2026年1月23日金曜日

誤記もあるようだ

                                      
   明治35年の記念碑「好間渠誌」の拓本(掛軸)を毎日ながめている。これまでに3回、ブログに書いた。

 いずれも漢文本体ではなく、碑の形状、篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)を担当した人物の名前など、本文の周辺情報にとどまっている。

 本文の解読に挑戦するのはまだ先のこと。そのための予備知識・情報を蓄積中だが、高い山であっても、頂上へ向かってすそ野を歩いていると、少しは標高が上がってきたかな、という手ごたえはある。

「直登」は無理だから、ふだんの「調べもの」と同じように、ジグザグに頂上を目指す。このジグザグがまた「発見」に満ちている。

すそ野にはすそ野の風景が広がる。全く知らなかったことがわかる、あいまいだったことがはっきりする、という点では、すそ野も山頂も同じだろう。

拓本と好間川そばの道路沿いに建つ実際の碑は、同じではない。現地の碑を見てすぐわかった。

すると、同一人物の撰文なら拓本も実際の碑も本文は同じはず、でもほんとうはどうなのか――という疑問がわいてきた。

念のためにそれぞれの文字を1字1字、マス目を入れた紙に書き写す。実際の碑の方は、写真画像をパソコンに取り込み、本文データを拡大して書き起こす。読めない字は「?」のままにしておく。この両方が碑の内容を考える「テキスト」になる。

拓本は本文が16行、実際の碑は15行だ。これだけでも拓本と違うことがわかる。拓本の方は初代、実際の碑は2代目ということになる。

拓本の本文は、1行39字が15行、それに最終16行目の26字を加えて計611字ある。

実際の碑の方は字数がまちまちだ。43字、40字が各1行、42字が2行、最も多い41字が計10行、それに最終行35字を加えると計612字になる。

なぜ1字多いのか。その理由を突き止めるために、書き写した文字群を1字1字比較していく。と、拓本では10行目の中ごろ、実際の碑では9行目の終わりごろに違いが見つかった。

拓本では「中好間各一」=写真上1=が、実際の碑では「中好間間各一」=写真上2=になっている。

「間」が2つある。これが1字多い理由だった。なぜそうなったのか。地域新聞でたびたび誤記・誤植のミスプリを経験してきた人間には、容易に想像がつく。

考えられるのは2つ。①碑を再建する際、石材業者に発注する側が原稿を誤記した②字を刻む側が同じ字をダブって彫ってしまった――のいずれかだろう。

紙の場合は「書き直し」がきくが、石の場合はそうはいかない。「誤刻」に目をつむったか、あるいは見落としたままだったか。「石に刻む」ことの覚悟と怖さに、しばし声もなかった。

2026年1月22日木曜日

箱根寄木細工

知人の家のダンシャリで出てきた小物である。箱根寄木細工の「秘密箱」とネットにあった。

こたつの上に置いて、ブログの打ち込みに飽きると手に取り、押したりこすったりしている。

 どこか特定の面を押すと動いて、さらに別の面が開いて中が見える。ネットにやり方が例示されている。

それで「からくり」の原理はわかったが……。やってはみたものの、びくともしない。開ける方法は幾通りもあるらしい。どうにも手に負えない。

 箱を開けられないまま新年を迎えた。年明けの1月2日は、テレビで箱根駅伝(往路)を観戦した。

 出場選手の名前が字幕付きで表示される。出身高校と出身県も併せて紹介される。出身県は他県であっても「学法石川高校」出身だと「福島県関係者」だから「ガンバレ」となる。

 それはそれとして、1区で出遅れた青山学院大学がいつの間にか上位に食い込み、5区の山登りではついにトップに躍り出た。これには驚いた。

 往路優勝のインタビューで、タレント並みにテレビに顔を出す監督が、5区の選手について「新・山の神」と持ち上げた。メディア的にはニュースの見出しになるおいしいリップサービスだ。

「新」は、メディアによっては「シン」とも「真」とも表記された。それら一切を含む「新」なのだろう。 

「メディア受けの表現を心得ている監督だな」と感心したあと、画面は表彰式に切り替わった。

往路優勝大学には箱根町から寄木細工のトロフィーが贈られる。その台座が箱になっている、テレビで見た瞬間、「秘密箱」ではないかと思った。

手元に秘密箱を置いて眺めていたからだが、実際はどうだろう。そんなことはあるまい。いや、あったらおもしろい。

翌日もまた復路の実況中継を見た。それが終わって外出し、帰って来るとほどなく長男一家が新年のあいさつに来た。

「どこかを動かすとふたが開くらしい」。高校生の下の孫に「秘密箱」を手渡すと、あっという間にふたが開いた=写真上1。

どうやった? どこから動かした? 閉めてしまうとまた開かなくなるので、今は横面と上面が少し開いた状態で手元に置いている。

長い間放置されていたこともあって、仕掛けがきつくなっているようだ。それなりに指の力が要る。若さが足りなかったか。

 知人の家からは箱根寄木細工だけでなく、「五角重ね箱」というのも出てきた=写真上2。

    こちらは「マトリョーシカ」と同じで、開けてもあけても五角形の箱が出てくる。遊び心のある品物をながめたり、手にしたり……。このときだけ昔々の「正月の子ども」に戻った。 

2026年1月21日水曜日

「じゃんがら人形」の看板

                                
   『いわき思い出写真グラフィティ』。いわき市が平成9(1997)年2月に発行した写真集である(編集は広報広聴課)。

 同8年10月1日、いわき市は市制施行30周年を迎えた。記念事業の一環として、「いわきの過去を振り返る写真展」を開催した。その写真をA4判80ページの簡易な冊子にまとめた。

 地域紙の記者として市役所を担当し、編集者になってからも会議などで役所とかかわってきた。それもあって、市役所の刊行物はかなり収集した。

 先日、『いわき思い出写真グラフィティ』を見たカミサンが、「いづみやの写真に『じゃんがら人形』の看板があった」という。

じゃんがら人形といえば、昭和前期の図案家鈴木百世(ももよ=1901~42年)である。

折から、総合図書館では鈴木百世をテーマにした常設展が開かれている(5月24日まで)。

鈴木百世は平で生まれた。豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学んだあと、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年、再び教壇に立ったが、2年後に倒れて暮れには亡くなったという。

じゃんがら人形は鈴木百世が発案した。地元の粘土で素焼きの人形をつくり、泥絵の具で着色した。

戦後、妻の恭代さんが夫の遺志を引き継いだ。恭代さんが老齢で制作を打ち切るまで、この民芸品づくりが続いた。

一昨年(2024年)秋に亡くなった義弟の遺品の中に、恭代さんのつくった5人組の「じゃんがら人形」があった。

それがきっかけで鈴木百世の調べが始まり、現在の上皇・上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、恭代さんの「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上されたことも知った。

この人形は「いわき市平駅前 いづみや商店」が売り出した。『いわき思い出写真グラフィティ』では、平地区を紹介する最初の写真に昭和44(1969)年当時の平(現いわき)駅前が載る=写真上1(「松本正平さん提供」とある)。

 当時の平駅前は、今と同じ30メートル道路が南へ伸び、東側の商店街には歩道に沿ってアーケードが設けられていた。そばには路線バス。これが何台も止まっている。

 いづみやは反対側の角地にあった。南側と西側が交差する建物の角は斜めにカットされて、駅からも壁面がよく見える。

 1階店舗部分に「いづみや」とあり、2階壁面の左端、縦に長く「じゃんがら人形」の文字が大書されている=写真上2(同じ写真を拡大)。

 いづみやがかなり力を入れて「じゃんがら人形」を売り出していたことがうかがえる。

 古い写真集だが、新たな興味・関心の目で見ると、また違った光を放つ。私にとっては鈴木百世とつながる新しい「発見」だった。

2026年1月20日火曜日

川瀬巴水の茨城を特集

                               
   暮れに「常陽藝文」2026年1月号が届いた。特集は「川瀬巴水に<茨城>を読む――母子の声と子の息づかい」=写真。おや、「藝文」にしては遅いぞ。表紙を見たときの反応がこれだった。

川瀬巴水(1883~1957年)は近代の浮世絵師・版画家である。「アップル」の共同創業者の一人、故スティーブ・ジョブズが子どものころ、巴水版画に出合い、影響を受けたことをなにかの雑誌で読んだ。3年前のことである。

それで図書館から『川瀬巴水探索――無名なる風景の痕跡をさがす』(文学通信、2022年)を借りてきた。

全国紙が購読者サービスとして配った巴水の作品のコピーが家にあった。それも見て、ブログで巴水に触れた。茨城に関する部分を抜き書きする。

――『川瀬巴水探索』は、お隣の茨城県人で組織する「川瀬巴水とその時代を知る会」が編集した。

「旅する版画家」が茨城を訪れ、平潟や五浦のほかに水木(みずき=日立市)、水戸・大野、磯浜(大洗町)、潮来などで写生した。

その作品が描かれた場所を、茨城を中心に探索し、当時を知る人に話を聞いたり、現在の様子を報告したりしている。

「平潟東町」は昭和20(1945)年に摺(す)られた。巴水が訪れてスケッチしたのは前年の11月11日。

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の津波で、当時をしのばせるものは何一つなくなった。が、ツテを頼って当時を知る人に会い、話を聞くことができた。

 それを踏まえて版画の構造的な分析に入る。見た目は1軒の家のようだが、実際には4軒の家が描かれている。その家にまつわる生業(「鮟鱇鍋発祥の家」=食堂など)がわかってくる。

 さらに、スケッチにはなく、版画に加えられたものに、筒袖の着物姿の女性がいる。当時の別のスケッチには、たらいで水洗いをするもんぺ姿の女性が描かれていた。

もんぺ姿を筒袖の着物姿に変えたのは、「終戦によって戻った日常の安堵感を表したのだろうか。または、このような平安な日常であってほしいという巴水の想いなのだろうか」と担当筆者は推測する――。

 それから想像をめぐらせる。平潟に来ているなら、勿来の関にも足を伸ばしているはず。

清水久男『川瀬巴水作品集』(東洋美術、2013年)に、昭和29(1954)年に刷られた「勿来の夕」が載っていた。

 巴水が茨城県・平潟を訪れてスケッチしたのは昭和19年。「勿来の夕」はそれからおよそ10年後に制作された。それについてもブログで触れた。

 さて、「常陽藝文」の特集である。作家の林望さんと茨城キリスト教大学の染谷智幸教授らが筆を執っている。

 茨城関係26作品のマップも載る。なかでも。「平潟東町」を詳細に分析している。巴水は黎明期の茨城キリスト教学園ともつながっていた。このあたりが特集のポイントだった。

2026年1月19日月曜日

ケロロワット体操

毎日、在宅ワークをしている。こたつの上にノートパソコンを置き、あぐらをかいてキーボードをたたく。ときどきは足を伸ばしてバタバタやる。エコノミークラス症候群を予防するためだ。

それにはラジオ体操もいいらしい。子どものころ、夏休みに小学校の校庭に集まってやった。動きは今も体が覚えている。これを毎日やろうと思っても、決心がつかない。もっと簡単な体操はないものかと、怠け者はつい考えてしまう。

阪神・淡路大震災から31年がたつ1月17日、いわき市文化センターで令和7年度の自主防災組織研修会が開かれた=写真。

福島テレビ専属気象予報士斎藤恭紀さんが「2026年、大きく変わる防災情報と天気の見通し」、柴山明寛東北大学准教授が「後発地震注意報と今後の地震発生のリスクについて」と題して話した。

締めくくりは、一般社団法人生涯健康社会推進機構による健康体操の実演だった。講師のリードで動画に合わせ、体を動かした。

「ケロロワット体操」という。いわき市が去年(2025年)11月15日、総合防災訓練を実施した際、初めて披露された。

今回の受講者は、区内会と重なる自主防災組織の役員が主なので、高齢者がほとんどだ。

先の原発震災では多くの人が避難所暮らしを経験した。私もその一人。避難所ではやることがないから、ただじっとしていた。

そんな体験と加齢が、高齢者でも簡単にできる健康体操を求めてきた、とはいえる。

ケロロワット体操は場所を取らない。大ホールに集まった高齢者が起立して、足と腕の屈伸をし、上体を左右に動かしても、隣の人を気にせずにやれる。

振り付けと歌詞はラッキィ池田さんが担当した。作曲は秋田在住の渡部絢也さん。

歌詞とメロディーに乗って体を動かしながら、これはいわきゆかりの体操だな――そう思った。

体操の主人公はカエル。だから、ケロロワット=カエルのスクワットである。ラジオ体操と同じように、最後は息を整えるために深呼吸をする。「深呼吸~/るるるるる~/リリリリリ~/若がえーる‼」

オノマトペ(擬音)が草野心平のカエルの詩と重なる。心平の作品「誕生祭」の一部。「りーりー りりる りりる りっふっふっふ」「ぐるるっ ぐるるっ」。あるいは「蛙」の最初の2行。「ぐりり るるるり/ぐるり るるり」

ネットで情報を探ると、ラッキィ池田さんは、心平にあやかり、カエルをモチーフにしたという(いわき民報)。やっぱり。いわき発祥の健康体操だった、といってもいい。

「元気がよみガエ~る」「お腹をかカエル」……。擬音とダジャレを組み合わせて、楽しく体を動かすことができる。

「おたまじゃくしはカエルの子」のメロディーも取り入れてある。手が出る、足が出る。確かに手足の屈伸と同じだ。ラジオ体操とも重なる流れなので、違和感がない。難なくできる。

    ということは、避難所に限らない。自宅でもふだんからできそうだ。実はこれが一番の目的かもしれない 

2026年1月17日土曜日

猫のシロが彼岸へ

                               
   年が明けて間もない日の夕方、隣家のご主人がやって来た。「白い猫が動かないでいる。お宅の飼い猫ではないですか」

猫は、飼ってはいない。地域の「さくら猫」である。避妊手術をした印が耳に入っている。庭に現れたのでカミサンがえさをやるようになった。

姿を見せるのはキジトラの「ゴン」と、全身が真っ白な「シロ」の2匹。シロは、系統的にはペルシャなのか、モフモフとしていて、あごのあたりの毛が特に長い。

そのシロが動かない? 「死んでいたらこちらで片付けますから」。そのときはそれで終わった。

夜、カミサンが懐中電灯をつけて見に行くと、隣家の駐車場の手前で息絶えていた。わが家の庭からはわずか10メートルほどの距離だ。

前日の夕方、えさをやっても食べずに姿を消した。「様子がおかしい」。カミサンが首をかしげた矢先だった。

老衰は、ちょっと考えられない。急に死んだ。病死なら、肥満体だったことが関係しているのだろうか。

シロは去年(2025年)の5月ごろ、どこからともなく庭にやって来た。気品があるといえばあるのだが、それがお高くとまっているようにも感じられた。

そのわがままさがときどき現れた。若いゴンを威嚇する。軒下にあるゴンの寝床を奪う。カミサンはそれで、新たにゴンの寝床を用意した。

シロは、人間に対しても横柄なところがあった。ちょっと目を離したすきに茶の間に上がり込む。「コラッ」。一喝すると脱兎のごとく庭へ走り去る。

そのくせ、えさをやるカミサンにはすぐなついた。カミサンの代わりに、私がえさやりをしたときも、最初は私を避けて突っ走り、少し先からこちらを振り返って見ていたのが、だんだん距離を縮めて「ニャー」と鳴くまでになった。晩秋には足元にすり寄って一周までした。

「猫たちも大変だなぁ」。去年の夏の酷暑にはつい同情したものだ。あるとき、シロは車の下に潜り込んで日差しを避けた。毛皮を着ているから人間以上に暑さがこたえたのだろう。

しかし、そこは猫である。高いところが好きなのは本性にちがいない。梅雨に入ったばかりのころ、太陽が西に傾くとシロが現れて車の屋根の上で横になった=写真(2025年6月18日撮影)。

 ゴンもそうだが、シロは生け垣を利用して、よく義弟の家の屋根に上って休んでいた。

やって来る方角も決まっていた。シロは南の隣家か義弟の家の方から現れた。「本宅」がそちらの方にあったのだろう。

それからの推測だが、衰弱したシロは本宅(の方)へ戻ろうとして、途中で力尽きたようだ。にしては、体がわが家の方、こちらを向いていたが……。

飼い猫ではなくても、えさをやっていた責任がある。カミサンがタオルに包み、古新聞で覆って袋に入れ、廃棄物処理法に従って私がとむらった。 

2026年1月16日金曜日

赤い川

前回(12月23日)の「いいのみんなの食堂」からおよそ3週間。前よりは20分ほど遅く出かけたこともあって、今回も平市街の日没に遭遇した。

「いいのみんなの食堂」は平南白土にある。神谷からは国道6号の夏井川橋を渡り、対岸の県道甲塚古墳線に下りる。そのあとは夏井川に沿って進み、支流の新川を2回渡って住宅街に入れば着く。場所は旧「レストラン シェ 栗崎」だ。

新川と夏井川の合流部手前で平地の丘と阿武隈の山並み、平の市街が、開けた空の下に一望できる。

天然の風景画である。前回とほぼ同じ位置から、助手席のカミサンが夕焼けをパチリとやった=写真。

前回は冬至の翌日だった。1年で最も南に寄った夕日は徐々に北へと位置を変え、3週間たった今では、市街の丘の北側、湯ノ岳のすそ野の方に近づいて沈んだ。

目安は「太陽は1日1分、月は1日1時間」だ 。冬至以後は日の出が1日に1分早くなり、日の入りが1日に1分遅くなる。

前回の撮影時間は午後4時18分、今回は4時36分だった。その差は18分。厳密に日没の瞬間を撮ったわけではないが、それからもおおよそ「1日1分」の違いは読み取れよう。

日中は雲がなかった。底が抜けたような青空だった。午後になって雲が出てきたために、日没時は赤い夕日を反映して、雲の下が赤く染まっていた。

蛇行したあと、まっすぐこちらへ向かって来る夏井川の水面も、大空でこちらへ向かうように伸びた雲を映して赤く染まっていた。

車だったので、チラ見で通過したが、「赤い川」は、最近では見たことがない。対向車も後続車もなければ、止まってカメラを向けるところだ。

その日、その時、その場所だからこその特別な風景、自然からの贈り物である。

写真技術は未熟だが(そのために撮りそこなった「決定的瞬間」はいっぱいあるが)、車を運転していては、ウデがよくても撮影はかなわない。

そのために、カミサンが助手席に座っているときは、撮影の代行を頼む。ハクチョウは、最近はほとんどカミサンが撮っている。夕日や面白い雲もカミサンが撮る。

「赤い川」は残念ながら、助手席からは見えなかったろう。見えてもすぐ視界から消えたことだろう。

みんなの食堂から帰る時間には、車はすべてライトをつけていた。川面はもう暗くて見えない。新川合流部のそばを通ると、薄闇の浅瀬にハクチョウが数十羽、白く浮き出て見えた。日没前後に順次、周囲の田んぼから帰って来たのだろう。

「赤い川」を見たころ、合流部にはもうハクチョウが帰っていたかもしれない。が、上流の川面に視線が集中して全く気づかなかった。

   自然はおもしろい。というより、自然に接することで、しこった感性がほぐれる。それだけではない。絶えず自然に触発されて、思考のバランスを図っている。少なくとも私はそうだ。そのことをまた日没直後の赤い雲と川、うす暗がりのハクチョウが教えてくれた。