2018年11月17日土曜日

偶然の贈り物

 何度も書いているので、「またか」といわれそうだが――。夏井川で越冬するハクチョウの写真をときどき撮る。
 火曜日(11月13日)の午後2時半ごろ、街からの帰りに堤防を行くと、前方上空にハクチョウの一群が現れ、旋回を始めた。どこかの田んぼで採餌しながら休んだあと、戻ってきたのだ。

ジェット旅客機、電車、沖を行くフェリー。動くものは魅力的だ。これらは焦点を合わせやすいが、飛んでいる鳥は、私のウデでは難しい。でも、ハクチョウは体が大きい。撮りやすい。着水までの様子を撮影できる、またとないチャンスだ。急いで近づき、カシャカシャやった。

 この時期、車で街へいくときには300ミリの望遠カメラを携行する。それで10コマ近く撮ったが、飛んでいるものはほとんどピンボケだった。たまたま着水する瞬間の2コマがなんとか見られる状態だった=写真上・下。
 ハクチョウが休んでいるところは何度も撮っている。しかし、動きがない。動きのある写真がほしい。はばたきでもいい。羽繕いでもいい。離・着水はそれこそ最高の瞬間だが、朝・夕張り付いているわけにはいかない。そこへたまたま午後2時半ごろ、ハクチョウが舞い戻ってきた。

出合い頭のシャッターチャンスは「偶然の贈り物」だ。狙いどおり、なんていうのはおこがましい。たまたまその時間にいわせたからこそ、カメラを向けることができたのだ。いつかはいい写真を――という一念が神様の気まぐれを誘った。

それに、と思う。越冬地のそばに住む女性が、今は「ハクチョウおばさん」をやっている。午後3時ごろ、えさやりするのを見たことがある。ハクチョウたちはえさをもらえる時間が近づいたので舞い戻ったのだろう。

とりあえずピントが合っている2コマを拡大したら、くちばしの黄色がくさび状に伸びていた。オオハクチョウだった。

2018年11月16日金曜日

山梨県立文学館報第106号

 山梨県甲府市の山梨県立文学館で、「歿後30年草野心平展――ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」が11月25日まで開かれている。先日、いわき市立草野心平記念文学館へ出かけた際、山梨県立文学館報第106号を見て知った。
 福島の詩人和合亮一さんが「心平さんがいつも隣に」と題するエッセーを寄稿している。毎年何回か、中通りから在来線(郡山駅から小川郷駅まではJR磐越東線)を利用して心平記念文学館へ行くという。

「街から山の中へ、そして川沿いへ。車窓の空の表情が少しずつ変わっていく。雄大な景色とそこに浮かぶ雲が、心平さんの心の世界を見せてくれているように感じる。眺めながら駅弁などを開くと、詩人と並んで食べているような気がしてくる。歓迎されるかのように『背戸峨廊(せどがろ)』と呼ばれ親しまれている美しい渓谷の入り口のあたりを抜けていく。ここは心平さんが名付けた景勝地である」

「背戸峨廊」に、正確に「せどがろ」とルビを振っている=写真。拙ブログで何回も指摘したことだが、誤って広まった読み方「せとがろう」が跡を絶たない。「せどがろ」派が盛り返してきたのはつい最近で、福島県を代表する現役詩人が「せどがろ」派に加わったことは心強い。

 ついでにいえば、夏井川渓谷と背戸峨廊は同じではない。磐越東線から見える渓谷は夏井川渓谷、夏井川本流そのものだ。背戸峨廊は磐越東線江田駅近くで本流に注ぐ支流・江田川。山の陰にあって列車からは見えない。

 最近の私的な関心は、背戸峨廊は「河川争奪」の結果、現在のような姿になったらしいということだ。江田川とは山を挟んで流れる加路(かろ)川は、大昔、水源が江田川の上流にあった。それが河川争奪の結果、江田川に流れを奪われた。

加路川流域の住民はそれを知ってかどうかはわからないが、江田川のことを「セドガロ」(背戸の加路川=裏の加路川)と呼びならわしていた。このセドガロに心平が背戸峨廊という漢字をあて、PRした結果、全国的に知られるようになった。

2018年11月15日木曜日

撮り菌・食べ菌・キャラ菌

 Eテレの「沼にハマってきいてみた」、略して「沼ハマ」は毎週月~水曜日夜の放送だ。先週(11月7日)、新聞のテレビ欄をながめていたら、キノコの文字が目に留まった。晩酌をやりながら、初めて見た=写真下。
 若者向けの番組らしいことは、司会者が若い人なのでわかる。その一人が松井愛莉さん(22)=火・水担当=だった。字幕で知った。いわき民報などの記事で名前は記憶していた。いわき出身ではなかったか。モデル・女優・歌手だという。

沼にハマる――。底なし沼に沈むイメージがあるが、要はナニかにハマる(熱中する)若者を紹介する番組のようだ。きのう(11月14日)は「カレー沼」だった。カレーをつくって食べ続ける女性と、カレーを食べ歩く少年の2人が登場した。ハマり具合がハンパではない。

先週の「キノコ沼」も、高度な研究レベルに達した少年と、キノコグッズに囲まれて暮らす女性が登場した。鉄道ファンは「撮り鉄」「乗り鉄」などに分けられる。キノコにも同じように、「撮り菌」「食べ菌」「キャラ菌」などという分け方があるのだとか。若い世代の「キノコ愛」の一端がうかがえる名づけ(4音略称)ではある。年寄りはつい「バイ菌」を連想してしまうが。

40年余りキノコと遊んできた。長くやっていれば思わぬ発見もある。「キノコ沼」を見た翌日、夕刊のいわき民報がアカイカタケのことを記事にしてくれた=写真右。採取の経緯は拙ブログに書いた通りだが、「人知れず現れ、人知れず消える」菌類の神出鬼没ぶりと色・形の不思議さに、あらためて感じいった。

「キノコの話をしてくれ」。夕刊が届いたころ、メールで依頼がきた。キノコに関しては、一般的な「撮り菌・食べ菌・書き菌」にすぎない。研究者ではないので、キノコそのものの話はできない。その周辺、キノコと人間の関係、たとえば阿武隈のキノコ食文化や、文献にみられる阿武隈のキノコの話ならできるかもしれない。

話をするのはざっと1年後だ。ここは「読み菌」「調べ菌」になって40年簡を振り返るのもいいかなと思っている。

2018年11月14日水曜日

“戊辰落城”の跡をめぐる

日曜日(11月11日)の午前、いわき駅北側の物見ケ岡(旧城跡)でいわき地域学會の巡検が行われた=写真下。駅北口で午前9時に集合――それだけの案内だった。会員を主に10人ほどが参加した。
物見ケ岡は夏井川の支流・新川左岸に位置する段丘だ。江戸時代には磐城平城が築かれた。戊辰戦争で落城したあと、「お城山」はあらかた住宅地に変わった。それでも、城の石垣やクランク状の小道などが残っている。

巡検前日の土曜日、いわきPITで上廣歴史・文化フォーラム「戊辰戦争150年記念講演・講談会」が開かれた。上廣倫理財団が主催し、地域学會が共催した。講談師の神田京子さんが幕末の岡っ引き、「青龍刀権次(ごんじ)」と明治の「炎の歌人与謝野晶子」を口演し、地域学會の夏井芳徳副代表幹事が「いわきの戊辰戦争 六間門の戦い 相馬将監胤真と中村茂平」と題して講演した。

夏井副代表幹事ほかがガイド役を務め、「六間門の戦い」を現地で“体感”する巡検になった。

 いわき駅西側の平跨線橋からお城山の磐城桜が丘高校(旧磐女)へ上る坂は、江戸時代は堀だった。それを埋め立てて道にしたという。その道を境に、東が本丸側、西が六間門側だ。六間門の先、高麗橋(幽霊橋)を渡ると飯野八幡宮がある。さらに、昔は地続きだった寺町へと橋を渡り、欣浄寺にある新政府軍の戦死者の墓石群=写真右=と、良善寺にある磐城平藩の戦死者の墓域を巡った。

 まずは本丸側に残る石垣を見、塗師門跡から城坂門・黒門へと進む。石垣は7年前の東日本大震災で大きく崩れた。まだ修復はなっていない。
スマホならその場で「磐城平城下復元図」「岩城平城内外一覧圖」などと照合できる=写真上。が、私は持っていない。帰宅後、パソコンでこれらの絵図に当たった。独身時代に住んでいたアパートは「城坂門」のところにあった。今もある。「黒門」はその先。魚屋があったところは駐車場に変わったが、後ろはどうやら丹後沢の西のはずれ、「武者落とし」の崖らしい。今度歩いて初めてわかった。

「六間門の戦い」では高麗橋をはさんで、八幡宮そばに新政府軍が陣取った。銃器の性能がまるで違う。新政府軍の銃は飛距離十分だが、平藩の銃は旧式でそこまで届かない。良善寺の山門にも新政府軍の銃弾痕があった=写真左。

良善寺を最後に、坂を下る。城下の古鍛冶~紺屋町~才槌小路~田町をたどって、ラトブ前で解散した。「田町会所」跡や、今は道路になった外堀兼水路に想像をめぐらせる。

さてさて、“現場”を巡った成果か、戊辰の戦いはなんだったのか、江戸城と同じく無血開城はできなかったものか――などと、頭のなかにさざ波が立ってきた。

2018年11月13日火曜日

カエデ紅葉、サクラ落葉

きのう、月曜日(11月12日)の夏井川渓谷――。晴れたり曇ったりの天気に、紅葉目当ての車がポツリポツリとやって来る。
 カエデは紅葉の見ごろを迎えたが、ヤマザクラなどの広葉樹はかなり落葉した。赤・黄・茶と彩り鮮やかだった対岸の森からサクラやツツジの赤が消え、地味な茶系の葉が残るだけになった=写真上。裸木が目立つ。

渓谷の隠居の庭のはずれで土いじりをしていると、そばの県道を行き来する行楽客のひとりから声がかかった。「オジサン、なにつくってるの?」。オジサン? 声の主を見ると、私と同年代かもしれないオジサンだ。「秋まきネギ」「ヘェー」

あとでまた通りがかりながら、「ここに住んでるの?」と聞く。「週末だけね(といっても、きょうは月曜日か)」「ヘェー」。日曜日だろうが月曜日だろうが、そんなことは、そちらのオジサンにはどうでもよかったようだ。渓谷は人里離れたところにある。でも、動物園のサルよろしく人間がいる。先入観と現実のギャップに好奇心がわいただけ、らしい。

朝9時半に土いじりを始めた。芽ネギの根元から落ち葉と草を抜き、白菜に取りついている黒虫・青虫を10匹近く退治した。終わると正午少し前。あっというまの3時間だった。芽ネギ=写真下=も白菜もこれで少しはせいせいしたか。
ネギの苗床は、風が吹けばすぐ落ち葉に覆われる。白菜も隠れていた黒虫・青虫が現れる。また今度の週末、芽ネギと向き合い、白菜の葉をチェックする。その繰り返しだ。

行楽客の目当ては県道沿いのカエデ。ところによっては緑から黄、赤へと変わってきた。最も鮮やかに燃え上がるのは、週末でいえば今度の17、18日か。隠居の近くのカエデに例年、三脚をかついだカメラマンが殺到する。日曜日は特に、朝9時前から人間が県道を行き来する。18日にはなにも予定が入っていない。行楽客が現れる前に土いじりをすませたら、マンウオッチングをしよう。

2018年11月12日月曜日

今年初めての「サンマ刺し」

日曜日に行事が入ると、頭の切り替えができなくて困る。現役時代もそうだった。
「人間と人間の世界」にどっぷりつかってへとへとになった週末、夏井川渓谷の隠居へ行くと、V字の谷や樹木の緑に圧倒されて「自然と人間の関係」に思いが至る。そのなかで土いじりをしているうちに、元気が戻る。
ところが、この秋――。10月下旬からは、28日を除いて日曜日には隠居へ行っていない。平日、気になって、とんぼ返りで様子を見てくるだけだ。

きのう(11月11日)も、いわき地域学會の巡検があって、いわき駅裏側の物見ケ岡(磐城平城跡)を歩き回った。<きょうはオレの日曜日ではない>と自分に言い聞かせて、主催者の一人として参加した。

歩き疲れてクタクタになった。そこへ、巡検担当でもある事務局次長が「11・12月の市民講座開催、会報「潮流」原稿募集の案内チラシを印刷してしまいましょう」といってきた。予定より一日早い。急に親戚の葬式が入ったのだという。それもこなして、さらにクタクタになった。あとはもう、焼酎をグイッとやって、カツオの刺し身をつついて、寝るだけ――。

いつもの魚屋さんへ行ったら、顔を見るなり「カツオ、はずれたー」という。仕入れたのはいいが、さばいたらカネをもらえるようなものではなかった。「(ほかには)なにがあるの」「マグロ、サンマ、タコ、……」。サンマとタコの刺し身にした=写真。

サンマを食べるのは、実は今シーズン初めてだ。カミサンも、かなり前からサンマを焼いて食べたかったようだが、カツオが入荷し続ける限りは「カツ刺し一辺倒」の私に遠慮していたのだろう。

味は? 甘くてうまい。しかし、カツオと違ってボリュームがないから、どんどん数が減っていく。満足感はカツオに遠く及ばない。やはり、カツオが入荷するうちはカツオ刺しで――を再確認した。
 
きょうは曇りだが、あとで夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。一日遅い“マイ日曜日”だ。カエデの紅葉が見ごろだろう。

2018年11月11日日曜日

「週刊だいどころ」とは妙

いわき市立図書館のホームページに収められている「「地域資料のページ」が11月1日、拡充された。家にいながら閲読できる明治・大正・昭和の地域新聞が、18紙から36紙に倍増した。新資料のうち東北日日新聞を真っ先に読んだ話を、先日、ブログに書いた。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアを横断し、日本の樺太・北海道・東北を南下して、19日、霞ケ浦(土浦市)に着陸する。いわきでは、東北日日新聞が平町(現いわき市平)の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行したことを伝えている。
 
ほかに磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞などがある。現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読める。2、3日、時間をつくってはこれらの新聞をスクロールして、見出しを読んだ。

そのなかから“古新聞シリーズ”9として、「週刊だいどころ」=写真=を取り上げる。題名に引かれた。

昭和30(1955)年10月8日に創刊された。題字の下に「毎週土曜日発行」、前後に「石城地方で一番発行部数が多い」「発行所 だいどころ新聞社 平市新川町」とある。第2号に発行人の名前(金子源三)が載る。婦人層を対象に、料理・子育てなど日々の暮らしに役立つ情報を提供するのが狙いだったようだ。今でいう情報紙だろう。

写真で紹介した第15号(昭和31年2月12日付)は、しかし“台所情報”と違って、「いばらの道こえて 人生勉強」を特集している。平の経済人5人を取り上げた。ひげの世界館主鈴木寅次郎に引かれた。記事後半、人生も後半のくだり――。

「大正15(1926)年秋、17年にわたる茶屋商売の足を洗い、当時経営不振の映画館“有声座”を引(き)受けた。競争相手の平館が20銭なら、こっちは10銭。型破りの興行で客足を奪い、平日夜1回限りの上映を連日昼夜2回立てに改革、林長二郎の『雪之丞変化』、松竹不朽の名作『愛染かつら』などで馬鹿当(た)りをとった」

 終戦間際に試練が待っていた。「昭和20(1945)年7月、強制疎開で館は跡かたもなく取(り)壊され、1カ月過ぎて終戦。『よし、もう一度やるぞ』。悲運のドン底から起(た)ち上(が)り、翌21年10月7日、世界館として復活した」。今のポレポレいわきにつながるいわきの映画館史の重要なトピックだろう。これだけでも「週刊だいどころ」を読んだかいがある、というものだ。