2019年11月13日水曜日

台風19号㉚浸食・運搬・堆積

台風19号から1カ月たった今も、夏井川水系の被災地区を巡ると胸が痛む。日曜日(11月10日)にカミサンの友達の家(平・平窪)に寄ると、庭に水害ごみが出ていた。ボランティアに助けられて物置の中を片付けたようだ。
わが生活エリアの旧神谷村地区でも、平市街に最も近い鎌田と隣接する塩で浸水被害が出た。

塩の下流、中神谷に住む。街への行き帰り、堤防を利用して夏井川を眺める。大水の前と後とでは河川敷の風景が一変した。川は暴れると恐ろしい――それをまざまざと実感させられる。

古代の川はヤマタノオロチだった。流路が定まらなかった。今は堤防でがっちり動きを封じている。が、現代の川は1匹になってもオロチにはちがいない。支流の小河川を含めて暴れると、ヤマタどころか“アマタノオロチ”になる。それが、今度の台風19号だった。

かつて平の夏井川で「ふるさとの川づくり」事業が行われた。親水空間をつくるのが目的だった。鎌田では川幅が広げられ、広場や水辺に向かって階段が設けられた。ところが、その結果なのか、徐々に中洲があらわれた。中洲は年々肥大して中島になった。ちょっとした船のようになった中島が、今度の19号の大水で浸食され、水面ぎりぎりまで堆積土砂が流された。それについては前に書いた。

「河川の3作用」を学校で習った記憶がある。浸食・運搬・堆積のことをいう。岩石が侵食されて岩くずになり、土砂とともに流され(運搬)、流れがゆるやかになった下流にそれらが堆積する。

大水は流速と流量次第で上・中・下流どこにでも、大小さまざまなごみを置き土産にする。と同時に、岸辺にあるヤナギを根こそぎ流し、堆積土砂をも流す。

 夏井川の河川敷にサイクリングロードが設けられている。中神谷の下流にある北部浄化センター付近では、およそ50メートルにわたって流木その他が残り、サイクリングロードをふさいでいる、ということも以前書いた。

神谷の対岸、山崎では10年ほど前、河川拡幅を兼ねて土砂除去が行われ、野球場ができるような広大な河川敷ができた。それが、水辺にヤナギが生え、河畔林になって、前より川幅が狭いくらいになった。そのヤナギたちが流され、なぎ倒されて、見晴らしがきくようになった=写真上。

と思えば、神谷側、サイクリングロードは流れ着いた土砂で砂場のようになっている=写真下。厚いところでは1メートル近く堆積しているのではないか。
鎌田から中神谷まではおよそ3キロ。その短い区間だけでも河川の3作用が見てとれる。アマタノオロチを鎮めるために、神谷では出羽神社の祭礼に川までみこしが繰り出し、みそぎをする。地球温暖化で海水温が上昇し、かつてない大雨がたびたび襲うようになれば、みそぎだけではすまされない?

2019年11月12日火曜日

台風19号㉙「阿久津曲がりねぎ」も

きのう(11月11日)の拙ブログで、平の「三町目ジャンボリー」に出店した冠水被災農家(小川町)についてちょっと触れた。「里芋を売っていた若者に聞くと、ネギはダメだったという。里芋は熱帯雨林、ネギは砂漠がふるさと。ネギは、里芋と違って水には弱い」
きのう、ブログをアップしたあと、NHKのローカルニュースで、郡山市の伝統野菜「阿久津曲がりねぎ」が冠水して大きな被害が出たことを知った=写真上・下(ウエブから)。
ネギは地中の湿度が高いと根腐れを起こす。夏井川渓谷の隠居で栽培している昔野菜(伝統野菜)の「三春ネギ」は、今年(2019年)、梅雨の曇雨天がたたって根腐れを起こし、あらかたとろけた。冬に食べるどころではない。残った数本は種採り用に残しておくしかない。種は種で冷蔵庫に保管していたものが湿って異臭を放つようになり、10月10日までにまいてはみたものの、とうとう発芽しなかった。

三春ネギと阿久津曲がりねぎは親戚、ないし同一種と私は考えている。三春ネギの本場の田村地方では、夏に斜めに植えなおす「やとい」という作業をする。それで曲がりネギができる。阿久津でも同じ作業をする。秋に種をまくのも同じ。それ以上に、郡山市に編入・合併するまで、阿久津は田村郡の一部だった。阿武隈川の右岸に位置し、三春町とは地続きだ。現地を“取材”して近縁性を確信した。

師走に入ると、自分でつくっている三春ネギとは別に、郡山市に本社のあるいわきのスーパーから阿久津曲がりねぎを買う。三春ネギと同様、甘くて軟らかい。太く長く白いいわきのネギは、見た目はきれいだが、硬い。三春ネギを食べて育った私は、硬いネギには食指が動かない。それで、三春ネギを栽培するようになり、阿久津曲がりねぎを買って食べるようになった。

そういえば、夏井川渓谷が紅葉時期を迎えると、小野町のNさんが自然薯の臨時直売所を開く。以前は曲がりネギも売っていた。ある年、こんなやりとりをした。「この曲がりネギは『三春ネギ』?」「そうです、小野町でつくってますけどね」「『阿久津曲がりネギ』と『三春ネギ』は同じだと思うんだけど」「そうです、阿久津からネギ苗を買って来るんですよ」

農作業の中核だった父上が入院し、亡くなってからは生産規模を縮小したのかどうか。去年、渓谷の臨時直売所には、とうとう曲がりネギは並ばなかった。例年だと、10月下旬には単管パイプで直売所の柱を組み立てる。今年はまだその気配すらない。

自前の三春ネギもダメ、阿久津曲がりねぎもダメ、とくれば、流通には乗らないものの、道の駅などの直売所には並ぶ、軟らかく甘いネギを探すしかない。雪が降らないうちは小野町まで遠征できるが、厳寒期にはちょっと……。しかし、春になったら田村地方からネギ苗を調達する――それだけは決めている。

2019年11月11日月曜日

台風19号㉘「不法投棄は犯罪」

 日曜日は“仕事”を離れて「ワレに返る日」だ。10日にいっぺん、回覧資料を配らないといけない。11月2回目はきのうの日曜日・10日。役所流だと休みの前の金曜日・8日に配れとなるが、自分の仕事の兼ね合いもある。どうしても当日か前後の配布になってしまう。けさ、朝ドラが終わったあと、配る。
 きのうは平の街で今年(2019年)最後の「三町目ジャンボリー」が開かれた。カミサンが親戚の子のブースを手伝うというので出かけた。初めてホコ天になった=写真上。台風19号で被災した農家も出店した。里芋を売っていた若者に聞くと、ネギはダメだったという。里芋は熱帯雨林、ネギは砂漠がふるさと。ネギは、里芋と違って水には弱い。

 親戚の子は体調を崩したらしく、1時間ほど待っても現れなかった。カミサンは手伝いをあきらめて、私と一緒に夏井川渓谷の隠居へ出かけ、草むしりをした。

 朝、街へ行くのに夏井川の堤防を利用した。新川との合流点に20羽ほどのハクチョウがいた。堤防からそれて鎌田地区に入ると、水害ごみの仮置場がある。ロープが張られていた。カラーコーンがその支えになっていて、「不法投棄は犯罪」という札が張り付けられている=写真下。
 各地に水害ごみの仮置場ができた。そこへ水害ごみとは違ったごみを捨てる人間がいる。業者と思われる人間もいたという。それこそ不法投棄ではないか。

ドロボウの話も伝わってきた。1階が浸水したため、2階で寝ていたら、下でごそごそ音がする。確かめに行くと、人がいて「見回りに来た」とうそぶく。浸水して放置状態になっていた車からタイヤを取り外して持ち去る人間もいたという。

「火事場ドロボウ」はいつでも、どこにでもいる。東日本大震災の直後、外国メディアは日本人の我慢強さや忍耐力、助け合いや思いやりの精神を称賛した。しかし、原発避難を余儀なくされた双葉郡内の空き巣被害は、2011年、前年の約30倍、20件から594件に急増した。それを告げる新聞記事を読んだときに、「なにが思いやりだ、なにが助け合いの精神だ」と思ったものだ。

同じ双葉郡内の話――。「一時帰宅をしたら、わが家からテレビを抱えて出てくる隣のじいさんと鉢合わせになった」。じいさんは一時帰宅をしていたが、まさか隣家の人も同様に一時帰宅をするとは思わなかったのだろう。

 大正時代の地域新聞をチェックしていたら、関東大震災後の混乱に乗じて盗みを働いていた「掠奪(りゃくだつ)団」の1人(女)が逃亡先のいわきで逮捕されたという記事(1923年11月18日付常磐毎日新聞)に出合った。

 ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家・ジャーナリスト、スベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(松本妙子訳=岩波書店)にも、こんな村人の声が載る。

「三家族いっしょにもどってきたが、家はすっかり荒らされておった。ペチカはこわされ、窓やドアがはずされ、床板ははぎとられていた。電球、スイッチ、コンセントも抜き取られ、使えるものはなにひとつありゃしない」

 大災害や非常時には、全国からボランティアが駆けつける。きのうは、ボランティアを乗せた京都の観光バスとすれ違った。一方で、邪心に突き動かされる人間がいる。ブレーキが壊れる人間と壊れない人間のその差は何なのか。きょうは東日本大震災の月命日。あすは台風19号襲来から1カ月の節目の日。

2019年11月10日日曜日

マツタケが高いのは

 おととい(11月8日)の「チコちゃんに叱られる!」に、「キノコの王様」マツタケが登場した。「マツタケが高いのは、プロパンガスが普及したから」=写真下1。なるほど。「風が吹けば桶屋が儲かる」で、どの段階の理由を答えにするかだが、マツタケでは巡りめぐって家庭の「燃料革命」まできた。
 1965(昭和40)年にマツタケはキロ当たり1591円、干しシイタケは2056円。シイタケより安かった。それが、1995(平成7)年には2万3195円まで高騰する。2016(平成28)年時点では、マツタケ2万2467円、シイタケ4042円=写真下2。マツタケは高値安定、シイタケはほぼ横ばいだ。
直接の理由はマツタケの生産量が減ったためだという。1965年1291トンが、2016年69トンと、およそ20分の1に激減する。その理由は、落ち葉や枯れ枝が堆積してマツ山が富栄養化し、ほかのキノコやカビが生えて、マツの根と共生する菌根菌のマツタケがすみかを奪われたためだという。

もともとマツタケは落ち葉や枝が少ない貧栄養の土地に生える。戦後間もないころまでは、この落ち葉や枝を拾い集めて、家庭で煮炊きをしていた=写真下3。私の生まれ育った阿武隈の山里でも、私が小学生のころまでは近所の人たちが近くの里山から焚きつけ用に杉の葉や枝をかき集めてきた。焚き木拾いを手伝ったこともある。それがプロパンガスに替わるのは高度経済成長期だ。
  台所の燃料がマキからプロパンガスに替わったことで、「おじいさんは山へ柴刈りに行く」必要がなくなった、すると、山は富栄養化してマツタケが生えなくなった、マツタケの数が減って値段が高騰した――というのが、事の顛末。

 実は火曜日(11月5日)、中央公民館で月1回、3回シリーズの市民講座「キノコの文化誌」の2回目に「トリュフとマツタケ」の話をした。

トリュフは最初、野蛮人の食べ物とみなされていた。そのうち媚薬効果があると信じられるようになり、王家や貴族が好んで食べるようになった。やがて、オーク(カシの木)を植林してトリュフを増産し、缶詰化する技術も確立して、「世界三大珍味」と持ち上げられるまでになった。

マツタケも、奈良・京都周辺の山が都の造営などで乱伐された結果、二次林のアカマツ林が増えて、貴族や女官たちが「マツタケ狩り」を楽しむようになった。マツタケの発生には「ザラ掃き」による貧栄養化が必要、落ち葉が積もりっぱなしのところはダメ、古いマツ林もダメ――そんなことを話したばかりだったので、「チコちゃん」がプロパンガスまでいったときには、そこへの言及が足りなかったことを反省した。
 
 初回は、川内村史編纂委員会編『川内村史 第2巻 資料篇』(川内村、1990年)をよりどころに、江戸時代の阿武隈のキノコの話もした川内村では、シイタケとコウタケ(シシタケ)を江戸へ出荷していた(たぶん乾物)。

安政7(1860)年3月の相場は、シイタケが1両当たり1貫550匁、コウタケが2貫400匁と、シイタケの方が高かった。慶応2(1866)年12月には3~2倍にはね上がる。シイタケは1両当たり中級品500匁、コウタケが1貫400匁。マツタケは大小5本で100文。

 現代の貨幣価値に換算すると、銭1文は約12円、1両は約7万5000円だそうだ。マツタケ5本で約1200円は、やはり安い。それだけあちこちの山から採れたのだろう。干しシイタケは江戸時代の“換金作物”で、磐城産は中国へも輸出されていた。

トリュフは一度、匂いを嗅いだことがある。マツタケは食べても採ったことはない。というより、はなからあきらめている。かわりに、キノコ関連の紀行文や小説、専門書をあさって読んできた。菌類学は専門家にまかせて、キノコと文学を軸にした「文化菌類学」といったものを、市民講座の柱にしている。12月の最終回には「チコちゃんに叱られる!」のマツタケの話を<付録>として加えようと思う。

2019年11月9日土曜日

台風19号㉗ワンリバー・ワンコミュニティ

 シャプラニール=市民による海外協力の会のネパール事務所長Kさんから、近況報告の便りが届いた=写真。
 シャプラは、ネパールでは平野部のチトワン郡マディ地域で洪水被害を減らすための事業などを展開している。活動の基本は「ワンリバー・ワンコミュニティ」だという。

先日まで日本で行われていたラグビーワールドカップで初めて決勝トーナメントに進み、8強入りを果たした日本の合言葉は「ワンチーム」。川を軸にした流域でみれば、上流も下流も同じ運命共同体だ。同じコミュニティの仲間として向き合う意識を――となれば、ワンチームと本質は同じだろう。

しかし現実には、そうは問屋が卸さない。「下流域の住民は自分の集落が安全になること=下流域にインフラを設置してほしいと考えますが、中流域にインフラを設置することで下流域の被害が減るという考えには至りません」。日本でも同じことがいえる。上流域の住民は下流域のことをあまり考えない。下流域の住民も上流域のことはなかなか想像ができない。川そのものもふだんは意識の外においている。

 台風19号の被害が広範囲に及ぶなか、ネパール事務所の現地職員が来日、10月18日から11月1日まで全国キャラバンを展開し、マディ地域での防災活動について報告した。同時に、シャプラはいわきで飲料水の緊急支援を行い、「みんなでいわきボランティアツアー」を実施した。そうした非常時のなかでの、ネパールからの手紙だった。

 自称「夏井川ウオッチャー」だ。現役のころ、毎日、夏井川の橋を渡って街の職場とわが家を往復した。休みの日には堤防をぶらついた。夏井川は、私の住む平・神谷から河口まではすぐだが、川の始まりはどこだろう――若いときに地図帳を開き、大滝根山の南東麓が水源と知って以来、夏井川は「ふるさとから流れてくる川」になった。以来、毎日一度は夏井川を見るように心がけてきた。

夏井川が私の「母なる川」になってしばらくたってから、上流の田村郡小野町に関東で焼却したごみの主灰などを埋め立てる一般廃棄物最終処分場が建設された。小野町から見れば処分場は町を流れる夏井川の最下流に位置するが、いわき市から見れば最上流近くの水源地だ。水環境に危機感をもつ市民が立ち上がり、裁判を起こしたが、建設にストップはかけられなかった。それどころか、後年、増設問題が起きた。

水環境を守るためには、行政的な「地域」ではなく、降った雨が合流する「流域」の視点をもたねばならないことを、下流域の住民は痛感した。そして、今度の台風19号と、それに続く大雨だ。水環境だけでなく、川の防災を考える上でも「流域は運命共同体」という考えが大切になる。

ワンリバー・ワンコミュニティでいえば、いわきは、大きくは3流域連合体だ。同じいわき市内の中部・藤原川流域と南部・鮫川流域は、被害は夏井川流域ほどではなかった。3流域は尾根筋をはさんだ隣組=ワンチームでもある。夏井川流域の片付けボランティアとしていっそうの協力を――という声が聞こえてくる。

2019年11月8日金曜日

台風19号㉖ギャラリー「木もれび」へ

 きのう(11月7日)の午後遅く、街で用事をすませると夕食まで少し時間があった。西日が山に沈みかけるころ、好間川上流の山里、好間町榊小屋のギャラリー「木もれび」を訪ねた。閉廊時間の4時をちょっと過ぎていたが、「どうぞ、どうぞ」と迎えてくれた。
 画家でいわきキノコ同好会長の冨田武子さんが、同日から小品展を開いている(11日まで)=写真上1。冨田さんとはキノコ同好会で一緒だ。それだけではない。夕刊・いわき民報に月初めの月曜日、同じ欄に隣り合わせで連載を持っている。冨田さんは「いのちを描く」と題してボタニカルアートを文章付きで、私は「あぶくま、星の降る庭」と題して写真付きで阿武隈高地の山里のあれこれを紹介している。

好間川は夏井川の支流のひとつ。流域は本流の小川・平窪と同様、同じ支流の新川流域とともに台風19号の水害に見舞われた。好間川上流の榊小屋地区も下流部同様、浸水・冠水・土砂流出などの被害が出た。
「木もれび」は、建物が床上浸水に遭い、広い庭がえぐられたという。惨状を伝える写真があった=写真上2。とりあえず自前で県道小名浜小野線からの進入路を直し、庭には土砂を入れた。それで小品展を開催できるようになった。同じ榊小屋で「木もれび」よりは少し上流に住む、画家峰丘(私と同じいわき地域学會に所属)の住まいも、母屋は大丈夫だったが燻製小屋などが流された。夏井川水系の水害は広範囲に及ぶ。

「木もれび」のオーナー夫妻は私と同じ平地の旧神谷村に住む。フェイスブックで冨田さんの小品展開催を知ったので、初日の夕方近く、思い立って作品鑑賞と水害見舞いを兼ねて出かけたのだった。
冨田さんは油彩とボタニカルアート(水彩)を15点ずつ展示した。ボタニカルアートはいわき民報に連載したものから選んで展示している。紙面ではモノクロだが、現物は見事なカラーだ。原画はやはりすばらしい。一番大きな100号の油絵「残像――秋」=写真上3=には、1本の木と緑の葉、赤い実を中心に、アケビの実、キノコ、枯れ葉、オニヤンマなどが配されている。子ども時代の「残像」だろう。
「木もれび」は冬には閉廊する。「あと二つ展示会が残っている。それが終わったら、床下から復旧工事を進める」という。ギャラリー・庭・好間川といった配置は変わらないが、庭のへりにあった灌木はきれいに流されていた。川の流れがじかに見える=写真上4。近くの家も被害に遭ったという。

2019年11月7日木曜日

再び「縮む福島」の見出し

 またか! きのう(11月6日)の朝、朝日新聞の「第2福島」欄を見てガックリきた。見出しに<「縮む福島」待ったなし/2040年人口 今より42万人減推計/加速する人手不足・高齢化/学校や病院、交通網削減恐れ>とある=写真下1。
 福島県に限らず、日本社会が直面している少子・高齢化による人口減少――この問題を紙面の3分の2を使って紹介する、県議選関連の大型記事だ。前文には「縮む社会」とあるが、見出しではわざわざ「縮む福島」とした。「縮む茨城」「縮む宮城」……。東京を除けば、日本はどこだって「縮む社会」だ。<「縮む社会」待ったなし>ではダメなのか。

福島県が原発震災で苦しんでいた(今も苦しんでいる)直後もそうだった。このときは1面トップで「縮む福島」と打った=写真下2。原発震災に見舞われた県だから、特に縮んでいく? 「縮む福島」でなければならない? 福島県民と一緒になって、泥まみれになって暮らしている人間なら、こんな見出しは付けない。前と同じように、血が逆流しそうになった。当時の拙ブログ(2013年9月5日付「冷たい見出し」)を再掲する。
東京が安全ならそれでよし――福島第一原発の汚染水問題をわきにおいてオリンピック誘致に奔走する人たちのふるまいにカッカしたことを書いた。その延長で「東京視線」のメディアについても書いておこう。憂さ晴らしではない。メディアの仕事が被災者・避難者の心に届いているかどうか。届いていないと感じるときがあるからだ。

東日本大震災の被災地を記者が取材する。このごろ言われるのは、パッと来てパッと帰る「狩猟型」、そこにとどまってじっくり取材する「農耕型」の二つ。そのどちらも大切だ。彼らの書いた記事に感銘を受けたこともある。が、きのう(9月4日)までに二度、見出しに「東京視線」の冷たさを感じて血が逆流しそうになった。

震災から4カ月に当たる2011年7月10日付全国紙の1面トップ記事。原発震災で福島県民が県外に避難し、企業倒産などで失業者が増加したことを報じている。その見出しに凍りついた。「縮む福島」。県民の傷口に塩を塗りつけるようなものではないか。それが事実だとしても、福島をつっぱなしたような整理記者の感覚が理解できなかった。

この整理記者は詩や俳句に精通しているにちがいない。わずか4文字7音で記事のエキスをつかまえている。しかし、「クールアイ」(冷徹な目)が過ぎて「ウオームハート」(温かい心)が感じられない、と私は思った。

そして、きのう朝。同じ全国紙の社会面トップ、汚染水漏れに伴う試験操業延期の記事の主見出しに「福島の漁師『浜は終わり』」とあった。これにも整理記者の冷たい目を感じた。もっといえば、「若いもんがいなくなったら、この浜は終わりだ」を、単に「浜は終わり」と決めつける不正確な見出しだ。

見出しを拾った記事本文は、相馬市の漁師の後継ぎについての述懐だった。<震災後、大型トラックと重機の免許を取った長男には「今によくなるから」と辛抱させてきた。「ずっと縛っておくこともできねえ。若いもんがいなくなったら、>に続くのが<この浜は終わりだ」>だ。見出しだけ見た人は、汚染水で福島の漁業はもう終わりだ、と誤解するだろう。

例示した二つの見出しは福島県民の心を萎えさせるに十分な冷たさを備えている。住民と「運命共同体」をなしている福島の、いわきのメディアは、こうした見出しは付けない。いや、付けられない。