2018年7月17日火曜日

海につかる

 年齢的に耐性が低下したのか、年齢に関係なく猛暑がこたえるのか――。三連休最後のきのう(7月16日)も海で夕涼みをした。
 おとといは四倉海水浴場、きのうは薄磯海水浴場へ=写真上。津波被害に遭って内陸部に移り住み、しかし、いつかまた薄磯での営業再開を心に決めて暮らしてきた女性喫茶店主がいる。今年(2018年)の「海開きまでには」と聞いていたので、再オープンしているかもしれないと、車を走らせた。夕涼みよりも、こちらが主目的だった。

場所は聞いていなかった。「高台移転」のために元・集落の背後の山が切り崩された。区画割りがすんで家も建ち始めた。しかし、それらしい建物はない。高台から下りてふもとを巡ると、あった。2階建てで、1階は駐車場。前の建物と似ている。近くにいた人の話では、再オープンは月遅れ盆のあとになるらしい。

それよりなにより、沿岸部は高い海岸堤防と防災緑地の連続で海が見えなくなった。その陸側に新・海岸道路ともいうべき“復興道路”ができた。薄磯は防災緑地をはさんで2本。海側と陸側を走る。

きのうは夏井川河口部からその道路を利用して薄磯まで行き、さらに豊間の先の合磯(かっつぉ)まで行って、薄磯へ戻って海につかった。

四倉は防災緑地から汀までが遠い。もともと砂浜が広くて大きいから、高度経済成長期前には、中通りから浜通りへ海水浴に、となると、汽車で四倉へ行くのが定番だった(ように記憶している)。砂浜を素足で歩くとやけどしそうになる。それが、四倉。薄磯はその点、すぐ汀にたどり着ける。車でも行きやすい。震災前の平成22(2010)年には、いわき市内でトップの入り込み数を記録した。

寄せては引く波に足をぬらしたが、海の感覚を失っていた。かわいい波なのにめまいを感じた。初めて海を見た幼年期に、同じようにめまいを覚えた。循環して完結するときが近いのか。

砂浜を引き上げるとき、階段の上に親子のシルエットが見えた=写真下。このあと、親子に続いて水で足首の砂を洗い流した。自宅へ戻るとすねに残っていた砂が畳にこぼれた。海につかった部分には砂が付く、足首から下を洗うだけでは、十分ではないことを知る。
 
さて、こんな暑さが続くようだと――と思う。年寄りはとにかく早く寝て、未明の3時か4時には起きて、朝めし前に仕事をすませる。日中は横になっている。水をたくさん飲みながら。というわけで、けさは4時に起きた。

2018年7月16日月曜日

樹下を吹き抜ける涼風

 畑仕事は7時半まで――夏井川渓谷に住む友人のいうとおりだった。きのう(7月15日)早朝7時、同渓谷の隠居に着いた。すぐキュウリを摘み、生ごみを埋めた。日なたには10分もいられない。
 去年(2017年)もらって、カミサンが置き忘れていたジャガイモがある。3月になると芽が出た。台所にあるものは、4月に入るとすぐ植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、掘り起こして子芋を掘りとった。「みそかんぷら」にした。

もうひとつ、別のところに段ボール箱入りのジャガイモがあった。四角い箱のなかでびっしり芽を出していた=写真上。カミサンが気づいたのは5月下旬。土の栄養にしてもいいと思って、これも植えた。地上に現れた葉が枯れかかったので、きのう、掘りおこして小芋を収穫した=写真下。また「みそかんぷら」が食べられる。
キュウリもジャガイモも、朝のうちはそばの木のおかげで日陰になっている。直射日光を浴びないだけ楽に作業ができた。小芋を掘り終えると8時になっていた。

朝食をとったあとは、もうやることはない。が、かみさんは木陰を選んで草むしりを続けた。私も、庭木の下でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を探した。樹下を吹き抜ける風が涼しい。夏は室内で扇風機をかけているより、緑陰で風に吹かれている方が、気持ちがいい。

渓谷の森は天然のエアコン。その森が少しかすんで見える。葉という葉から盛んに水分が蒸散しているからか。

マメダンゴは、地上に頭を出しかけたものが二つ=写真下。もう大人の親指以上になっているはず、つまり中身は胞子ができて黒くなっているだろうから、写真だけ撮ってそのままにしておいた。
 あとは隠居の中で、扇風機をかけて過ごした。昼食は、隠居にあるものですませた。昼寝をしたあと、カミサンがまた木陰で草むしりを始めた。すると、間もなく「これマメダンゴ?」と持って来た。そうだった。3日前に4個見つけ、内部が黒くなっているはずと判断して埋め戻した。さらに、写真を撮ってそのままにしておいたものも掘り取った。

しようがない、今度はみそ汁の具にするか――。4個を二つに割くと、3個は胞子が形成されて“黒あん”だった。黒あんは土に戻して、殻だけ“白あん”とともに持ち帰ることにした。そのとき、ヒグラシの鳴き声が谷間に響いた。

2018年7月15日日曜日

海開き・梅雨明け・夕涼み

 きのう(7月14日)も朝から気温が上昇した。扇風機をかけっぱなしにした。それでも、8時ごろには茶の間で30度を超えた。少し仕事をしたあとは横になって過ごした。
 いわきではこの日午前、四倉・薄磯・勿来の3海水浴場で海開きが行われた。タイミングよく仙台管区気象台が東北南部の梅雨明けを発表した。

 東北南部の梅雨明けは、平年が7月25日ごろ。いわきで海開きが行われるころは、まだどんよりした天気が続き、肌寒かったりする。去年(2017年)は最初、カラ梅雨気味に推移したが、終盤になってぐずついた。東北の梅雨明けは、南部・北部含めて8月2日だった。その後検討が加えられ、「梅雨明けは特定できなかった」に変わる。

それが、今年はとっくに梅雨が明けたのではないか、と思わせるような猛暑続きだ。

 いわきの気候は東海・関東型(夏は温暖多雨、冬は冷涼乾燥)に入る。関東・甲信地方は6月29日に梅雨が明けた。いわきでは7月に入って、6・7日に天気が崩れた。勝手に解釈すれば、8日からきのうまでは一時的な雨をのぞいて猛暑が続いている。8日に梅雨が明けたも同じではないのか。

 きのうの最高気温は、さすがに沿岸部の小名浜でも31.5度の真夏日になった。内陸部の山田は、今年最高の34.5度だ。

 夕方、やっと動き出す。カレー料理店に米を届けたあと、海岸道路を通って四倉海水浴場へ行ってみた。海水浴客は引き上げていたが、サーファーが何人も白波に向かっていた。日没間近の6時だというのに、駐車場には関東圏などからの車がずらりと並んでいた=写真。3連休を利用して、駐車場でこのまま過ごす車が多いのだろうか。

防災緑地が海水浴場と駐車場の間に立ちはだかっている。緑地の階段を上らないと海は見えない、行けない。砂浜は相変わらず広かった。緑地のてっぺんで夕涼みをして帰った。

7月14日――。海開き。梅雨明け。なにかもうひとつあるような……。フランスの建国記念日、パリ祭の日だった。真冬に夏井川渓谷の「木守の滝」から取って冷凍庫にしまっておいた天然氷を砕いて、水のオンザロックにした。焼酎をなめては水を流し込む。水道水の氷と違って、やわらかい感じがした。

◆追記:日曜日夕方のニュースで知ったのだが、サーファーが集まっていたのには理由があった。15・16日の2日間、第1回東日本サーフィン選手権大会が四倉海水浴場で開かれた。

2018年7月14日土曜日

2回目の宮沢賢治展

 東日本大震災から1年後の2012年4月28日から6月17日まで、いわき市立美術館で「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――理想郷イーハトーブを夢みて」展が開かれた。そのときの拙ブログを再掲する。
                    *
 20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業”できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。

 それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。

 賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。

 で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年(注・当時)中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。

 賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業”ではなく、“バトンタッチ”をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。

 世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。

「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。
                    *
 この思いは展覧会から6年たった今も変わらない。先日、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会に出席した。ちょうど夏の企画「宮沢賢治展―賢治の宇宙 心平の天」=写真(チラシとパンフレット)=のオープニングセレモニーが終わったところに着いた。人でごった返す企画展示室をのぞいた。

 同文学館では平成11(1999)年夏、開館1周年を記念して特別企画展「宮沢賢治―賢治と心平」を開催した。それに続く開館20周年記念企画だ。
 
 この間に東日本大震災がおきた。個人的には2年前の8月、学生時代の仲間と樺太(サハリン)を訪ね、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖や栄浜駅跡に立った。帰って、「銀河鉄道の夜」を読み返した。カニ・トナカイ・ラッコ……。サハリンで目にし、耳にしたモノたちが出てくる。「銀河鉄道の夜」は北の街の物語であることを実感した。
 
 粟津則雄館長がパンフレットのあいさつのなかで書いている。「東日本大震災の時、賢治の『雨ニモマケズ』が悲しみに打ちひしがれた人々に寄り添ったことは、まぎれもない実りのひとつの形だったと言えるでしょう」。賢治は「明治三陸大津波」の年に生まれ、「昭和三陸大津波」の年に亡くなっている。それを踏まえた展覧会になったか。
 
 前回は賢治を、賢治と心平の関係を、かなり力を入れて紹介していたことが、図録からわかる。とりわけ、「イーハトブの詩地図」が新鮮だった。そういう発見を今回も期待したが……。既視感で終わった。
 
 安斉重夫さんの鉄の彫刻、「賢治ファンタジー」が企画展示室となりのアートパフォーミングスペースで同時開催されている。まとまった作品を見るのは初めてだ。こちらはおもしろかった。

2018年7月13日金曜日

キュウリは正直だ

 夏井川渓谷の隠居で栽培しているキュウリが花を咲かせ、実をつけはじめた=写真下。植えた苗は2本。その苗から、夫婦で食べるには十分の実が生(な)る。
 この時期、日曜日ごとに通っていては肥大しすぎる。キュウリを栽培した年には、週半ばの水曜か木曜日にも出かけた。それにならって、先週から4~5日おきに、摘みに行くようにしている。

 露地栽培のわずかな経験だが、7センチほどの未熟果の先に花が咲いているものは、3~4日後には20センチ近くになる。それからさらに収穫が遅れると、ヘチマのようになる。

 先週の金曜日(7月6日)は早朝6時半、隠居に着いた。キュウリを1本採って、7時には隠居を離れた。夏井川の上流、川前方面へ向かう車が十台前後あった。時間帯からすると、小・中学校の先生や市役所支所職員などの車か。

 きのう(7月12日)の木曜日は、朝9時過ぎに出かけた。収穫したキュウリは3本。4、5日単位でキュウリの親づる2本が生産する量は、今はそんなものだ。渓谷に「除草作業中」の看板が立っていた=写真下。7、8人が出て道端の草を刈っていた。平野部ではダンプカーが動き回っていた。乗用車に混じって「働く車」が増える、平日ならではの光景だ。
 きのうはさらに早朝6時すぎ、近所の知り合いが“朝もぎ”のキュウリ3本と、つくりたてのおかずを持って来た。キュウリの1本を味噌で食べるために四つに切ったあと、切断面をくっつけてみた。「あさイチ」でキュウリを特集した際、須賀川のキュウリが登場した。新鮮なキュウリは切断してもその面をくっつけるとつながる――それを思い出した。いやあ、その通りになった。水平にしても垂直にしても離れない。

 逆を言えば、新鮮かどうかは切ってつながるかどうかで判断できる。水分が飛んで、中身が綿のように白くなったキュウリは、むろんつながらない。漬けてもうまくない。このごろは直売所やスーパーにもそんなキュウリがまぎれこんでいる(大根は反対に、水分が少し飛んだ方がやわらかく漬かる)。

 キュウリは正直だ。朝採り(朝もぎ)をすぐ調理するか、糠床に入れる。それでも余るようだと、古漬け用の甕に塩をまぶして加える。とにかく、すぐ食べるか漬けるかすることだ、と知る。

わざわざガソリン代をかけて渓谷へキュウリ1本を採りに行く――自分でも「高いキュウリ」だとはわかっている。が、人間が自然に学ぶ「授業料」と思えば安いものだ。

2018年7月12日木曜日

「いわきの映画館史」展

 いわき市生涯学習プラザでは、エレベーターホールとロビー壁面を利用して、「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」展を開いている。同プラザ開館15周年記念の特別展だ。同プラザが入居するティーワンビルは、映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」があったところだ。 
 これとは別に、開館10周年を迎えたいわき芸術文化交流館「アリオス」では、東口ウォークギャラリーで公募展示企画「いわきニュー・シネマパラダイス」が開かれている=写真上。こちらは「いわきの映画館史」展だ。映画制作集団BUNZUが展示物を制作した。

 去年(2017年)秋、いわきロケ映画祭実行委員会がイワキノスタルジックシアター第一弾として、いわきPITで吉野せい原作の映画「洟をたらした神」を上映した。そのとき知り合ったBUNZUの若い仲間から、「いわきの映画館で見た映画の思い出を」と声がかかった。昭和41(1966)年1月、東宝民劇で上映された加山雄三主演の映画「エレキの若大将」と、主題歌「君といつまでも」について書いた。
 
 以下は昭和初期の映画と映画館にからむ“古新聞シリーズ”3――。吉野せいの短編「赭(あか)い畑」に、友人の女性教師が「子供を全部混沌(注・せいの夫)に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」というくだりがある。
 
「赭い畑」は「昭和十年秋」の出来事を描いている。同年(1935年)秋からアメリカで映画がつくられた1930年へと、戦前いわきで発行されていた地域紙・常磐毎日新聞をさかのぼって調べたら、同6(1931)年9月10日付で上映を告げる「平館」の広告に辿りついた。それで、せいが「西部戦線異状なし」を見た年月日が推測できた。

 その過程でもう一つ、ソ連映画「アジアの嵐」が同6年3月9~11日、平館で上映されたのを知る。予告記事が同8日付に載っていた=写真左。

 活字になったせいの日記に「梨花鎮魂」がある。次女梨花の死の1カ月後、昭和6年1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられた、せいの赤裸々な内面の記録だ。
 
 3月10日の項に「渡辺さんへ顔出しして墓参に行って来た。梅の花真盛りであった。混沌ぶどう剪定。夕方から『アジアの嵐』を見に出平したが、見ないで帰って来た(略)」とある。日記だから「出平」したのはせいのことだ、とはどうもいえない。混沌のことでも主語抜きで書いていることがある。
 
 せいは前々日、義兄方の祝儀で小名浜へ泊まり込みで出かけた。家を留守にしたばかりでまた夕方、映画を見に出かけるなんてことが、幼い子を抱えた母親にできただろうか。混沌が出かけたのか、せいが出かけたのか。混沌だったのではないか。

 この2カ月以上、昭和初期の平の映画館の新聞広告と記事をつぶさにチェックしていたために、頭が映画でいっぱいになっている。
 
 合間の6月10日には、いわき市立美術館で「追悼特別展 高倉健」を見た(7月16日まで)。同15日には、小名浜に大型商業施設「イオンモールいわき小名浜店」がオープンした。4階に最新鋭機器を備えた「ポレポレシネマズいわき小名浜」が入った。

平の映画館の始まりを旅していた人間には、映画を見る場所が小名浜・主、平・従に替わったというだけで“大事件”のように思われる。
 
 さて、イワキノスタルジックシアターは今年、第二弾として8月5日、同じPITで本木雅弘主演の「遊びの時間は終わらない」を上映する。先日、その主催仲間たちと飲んだ。チケットを1枚買った。あとで上映曜日と時間を見たら、日曜日の午後1時半からだ。1人で見に行くわけにはいかない。茶の間でブーイングがおきる。主催者に連絡して、もう1枚買うことにした。

2018年7月11日水曜日

日本固有のトリュフ、いわきにも

 きのう(7月10日)の夕方、いわき民報を手にして仰天した。1面トップで「県内初トリュフ “ホンセイヨウショウロ”発見」の見出しが躍っていた=写真。記事の前文に「会報で発表した」ともある。
 ざっと2カ月前、いわきキノコ同好会の会報23号が届いた。座卓のわきに、トーチカのように資料を積み重ねている。カミサンには不評だ。その上に載せておいたら、いつのまにか中段あたりにもぐっていた。あわてて引っぱり出してパラパラやると、会長の冨田武子さんの報文が載っていた。うかつだった。新聞に抜かれた。

 トリュフは、日本にはないと思われていた。が、福島県内でも海岸の松林からウスチャセイヨウショウロが、阿武隈の山中からはトリュフの仲間が――と、発見例が相次ぐようになった。山の中のトリュフの場合は、イノシシが掘った穴に残っていた。

 今度もイノシシが第一の“発見者”のようだ。新聞記事と会報を併せて読むと、去年(2017年)秋、同好会の女性会員が平の里山で開かれた観察会に、前日、小川町の林道側溝わきで採取したキノコを持参した。そばにイノシシがミミズを探して荒らしたらしい跡があった。そこに転がっていたのだという。

 冨田会長はこれをあずかり、『地下生菌 識別図鑑』(誠文堂新光社、2016年)の著者の一人、森林総合研究所の木下晃彦さんに鑑定を依頼した。結果は、2種ある日本固有のトリュフの一つ、ホンセイヨウショウロとわかった。冨田さんらは後日、裏付けのために現地調査をした。すると、前よりは少し小さい個体を発見した。これも木下さんによってホンセイヨウショウロと同定された。

 木下さんによると、①ホンセイヨウショウロの特徴は1子嚢(しのう)内で通常2個の球形胞子を持つ点でほかのトリュフと区別される②胞子の色は初め白色で、成熟するにつれて黄色に変化する③ナッツ様の香りがする④これまで宮城・栃木・茨城・大阪など6府県で確認されており、福島県内では初めての記録――だそうだ。

 キノコの世界はまだまだ知られていないことが多い。市民が新種・珍種・貴種に出合う確率は花や鳥より大きい。“キノコ目”で山野を巡り続けていれば、だれかがまた別のトリュフを発見する可能性がある。そんな期待が膨らむ超ビッグニュースだった。