2009年8月28日金曜日

カワウの日光浴


週末、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で畑仕事をする。それが一段落すれば、家の中で横になるか、そこらを歩き回るかする。背筋を伸ばしながら気分転換をはかるには、ぶらぶら歩きが一番。でも、頭の中のセンサーは被写体との遭遇に備えてスイッチが入っている。渓谷では、被写体には事欠かないのだ。

対岸の森へ行くには、すぐ近くの水力発電所の吊り橋を渡る。ここで一度足を止め、下流中央に露出している岩盤をこっそりうかがう。カワガラスやカルガモが止まっていることがある。このごろは、よくカワウが止まっている。渓谷だからカワウ、目の周りの黄色い裸出部の形からしてカワウと決めつけているが、どうだろう。カワウで話を進める。

カワウは人間の姿を見ると、すぐ飛び立つ。ところが先日は、吊り橋に人間が現れても羽を休めたまま。3羽が時々、首を傾げたり、振り返ったりして警戒を怠らないものの、飛ぶ気配はない。近くの釣り堀で腹を満たしたあとの日光浴か。これ幸いと、岸に沿う木陰に入り込み、抜き足差し足、時間をかけて接近する。

直射日光がカワウの黒い背中を照らす。1羽が近くの岩盤に飛び移る。くちばしを開き加減にして、盛んにのどを震わせている。デジカメのレンズを最長にしてカシャカシャやり=写真、モニター画面で拡大する。目やあごの黄色い皮膚の裸出部はあごで終わっているもの、のどまでいっているものと個体差がある。色にも濃淡がある。若鳥らしい。

カワウはたまたまの例で、言いたかったのはこういうことだ。畑仕事をする。疲れたからといって無量庵で横になる。それでわが家に帰れば、夏井川渓谷の自然の営みとは切れたままで終わる。畑仕事は確かに自然が相手だ。それだけではしかし、ピンポイントの自然と向き合ったにすぎない。

人間の営みと交差するように自然の営みがある。人間の隣人としての鳥獣虫魚がそこにいる。草木も、菌類もいる。カワウは、たまたまその日のシンボルだった。別の日にはキノコがそのシンボルになる。また別の日には花がシンボルになる。人間と自然の交通が山里の暮らしの原点なのだ。

畑仕事だけをよしとしたのでは、カワウには会えなかった。私のカメラ術ではまずまずの写真も撮れなかった。自然は絵はがきのように見るものではなく、働きかけるとこたえてくれるもの――あらためてそう感じたのだった。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

深い考察ですね。人と自然の交差点を考えさせられます。
それにしても、カワウがこんなに大きく撮れるのはカメラの性能じゃなさそうですね。
「ぬき足差し足」して自然に溶け込んだからでしょうか?
鉛筆画の題材はカワウでしょうか?