2019年7月21日日曜日

目玉焼きごはんとナメコ汁

 このところ毎朝、ごはんに目玉焼きがのる。7月に入って急にカミサンがやりはじめた。故永六輔さんがよく食べていた“目玉焼きごはん”だという。NHKの「サラメシ」で取り上げられたそうだ。
 永さん流の目玉焼きの作り方はこんな感じ(カミサンだから自己流も入るが)――。フライパンを斜めにして、白身を薄く長くのばす。砂糖と醤油を振る。白身の縁が焦げかけたら、火を止める。黄味はまだ半熟だ。その黄味に長くのびた白身をかぶせてごはんにのせる。

 できたてだから、舌がやけどするくらいに熱い。フーフーいいながら食べる。そのあと、箸で黄味を崩す。すると、今度は熱い“卵かけごはん”に変わる。一つの卵で二つの味を楽しめる、というわけだ。

 金曜日(7月19日)の朝は、目玉焼きごはん、ナメコと豆腐の味噌汁に、3種類のキュウリの漬物がそろった=写真。

原発震災後、野生キノコは口にできなくなった。それがきっかけかどうかはわからないが、今までの小粒とは別に、傘の開いた大ナメコがスーパーや道の駅に並ぶようになった。買い物に行けば必ずこれを2袋買う。

 大ナメコはぬめりが強い。ぬめりの正体はムチン。なんといっても、のどごしがいい。食物繊維のひとつで、胃や鼻の粘膜を丈夫にするらしい。同じ大きさのナラタケやクリタケ、アミタケなどの野生キノコの代替品として、このごろは月に10日前後、みそ汁にナメコが入る。

 キュウリは梅雨寒で生育が悪い。値段も高い。が、自前のものだけでなく、知り合いからも「生(な)ったから」と届く。同じ糠漬けでも変化がほしい。一晩漬けてすぐ食べる浅漬け。2、3日漬けておいて塩出しをする古漬け。たまたま手に入ったずんぐりむっくりの昔野菜「小白井きゅうり」は“どぶ漬け”(塩水漬け)に。漬物はすべて私が担当する。パリパリ、シャキシャキ、ほぐほぐ。食感と味の違いを楽しむ。

 この程度の朝の食卓だが、“こだわり”の取り合わせがおもしろかった。目玉焼きにこだわる。キュウリの漬物にこだわる。ナメコにこだわる。それで、食べる前に“記念写真”をと、体が反応した。

2019年7月20日土曜日

孫が書いた詩人の評伝

 きのう(7月19日)、福島民報に自社事業の「民報出版文化賞」が載った。正賞に関根宏幸著『日月(にちげつ) 詩人高橋新二とその時代』(歴史春秋出版、3240円)が選ばれた。
著者は福島市在住で、福島県職員OBの62歳。新二(1906~97年)の孫(娘の子)だそうだ。孫が評伝を書いたことを初めて知った。

 山村暮鳥を中心とした「いわきの近代詩史」は、日本の詩史のなかでも特異な位置を占める。それを戦前の画期とすれば、戦後は中通りの新二や三谷晃一、斎藤庸一らが県内詩壇をリードした。若いころに文学をかじった人間としては、新二も、三谷・斎藤も学ぶべき先輩詩人だ。

 とはいえ、記者になって事件・事故を追いかけているうちに、新二も、三谷・斎藤も頭から遠ざかった。それを思い出させてくれたのが一世代下の知人たちである。

 インターネット古書店を営む若い仲間が、東日本大震災後、いわきで掘り出した新二の詩集『鬱悒(うつゆう)の山を行く』(昭和4年)を持ってきた。昭和40代後半、草野美術ホールで知り合った元美術教師が挿絵を描いていた。詩集を「買え」とも「あげる」とも言わないのをいいことに、手元に置いてときどきパラパラやる。

 それと前後して、FMいわきのPR誌「みみたす」に、いわきの中山間地を探訪するカバーストーリーが載った。2014年4・5・6月号は、田人町・石住地区を取り上げた。鮫川渓谷にある小集落の、石住小・中学校の校歌にまつわる「物語」がおもしろかった。新二が作詞した。

探訪記事の筆者とはその前年、小名浜で開かれた地球市民フェスティバルで、同じFMの旧知の女性社員から紹介されて知った。

彼とはその後、連絡を取り合う仲になる。新二の取材の延長で、福島市に息子の重義(やはり詩人で、元小学校校長)を訪ねた折、詩集『夏の栞 秋の栞』(平成5年)をもらった。それを、「私より隆治さんが持っていた方がいいから」と託された=写真(右が新二、左が重義の詩集)。重義は去年(2018年)亡くなった。

新二―重義とつながったところへ、今度は新二の孫が評伝を書いた。3世代に及ぶ文学の血を確かめるためにも、ぜひこの本を読まねば――そんな気持ちになっている。

2019年7月19日金曜日

なんということを

第一報はネットで知った。その後は、テレビもつけて情報を集めた。京都のアニメーション制作会社のスタジオが放火され、“爆発火災”が起きた。激しく立ち昇る黒煙。死者は次第に数を増して33人に――。なんということをしてくれたんだ。
NHKの朝ドラ「なつぞら」は、アニメ制作現場でのやりとりが佳境を迎えつつある。京都の3階建てのビルの中でも、似たような作業が行われていたのだろう。命を絶たれた若い人たちの、それぞれの人生を思うと……言葉もない。怒りがこみあげる。

夕方、小名浜・冷泉寺住職酒主照之さんの通夜へ行った。放火の犠牲者にも、併せて胸中で合掌した。

高台にある寺は東日本大震災時、津波被災者の避難所になった。私ら夫婦が関係しているシャプラニール=市民による海外協力の会も、震災直後、いわきへ緊急支援に入り、その後5年間、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

この間、住職の娘で知人の“しんぼっち”(副住職)とカミサンが連絡を取り合い、シャプラのネットワークと真言宗の寺のネットワークを生かして、みなし仮設のアパートや戸建て住宅で孤立している津波被災者や原発避難者に生活用品の提供などを行った。それで、住職夫妻とも顔を合わせるようになった。

支援活動が一段落したあとも、住職夫妻が本や食器などを持って来た。カミサンがそれを必要とする人に提供し、あるいは換金してシャプラの活動資金に充てた。

その後、住職が体調を崩し、奥さんがひとり、車でやって来るようになった。最近では1カ月前、住職が読んだだろう本を持ってきた。中から4冊ほどを選んで手元においた=写真。支援うんぬんの前に、年金生活者としてはリデュース・リサイクル・リユースを実践するしかない。面白そうな本があれば手に取る。

そんな関係が8年も続いたからか、“しんぼっち”だけでなく、住職夫妻にも勝手に“同志”的意識を持つようになった。たぶん見ている震災の風景が同じだった。そんな思いにひたっているところへ、京都で突然、大惨事が起きた。理不尽な風が吹きやまない。

2019年7月18日木曜日

小館は大館の支城だった

 先日、いわき市好間町の大館と小館のことを書いた。どちらも同じ丘陵にある。大館は平と好間にまたがっている。戦国大名・岩城氏一族が主に住んでいたのは平・大館で、好間・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)だった。小館は大館に対してそう呼ばれたのか?
図書館から『よしま ふるさとの歴史探訪』(好間地区関係団体会議、平成10年)を借りて読んだ。両者の関係が少しわかった。同書では平・好間と分けずに、単に大館として扱っている。小館はその支城だった。

「大館は城を持たない館であったが守備範囲は広く、西は小館、南は御台、東は薬王寺、物見ケ岡の点を結んだ中と推察される」。西から四つの切り通し(国道49号バイパス、国道49号・JR磐越東線など)があるが、歴史的には、小館からいわき駅裏の物見ケ岡まで一連なりの丘陵だった。

同書はまた、大館の支城は150~180館あり、主要な館を「岩城四十八館」と呼んでいたという。「特に小館は東西・南北500メートルの台地で大舘の西に位置し、大館への飲料水路の要点にあたり、岩城氏の重臣、好島氏の代々居館で武者落しの地名が伝えられている」。「大」に対する「小」かどうかはともかく、大館と小館は密接な関係にあった。

なぜ大館と小館の関係が気になったかというと、同じころ読んだキノコの本のなかで、画家の安野光雅さんが「わらいたけ」(笑い茸)と「なきたけ」(泣き茸)について書いていたからだ=写真右。

ワライタケは、オオワライタケも含めて幻覚や笑いを引き起こす毒キノコだが、ナキタケは安野さんが創案したものだろう。ワライタケがあるならナキタケがあってもおかしくない――そんな対語的発想で架空のキノコを生み出した。

そこから、大小、陰陽、凹凸……といった対語探しが始まった。「前倒し」と「後ろ倒し」。「後ろ倒し」は、春にNHKのニュースで知った。「先送り」と同義だろう。「前例」に対する「後例」もネットにあった。「後例」はまったくなじみのない言葉だが、「前例」の対語としてはあり、か。

ついでにいうと、地名の上・中・下は川の流れに対応している。上・中・下神谷と夏井川の関係でいえば、上神谷は私の住む中神谷の元上流(川の流路が変わった)、下神谷は下流に位置する。上・中・下平窪(夏井川)、そして上・中・下好間(好間川)も同じ。

ただし、上越・中越・下越は川ではなく、京都(当時の首都)からの距離の遠近によるものだとか。「上京」が京都から東京に変わったように、鉄道や国道の上・下も東京が基準になった。

 大館と小館の話に戻る。グーグルアースで両者の位置関係をみる=写真上。東端、矢印のあるところが好間・大館。北西端、青い屋根が複数見られるところが小館。その距離は高坂の元ゴルフ場をはさんで、およそ3.5キロ。もし尾根沿いに道があるとしたら、切り通しの上り下りを加えて、格好の“山歩”コースになる。

2019年7月17日水曜日

自動車の高齢者講習

 自動車学校で学んだ運転技術の基礎を守っているところもあるが、すっかり自己流になっている。それを認識して運転を――というのが狙いなのだろう。
6月下旬に「高齢者講習等通知書」が届いた。誕生日の半年前、免許更新のための通知がきて、自動車学校で実車講習を受けないといけない、とは聞いていた。

70歳を過ぎた。たまたま11月の誕生日に合わせて、5年ぶりに免許を更新しないといけなくなった。いよいよきたか。すぐ近くの自動車学校に電話した。後日、講習日を連絡するという。しびれが切れかかったころ、連絡が入って、受講日が決まった。免許証、印鑑、眼鏡、受講料5100円を用意するように、と言われる。

日曜日(7月14日)、講習を受けた。動体視力・夜間視力・水平視野の検査も行われた。実車講習には先生と受講者2人が同乗した。受講者は3人単位らしい。この日の受講者は6人、実車教習は2台に分乗して行われた。

 ざっと45年前、同じ学校で教習を受け、車の免許を取った。結婚して子どもが生まれるのと同時だった。カローラから始まってギャラン、アコード(これだけ新車)、パジェロに乗り、今はフィットを運転している。パジェロまではマニュアルだったが、今はオートマだ。

 高齢者講習ではこんなことを指摘された。①発進する際にサイドミラーしか見ていない=ちゃんと身を乗り出して後ろを見るように②「止まれ」の標識があるところで交差点に入ってから止まった=交差点の手前で止まるように――。

あとでテキスト=写真=を読んで、悪いクセを再確認する。ひとつだけ、若葉マークのころから意識していることが書いてあった。免許を取るときの座学だったと思うが、「だろう運転」ではなく「かもしれない運転」をするように――と教えられた。そのころ、新聞記者になったばかりで、原付きバイクで警察回りをしていた。交通事故を処理する警官からも、同じことを教えられたような気がする。

歩道を歩いている子どもがいる。車道にはとび出さないだろう、ではなく、とび出すかもしれない。バスが止まっている。バスの前から人は出てこないだろう、ではなく、急に出てくるかもしれない。半世紀近くたった今も、いちおうは「かもしれない運転」を心がけている

 さてさて、70歳になったばかりだから、75歳以上に義務付けられた認知機能検査はない。講習が済むと、通知書に赤く「高齢者講習済」のスタンプが押された。そうしないと、また講習を受けに来る人がいる。確かに、免許更新までは4~5カ月ある。講習を受けたことを忘れてしまう人もいる、ということだった。

役所の辞令書のような紙に印刷された「終了証明書」をもらった。免許更新時に必要だから、ちゃんとわかるところに保管しておくように、と言われる。カミサンと話して保管場所を決め、共通の記憶とした。

2019年7月16日火曜日

浜通りの日照は平年の半分

5月の半そで・半ズボンから一転して、6月の梅雨入り後は長そで・長ズボンの日が続いている。晴れても長続きしない。鉛色の雲海がとぎれることなく現れる。雨量も多い。
 テレビは、東京の日照不足が深刻なことを報じている。31年前の昭和63(1988)年以来だという。平成5(1993)年にも日照不足が続き、農作物に被害が出た。タイや中国、アメリカから緊急にコメが輸入された。この「平成の米騒動」に触れるテレビもあった。

東京はしかし、消費地だ。消費地がそうなら、地方の生産地はもっと深刻だろう。どこかのハウス農家が、キュウリが曲がってしまう、と嘆いていた。福島県の浜通りも「日照は平年の半分」と、きのう(7月15日)、ローカルテレビが伝えていた。

日照不足と低温の影響が徐々にあらわれている、といったらいいか。いわきの直売所やスーパーでも、キュウリが1本50円を超えた。夏井川渓谷の隠居では、キュウリが生(な)りはじめたばかりで、まだまっすぐだが、これから低温の影響で曲がらないともかぎらない。

わが家の庭のプラムは、今年はいっぱい生ったが、どうも水っぽい。カミサンから「早く摘んで」と催促されたが、味がイマイチなので収穫する気にはなれなかった。落果するにまかせた。

農作物だけではない。いわきでは土曜日(7月13日)に海開きが行われた。震災前、いわきには10の海水浴場があった。今年は、新たに久之浜・波立が加わって、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場がオープンしたが、この梅雨寒ではカンコドリが鳴いている?

おととい(7月14日)、暮らしの伝承郷へ出かけたら、ロビーで“はせぎ”につるした麦わらを、下からサーキュレーターで乾燥させていた=写真。今度の土曜日、つまり小中学校の夏休み初日、「麦わらの虫かご作り」が行われる。そのための下準備だった。

このまま梅雨が明けたのかどうかさえわからず、「寒さの夏」が続いたら……。冷害で米騒動が起きた平成5年以来の、「令和の米騒動」になりかねない? 26年前は、首都圏の同級生から「米を売ってくれ」と、SOSの電話が入った。そうなっても、まずはお得意さんから、となる。とにかく早く太陽の顔を拝みたい。

2019年7月15日月曜日

いわきの郷土料理展

 きのう(7月14日)は朝、平地区(旧平市)家庭バレーボール大会に顔を出した。神谷地区(旧神谷村)大会でわが区のママさんチームが優勝した。それで、次の大きな平地区大会に出場することになった。区を代表して応援に行った。
 午後には、70~75歳未満の運転免許更新に必要な「高齢者講習」が待っている。前半の戦いを終えたところで帰宅すると、カミサンが出かける準備をして待っていた。「暮らしの伝承郷で『いわきの郷土料理』展が始まったから行こう」

いわき地域学會が、市の委託を受けて市内の伝統郷土食を調査し、平成7(1995)年3月に報告書をまとめた。調査リーダーはハマの江名で生まれ育った故佐藤孝徳さん。私は校正を担当した。

それから15年後の平成22(2010)年、市が昔野菜(在来作物)の発掘調査事業を始めた。27年度までの6年間に発掘・調査と展示、実証圃(ほ)での栽培、フェスティバルの開催、冊子の発刊などを実施した。これにも冊子の巻頭言を書くなどして間接的にかかわった。

初年度に原発震災が発生した。「今、記録しておかないと」。受託したいわきリエゾンオフィス企業組合のスタッフが市内を駆けずり回って、さまざまな昔野菜を発掘した。伝承郷とのコラボも進み、園内の畑で「小白井(おじろい)きゅうり」などが栽培されている。

「いわきの郷土料理」展は、そうした先行調査の知見と栽培の経験を踏まえて企画されたものだろう。時間的にはせわしいが、機会をのがすといつ行けるかわからない。カミサンのいうとおりに車を出した。

 写真展示だが、見ればやはり発見がある。いわきのハマを代表する夏の料理といえば、カツオの刺し身と焼きびたし。この二つが真っ先に展示されている。刺し身はもちろん、醤油とおろしにんにくで。焼きびたしは、昔、食用油をそんなに使えなかったから、焼いてたれに漬けたのだという。ほかにも『伝統郷土食』や『昔野菜図譜』でなじみの食材と料理の写真が並ぶ。

かんぴょうにするユウガオは、機械にかけて外側から削るとばかり思っていたが、薄く輪切りにして内側から外へと手がんなで削っていく。大量に商品を製造するわけではない。手仕事が基本の「自産自消」ではその方が楽なのだろう。

小白井きゅうりは、皮をむいてどぶ漬け(関西では糠味噌漬けのことをいうが、福島県では塩水に漬けることをいう)にする。

この企画展は前日の土曜日、開幕した。きのうはその関連行事として、「野菜の収穫体験」が予定されていたが、あいにくの雨だ。伝承郷のスタッフが代わりに、小白井きゅうり=写真=その他を収穫して持ってきてくれた。

朝から動き回り、座学と実地講習に疲れて帰ると、またカミサンが街へ行きたいという。ならば、帰りは魚屋へ直行だ。「きょうのカツオは今年(2019年)一番の味です、福島県沖で獲れました」。一群がようやく北上してきた。食卓にはこれにもう一品、小白井きゅうりのもみ漬けが加わった。

確かに、カツオの刺し身はうまかった。さっぱりした甘みが口中に広がり、後々まで旨みが残った。それと前後して、やわらかくてシャキシャキしたきゅうりもみを楽しんだ。家を出たり入ったりすること4回。さすがに困憊気味で晩酌を始めたから、カツオも小白井きゅうりもうまさが倍加した。

「いわきの郷土料理」展は9月29日まで。「野菜の収穫体験」(観覧料が必要)は7月21、28日、8月4、11日と、いずれも日曜日午前10時から正午まで行われる。8月14日の月遅れ盆には、いわきの伝統芸能・じゃんがら念仏踊りの唄にも出てくる「十六ささげのよごしとなす汁の振る舞い」が予定されている。