2017年8月23日水曜日

いわきキッズミュージアム

 日曜日(8月20日)は昼前、半分カミサンのお供(運転手)でいわき市暮らしの伝承郷へ出かけた。「いわきキッズミュージアム」が開かれていた。前日は常磐の市考古資料館で同題のイベントが開かれた。両日とも滋賀県の滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会などが協力した。
 伝承郷では、民家ゾーンで「竹で遊ぼう」「消しゴム版画でエコバッグ作り」「プラ金魚すくい」などが行われた。これに「滋賀の夏まつり」が同時開催された。同実行委などが流しそうめん、新潟のカレーライス・かき氷、関西のチヂミ焼きを提供したほか、滋賀の小中学生による和太鼓、新潟の子どもと大人のハンドベル演奏が行われた。

 滋賀県は、東日本大震災後、さまざまな被災地支援事業を展開した。いわきの考古資料館・暮らしの伝承へも、同実行委が2011年から支援を続けている。伝承郷では今年(2017年)、2年ぶりに協力が復活した。

 3年前、孫2人と伝承郷で合流し、同ミュージアムのイベントを楽しんだ。孫は流しそうめんの列に加わり、母親と竹細工に興じた。親子、祖父母・孫交流のいい機会になった。

 スタッフやボランティアのTシャツ=写真=に見覚えがあった。手と手が親指でがっちり組み合い、親指が鳥の頭になって四つ葉のクローバーをくわえている。その下にはアルファベットで「いわき 滋賀/キッズミュージアム」の文字。希望を持ってはばたこう、ともに――といったところか。
 
 この夏はなにかと「滋賀」が目に入ってきた。今年の「みやぎ総文」(全国高校総合文化祭)では、滋賀の彦根東高校新聞部が10年連続最優秀賞を受賞した。震災後は福島県をエリアに毎年、取材を続けている。同校硬式野球部も甲子園に出場し、初戦を突破した。直接関係はないのだが、同級生が滋賀にある大手企業の子会社で社長をしていたことまで思い出した。
 
 滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会の粘り強い活動のおかげで滋賀が少し近くなった。

2017年8月22日火曜日

曲がったキュウリ

 ほんとうは、今が次々と実をつけるはずなのに、あらかた葉がとろけてしまった。これでは光合成など無理ではないか――夏井川渓谷の隠居の庭で栽培している「夏キュウリ」のことだ。
 最初、キュウリの苗2本を植えた。花が咲き出したころ、整枝をしているうちに間違って1本の茎を根元から切ってしまった。あとで夏キュウリの苗2本を補充した。7月は順調に育ち、最初に植えた苗がたくさん実をつけた。次は夏キュウリの番と期待したのだが……。

 8月2日に平年より遅く東北地方の梅雨が明けた。ところがそのあと、“第二の梅雨”が始まったような天候不順が続いている。終わりのキュウリは曲がる。夏キュウリは最初から曲がっている=写真。茎は細いまま。葉はすぐ黄ばむうえに、幽霊の「うらめしや」のようにしおれる。日照不足と雨と低温で“風邪”を引いてしまったか。これといった収穫もないうちに夏キュウリは命を終えるのか。

 地球温暖化という大きな現象のなかには、地域の異変ともいうべき小さな現象がいっぱい詰まっている。典型は滝の氷だ。隠居の対岸に「木守の滝」がある。今は厳寒期でも完全に凍結することがない。この何年かは天然氷を回収して冷凍庫に保存し、夏にオンザロックを楽しむこともなくなった。台風や低気圧が凶暴化して被害を大きくしているのもそうだろう。
 
「青空に入道雲」の8月はどこへ行ったのか。そろそろ青空が戻ってきてくれないと困る。今週末から秋の行事が始まる。まず体育祭が待っている(けさは一時的なようだが、太陽が顔を出した)。

 キュウリはたぶん、もう終わり。次は、秋~冬用の野菜の種まきだ。日曜日(8月20日)、隠居の庭で辛み大根の自然発芽を期待して草刈りをし、光が当たるようにした。カブの種をまくスペースも確保して石灰をまいた。

 けさは朝一番で甕に入っている古漬けのキュウリを取り出し、塩をまぶして漬けなおした。あとから入れたためにまだ水分の抜けきらないものがある。結構な量になっていた。もやもやした気分を引きずっても仕方がない、これでよしとしよう。

2017年8月21日月曜日

伝承郷のキノコたち

 きのう(8月20日)の夜は、平で夏井川流灯花火大会が開かれた。日曜日なので、カツオの刺し身をつつきながら「遠花火」で一杯――をもくろんだが、なぜか花火の音が聞こえなかった。耳が遠くなったらしい。代わりに晩酌のあと、フェイスブック友の動画と写真で現場の雰囲気を味わった。
 このごろ、日曜日が忙しい。午前中は私、午後はカミサンに合わせて動くことが増えた。

 きのうは、朝、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをした。2時間もすると、カミサンが「さあ行こう」という。前夜、いわき市暮らしの伝承郷へ行くか、隠居へ行くかで意見が分かれた。「伝承郷にはタマゴタケが出るよ」。朝、隠居で土いじりをしたらすぐ伝承郷へ行くことで話がついた。

 伝承郷へは午前11時半ごろ着いた。「いわきキッズミュージアム」というイベントが開催中で、無料のカレーライス、かき氷のテントには長い列ができていた。カミサンは伝承郷の事業懇談会委員をしている。なにか手伝うことがあればと、エプロンを持参したようだった。

 私は、イベントのことはすっかり忘れていた。前夜、晩酌のときにいわれたらしいが、民家ゾーンにある“里山”(雑木林)のキノコのことしか頭に残っていなかった。
 
 カレーライスを食べたあと、カメラを持って林の中に足を踏み入れた。日照不足・低温・雨のために、夏キノコがあちこちに顔を出していた。すでにとろけて黒くなったものがいっぱいある。
 
 チチタケ(食菌)が迎えてくれた。木の切り株からはナラタケモドキ(食菌)が生えていた=写真。テングタケ幼菌、ドクベニタケ、イグチ系の幼菌、ノウタケ幼菌、民家の山岸にはカワリハツ。100メートルちょっとの、ゆるやかな尾根道をひと巡りしたあとに、黒くバくされていたキノコを想像する。ナラタケモドキではなかったろうか。
 
 伝承郷の里山には、秋は入ったことがない。夏だけの印象でいうと、「タマゴタケが出る山」だ。タマゴタケはなかったが、毒々しい血の色をしたチシオハツがあった。
 
 振り返れば、流灯花火大会で人間の夏が終わり、ナラタケモドキがとろけてキノコの秋が始まった、というところか。そしてきょう、8月21日は「福島県民の日」。けさの新聞が星空の写真でラッピングされていたのでわかった。

2017年8月20日日曜日

文苑ひだ

 江戸時代、幕府の代官として名を残した人物に中井清太夫がいる。甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官を務め、飢饉対策としてジャガイモを導入した。幕領・小名浜に転じてからも、ジャガイモの栽培を奨励した。当地でジャガイモのことを「セイダユウイモ」とか「セイダイモ」と呼ぶのは、この事績による。飛騨高山では「センダイイモ」と、少し音が変化する。
「文苑ひだ」第13号(1960年創刊、通巻96号)=写真。岐阜県高山市で年2回発行されている総合文芸誌だ。いわき市の例でいうと、今年(2017年)終刊した「うえいぶ」の先行誌「6号線」に似る。月刊「文藝春秋」がお手本らしい。

 高山出身でいわき在住の「文苑ひだ」同人、峠順治さんから恵贈にあずかった。峠さんの調査レポート「ジャガイモ考――いわきの方言にも『センダイイモ』があったよ――」が載る。12ページに及ぶ力作だ。

 高山周辺の年配者は今もジャガイモを「センダイイモ」と呼ぶ。江戸時代の代官(幸田善太夫説と中井清太夫説がある)が導入したとされる。峠さんの友人が生前、同誌第5号に「センダイイモ」という方言は中井清太夫に由来するものだと書いた。

「いわきにもセンダイイモという方言があるんじゃないの」。友人の電話を受けて峠さんの探策が始まった。原産地アンデスのインカ帝国~西欧~日本への伝播の流れを追い、中井清太夫の事績を調べ、ジャガイモの方言分布を可視化した。
 
 峠レポートから、日本へのジャガイモ伝播ルートは南方だけでなく、シベリア~樺太(サハリン)~北海道の北方説があることを知る。
 
 いわきの資料では、中井代官由来の「セエダエモ」だけで、「センダイイモ」は見当たらなかった。ところが、『日本植物方言集成』(八坂書店)に、「センダイイモ」に近い「センダイモ」がいわきの方言としてあった。「『センダイモ』という呼称は、石城(浜通り南部)即ち幕領小名浜地区で流布していたと思われる」と、峠さんは書く。
 
 峠さんがまとめたセンダイイモ系の方言分布のうち、福島浜通りが該当するものは三つ。①セイダ/セーダ/アカセイダ/アカセーダ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨②セイダイモ/セイダエモ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨③センダイイモ/センダイモ=福島浜通り・新潟・岐阜――。
 
 いわきの方言探索の結果、峠さんは、高山の「センダイイモ」は幸田善太夫ではなく中井清太夫に由来するとした亡き畏友の説に近づけた、と締めくくっている。
 
 そうそう、ついでながらいわきと高山ということでいえば、かつていわき市は日本一の広域都市だった。「平成の大合併」が行われた今は、高山市が日本一の広域都市だ。中井清太夫・ジャガイモ・日本一をキーワードにした市民交流があってもいいか。

2017年8月19日土曜日

江名の「カオソ穴」

 長崎県対馬でカワウソが生息していることが確認された。絶滅したとされる二ホンカワウソかどうか、まではわかっていない。でも、野生のカワウソが日本にいた――というニュース=写真=には飛び上がった。
 昔、いわきにもカワウソがいたという話を新聞のコラムで書いたことがある。今や「資料庫」と化した2階でガサゴソやったら出てきた。1990年9月28日付いわき民報。「イワキランドの霧」というタイトルで月1回、いわきから姿を消した動植物(川前のオオカミ、矢大臣山のオキナグサ、三大明神山のクマゲラなど)を、9回にわたって連載したうちのひとつだ。

 小タイトルに「合磯(かっつぉ)の『カオソ穴』」、見出しに「もとはカワウソ海岸?」とあるが、地元の友人(歴史家)の話を咀嚼しきれなかったようだ。「合磯」に赤ペンで「江名」、「もと」には「合磯」と訂正が入っている。そのコラムの抜粋。

 ……カワウソは遊び好きで、しかも好奇心のかたまりのような動物だという。その魅力をとことん味わいたい人には、ギャヴィン・マクスウェルの『カワウソと暮す』(冨山房百科文庫)をお勧めしよう。同書は、著者が「キャマスフィアナ」と名付けたスコットランドのとある入り江で、西イラク生まれのカワウソ「ミジブル」と共に暮らした記録である。海と岩だけの別天地で、ミジは著者と同じベッドに寝、目覚めると室内で、戸外で飽きることなく遊び回った。

 例えば、海が荒れたある日――。「ミジは波に狂喜して戯れた。唸りをあげて寄せてくる砕け波の灰色の壁のなかへ、身を丸めて矢のように突進してゆき、波の重みも勢いも感じないようにきれいに向うへ抜けた。そうして来る波来る波を越えて、遥かな沖合まで泳いでゆき、ついには黒い点のような彼の頭が、白い波頭のあいだに消えてしまう」

 少し前置きが長くなったが、いわきでも遠い昔、これと同じような光景が見られたに違いない。平豊間の合磯海岸、ここはさしずめ「いわきのキャマスフィアナ」と呼ぶにふさわしい場所だろう。そこ(これにも訂正が入った=その裏側、江名の方)には「カオソ穴」と呼ばれる海食洞があって、昔、カワウソが住みついていたという言い伝えが残っている。

 語源からいえば、「カオソ」と「カッツォ」は極めて近い。地名は文字ではなく、呼び習わしから定まったという考え方に従えば、合磯海岸はもともと「カワウソ海岸」の意ではなかったか、とも思う。(中略)

 さて、このカワウソもまた、明治以降の近代化の波をかぶって姿を消し、高知県の一部にわずかながら生息している可能性があるだけだとも、既に絶滅したともいう。……

 こう書いてから27年が過ぎた。対馬のニュースに刺激されて、一日、カワウソのことを考えていたら、きのう(8月18日)の夕刊いわき民報で偶然、アクアマリンふくしまの飼育担当者による連載「かわうそのふちより」が始まった。月1回、1年間連載するという。

 せっかくだから、合磯海岸や江名の「カオソ穴」、あるいは福島高専と自由ケ丘団地の南側、矢田川の源流の地名=常磐上矢田町獺沢(おそざわ)=についても言及してくれるとありがたい。カワウソ由来と思われる「オソザワ」(獺沢)「オトザワ」(音沢)といった地名は全国各地にある。そうした民俗・地理にまで踏み込んだコラムだと、より身近な「いわきのカワウソ物語」になる。

2017年8月18日金曜日

モミタケが届く

「モミタケ、要る? 要るなら届ける」。お盆前、いわきキノコ同好会の事務局長氏から電話が入った。
 モミタケは美味菌だ。成菌では傘が団扇(うちわ)くらいの大きさになる。届くとすぐ写真に撮り、計測した。傘の長径は30センチ、柄は長さが18センチ、径が7センチもあった=写真。

傘と柄を分離し、傘を裂いて水に浸け、ごみや土を洗い落とした。柄は水を流しながら、たわしでごしごしやったら白くなった。きれいになった柄を見ると、大根と間違いそうだ。そのくらい太い。

 天然キノコは、いわきではまだ「摂取しないで・出荷しないで」という状況が続いている。が、キノコはゆでこぼすと放射線量が下がる(味も落ちる)。市などが公表しているキノコの線量データによると、去年(2016年)のモミタケは市内外の4検体とも「不検出」だった。ほかにも「不検出」のキノコが増えている。とはいえ、摂取するかどうかは自己責任だ。

 モミタケの食べ方をネットで確かめる。柄はスライスしてソテーに。でも、柴臭くて、ややえぐみがあるという。てんぷらにしたら、えぐみは消えるかもしれない。傘はやわらかいので、まずはゆでて大根おろしにする。炒め物にも、澄まし汁にもいいということは、万能キノコだ。全体に白っぽいので、「シロマツタケ」ともいわれる。名前の通りモミと共生する菌根菌だ。
 
 そうだった。去年(2016年)8月初旬、ロシアのサハリン(樺太)を訪ねたとき、海沿いの道端で村の娘さんが小さなバケツに白いモミタケの幼菌を入れて売っていた。1キロ1000ルーブル、日本円でおよそ2000円だった。モミタケはモミ以外の針葉樹とも仲がいい。
 
 8月は日照不足と低温が続いている。水稲や野菜の生育にはよろしくないが、キノコにはプラスかもしれない。食・不食・毒に限らず、森の中ではキノコが集会を開いているのではないか。

2017年8月17日木曜日

聖光と聖心

 甲子園の高校野球が天候不順で順延になった8月15日。孫が聖光学院のレギュラーメンバーである友人から電話がかかってきた。「聖心ウルスラ学園のウルスラってなんだい」「人名じゃないの」。聖心ウルスラ学園は聖光学院の対戦相手だ。あとで確かめたら、「聖女」の名前だった。夕方、また友人から電話がかかってきた。「女性の名前だね」「たぶん、伝説の」
 甲子園の話になった。「応援に行かないの?」「だめ、エコノミークラス症候群になるから」。以前(去年か)、甲子園へ応援に行ったら、長旅で足がはれ上がったという。それに比べたら、奥方は孫のためなら地獄でも、いや県大会でも全国大会でも「追っかけ」を欠かさない。しかも、もう一人の孫が同じ聖光のベンチ入りメンバーだ。今度ももちろん甲子園へ出かけた。

 きのう(8月16日)午後遅く、福島県の聖光と宮崎県の聖心が対戦し、聖光が5‐4で勝った。ショートで3番の孫=写真=が攻守に大活躍をした。もう1人の孫も二塁手で先発した。友人はテレビの前で何度も吠えたことだろう。

 友人の情報を参考に調べたら、いろいろ共通項があった。校名に「聖光」「聖心」とあるように、ともにキリスト教系の私立の学校だ。大阪の宿舎(ホテル)が一緒だった(そのホテルは福島県と宮崎県の定宿なのだとか)。
 
 聖心は延岡市にある。レギュラーのほとんどが同市内の中学校出身だ。聖光は、学校こそ県北の伊達市にあるが、今チームのレギュラーは大半がいわき市内の中学校出身。平二中、草野中は最寄りの学校だし、友人の孫は平三中出身だ。いわき対延岡の戦いではないか。
 
 そうであれば、また別の感慨がわく。江戸時代、内藤の殿様が磐城平藩を、次いで延岡藩を治めた。その縁で両市は「兄弟都市」のちぎりを結んでいる。次は兄弟都市の思いも背負って「ベスト8」の壁を突破――となるとおもしろい。