2016年8月29日月曜日

市民体育祭

 きのう(8月28日)、平六小の校庭で神谷地区市民体育祭が開かれた=写真。台風~前線~台風の合間の曇り空と、熱中症予防にはうってつけの天気になった。
 雨で1週間延期となれば、仕出し屋(弁当・反省会の飲食物)への連絡、テントの撤収、出場メンバーの再編成など、それぞれがまた一からやり直さないといけない。子どもを守る会、区の役員の苦労が一回ですんだことに、まずは安どした。
 
 体育祭は9月第一日曜日開催が恒例になっている。今年は9月4日だ。一方で4年に一度の市議選が同日告示、11日投・開票で行われることが決まった。同小の体育館が投票所になる。雨で1週間延期しても投票とダブらないためには9月後半にずらす、あるいは8月最終日曜日に前倒しする、しかない。結果的には前倒しで正解だった。(ミンミンゼミが鳴くなかでの開催は初めてかもしれない)

 時代の風はまず地域の片隅を吹き渡る。大型店が進出したときには路線商店のいくつかが廃業した。小学校の学級が減ったり球技大会出場メンバーの確保が難しくなったりするのは、少子・高齢化のあらわれだろう。体育祭の競技種目も、世代・性別を細かく分けたリレーなどは選手確保が難しくなってきた。

 それでも回を重ねること42回というのは、自賛になるがすごい。地域によってはとっくに中止したところもあるだろう。でも、継続するためには時代に合わせて大会要項を変えていく必要がある。そういう曲がり角にきていることも間違いない。
 
 やはり、リレーは盛り上がった。わが区は予選落ちしたが、決勝は見ごたえがあった。1位、2位の区がそれこそ抜きつ抜かれつのレースを展開した。わが区は、「玉入れ」では抜群の成績だった。
 
 そうそう、○×で勝ち残りを決める「ウルトラクイズ」では今、本州をうかがおうとしている台風10号のアジア名「ライオンロック」(香港の山の名前)が問題に出た。臨機応変に問題を出すところは親睦第一の体育祭らしくてよかった。けさはすでに雨。「ライオンロック」はあすが正念場だ。

2016年8月28日日曜日

サハリン⑪日本車

 ロシアのサハリン、ウラジオストク、ナホトカに共通していたのは、植生、そして行き来する車がほとんど日本車だったこと。日本語ガイド氏によると、85%が日本車、しかもその大半がトヨタだ。 
 きのう(8月27日)、晩酌中にふと、小名浜港からも中古車がソ連(現ロシア)へ輸出されていたことを思い出した。
 
 ネットで確認すると、同港では昭和64(1988)年がソ連への“中古車輸出元年”だったらしい。当時はよくわからなかったが、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」(再構築)による“雪解け”のひとつだったようだ。木材を運搬して来た船員がお土産を買うように中古車を買う――そういう「個人輸入」だった印象がある。
 
 島(サハリン)ではコルサコフ(大泊)、シベリア大陸(ウラジオストク、ナホトカ)ではナホトカが中古車の陸揚げ地らしかった。
 
 それからおよそ30年後。あちこちへこんで錆びた超年代モノからピカピカのレクサスまで、どこへ行っても日本車であふれていた。トラックやタクシーなどは、日本の企業名がそのまま残っている=写真。
 
 感心したことがある。横断歩道では歩行者優先が徹底されていた。台湾やベトナムでは冷や冷やしながら横断したものだが、ロシアではスーッと車が止まる。日本はやはり台湾とロシアの中間だな、と思った。
 
 サハリンと大陸との違いもあった。島は未舗装道路が多いのか、ほこりと泥まみれの車が大半だ。洗車してもすぐ泥んこになる、だからそのままにしておく? ウラジオストク、ナホトカではきれいな車が多かった。

 それともうひとつ。日本車だから長持ちするとはいっても、道路の路肩には何台も故障車が止まっていた。日本だとすぐJAFに頼むところだが、ロシアでは同様の組織がないのか、あっても費用が高いのか、自分たちで修理するのが当たり前のようだった。
 
 私は20代半ばで車の運転を始めた。パブリカ、ギャラン、アコードと乗り継ぎ、会社を辞めると同時にパジェロからフィットに切り替えた。いずれも中古車だ。40年前のパブリカはともかく、アコードあたりはサハリンか大陸で走っているかもしれない。しばし目を凝らしたが、もとよりナンバーはロシア式で細長い。わかるはずもなかった。

2016年8月27日土曜日

台風のアジア名

 ほんとに降ってる――5時すぎに起きると、雨音が耳に入った。ゆうべの“最新情報”では、「朝から昼にかけて断続的に雨」だった。あとは曇り、あす(8月28日)の日曜日も「明け方まで雨」のあと曇り。熱中症にはならないから、ぎりぎりいい“天の配剤”かもしれない。
あす、近くの平六小校庭で神谷地区市民体育祭が開かれる。9月11日の日曜日にいわき市議選投開票が行われる。雨で1週間延期されても投開票とダブらないようにするため、9月第一日曜日と決まっている体育祭を前倒しした。

 ところが、台風が連続して日本列島をうかがい、前線も通過して雨がちな日が続いた。今週はたびたびパソコンやテレビのデータ放送で浜通り(いわき地方)の気象情報をチェックした。ついでに台風情報も。と、台風10号に「ライオンロック」という名前が付いていた。どういうことだ、これは!

 ネットで検索すると、気象庁の「台風の番号の付け方と命名の方法」に出合った。平成12(2000)年から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には、日本ほか14か国の同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになった、とある。台風のアジア名だ。

 あれがそうか。2010年9月19日、3泊4日の台湾の旅を始めて2日目、「凡那比(ファナピ)」という台風に島が直撃された。テレビで知った=写真。(新幹線で高雄へ行くメーンの日程が中止になり、5年後、その新幹線に乗りたくて台湾を再訪した)

 今度、調べてわかったのだが、台風の名前は順に繰り返し使われる。大きな被害を出した名前はその後、リストから外されて、その台風だけを指すものになる。5年前の「ファナピ」がそうして“永久欠番”になった。

「ライオンロック」は香港(山の名前)、次いで「コンパス」(日本=コンパス座)「ナムセーウン」(ラオス=川の名前)「マーロウ」(マカオ=めのう)「ムーランティ」(マレーシア=木の名前)「ライ」(ミクロネシア=ヤップ島の石の貨幣)と続く。

 5年前は、この「ライ」のところが「ファナピ」だった。「サンゴ礁を形成する小さな島々」の意味、ということだったから、やはりミクロネシアの言葉だろうか。

 きょうは午後から校庭でテント張りをしたり、いすやテーブルを並べたりする。きのうまで土・日の気象予報は「午前曇り、午後雨」だった。それが、午後には快晴の影響もあってか、「午前雨、午後から日曜日は曇り」に変わった。予報通りなら万々歳だ。

2016年8月26日金曜日

袋中上人の涙

 いわき地域学會の第318回市民講座が先週土曜日(8月20日)、いわき市文化センターで開かれた。夏井芳徳副代表幹事が「袋中上人著『琉球神道記』を読む」と題して話した=写真。
 袋中(1552~1639年)は、今のいわき市で生まれ育った浄土宗の学僧。関ヶ原の戦い後、いわき地方を治めていた岩城氏が滅亡する。その激変のなかで袋中もふるさとを去り、中国で仏教を学ぼうとしたがならず、琉球へ渡って浄土宗を伝え、沖縄初の史書「琉球神道記」を著した(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)。沖縄の伝統芸能「エイサー」の始祖ともされる。

 夏井副代表幹事は「琉球神道記」の概略を話し、末尾に付された袋中の七言絶句を紹介した。

 袋中は知の巨人だった。その学僧が<那覇夜雨>という詩のなかで「古郷ヲ憶想スルコト、宵夕(しょうせき)、切ナリ/涙、細雨ヲ兼ネ、深更ニ至ル」と、ふるさと・いわきを思って一人涙を流している。袋中の内面がうかがい知れて興味深い。夏井副代表幹事ではないが、こういうときの袋中とは酒を酌み交わしたくなる。
 
 さて、と――。袋中上人を触媒にしていわきの「じゃんがら念仏踊り」と沖縄の「エイサー」が関係している、といった話がこのごろ広まりつつある。そうか?
 
 じゃんがら念仏踊りの研究者でもある夏井副代表幹事はそうした風潮に危惧を抱く。いわきでじゃんがら念仏踊りが始まるのは、袋中上人が沖縄へ渡ったあと、半世紀もたってからだ。袋中とじゃんがら念仏踊りは関係がない。こういう民俗芸能は一人の人間の創案(たとえば、祐天上人じゃんがら説)で始まるものだろうか、外からではなく土から湧き出るようなものではないのか、とこれは私の感想。

 同じような俗説に、「平七夕まつり大正8年起源」説がある。仙台に本店のある七十七銀行が平支店を開設した年を、平七夕祭りが始まった年と混同したのが“定着”した。
 
『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)に七夕飾りの写真が掲載されている。キャプションは「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報にはこうある。「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」。平七夕まつりは昭和5年以降、9年あたりを起源とするのが妥当ではないのか。

 草野心平が“命名”したとされる「背戸峨廊(せどがろ)」(江田川)についても、あるときから「せとがろう」の読みが蔓延した。心平らが江田川を探検した当時の関係者の文章に当たると、読みは「せどがろ」、心平の創案ではなく地元の人間が呼びならわしていた「セドガロ」に、心平が「背戸蛾廊」の漢字を当てた。
 
 地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんの言葉に「事業はまじめに、記録は正確に」がある。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」(地域学會図書刊行のことば)。正確なことばで語れ――に尽きる。

2016年8月25日木曜日

元診療所がカフェに

 夜は浅田次郎の小説集「帰郷」を読みながら眠りに就く。2行でも3行でもいい、引き締まってテンポのいい文体に触れることで、小説の醍醐味を体にしみこませる。それを“鏡”にしてひたすら朝から夕方まで“市民文学”を読み続ける。夕方には目がかすみ、頭が重くなる。
 近くに仮オープンしたばかりのカフェがある。カミサンが「行ってみよう」というので、気分転換を兼ねて出かけた。平六小そばの、元診療所の建物を利用した「スープカフェあかり」=写真。

 昔、診療所の主は「やけど医者」として有名だった。昭和28(1953)年9月24日、詩人草野心平が平六小(旧神谷小)の校歌をつくるため、下調べにやって来た。晩には、「やけど医者」大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。
 
 心平のいとこの草野悟郎さん(当時平二中校長)も同席した。というより、悟郎先生の口利きで心平が来校した。「歴程」369号(草野心平追悼号)に悟郎先生が書いている。
 
 心平来校2年前に発行された『神谷郷土史』によれば、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長。ずっと後年、私ら夫婦が子どもを連れて神谷へ引っ越して来たときも「やけど医者」は健在だった。先生が亡くなり、やがて奥さんが交通事故で亡くなったあと、母屋も診療所も空き家の状態が続いた。(追記:マイカー時代に入って、診療所は神谷から草野駅前に移ったということです。したがって、写真の診療所は神谷時代のもの。「草野のやけど医者」は後年のことのようです)

 平成21(2009)年。前年秋に会社を辞めて時間に余裕ができたとき、近くの神谷公民館の市民講座「基本のえんぴつ画」に参加した。10月に終了する前、公民館の周辺で写生会が行われた。建物が和洋折衷の元診療所をスケッチした。そこだけが「昭和モダン」のにおいを発していた。

「スープカフェあかり」はちょっと前まで平市街にあった。「移転再オープン」だという。初めて診療所の中に入った。床は板張り、窓は下の2枚が曇りガラス、上の2枚が素通しだ。診察室なので外から見られないように、という配慮だったか。店の南面は神谷耕土(水田地帯)。北側は小川江筋が流れる山裾の小集落。北側の素通しガラスにイナゴが張り付いていた。

 童話的、いやだれかの短編小説にでも出てきそうなちんまりした店だ。あずきのスムージーでのどを潤しながら、横長の素通しガラス越しに広がる青空と雲に見入った。

2016年8月24日水曜日

原子力防災図上訓練

 いわき市平の神谷(かべや)地区は、事故を起こした1F(いちえふ)からは40キロ前後、冷温停止状態の2Fからは30キロ圏内にある。2Fを起点にすれば、およそ市の北半分がこの圏内だ。
 東日本大震災から1年8カ月後の平成24(2012)年11月、いわき市は福島県地域防災計画で「UPZ(緊急時防護措置を準備する地域=原発からおおむね30キロ)」に指定された。原子力災害に対する防護措置を講じる必要があり、住民の意識づけも兼ねて、昨夜(8月23日)、神谷公民館で地区の課題を知るための原子力防災訓練(ワークショップ)が開かれた=写真。

 いわき市は原発事故を想定した地域防災計画を策定中だが、その骨格となる「広域避難先」がすでに決まっている。平地区は「南」が茨城県の石岡・つくば市など8市1町。ただし、東海村に原電があるのでその事故も想定して、「西」への避難を考慮しなければいけない。こちらは新潟県などを避難先に調整中だ。
 
 今回は最初の図上訓練(自助・共助・公助でいうと共助の部分)でもあり、「情報伝達」と「避難」の二つをテーマに、いわゆるKJ法で課題を整理した。神谷地区8行政区のうち半分の4区が参加した。残り4区の訓練は今夜、同じ場所で行われる。
 
 役員や民生委員ら4~7人が区ごとに班を編成し、付箋に課題を書きだしたあと、内容が似たものをグループ分けしてキーフレーズを抽出した。
 
 たとえば「情報伝達」では①情報の入手に不安②災害弱者の把握が難しい(個人情報が壁になっている)③連絡態勢ができていない、「避難」では①もっと近くに集合場所がほしい②ルートが不明確③共助態勢が決まっていない――などが挙げられた。隣組に入っていないアパートの住人への連絡・避難の呼びかけはどうするのか。これも課題に書き加えられた。
 
 神谷地区の一時集合場所は平六小、同二中、市北部憩いの家(北部清掃センター内)だが、二中は高台にある。大型バスは入れない。二中が集合場所の区からは「集合場所には適さない」といった声が出た。市の机上プランは地域の実情に合わせて修正されるが、いったん決まった集合場所を変えられるかどうかはわからない。
 
 3カ月後の師走には、同じように避難の課題解決のための方策を探る訓練(ワークショップ)が開かれる。5年余前のパニック(原子炉建屋爆発、屋内退避・食料枯渇、自主避難)は二度とごめんだが、万一には備えなければならない。今回初めて、区の役員間とはいえ広域避難のための課題共有がなされた。

2016年8月23日火曜日

ごみ・台風・セミ

 きのう(8月22日)のいわき市は、台風9号の影響で午後から風雨が強まった。夜には三度、瞬間的に電圧が低下して真っ暗になった。「風台風」だった。
 雨が来る前にやることがある。一つはごみ集積所のネット出しと違反ごみへの張り紙。もう一つは今度の日曜日に開かれる地区市民体育祭プログラムの協賛事業所への配布。

 先週の木曜日(8月18日)、「燃やすごみ」の日に、可燃・不燃・容器プラ・製品プラ・ペットボトルと分別すべきものがごちゃ混ぜになったごみ袋があった、そのままだと収集車は持って行かない。カミサンと二人でごみ袋を開けて分別し、新しいごみ袋にペットボトルを入れて、張り紙をした(ペットボトルは「燃やすごみ」の日には回収されない)。

 その張り紙が週末の雨でぬれ、字が判別できなくなった。で、きのう朝6時、新しく書いて集積所に残った違反ごみに張り紙をした。本人がそれを見たかどうかは確認しようがないが、張り紙をした違反ごみ袋はやはり積み残された。ごみ出しルールの維持・徹底は一時的なもので、住む人が変わればまたやり直し。「シジフォスの神話」と同じで、我慢してそれを繰り返すしかない。

 朝ご飯を食べたあとはすぐ、鉛色の雲が厚く覆うなか、体育祭のプログラムを協賛事業所に配って回った(住民にはすでに回覧網を通して配っている)。

 その時刻、テレビでリオ五輪の閉会式が行われていた。開会式の日にはサハリンにいた。始まりも終わりも映像をちゃんと見ていないので、私の中では五輪の流れが気の抜けたビールのようなものになった。

 それでも、雨が降る前にやることはやった。あとは自分の時間だ、と思いつつ、この時期、ほぼ1か月続く「文字読み」(400字詰め原稿用紙でざっと4000枚前後)に入った。

 ふと気づいたのだが、庭の柿の木が沈黙している。アブラゼミが、ミンミンゼミが、ツツクボウシ=写真=が連日、競うように鳴き交わしていたのが、風雨の強まりとともにピタリとやんだ。セミも風雨から身を守るのに精いっぱいなのだろう。
 
 7号はいわき沖を北上した。9号はいわきの西側の中通りを北上した。今度の週末もまた雨に見舞われそうだ。きょう夜は、市主導の原子力防災図上訓練が近くの公民館で行われる。これまた雨の確率が高い。