年末から床の間に掛軸(記念碑「好間渠誌」の拓本)を飾って、毎日眺めている。「好間渠」は好間江筋、農業用水路である。
碑はすべて漢文だが、最後の文章は、堰のそばに碑を建て、江筋の概略を記して後世に伝える――と読める。
斎藤伊知郎『近代いわき経済史考――碑文に見る伝承100年』(1976年)に当たり、『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)を読んで、上好間字大堰の好間川に堰と取水口があることがわかった。字名からして「堰」由来だろう。
グーグルアースとストリートビューで確かめたら、常磐道いわき中央インターそばの好間川に堰がある。対岸の道路沿いには碑が建ち、その後ろから水路が伸びている。
まずは年末最後の日曜日(12月28日)、夏井川渓谷の隠居へ行く前に寄り道をして、碑と対面した=写真。
碑は北向きに建っている。朝は逆光になる。それもあって碑の文字がよく読めない。しかしながら、拓本と違うことが4つあった。
本文に先立つ1行「正四位子爵安藤信守篆額」が、拓本の本文より少し離れて位置し、字も大きい。
本文のあとに独立して続く「室直與撰文 李堂高山康書隷」が「室直與撰文」だけになっている。
書体は、隷書というよりは楷書らしく、1字1字がこぶりな印象だ。字間・行間も拓本よりは空きが多い。
それに(これは拓本の技術に関することなのだろうが)、碑の輪郭の印象がまるで違う。
明治35年建立の碑は、外縁が自然な岩のギザギザを残しているように見えるのに、実際の碑はちゃんと直線的に加工されている。
一見しただけでも、明治35(1902)年に建立された碑と、今の碑が同じとは思えない。
本文は、「安藤信守篆額」「室直與撰文」とあるから、異同はないはずだ。「李堂高山康書隷」がないのは、たぶん書体が違うからだろう。
拓本は初代の碑、今建っているのは2代目の碑――。そうだとして、なぜ建て替えられたのかだが、なにか大きな災害(たとえば水害)があって損壊したのだろうか。
碑の本文解釈に入るのはまだ先のこと。まずは碑の外観から調べていく必要がある、という意味では、おもしろい「宿題」をもらったものだ。いわきの災害史、中でも好間の水害史がわかる資料にも当たってみよう。
元日の午後、太陽が順光になるのを待って再び碑を訪ねた。今度は本文の字がはっきり読み取れた。それについてはいずれまた報告したい。
そして、これはおまけ――。何年か前まで、福祉関係団体の活動資金にするため、わが家に納豆を届けてくれていた知人の自宅が碑の近くにあった。
車をUターンさせようと前に走らせていたら、カミサンが、ご主人が営んでいる建築業の看板を見つけた。
カミサンが訪ねると図星だった。帰りに家庭菜園のネギなどをちょうだいした。年末ながら、一足早い「お年玉」をもらった気分になった。