2026年2月19日木曜日

「うま塩ピーマン」

                                        
 初めて食べたおかずだった。細切りにしたピーマンをレンジでチンし、「うま塩ピーマン」と書かれた粉末の調味料=写真=とごま油を和(あ)えただけだという。

 「うま塩ピーマン」の袋には「町中華名店の裏メニュー」とある。鶏ガラスープパウダーその他が原材料で、最初の一口で驚いた。

 これがピーマン? 弾力、つまり歯ごたえがあって、ピーマンとは別の食べ物のようだった。しかもピーマンの青臭さがない。「町中華名店の裏メニュー」とうたっているだけのことはある。

 何度もピーマンの感触を思い出しながら、「あれは何かに似ている、何だろう」と考えていて、はたと気づいた。

 海のクラゲ。鮮魚スーパーなどでクラゲの和え物を売っている。クラゲの、あのコリコリ感に近い。

 「うま塩ピーマン」は、カミサンが女子会に参加した1人からもらった。中学校の同級生3人が毎月1回集まって、昼食を兼ねておしゃべりをする。私は毎回、会場までカミサンを送って行く。

 女子会ではそれぞれ何かを持ち寄ってプレゼントし合っているようだ。食べ物が多い。「うま塩ピーマン」を持って来たのは、何年か前までスナックを経営していた人だ。私もよく知っている。

 娘がフランスに住むという1人からは、南仏・地中海原産、カマルグの天日塩をもらったことがある。

 「うま塩ピーマン」は大手食品メーカーが販売している。スーパーで売っているのかどうか、「今度スーパーへ行ったら探してみよう」とカミサンが言った。

 それからほぼ半月後、たまたま入ったスーパーでそれらしい調味料を探す。と、「町中華の裏メニュー」という言葉はないが、似たような袋詰めの調味料があった。

 前のときと同じようにして、ピーマンに和えたのが出てきた。辛い! 「うま塩ピーマン」とはかなり違う。ま、違いがわかっただけでもよしとするか。

 調味料に限らないが、料理の世界は奥が深くて広い。底なし沼のようだ。若いころ、料理の沼にはまることはなかったが、それでもこだわってきたものがある。

ネギの栽培、原発事故の前はキノコの採集(今は菌類関係の本を読むだけ)、そして糠漬けと冬の白菜漬け。これらは自分の役目と決めている。

あとは「食べる人」(このごろは「片付けて洗う人」もやる)。そのなかで出合ったピーマン料理だった。調味料次第でこんなにも味が変わるのか、という驚きは新鮮だった。

 そのへんがヒントになったのかもしれない。酸味が強くなった古い白菜漬けを再生させる方法として、市販の「キムチの素」をまぶすことを思いついた。

 わが家に届く元シェフ製造のドレッシングも、好みの調味料ではある。調味料の沼にはまるのも悪くないか

2026年2月18日水曜日

壁の歯車

                                
 カミサンの実家へ行くと、店舗(元米屋)部分の勝手口から入る。接続している母家の玄関を利用するのは正月とお盆くらいだ。

 玄関の両側の壁には、木製の歯車(全体を4分割したもの)がはめ込まれている=写真。

 年末に義弟から拓本の掛軸を預かった。前にもブログで紹介した「好間渠誌」で、好間渠(江筋)は今も実家のそばを流れる。

 かつてはこの江筋から庭を経由して水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。その遺物である。

 壁にはめ込まれた歯車は、歯が9個。やはり木製で、本体の四角い穴にはめ込まれている。

 2つの歯車部分を合わせると直径がどのくらいか想像できる。本体は直径1.5メートル余、歯車の数は36個ぐらいだろうか。

 遺物が家の歴史を物語る。とはいえ、カミサンも古いことは祖父母・父母からの伝承以外よくわからない。まずはカミサンの実家に関する情報が欲しい。

図書館にはデジタル化された「古新聞」がある。そこから拾えるなら集めたい。

「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。詩人の田村隆一が言っている

確かにその通りで、検索しながら紙面を読む。それがきっかけでさらに新しい興味・関心がわく。

このごろは、集中して「いわき文献案内」を利用している。図書館がデジタル化した地域新聞(いわき民報は昭和56=1981年まで)を、キーワードで検索できる。

楽しみながら、遊びながら。わかっても、わからなくても。まずはキーワードを入力して調べる。

すると、マチの動きと絡んだカミサンの実家の情報がいくつか出てきた。きょうはそのへんを。

昭和10(1935)年6月7日付「新いわき」に、平町内の行政区のうち5つの区長が決まったという短報が載る。カミサンの祖父が再選されたことがわかる。

昭和31(1956)年8月13日付いわき民報には、義父名による「近火見舞いお礼」の広告。近所で火事があったことをカミサンも覚えている。

さらに、昭和45(1970)年11月13日付の同紙掲載「磐城三十三観音巡礼記64」に、筆者の荒川禎三さんが義父ともう1人の3人で巡礼を共にしたことを書いている。

変わったところでは、「委託電報」というのがあった。昭和29(1954)年8月31日付三和新報に記事が載る。

平電話局は平電報局とタイアップして、9月1日から管内の委託公衆電話取扱所3軒で電報の発信を受け付けることになった、というもの。

3軒のうちの1軒がカミサンの実家だった。真夜中でも起こされて義父が電報を受け付けたという。

肝心の好間江筋のこと、水車のことなどは、今のところ収穫なしだが、いずれ手を変え、品を変えて検索を続けるつもりだ。

2026年2月17日火曜日

春の陽気

 一夜明けたら、寒が戻っていた。とはいえ前日、2月15日の日曜日は今年(2026年)一番のポカポカ陽気だった。

 朝は早めに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。前の週は衆院選の投票立会人を務め、小学校の体育館にカン詰めになった。2週間ぶりの渓谷行である。

 畑の凍土も、小流れのしぶき氷も消えたことだろう。フキノトウがあちこちに頭を出しているに違いない。車のハンドルを握りながら、気分が高揚した。服装はしかし厳冬の「重装備」のままだ。

 隠居に着いてちょっと動くと、すぐ上半身に熱がこもった。汗のにじみ具合をみながら、1枚、1枚、皮をはぐように着ているものを脱ぐ。まずマフラーをはずす。厚手のジャンパーを脱ぐ。手袋を取る。

 意外と効果的なのが、厚手のシャツの一番上のボタンだ。秋の終わりごろから上のボタンもはめて、首から寒気が入らないようにしている。逆をいえば、胸元から熱を逃がさないために、一番上のボタンをしめておく。

 晴れてかすんではいるが、風はない。この冬初めて、体から熱を逃がすために一番上のボタンをはずした。

 畑の土はスコップがすんなり刺さっていく。生ごみを埋めると、下の庭でフキノトウを探した。が、数は半月前と変わらない。まだ小さい。摘むのはよした。

そのあとは隠居のこたつに足を突っ込んで休むだけ。というのが今までのパターンだが、やはりポカポカ陽気である。隣の展望台から川と森をながめたり、道路をぶらついたりした。

左岸の森がところどころ「茶髪」になっている。籠場の滝のすぐ上流、道路沿いの赤松も何本か枯れ、1本が途中から折れた=写真。それに気づいたのは確か今年に入ってからだ。

 ハマの黒松、ヤマの赤松。どちらも松枯れ被害が拡大している。ナラ枯れが起きるのも時間の問題か。

昼食は久しぶりにインド料理の「チャイコタ」(元「マユール」)でとることにした。マチへ下りたあとは夏井川の堤防を進む。

 定点観測をしているネギ畑に老夫婦がいた。太く長いネギを収穫して束ねている。2人の姿を見てこちらも元気になる。

 マチを歩いている人はそでをまくり、あるいは半そでになっていた。ジャンパーを着ている人はほとんどいなかった。若い人は暖気には敏感だ。

夕方、コンビニへ買い物に行くと、空はまだ明るいのに空気が冷たい。西の山並みに日が沈むと急速に冷え込んだようだ。この変化にはやはりついていけない。

家の中はそれでも昼の名残で温かかった。ヒーターも、ストーブもつけずに過ごした。これからそんな時間が増えると経済的には助かる、なんて思ったのも束の間……。

    翌日は北風である。寒暖を繰り返しながら春に向かっていくとはいえ、年寄りは、簡単には「重装備」を解けない。 

2026年2月16日月曜日

そこにある危険

                                
 夏井川渓谷の隠居へ通い続けて30年余になる。阪神・淡路大震災(1月)、地下鉄サリン事件(3月)のあとの5月末、地元区長の案内で家々を回ってあいさつした。

 週末(今は日曜日だけ)は街のデスクワークから山里のフィールドワークに切り替える。

街は人と人との関係が主だが、山里の谷間では人と自然との関係が中心になる。自然の移り行きに身をゆだねながら土いじりをし、森を巡ってキノコを採る。それを記録し続ける、ということをしてきた。

原発震災後は、庭の全面除染が行われ、森へ入ることが激減した。キノコは「採る」から「撮る」に変わった。

森はまだ原発事故から回復できずにいる。それに加えてV字谷である。道路は険しい崖と谷の間をくねくねと進む。近年の温暖化も手伝って、山が乾いて荒廃しつつあるのではないか――そう感じることがよくある。

ところどころに「落石注意」の標識が立つ。渓谷に入るとすぐロックシェッドがあり、落石防止のワイヤネットが張られている。

これがあるから、ふだんの通行には支障がない。とはいえ、絶えずどこかで落石や倒木が起きる。

道端に新しい落石が転がっている。折れた木の幹や枝が寄せられている。これが近年は常態になってきた。範囲も拡大しているようだ。

平地を過ぎて渓谷に入るちょっと手前、河岸段丘の集落を過ぎたあたりで、倒木が片側の車線をふさいでいた。崖があるわけでもないのになぜ? 30年通い続けて初めてのことだった

渓谷ではさらに、崖の中腹で木が折れたままになっていたり、車の通行に支障のないように切られたりした所がある=写真上1。

渓谷は岩盤が露出気味で、緑は茂っていても根張りの浅い木が多いのだろう。近年は「ナラ枯れ」が進み、その影響で折れる木もあるようだ。

倒木が崖の中腹に残っているあたり、直下の道路にも注意を促すカラーコーンが並んでいる=写真上2。

ワイヤネットが道にせり出すように落石で膨らみ、その上には崩れ落ちた土砂がたまっていた。

よく見ると、のり面は滑り台のようにへこんでいる。それで土砂と石が道端まで崩れ落ち、上部では木が倒れたのだ。

「令和元年東日本台風」では、渓谷も至る所で落石や倒木に見舞われた。沢では小規模な土石流が発生した。岸辺の駐車場もえぐられて消えた(今は復旧した)。

というわけで、渓谷に入るとおのずと意識が切り替わる。「そこにある危険」に敏感になる。渓谷の自然から学んだ一番大切なことがこれだ。

2026年2月14日土曜日

ネギが集まる

                                
   ネギの旬はやはり冬。隣の行政区に住む知人から、大みそかに自産のネギをもらった。前年に続くお福分けで、去年(2025年)は春にも「終わり初物」のネギが届いた。カミサンの友達も自産のネギや、お福分けのネギを持って来てくれる。

夏井川渓谷の隠居で「三春ネギ」を栽培している。去年はネギ苗の養生に失敗した。定植したあとも育ちが悪く、あっという間に苗がとろけた。

秋に前年の残りの種をまいたら芽が出た。ネギの種は冷蔵庫に入れておけば2年は持つ(逆から言えば冷温保存でも2年しか持たない)。

というわけで、この冬は自産のネギをまったく食べていない。スーパーへ行けば、「ネギも」となるのだが、晩秋に夏井川渓谷の臨時直売所で小野町の曲がりネギを大量に買った(それが庭に土をかぶって残っている)。その後も、常にお福分けのネギが届く。

ハマの中之作へつるし雛飾りを見に行ったときも、地元の「菊屋」さんから、自分が栽培したという赤ネギと九条ネギを買った。白菜・大根とセットで600円だった。

小野町のネギ以外はすべて一本ネギである。中には硬いものもあるが、あらかたは加熱するとやわらかくなる。緑の部分にとろみのあるネギもあった。

家庭で栽培される一本ネギは、食べる人の好みを反映して多種多様であることがよくわかった。

わが生活圏は「いわきネギ」の産地として知られる。マチへ行った帰り、夏井川の堤防を通る。堤防の内側=人間の住宅のそばにある農地はネギ畑が多い。

そのネギ畑の1年の移り行きを目に焼きつけて、自分のネギ栽培の参考にする。平地と山間地のネギの違いを理解する意味でも、平地のネギの観察は欠かせない。

定点観測をしているのは、平・塩地内のネギ畑だ。老夫婦が作業をしている。ほかのネギ畑に比べると、収穫作業は遅い。

拙ブログによると、2024年~25年期は師走の終わりに収穫が始まり、年が明けた1月9日には3列のうねが残るだけになった。2月に収穫作業をしていたこともある。

一帯では、やはり最後になる。今シーズンも周りの畑が裸地になったのに、まだ青々としていた。

1月が過ぎ、2月に入っても収穫が始まる気配はない。いくらなんでも……。堤防を通るたびに収穫が遅れている理由を想像するが、こちらは何もできるわけではない。気にかけるだけだ。

2月5日にマチへ行った帰り、堤防を通った。いつものように、ネギ畑を見ると、うねが何列か裸になっていた=写真。

収穫が始まったのだ! なぜかホッとした。やはり今シーズンも最後になった。13日現在、うねは5日と変わっていない。ゆっくりゆっくり収穫するようだ。

2026年2月13日金曜日

鳥居に秘められた物語

                                
   平・山崎の専称寺が「梅の寺」として知られるようになったのは、箱崎昇吾翁(平中神谷)が昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて梅の木を植え続けたからだった。

いわき市立図書館がデジタル化した地域新聞を、若い仲間が組み立てた「いわき文献案内」を利用して、キーワード(「専称寺 梅林」)検索をしたらすぐわかった。

 昭和36(1961)年2月20日付の常磐毎日新聞が「春を呼ぶ一千本の梅林/箱崎氏の悲願実る/市も観光誘致に本腰」と伝え、同48(1973)年1月26日付のいわき民報に、小川町の中條実さんが「専称寺の梅林と箱崎昇吾翁」と題して寄稿している。

 それをブログ(2月4日付「専称寺の梅林」)に書いた。そのときは触れるのを控えたが、箱崎翁は梅林以外にも寺社への寄進を行っている。

 中條さんによると、箱崎翁は昭和8年まで国鉄に勤め、田地10アール当たり2百円前後の時代に2千円余の退職金を得た。

 これを資金に、翁は①専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの橋を架ける②同寺境内に梅を植樹する③大円寺に石門を建立する④立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を建立する――ことを決めた。

 大円寺は専称寺末で箱崎翁の菩提寺でもある。夏井川の堤防まで歩いて行くと、集落のなかに墓と石門があり、奥に本堂が見える。

立鉾鹿島神社と出羽神社は小学校の近くにある。わが家のある旧道から神社に向かって立鉾の参道(鳥居から本殿までの道)に通じる道が延びる。神社の前を常磐線が横切っている。その線路の手前に石の鳥居が建つ=写真。。

まずは寺の石門を見に行く。向かって右側の裏に箱崎翁と奥さんの名前が彫られていたが、風化しているために判読が難しい。

立鉾の石の鳥居は、向かって左の柱の裏側に箱崎翁夫妻の名があった。鳥居は形式が「明神鳥居」で、6カ所に補強具が取り付けてあった。

 その足で近くの出羽神社へ向かう。神社のある丘のふもと、小川江筋の手前に石の鳥居らしいものがあった。

 「らしい」としたのは、石柱が途中までしかないからだ。柱が斜めにスパッと切られ、表面に「平成二十三年三月十一日/東日本大震災誌之」とあった。震災遺構というべきか。

上部も残っているなら、石柱の裏側に同じように夫妻の名前などが彫られていたはずだが、これでは確かめようがない。

 なにか印は?とみると、やはり向かって左側の柱の裏、基礎部分にプレートがあった。夫妻の名前のほかに「奉納 村内安全 昭和八年十二月」と記されている。

 翁の願いは「村内安全」。そして、昭和8年12月を期して、石の門柱と鳥居を寄進した。

日ごろ見慣れている風景の一つだが、それには地元の人間の願いがこもっていた。「きっつぁし」(挿し木=よそから来て住み着いた人間)にも、石の門柱と鳥居のいわれがわかった。

箱崎翁はわが家の近くで暮らしていた。身近なところに、高い志を持って行動した人がいた。あらためてそのことを胸に刻む。

2026年2月12日木曜日

一日遅れの「日曜日」

                                  
   2月8日の日曜日は衆院選の投票日だった。投票立会人を務めたので、早朝7時前から夜7時過ぎまで、最寄りの投票所(小学校体育館)に缶詰めになった。

 日曜日の夜は刺し身で一杯――はおあずけだ。カミサンは「一日早く、土曜日に刺し身にしようか」といったが、それはよした。

 刺し身を理由に晩酌の量が過ぎると、翌日の「仕事」に差し支える。「仕事」が終わってから食べることにした。

ブログのタイトルは? 「月曜日の刺し身」より「一日遅れの『日曜日』」の方がしっくりくる。夕方の刺し身買いから逆算して「日曜日」の行動を決めた。

朝は10時ごろ、ラトブの図書館へ着くように家を出る。2月10日は施設点検のために、図書館も1~3階のショッピングフロアも休みになる。

9日しかない。開館時間に合わせて本を返し、フロアを巡って新しく本を借りた。帰宅するとブログを書き、ルーチンの調べものをした。

横になって休んだらもう夕方だ。カミサンを車に乗せてマルトへ刺し身を買いに行く。冷たい風が吹いている。四倉まで行くのはよして、手前の草野ですませた。

いつもの魚屋さんへ通っていたころは、2月に入ると店主から声がかかった。 「カツオがあります」「おっ、いいね」。毎年そうやって、その年最初の生カツオを食べた。

ブログを確かめたら、その日は早い順から1月17日(2021年)、1月23日(2022年)、2月3日(2018年)、2月7日(2016年)、2月19日(2023年)だった。

それもあって、2月になると「初ガツオ」の記憶がよみがえる。体が覚えているのだ。今年(2026年)はしかし、店主とのやりとりはない。自分で確かめるしかない。

カートを押しながら鮮魚コーナーに行くと、赤身の柵があった。シールには「千葉県産生カツオ」とある。今年(2026年)初めての生カツオだ。さっそくカートに入れる。

それだけでは足りない。マグロを中心にした盛り合わせはもう飽きた。代わりのものはないかと見れば、貝の盛り合わせがある。それもカートに入れた。

柵は私が切った。行きつけの魚屋さんではマイ皿に盛りつけてくれた。それを思い浮かべて、まず貝の盛り合わせをそのままマイ皿に移し、手前の空きスペースにカツオの刺し身を並べた=写真。いつもよりは華やかな盛り付けになった。

久しぶりに「にんにくわさび醤油」で生のカツ刺しを食べる。生はやっぱりいい。細胞が生きている――そんな感じがした。これからは生のカツオの有無をチェックしよう。

貝も食感を楽しんだ。ホタテのやわらかさ、ホッキのしなやかさ、アカガイともう1種類(ツブガイか)のコリコリ感。カツ刺しといい組み合わせになった。一日遅れたからこその、「日曜日」の「口福」である。

2026年2月11日水曜日

突然の選挙・下

                               
   2月8日の衆院選では地元の投票所の立会人になった。投票まで毎日、天気が気になった。

ポカポカ陽気なら大歓迎だが、直近の予報では寒の戻りがあって雪も降るという。市選管から届いた書類にも防寒対策を、とあった=写真。

この日は真夜中に一度目が覚めた。6時半には投票所の小学校体育館に詰めていないといけない。二度寝して寝過ごしたら迷惑がかかる。

結局、3時半には起きた。新聞を取り込むために玄関を開け、庭に出ると霧で頭が濡れた。夜が明けたら車がうっすら白くなっていた。霧と思ったのは雪だった。

ほうきでフロントガラスの雪を払うと、サラサラしている。パウダースノウだ。道路はところどころ白くなっているだけで、アスファルトがはっきり見える。

7時の投票開始時が降雪のピークだったようだ。体育館から雪の校庭を見ると、アダモの「雪が降る」のメロディーが胸中に響いた。

「雪が降る~ あなたは来ない」。「あなた」、つまりは「有権者」。そんなざれ歌を口ずさみたくなるような始まりだった。

予報では昼前にはやむ。その通りになって校庭の雪もやがて消えた。有権者も途切れることなくやって来た。

令和5(2023)年11月12日の福島県議選では投票管理者を務めた。そのときの防寒対策を参考にした。

下はパッチとコールテンのズボン、上は長そでと厚手のシャツ、セーター、ブレザー、ジャンパー。それに毛糸の帽子、マフラー、マスク、使い捨てカイロ、あったかソックス、手袋。ひざ掛けといすのクッションを用意した。

カイロは足裏と腰、腹に張った。上履きはスリッパではなく、冬用の靴にした。足の寒さを感じずにすんだから、これはよかった。

体育館は出入り口が開いている。雪の心配は消えたが、寒風が吹き込む恐れがある。

事前に投票所の責任者から連絡があったとき、管理者・立会人3人の席のわきに「ついたて」を要望した。出口からストレートに寒風が当たる。風よけだ。

夕方、突風が吹いた。投票事務の机にある紙が吹き飛ぶ。有権者用の張り紙が波打つ。「ついたて」のおかげで直接寒風にさらされずにすんだ。

2年前の県議選では、足から冷えてガタガタ震えるほどだった。そばにヒーターがあってもそうだった。今回も時々、後ろにあるヒーターを囲んで暖をとった。

ひざ掛けは材質にもよるが、ないよりはあった方がいい、という程度だった。ストーブで下半身を温め、熱が逃げないようにすぐひざ掛けを当てる。しかし、床から寒気が忍び込む。温める・ひざ掛けを当てる――これを繰り返した。

投票所閉鎖後はタクシーで開票所の総合体育館へ。いわき市内全域からタクシーが殺到する。早い時間に着いたようで、わりとスムーズに投票箱を届けることができた。

風邪は? 翌日になっても体調に変化はない。着膨れするほど着込んだためか、なんとか寒さはしのげたようだ。

2026年2月10日火曜日

突然の選挙・上

        
  予想もしなかった衆議院解散・総選挙だった。その余波が巡りめぐって、地域の片隅で暮らす後期高齢者にも及んだ。

 解散・総選挙を報道で知り、どこの区長が投票所の管理者と立会人になるか、すぐ気になった。

令和7(2025)年7月には参院選、その2カ月後にはいわき市長選が行われた。参院選では地元の投票所の管理者を務めた。

前は、管理者は市職員OB、立会人2人のうち1人は区長というのが、地元の投票所の慣例だった。それが近年、管理者も、立会人の1人も区長という流れに変わった。

最初に立会人を務めたのは、平成29(2017)年10月の衆院選、次は令和3(2021)年9月の市長選だった。間に福島県知事選など4回の選挙をはさんでいる。

3回目は令和5(2023)年11月の県議選で、このときは管理者だった。4回目は少し順番が早まって去年(2025年)7月の参院選だ。やはり管理者を務めた。間には2回選挙があっただけだ。

同じ小学校の学区に8人の区長がいる。投票所は小学校と中学校の2カ所。管理者・立会人も2カ所に分かれる。計算上、今回は役目が回ってこないはずだった。

投票日には予定が入っていた。恒例のいわき昔野菜フェスティバルが開かれる。主催者側の一人なので、なんらかの役割がある。

ところが某日朝8時半すぎ、市役所の始業時間と同時に電話がかかってきた。選挙管理委員会からだった。

 やむを得ない。立会人を引き受け、イベントの方は事務局に理由を伝えて欠席することにした。

役がないときは当日、投票所に出向き、だれが管理者と立会人になったのか、激励を兼ねて確かめるのだが、今回はその役目がこちらに回ってきた。

で、1週間前の日曜日(2月1日)、宣誓書=写真=を持っていわき駅前のラトブで期日前投票を済ませた。

立春のあととはいえ、まだ厳寒期だ。早朝6時半には投票所の小学校体育館に赴き、投票が終わる夜7時以降、借り上げのタクシーで最高裁の裁判官国民審査を含む投票箱を3つ、開票所の総合体育館へ運ばないといけない。そこまでが役目。とにかく長丁場だ。

令和5年の県議選は11月12日に投開票が行われた。そのときの寒さ対策がブログに残っている。一部修正しながら再掲する。

  ――下はパッチとコールテンのズボン、上は長そでと厚手のシャツ、ブレザー、ジャンパーで出かけた。

投票所は、出入り口が開放されている。ジェットヒーターが動いていても、暖気は投票事務従事者には届かない。

いくら冬着に替えても、ジェットヒーターが動いていても、寒気がじわじわと足を、首筋を冷やし続ける。午後には体が小刻みに震えることもあった。

冬は戸の開いた施設で寒風を遮る工夫ができないものか。投票事務に従事する職員がかわいそうでならなかった――。

 これを上回る防寒対策をすること。政治に振り回された挙句、風邪を引いた――では話にならない。絶対風邪を引かないことを自分に言い聞かせた。

2026年2月9日月曜日

ページめくり

                         
   寝床では大活字本を読んでいる。年が明けて間もなく、おかしなことが起こった。

次のページへ行くと、文章がつながらない。どうしたんだろう? 確かめると、裏のページではなく、そのまた裏のページをめくっていた。要は2枚めくり。これが今も続いている。

 前は、そんなことはなかった。ちょっとした感覚の差だが、めくったときに紙が厚く感じることがある。2枚かな? 間違いない。紙をはがすように分けると2枚ある。これがしょっちゅうだ。

前は右肩を下にして右手で本を支え、左手の指で1枚1枚めくりながら本を読んだ。今はその逆をやっている。

別の本を積み上げた上にクッションを置き、それに左腕を載せる。本を左に持って、左の手の親指でこするようにページをめくる。

右手はまったく使わない。いや、正確には使えない。掛け布団の下の毛布を首までかける。右手で端をつかんで左手を覆うからだ。手の指の防寒を意識したらそうなった。

2枚めくりになる原因をあれこれ推測する。まずは空気の乾燥。冬は空気が乾燥し、指先もその影響で乾く。

隣組、あるいは隣組の世帯数ごとに回覧資料を分けたり、数えたりするとき、冬場は舌で指をなめながらやる。そうしないと数え間違って最後に紙が足りなくなり、一からやり直すことがある。この乾燥が原因の一つだろう。

老化もある。高齢者は指紋が薄くなってツルツルしている。皮膚の乾燥も進む。それで紙の引っ掛かりが弱くなり、ページがめくりにくくなるのではないか。ネットで探ると、AIがそんなことを言っていた。

大活字本の紙質はどうか。いや、それはない。日中、普通の新書本を読んでいてもそうなる=写真。

日中は左手に本を持ち、右手の親指でページをめくっている。それでも2ページをめくるときがある。カミサンに聞くと「私もそうだ」という。本も冬は乾燥するのだ。

本と違って新聞はめくりやすい。なかなかめくれないときは、紙をこするようにしながらずらす。すると、はがれる。これができるのは紙がペラペラしていてコシがないからだろう。

それにスパッと裁断された左右の端と違って、新聞は天地がギザギザしている。高速輪転印刷と高速裁断を同時に行うために、ギザギザの刃による裁断が行われる。このギザギザもページをめくりにくいときに役に立つ。指に引っ掛かりができるからだ。

本の2ページめくりを防ぐには――。部屋の加湿だけでなく、指先を保湿する。そのためにクリームを塗る。指先を冷やさないようにすることもいいらしい。クリームは毎日塗っている。

科学的に推測すると、冬の乾燥が主因、老化が副因というところだろうか。老化にとらわれ過ぎるのもよくないが、年を取ったからこそわかる「発見」でもあった。

若い人はこんな経験はできないだろう。年を取ると「初体験」が増える。「経験知」でいえば、やはり年寄りにはかなわない(ま、2ページめくりはしない方がいいけど)。

2026年2月7日土曜日

刺し身とひな人形

                                
 厳寒期の日曜日は、夏井川渓谷の隠居へ行ってもやることがない。滞在時間はグッと短くなる。

 2月1日は午前10過ぎにいわき駅前のラトブで期日前投票をしてから出かけた。隠居に着くと、私は下の庭でフキノトウを採り、カミサンは上の庭でスイセンを摘んだ。

 それからすぐマチへ下り、家に戻って昼食をとった。ヤマからハマの中之作へ直行するつもりでいたが、どうにも頭が重い。

 早寝早起きが習慣になって、早朝4時半には起きる。正午過ぎには動き出して8時間もたっている。年寄りには「脳休め」が必要だ。

しばらく横になっていると、頭もすっきりした。海岸道路へ出て、海を見ながら薄磯~豊間~江名を通り過ぎ、中之作漁港に車を止めた。

 港の真ん前の清航館を会場に、1月31日から2月5日まで「つるし雛飾り」の祭りが開かれた。混雑を避けて、外から飾りをながめたあと、近くを散策した。

小さな店(菊屋)の軒下につるし雛が飾ってあった。駐車スペースには野菜(ネギ・大根・白菜)が何袋か。紙に1袋600円と書いてある。

すぐガラス戸が開いて、店主が中に招き入れる。元は遠洋漁業相手の薬屋だったという。

中には商品の衣類のほか、つるし雛とひな壇があった。ひな壇の一番上には古い男雛(おびな)と女雛(めびな)が飾られていた=写真。

店主が説明してくれる。「うちのひな人形で、ドラム缶に入れて保管していた。東日本大震災では腰まで浸水した。雛人形はドラム缶に入っていたので、プカプカ浮いていて無事だった」

それがよかったのだろう。「沈まない」(落ちない)人形として、受験期になると拝みに来る人がいるという。

店の前の野菜は? 「私がつくった。ネギは九条ネギに赤ネギ」。九条と赤とは珍しい。1袋を買う。

さて、そのあとどうするか。日曜日で、夕方も近い。「小名浜で刺し身を買って帰ろう」。カミサンもうなずいて、「道の駅いわきら・ら・ミュウ」へ向かう。

やはり海の見える道路を利用し、下神白に入ると三崎公園経由で港に出た。海が西日を反射してまぶしかった。

ら・ら・ミュウでは「海鮮市場通り」を巡った。が、ブロック(柵)は売っていても、刺し身は見当たらない。聞けば「刺し身はない」という。

そうか、小名浜の道の駅は遠来の観光客が相手だから、家で食べるころには鮮度が落ちる。干物かブロックなのは食中毒予防の意味もあるのだろう。これは私の勝手な解釈だが、妙に納得した

しかたない。小名浜のマチの魚屋さんはよくわからない。海岸道路を戻って四倉の魚屋さんを目指す。小名浜から四倉まで長い海岸ドライブだ。

目当ての店に着くと「改装休業中」だった。では、前の週と同じスーパーへ。今度も同じ刺し身の盛り合わせを買った。

午前は期日前投票をしたり、隠居へ行ったり。午後はひな人形の物語に感動したり、刺し身を求めて右往左往したり。日曜日なのに走り回ってくたくたになった。

2026年2月6日金曜日

今年も「エア豆まき」

                                 
   2月3日は節分、翌4日は立春。その前、2日は満月だった。

立春はもちろん、待ちに待った節気の一つである。いわき地方は1月末の極寒を経て、寒暖を繰り返しながら春に向かう。

その区切りの行事が3日の節分、豆まきだ。今年(2026年)も福升(ふくます)にピーナッツを入れ、戸を開けて、庭に向かって「福は~内、鬼は~外」とやった。ただし、ピーナッツはまくまねだけ、「エア豆まき」だ。そのために一度神棚に供えた。

子どもがいたころは青豆を炒(い)ってまいた。青豆がやがて落花生に替わり、2階を省略して茶の間だけになり、老人2人だけの今は、落花生がピーナッツに化け、庭に向かって声を出すだけになった。

落花生にしたのは、青豆だとあとで拾い集めるのが大変だからだ。庭にまいた青豆は拾うわけにもいかない。

で、内も外もエア豆まきになった。戸を開けると、「さくら猫」のゴンがこちらを見て「ニャー」と鳴いた。唯一の観客である。

そのあとは福升をそばに置いて晩酌を始める=写真上1。もともとピーナッツは酒のつまみ用に買っておいたから、切り替えは早い。

福升は神棚に置いて毎年使う。平の飯野八幡宮製で、25年ほど前にカミサンの実家から届いた。

升には「福」と「壽」の文字、巴太鼓の図柄、そして「平成十一年節分祭」と墨書してある。1年に1回はこの福升を使い、エア豆まきが終われば、すぐチビリチビリとやる。

この日は早朝にも心がときめいた。カミサンを接骨院へ送って行った帰り、西空に丸い月が輝いていた=写真上2。

前日が満月だった。真夜中にいったん起きてブログをアップする。茶の間へ行くと、玄関のガラス戸がほんのり明るい。

茶の間のカーテン越しに庭を見る。車がよく見える。影もできている。日影ならぬ月影だ。「月影」という言葉をすっかり忘れていた。

立春がきたらあれをやろう、これをやろう……。といっても、自治会の仕事が優先される。年度末の行事と年度初めの行事が連続する。その準備を今から進めないといけない。

自然の移り行きで言えば、冬至を迎えるとホッとする。一陽来復である。人間の世界では、立春を過ぎると年度末のあわただしさが待っている。

2日の満月は早朝7時9分にピークを迎えたという。それからほぼ24時間後の姿を見たことになる。朝日に照らされてほんのり赤みがかっていた。これも眼福である。

2026年2月5日木曜日

青馬と赤馬

                         
   今年(2026年)の干支(えと)は午(うま)。動物でいうと馬=写真=が主役だ。

いわき市消防本部と同居する平消防署には、国道399号沿いに干支をあしらった看板が掲げられる。    

ところが、今年はまだない(1月末現在)。なぜないのか。市役所などへ行った帰り、同署前の交差点で信号待ちをする。そのたびに掲示板を見て不思議に思う。何か理由があるのだろうか。

思い浮かぶのは「アカウマ」。知る人ぞ知る「放火」の隠語だ。例年、干支の動物をあしらったイラストがかかるのだが、まさか「赤い馬」は描けない。火を消すのが仕事なのに、たきつけることになってしまう。

ま、そんなことが理由のはずはないが、何とも気になって仕方がない。それがきっかけで馬が頭の中を走り回っている。

高専の学生だった10代後半、同級生とセットで馬のあだ名をつけられた。

学校ができて3年目。1、2年生は学生服に坊主頭(長髪は3年生から)だが、運動着は自由だった。

似た体格の同級生がいた。彼の運動着は青色、私のは赤色。彼とは、部活(陸上競技部)が一緒だった。

体育の授業でも、部活でも運動場を一緒に走る。色の対比がはっきりしていたのだろう。級友から「青馬」「赤馬」と言われた。そのころは未熟な少年だから、「アカウマ」が放火の隠語だとは知らなかった。

文学にも引かれて本を乱読した。ヒロシマの原爆を体験した原民喜の「夏の花」に被爆して死んだ馬が出てくる。

「苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。(略)さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである」

小2になったばかりの4月のある夜、町が大火事になった。巨大な胴を投げ出した馬はいなかったが、家畜小屋のあったあたりには、超現実的な家畜の焼死体が転がっていた。わが家のあったところからは、とろけて曲がった十円玉が出てきた。

15年前の大津波のあと、通行が解禁されて見た風景もまた超現実的だった。

干支の馬の話に戻る。今年届いた年賀状に「馬」の字が入ったことわざを記したものがあった。

「馬の耳に念仏」「馬耳東風」。こちらも思いつくままに文字をメモしてみた。「馬齢」に「馬脚」、あるいは「下馬評」。

戯文も二つほど。「天高く馬が肥える秋、人馬一体で牛飲馬食をすれば、人は馬面になり、馬は駄馬になる」「泣いて馬謖(ばしょく)を切るか、生き馬の目を抜くか、竹馬の友ならわかるだろう」

年明け早々、どこかの大学で飼われている馬が厩舎を抜け出し、通りを闊歩して厩舎に戻ったというニュースには馬鹿笑いをした。

そして、立春の日。仙台に住む級友から電話がかかってきた。陸上競技部の後輩の死を告げるものだった。級友だけでなく、3歳下の後輩とは馬が合った。駆け抜け方が早すぎるぞ、おいS君。

2026年2月4日水曜日

専称寺の梅林

                                
   常磐の梅林寺は主に紅梅。では、白梅は? もちろん、平の専称寺だ。

梅林寺の梅の花を見に行って以来、専称寺の白梅が頭から離れない。専称寺の梅林は例年、3月中旬が見ごろという。

専称寺は山号が「梅福山」だ。それで、昔から梅で有名だったかというと、そうでもない。

磐城平藩の中老、鍋田三善(1788~1858年)は自著『磐城志』で、専称寺についてこう記す。

山門の外、坂の中段左右に寮舎が5軒並んでいる。また南側、横に入り組んで5軒がある――。

寮舎は学僧が寝泊まりして修行するところ。それが江戸時代には10軒あった。

同寺はそのころ、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た学僧200人余が修学に励む「大学」(名越派檀林)でもあった。

 この名刹が近代になってさびれる。そこで旧平市時代、市の観光課長だか誰だかが音頭を取って梅の苗木を植えたのが名所の始まり、と聞いたことがある(それが正確ではなかったことが今はわかる)。

寺によると、数は白梅・紅梅合わせて500本。世間的には「名越派総本山」の「大学」より寮舎跡の「梅林」がすっかり有名になった。

「梅の寺」の始まりが知りたい――若いときからそう思ってきたが、いかんせん手がかりがなかった。

図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。いわき市で発行された地域新聞がデジタル化されて読める。

そこから情報を探ろうとしても、あまりにも茫漠としている。「情報の海」をどう泳いでいいのかわからない。

思いあぐねていたところへ、若い仲間から自身が組み立てた「いわき文献案内」の利用法を教えられた。

デジタル化された図書館の新聞記事を、グーグルを使って簡単に検索できるという。

さっそく「いわき文献案内」の検索欄に「専称寺 梅林」と入力したら、関連する記事が一覧で表示され、知りたい情報がすぐ見つかった。

まずは昭和48年1月26日付のいわき民報。小川町の中條実さんが「専称寺の梅林と箱崎昇吾翁」と題して寄稿していた=写真上1。

 それに、同36年2月20日付の常磐毎日新聞=写真上2。1面トップで専称寺の梅の開花を伝える。見出しに「春を呼ぶ一千本の梅林/箱崎氏の悲願実る/市も観光誘致に本腰」とある。

 2つの記事を合わせると、国鉄を退職した中神谷の箱崎昇吾さんが昭和8年から専称寺の境内に梅の苗木を植え続け、足かけ27年をかけて同34年、悲願の1千本を達成した。戦争をはさんでの偉業である。

箱崎さんは地元も地元、わが家と同じ字(あざ)の人だった。身近なところに、そんな志を持って行動した人がいた。

というわけで、まずは翁の存在に驚き、「いわき文献案内」の威力に感心したことを伝えたくて、速報的に紹介した。ちゃんとした調べはこれから、おいおいと。

2026年2月3日火曜日

情報革命

                                         
 いわき総合図書館の新着図書コーナーに珍しいテーマの本があった。こばやしあやな著『世界浴場見聞録』(学芸出版社、2025年)=写真=で、著者はフィンランドに住む。

 北欧のフィンランドと言えば、サウナ文化の国だ。10代半ばで見た映画に、サウナ小屋で体を温めた女性がそばの湖に飛び込むシーンがあった。

これが60年たった今もありありと思い浮かぶ。映画は確か、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」、あるいは「続世界残酷物語」だった。

本のなかごろにサウナ文化が紹介されている。著者はフィンランドの大学院に入学後、中部のユヴァスキュラで暮らした。街は湖水地方のど真ん中にある。

「風光明媚なこのエリアには、多くのフィンランド人が家族用のサマーコテージを所有し(別荘は決して贅沢の象徴ではない)、湖畔のあちらこちらに、愛らしい木造サウナ小屋とそこから伸びる桟橋が覗いている」

映画のシーンと現実が重なり、「世界」あるいは「続世界」残酷物語をいつ、どこの映画館で見たか、確かめたくなった。

高専の1年か2年のときだった。日曜日に洋画専門の映画館で見た記憶がある。仲間が一緒だったかどうかははっきりしない。

図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開き、デジタル化されたいわき民報の「映画案内」と映画館の広告を逐一チェックした。

それで、昭和39(1964)年11月、ひかり座で上映された「続世界残酷物語」らしいことがわかった。

後日、「パソコンのホームドクター」である若い仲間が来て、デジタル化された図書館の新聞記事を簡単に検索できる方法を教えてくれた。

彼が組み立てたネットの「いわき文献案内」がある。それを利用すると、過去記事を簡単に引っ張り出せる。

ためしに「世界残酷物語 映画」で検索すると、「続世界残酷物語」「ひかり座」「昭和39年11月13~23日上映」が瞬時にわかった。たぶんこれだろう。としたら、高専1年の冬休み前に見たことになる。

新聞の中身を逐一チェックしたときには何時間もかかった。「いわき文献案内」だと、知りたいことにすぐたどり着ける。

実は、前から「郷土資料のページ」を利用しながら、「キーワード検索ができないものか」と思っていた。それが現実のものになった。

図書館は過去の新聞記事(いわき民報は昭和56年まで)をPDF形式で公開している。グーグル検索を使うと、とても簡単に目的の記事を探せる、と「いわき文献案内」にあった。

かねがね望んでいたことが可能になったという意味では、私の中では大きな「情報革命」だ。

さっそく「いわき文献案内」を介して、思いつくテーマの情報を集め出した。以前に比べて、飛躍的に情報の質量が増した。

それでわかったのだが、専称寺が梅林として知られるまでには一人の人間の悲願があった。あしたにでもそのことに触れたい。

2026年2月2日月曜日

サッシ戸再生

                               
   6枚ある店(わが家)のサッシ戸のうち、出入りに使っている1枚が簡単には開かなくなった。前からてこずってはいたのだが、年明け後、いちだんと状態が悪化した。

開けるのを断念して、店の前にダンシャリで出た古着を置いていく人がいた。わきの駐車場から電話をかけてきて、私が戸を開けると同時に、古着の入った袋を持って来る人もいた。

これでは来客も用が足せない。カミサンが電話帳を見て、近場にあるアルミサッシ関係の業者に連絡した。

用件と場所をいうとすぐ、いろんな戸車を持ってやって来た。サッシ戸をはずして作業をすること30分、代わりの戸車がぴったりはまって、サッシ戸はスムーズに動くようになった=写真。

聞けば、車で数分もかからないところに作業場がある。貸倉庫を利用している。自宅は狭いので、昼間はそこで仕事をしているのだという。

幸いというか、大当たりというか、個人の家の小さな困りごとにも応じる自営の建材業者だった。

サッシ戸の滑りが悪い理由ははっきりしている。東日本大震災の強震(6弱)で家がダメージを受けた。戸車もおよそ25年の耐用年数を超えた。その「ひずみ」が年を追って大きくなったのだろう。

今では45年も前になる。2階を増築するのに合わせて、1階の店舗部分も改装し、店の戸をアルミサッシに替えた。

東日本大震災では、海岸線から5キロほど離れた内陸部なので津波被害は免れたが、「大規模半壊」に近い「半壊」の判定を受けた。

2階の物干し場から階下のトイレに雨が漏る。店の一角にある地域図書館=カミサンたちの茶のみ場も、通りに面したサッシ戸がおかしくなる。その両方を修繕したほかは、震災時のままだ。

地域文庫へは店の中から出入りする。冬はガラス戸を閉める。ところが、途中までしか閉まらない。すき間には布を垂らして寒気が入るのを防いでいる。

震災から今年(2026年)で丸15年。この間に5強、5弱といった大きな地震も何度かあった。そのたびにコンクリートの基礎の割れが広がったようだ。津波被災者や原発避難者だけでなく、一般の被災者もいまだに3・11の後遺症を抱えている。

ほかのサッシ戸は問題がない。全部を取り換えるとなると、予算的にはちょっと手に負えない。ありがたいのはやはり職人技。最小限の費用で問題を解決してくれた。「サッシ戸のホームドクター」である。

今までサッシ戸を開けるのにてこずっていたカミサンの友達も、「あら、簡単に開く」と感心していた。

地域には、医者以外にもいろんな「ホームドクター」がいた。水道、ガス、電気はもちろん、床屋だって。

そのなかで「何かあったら連絡を」といってくれる職人さんが見つかった。暮らしには欠かせない「隣人」である。

そう、そう。「パソコンのホームドクター」もいる。不具合が起きるとすぐ連絡する。すると、仕事帰りに来てくれる。先日もそうしてトラブルを解消した。

2026年1月31日土曜日

「社長~」

                                 
 毎朝、新聞の折り込みチラシを数えてメモしている。最近は枚数だけでなく、中身もチェックするようになった。それについては理由も含めて1月5日付のブログに書いた。

 主婦と違って、チラシを見てスーパーへ足を運ぶ、といったことはまずない。が、1回だけ「買いに行こう」とカミサンを誘ったことがある。

 チラシの主はテレビCMでおなじみの「夢グループ」で、平・本町通りのヤマニビル(ヤマニ書房本店があったところ)の3階催事場で「イチオシ商品・展示&即売スーパーセール」を告知するものだった。去年(2025年)秋のことである。

チラシには、超軽量のコードレス掃除機やテレビドアホン、充電式のハンディチェンソーなどが掲載されていた。

 なかに、手回し式ワイヤーパイプクリーナーがあった=写真。「専門業者を呼ぶ前に!排水管の詰まりを自分で解決!」。宣伝文句に引かれた。

 わが家の台所の排水管は、そばの生け垣(マサキ)が育って根張りが広く大きくなったためか、排水管にゆるい波ができて何年かに一度は詰まるようになった。

 そのつど「水道のホームドクター」(同級生)に連絡して来てもらう。集水マスには油脂分がかたまって排水口を狭めていることがある。それも含めて薬剤とホースの水、あるいは長いパイプを使って詰まりを解消してくれる。

 排水管が詰まるたびに同級生に連絡するのも気が引ける。自分でできれば、それに越したことはない。

去年の秋、地下の排水管ではなく、台所の垂直の排水管が詰まったらしく、排水するとシンク(流し台)にすぐ水がたまる。水が抜けるまで時間がかかるうえに、「ガバッ、ゴボッ」と大きな音を出す。

どうしようか。思いあぐねていたときにチラシを見て、パイプクリーナーを買った。カミサンがさっそくシンクの排水口にワイヤーを差し込み、ぐりぐり回すと詰まりが取れて、水のたまりも、「ガバッ、ゴボッ」も解消した。

夢グループのテレビCMには、社長と女性歌手が登場する。商品の説明のあと、女性歌手が「社長~」とこびるようにして値下げを訴える。「わかりました~」となって、値引き後の値段が表示される。

最近は新聞の全面広告も目にする。社長は福島市出身だとか。それもあってかどうか、去年秋には田村市の「観光大使」に委嘱された。

1月6日の新聞広告には、「気仙沼大使」の肩書が付いていた(先日のテレビCMで「私たち」と女性歌手が言っていたから、2人セットなのだろう)。

観光大使としては、自社の広告にあぶくま洞や田村市の桜の名所などを写真付きで紹介していたのが大きい。

気仙沼も同じで、広告には「フカヒレ、新鮮な魚介類で有名な」という枕言葉が付いていた。広告の波及効果はどうなのだろう。

 いずれにしても、顧客は高齢世代が多そうだ。私がそうだし、商品の中身も生活密着型が多い。

2026年1月30日金曜日

「大統領の密書」

                                         
   BSNHKの時代劇に刺激されて原作の小説を読んだ。時代劇は「「大富豪同心スペシャル」前・後編である。

 暮れに地デジより早く大河ドラマ「べらぼう」の最終回を見て、そのままテレビをつけていると、「大富豪同心」の前編「うつろ舟」になった。

「うつろ舟」? 江戸時代、常陸に漂着した異国の小型船のことではないか。「常陽藝文」が、3年前の2023年2月号で取り上げていた。がぜん、興味がわいて見続けた。

去年(2025年)12月20日付のブログに、そのへんの話を書いた。一部を要約・再掲する。

――ドラマを見終わって情報を集めた。時代劇(再放送)の輪郭が少し見えてきた。原作は作家幡(ばん)大介の人気シリーズ『大富豪同心』。原作者も作品も知らなかった。

時代小説である。図書館に『大富豪同心 漂着 うつろ舟』があったので、さっそく借りて読んだ――。

1週間後に放送された後編も見た。こちらはタイトルが「大統領の密使」で、原作は「大統領の密書」=写真=となっている。これも図書館から借りて読んだ。

 ペリー提督の黒船が来日する前、アメリカの軍艦が来航し、島津藩に武器を売買して代金の25万両を手に入れようとする。

ところが、なかなからちが明かない。さらに、本国がメキシコと戦争になる。大統領は軍艦のトップ、トマス提督に密書を出した。日本にかまっている暇はなくなった、アメリカへ戻れ――。

提督あての密書を携えて太平洋を渡ってやって来た別の船が漂流し、父に会いに便乗していた提督の娘アレイサが救命艇に乗って脱出する。

この円盤形の救命艇を日本側は「うつろ舟」と呼び、中にいたアレイサが日本人の前に現れて事件が展開する、という筋立てだ(主役はもちろん大富豪同心だが)。

 読者は、幕末にはペリー提督率いる黒船が江戸湾に現れ、日本が開国して、幕末の動乱から明治の世になることを知っている。

その「前史」ともいうべきドラマで、ハチャメチャ、痛快アクション、コメディーといった要素が濃い。

その中の一節(トマス提督の言葉)。「日本には物がない。軍艦もない。鉄砲も大砲もない。アメリカは日本に軍艦を売る用意もある。日本はもっと豊かな国になる」

原作を読みながら、江戸時代のメリケンも、現代のアメリカも、本質的に変わっていないのではないか、そんな感想を抱いた。

外国に武器を売って富を増やす。それだけではない。原油埋蔵量が豊富な国を空爆して大統領を拉致する。北極圏にある他国の島をよこせという。「国益」を言いながら「私益」が見え隠れする。

もしかしたら「大富豪同心」の作者は、「うつろ舟」と「大統領の密書」を通じて大国の覇権主義に言及したかったのではないか。小説に現実が重なって寒気が走った。

2026年1月29日木曜日

白い梅前線

                         
    紅梅は白梅より早く咲くようだ。前にも書いたが、常磐水野谷町の梅林寺には、この紅梅が多く植えられている。

1月も後半に入ると、テレビが梅林寺の紅梅の開花を伝える。今年(2026年)は暖冬で例年より2週間も早く開花したという。

カミサンのアッシー君を務めて、初めて寺を訪ねた。花は咲き始めたばかりで、見ごろは2月に入ってからだという。

私は、紅梅ではなく白梅を見て育った。昔は梅干しをつくるために、あちこちに白梅が植えられていた。

念のために花札の「梅に鶯(うぐいす)」をネットで確かめる。ウグイスと一緒に描かれているのは紅梅だった。

花札は子どものころからなじみがある。現実の紅梅にはあまり出合わなかったが、図柄では早くから紅梅を見ていたのに、ずっと白梅と思い込んでいた。

梅林寺には白梅も植えられていて、こちらも咲き出していた。白梅も開花が早まっているようだ。

気象庁が各地の測候所を介して「生物季節観測」を行っている。いわきの場合は、小名浜に測候所があったとき、職員が目視で記録していた。

平成20(2008)年9月30日で有人観測が終了し、翌10月1日からは無人の「小名浜特別地域気象観測所」として再スタートした。今は人がいないから、生物季節観測も途絶えたままになっている。

ただし、桜(ソメイヨシノ)の開花については、小名浜まちづくり市民会議が気象庁OBの協力を得て観測・発表をしている(前は梅も観測していたようだが……、続いているのだろうか)。

当時、測候所が行っていた生物季節観測は、植物が延べ18種目、動物が15種目だった。初霜・初氷・初雪などの観測も手がけた。

その時点での梅の開花は平年値で2月18日、温暖化が進んだ今はもっと早くなっていることだろう。

梅林寺の観梅から1週間後の1月25日、夏井川渓谷の隠居までのルートで白梅の花をチェックした。春先にはいつもそうする。

平地は標高6メートルほどのわが家(平)から同48メートルほどの片石田(小川町)まで、さらにその先、標高60メートルほどの河岸段丘(小川町高崎)にある集落まで、6~8分咲きだった=写真(平・大室地内の畑)。

高崎地内の白梅はわりと早く開花する印象があったが、今回はどこの白梅も開花が早いようだ。

高崎から上流の集落は、夏井川渓谷の江田~椚平~牛小川だが、こちらは梅の花はまだだった。白い梅前線は、夏井川流域では今のところ高崎止まりということになる。

そういえば、わが家の南隣、故義弟の家の庭には白梅が植わってある。カミサンが「花が咲いていた」というので、28日の夕方に確かめた。

花は咲き始め、2分咲きくらいだろうか。顔を近づけるとほんのりいい香りがする。横光利一の小説のタイトルを借りれば、春は馬車に乗ってすぐそこまで来ている。