2018年5月20日日曜日

雨の中の花火

 もう5月の下旬。未明の4時過ぎに目が覚めると、部屋がうっすら明るくなっている。二度寝をせずに、そのまま起きることがある。前夜、ほろ酔い気分で打ち込んだブログの文章を“清書”してアップする。これが、一日の最初の“仕事”。
 
 夕刊の地域紙でメシを食ってきた。朝刊の県紙・全国紙と違って、一人何役も、の世界。コラムも担当した。会社を辞めて「締め切り」から解放されたときにはホッとした。ところが、2カ月を過ぎたあたりから落ち着かなくなった。
 
 そのころ、若い仲間が「ブログ」というものがあることを教えてくれた。こうやれば発信できる――と、ノートパソコンをいじってセットしてくれた。以来10年余、一日に一回だけ「締め切りのある生活」を続けている。

 それもあってか、早朝の天気には敏感になった。きのう(5月19日)も4時半に起きた。曇天だった。5時を過ぎると、雨が降ったりやんだりに。6時半ごろには、雨の中で花火が鳴った。そのあとも、遠くから花火の音が聞こえた。
 
 先週の土曜日(5月12日)は、地元の平六小で、隣の学区の草野小で運動会が行われた。6時に開催を知らせる花火が打ち上げられた。きのうの花火も、「今は雨が降っているが、間もなくやむから、予定通り運動会を開催する」という合図だった。とはいえ、雨がやんで晴れるまでには少々時間がかかったはず。学校の先生も保護者も気をもんだことだろう。
 
 運動会の“花”は、プログラムの最後を飾る紅白リレー=写真。下の孫が出るというので、先週、見に行った。小学校時代を思い出した。学生時代には1600メートルリレーのメンバーだった。それから何十年もたつが、リレーを見るとやはり興奮する。

 きのう、運動会を実施した学校の児童・保護者も、リレーには大声援を送ったにちがいない。胸の中も「雨のち晴れ」のいい一日になったことだろう。

2018年5月19日土曜日

ホトトギスの初音を聞く

 2週間前(5月6日)に夏井川渓谷でジュウイチの初音を聞いた。それに刺激されて拙ブログにこう書いた。
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 日本へ渡って来るカッコウの仲間は4種。鳴き声を聞く限りでは、ツツドリ・ジュウイチ・カッコウ・ホトトギスの順に到着する。カッコウは、わが生活圏ではもう幻の鳥になった。
 
 ホトトギスは山にも平地にも現れる。夜も鳴く。幼いとき、その鳴き声を聞きながら、祖母が寝物語に怖い話を語ってきかせた。

 昔、きょうだいがいて、食べもののことで口論になった。食べていないのに「食べたべ」と弟から邪推された兄が、身の潔白のために腹を裂いて死んだ。弟は自分の誤りを悔い、悲しみ、ホトトギスになって「ポットオッツァケタ」=ポッと(腹が)おっつぁけた=と鳴き続けているのだという。
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 その後、腹を裂いて死んだのは兄かどうか、気になって家にあるはずの昔話集を探したが、見つからない。
 
 先週の土曜日(5月12日)、平のマチで「一箱古本市」が開かれた。カミサンが行きたいというので、アッシー役のついでにのぞくと、若い仲間が経営する古本屋が出店していた=写真。日本昔話記録3・柳田国男編/岩崎敏夫採録『福島県磐城地方昔話集』(三省堂)があって、ホトトギスの「弟恋し」が載っていた。
 
 昭和48年発行だが、もとは昭和17年(「付記」には同18年とあるが間違いだろう)に刊行された。復刊本だ。500円なので買った。「弟恋し」は双葉郡富岡町の60代女性から採録した。
 
 ――あるところに兄弟がいた。兄は仕事に出かけ、弟は山へ行って芋を掘って暮らしていた。兄思いの弟は、芋のおいしいところを兄に食べさせ、自分は芋の端っこばかり食べていた。ところが、腹黒い兄は、弟が自分よりもっとうまいところを食べているのだろうと邪推して弟を殺し、腹を裂く。中から出てきたものは芋の皮や“しっぺた”(端っこ)ばかりだった。

 兄は悔い悲しんで、ホトトギスになった。春から夏になると、それで「弟恋し弟恋し」と鳴く――。
 
「補註」を読んで、兄弟が姉妹だったり、腹黒いのは弟だったりと、話はバリエーションに富むことを知る。食べ物も食べ方も地域によって異なる。ということは、私の記憶も間違いとはいえない。
 
 それだけではない。補註にこうあった。「鳴き方も、『おとと恋し。』の他に、(略)『ぽっとおっつぁげた。』、『ほんぞんかけたか。』とか、『おとのどつきたおとのどつきた。』と鳴く。(略)そして山芋の蔓(つる)の出るころ鳴くのである」。「ポットオッツァケタ」のケは濁音のゲだったか。
 
 台所に置いてあったトロロイモ(山芋と同類)が芽を出し、蔓状になったので、夏井川渓谷の隠居の庭に植えた。その話を、さきおととい(5月16日)書いた。きのう(5月18日)、夏井川の堤防でホトトギスの初音を聞いた。山芋の芽がのびるとホトトギスがやって来て鳴く、というのはほんとうだった。

2018年5月18日金曜日

「ばっぱの家」の跡の今

 山の中に「ばっぱの家」があった。半世紀ほど前に家が解体され、跡地に杉苗が植えられた。今は放置された小さな杉林にすぎない=写真。
 
 5年前(2013年)のゴールデンウイークに、実家へ帰る途中、「ばっぱの家」の跡を訪ねた。林の後ろの道のそばに黒いフレコンバッグが仮置きされていた。沢の向かいの家では除染作業の真っ最中だった。今年(2018年)、またゴールデンウイークに寄ってみた。フレコンバッグは消えていた。
 
 そこは、阿武隈高地の中央部、田村市常葉町と都路町にまたがる鎌倉岳(967メートル)の南東山麓。国道288号からは200メートルほど奥まったところにある隠居だ。
 
 母の両親が住んでいた。祖父の記憶はしかし、病んで寝ている姿しかない。小学校の春・夏・冬休みになると、常葉町からバスで出かけた。祖父は間もなく死んだから、祖母にくっついていろいろ動き回った。で、どうしてもそこは「ばっぱの家」になってしまう。

 かやぶきの一軒家で、夜はいろりのそばにランプがつるされた。向かい山からはキツネの鳴き声。庭にある外風呂にはちょうちんをかざして入った。寝床にはあんどん。家のわきには池があった。三角の樋から沢水がとぎれることなく注いでいた。3、4歳のころ、囲炉裏から立ち上がった瞬間にほどけていた浴衣のひもを踏んで転び、左手をやけどしたこともある。

 今風にいえば、毎日がキャンドルナイトでスローライフ。いいことも悪いことも含めて、黄金のような記憶が詰まっている場所だ。

 祖母がふもとの別の集落にある息子の家に移ってからは、隠居の下の段々畑が田んぼに替わった。今はどうか。今年見たら、5月だというのに放置状態だった。過疎・高齢化が進んでいるところへ、原発事故が追い打ちをかけた。杉林も田んぼもこのまま荒れて寂しい自然に帰るだけなのだろうか。
 
 そうだとしても、生きている限りは崩れ、滅びる「ばっぱの家」の跡を見続けようと思う。

2018年5月17日木曜日

「ぶな石」と星空

 カミサンが図書館にでも置いてあったいわき市の観光パンフレット「ぱわふるいわき」を持ち帰った。「イベント」「食」「癒し」「パワースポット」のワッペンがついたものもある。「パワースポット」のワッペンは、もしかして今回が初めて?
 1枚の写真に引かれた。三和町差塩(さいそ)の「ぶな石」。夏の夜、この巨岩と、その上に広がる星空が見事な“光度”で表現されている=写真。同時に、キャプションが「宇宙石」ではなく「ぶな石」であることにも引かれた。メディアは「宇宙石」、あるいは「宇宙岩」という名で紹介する。観光パンフには、いや、そうじゃない、地元の人は「ぶな石」と呼んでいる――そんな意思がこめられているように思えた。
 
 私は、いわき市内のあちこちを歩き回っている方だが、この観光パンフに載っている自然スポットでは、「ぶな石」「中釜戸のシダレモミジ」「田人のクマガイソイウ」は、まだ見ていない。だからなのか、「ぶな石」と星空の写真には、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のイメージが重なって、ますます心が躍った。
 
 ついでながら――。「ぶな石」の前のページで「背戸峨廊」を紹介している。これには「セドガロ」の読みが付けられている。「宇宙石」ではなく「ぶな石」ですよ、というのと同じで、「セトガロウ」ではなく「セドガロ」ですよ、というメッセージでもある。

「いわき市三和町 ぶな石」で検索すると、FMいわきの2012年秋の<「みみたす」こぼればなし>に出合った。かつての広報誌「みみたす」に載った中山間地ルポの延長で、ネットに発信したものだろう。行きあたりばったりなのに、人に出会って地域のディープな世界に触れていく。かつてのルポ記事のような文章をまた読みたくなった。

「こぼればなし」のなかに、ちょうど確かめたかった昔話「白蛇のたたり」が出てくる。永井小・中学校PTA編/夏井芳徳校注『永井の昔ばなし――ふるさとの民話と伝承』(いわき新書、2009年)にからんで、地元の人にじかに昔話を聞く。なぜゴマを栽培しなくなったか、そのいわれを紹介したものだ。つまりは、ゴマではなくエゴマ(ジュウネン)を栽培するようになったいわれでもある。

「ぶな石」の話に戻る。パンフの説明にこうあった。「差塩地区にある、標高670メートルほどの山『一本山毛欅(イッポンブナ)』。その頂上に鎮座するのが、巨岩『ぶな石』です。その神秘的な雰囲気から、今ではパワースポットとして親しまれています。周辺は牧草地となっているので、立ち入る際は牧草を傷めないよう配慮し、マナーを守って鑑賞してください」

 パワースポットかどうかはともかく、一本山毛欅の頂上にある巨岩だから「ぶな石」だった。

2018年5月16日水曜日

トロロイモの長い芽

 植物の生き残り戦略には、いつも驚かされる。
 台所の棚に置いてあったトロロイモ(ナガイモ)から芽がのびて、いつの間にか人間の行き来を妨げるようになった=写真。米袋に入ったお福分けのネギも、食べきれずに残ったものから花茎がのびてネギ坊主ができた。土から離され、乾燥した状態でも、イモやネギは枯れずに生きている。

 台所の隅っこに置いてあったジャガイモも、やはり一斉に芽を出した。しぼんでシワシワになったイモにも新しい命が宿っていた。生ごみとして出すのはしのびない。4月に入るとすぐ、夏井川渓谷の隠居へ持って行って、菜園の一角に植えた。しっかりした親イモなら二つに切るが、2分の1くらいにしぼんだイモに包丁を入れる気にはなれなかった。

 植えてから1カ月半。ジャガイモの葉は立派に茂っている。大きいイモは期待しない。小イモがいっぱいできれば、それはそれで立派な食材になる。

 2013年師走に表土を5センチほど入れ替えた。自家採種をしている在来作物の「三春ネギ」から家庭菜園を再開した。年ごとにひとつ、栽培する野菜を増やす――そんな気持ちで二十日大根やカブ、いわき一本太ネギの種をまいて栽培した。今年(2018年)は台所で芽を出したジャガイモとトロロイモだ。

 トロロイモは長いのが2個、むかごが肥大したような球状のものが4個。菜園のはずれ、立ち枯れたタラノキのそばに植えた。長くのびた芽は、それに誘引した。むかごが採れるならいいとしよう。

2018年5月15日火曜日

奄美の田畑家と西郷どん

「安政の大獄」と薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の急死で追いつめられた西郷隆盛は、僧月照とともに錦江湾に身を投げる。月照は死に、西郷は生き残った。「一度死んだ男」は藩から「潜居」を命じられて奄美大島へ――。
 おととい(5月13日)の大河ドラマ「西郷(せご)どん」に続き、きのうは朝ドラ「半分、青い。」のあと、衆議院予算委員会中継までの15分間、「西郷どん」などの番組宣伝が行われた=写真。

 西郷を世話するのは島の豪農・龍佐民。ドラマでは、柄本明が演じている。ネットで検索したら、西郷の「島妻」の愛加那は佐民の姪っ子だそうだ。

 テレビを見ながら、奄美出身の故田畑金光いわき市長を思い出していた。東京帝大を出て満州国官吏になり、将校(陸軍主計少尉)に任官、戦後は縁あって勿来の大日本炭砿に就職した。労働運動に生きがいを見いだしたあと政界に転じ、福島県議、参議院・衆議院議員を歴任した。

 龍佐民は田畑氏の祖父の兄だという。「田畑」姓なのに、「龍」と名乗らなければならなかったのはなぜか。平成19(2007)年、会津の歴史春秋出版から田畑金光著『私の半生』が発刊された。そのなかの<田畑家の出自と西郷隆盛>の項に理由が書いてある。
 
「田畑家の先祖は笠利姓を名乗っていた。琉球王から奄美大島の笠利(現・奄美市)に派遣された家系である」。最初は「笠利」姓だった。正徳2(1712)年、薩摩藩命により、当主が鹿児島で土木の技術を学び、帰島して新田開発に従事する。「五百町歩の開墾を実現する。その功で郷士に列せられ、田畑姓と屋敷五畝歩」を賜った。「笠利」から「田畑」姓に替わった由来が語られる。

「天明五(一七八五)年正月、藩命により龍姓に改めた。城下士二字姓、地方士は一字姓とされたのである」。一種の身分差別だろう。「田畑」姓に復するのは明治8(1785)年。「龍」姓の時代は90年に及んだ。

 西郷は安政5(1858)年からまる3年間、田畑氏のふるさとでもある龍郷(たつごう)で蟄居生活を送った。西郷を世話した佐民は、島妻・愛加那との結婚の媒酌人も務めた。西郷と愛加那の間に2人の子が生まれる。長男・菊次郎は西南戦争で重傷を負ったが、のちに京都市長になる。「愛加那の墓は田畑家歴代の墓所の片隅にひっそりと立っている」そうだ。

 市役所担当の記者になって2年目の昭和49年、田畑氏が市長選に出馬し、現職を破って革新市政が誕生した。それから3期12年のうち前半の6年間、田畑氏をウオッチした。今はないが、大黒屋デパートではときどき奄美大島の物産展も開かれた。

 哀切極まる「島唄」に替わった大河ドラマ「西郷どん」のテーマソングを聞きながら、田畑氏を介していわきと奄美が最も近かった時代にタイムスリップしていた。

2018年5月14日月曜日

いわき昔野菜保存会

 土曜日(5月12日)に、いわき昔野菜保存会の総会・懇親会が開かれた。同会は、いわき市内に残る在来作物の調査・保存・普及を図り、次世代に継承していくことを目的にした市民団体だ。
 夏井川渓谷の隠居で在来作物の「三春ネギ」を栽培している。8年前、市が在来作物を調査することになって、担当者からインタビューを受けた。それが、「いわき昔野菜」事業とかかわる始まり。年度ごとに発行される報告書の巻頭言を、求められて書いた。

 市農業振興課が、いわきリエゾンオフィス企業組合に発掘・調査事業を委託した。リーマンショック後の緊急雇用事業を兼ねていた。事業を始めた翌年には“原発震災”がおきる。ますます事業の意義・必要性が増した。保存会もできた。

 しかし――。在来作物は、大量生産・流通、そのための同一規格、という経済性からはずれたところで、「自産自消」のサイクルのなかで細々と生き残ってきた。地域の食文化、あるいはローカルな循環型社会の構築を模索する流れができると、今度はそれを経済に結びつけようという安直な発想が生まれる。
 
 同保存会は調査終了を機に、自立した。会の中軸は生産者や、生産~加工~消費の流れを調査した元スタッフだ。フィールドワークの強みが生かされている。これに、理論的なアドバイザーとして江頭宏昌山形大教授が加わっている。
 
 懇親会では栽培技術や料理の話で盛り上がった。私は「いわきでもアカネギが栽培されている、種屋から買ってきた種をまいて育てたものか、昔から自家採種して栽培しているものか」を尋ねた。元調査スタッフは「アカネギ栽培は初耳だ」といい、江頭教授は「在来種のアカネギは貴重。しかし、種採りが面倒くさいのでやめる生産者がいる。今は種屋から種を買ってきて栽培している」と教えてくれた。
 
 二次会の店にたまたま、映画「洟をたらした神」の上映会で知り合った若い仲間がいた。「いわき昔野菜」のドキュメント映画を――と誘ったら、乗り気になったようだ。ぜひ実現したい。
 
 その店では女性シェフが「いわきでしか食べられない豚の生ハム」を出してくれた=写真。いわきの北部で飼育されている「あぶくまX豚」だとか。いわきだから口にできる食材は、昔野菜に限らない。豚も、魚も、キノコも――。しかし、そんな思いを深く抱くようになったのは、やはりあの“地獄”を経験したからだ。