢


午前中、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で畑仕事をしたあとのこと。昼寝をしてから、森へ入った。すぐアカヤマドリの幼菌に出合う。イグチ系の夏キノコの一種だ。

同じイグチ系のヤマドリタケは、イタリアでは「ポルチーニ」と呼ばれる。高級食材だ。近縁種のヤマドリタケモドキも、向こうでは「ポルチーニ」のうちに入るらしい。ならば、アカヤマドリだって「ポルチーニ」の一種ではないか――。勝手にそう思っている。

収穫した翌日(8月17日)。ゆでて晩酌のおかずにしよう、スライスしてわさび醤油で食べるのだ――そう決めて街へ出かけ、帰って来たら、カミサンの幼友達が来ていた。

よく分からないまま、「彼女にアカヤマドリを見せてよ」という。彼女は、「ポルチーニ」とか「フクロタケ」とか、海外産の高級食菌には詳しい。日本のポルチーニのようなことを言って自慢すると、のぞきこんだ。

そのあとのカミサンの話にびっくりする。幼友達がお土産にマツタケを3本=写真、持って来てくれたのだという。「匂わないマツタケなの」とお客人。匂わなくたってマツタケはマツタケだ。ビニール袋に、傘を開く前の、じくっとしたマツタケ幼菌が入っていた。マツタケは、ビニール袋は厳禁だ。にしても、おすそ分けとは太っ腹ではないか。

1本は近くの息子の家に届ける。残る2本のうち1本は網焼きにした。アカヤマドリも、同じように手で裂いて焼き、醤油につけて食べた。アカヤマドリはほくほく、マツタケはしゃきしゃき。ともに食感はしっかりしている。残る1本はマツタケご飯にした。細かく裂いたマツタケは、ご飯が炊きあがったところで混ぜ込み、しばらく余熱で蒸らした。

梅雨期にもマツタケが採れる。サマツタケという。サマツタケはマツタケより匂いが弱い。長梅雨だったので、これが採れたのか。といっても、私はサマツタケも、本当のマツタケも採ったことがない。これらは知識として頭に入っているだけだ。

急にアカヤマドリを食べ、マツタケを食べたので、胃袋がびっくりして吐いたり、下痢したりしないか――本気にそう思ったが、何ともなかった。二日たったきょう、既にマツタケは初秋の夜の夢だったような気がする。

2009年8月18日火曜日

堤防のタマスダレ


夏井川の堤防を散歩していると、前の日にはなかった花が咲いていた=写真。アマナ? が、アマナは春の花。今は初秋だ。夏~初秋の花が、色・形ともアマナに似ている。人間で言えば「他人の空似」。初めて見る花かもしれない。植物の世界でも人間と同様、その花と瓜二つの花が三つはある、のだろうか。

週末だけ行く夏井川渓谷でも、同じ経験をした。前の週は気づかなかったのだが、足元にその花があった。第一印象は日陰のネジバナ、ないしその仲間。ネジバナよりは丈が短くて白い。ランの一種には違いない。地面から頭を出している夏キノコを探していなかったら、目には留まらなかった。

アマナ似の花、そしてラン系の花――。狙いを絞ってネットで検索した。が、どうもはっきりしない。わが家にある植物図鑑にも当たった。それでもあいまいなので、いわき総合図書館へ走った。街中にある「わが書棚」だ。

わが家にあって一番重宝している植物図鑑は、長田武正・著、長田喜美子・写真の『野草図鑑』全8巻(保育社)。長男が東京から帰って来て2階に住み直したとき、部屋にあった私の本をあらかた片づけた。以来、どこにどの本があるか分からなくなった。『野草図鑑』もそうだ。第2巻(ゆりの巻)が必要なのに、その本が見当たらない。

で、やむなく総合図書館の植物学のコーナーで『野草図鑑』を見る。目当ての第2巻(ゆりの巻)に当たったら、両方の花が分かった。アマナ似はタマスダレ、ラン系はミヤマウズラ。タマスダレは南米原産の帰化植物で、暖地に広く野生化している。ミヤマウズラは山林中にはえる多年草。丸みを帯びた葉をウズラの卵に見立てた。

ミヤマウズラは、夏井川渓谷を対象にした阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林調査報告書にもちゃんと記載されている。渓谷に自生しているラン科の花はミヤマウズラを含めて14種類。半分は見たことがない。野草の世界だけでも奥が深い。にしても、家にあるはずの本が行方不明のために、図書館へ駆け込んだり、買い直したりすることが多々ある。ばかばかしいことだ。

2009年8月17日月曜日

三春ネギを定植


盆送りと重なった日曜日(8月16日)、起きるとすぐ夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけた。三春ネギを「曲がりネギ」にするため、溝を斜めに切ってネギを寝かせる「やとい」という作業をしなければならない。8月下旬には時間的な余裕がなくなる。一気にやるにはその日しかないのだ。

できれば朝飯前、つまり太陽がギラギラ照りつける前に作業を終えたい。そんな心づもりで出かけたものの、雲はどんどんV字谷の上を流れて行く。すぐ青空が広がった。熱中症とアブ・蚊には注意しないと――。

スコップを入れてネギを掘り取る。ネギが植わってあった溝を利用して、斜めに新しい溝を切る。次に、車のついた腰掛けに座ってネギの古い外皮をむく。じっとしているから、アブがブンブンまとわりつく。我慢できずに蚊取り線香を焚いた。すぐ効果が表れた。頭には麦わら帽子、首には手ぬぐい。1時間もすると、黙っていても額から汗がしたたる。

二度、三度と無量庵の台所にかけ込んで水をがぶ飲みした。手ぬぐいから、水に濡らしたタオルに切り替えた。それでも汗は収まらない。作業を始めておよそ2時間後、無量庵に引っ込んで朝食をとり、またまた水分を補給した。

このあと、作業再開。半ば冗談、半ば本音で、カミサンに、ときどき畑で倒れていないか見てくれるように頼む。葉鞘が白くつやつやしたネギを溝にそろえると、なかなか美しい=写真

教科書には、「曲がりネギ」にする場合、ネギの上に堆肥を施用して軽く覆土する、とある。失敗するかもしれないが、閃きで堆肥代わりにもみ殻を施した。土を軽くかぶせたあと、これも閃きでパラッと油粕をまいた。そんなに痩せた畝ではない。ご祝儀のようなものだ。

数えたら、ざっと150本。育ちのいいもの、中くらいのもの、それより細いものと、ネギの大きさは三段階に分かれる。10月下旬以降の収穫まで、3回ほど倍土して曲がりネギにする、というのが教科書の手順。それぞれどんなふうに生育するのか、楽しみだ。

さて、「節句ばたらき」という言葉がある。仕事を休んで心静かに過ごす正月やお盆に、庭仕事をしたり、畑仕事をしたりすることを指す。

勤め人のときは、元日に畑の天地返しをしたり、生ごみを埋めたりしてひんしゅくを買った。今度は盆送りの日まで我慢した。渓谷の住人はそれでも「畑仕事をして何だべ」と見なかったか。住人の一人が軽トラで田んぼと作業場のある方へ向かうのを見たから、畑仕事をしても大丈夫だったのだろう。

2009年8月16日日曜日

笠踊りとじゃんがらと


私の住む地域は、江戸時代には笠間藩の分領(飛び地)だった。そのためかどうか、青年会は新盆供養に、「じゃんがら念仏踊り」ではなく「笠踊り」を披露する。笠間藩だから笠踊り?というのはゲスの勘繰り。ほんとうは、なにかそうなった理由があるのだろう。

隣家のご主人が春に亡くなり、新盆の灯篭が立った。おととい(8月14日)の午後、別の新盆家庭で歌い、踊っていた地元の青年会がやって来て、隣家で笠踊りを披露した。ちょうど新盆回りで出かけるとき。歌と踊りは聞かず、見ずじまいだった。

夕方には、同じ順序でじゃんがら念仏踊りの一行がやって来た。夏井川の対岸下流にある青年会の名前が浴衣に染め抜かれていた。

玄関の前に屋根付きの狭い駐車場がある。♪チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカ……。その駐車場を舞台に鉦を切って踊り始める=写真=と、ぞろぞろ周囲の家から人が現れ、歩道に人垣ができた。幼い子どもは自然と体を動かしてリズムを取る。

じゃんがら念仏踊りの輪に入り、一緒にぐるぐる回る女の子が2人いた。亡くなった隣人の孫だ。精霊となって帰って来た隣人もにこやかにじゃんがらを、孫を見ていたことだろう。

笠踊りとじゃんがらと。新盆供養の二つの踊りで、江戸時代、この辺は磐城平藩だけではなかったことを再認識する。夏井川を軸にして、こちらとあちらを考えれば、磐城平藩にとっては笠間藩分領の神谷はあちらに属する。神谷から見たら、磐城平藩があちらだ。

その二つの地域が夏井川で接する平・鎌田、「平神(へいしん)橋」の下。8月20日に夏井川流灯花火大会が開かれる。この河原で三つの踊りが披露される。じゃんがら念仏踊り、笠踊り、そして会場に一番近い梅ケ香盆囃子保存会の盆囃子。盆囃子はよく分からない。

同じ気圏の底で、たかだか3、4キロの範囲内で、違う踊りが伝承されている。考えてみれば、不思議なことだ。

同時に、踊りは死んだ人間を慰霊するだけでなく、生きている人間をも元気づける。いや、そちらが主ではないか――。2歳の孫がこちら側にとどまり、予定より一日早く盆の入りに退院したこともあって、よけいそう思った。

2009年8月15日土曜日

庭にやって来るチョウ


「あれっ、クロアゲハ?」。カミサンが庭を見て言った。急いで庭に出ると、大きな黒いチョウがホトトギスの葉に止まっていた=写真。カメラのレンズを伸ばして3回ほどシャッターを押したら、ヒラヒラ空に舞い上がった。黒い翅に白い紋がある。図鑑に当たったら、モンキアゲハらしかった。

庭は狭い。そこに種々雑多な木が植わってある。カキ・プラム・ニシキギ・カエデ・ムラサキシキブ・ビワ・サンショウ・フジ・ミツバアケビなどのほか、生け垣代わりのマサキとサンゴジュが隣地との境界を仕切る。これにホトトギスやミョウガ、シラン、イカリソウその他の草花が密生する。混植が過ぎて緑自体が窒息しそうなくらいだ。

庭をじっくり観察するようなことはしない。が、「アゲハ」クラスのチョウが現れると、自然に目で追う。写真にも撮る。5月下旬にはアオスジアゲハとアカタテハが同時にやって来て、盛んに樹上で吸蜜していた。

ほかに記憶にあるのはキアゲハ、ジャノメチョウの仲間。ユズの幼樹の葉を食べ尽くしたのはキアゲハの幼虫だったか。

モンキアゲハは本州の関東以西、四国、九州、南西諸島に分布するという。いわきは東北と言っても北関東圏とそう変わらない。いわきに迷い込んで来たのか、定着したのかはむろん不明だが、今まで見たことがない生き物を見かけるようになるのは、決して喜ばしいことではない。専門家に「普通にいますよ」なんて言われたら恥ずかしいが。

月遅れ盆なので、誰かの魂がアゲハになってやって来たか。きのう(8月14日)はキアゲハも現れたという。

2009年8月14日金曜日

ウミ・マチ・ヤマを巡る


広島から甥っ子が中2の娘を連れて母親のもとへ遊びに来た。広島と言えば太田川だが、山間部(中国山地)では西に流れて日本海へ注ぐ江の川、東に流れて瀬戸内海へ注ぐ高梁川と、流域が分かれる。その山あいの盆地に住む。

いわきの名所巡りをした。といっても、かつては日本一の広域都市。夏井川流域にしぼって、河口から渓谷まで、全体の流路の半分弱を案内した。

ちょうど昼時。河口では新舞子海岸の「マユール」でカレーを食べた=写真。中2の女の子は学校給食でナンを経験しているが、チャイは初めてだという。目を輝かせてカレーとチャイを味わった。

夏井川最後の橋、磐城舞子橋から目をやると、閉塞していた河口が先日の大水で抜けていた。水量が元に戻れば川の勢いは弱まり、再び左へ直角に曲がって横川に注ぐようになる。久しぶりに“川の便秘”が解消されてほっとする。

次に向かったのは河口からおよそ30キロ上流にある夏井川渓谷。週末に過ごす無量庵で一休みを、と「マユール」で思い立った。甥っ子が2つか3つのとき、母親とともに無量庵で遊んだ。記憶が全くないという。三十数年前のことだ。2、3歳では無理もないか。

それはともかく、中2の娘である。この“準孫”、「景色には感動した……」が、大の虫嫌い。部屋に現れたアブに身をよじり、悲鳴を発して落ち着かない。小一時間もしないうちに無量庵を離れて、いわき市立草野心平記念文学館に向かった。“準孫”はすっかりそこが気に入った様子。心平を知り、企画展が開かれている工藤直子を知れば、言うことはない。

最後は、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」で別れる。いわきのお土産を買うのだという。車中で「じゃんがら念仏踊り」のCDを聴かせ、「いわきはじゃんがら」ということを吹聴したあとだけに、「食べるじゃんがら」を勧める。宵の6時過ぎには再び母親の家へ出かけ、1年ぶりの再会を祝して乾杯した。

二人はいわきのウミ・マチ・ヤマの一端を胸に抱きとめてくれただろうか。とりわけ“準孫”の脳裏にウミ・ヤマ・マチの光景が刻まれただろうか。刻まれたとすれば、このドライブは成功だ。

2009年8月13日木曜日

盆の入り


梅雨が明けないまま秋がきて、月遅れ盆に入った。わが散歩コースで目にする新盆灯篭=写真=は4つ。8月に入ると、業者の手で家の入り口に灯篭が取り付けられた。今晩、迎え火と一緒に明かりがともることだろう。

カミサンの伯父が首都圏からわが家の近くに移り住み、悠々自適のあと亡くなったのが数年前。新盆の年は、今年と同じような長梅雨で、盆に入ってやっと暑さが戻ったのだった。そのときの坊さんの話が忘れがたい。

盆棚に「キュウリ馬」と「ナス牛」を飾る。精霊が彼岸から自分の家へ戻って来るときには馬のように速く、自分の家から彼岸へ帰るときには牛のように遅く――という願いが込められている。玄関先の灯篭は、その精霊が夜、迷わずたどり着くための明かりだ。

盆棚にだったか、そばにだったか、頂き物のトウガンが置いてあった。それを見て、坊さんは「トウガンの煮物が大好きなんですよ」と言った。精進料理にそういうものがあるのだろう。

キュウリも、ナスも、トウガンも太陽エネルギーがもたらしたものだ。伯父の新盆よりさらに何年か前、水稲が大凶作になった。晩秋、関東圏に住む同級生から「米が欲しい、何とかならないか」という電話が入った。水稲は今が正念場。花が咲いて実がなるのはキュウリもナスも同じだが、このところずっと日照不足と多湿が続いている。秋が心配だ。

隣のコンビニがつぶれてコインランドリーに替わった。早朝5時から未明の1時まで営業している。休日ばかりか、平日も5時になると機械がうなり出す。外に干したくてもこの雨模様だ。今朝も散歩に出ると、朝飯前に洗濯物を片付けたい――そんな人が車の中で待機していた。近くの寺では墓参に来た人たちがあいさつを交わしながら掃除をしたり、花を手向けたりしていた。

さて、6日に広島、9日に長崎で原爆忌が営まれた。15日は64回目の終戦記念日。毎年のことながら、8月にはいささかなりとも生と死や戦争と平和といったことを考える。

今年は特に、いわきの文化活動の推進エンジンだった人が亡くなった。いまだにその死が信じられない。が、現実は現実として、その人の死を超えて動いていかざるを得ない。その人は環境や平和について深く考えるところがあった。つまるところ護憲である。その遺志の一端は引き継いでいかねば、と思う。

2009年8月12日水曜日

ツバメのねぐら探訪


日本野鳥の会いわき支部のHPに、ツバメのねぐら観察会の予告が載っていた。その数、なんと数万羽! 夏井川河口周辺を目的地に、日曜日(8月9日)夕方6時、河口の夏井川サイクリング公園駐車場集合で行われるという。夏井川に関するフィールドノートに新たなデータを書き込むチャンス、と足を運んだ。

のっけからミスをする。夏井川サイクリング公園は河口右岸にある。左岸の沢帯(ざわみき)公園駐車場で待つこと十数分。それらしい人は1人来たが、車が現れる様子はない。おかしい。いるのは家族連れやカップルだけ。彼らは、ツバメには見向きもしない。そのうち、対岸の堤防上を人がぞろぞろ歩いているのが目に入った。対岸が集合場所だったか。

急いで車を動かし、駐車場に止めてあとを追う。途中まで歩いて行って、足が止まった。7時から生後2カ月弱の孫のお守りをしなくてはならない。もう一組の祖父母とバトンタッチをする約束になっているのだ。時間を逆算すれば、歩いて移動していては間に合わない。駐車場に戻って堤防上の道を車で追った。

上流へ向かうこと2、3キロ。六十枚橋近くのヨシ原にあるサイクリングロードに一行が陣取っていた=写真。春先、枯れヨシに火が入れられ、芽生えたヨシが2メートルを超えるまでに成長し、大きな草のジャングルを形成している。案内人は旧知のKさんだった。キノコ観察会で顔を合わせる男性も参加していた。Kさんからいろいろ話を聞いた。

ツバメがねぐら入りをするために、夏井川河口周辺の空に集まり始めるのは6時50分くらいから、だという。足元は薄暗くなっても上空はまだ明るいのでそんな時間になる、人間の日暮れの感覚とツバメの日暮れの感覚とでは時間差がある、とKさん。

ところがKさん、いまひとつ自信がない。今年は仕事が超多忙でねぐらを確認していないのだという。去年までは確かにここがねぐらだった。三々五々、どこからともなく現れたツバメたちが近くを旋回する。やがて黒く大きな塊となってヨシ原の上を旋回する――。今年もここがねぐらなら、そういう状況を目にすることができるのだが、という。

双眼鏡でツバメたちが集まり始めたのが分かった。肉眼では見えない。と、ケータイに連絡が入る。孫のお守り交代を促す電話だった。相撲でいえば、序の口の取り組みを見ただけだ。黒い塊は後日の楽しみにして、泣く泣く現場を離れた。

あとで野鳥の会いわき支部のHPをのぞくと、観察会の様子が書き込まれていた。参加者は19人。ツバメたちは曇天のために早々と6時半ごろ、対岸(左岸)の上空に集結した。その後、下流の中州にねぐらをとったらしく、目前のヨシ原には現れなかった――。

晴天の日は、ねぐら入りはもっと遅くなる、ねぐらも広い範囲を想定しておかなければならない、らしい。上の孫(2歳3カ月余)の退院があさって(8月14日)に決まった。そのあと、独りで見に行くか、子と孫を誘って3代そろって見に行くか。女性陣にはしかられそうだが、そんなことを思い巡らせている。

2009年8月11日火曜日

濁流と化す歩道


きのう(8月10日)未明に目が覚めると、土砂降りの雨だった。明るくなるにつれて雨脚が強くなった。

7時に孫のいる家を目指して、庭から車を動かした。道路に出ると、歩道が濁流と化している=写真。女性が傘をさして車道を歩いていた。水深はざっと15センチ。濁流は浅くても圧力が強い。足を取られそうになる。車道を歩くしかないのだ。この程度でそうなのだから、鉄砲水に襲われたらひとたまりもない。

この2週間余、両親、二組の祖父母がローテーションを組み、2歳3カ月になる孫の看病と、生後2カ月近くになる2番目の孫の世話を続けている。

父親と母親が昼と夜、交代で病院の孫に付き添うため、朝7時と宵の7時には両親の家に詰めて、1時間前後、下の孫の面倒をみる。日中はもう一組の祖父母がお守りを引き継ぐ。昼前後には病院へ行って上の孫と遊ぶ――。これが最近の日課だ。

おかげで、生まれたばかりの孫のおむつを取り替えたり、粉ミルクをお湯で溶いで飲ませたりできるようになった。うんちの始末は、さすがに祖母か父親に任せるが。

雨が降ろうと槍が降ろうと、このローテーションは崩せない。で、大雨警報と洪水警報が発令されたなか、下の孫の世話をするためにわが家を出たのだった。

高気密・高断熱の新築借家に入ると、雨音はほとんど聞こえない。出窓の屋根でもあろうか、雨脚が強まったときにパラパラ豆をまいたような音がするだけ。快適だが、外部とは切れている。古い人間にはそう思われた。

もう一組の祖父母にバトンタッチをしたあと、わが家に戻り、少し仕事をしてから病院へ出かけた。夏井川は警戒水位に達していたが、堤防の先端まではまだ余裕がある。新川も同じだ。これがてっぺん近くまで水位が上がっていれば、心穏やかではいられない。

病室に着くと間もなく、孫の点滴容器が空になり、警報が鳴った。看護師さんが来て、点滴終了を告げた。半月ぶりに孫の手からチューブが取れた。器具も片づけられた。「あとは飲み薬だけになります」

けさは雨も風もない。台風9号はまだ東海地方の海上にあるようだが、内なる空は一足早く雲が切れて、いちだんと光が差してきた。

2009年8月10日月曜日

休耕田の早咲きコスモス


自宅(いわき市平中神谷)から平の街へ行くのに、大きく3つのルートがある。神谷は夏井川と丘陵にはさまれた田園・住宅地。よく使うルートは堤防上の道。次に幹線道路の国道6号。たまに水田地帯を貫く“農道”を走る。

“農道”の一角に休耕田を利用したコスモス畑がある。記憶では、一昨年あたりに切り替わった。早咲きコスモスだ。今、花盛りといっていいだろう=写真

ほかに今年、平六小前の水田が一枚、花畑に替わった。水はけが悪いので高畝が設けられた。マリーゴールドとサルビアが満開だ。もう一列、ネットが張られてアサガオがつるを伸ばし、花を咲かせ始めた。たぶん、農水省が始めた「農地・水・環境保全向上対策事業」の一環だろう。コスモス畑もそうかどうかは分からない。

農村景観は、ただそこにそのままあって美しいのではない。農業従事者が田んぼのあぜの草刈りをする、共同で用水路の泥はらいをし、破損部分はこまめに修復する、といった農村環境の保全活動を継続しているからこそ、美しい景観が守られているのだ。

ところが、農業従事者の減少や高齢化などが原因で遊休農地が増えると、たちまち田畑は荒廃する。美しい景観と環境の維持が難しくなる。そこで、地域の農地や水路・あぜ道などは地域の財産、地域に住む非農業者も含めて共同でこの農業資源と農村環境の保全・質的向上を図ろうと、農水省が対策事業を打ち出した。

いわき市でも各地でこの事業が展開されている。先進的なのは地区の関係団体などが参加した「平下平窪資源・環境保全会」だ。対象の休耕田は平浄水場近くにあって、コスモスなどが植えられた。ちらほら花が咲いている。夏井川渓谷への行き帰りにいつも眺めて通る。

一昨年の暮れだったか、去年の年明け早々だったか、中神谷地区でも保全会結成の準備が進められている、という話を聞いたことがある。結成されて活動を始めたから、休耕田が花畑に替わったのだろう。雨が降るとすぐ水がたまる。花にはつらい環境だ。それに比べたら、コスモスは生き生きと風に揺られている。一見の価値あり。

2009年8月9日日曜日

いわきおどり余話


ようやくセミの鳴き声がかまびすしくなってきた。とはいえ、いまひとつ迫力に欠ける。アブラゼミが飛んだなと見るや、ふわふわ力なく白い塀の陰に消えた。時折、雨がぱらつく梅雨空では元気が出ないのか、止まろうとした柱から単に滑り落ちたのか、セミは垂直ではなく水平に止まっていた=写真。珍しい姿だ。

きのう(8月8日)は平七夕まつりの最終日。いわき市内各地で展開されてきた「いわきおどり」の最後を飾る「いわきおどり大会」もいわき駅前大通りで開かれた。今年は七夕も、いわきおどり大会もチラリと見ただけに終わった。

夜8時過ぎ、カミサンの友人の家に出かけた。「いわきおどり大会」(3部)に出場した病院のチームが広い芝生の庭で打ち上げパーティーをやっていた。その数ざっと8、90人。若者が多い。踊って汗をかいた一体感、高揚感に加え、アルコールと食べ物で口を喜ばせた満足感、開放感が“テント村“を支配していた。

すきっ腹だったので、テーブルにある物を遠慮なく食べた。カミサンはワインを何度もお代わりした。帰りには缶ビール・お茶・つまみを袋にいっぱい詰めて自宅へのお土産にした。

さて、本題。ある本を読み終わって著者略歴を見たら、「いわきおどり」など作詞、とあった。記憶にない。いわき総合図書館へ出かけて「広報いわき」のつづりをめくる。「いわきおどり」はいわき市制15周年を記念して、昭和56(1981)年に制定された。その年の「広報いわき」6月1日号にこうあった。

「市制15周年を記念して、34万市民だれでも歌って踊れる『いわきおどり』をと、2月1日から3月末日まで全国から109編の応募があり、4月5日の最終審査の結果、入選作品がなく、民踊民舞創作委員会が作詞した上の歌が決定されました。これに曲と踊りをつけ、10月に発表会を開く予定です」

歌は1番「いわき七浜 太平洋を/抱いて 広さは日本一』で始まり、2番「北は仙台 南は東京/関の勿来に舞う 桜」、5番「赤井嶽から夏井の渓谷(たに)へ/呼べば 若さがこだまする」、ラストは12番「揃う手振りに笑顔を添えて/いわき人の輪 踊りの輪」だ。

広報記事はさらに、佳作入選者として5人の氏名と住所を記すが、先の本の著者の名はなかった。応募したことが作詞したことになるのか、それとも創作委員会の一員として作詞を担当したのか。つまり、ゴーストライター。どう評価したらいいか分からない「著者略歴」だった。

「平七夕まつり」「いわきおどり大会」が終われば、すぐ月遅れ盆だ。「じゃんがらの夏」である。カミサンの友人の家を訪ねたのも、一つには発売されたばかりの「じゃんがら念仏踊り」のCDを届けるためだった。

2009年8月8日土曜日

トイレに雨が降る


きのう(8月7日)の夕方、いわき地方を雷雨が襲った。暦の上では立秋。もう梅雨は終わってほしいな――。初めは雨を眺めてカメラを向ける余裕があった=写真。だんだん雨脚が強くなった。窓を閉めなくては。1階の西向きの窓から少し雨が吹き込んでいた。

およそ30分後。トイレに入ろうとしたら、天井から雨が降っている。水たまりまでできていた。ここも夕立だ。すぐ2階に上がってみると、テラスがプールになっていた、水抜き口が2カ所ある。それがごみでふさがっていたのだ。

はだしになって、傘をさして、ごみを取る。一つはすぐ水が抜けた。もう一つは雨樋の中まで詰まっていた。棒で水抜き口からガシャガシャやる。雨樋に穴が開いた。水が滝のようにこぼれ出した。

〈やっちゃった〉。笑って言うと、カミサンが複雑な表情になった。〈どうするの〉と横目が言っている。「M君に頼むよ」。大工職のM君は中学校の同級生だ。同じ阿武隈高地の出身。すぐ近くに住んでいる。わが家のホームドクターでもある。夏井川渓谷にある無量庵の台所や出窓などは、彼に頼んで直してもらった。

トイレは前から、台風が来たり、横なぐりの雨が降ったりすると、少し雨漏りがした。原因はテラスの水抜き口だったのだろう。それが詰まっているとは思いもよらなかった。

雨樋の通りが良くなった以上、これから雨漏りはないだろうが、それでもあるとすればテラスの防水工事が手抜きだったことになる。しかし、アフターケアをしてくれるはずの業者は倒産して存在しない。結局、M君頼りだ。すぐ様子を見に来てよ、である。

2009年8月7日金曜日

断酒を経験


2歳の孫が入院して2週間近く。最初の1週間は、そちらに両親がかかりきり。二組の祖父母は生まれて1カ月半になる2番目の孫にミルクを飲ませ、寝かしつけ、宵には風呂に入れて――と、役割を分担し、時間をやりくりして後方支援を続けた。

で、朝晩の散歩も入院当初はやったり、やらなかったり。2日ほど休んだあと、暮らしのリズムを取り戻すべく夏井川の堤防を歩いたら、土手にキツネノカミソリ=写真=とナツズイセンが咲いていた。前々日には目に入らなかった夏の花だ。10日ほどたった今は、ナツズイセンは切り花になって消え、キツネノカミソリは草に埋もれてしまった。

後方支援組は、病気と孫(および両親)とドクターの三者会談を待つほかない。一日も早い孫の快癒のためになにができるだろう。孫の入院翌日から酒を断った。

2日目、3日目とわが肉体の内部環境が変化していく。禁断症状は不思議とない。尾籠な話だが、酒飲みは軟便になりやすい。消化酵素を分泌する膵臓がオーバーヒートをするので、そうなるのだと前に看護師さんに言われたことがある。この軟便が止まった。トイレへ行く回数も減った。ついでながら、飲まないとよけいなおかずがいらない。酒代も浮く。

会社勤めを始めて以後、一時の入・通院と徹夜で仕事をしたとき以外は、毎晩、酒を飲んできた。フリーになった今も飲んでいる。飲める体で断酒というのは、わが人生では初めてだ。それで知ったのは、いかに体内に酒毒を流し込んでいたか、カネをがぶ飲みしてきたか、ということである。

これを機に酒を辞めたら――という声もある。が、毒のない人間はつまらない。さいわい、孫の病気も治癒の見通しがついたので、8日で断酒を終了した。「あびる」ではなく「なめる」ように田苑を口に含んだら、五臓六腑はもちろん、手足の先までアルコールがしみ渡った。

2009年8月6日木曜日

チチタケうどん


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へキュウリとインゲンを摘みに行ったついでに、対岸の森を巡った。前にも書いたが、狙いは夏キノコのチチタケ、タマゴタケ、アカヤマドリなどだ。あってよし、なくてよしで、なければないなりに発生時期を絞る補強データになる。

2週間前(7月24日)、あちこちに生えていたアイタケの姿はどこにもなかった。タマゴタケはまたしても虫に食われ、色褪せて、今にも傘が傾きそうなのが1本あっただけ。チチタケ=写真=は出始めらしく、小さいのが5、6個発生していた。

イグチ系のアカヤマドリは、姿はなかった。代わってシワチャヤマイグチ(「食毒不明」と図鑑にある)、ニガイグチがあちこちに出ていた。ほかにはツルタケ、毒キノコのウスタケ、猛毒のドクツルタケなどがあった。

帰りは水量の減った渓流を渡って県道に出た。大きな丸石がごろごろしている早瀬で裸足になり、ズボンのすそをまくって、頭をのぞかせている飛び石伝いに足を運んだ。ジャンプしないと移れない石も2つあった。滑ればドボン。若いときと違ってためらいが生じる。情けない。そのためらいが、かえってドボンにつながるのではないか、そう思った。

チチタケはうどんのたれにした。細かく裂いて、ナスと一緒に炒め、醤油で濃い目に味付けをしたあと、水を加えて煮込む。これだけで基本のスープができあがる。好みによるが、私は冷たいスープにそうめんをつけて食べるのも、熱々のスープに入れて食べるのも好きだ。チチタケからえもいわれぬダシ成分が出る。

11年前の夏、知り合いがカナダ人女性を連れて来た。たまたまチチタケを採り、スープをつくっておいたので、チチタケうどんを振る舞った。「おいしい!」。知り合いも、カナダ人女性も、〈ジャパニーズヌードルとスープ〉に舌鼓を打った。美味は国境を超えることを知った。

チチタケうどんの本場は栃木県。いわきの山里で栃木ナンバーの車に出合ったら、チチタケ採りと思って間違いない。それほど栃木の人間がいわきにも出没している。その数が年々増えているように感じる。地元で食べながら保護するためには、お引き取り願いたい――となるのは、けちな料簡か。

2009年8月5日水曜日

じゃんがら2題


きのう(8月4日)のNHK歌謡コンサートには驚いた。五木ひろしさんら錚々たるメンバーに伍して、いわき市出身の紅晴美さんが出演し、「じゃんがら恋唄」を歌った。紅晴美さんの名前は、新聞かポスターで見た記憶があるが、定かではない。歌ももちろん初めて聞いた。55歳のシンガー・ソング・ライターだという。

炭鉱長屋で育った。音楽学校を出てピアノ講師などを経験し、41歳で歌手の道へ進んだ。ラジオ福島の「かっとびワイド」のパーソナリティーを務めて人気が出た。今年4月にメジャーデビューを果たした――ということを、ネットで知った。

「じゃんがら恋唄」の「じゃんがら」はいうまでもなく、いわき地方で新盆供養のために青年会が唱え踊る郷土芸能「じゃんがら念仏踊り」のこと。いわきの8月は〈チャンカ、チャンカ、チャンカ〉の鉦の音に象徴される「じゃんがらの夏」、市民の体内に眠っている「じゃんがらのDNA」が目覚める季節と、おととい(8月3日)書いた。

この「じゃんがらの夏」に合わせて歌が発表されたのだろう。♪私の生まれた町は ハーモニカ長屋……耳をすませば 聞こえてくるよ じゃんがらの音が……。炭鉱住宅は、通称「ハモニカ長屋」。月遅れ盆の夜、じゃんがらの一行が鉦を鳴らしながら新盆の家にやって来る。すると、大人も子供も踊りを見物するために、わらわらと外へ出る。

炭鉱は閉山し、ハモニカ長屋は姿を消した。喪失、そして望郷。よそへ転出したいわき人にとっても、「じゃんがら」は郷愁のリズムだ。それを代弁する「じゃんがら恋唄」である。(紅白出場の夢がかなうといいですね)

もう一つ。いわきの有志が5つの青年会・保存会の「じゃんがら」を録音したCDを制作した=写真。併せてミュージシャンや研究者が「じゃんがら賛歌」の文章を寄せている。その一人がCDを持って来た。音楽好きの若者は「じゃんがら」とジャズやロックの親近性・親和性を肌で感じ取れるのだろう。その延長でのCD化だ。

なにか「じゃんがら」に新しい息吹が宿る、そんな時代がきたのだろうか。江戸時代から続く“地音楽”と“地踊り”、変わらぬ本物のソングとダンスによる一体感・連帯感、これが先行き不透明で不安な時代に「じゃんがら」が希求される理由かもしれない――なんて考えたりする。

「じゃんがら」は地域によって微妙な違いがある。CDに収録された小谷作、成沢入藪、赤沼各青年会、下好間念仏保存会、舘じゃんがら念仏保存会の「じゃんがら」も、一つひとつ味わいが異なる。〈このアルバムを忌野清志郎、下村誠、八木昭、全てのじゃんがらプレイヤーに捧ぐ〉としたところがニクイ。

2009年8月4日火曜日

梅雨空のホトトギス


全体に薄墨をぶちまけたような梅雨空が続く。きのう(8月3日)は昼間、久しぶりに太陽を拝んだが、それもつかの間。空は再び薄墨色の雲海に戻った。

土曜日(8月1日)の朝6時前。夏井川の堤防を歩いていると、「ポットオッツァケタ、ポットオッツァケタ」と盛んにホトトギスが鳴いている。その声が近くなる。と、斜め前方を鳴きながらよぎって行った。急いでカメラのシャッターを押す。けし粒のような黒点がデジカメのモニター画面に残った。

ホトトギスの鳴き声には幼いころからなじんでいる。日中ばかりか、夜間、夜明けと鳴き続け、祖母が寝物語に怖い民話を聞かせたものだから、いやでも耳にこびりついて離れない。

昔、きょうだいがいて、食べもののことで口論になった。食べていないのに「食べたべ」と邪推された方が、身の潔白のために腹を裂いて死んでしまった。残った方は自分の誤りを悔い、悲しみ、ホトトギスになって「ぽっと、おっつぁけた」と鳴き続けているのだという、山里に広く?流布している話。

よその地方ではどう聞きなしているのか分からないが、阿武隈高地ではこの民話のおかげで、ホトトギスの鳴き声は「ポッと(腹が)おっつぁ(裂)けた」と聞こえる。

ホトトギスの姿は、しかし見たことがなかった。ヒヨドリよりほんのわずか大きいだけだから、まぎらわしい。ほぼ一直線に飛ぶので、ヒヨドリではないと分かった。それも、鳴きながら飛んでいたので。

きのうも鳴き声が聞こえた。朝の散歩の帰路、住宅地に声が近づいてきた。カメラのレンズを伸ばして構える。ちょうどわが家の角を曲がったとき、上空にホトトギスが現れた。一コマだけ撮った=写真

同じホトトギスだとしたら、夏井川に沿って專称寺あたりまで、鳴きながら山崎の里を旋回する。ときには、夏井川をよぎって平六小のあたりまで神谷の里を鳴きながら旋回する――そういった行動を取っているのだろう。

写真はお見せできるようなシロモノではない。が、私には物心づいて以来の“初物”なので、あえて記念写真として掲載した。右上の鳥は、ツバメかヒヨドリかは分からない。

2009年8月3日月曜日

渦型じゃんがら


いわき地域学會主催の「第3回いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」がきのう(8月2日)、いわき市暮らしの伝承郷で開かれた。

いわきの8月は「じゃんがら」の夏、いわき市民の体内に眠っている「じゃんがら」のDNAが目覚める季節だ。その最初の日曜日に、「じゃんがら」にまつわる歴史を学び、江戸時代の「渦型じゃんがら」を体験しようという企画で、今年で3年目を迎えた。

「じゃんがら」は、正しくは「じゃんがら念仏踊り」という。江戸時代初期、磐城(いわき)地方に伝えられた、と研究者はみる。青年会が伝承し、新盆の家々を回って念仏を唱え踊る現在のような形になったのは、近代以降のこと。それ以前は老若男女が思い思いに輪をつくって唱え踊ったらしい。それこそ踊りの渦(輪)をいっぱいつくって。

「じゃんがら文化圏」は結構広い。東の太平洋を除けば、南は茨城県北茨城市、北は双葉郡大熊町、田村郡小野町、西は石川郡古殿町・平田村に至る。発信源のいわき市はすっぽり「じゃんがら文化圏」に入るのだ。広いいわき市で唯一、「じゃんがら」だけが市民の一体感を醸成できるもの、と言ってもよい。

さて、「じゃんがら体験プロジェクト」で足の運びをマスターした参加者は少なくあるまい。初参加組と、ちょうど伝承郷を見学に来た国際協力機構(JICA)の研修生も加わり、老若男女の踊りの渦が3つ、4つとできた=写真

ステップの基本は、最初に右手・右足を、次に左手・左足を一緒に出す、「ナンバ走り」ならぬ「ナンバ歩き」だ。今年初めて、ステップをなぞることができた。盆踊りと変わらないのではないか、そんな印象を持った。盆踊りも右手・右足を、次に左手・左足を一緒に出す。

「じゃんがら」をもっと市民が楽しめるように――というこの企画が発展して、いつか昔のようなストリートダンスが復活したら面白い。

2009年8月2日日曜日

プロフェッショナルな犬たち


先の日曜日(7月26日)に、いわき市立草野心平記念文学館を訪れたときのこと。夏の企画展「くどうなおこと『のはらうた』展」にちなむ、絵本読み聞かせ「のはらうたと工藤直子の絵本」が開かれていた。

読み聞かせは、いわき絵本と朗読の会が同文学館で定期的に行っているイベント。ロビーに2匹の盲導犬が座っていた=写真。それで、イベント開催が分かった。飼い主が朗読を聴きに来たのだろう。

飼い主の関係者と思われる人がいすに座り、ハーネス(犬が体に付けている白い胴輪)に結んだリードを膝にかけていた。「写真を撮ってもいいですか」「どうぞ、どうぞ」。いろいろ話を聞いた。

犬種はラブラドール・レトリバー。1匹は16歳、人間でいえばかなりの高齢だ。年のために床にへばりついている。若い犬はいかにも体力十分といった風情で首をスッと上げている。へばっていようと、元気だろうと、ハーネスを付けているときは「仕事をしている」とき。緊張して待機しているのだという。えらい!

「えらい犬」で思い出した。刑事事件で足跡などを追うのに活躍する警察犬。水際で密輸を防ぐ麻薬捜査犬。家屋倒壊や土砂崩れ現場に出動して生存者を捜す災害救助犬。ほかに、聴導犬、介助犬などがいる。

犬は最も早く人類のパートナーになった生き物だ。いわき市泉字下川の大畑貝塚からも埋葬犬の骨が出土している。いわば「縄文犬」である。いわきの大地でも、はるか大昔から犬が人間の暮らしを助けてきたのだ。

――周囲で人がせかせか動き回ろうと、人声が聞こえようと、2匹の盲導犬はじっと座って飼い主が戻るのを待っている。わが家の猫どもに、彼らの爪のアカでも煎じて飲ましてやろうか、と思ったが、やめた。すれっからしになってからでは、いくらしつけても身につかない。人間も同じだが。

2009年8月1日土曜日

ヤンヤン・セミ・長梅雨


匿名さんからいただいたコメントへのお礼と、若干の補足説明です。

「伝承郷の写真展」の記事に合わせて、解体工事をしているいわき駅ビル「ヤンヤン」の写真を載せたら、〈タカじいさんが撮った写真か〉という質問が寄せられた。答えは〈そうです〉。

昨年3月から7月にかけて、ほぼ半月ごとにデジカメで変わりゆく「ヤンヤン」の姿を追った。パソコンに残っている写真は、古い順から3月15日、4月22日、5月15日、6月2日、7月3日、同31日の6枚。これ以外は削除した。解体のピーク時には、確かに爆撃のあとみたいな、暴力的な印象があった。

この解体過程も加えた『いわきステーションビル「ヤンヤン」35年誌』(平成20年9月30日、いわき中央ステーションビル株式会社発行)が、いわき総合図書館と地区図書館にある。貸し出し可能なので、より詳しくはそちらへどうぞ。

セミが鳴かないというコメントを受けて、先日、ニイニイゼミに関して首をかしげたことを思い出した。私の場合、今年の初鳴は7月9日、平中神谷の自宅の近所で、だった。夏井川渓谷(いわき市小川町)でもその前後には初鳴が聞かれたことだろう。

にしても、遅い。渓谷では例年、6月末には「ジー、ジー」とか細い声で鳴き出すのだが、今年はそれが7月にずれ込んだ。そのとき、〈はてな、遅いぞ〉と思ったのだった。

言われてみれば、「蝉時雨」とは程遠い状況にある。たまたま私だけだと思うが、ミンミンゼミ=写真(去年8月撮影)=の初鳴(7月28日)より先にアブラゼミの初鳴を聞き(7月25日)、青空が戻った7月30日には、早くも庭でツクツクボウシが鳴いた。夏が来ないうちに秋が来た?

セミたちは、庭で鳴き出したのはいいが、その後は時折、寝ぼけたように歌うばかり。「蝉時雨」は長梅雨の影響で「蝉小雨」にとどまっている。家庭菜園も日照不足と多湿の影響でキュウリが曲がったり、ネギが根腐れを起こしたりしないか心配だ。