2025年11月4日火曜日

題48回吉野せい賞表彰式

                        
 第48回吉野せい賞表彰式が11月1日、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた=写真。

 今年(2025年)の正賞(せい賞)は該当作品がなく、準賞に良川十鵜(よしかわとおう)さんの「凪(な)ぐ」、奨励賞に伊関鉄也さんの「ファミリー(The Family)」、中山孔壹(こういち)さんの「未完の器」、高校2年渡部綾音(あやの)さんの「くぐる」が選ばれた。

 中学生以下の青少年特別賞は中学2年小林礼依(れい)さんの「ステップ」が受賞した。

4人の選考委員を代表して、毎年、選評と総評を述べる。何年も作品を読んでいると、その年の特徴のようなものが見えてくる。今年は「奇妙な物語」が多かった。

ずっと先の未来の話や、過去と現代の間を自在に行き来するタイムトラベルの物語、あるいは心霊、輪廻転生を取り入れた作品などが目立ったことによる。文学を取り巻く環境がなにか新しいステージに入ったような印象を受けた。

そうした時代の反映なのか、選考過程で直接議論したわけではないが、一般論として「AI小説」があらわれたらどうすべきか、選考委員の間で話題になった。そんなことを総評のなかで述べた。

コロナ禍前は受賞者と会食する機会があったが、今はどちらも壇上からの話を聞くだけだ。それでもあとで2人の受賞者と話すことができた。

驚いたことがある。準賞受賞者と奨励賞受賞者の一人が知り合いだった。片方がペンネームだったために、会場で顔を合わせるまで知らなかったという。こんな偶然はせい賞の表彰式では初めてだろう。

表彰式のあとは、仙台在住の芥川賞受賞作家佐藤厚志さんが「地方で小説を書く」と題して記念講演をした。以前は「書店員作家」だったが、今は作家業に専念しているという。

佐藤さんが心のよりどころとしてきた言葉がある。ネットで確かめたら、詩人高村光太郎が、宮沢賢治が死んだとき、岩手日報に寄せた追悼文だった。

「内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺縁に居ても常に一地方の存在から脱する。内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心に居ても常に一地方的な存在に終る」

地域に根差して普遍に至る。それが賢治文学である。いや、吉野せいもそうだ。今も賢治が、せいが読まれるのは、作者が「内にコスモス」を持っていて、作品が独自の光を発しているからだろう。

若いとき、賢治をむさぼり読んだ。今はもう「卒業」したつもりになっていたが、そうでもなかった。

賢治作品に立ち返ることがある。せいの作品についても、あれこれ調べを続けている。コスモスを内包した文学にはやはり引かれる。

2025年11月3日月曜日

夏井川の岸辺へ

                                
   コロナ禍も手伝って、茶の間にこもっていたら、足の筋肉が衰えてきた。「在宅ワーク」とは言ってみたものの、なにも体を動かさないから運動不足になる。

それでトイレに立ったときには足踏みをしたり、階段を使って足の屈伸をしたりする。「フレイルの悪循環」を意識しないわけにはいかない。

ここまで年を重ねると、体力の回復・維持よりは減退をできるだけ抑えることが目標になる。

ラジオ体操は、体を動かすのには効果的だろう。それは経験的にわかっている。しかし長続きしない。ならば、やはり散歩だ。散歩ならなんとか毎日続けることができる。

長い散歩ではなく、昔の3分の1(2千~3千歩、時間にして30分程度)の「準散歩」を始めた。

以前は夏井川の堤防まで出かけて、朝晩2回、それぞれ1時間は歩いていた。その経験から片道15分程度の距離を2コース、さらに遠回りをしてコンビニに買い物に行くコースを加えて、週に3コースを日替わりで2回繰り返すことにした。

最も歩きやすいのは旧道のわが家から国道へ、さらにそこから堤防へと直線的に生活道路を往復するコースだ。首には以前そうしていたようにカメラをぶらさげて。

ちょうどハクチョウが飛来したばかりだから、タイミングが合えば着水・飛び立ち・群飛を狙える。

朝食をはさんで未明からの「朝活」を終えた午前9時前、ジャンパーにマフラー、マスクといういでたちで出かける。

歩き慣れているコースのはずだが、家が新築されたり、アパートに代わったりして、時間の経過を感じないわけにはいかない。それほど歩くのを休んでいたということである。

堤防に立つとすぐ夏井川を見る。「つ」の字になって流れてくる。浅瀬にはダイサギとアオサギ、対岸の水辺にはマガモをはじめとするカモたちが点々と泳いでいる。

広い河原(調練場)に下り、岸辺に近づくとダイサギが、次いでマガモが飛び立った。別の日には川に沿って下流へと飛ぶハクチョウを見た。

また別の日には、サケのやな場のすぐ上流に27羽のハクチョウが羽を休めていた。しばらく見ていると、声の掛け合いが始まった。飛ぶかも――。カメラを構えていたら羽ばたきを始め、一気に飛び立ち始めた=写真上1。

上流へ向かったと思うと、上昇しながら右に旋回し、今度はこちらへ向かって来る。上空に来たところを連写した=写真上2。

群れは二つに分かれたあと、四倉方面へ飛んで見えなくなった。ハクチョウをウォッチングするためだけの「準散歩」。週に2回はこれが目的。

2025年11月1日土曜日

地中の林檎

                                           
 フランスではジャガイモ(馬鈴薯)のことを「ポム・ドゥ・テール(地中の林檎)」というそうだ。

 それぞれの月をテーマに文学作品(小説・童話・詩・エッセーなど)を集めた「12カ月の本」シリーズの1冊、『10月の本』(国書刊行会、2025年)=写真=に出てくる。

 具体的には石川三四郎(1876~1956年)のエッセー「馬鈴薯からトマト迄(まで)」で、末尾のカッコ書きから、「我等」という雑誌の1923年5月号に発表されたものらしい。

 石川三四郎は、名前は聞いたことがあるが、作品は読んだことがない。私にとっては昔の人、歴史上の人物である。

『10月の本』の著者略歴によれば、三四郎は思想家・翻訳家で、幸徳秋水や大杉栄と並ぶ日本のアナキズム運動の先駆者だそうだ。

 大逆事件後に渡欧し、帰国後はアナキズム思想の啓蒙に努め、世田谷で半農生活を営んだ。

 半農生活の原点はヨーロッパでの「百姓体験」だった。知り合った人物の家の留守番をしながら、空いている畑で野菜を栽培した。

 現地の人に教わりながら、種をまき、育て、収穫した。そのときに初めて栽培したジャガイモについての「発見」がエッセーのテーマになっている。

 三四郎は最初、ジャガイモもナスやキュウリのように地上に生(な)るものだと思っていた。

 ところが、秋になって花も落ち、葉も枯れ、茎も腐ってしまった。これは失敗した。そう思っていたが、家主の夫人がパリからやって来て畑を見回り、三四郎に告げる。

「石川様(モシュ・イシカワ)、馬鈴薯(ポム・ド・テエル)を取入れなくては、イケませんよ」

三四郎は腹を立てながら答える。「オオ、ポム・ド・テエル! 皆無です! 皆無です!」

すると、夫人がさとすように言う。「掘ってみたのですか」。連れのお手伝いがうねの土を掻くと、立派な馬鈴薯が現れた。

三四郎はびっくりする。馬鈴薯が土の中でできることを知らなかったと告白すると、夫人もお手伝いも大笑いした。そして夫人が言う。

「地の中に出来るからこそ、ポム・ド・テエル(地中の林檎)と言うのじゃありませんか」

もうひとつ、別の土地での経験。馬鈴薯の花にトマトのような実がなった。寄宿していた屋敷のマダムに告げると、こう言われる。

「馬鈴薯もトマトも本来同じファミリイに属する植物で、根元に出来る実が、茎上の花の跡に成るとそれはトマトと同形同色の実になる」。それはもしかしたら近所のトマトの花粉を受胎したからではないか、とも。

さて、石川三四郎はヨーロッパでの百姓体験を基に、「デモクラシー」を「土民生活」と訳すようになった。社会主義思想家エドワード・カーペンタ―の本も訳している。

カーペンターと言えば、作家吉野せいの夫、吉野義也が心酔した人物である。そのへんの時代の思潮を、つながりをいずれ探ってみたい。

2025年10月31日金曜日

土産物の「じゃんがら人形」

                                                     
 いわき駅前の総合図書館で10月28日、令和7年度のいわき資料常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人とぞ知るいわき人」がスタートした。来年(2026年)5月24日まで。

 鈴木百世(1901~42年)についてはこれまで3回、拙ブログで取り上げている。それを再構成したうえで、常設展で得た「じゃんがら人形」の「新情報」を紹介したい。

鈴木百世は平で生まれ、豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学んだあと、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年には再び教壇に立ち、2年後に倒れて暮れには亡くなった。

 その孫が市立図書館と暮らしの伝承郷に遺作を寄贈した。図書館の常設展では、 「常磐炭田」や四倉などの鳥観図(ちょうかんず)、地酒のパッケージの原画と作品、平七夕祭りのポスターなどが展示されている。

鈴木百世は、素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」の売り出しにも力を入れたという。

関係資料として、「じゃんがら人形」(13人組)のモノクロ写真が展示されていた。写真の解説には、没後10年の昭和27(1952)年、郷土の土産物として「じゃんがら人形」の制作が再開され、平駅(現いわき駅)前の「いづみや」で販売された。昭和50年代の終わりごろまで制作された――とある。

写真を見て驚いた。義弟が持っていた「じゃんがら人形」とそっくりではないか。ふっくらとした顔に細い眉と目、頭髪、鉢巻、浴衣、太鼓、鉦、ちょうちんなどもちゃんと描かれている。

実際の人形は高さが7センチ強=写真=で、写真の人形もたぶん同じだ。ちょうちん持ちのほかに、太鼓打ち(たいこぶち)が3人、鉦切(かねきり)が9人で、義弟が持っていた5人組(ちょうちん持ち、太鼓打ち2人、鉦切2人)に比べると、フル編成といえるだろう。

翌々日、細部を見比べるため、人形をスケッチした紙を持って図書館へ出かけた。義弟の人形のちょうちんには「いわきじゃんがら」と書かれているが、写真の方は「若連」のみで、ケースの奥に「平名物 じゃんがら人形」とある。

写真の方の浴衣には、たすきは描かれていない。が、浴衣の波模様と千鳥はそっくりだ。13人組が5人組に、「平名物」が「いわき平名物」になっただけで、少なくとも鈴木百世の「じゃんがら人形」と同じ系譜にあるものとみてよさそうだ。

ただし、だれが制作を引き継ぎ、再開したのかまでは、解説からはわからない。筆さばきはいたって繊細なので、制作者は女性?と前に書いたが、それに関しては撤回しないといけない。かえってわからなくなったからだ。

 戦前・戦中に活動したいわきのグラフィックデザイナー、鈴木百世。その作品を、人となりをもっと知りたい。そんな思いが、「じゃんがら人形」を介していちだんと強まった。

2025年10月30日木曜日

「豆皿9個」のお膳

                                 
   夕方、飛び飛びに1週間かかった「仕事」が終わって、せいしせいした気分で晩酌の準備に入った。

すると、カミサンがプラ容器に細かく盛られたおかずを座卓に出した=写真。「酒のつまみに」と、楢葉町の知人が焼酎とともに持って来たのだという。

タイミングがいい。「心置きなく飲めるぞ」と思っている人間には、またとない「ごほうび」だ。

9個の豆皿を模した容器に、煮豆や煮物の野菜、サラダ、豆腐のおからなどが盛られている。高級料亭のもてなし膳(食べたことはないが)のような雰囲気を漂わせている。

いちおう説明しておくと、10月中~下旬には行政区内の事業所を訪問して、区費協力金をいただく。行政区の区長と会計が担当する。区にとっては欠かせない仕事だ。

行政区の大きな行事としては、大字(旧村=8行政区)の地区対抗球技大会(初夏)と体育祭(初秋)、夏と秋の市民総ぐるみ運動(一斉清掃)がある。

それらの活動資金やごみ集積所のネット購入費用、防犯灯電気料金などに充てる区費は、隣組の班長~担当の役員経由で区の会計が集約する。これは新年度に入ってすぐ実施する。

同じ目的の区費協力金は、区内会には入っていないが、行政区内で活動をしている事業所にお願いしている。前からの慣例で、秋に区長と会計の2人が事業所を回る。

まず1週間前に依頼書を届ける。夕方でないと会えない事業所がある。月極駐車場は、事務所は区外というところが多い。2人で手分けをして、区外も含めて1週間をかけて集金する。区長と会計にとっては1年で一番神経を使う仕事でもある。

集金がすむと、年度末の総会まで大きな行事はない。8行政区対象の行事(例えば、地区市民歩こう会)以外は平穏な日々が続く。

せいせいした気分になったのは、担当の集金が全部終わったからだ。そこへきれいに彩られたお膳が届いた。おいしくいただいたのはいうまでもない。

豆皿のお膳は、昔、テレビで見た覚えがある。拙ブログを確かめると、2014年5月下旬の「美の壺」だった。

「てのひらで愛(め)でる豆皿」を見て、わが家でも食事のときに使っているしょうゆ皿や取り皿が、なんだか遊び心に満ちた美の小宇宙に思えてきた。

――番組の圧巻は、9つの豆皿に9種類の料理を盛り付けたお盆だ。料理で見せ、豆皿で楽しませる。小さい世界なのにぜいたくで華やかな雰囲気に満ちていた。

豆皿の懐石料理に目がくぎ付けになっていると、裂(きれ)や陶磁器が好きなカミサンが、『楽しい小皿』『まめざら』といった“豆本”を持ってきた。染付や色絵、印判の豆皿が満載されている。絵柄の多彩さ、手びねりのぬくもりに俄然、興味がわいた――。

その興味は今も消えない。「豆皿9個」のプラ容器は捨てずにとっておき、後日、カミサンがこれにおかずを盛り付けて、酒の肴として出した。プラ容器でも「器で食べる」雰囲気は十分味わえる。

2025年10月29日水曜日

直売所でバッタリ

                                 
   JAその他、野菜の直売所へはよく行く。味噌漬けや梅漬けなどの加工品を含めて、だれが何を出荷しているかとなると、まったくわからない。わからなくてもいい。食べてうまければそれでよし、である。

それでも、この味噌漬け、そして梅漬けは、野菜はどこのだれがつくったのか、気になるときがある。

特に味噌漬けの場合は、昔からの強烈な味だったり、現代風のさっぱりした味だったりと、作り手によって違いがはっきりしている。

 現代風の味噌漬けでも、具材の切り方に差がある。小さく刻んだもの、ざっくり切ったものと、生産者の個性が出る。

 ごはんのおかずには、味噌漬けは具が小さくて細かい方がいい。それだけ塩分摂取が抑えられる。なくなりそうになるとまた買いに行く。

 おもしろいことに、同じ容器に入っていても、行くたびに値段が上がっている。10円とか20円だが、買う側としては解せない。量も少なくなっている。

 カミサンがレジの女性に尋ねると、「なんともねぇ、生産者が値段を決めるものだから」という。

 それでわかった。味噌漬けの値段や量が変動するのは、出荷者(生産者)が違うからだろう。

生産者の持ち込みによる委託販売である。容器のラベルに表示されている生産者名も含めて「商品」ということになる。

 そんな直売所での、日曜日昼下がりの出来事だった。夏井川渓谷の隠居からの帰り、平窪の「やさい館」で買い物をした。店に入るとき、棟続きの倉庫に野菜を持ち込む生産者がいた。

店内に入って野菜を買い物かごに入れていると、その生産者が商品棚にキャベツを並べ始めた。

寒いのでこちらは長そでにカーディガンだが、向こうは半そでの丸首シャツ1枚だ。見るともなく見ていると、どうもどこかで会ったような顔である。

向こうもキャベツを並べながら、同じような思いで記憶を探っていたらしい。少したって、どちらからともなく「ああ」となって、私が声を出した。「Hさんじゃないですか!」

Hさんは川前の農家で、紅葉シーズンになると夏井川渓谷の江田駅前で野菜を直売する。

今年(2025年)は渓谷随一の景勝地・牛小川で野菜を直売することを考えた。わが隠居は、庭だけは広い。玄関の前だけでもかなりのスペースがある。

直売所に借りられるかどうか、私たちが隠居にいるとき、訪ねてきた。むろんOKしたが、後日、別の住民からの勧めもあって、隣の「錦展望台」を利用することになったという。

そのHさんがやさい館にも野菜を出荷していた。さっそくキャベツを買う。前にキャベツと大根をいただいたことがある。それを思い出した。

駐車場でHさんにキャベツを買ったことを伝えると、おまけといって車からブロッコリーを1個取り出した。家に戻ってパチリとやったのがこれ=写真。

絶えず変化する自然だけでなく、こんな出会いもあるから、日曜日の渓谷通いはやめられない。

2025年10月28日火曜日

アオテングタケ

                               
    最初に断っておく。表題の「アオテングタケ」は架空のキノコだ。

  10月26日の日曜日は、未明の4時過ぎから雨になった。気象会社の「時間天気」によると、10時ぐらいまでは雨が続き、その後一時やんでまた降り出すという予報だった。

曇りなら夏井川渓谷の隠居へ行く。前後にカミサンのアッシー君をする。一つは、市役所の駐車場にある古着ボックスに、わが家に持ち込まれた古着6~7袋を搬入すること。

もう一つは、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」へカミサンの忘れ物を取りに行き、ついでに昼食をとること。

隠居へ行く途中、三島(小川)の夏井川でハクチョウの有無を確かめることも予定に入れていたが、雨では行ってもやることがない。ハクチョウは前日、中神谷の夏井川で今季初めて確認した。

とりあえず10時ごろまで家にいて、雨が上がったらヤマではなくマチとハマを巡る。そう決めて、ブログの下書きをつくったり、本を読んだりしていると、いい具合に雨が上がった。今だ。急いで車のトランクに古着の袋を詰め込み、市役所の駐車場へ直行した。

サーフィンが開店するまでは少し時間がある。鹿島街道の鹿島ブックセンターにはしばらく行っていない。通り道である。そこで本をながめながら、面白そうなものがあれば買うことにしよう。

同センターには大型書店ならではの楽しみがある。ふだん利用している総合図書館と違って、思わぬところに思わぬ著者の本がある。

新書、選書、新刊本と背表紙をながめているうちに、レジから最も遠い角の詩集のコーナーに、表紙にベニテングタケなどのキノコが描かれた宮沢賢治の本があった。

飯沢耕太郎編『宮沢賢治きのこ文学集成』だった。飯沢さんはキノコ愛好家としても知られる。彼の『きのこ文学大全』(平凡社新書)は、わが家のどこかでほこりをかぶっているはずだ。

表紙を見て買う気になり、財布を握るカミサンに渡すと、「どこにキノコの写真があるの」。どこにもない。で、却下! 賢治全集なら家にある。それを読めばいいじゃないか、というわけだ。

まあ、いい。気を取り直してサーフィンに向かう。店の前の駐車スペースに車を止め、カミサンが助手席から下りると声をあげた。「キノコがある!」

2階の店に通じる階段入り口の手前に花壇の飾りがあった。そこにベニテングタケを模したキノコの置物が配されている。よく見ると、青と緑の色違いのテングタケもある=写真。

なるほど。架空のキノコには違いない。が、装飾の世界では「アオテングタケ」も「ミドリテングタケ」もありだ。

ベニテングタケは毒キノコだが、キノコが登場するヨーロッパ系の絵本、ロシアの画家ビリービンの挿し絵などでは、キノコの代表のように扱われている。美術作品では草間彌生の水玉模様が有名だ。

サーフィンのアオテングタケから、次々に想像が広がる。それでしばらく遊んだ。そんな日曜日の過ごし方もたまにはいい。