2025年12月30日火曜日

カウントダウン

                                 
   この秋から冬にかけて、何度か日本晴れになった。雲一つない青空。つい吸い込まれるような気持ちがわいてカメラを向けた=写真。

日本晴れの空を仰ぐと、残響する言葉がある。雲のない青空は虚無に等しい。雲があるから青空が輝く――。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』で、登場人物の誰かがそんな意味のことを口にした。若いときに読んでうなった。それが影響しているのだろう。

湿潤な日本の風土では、日本晴れは束の間でも解放感の象徴になる。が、『嵐が丘』は違っていた。

気候的に厳しい環境がそんな考えを生んだのだろう。と、これは後年になってからの解釈。

 以来、雲一つない青空を見ても、複雑な思いを抱く人間がいることを思い浮かべるようになった。

 日本晴れの空はしかし、この年(後期高齢者)になると、どうも違って見える。最後は底が抜けるのか。いや、底が抜けてもいい、と。

去年(2024年)の秋、1歳年上の親友が逝き、1歳年下の義弟が亡くなった。2人が彼岸に渡ったあと、私ら夫婦もカウントダウンが始まっていることを悟った。そのことも影響しているに違いない。

今年(2025年)の春あたりから、メディアが伝える訃報、新聞折り込みの「お悔み情報」を見て、影響を受けた著名人や付き合いのあった身近な人たちを、「カウントダウン」というフォルダの中にメモしてきた。

 年末になると、新聞はその年に亡くなった著名人を振り返る。暮れの「回顧ジャーナリズム」でもある。今年は「墓碑銘2025」だ。

 その回顧ジャーナリズムが私の中にも残っていた。著名なところでは、いしだあゆみ、長嶋茂雄、和泉雅子、コニー・フランシス、上條恒彦、ハルク・ホーガン、橋幸夫、ロバート・レッドフォード、仲代達矢、内館牧子、そしてブリジッド・バルドー。いずれも人生の節目、節目で記憶に残った人たちだ。

 親しく付き合っていた仲間では、いわき地域学會のあの人この人。いわきキノコ同好会の冨田武子会長。それからカミサンの友人のご主人など。佐藤栄佐久元福島県知事とも会って話したことがある。

 記者になる前から受け入れてくれた親友の叔父の奥さん、草野美術ホールで知り合った元中学校美術教諭(最初の赴任校がふるさとの中学校で、兄たちが教わった)も彼岸へ渡った。 

 そして、区内会のつながりで知ったよその行政区の役員、同じく文学館の集まりで出会った人、フェイスブックで友達になった福井県の人も……。

他クラスだったが、同学年で寮が一緒だった仲間も2人、彼岸へ渡ったと聞いたのは8月。

親の世代はとっくに終わり、年上の兄弟の世代、あるいは年下の人間も加わって、カウントダウンが続いている。

いつ終わるかは神のみぞ知る。それまでは、晴れたり曇ったり、雨が降ったりする空の下で生きる。雲一つない青空を迎えるのはそのあとでいい。

※おことわり=12月31日~1月4日までブログを休みます。

2025年12月29日月曜日

カラスの行水


  そうか、カラスは今の時期、午後の3時過ぎには浅瀬で行水をするのだな――。妙に納得した。

師走に入って間もない日の午後2時過ぎ、いわき駅前の総合図書館へ行って本を借りた。借りたい本は決まっている。が、「貸出可」なのに、書架にはない。前々日に行ったときもそうだった。

 「貸出可」の本はいったいどこへ消えたのか。前にも同じことがあった。図書館の都合で、借りたい本が一時、書架から消えていたのだ。

帰りはいつものように夏井川の堤防を利用した。堤防へは平神橋を渡ったあとに出る。左岸の鎌田から国道6号の夏井川橋の手前まで、ゆるゆると川を眺めながら進む。

 堤防に出るとすぐ波消しブロックの並ぶ岸辺がある。浅瀬でカラスの集団が水に浸かり、羽をブルブルやっていた。その都度、しぶきが飛び、周りの水が白く泡立つ=写真上1。

 そこ(鎌田)は夕方、ねぐらに戻る途中のカラスがいったん集結して一休みするエリアだ。一休みの様子は、たとえばこんな具合だ(拙ブログから)。

  ――夕方、平の街から帰るのに夏井川に架かる平神橋を渡り、大学のある丘(鎌田山)のふもとを回って堤防へ出たとき。

堤防に沿って伸びる電線に続々とカラスが現れては止まる。ねぐらは別にあって、そこへ戻る前に一休みをして「会議」を開いているような雰囲気だ。

前からそうだったかもしれない。が、前はこんなに止まっていなかったような……。もしかして、そばの河川敷にあったヤナギとヤマザクラが切り倒されたからではないのか――。

――令和元年、台風19号が平・平窪地区を中心に甚大な被害をもたらした。再び人命と財産が失われないようにと、夏井川の河川敷の除草・伐採・土砂除去が行われた。ヤマザクラとヤナギの木も伐採された。

カラスは工事が始まる前も、ヤナギの大木のほかに電線で一休みをしていた覚えがある。休み場である大木が消えても、「群れの記憶」は生きているのだろう。

平神橋の東たもとには送電鉄塔が立つ。その電線にも、夕方になるとカラスが現れて、ほぼ等間隔に止まる。

ねぐらはどこにある? これは勝手な想像だが、市街地から見える西方の山々ではないのか――。

12月18日の夕方、図書館の帰りに堤防に出ると、おびただしい数のカラスが電線=写真上2=と堤防の土手、浅瀬に集結していた。浅瀬では、羽を水に浸けてバシャバシャやっていた。

 人間と違って、カラスの行水は、体に着いた寄生虫を洗い流し、清潔な体で眠りに就くための大切な儀式なのだ、とあらためて納得する。 

2025年12月27日土曜日

リサイクルの中継地

                              
 春に転居するという知人から電話が入った。「瀬戸物がいっぱいある。要るものがあれば持って行って」という。

 「ダンシャリして出たものは引き取るから」。前にカミサンが伝えていた。で、指定された日時に、アッシー君をして出かける。

 知人の家に入ると、空き部屋になっていた広い1室に、大小さまざまな紙箱が足の踏み場もないほど並べられていた。中には陶器や漆器、シーツやタオルなどが入っている。

 カミサンが「回収」するものを選び、私がそれを車に積み込む。1回では収まらないので、いったん家に持ち帰ったあと、また引き取りに行った。

車のトランクと後部座席に積み込むこと2回、ダンシャリで出たリサイクル品をわが家の茶の間に運び込むと、6畳2間の半分が「物置」になった=写真。

夜中に茶の間の明かりをつけるとき、そして玄関から出入りするとき、つまずかないように「通路」だけは確保して寝る。

翌朝、カミサンが食事のあとにこれらを整理した。陶器は陶器、漆器は漆器、シーツ類はシーツ類と、分けられて収まるところに収まったのだろう。

 食器類は店の一角に並べられ、必要な人に引き取ってもらう。善意のおカネがたまれば、あとでシャプラニール=市民による海外協力の会(東京)に寄付する。

 震災後はとりわけ、こうしたリサイクルやダンシャリが増えた。そのために小名浜へ、平の団地へ、旧市街へ、双葉郡広野町へと、行き先も広範囲にわたった。震災がらみの解体、原発避難がらみの移動に伴う整理が多かった。

 不思議なことに、いったんは集まったモノがいつの間にかなくなっている。わが家はリサイクルの中継地、あるいは「ハブ空港」のようだ。今度の食器なども飾るとすぐ、「いいわねぇ」などと言って少しずつ引き取る茶飲み友達が現れた。

古い布やタオルは、義弟が利用していたデイケア施設に贈る。施設では、利用者の体の一部をふくのに布類が欠かせない。いくらあってもいいという。

古着は袋に入れて、店の前のかごに入れておく。必要な人がときどき、買っていく。不要になったからと持ち込んで来る人もいる。

古着が一番多い。個人の家では保管するにも限度がある。たまると、市役所駐車場の「古着回収ボックス」に運ぶ。

前は古着リサイクルのNPO法人ザ・ピープルのスタッフが回収に来た。それが滞っているために、同団体の古着回収ボックスまでこちらから運ぶようにしている。

 さて、今回のダンシャリ回収では、知人の家の庭から柵をはさんだ駐車場へ、そしてわが家の庭から玄関へと、わずかな距離の積み込み・積み下ろしだったが、歩数計では1500歩になった。

なにしろモノの数が多い。1回往復30歩として計50回は積み込み・積み下ろしをした計算になる。これだけでヘトヘトになった。

2025年12月26日金曜日

南端の夕日

                                  
   冬至(12月22日)の翌日午後4時過ぎ。国道6号の夏井川橋を渡って、対岸の県道甲塚古墳線へ出る。

行き先は平南白土の「みんなの食堂」だ。が、その前に夕日がどこに沈むか確かめたい。そのための写真撮影をカミサンに頼む。

夕方のラッシュアワーを控えた時間帯で、路上に車を止めるわけにはいかない。車で移動しながら、助手席からカミサンが赤く燃える西空をパシャパシャやった。

平市街の西方には、南から湯ノ岳~三大明神山、好間川をはさんで閼伽井嶽~水石山のスカイラインが伸びる。

冬至の翌日である。西の山に沈む夕日は1年で最も南端にある。その場所は? 湯ノ岳からかなり南にずれた平市街南方の小丘(もしかしたら「21世紀の森公園あたり?)が赤々と燃えていた=写真上1。

 撮影時間は4時18分。夕日が小丘に没したばかりなのは、紅蓮の中心が一部、金色に輝いているのでわかった。

夏井川に合流する新川を渡るとほどなく「みんなの食堂」(旧「レストラン シェ 栗崎」)に着く。

月に2回、午後2時にオープンし、2時間ほどは子どもの宿題と交流タイムに充てる。4時から7時までは大人もOKの食事タイムになる。

12月2回目のこの日はクリスマスを兼ねて開かれた。2学期の終業式が終わり、翌日からは冬休みという開放感もあってか、いつもより子どもたちの数が多い。

冬至、そしてクリスマス。そういえば、前日には知り合いが冬至だからと、ユズをいっぱい持って来てくれた。

ユズは高専の後輩からも届いた。こちらは2回目の白菜漬けに風味用として皮をみじんにして加えた。冬至の日に届いたユズはさっそく風呂に浮かべて香りを楽しんだ。

みんなの食堂に行くと、スタッフでもある知人が店の前の路上に立っていた。ユズを持って来てくれた知人とは共通の友達だ。

そのユズの知人が初めて「みんなの食堂」に顔を出すという。道に迷うにちがいない。だから、立っているという。実際、迷い迷い、やっとたどり着いた。

知人も、私らも全員、80歳前後のシルバーだ。みんなの食堂は、若いころ頻繁に行き来し、あるいは飲んだり食ったりしたかつての仲間の「再会」の場にもなっている。

「子ども食堂」は同時に、「シルバー食堂」、つまりは「コミュニティ食堂」なのだと、あらためて思った。

まさに「一陽来復」。人生もまた冬至と同じ。翌日、クリスマスイブの晩には「孫」の親と久しぶりに、大人だけの「ほうれんそう鍋」を楽しんだ=写真上2。

2025年12月25日木曜日

絶滅寸前季語

                               
   このごろは図書館へ行くと必ず「大活字本」のコーナーをチェックする。

眠りに就くときは眼鏡をはずす。寝床では、小さな活字だとぼやけて読めない。裸眼で読める本といったら、大活字本しかない。

 寝床で大活字本を読む――。最近の就眠儀式である。前よりすんなり本を読み、それでいて睡魔にもスーッと誘われる。

 最近は夏井いつき『絶滅寸前季語辞典・下』を読んだ。「上」ではなく、「下」にしたのは、「秋・冬・新年」の絶滅寸前季語が収められているからだ。

 寒さが身にしみる今、どんな季語が絶滅しそうなのか、寝床で読み進めると、「皸(あかぎれ)」や「湯婆(ゆたんぽ)」「練炭(れんたん)」といったものが現れた。

 「皸」(晩冬)の説明。「寒さで血液の循環が悪くなることによって起こる、皮膚の亀裂。『皸』と『胼(ひび)』はどう違うかというと、その亀裂の深さによる区別。亀裂の浅いものが『胼』で、出血するほどの亀裂が『皸』だと思えばいい」

 そうか、私も冬になると足のかかとに「胼」ができる。寒くなる。血行が悪くなる。それを意識して、毎朝、かかとに軟膏を塗るようにしている。

 「湯婆」(三冬)は「中に湯を入れて、冷たい布団のなかの身体を暖めるために使う ブリキ製や陶器の亀の子形容器」だ。

 ブリキの湯たんぽは、子どものころ使った記憶がある。が、それこそ製品としては「絶滅」したのではないだろうか。

 陶器製の湯たんぽは、朝ドラの「ばけばけ」にも使われたようだが、現物を見たことはない。

 今、わが家にあるのはポリエチレン製=写真=で、この冬は1回使ったあと、「あったかソックス」をはいて寝ているため、常用までは至っていない。

 「練炭」(三冬)。「縦長の空気穴がいくつも空いている円筒形の炭。その穴が煙突の役目をするので、火がつきやすく、しかも一定温度を長時間保てるので重宝がられた」

 電気ごたつが普及する前、こたつの熱源と言えば練炭だった。木炭を使っていた記憶もあるが、はっきり思い浮かぶのは「練炭七輪」だ。七輪に火のついた練炭を入れ、下部の送風口を開閉して温度を調整した。

 冬といえば、私の中ではこの3つがすぐ思い浮かぶ季語だが、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781~1853年)を調べていて覚えた正月の季語もある。

「御降(おさがり)」。『絶滅寸前季語辞典』によると、「元日、あるいは正月三が日に降る雨のこと。雪を指す場合もある」。

一具は出羽の国で生まれ、磐城平の專称寺で修行し、幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

『一具全集』から3句。「御降りや西丸下のしめるまで」「御降や小袖をしまぬ歩行(あるき)ぶり」「城山や御降ながら暮(れ)かゝる
 句意としては、雨が降っても、雪が降っても、要は晴れていても、そうでなくても正月はめでたいのだ。そういうことだろう。

確かに、現代では「御降」といっても、ピンとくる人はまずいない。私がそうだ。

2025年12月24日水曜日

岸辺のヤナギ

                                 
 この冬2回目の白菜漬けをつくった。白菜を買ったのは日曜日(12月14日)。翌日は晴れたが風があった。翌々日も晴れ。風は? 弱い。

 よーし! 朝食後、すぐ白菜2玉を割って縁側に並べた。干したら待ったなしだ。夕方にはなにがなんでも漬け込む。

それまでにほかの用事を済ませる。図書館の開館時間に合わせて本を借りに行き、その足で銀行に寄った。

帰りは午前11時ごろ、いつものように夏井川の堤防を利用する。ハクチョウは、この時間帯には郊外の田んぼに移動していていない。

なんということもない川の光景ではある。が……。水鳥のいない浅瀬から対岸の河川敷に目を転じたとき、驚いた。

 こんなに生えていたのか! 岸辺のヤナギの若木である。河川敷は全面、枯れ草色だが、岸辺に沿ってうっすら緑色の帯ができていた=写真上1。ポツン、ポツンではない。ビッシリだ。

「令和元年東日本台風」を機に、河川敷の土砂除去と立木伐採が行われた。今も工事の続いているところがある。

わが生活圏では右岸の工事のあと、11月末まで左岸堤防の改修工事が行われた。それで平日は堤防の通行ができなかった。

ヤナギの若木が生えているところは右岸・山崎。ブルドーザーが入ったあとは、サッカー場が2つできるくらいの「空き地」になった。

そこを緑の草が覆い、一段低い岸辺には、大水になると上流から種が流れ着いたのか、あっという間にヤナギの幼木が現れた。

それが1年前だったか、2年前だったか、記憶が定かではないが、もう人間の背丈を超えるくらいには生長している。

周りの枯れ草同様、ヤナギもやがて葉を枯らして裸になるが、淡い緑色は今もよく目立つ。

夏井川の「リバーウォッチング」を始めてから何十年がたつだろう。対岸では、これまでに2回は土砂除去と立木伐採が行われている。

岸辺にヤナギが現れ、林になるまでそう時間はかからない。20年もたてば、大木になる。

今回もいったん見晴らしはよくなったが、岸辺はすでに草とヤナギで土が見えなくなった。工事のたびに繰り返される光景ではある。

それともう一つ。「銀橋」(下水道橋)の上流左岸高水敷に、伐採されずに残った雑木=写真上2=が何本かある。竹林はともかく、なんでその木が残ったのか、よくわらない。

ま、そんなことより、帰宅したら「白菜仕事」だ。岸辺の木の不思議はそのくらいにして、夕方には甕(かめ)に漬け込まねば――。ということで、今は16日に漬け込んだ白菜を食べている。

2025年12月23日火曜日

辛み大根をおろしに

   夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。正確には、辛み大根は自生に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

初夏に種の入ったさやを回収する。が、あまりにも数が多いので、いつも途中でさや摘みをやめる。あとは枯れるがまま。枯れた茎だけになった夏、引っこ抜いて片付ける。

さやは、近年は袋に入れたままだ。まけば芽が出るのはわかっている。しかし、取り残したさやも、初秋になると土に帰って発芽する。

ある年、月遅れ盆が終わって種をまこうとしたら、すでに10株ばかり双葉が出ていた。それで、辛み大根は「ふっつぇ」で増えることを知った。

「ふっつぇ」は「自然に生まれた」を意味するいわき語。シソやミツバもこぼれ種から生える「ふっつえ」だ。

以来、辛み大根は種をまかずに、「ふっつぇ」で出てきたものを育てる。といっても、周りの草を1~2回引き、気が向けばパラッと肥料をまく。その程度のことはする。

今年(2025年)は「ふっつぇ」の発芽が旺盛で、菜園の3分の1を埋めるほどになった。

三春ネギの苗づくりに失敗したので、例年だとネギのうねをつくるあたりでも発芽した。それもそのままにしておいた。

なかには広く大きく葉を広げ、周りの葉を覆い隠すものも現れた。11月末に根元の土をほぐし、根がどのくらい肥大しているかチェックした。

11月最後の日曜日、根元が4センチ、長さ15センチほどの「むっくり」形を初収穫した。大根おろしにすると辛かった。師走に入ると、辛み大根はさらに肥大する。

2年前、普通の大根のように太くて長い辛み大根が採れた(ずんぐりむっくりも、もちろんあったが)。

それぞれおろしにして味を比べた。ずんぐりむっくりはとても辛い。なのに、立派な大根は辛みに強弱がある。どちらかというと、辛みが弱い。

大根はアブラナ科だ。アブラナ科の植物は交雑しやすいという。いつの間にか普通の大根と交配して、形質が変わってしまったのかもしれない。

で、根元に指を突っ込んで土をかき分け、大根の首をつかんでねじるようにして引っこ抜くと、すぐ形状を確かめる。

この冬はまだずんぐりむっくり形が多い=写真(細いのは未熟なまま終わった「ふっつぇ」)。そのための不耕起栽培だからそれでいいのだが、やはり太くて長いタイプだと喜んではいられない。

もともとはもらいものである。震災翌年の2012年夏、豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で暮らしながら、家庭菜園に精を出している知人(女性)から、種の入ったさやが届いた。種はもともと会津産だという。

原発事故が起きて、三春ネギ以外は家庭菜園を続ける気持ちが萎(な)えていたころだった。よし、辛み大根で再出発だ、となったのだった。