2016年12月7日水曜日

植物だって動物だ

 もう半月ほど前だが、NHKドキュメンタリー「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」=写真=を見て感じ入った。絵本作家、甲斐信枝さん。85歳になっても幼女の心を失わない。京都・嵯峨野の里山で、甲斐さんのまなざしを通して植物の驚きを見つめ、躍動感あふれる姿を描く――という番組だった。 
 わが子が幼いころ、「かがくのとも」を購読していた。甲斐さんの「あしながばち」や「きゃべつばたけのいちにち」「ひがんばな」を見ていたはずだが、作者の名前を記憶にとどめることはなかった。

 甲斐さんの本『小さな生きものたちの不思議なくらし』(福音館書店)を図書館から借りて読んだ。「私はずっと以前から身辺の植物を写生しているとき、彼らのひそかな息づかいや自分たちのおかれた環境に、敏感に周到に反応し、適応していく気配に動物の匂いを感じ、そのことにこだわり続けてきました」。おっ、植物だって動物だ、ということか。草野心平に通じる考え方・感じ方ではないか。

 いわき市立草野心平記念文学館の粟津則雄館長(文芸評論家)によると、心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視にある。それは人間だけでなく、動物・植物・鉱物・風景に及ぶ。

短詩「石」。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石もまた人間と同じ質量を持った存在としてとらえられる。

 心平は「あいまいで抽象的な観念にとらわれることなく、弱々しい感傷に溺れることなく、その視力の限りをつくして直視した。彼とそれらの対象とのかかわりをつらぬいているのは、ある深く生き生きとした共生感とでもいうべきものだ」という。

「魚だって人間なんだ」という心平の詩行がある。その延長でいえば、植物だって、動物だって人間なんだ、となる。植物だって動物だ、という感覚は少しもおかしくない。

 詩と詩論を読みふけった10代後半に覚えたことの一つが「極小と極大をつなげる」ということだった。「コップの海」とか「手のひらの世界地図」とかいう比喩がそれに当たる。この番組の場合は「足元」という「極小」と「小」は付いているが「宇宙」という「極大」の連結ということになる。その連結を包んでいるのが、甲斐さんの「深く生き生きとした共生感」とでもいおうか。

2016年12月6日火曜日

文芸雑誌「文祭」

 ネット古書店を営む若い仲間が、戦後間もなくいわきで発行された文芸雑誌を持ってきた=写真。「文祭」「新浪漫文学」「作風」「原型」「去来」「北炎」などで、「文祭」には記憶があった。
『いわき市史 第6巻 文化』で小説・戯曲・評論、詩の項を担当した作家の故草野比佐男さん(三和)が書いている。

「平に来た川内は、そこで富沢有為男に師礼をとり、一方、地元のほぼ同年輩の青年、菅田甫(はじめ)、芳賀他郷等とも結びついて、雑誌をだす。『文祭』がそれである。雑誌の現物にはあたりえないままに菅田甫の記憶にしたがって記せば、創刊が昭和22年(1947)4月1日で4号まで出ており、執筆者には富沢有為男、山岸外史、小高根二郎等を揃えた」

「川内」は川内康範(当時・河内潔士)。後年、テレビドラマ「月光仮面」を書き、「おふくろさん」などの歌謡曲の作詞を手がけた。「富沢有為男」は芥川賞作家で、平市(現いわき市)の北隣・広野町に疎開していた。

 川内が「平に現れたのは、地元出身の夫人の縁によるもの」で、やがて知人である「川内と入れかわりに丹後沢のほとりへ、真尾倍弘と夫人の悦子が移ってくる。真尾のもとへ地元の青少年が日参」し、旺盛な表現・出版活動が展開される。

 草野さんが未見の雑誌なら書いておく意味がある。第2号(昭和22年6月10日発行)、第3号(同8月10日発行)、第4号(同9月10日発行)が残っていた。第2号の表紙裏と目次から、当時27歳の「文祭」編集者・河内潔士の硬骨ぶりと思想的側面がうかがえる。

 表紙裏、下半分の広告。「腐敗せる文学界へ、便乗商人作家へ、抗議の結集! 純文学季刊叢書(単行本形式) 『日本抒情主義』発刊近し」。執筆者に河内潔士のほか、当時22歳の三島由紀夫の名が見える。目次には広告にもある渋沢均(詩)、小池吉昌(詩)、保永貞夫(詩)らの名が。額賀誠志(詩=児童歌劇)と菅田甫(創作)は地元の人間。額賀は童謡詩「とんぼのめがね」で知られる。

 随想「言論の注射」の筆者・プロテスタントは川内自身と思われる。「【和歌滅亡論】このごろしきりに左翼陣営の連中が、さかんに和歌を三流芸術だとか、滅亡をするなどといって元気のいゝところを示してゐるが、一体彼等の言論の何処に真実性なり批判精神があるのか、吾輩にはさっぱりわからん(以下略)」。草野さんが目を通していたら、批判的に論評したに違いない。
 
 ま、それはさておき、裏表紙の広告には戦後2年に満たない当時の庶民の心情が透けて見えるようだ。今はいわきを代表する建設会社が、当時は「演芸社」を営んでいた。「いつも、よい演劇を、美しい音楽を、そして舞踊を、みなさまに贈ることが、わたくしの念願であります」

 第3号、湯本の温泉旅館古瀧の広告には「石城よいよい 湯本の町は 愛の泉の お湯がわく 今度やすみにや 二人でおいで 浮世苦労が わすられる ソウラほんとに ほんに 湯本はよいところ」と、実際あったかどうかはわからないが、「歌」で来訪・入湯を呼びかけている。川内はコピーライターを兼ねていたのかもしれない。

2016年12月5日月曜日

モグラ道

 2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。カエデの紅葉が少し残っているほかは、渓谷はすっかり冬の装いに変わった。きのう(12月4日)、日曜日。快晴、無風。師走に入ったので、適当に「終わりの小春日」と言っておく。穏やかでいい天気だった(午後は雲が多くなった)。
 庭の片隅の菜園に生ごみを埋め、辛み大根を採り、ネギの苗床=写真=に追肥をした。それから、敷地の境のやぶに生える灌木にエノキタケでも出ていないかと思って見て回ったが、なかった。

 この時期、渓谷の朝日は隠居の真向かい、対岸の尾根から昇る。逆光のなかでクモの糸がキラキラ輝いていた。子グモが糸をのばして空へ飛びたったのだ。たどり着く先は街か海か田んぼか。キラキラのピークは11月。山形の方ではこれを「雪迎え」というそうだが、夏井川渓谷では雪が降らなくとも、同時期にクモの糸が輝く。それから少し遅れて雪虫も現れる。

 クモの糸と雪虫を見たあと、三春ネギの苗床をチェックしてうめいた。一部が盛り上がっている。苗床から先の地面もモコモコしている。地中にモグラ道ができた。

 モグラは農家に嫌われる。野菜のうねの下にモグラのトンネルができると、野菜の根が宙に浮く。水分も養分も吸収できなくなる。トンネルの往来に邪魔になる根は除去される。モグラ道は野菜栽培の障害になるのだ。

 わざわざネギの苗床を狙ったわけではない。菜園に生ごみを埋めている。ミミズが発生する。モグラから見たら、苗床の先にミミズがいた、ということになる。よくも悪くも自然界は不思議に満ちている。

2016年12月4日日曜日

バングラカレーを食べながら

 おととい(12月2日)の夜、カミサンの伯父(故人)の家でバングラデシュカレーを食べる会が開かれた=写真。シャプラニール=市民による海外協力の会が、いわき市内の会員、マンスリーサポーターらに呼びかけたところ、スタッフを含めて12人が参加した。
 シャプラは震災直後からいわきに入り、緊急~生活~心のケアも含めて5年間にわたって支援活動を続けた。12人は、支援活動中にシャプラとつながった人、シャプラが支援している南アジア(バングラデシュやネパールなど)に思いを寄せる人、昔からの会員やマンスリーサポーターなどだ。

「個人情報」の制約もあって、これまで会員やマンスリーサポーターが顔を合わせることはなかった。しかし、仲間が連携するからこそできることもある。シャプラはいわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。ばらばらであっても多くの仲間の支えがあったから5年も継続できた、と私は思っている。その経験・ノウハウが、今、ネパール大地震の支援活動に生かされている。

 シャプラと個人のつながりだけでなく、シャプラを軸にした個人と個人の横のつながりも必要ではないか。それは、シャプラ本来の活動を続けるうえでも有効ではないか――シャプラとかかわったいわきの人間には、恩返しの意味も込めて、会員・非会員を問わないゆるやかなネットワークでシャプラを応援したい、という思いがある。そうすることで「いわき連絡会」にも次につながる道筋が見えてくる。

「カレーの集い」は料理から始まった。料理に参加できる人は夕方4時過ぎにはやって来た。やがて6時過ぎには人が集まり、食事と会話を楽しんだ。

 自己紹介が行われた。当然のことながら、1人ひとりが違う人生を生きている。詩人、フリーペーパー記者、郊外にカフェを開くため古民家を探している人、そば打ちと陶芸に打ち込んでいる人、英語に堪能な人……。詩人は自作詩を朗読した。
 
 世代、性別を超えてゆるやかにシャプラとつながり、シャプラでつながる――人が属するコミュニティは地域社会だけではない。いろんなコミュニティに属していると、多様な見方や価値観に触れられる。それだけ物事の判断がより深く、正確になる。楽しみも増える。これを機に、たとえば「打ち立てそばを食べる会」が企画されたら、私は自家栽培の辛み大根を提供する――なんていう話で盛り上がった。

2016年12月3日土曜日

松くい虫、再び

 1本の赤松の異変に気づいてから5年余りがたつ。夏井川渓谷の隠居の対岸、とんがり帽子のような岩盤の上に生えた赤松が少し“茶髪”になりかけたので、1年間、1~2カ月に1回くらいのペースでカメラを向けた。
 その写真が教える変化を2年前に書いた。――平成25(2013)年11月30日、緑色が勢いをなくして一部に黄色いメッシュが入っていた。同26年3月18日、黄緑色の葉はあるものの、大半が赤みを帯びる。5月4日、あらかた“茶髪”になった。6月8日、“茶髪”が濃くなる。7月22日、先端だけ赤いほかは灰色に。9月21日、そして11月16日、完全に枯れたらしく灰色一色になった。

 岩盤を囲むように赤松が三段になって生えているスポットだ。錦展望台の真向かいにあって、真っ先に観光客の目に入る。頂点の松が枯死したあとは、これといった異変は見られなかった。ところが、先日なにげなく目をやると、下段、中段の赤松の葉にほんの少し黄色いメッシュが入っていた=写真。とうとう。こちらも前記のような色の変化をして立ち枯れるものと思われる。

 黄色いメッシュが現れた時点で松はすでに瀕死の状態、というのが、渓谷の“定点観測”で得られた私見だ。葉が枯れれば赤い樹皮も時間をかけて黒ずみ、はがれ、白い“卒塔婆”と化して、やがて上部から折れて姿を消す。
 
 渓谷の森を巡りはじめた20年余前、松枯れがピークに達していた。直径1.5メートル以上の古木が次々に枯れた。いつころ松枯れが始まったかはわからない。いったん松枯れが収まったなと思ったのは、森巡りを始めてから5年ほどあとだ。
 
 師走に入ると、渓谷では大トリのカエデの紅葉も終わり、モミの暗い緑と赤松の明るい緑だけが目立つようになる。その明るい緑が十数年ぶりに枯れだした。岩盤の露出したスポットだけでなく、あちこちで枯死が目立つ。
 
 樹木医に松枯れの原因を聞いた。若くて元気のいいのは松くい虫の被害に遭わない。十数年前に松枯れ被害を免れた木が年輪を重ねてやられたのだろう、という。

 そこだけ写真で切り取れば天然の盆栽のような美景だが、1年後には見る影もなくなっているのか。にしても、まだ若い松だ。若い松もやられるようになったのではないか。

2016年12月2日金曜日

いわきの除染終了へ

 先日、いわき市から除染の受付と終了の期限が迫っていることを告げる回覧資料が届いた。受付はこの12月で、除染作業は来年(2017年)3月までに終了する、という。
 拙ブログに掲載した写真は、その資料に載る「いわき市内の空間線量率の推移」。左側が事故直後(平成23年7月時点)、右側が最新のデータ(同27年11月時点)だ。

 色からみると、原発震災がおきた23年には川前地区に毎時3.85シーベルト以上の赤のゾーンがあった。27年には0.99~1.93の緑、0.23~0.98の水色のゾーンが残るが、あとはほとんどが0.22以下の青色になった。

 あのとき、NHKETV特集取材班が初めて阿武隈高地の放射能汚染の実態を明らかにした。事故直後の4月3日、「原発災害の地にて」で玄侑宗久さんと吉岡忍さんが対談した。さらには5月15日、シリーズ最初の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送され、総合テレビで再放送されるほど大反響を呼んだ。

 私が川前のホットゾーンを知ったのは、原発震災から2カ月弱、ETV特集の二つの番組の間の5月5日だった。そのときのブログの抄録を再掲する。
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 きのう(5月5日)、夏井川渓谷の無量庵(隠居)へ出かけて畑仕事をした。合間に、必要があって川前の知人に連絡した。すぐ来てくれた。用事がすんだあと、「3・11」以後の話になった。原発事故が今も心に重くのしかかっているという(それは私も同じ)。川前は山間地。平野部の平よりは福島第一原発に近い。市街地の市民とは違った危機感を抱いている。

 いわき市は原発事故では「無印」になった。しかし、「緊急時避難準備区域」(福島第一原発から20~30キロ圏内)に入っているところがある。北部の末続、大久。いわきの山間部では小川の戸渡、そして川内村に接する川前の荻、志田名など。いずれもいわき市の行政・経済の中心地である平からはずいぶん遠い。

 川前は安全か――知人の不安、いらだち、怒り、孤立感は、30キロ圏内の同じ川前の住民の気持ちだろう。「どうしたものか」と聞かれても、「そうですねえ」としか言いようがない。

 住民が自主的に放射性物質の線量計測を始めた。ところによっては、2.88マイクロシーベルトアワーという高い値を計測した。単純計算では、積算線量が年間25ミリシーベルト余になる。飯館村と同じような「計画的避難区域」ではないか、これは。

 いわき市は昭和41(1966)年10月1日、14市町村が合併して誕生した。合併のメリットは財政の効率化、デメリットは地域の問題の潜在化。合併前ならば「村の最大課題」だったのが「市の一部の課題」でしかなくなった。

「2.88マイクロシーベルト」は、「川前村」なら全村避難を検討しなくてはならないような危機感に襲われているはずだ。同じ川前でも川と山がある。夏井川のほとりの市川前支所で「0.15マイクロシーベルト」とあっても、双葉郡により近く標高の高い山地の荻、志田名では線量が高い。
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 そのときからでも5年半がたつ。回覧資料によると、市内の保育園・幼稚園、小・中学校は26年3月までに、公園は28年6月には除染が終わった。住宅・道路・事務所の除染も線量率の高い地域から始まった。これが29年3月までに終了する。
 
 わが家の関係でも、渓谷の隠居では庭が全面除染された。平地のわが家は、自分で線量を測っていたこともあって、除染はしなかった。
 
 区としては、23年11月27日、区の役員と子供を守る会の役員、住民など40人近くが参加して除染作業を行った。通学路を高圧洗浄機で除染し、県営住宅集会所・公園周辺の清掃をした。高圧洗浄には大量の水を使う。放射性物質を下流へ“移染”しただけだった。じくじたる思いが今もある。

2016年12月1日木曜日

子猫の命運

 ある夜、息子から電話がかかってきた。「(小名浜から拾ってきた)子猫が死んだ。庭に埋めていいか」。いいも悪いもない。スコップで穴を掘って待っていると、2人の孫もついて来た。
 それから10日後。急に“学童保育”を頼まれた。息子の家で学校から帰るのを待ったあと、わが家へ連れて来た。ん!? 家に入ると、子猫の鳴き声がする。下の孫が「線香は?」という。

 線香はすぐにわかった。庭に眠る子猫に焼香したい、という意味だった。カミサンがすぐ用意をする。生きている子猫は、カミサンが孫に見せたくて、裏に住む実弟の半飼い猫の子を持ち運びゲージに入れて持ってきたのだという。

 カミサン・息子・カミサンの弟――つまり私以外は、そこに猫が、犬が捨てられていれば拾ってしまう派。私はなんでも1匹だけ派で、猫が2匹も3匹もいるような家にはしたくないのに、いる状態がしばらく続いた。その猫たちたちが天寿を全うし、やっと人間だけになったと思ったら、また少しずつ猫の気配が濃くなってきた。

 5日ほど前の深夜、地震でもないのに家の階段の本が崩れ落ちた=写真。なんでこうなるのか? しばらく階段をながめながら思案していたら、2階から子猫が顔を出した。びっくりした。なんでそこにいるんだ? カミサンを起こして聞くと、「私だって知らない」という。日中、家のどっかの戸が開いていたのだろう。カミサンがいらつく私にぶつぶついいながら、子猫2匹をつかまえて外に出した。

 焼香の儀式が終わると、カミサンは孫を連れて裏の家に子猫を戻しに行った。そのあと、茶の間で孫たちと遊んだ。孫のモノマネに爆笑した。若いときのタモリの形態・声帯模写を思い出した。
 
 小3の孫がピコ太郎の「アッポーパイ」と韓国のデモ参加者のまねをする。下の小1がテレビに映った韓国人と同じような表情をし、声を出して“怒り”を表現する。小1でこんなに迫真の演技ができるのか、とびっくりした。韓国の人たちは国政を私物化した大統領に、猫ではなく虎になった。虎の叫びが日本の子どもたちにも届いたのだ。
 
 韓国のできごとだろうと日本のできごとだろうと、メディア(特にテレビ)が繰り返し伝える情報を、子どもたちはあっという間に吸収する。大人社会が子ども社会に反映する。

ノートパソコンを開いてある漢字の意味を調べていたら、下の孫が「これ(ノートパソコン)で、女の人の裸の写真を見るんでしょ」と言った。「違うよ、調べるのに使うんだよ」と返したものの……。いやあ、恐ろしい。大人は子どもに見抜かれている。孫に、猫をかぶらないで、と言われたような気がした。