2016年10月1日土曜日

「額の中の小さな宇宙」展

 東日本大震災で津波と火災に見舞われたいわき市久之浜町の市街は、ほかの沿岸部と同様、重機が入って大改造中だ=写真。海岸堤防はすでにかさ上げされた。そばには防災緑地がもうけられ、背後では土地区画整理事業が進められている。大久川河口の蔭磯橋も、少し上流に高くなって架け替えられる。
 橋を渡ってすぐ、殿上(とのがみ)崎へと続く丘の中腹・翠涛荘(立127-1番地)で、10月3日まで「額の中の小さな宇宙」展と題した展覧会が開かれている。川内村の土志工房、志賀敏広・志津さん夫妻が主催した。初日のきのう(9月30日)夕方、夫婦で訪ねた。
 
「きょうは客が来ない」と思っていたら、やっと来た、私ら夫婦が2人目、3人目だという。広い庭から太平洋と久之浜の町、阿武隈の山並みが一望できる。庭には敏広さんが作った木のテーブル。青空の下で海を眺め、コーヒーをいただきながら、雑談した。
 
 敏広さんは浪江町生まれで、私とは同年齢だ。カミサンが、川内に移り住んだ陶芸家夫妻がいるという話を聞きこんで、父親の命日に田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家へ焼香に行った帰り、立ち寄った。以来、四半世紀、ゆるゆると付き合いが続いている。

 2年前の6月にも大学生の娘さんと3人で、同所で陶器展を開いている。娘さんは生まれたと思ったら、すぐ小学生になり、中学生になり、高校から大学へと進んで、両親と同じ世界に入った――夫妻にとってはうれしい「家族3人展」だったにちがいない。

 今回の展示会は、自作ももちろん出品しているが、浪江町の人たちとの“共同展”という意味合いが濃い。5月にも大型連休を利用して、川内村で開催した。
 
 浪江町は原発事故による全町避難が今も続く。敏広さんが行き来していた先生や知り合いもばらばらに避難し、今もばらばらのままだ。「この5年間を振り返る旅のような展示会をしたい」。そのために敏広さんはそれぞれの避難先を訪ね回ったという。
 
 作品展示協力者のなかに知り合いが2人いた。1人は川内村の前教育長氏、もう1人は平の飲み屋で一緒だった谷平芳樹さん(そのころ、いわきのアドプラン取締役・いわき短大講師だった)。谷平さんの作品は、敏広さんが受け取った多色刷り版画の年賀状で、敏広さんが地元産の板で額装した。

陶芸家であると同時に、工芸家でもある敏広さんの本領を発揮した展示会だ。お近くの方はぜひ。(続く)

2016年9月30日金曜日

バングラ風カレー

 バングラデシュ風カレーの料理教室兼フェアトレード学習会がおととい(9月28日)、いわき市中央卸売市場料理研修室で開かれた=写真。市のホームページで市場のカレンダーを見ると、この日は「臨時休業日」。当初は生協のパルシステム福島いわきセンターで開かれる予定だったが、参加者(生協会員)が予想以上に多かったため会場が変更された。
 パルシステムが食材を提供し、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフが講師を務めた。シャプラは東日本大震災直後、いわきへ緊急支援に入り、パルシステムとも協働して活動を続けた。以来、強いきずなを保っている。シャプラ関係者として、カミサンの運転手兼手伝いと受講を兼ねて参加した。“黒一点”だった。

 香辛料はニンニク・ショウガ・トウガラシのほか、クミンシード・ターメリック・コリアンダー・クローブ・カルダモン・シナモン・テスパタ代わりのローリエの乾燥葉。これにチキン手羽先、ジャガイモ、タマネギが加わる。カルダモンとコリアンダーはすり鉢に入れて、すりこぎ棒でたたきつぶした。唯一、それだけを引き受けた。

 すり鉢から立ちのぼるカルダモンの香りと辛みに少し目が刺激された。が、香辛料であることを感じたのはこのときだけ。いざ、できあがったカレーを食べてみると、穏やかな味だった。

 それはそうだろう――といったら、鼻で笑われるかもしれないが。高温多湿の南アジアでは胃腸を守り、体力を維持するためにカレーを食べる。香辛料はそのための「薬」だ。激辛もあるだろうが、子どもも食べることを思えば、激辛である必要はない。
 
 参加した女性の年齢は、若いママさんからお年寄りまでと幅広かった。無添加の材料で、子どもにも食べさせられるカレーを――といったところが、人気を呼んだのかもしれない。
 
 昔、自産のトウガラシなどで「マイ七味」をつくったことがある。香辛料には無関心ではいられない。カルダモンは「香りの王様」と形容される。つぶしてみてそれを実感した。いい勉強になった。
 
 南アジア系では、インド料理店はもちろん、ネパール料理店も目にするようになった。バングラデシュ料理店は? バングラデシュ人がインド料理店のコックをする例はあるそうだが、看板を見たことはない。バングラを身近に感じる料理教室だった。

2016年9月29日木曜日

ミニミニリレー講演会

 8月2~7日にサハリン(樺太)とシベリア大陸のウラジオストク・ナホトカを旅した。なんでサハリンへ? 拙ブログを読んだ友人から友人に話が伝わったらしく、「ミニミニリレー講演会でサハリンの話をしてくれ」となった。この何十年、頼み頼まれる関係なので、断るわけにはいかない。
 新聞でいえば、連載記事のスタイルでブログを書いた。それを基本に、レジュメをつくる。タイトルは「サハリン――賢治と自然と戦争」。ゆうべ(9月28日)、新聞記者のサハリン取材報告会のつもりで臨んだ。

 いわきの地域づくり活動を応援する市民の横断的組織「いわきフォーラム’90」が月2回のペースでミニミニリレー講演会を主催している。私で448回目だ。めざすは1000回――。これには、私もいささか責任がある。昔も昔、いわき民報のコラムに同講演会を取り上げ、1000回をめざすくらいの気持ちで続けてほしい、といったことを書いた。

 それと前後して(と思うのだが)、阪神・淡路大震災がおきて3カ月後、手を挙げてこの講演会の話者になった。小2のときに自分の町が大火事に遭い、すべてが灰になったときから家を再建し、借金を完済するまでの親たちの二十数年間を振り返りながら、阪神・淡路のこれからを、長い年月とともに変化する子どもの心を見守っていきたい、といったことを話した。

 別件で“冬眠資料”を探しながらダンシャリしていたら、そのときのレジュメが出てきた。「貧困の発生」(大人)や「無意識の我慢」(子ども)「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」などにも触れていた。「あなたは自分の体験を話すことでやっと大火事から解放されたのね」と、受講者の一人に言われたことを思い出す。

 それから21年と6カ月ぶりの再出番だ。この間にはいろいろあった。東日本大震災の衝撃がやはり大きい。それでも負けずにミニミニリレー講演会は続いている。

 組織自体が1990年にできた。今年(2016年)で26年目。講師も、民法学の東大名誉教授や元知事から福祉施設の職員まで、有名無名を問わない。地域社会を構成するさまざまな仕事・暮らし・文化などについて市民が話し、市民が聴く――息の長い市民レベルの小講演会としては、「ギネス級」ではないか。

 雑談に入って、レジュメに載せた植物「ガラガラソウ」(ゴマノハグサ科のオクエゾガラガラ)について質問された。写真を何枚か回覧したが、花は宮沢賢治の詩に出てくるヤナギランだけだった。ガラガラソウをアップする=写真。海に面した小丘に石製の鳥居が残っていた。神社跡へ向かう斜面の草むらに群れ咲いていた。よく見ると変な花だ。そばの小さな花はアキノキリンソウか。

2016年9月28日水曜日

いわき50歳

 いわき市が誕生したのは、平高専(現福島高専)の3年生のときだ。阿武隈の山里から浜通りの中心・平市に出てきて、やっと水になじんだころだ。草野心平作詞の校歌にある「平高専」が「福島高専」に変わった。「いわき高専」とならなかったのは、平仮名の校名など論外という認識が国にあったからか。「た・い・ら」から「ふ・く・し・ま」に一音増えて、そこだけ間が抜けた歌になった。
 昭和41(1966)年10月1日、常磐地方の14市町村が合併して「いわき市」が生まれた。しあさっての10月1日、50歳を迎える。市制施行50周年を記念して「いわきサンシャイン博」が展開されている。1日には記念事業がめじろ押しだ。

「見せる」イベントでは、「磐城平城復元『一夜城』プロジェクト」がある。すでに、いわき駅裏の物見ケ岡(磐城平城があった)に塀と三階櫓(やぐら)の看板が立った=写真。1日夜6時半にはライトアップされる。駅そばの住吉屋駐車場を会場に、市民が夜空に浮かぶ「一夜城」を見上げることになる。(看板そのものは2017年3月末まで継続展示)

 その30分後には、いわき駅をはさんで物見ケ岡と向かい合う駅前再開発ビル「ラトブ」の北側壁面に、CG(コンピューターグラフィックス)技術を駆使した映像が投影される。「いわきを繋ぐプロジェクションマッピング」で、投影スペースは横57メートル、縦20メートル。同じ駐車場から壁面を見上げると、映像が立体的に感じられるらしい。

 プロジェクションマッピングの実行委員会に加わってくれというので、二度、試作映像を見ながら、自分の考える「いわき観」に従って、追加してほしいもの、カットしたほうがいいものを伝えた。

 いわきは、流域ごとに人口が分散し、それぞれにウミ・マチ・ヤマが展開する「三極三層」のまちだ。ところが、官民から発信される情報やデザインはたいてい海とカモメと灯台どまり。ヤマはどうした!と、あえて中山間地の視点から注文を付けるようにしている。

 プロジェクションマッピングの目玉は小中学生などから公募したイラストで、部分的に動きが加えられる。本編映像は10分程度ということだった。

 この日はたまたま土曜日だ。7時から街で小さな飲み会がある。北の一夜城を見上げ、南のプロジェクションマッピングを見上げてから、飲み会に合流することにしよう。投影時間は午後7時のほかに、7時40分、8時20分からの2回が予定されている。「いわき50歳」を祝う人たちで飲み屋街が忘年会シーズンのようになったら……、帰りのタクシーがつかまらない、かも。

2016年9月27日火曜日

横たわる“オブジェ”

 きのう(9月26日)も書いたことだが――。V字谷の隠居で、まだ明るい時間に酒盛りが始まった。まずはビール、次いで焼酎、日本酒、ウオツカ。さかなはカツオとサンマその他の刺し身に、カミサンがつくったナス炒(い)りとキュウリの浅漬け、それに乾きもの。
 明け方、背中が寒くて目が覚めた。体のあちこちが痛かった。服のまま、タオル1枚をかけただけで、畳にじかに寝た。仲間もタオルケット1枚で眠っていた。パジャマに着替えた者もいるが、あらかたは着たきりのようだった。白い布に覆われた“オブジェ”=写真。ちょっと間違うと……、いやいや変な想像はすまい。そんなことより風邪をひかなかったか。
 
 隠居で飲むたびに雑魚寝になる。2010年11月中旬の、一足早い忘年会でも雑魚寝になった。晩秋なので、さすがにタオルケット1枚では寒すぎる。こたつに足をつっこみ、放射状に布団をかぶって寝た。
 
 座卓の上がきれいになっていた。台所を見ると、夕食用に買ったコンビニのおむすび、カップみそ汁があらかた残っている。この二つで酒盛りをしめくくる前に眠ってしまったのだろう。

 還暦の年(2009年)から“海外修学旅行”を続けている。隠居で飲んでいるうちに、北欧に住む同級生に電話をかけた。そのあと、酔った勢いで北欧へ出かけようと一決した。以来、谷間の隠れ家に集まり、飲んでは台湾へ、ベトナム・カンボジアへ旅することを決めた。台湾へは二度行った。

 今度も相談の結果、2017年春の“海外修学旅行”先が決まった。この8月初旬、サハリンとシベリアへいつもの半数の人間で出かけたばかりだ。カミサンにはまだいわない(いえない)。

2016年9月26日月曜日

いわきの秋の味

 土曜日(9月24日)の夜、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開いた。いわき市内外から8人が参加した。父親が千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島にいたことがあるという仲間が初めて加わった。
 メーンデッシュは二皿の刺し身。行き付けの魚屋さんにカツオ=写真=と、サンマその他の盛り合わせを頼んだ。「なにか持っていくものは?」。連絡をくれた仲間には、いわき産の梨を持ってきてもらった。カツオ、サンマからの連想で、梨があれば「いわきの秋の味を楽しむ会」になる。
 
 カツオは、魚屋さんが太鼓判を押した。サンマの刺し身はこの秋初めてだ。ひとくさり説明したあと、にんにく醤油で食べてもらう。魚屋さんが胸を張るだけのことはある。甘い(うまい)。カツ刺しの大皿が空になるのにそう時間はかからなかった。大皿ふたつといっても、8人には少し足りなかったようだ。
 
 隠居でミニ同級会が開かれると、カツオの刺し身を用意する。いわきといえばカツ刺し、カツ刺しといえばいわき――そんなふうに思ってもらえたら、と考えてのことだ。なにしろ、生カツ刺しのうまさを知っていわきに根を生やした人間だ。仲間にもカツ刺しを自慢したくなる。
 
 8人のうち4人は8月、ロシア(サハリン・ウラジオストク・ナホトカ)の旅に参加した。ビール・焼酎・日本酒のほかに、ウオツカの小瓶が出た。宴の夜は更けるにつれて北方の島の話で盛り上がり、父親が樺太(サハリン)、占守島にいたという2人がさしで話し始めたころから記憶がなくなった。
 
 早朝、背中が寒くて目を覚ましたら、全員がタオルケット1枚で雑魚寝をしていた。1人が食器を片づけ、1人が持参したうどんをゆでて朝食用に出してくれた。おかげで軽く後始末をすませ、雨戸をしめただけで撤収することができた。

2016年9月24日土曜日

力士のふるさと

 いわき総合図書館の〈スポーツ〉コーナーで「相撲」の棚を眺める。『大相撲人物大事典』(ベースボール・マガジン社)があった。大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社)も目に入った。大事典は「貸出禁」なので平ノ石(ひらのいし)辰治郎(1880~1925年)の項をコピー=写真=し、大鵬の本を借りた。
 大事典によると、平ノ石はいわき市平字材木町出身で、明治33(1900)年一月場所に初土俵を踏む。十両に昇進したのは明治41年五月場所、初入幕は同44年一月場所。幕内成績は22勝24敗8分1預35休。前頭四枚目が最高位で、大正6年一月場所を最後に引退する。

 身長167センチ、体重94キロと、力士としては小兵だった。得意手は右四つからの寄り、下手投げ。とったりなどの奇襲技も見せた。似た体形の舞の海は「平成の牛若丸」と呼ばれた。「明治の牛若丸」だったか。趣味は裁判傍聴。法律の解釈に長じていた。大がつく酒豪だった、ともある。

「分」や「預」は、今はない。何を意味するのか。検索して分かったのは、「分」は引き分け、「預」も引き分けの一種。両力士が疲れてこれ以上勝負をつけられないときに引き分けとなり、物言いがついたきわどい相撲も、行司か審判委員預かりとして、あえて白黒をつけないことがあった。

 当時は一場所10日制で、1月と5月の年2場所だけ。「一年を二十日で暮らすいい男」の世界だったわけだ。それで裁判傍聴もできたのだろう。
 
 大鵬は北緯50度の国境の町(南樺太の最北部)・敷香(しすか=ポロナイスク)で生まれ、5歳のときに終戦・引き揚げを経験している。8月初旬にサハリンを旅したこともあって、いつかは大鵬関係の本を読んでみたいと思っていた。『私の履歴書』は日経に連載された。文体からして大鵬から聴いた話を記者がまとめたものだろう。樺太での記憶、白系ロシア人の父親のこと、終戦時の混乱、決死の引き揚げ……。幼年期をよく生き延びたものだと思う。
 
「栃若」から「柏鵬」へ、主役が交代するころ、茶の間に入ってきたテレビで大相撲を観戦した。小学校高学年から中学生のころだった。子どもが好きなものとして「巨人、大鵬」は当たっていたが、「卵焼き」は、小学生のころはめった口にしなかった。弁当(給食がなかったので)の定番になるのは中学校に入ってからだ。

 栃若と同時代の福島県出身力士にもろ差しの信夫山と豪快な投げの時津山がいた。少し遅れて常錦も現れた。時津山は東京生まれだが、いわき市出身となっている。14市町村が合併していわき市になる前の昭和30年代後半、平市にできた学校に入った。時津山はとっくに引退していたが、街の食堂に写真が飾られていたのを覚えている。
                ※
 さて、きょう(9月24日)はこれから買い物をして夏井川渓谷の隠居へ出かける。平市の学校に入った仲間が集まり、一泊のミニ同級会を開く。というわけで、あすのブログは休みます。